「適応」と「分散」と「参画」社会へ

2024年06月22日 08時35分01秒 | 文化文明論
読み溜めしてあった朝日新聞記事をまとめて読んだ。 めっちゃ納得できた記事、それも違う人が同じ主旨の文化論を述べてる。 面白い、そうだよな です。
  山極寿一  科学季評欄で 「適応と分散」に改めよう と。
  暉峻淑子  インタビュー記事 「豊かさとは何か」と題して 自信喪失時代を危惧。
     暉峻先生は知らなかった。
     こんな骨の有る女性経済学者がいらしゃったんですね。驚き。 喜び。

先に山極先生の論文から読んだ。 日本が更なる近代化を進めてきたこの50年ほど、効率性、合理性を追求してきた。そのスタート、ベースは1911年に提唱され、一大ブームになったテイラーの「科学的管理法」だった。 これね、50数年前大学の講義「生産管理論」で「これからはこれなんだよ」と言われんばかりに教わったな。まさにぼくの会社人としての拠り所はここだったかもしれない。懐かしいな。「1秒を削り出せ」精神だったかな。 でも今は僕もこの手法に疑問を持って見てる。山極先生もまさにそこを指摘されてて、納得できた。
大量の物を効率的に作らねばならなかった時代にはともかくこれに従って、上手くやれるようにしよう となったのはそれなりに正しかったと思ってる。
が、しかし効率化、合理性が作り込まれた今はむしろ欠点がでてきたと言うのです。
生産活動を細分化し、パーツの部分で競合させ、より効率を求める。さらにある方法を選択し、そこに集中して更なる効率を追求するようになってきた。こうなると多様性が薄れてきて、画一化が進んでくる。みんな同じになってるから想定してないマイナスの外的要因が現れると地球規模で対応できない事態に陥る。
ウクライナで戦争が始まると世界の食料事情が悪化する とか ある国との関係が悪くなると部品が入らず生産が止まる とか コロナが流行すると世界中がマヒする。 これらは全て「多様性」が無くなって「画一化」を進め過ぎたからだと言う。 間違ってないよ。
「集中と選択」から「適応と分散」に変えていくべきだと結論してる。環境を変化させて、いい社会にしようというんじゃなく、対応することを重視しよう。集中させて効率を求めるんじゃなく、効率をさげてでも分散して(システムとしてのセイフティーネット)生産して行こうと言う事ですね。
さて 暉峻先生の論ですが、その前にまず驚きは1989年にもう「豊かさとは何か」という著書を書き、その当時から大変注目されたということです。
この本の中で「日本は豊かさへの道を踏み違えた」と 書き、「画一的モノサシで優劣を決め、敗者を排除していく社会の流れ」には抗したいと 警鐘を書いてる。 結果的に今 自信喪失の時代になってるのではないか。 これを取り戻すには「多く人が社会参加し、そこに連帯が生まれれば、恣意的な権力の行使を止められる」 と述べてる。 
そして先生はこのお歳で、地域の課題などを地元の人達と話し合う「対話的研究会」を毎月開催されてるんだそうです。まさに分散であり、適応じゃないですか。

これからは 「適応」「分散」「参画」 この3つがキーワードなんじゃないだろうか。
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