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iPodから考える寛容

2010年03月01日 13時34分06秒 | つれづれなるままに
次女夫婦が還暦のプレゼントにiPodを贈ってくれた。早速好みのCDを何枚か入力して朝夕の散歩に携帯してる。その容量の大きさ、軽さ、音のよさ、シャープさにただただ驚いている。30年ほど前のWalkman「あれはなんだったの?」です。
しかし散歩から帰ってきた時、脳味噌なのか耳なのかそのあたりに疲れを感じる。どうも音がシャープ過ぎて疲れを招くのではないかと考えている。若い人が疲れると言わないのだから僕の加齢による症状とも言えなくはないのだが・・・。
淀む余地のないデジタル信号からピュアなその楽曲の音だけを再生するわけだ。雑音も無ければ、ゆらぎもない。そんな音を直接耳で聞くのは微細で鋭利な刃物を散弾銃のように脳味噌に打ち込んでるのと同じなのかもしれない。
今ある作家の最近の著作を読みあさっている。昨今の社会現象を理解する手掛かりがほしいのと、自分がもっと気楽になれる手掛かりがほしくて読んでる。
著者は昨今の社会現象(自殺者が年間3万人、理解できない凶悪犯罪の多発、犯罪の若年化、格差社会、9.11問題等々)の根をルネッサンス以降の「科学的なことが是で、人間的なことは非」とした思想だとし、今必要なことは「人間的な」ことの復活だと言う。さらに「これが善でこれは悪」と決めつけることは間違いで、それらが混在することを認める社会でなければならないと言う。その為には寛容の精神が必要だとおっしゃる。大変共感してる。
話は飛ぶが昨日の竜馬伝。武市の弟子が悪事を働いた。武市は土佐に攘夷思想を広めるためにその弟子に切腹を命ずる。竜馬はその命を救うために奔走し、社会的には切腹を免れるところまでこぎつけた。それでも武市は切腹を厳命する。その夜竜馬はその弟子を夜逃げさせる。
確かに善悪はある。悪に対する償いが相応に果たされれば、あるいは悪を問う状況がなくなれば後は寛容でなければならないし、ましてや命ひとつを無駄にするのは間違いだと竜馬は考えたようだ。
iPodのシャープ過ぎる音、そういうシャープさだけを是としてるような風潮、そういう機器を使用し続ける中で醸成されていくだろう偏った文化 そんなことを考えながら散歩してる今日この頃です。
コメント (2)
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