わが国の天皇には、国民に「仁」の心を持つという伝統があります。日本書紀には、初代天皇とされる神武天皇が、「民」を「おおみたから」と呼んだことが記されています。神武天皇にとって、国民は皇祖・天照大神から託された大切な宝物だったのです。そして、神武天皇は、日本を建国するに当たり、国民を大切にすることを統治の根本としました。その後の天皇には、こういう思想が受け継がれています。
最も有名なのは、第16代仁徳天皇です。仁徳天皇は、国民が貧しい生活をしていることに気づくと、3年間年貢などを免除しました。そして、3年後、高台に立って、炊事の煙があちこちに上がっているのを見て、「自分は、すでに富んだ」と喜んだと伝えられます。
次に有名なのは、平安時代の第60代醍醐天皇でしょう。醍醐天皇は、国民に対する同情心が強く、寒い夜に、自分から着物を脱いで貧しい人たちの寒さを身を以って体験しようとしました。『大鏡』や『平家物語』に出てくる逸話です。
醍醐天皇の治世は、後に「延喜の治」と讃えられました。『大日本史』には、醍醐天皇が、疾病や不順な天候の時は大赦したり、税を免じたりしたという記述が多く見られます。収穫の良くない年は、重陽節(ちょうようのせち、9月9日)を何度もやめています。これは国民への負担の軽減を願ったものでしょう。また、旱魃の時には、一般民に冷泉院の池の水を汲むことを許し、そこの水がなくなると、さらに神泉院の水も汲ませ、ここの水もなくなったという記事もあります。鴨川の洪水などがあれば、水害を蒙った者に助けの手を差し出したり、その年貢や労役を免除しています。
こういう仁政のもとにあるのは、醍醐天皇の基本的な考え方です。それはすなわち、「自分は、租税によって着物を着ている。自分は年貢によって食べている。それなのに、民の方は足りなくて自分の方が余っている。これはよろしくない」というものです。
こうした考えに基づいて、醍醐天皇は、次のような政令を出したのです。
「旱魃があったら年貢を免じてやりなさい。水害の時は逋(ほ=未納の租税)を免除しなさい。兵士となった家は租税の対象外にしなさい。疾病が流行した時は租税を取り立てないように」と。
このような伝統は、現代の皇室にまで脈々と受け継がれています。皇族男子は、御名前にみな「仁」という文字がついています。明治天皇(睦仁)、大正天皇(嘉仁)、昭和天皇(裕仁)、上皇陛下(明仁)、今上陛下(徳仁)、秋篠宮皇嗣殿下(文仁)、秋篠宮ご長男(悠仁)。これは平安時代からの伝統だといいます。このことは、皇室が「仁」ということを非常に大切にされていることを表わしています。
そのことを示す逸話を、昭和天皇に見ることができます。
昭和天皇は、戦時中の昭和19年の暮れから、防空施設として作られた御文庫に、居住しました。そこは、元侍従長の入江相政によると、屋根には砂が盛られ、湿っぽく、居住性の極めて悪い施設だったそうです。しかし、天皇は戦後もそこに住み続けました。何回か新しい御所を作ることを進言申し上げたのですが、天皇は、「国民はまだ住居がゆきわたっていないようだ」といって、断り続けました。そして、国民の生活水準が戦前をはるかに上回り、空前の神武景気も過ぎた昭和36年の11月、天皇はようやく現在の吹上御所に移りました。新宮殿が創建されたのは、それよりさらに遅れて昭和43年のことでした。
この事実は、昭和天皇の中に、歴代天皇の心境が生きていたことを示すものでしょう。そのことは、昭和天皇の次の言葉からも、拝察できるのです。
「もっとも大切なことは、天皇と国民の結びつきであり、それは社会が変わっていってもいきいきと保っていかなければならない」
「昔から国民の信頼によって万世一系を保ってきたのであり、皇室もまた国民を我が子と考えられてきました。それが皇室の伝統であります」(『ニューヨーク・タイムス』、ザルツバーガー記者との単独会見、昭和47年)
私たちは、こうした伝統をもった国に生まれているのです。そしてこうした伝統を知ることは、日本の文化と日本人のアイデンティティを確認することともなるのです。
次回に続く。
************* 著書のご案内 ****************
『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
