ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

インド66~スィク教、ヒンドゥー教の東南アジアへの伝播

2020-03-31 13:45:08 | 心と宗教
●スィク教

 ここでムガル帝国のところで触れたスィク教について述べたい。
 スィク教は、16世紀初めに創設された、ヒンドゥー教とイスラーム教を批判的に統合した宗教である。その出現もまた、イスラーム教とヒンドゥー教の相互作用によるものといえる。スィク教は、キリスト教、イスラーム教、ヒンドゥー教、仏教に続いて今日、世界で5番目に信者の多い宗教であり、インドを中心に約3000万人の信者がいるとされる。
 開祖ナーナクは、カビールから強い影響を受けた。捨て子として不可触賎民のイスラーム教徒に育てられたカビールは、15世紀後半からヒンドゥー教とイスラーム教の融和を説き、カースト制を批判した。ナーナクは、上位カーストに所属していたが、カビールの思想に共感し、ヒンドゥー教の改革を目指して、スィク教を創設した。スィク教は、唯一永遠の神を信じ、偶像崇拝を排する。また、輪廻転生説を肯定するが、カースト制は完全否定する。スィク教の登場は、不可触へのイスラーム教の浸透とともに、カースト制が支配する社会に一部揺らぎが生じたことを示している。
 スィク教は、17世紀後半に、第10代のグル、ゴービンド・シングが武装集団を組織してムガル帝国に対して半独立の姿勢を示したことにより、暗殺された。その後も、教団は反乱を繰り返した。ムガル帝国の衰退とともに勢力を拡大し、パンジャーブ地方に小国家の連合体を形成した。
 話が19世紀にまで及ぶが、19世紀初めには、ランジート・シングがスィク王国を建国し、パンジャーブ地方を統一し、インド北部のカシミールにまで勢力を拡大した。だが、彼の死後、スィク王国は後継者争いから内部が混乱していたため、イギリスの介入を受けた。1845年から48年にかけての第1次・第2次スィク戦争でイギリスと戦ったが敗北し、王国は滅亡した。

●ヒンドゥー教の東南アジアへの伝播
 
 ヒンドゥー教は、インドの民族宗教であるが、一時は世界宗教としての性格を強くした。とりわけ、東南アジアへの広がりが重要である。
 ヒンドゥー教は、2世紀頃から東南アジアへ進出した。当時、インドの貿易商や諸侯は、香料を求めて、海路でインドネシアのスマトラ、ジャワ諸島へ行った。彼らはヒンドゥー教や仏教、またインドの文化を伝えた。インド文明の影響を強く受けた現地の支配階級は、ヒンドゥー教や仏教の儀礼を取り入れた。
 4世紀からのグプタ朝の時代には、インド人はより積極的に海外に進出して植民地を作り、東南アジアの各地に王国を形成した。スマトラ、ジャワ諸島だけでなく、ボルネオ、マラヤ、インドシナ等でも、国王がヒンドゥー教や仏教を信仰したので、その宗教文化が民衆に浸透した。
 東南アジアへのヒンドゥー教・仏教の伝播は、主に商業や往来を通じたものだった。その伝播の中で、インドの叙事詩が伝えられた。特に『ラーマーヤナ』は、各地に広く普及し、土着化した。現地の言語で、それぞれ微妙に異なる内容が伝承されている。また、インド叙事詩の摂取と変容を通じて、インドネシアでは独自の民族文学が発達した。
 ヒンドゥー教・仏教の宗教文化の影響の強い地域に対して、イスラーム教が浸透するようになったのは、13世紀からである。イスラーム教もヒンドゥー教や仏教と同じく、インドから伝播した。主にグジャラート州のインド人ムスリムの貿易商がイスラーム教を北部スマトラに伝えたのがはじめで、その後、2世紀の間にジャワ諸島等の住民がイスラーム教に改宗した。また16世紀にイスラーム教徒の軍隊が東南アジア各地に侵入し、ヒンドゥー教や仏教を奉じる諸王国を征服した。イスラーム教の勢いは強く、多くの地域でヒンドゥー教は滅び、バリ島にのみ残った。一方、ミャンマーやタイ等では上座部仏教が主要な宗教として存続した。
 今日、東南アジアには、ヒンドゥー教・仏教の影響が強かった時代の遺跡が多数ある。ジャワのボロブドゥール遺跡は、大乗仏教の遺跡だが、インド神話の神々が壁面に彫られている。同じくジャワのロロ・ジョングラン神殿は、ヒンドゥー教のシヴァを祀る神殿が中心に位置し、壁面には『ラーマーヤナ』の浮き彫りが施されている。両脇にはブラフマー、ヴィシュヌの神殿が並ぶ。カンボジアのアンコール・ワットは、ヒンドゥー教の神殿として作られ、ヴィシュヌを祀ったが、16世紀後半に大乗仏教の寺院に改修された。改修後もヒンドゥー教の神々の彫像がある。現在は上座部仏教の寺院となっている。ミャンマーのアーナンダ寺院は、上座部仏教の寺院だが、インドの神々が彫刻されている。
 東南アジアでは、ヒンドゥー教と仏教の間で紛争がなく、多くの寺院が仏像とともにヒンドゥー教の神像を祀っている。ヒンドゥー教の寛容性とともに仏教の寛容性を同時に示す現象である。

