「あいちトリエンナーレ2019」で「表現の不自由展・その後」と題した企画展が公開3日で中止に追い込まれた。過去に各地の美術館で撤去されるなどした作品を集めて展示し、「表現の自由」とはどういうことかをもう一度考え直してみましょうと企画したようだ。一番の問題は「平和の少女像」(作者解らず)と題して出品された作品なのか。例の韓国作の「慰安婦を表現した少女像」をモチーフに作られた作品だ。それ以外も「撤去歴」を持ってる作品達だから見方によっては何らかの問題をはらんでる物なのだろう。
さてこの一件は今の世にあって、みんながしっかり考えて、自分の答えを見つけておくことが必要なことじゃないかと考えるんですよ。
僕がまず思うことは やはり「寛容」です。 個人の表現は自由。だからどんな作品を見せられても「ホー、こういう考え、見方する人もいるんだ。なるほどね。」とまず受け入れる姿勢が最も大事じゃない? 自分の考えが絶対正しいわけじゃなし(うん、正解なんかないのが世の中じゃん)。もろ手を挙げて認めなくていいよ、でも「否定から入っちゃだめじゃんよー」といいたいな。
「殺すぞ」「火点けるぞ」とまでの攻撃メールがあったらしいですね。 いつから日本人ってこんな攻撃的な人種になっちゃったの? 農耕民族だから「攻め」より「受け身」キャラだったはずなのに。これって日本だけに限らず、今地球上に蔓延してる文化だと思うけど どうですか?
こうやって「他を認めなくなって」その先どうするの? どうなって行くの? 僕は怖い世を思うから「考えないとね」と書くんです。いろんな人がいる それが世の中。全ての存在を認めたところでしか「共存」は成立しないでしょう?
今回河村名古屋市長が「日本国民の心を踏みにじる行為」と表現して中止を希望した。権力を持ってる人が個人の感性にまで踏み込んで、「良いの」「悪いの」と線引きした発言だと思います。彼にとっての「善」は名古屋市民全ての「善」に通じるのか? 「否」と言う市民が出てきた時貴方ははどう責任とるのか?
以下のようなキーワードを考えながら、「表現の自由とは」をみんなで考えようよ。このまま行ったら取り返しがつかなくなるんだから。
「芸術って何?」 「自己表現の良し悪しって何?」 「想いの表現 それを他人が止めて良いの?」
「否定する貴方、貴方は善?」 「芸術の展示に税金を使っちゃだめ?」
今の世の中を覆ってる雲はみんなこれ。 「否定から入る」。「相手を否定する」これです。(まっトランプ流ってやつかな) 今の米中貿易問題、日韓貿易問題(実は政治問題だけど)、香港も台湾も。 みんなそうでしょう? 「認める前に自己主張」「聞かなきゃ、力で押さえ込む」。 なんでみんながみんなこんな風になっちゃったのかね? 玉が小さくなって、欲だけ強くて、・・・・・・。
さてこの一件は今の世にあって、みんながしっかり考えて、自分の答えを見つけておくことが必要なことじゃないかと考えるんですよ。
僕がまず思うことは やはり「寛容」です。 個人の表現は自由。だからどんな作品を見せられても「ホー、こういう考え、見方する人もいるんだ。なるほどね。」とまず受け入れる姿勢が最も大事じゃない? 自分の考えが絶対正しいわけじゃなし(うん、正解なんかないのが世の中じゃん)。もろ手を挙げて認めなくていいよ、でも「否定から入っちゃだめじゃんよー」といいたいな。
「殺すぞ」「火点けるぞ」とまでの攻撃メールがあったらしいですね。 いつから日本人ってこんな攻撃的な人種になっちゃったの? 農耕民族だから「攻め」より「受け身」キャラだったはずなのに。これって日本だけに限らず、今地球上に蔓延してる文化だと思うけど どうですか?
こうやって「他を認めなくなって」その先どうするの? どうなって行くの? 僕は怖い世を思うから「考えないとね」と書くんです。いろんな人がいる それが世の中。全ての存在を認めたところでしか「共存」は成立しないでしょう?
今回河村名古屋市長が「日本国民の心を踏みにじる行為」と表現して中止を希望した。権力を持ってる人が個人の感性にまで踏み込んで、「良いの」「悪いの」と線引きした発言だと思います。彼にとっての「善」は名古屋市民全ての「善」に通じるのか? 「否」と言う市民が出てきた時貴方ははどう責任とるのか?
以下のようなキーワードを考えながら、「表現の自由とは」をみんなで考えようよ。このまま行ったら取り返しがつかなくなるんだから。
「芸術って何?」 「自己表現の良し悪しって何?」 「想いの表現 それを他人が止めて良いの?」
「否定する貴方、貴方は善?」 「芸術の展示に税金を使っちゃだめ?」
今の世の中を覆ってる雲はみんなこれ。 「否定から入る」。「相手を否定する」これです。(まっトランプ流ってやつかな) 今の米中貿易問題、日韓貿易問題(実は政治問題だけど)、香港も台湾も。 みんなそうでしょう? 「認める前に自己主張」「聞かなきゃ、力で押さえ込む」。 なんでみんながみんなこんな風になっちゃったのかね? 玉が小さくなって、欲だけ強くて、・・・・・・。
これは自分が肯定されてきた経験がないと、なかなか人を肯定してやれなくなってきているのではないかと、ふと、考えるのです。やはり聞いてあげる、あるいは聞いてみる、そうして、自分はこうも考えているんだと、話してみる。それらをしなくてもすむ、あるいはしなくてもいいんだ、と考えてしまう時代に入っているのではないかと、思うんです。それにはやはりスマホとか、ブログとか、snsとか、いろいろ便利なのだが、肉声が聞こえない時代なのかと思います。こうして今うっている言葉にしても、僕と岳ちゃんでは違うときもあるが、大まかに共通できるある安心感がある。もちろん同世代ということも大きい。醸成されてきたその人の思想とか、信条から入っていくのは骨の折れることである。時間もかかるしね。何か、答えになっていないかも知れないけど、やはり行政のトップが今回のようなことで、はっきりし過ぎるのは心配なことだと感じます。
僕は「近年権力者が我が物顔で我を通してきた結果」と考える癖というか傾向がある。本文だって、その意はバックにある。それに対して君は「個人の経験」「小さい時の人間関係」に原因があるのではと言う。
お互い外れてないと思う。「鶏と卵」的な話でもない。総体としてそんな世の中を作ってきてしまったんだろうね。
このままじゃ良くないとなるなら、さてどうする? なんだけど。 究極は君の思う「個人の繋がり、関係の再構築」が最初の一歩なんだろうね。「権力者を変えろ」は何も解決しない話だと思えるようになったよ。 いろんな集まりに身を置いて多くの人と気楽なことでいいから直接話する機会を多く持つ事からはじめようだ。