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最も有名なのは、第16代仁徳天皇です。仁徳天皇は、国民が貧しい生活をしていることに気づくと、3年間年貢などを免除しました。そして、3年後、高台に立って、炊事の煙があちこちに上がっているのを見て、「自分は、すでに富んだ」と喜んだと伝えられます。
次に有名なのは、平安時代の第60代醍醐天皇でしょう。醍醐天皇は、国民に対する同情心が強く、寒い夜に、自分から着物を脱いで貧しい人たちの寒さを身を以って体験しようとしました。『大鏡』や『平家物語』に出てくる逸話です。
醍醐天皇の治世は、後に「延喜の治」と讃えられました。『大日本史』には、醍醐天皇が、疾病や不順な天候の時は大赦したり、税を免じたりしたという記述が多く見られます。収穫の良くない年は、重陽節(ちょうようのせち、9月9日)を何度もやめています。これは国民への負担の軽減を願ったものでしょう。また、旱魃の時には、一般民に冷泉院の池の水を汲むことを許し、そこの水がなくなると、さらに神泉院の水も汲ませ、ここの水もなくなったという記事もあります。鴨川の洪水などがあれば、水害を蒙った者に助けの手を差し出したり、その年貢や労役を免除しています。
こういう仁政のもとにあるのは、醍醐天皇の基本的な考え方です。それはすなわち、「自分は、租税によって着物を着ている。自分は年貢によって食べている。それなのに、民の方は足りなくて自分の方が余っている。これはよろしくない」というものです。
こうした考えに基づいて、醍醐天皇は、次のような政令を出したのです。
「旱魃があったら年貢を免じてやりなさい。水害の時は逋(ほ=未納の租税)を免除しなさい。兵士となった家は租税の対象外にしなさい。疾病が流行した時は租税を取り立てないように」と。
このような伝統は、現代の皇室にまで脈々と受け継がれています。皇族男子は、御名前にみな「仁」という文字がついています。明治天皇(睦仁)、大正天皇(嘉仁)、昭和天皇(裕仁)、上皇陛下(明仁)、今上陛下(徳仁)、秋篠宮皇嗣殿下(文仁)、秋篠宮ご長男(悠仁)。これは平安時代からの伝統だといいます。このことは、皇室が「仁」ということを非常に大切にされていることを表わしています。
そのことを示す逸話を、昭和天皇に見ることができます。
昭和天皇は、戦時中の昭和19年の暮れから、防空施設として作られた御文庫に、居住しました。そこは、元侍従長の入江相政によると、屋根には砂が盛られ、湿っぽく、居住性の極めて悪い施設だったそうです。しかし、天皇は戦後もそこに住み続けました。何回か新しい御所を作ることを進言申し上げたのですが、天皇は、「国民はまだ住居がゆきわたっていないようだ」といって、断り続けました。そして、国民の生活水準が戦前をはるかに上回り、空前の神武景気も過ぎた昭和36年の11月、天皇はようやく現在の吹上御所に移りました。新宮殿が創建されたのは、それよりさらに遅れて昭和43年のことでした。
この事実は、昭和天皇の中に、歴代天皇の心境が生きていたことを示すものでしょう。そのことは、昭和天皇の次の言葉からも、拝察できるのです。
「もっとも大切なことは、天皇と国民の結びつきであり、それは社会が変わっていってもいきいきと保っていかなければならない」
「昔から国民の信頼によって万世一系を保ってきたのであり、皇室もまた国民を我が子と考えられてきました。それが皇室の伝統であります」(『ニューヨーク・タイムス』、ザルツバーガー記者との単独会見、昭和47年)
私たちは、こうした伝統をもった国に生まれているのです。そしてこうした伝統を知ることは、日本の文化と日本人のアイデンティティを確認することともなるのです。
次回に続く。
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『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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