 次回に続く。

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インド65~スーフィズムとバクティ運動

2020-03-29 10:19:27 | 心と宗教
●スーフィズムとバクティ運動

 インド亜大陸では、インド文明とイスラーム文明が出会い、ヒンドゥー教とイスラーム教が相互に影響を与え合った。主にその相互作用を引き起こしたのは、イスラーム教のスーフィズムとヒンドゥー教のバクティ運動だった。
 スーフィズムは、イスラーム教の神秘主義を意味する。神との合一体験の獲得を追及する修行者、スーフィーたちにちなむ言葉である。イスラーム文明では、12世紀以降、スーフィーによる神秘主義的な教団 (タリーカ) が相次いで設立された。それらの教団員は、伝道に熱心で、殉教を本望とし、異教の地に赴いて、アッラーへの信仰を熱烈に説き聞かせた。インドでは、イスラーム軍は軍事力によって政治権力者をイスラーム教に改宗させたが、民衆はもともとの宗教の信仰を許されていた。その民衆を少しずつイスラーム教に改宗させていったのは、スーフィーたちだった。彼らは、インドの民衆の中に入り、信仰を通じて人々を教化して、イスラーム教に導いた。インド西北部におけるイスラーム教の勢力伸長は、スーフィーたちの活動に負うところが大きいとされる。
 スーフィーの布教活動が成果を上げた要因の一つに、当時、ヒンドゥー教では、ヴィシュヌやシヴァへのバクティによる帰依信仰が盛んになっていたことがある。バクティ運動は、7~8世紀の南インドに始まり、10世紀頃には、ヴィシュヌやシヴァが最高神として、絶対的・献身的な信愛の対象となった。この信仰は、多神教における一神教的傾向である。一方、スーフィズムには、イスラ―ム教でありながら治癒信仰、呪力崇拝、聖者崇拝があり、これらはヒンドゥー教の帰依信仰に共通する要素である。信仰対象であるヴィシュヌやシヴァをアッラーに置き換えて、一神教的な傾向を徹底すれば、改宗に至り得るわけである。
 ヒンドゥー教の側では、スーフィズムの影響を受け、バクティ運動が一層盛んになった。バクティ運動は、12世紀から北インドにも広がり、次第にインド全土の民衆に浸透していった。それによって、ヒンドゥー教における一神教的傾向がより強くなった。
 それゆえ、スーフィズムは、ヒンドゥー教徒をイスラーム教に改宗させることに大きく貢献したと同時に、ヒンドゥー教におけるバクティ運動に刺激を与え、バクティ運動の拡大を引き起こしもしたのである。
 ヒンドゥー教にあってイスラーム教にないものに、カースト制がある。インド社会で最下層に位置する「アウト・カースト」の不可触らは、カースト制度から逃れるために、イスラーム教に改宗した。イスラーム教は、アッラーの神の前ではすべての人が平等であると説く教えである。そこに抑圧からの解放を求める人々は、自らイスラーム教に帰依したのである。
 イスラーム教のスーフィズムとヒンドゥー教のバクティに基づく帰依信仰は、神との合一を目指す思想や態度が相似している。両者の併存する状態が続くうち、15世紀以降になると、相互に影響を与え合ったり、双方の思想が融合したりするようになった。これは、世界の宗教史において注目すべき現象である。イスラーム教とヒンドゥー教の間では、一見不可能と思われる一神教と多神教の融合が一定程度起こったのである。その結果、19世紀には、すべての宗教は根本的に一つだと説くラーマクリシュナらが出現することになる。

