「息遣いの芸術」 初めて聞くような表現でした。 昨日の練習 演技指導に入る前の「心構え」と「その体験」指導でした。
先ず動き出す前に「素になるな」を強調される。「自分を捨てる。役どころの人になりきれ」と言うことですね。ここなんですよ、僕の欠点は。やってもやってもなり切れないんですね。僕のキャラです。どうしても「恥ずかしい」「見てくれ良くいたい」「上手く歌いたい」が頭をもたげてくる。毎度毎度自分で感じるし、先生からも「いつまで照れてるの」を言われ続けてる。
次は「歩いて」の指示。ただ歩くんですが、主に「姿勢」のチェック。さらに20歳台で歩いて、40台で歩いて、60台で歩く。各自がイメージ作って。そして最後は「片足怪我してる人で歩いて」の指示。全員終わった後で、「怪我してる人の形にはなってるけど、怪我人そのものにはなってない。健常者と怪我人では『息遣い』が違うって解るかな」という。足を出す時、体重を移行する時に健常者と違った息遣いをしてるはずと言うのです。そこまで表現して、初めて観客には「あの人足が悪いんだ。辛そうだね。」と解ってもらえ、感動してもらえるという。
ことほど左様に、全ての演技に「息遣い」を大袈裟でいいから意識して使うように教わった。ここで出たのが表題の格言でした。嘆きの歌い出しなら嘆きの息が、歓喜の歌なら歓喜の息が、驚きなら驚きの息が聞こえてからその歌が聞こえてこないとおかしいと言うのです。
このあとで勝手に動きながら、歌う練習。当然その人になり切って、その場面での息遣いで歌い出せるかを確認されながら。最後あたりは全員相当気分だして歌えていたよう。
やるたびにだんだん良くなっていくのは素人の良さ。10点満点の7位までいったとしよう。でも次の練習ではゼロにとは言わないが、3位まで戻るのが素人の悪さ。しょうがないね。
先ず動き出す前に「素になるな」を強調される。「自分を捨てる。役どころの人になりきれ」と言うことですね。ここなんですよ、僕の欠点は。やってもやってもなり切れないんですね。僕のキャラです。どうしても「恥ずかしい」「見てくれ良くいたい」「上手く歌いたい」が頭をもたげてくる。毎度毎度自分で感じるし、先生からも「いつまで照れてるの」を言われ続けてる。
次は「歩いて」の指示。ただ歩くんですが、主に「姿勢」のチェック。さらに20歳台で歩いて、40台で歩いて、60台で歩く。各自がイメージ作って。そして最後は「片足怪我してる人で歩いて」の指示。全員終わった後で、「怪我してる人の形にはなってるけど、怪我人そのものにはなってない。健常者と怪我人では『息遣い』が違うって解るかな」という。足を出す時、体重を移行する時に健常者と違った息遣いをしてるはずと言うのです。そこまで表現して、初めて観客には「あの人足が悪いんだ。辛そうだね。」と解ってもらえ、感動してもらえるという。
ことほど左様に、全ての演技に「息遣い」を大袈裟でいいから意識して使うように教わった。ここで出たのが表題の格言でした。嘆きの歌い出しなら嘆きの息が、歓喜の歌なら歓喜の息が、驚きなら驚きの息が聞こえてからその歌が聞こえてこないとおかしいと言うのです。
このあとで勝手に動きながら、歌う練習。当然その人になり切って、その場面での息遣いで歌い出せるかを確認されながら。最後あたりは全員相当気分だして歌えていたよう。
やるたびにだんだん良くなっていくのは素人の良さ。10点満点の7位までいったとしよう。でも次の練習ではゼロにとは言わないが、3位まで戻るのが素人の悪さ。しょうがないね。
それに、岳さんに恥じらいや照れなんて有るんですかね。
出来るとか出来ないとかのもっと前、その人の奥深い所に「キャラ」があって、これはその人の人生そのもの。そう簡単に修正できるものじゃない硬い物が育てられてるようです。だからそれは他人が外から見て感じたり、話して気づいたりできる部分ではないんです。
自分でも気づけない、僕のオペラ経験のように、あることをきっかけに自分でも発見していく そんなものがあるんですよ。それは「もう自分そのもの」、それが自分の生きざまそのものなんです。 それといっしょに生活していくんですよ。
但し、そんなキャラでもこれから変化あるかどうかは解らんがね。