カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

目覚めて生きて行くためには   リリーのすべて

2017-10-12 | 映画

リリーのすべて/トム・フーパー監督

 都合があって絵のモデルとして夫を(冗談半分もある)女装させたところ、そのまま夫は目覚めてしまったという話。女性化した時の名前がリリー。夫も画家のようで、最初はもちろん戸惑いもあったのだが、女装して妻を女友達のようなふりをして女のままの振る舞いを続けていることに、本当の自分のようなものを見出していく様子が描かれている。映画なのでそのあたりは娯楽色があるが、スリリングさもありながら、ちょっとした怖さもある。実話が元になっているとのことだが、僕なんかには素直に不思議な感じにも思われた。むしろこれまでの人生の中に、本来的に偽り続けていたような事があったのではないか。いわゆる堰を切ったように、女装をきっかけに自分が表に出たということでは無いのか。
 もちろん、そういう人は少なからずいるというのは事実だろう。そういう啓蒙もよく見られるようになった。日本の戦国武将などにも、そういう人は結構いたという記録もあるようだし、文化的に隠れていただけのことで、いわゆるトランス・ジェンダーの人がいて当然である。ただ物語として描く際は、そういう立場の側から描いたところで、やはり理解が困難というのはあるのかもしれない。娯楽映画として成り立つのは、だから悲しいかなある程度のゴシップ精神が含まれないことには面白みは無かろう。
 実際のところは分かり得ないのだが、普通に考えてみると、妻の方はもっと以前に気づいていたのではないか。だからこそ女装させる機会をつくって、試してみたくなったのではないか。僕にはそういう疑問が消えない。夫であるから男でいて欲しいという願望がある。しかしながらそのまま自分の所為で抑制したままでいいのか。それにつまるところ、正直な夫の姿というものを確かめたかったというのは無かったのだろうか。
 さらに思うのは、女の人が男になるのは、作法として、そんなに難しいことでは無いようにも思うのだが、男が女になるというのは、年季が必要な気もするのである。表面的な女装というのは出来るにしても、所作というのは訓練を積まなければそれらしくなれないのではないか。芸人として訓練を積むということでは無くて、生活の中で積み上げた所作を形成していくことは、男として生きてきた人にとっては、大変に苦労が多いのではないか。もちろん役者さんは大変にそれらしい演技であったが、たとえ人ごみに紛れたとしても、何か疑問にもつ人が現れる方が自然なような気もする。まあ、そういうことを描く映画では無いのだろうけれど。
 要するにやっぱりいろいろ大変である。違いを超えるということを認め合うことは大切だろうと思うけれど、皆が理解することはほぼ不可能だろうというのは、たぶんそういうことだ。理解しえないままでありながら、やはり生きて行くような方法を取るより無いのではないか。時代が早いとか遅いとかいうようなことでは無く、自分の生きている時代を自分で生きるより他に無い。そんなことまで考えさせられる映画だった。
コメント
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