 次回に続く。

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武漢ウイルスによる北朝鮮有事の対策を~李相哲氏

2020-03-28 09:46:52 | 国際関係
 龍谷大学教授・李相哲氏は、令和2年3月9日付の産経新聞の記事に、武漢ウイルスによる北朝鮮有事を想定した対策を講じることを提案した。
 北朝鮮は、1月22日、新型コロナウイルスの流入を防ぐため、中朝国境を封鎖した。李氏は「生活必需品の9割を中国に依存し、慢性的な食糧不足に悩んできた北朝鮮が中国との国境を封鎖し、物の流入を止めたのは自殺行為に等しい」という。「ウイルスを遮断するために物を入れなければ国中に飢餓が広がるのは火を見るより明らかだ」と。
 金一族は、1990年代後半に数百万人の住民が飢え死にしても動揺しなかった。その金一族がコロナウイルスを国家の存亡にかかわる問題として受け止める理由は、「50%以上の住民が栄養失調に陥っている状況下にウイルス感染が広がれば混乱に陥り、もはや統制が効かない恐れがあること、健康不安を抱えている金正恩氏に万が一のことがあれば政権を維持できないからだ」と李氏は分析する。
 そして、次のように提案する。
 「この際、国際社会は北朝鮮のエリート層と住民の意識変化を誘導するための公式、非公式の行動を起こすべきだ。金正恩政権に感染情報の開示を強く迫り、国際調査団の受け入れを要求し、さらに拉致被害者の安否について問いただす必要がある。それでも国を封鎖したまま我が道に固執する可能性が高い。そうなれば逆に政権崩壊を早めるかもしれない。いまわれわれは「北朝鮮有事」を想定し、その対策を議論しなければならない時期にきているのかもしれない」と。
 以下は記事の全文。

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●産経新聞 令和2年3月9日

https://special.sankei.com/f/seiron/article/20200309/0001.html
「北朝鮮有事」備えるべき時きた 龍谷大学教授・李相哲
2020.3.9
≪尋常ではない状況なのに≫
 肺炎を引き起こす新型コロナウイルスの流入を防ぐため、北朝鮮が中朝国境を封鎖したのは1月22日。2月1日付の朝鮮労働党機関紙、労働新聞によると、1月30日には「海上、空中等通路を先制的に完全に遮断封鎖」した。北朝鮮当局は2月25日に「北朝鮮はいまなお一人の感染者も出ていない」と発表したが、韓国メディアは「国境を封鎖する前の1月中旬にすでに8人が新型コロナウイルスに感染して死亡していたことが明らかになった」と報じた。この情報の信憑(しんぴょう)性は高い。
 中国で昨年末、新型コロナウイルスの感染者が確認された後、沈黙を守っていた北朝鮮当局が、コロナウイルスに言及し始めたのは1月28日付労働新聞だった。「(当局はいま)地区を回りながら熱のある患者と従来の治療では症状が改善しない肺炎患者を探しだし、疑わしい場合は徹底的に隔離させるための事業を先行させている」と伝えた。これは1月中旬に感染者が出たことで慌てて措置を取ったとしか思えない。
 2月1日付では長文の社説を1面に掲載し、「コロナウイルスを徹底的に防ぐのは革命を保衛する重大な政治的事業」であると書いた。「革命」とは金正恩労働党委員長を指すのはいうまでもない。
 昨年2月のハノイにおける米朝首脳会談の後、金正恩氏は年内を期限として再三、米国に制裁解除を迫った。昨年末には「近いうちに世界は(われわれの)新しい戦略武器を目撃するだろう」と脅しをかけてきたが、米国は取り合わなかった。それなのに北朝鮮は沈黙を守った。
≪不気味な沈黙3つの理由≫
 なぜだろうか。3つの理由が考えられる。まず正恩氏の威信低下。昨年末に開かれた朝鮮労働党中央委員会総会が4日間も続いたこと、恒例の新年の辞を発表しなかったことに加え、党中央機関、軍部、内閣を含む権力機関の高位幹部半分以上を入れ替え、6年ぶりに叔母、金敬姫氏を表に出した。権力中枢の綱紀を正し、忠誠を強要するためだったのだろう。
 2月29日付労働新聞によれば「(最近)朝鮮労働党中央委員会政治局は李萬建、朴泰徳らを現職から解任した」。李氏は組織指導部で人事を担当する第一副部長、朴氏は農業担当部長、2人とも党中央委員会副委員長を兼任する。北朝鮮が権力中枢の高官の処罰を公表したのは張成沢氏を処刑して以来初めてだ。北朝鮮権力中枢が平穏ではない証拠といえよう。
 次に深刻な経済危機。北朝鮮が米国や韓国との話し合いに応じない理由は、小出しの制裁緩和では北朝鮮が直面している危機的な状況を打開できないからだ。
 2017年以降、経済はマイナス成長を記録するなど落ち込んだが、ハノイ会談で制裁緩和を勝ち取ると見込んだ正恩氏は観光施設の建設を目指し、輸入を減らさなかったため毎年20億ドル近くの貿易赤字を出した。韓国統一部傘下のシンクタンク「統一研究院」の報告書によれば、北朝鮮の「18年末現在の外貨保有額は25億~50億米ドル」。単純計算すれば3年で外貨は底をつく。いまや制裁の全面解除以外は北朝鮮にとって意味をなさない。
 最後に、今回のコロナウイルスだ。生活必需品の9割を中国に依存し、慢性的な食糧不足に悩んできた北朝鮮が中国との国境を封鎖し、物の流入を止めたのは自殺行為に等しい。かつて、韓国に亡命した北朝鮮元高官の黄長●氏は、中国から物の流入が止まれば、北朝鮮は半年も持たないと断言した。ウイルスを遮断するために物を入れなければ国中に飢餓が広がるのは火を見るより明らかだ。
 3月に入って北朝鮮が短距離弾道ミサイルを発射したのは権力内部の結束を図り、政権が今なお正常に機能していることを内外に示すための苦肉の策だろう。
≪国際社会、傍観してはならぬ≫
 1990年代後半に数百万人の住民が飢え死にしても動揺しなかった金一族がコロナウイルスを国家の存亡にかかわる問題として受け止める理由は、50%以上の住民が栄養失調に陥っている状況下にウイルス感染が広がれば混乱に陥り、もはや統制が効かない恐れがあること、健康不安を抱えている金正恩氏に万が一のことがあれば政権を維持できないからだ。
 このような危機的な状況は北朝鮮に変化をもたらす可能性もある。しかし国際社会が傍観するだけではいかなる変化も起こらず住民は塗炭の苦しみに喘(あえ)ぐだろう。
 この際、国際社会は北朝鮮のエリート層と住民の意識変化を誘導するための公式、非公式の行動を起こすべきだ。金正恩政権に感染情報の開示を強く迫り、国際調査団の受け入れを要求し、さらに拉致被害者の安否について問いただす必要がある。それでも国を封鎖したまま我が道に固執する可能性が高い。そうなれば逆に政権崩壊を早めるかもしれない。
 いまわれわれは「北朝鮮有事」を想定し、その対策を議論しなければならない時期にきているのかもしれない。(り そうてつ)
●=火へんに華
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インド64~イスラーム教のインド文明への浸透

2020-03-26 10:17:43 | 心と宗教
●イスラーム教のインド文明への浸透

 インドの歴史で大きな転機になったのは、イスラーム文明の進出である。これは、多神教の文明に一神教の文明が進出するという人類文明史上で重要な出来事だった。
 北インドでは、7世紀半ばにヴァルダナ朝が滅亡した後、13世紀までラージプートと呼ばれる地域的な諸王朝が興亡する分裂時代が続いた。この時代に、イスラーム勢力が侵入を繰り返した。イスラーム勢力は、8世紀から通商路に沿ってインド西北部に侵入した。10世紀からその動きは拡大した。侵入を繰り返すイスラーム勢力に対して、ラージプート諸侯は抵抗したが、諸侯間に連携がなく、次第にイスラーム勢力に押されていった。
 12世紀末から13世紀の初めに、イスラーム勢力は大きな攻勢に出た。1205年には、ガンディース川の河口まで制圧した。1206年にアイバクが北インドの中心地デリーに奴隷王朝を建てた。一種の征服王朝である。以後、北インドでは、デリー=スルタン朝と総称されるイスラーム政権が続いた。
 イスラーム教徒は、偶像崇拝を激しく嫌悪した。ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教の偶像を見つけ次第、破壊した。各地で仏教の寺院が破壊され、1203年には当時仏教の最後の拠点だった密教のヴィクラマシーラ寺院が滅ぼされた。これを境に、インド仏教は消滅し、ヒンドゥー教に吸収されていった。
 デリー=スルタン朝の第2王朝であるハルジー朝は、14世紀初め頃、南インドに進出した。続くトゥグルク朝はデカン高原以南に出兵し、一時はインドのほぼ全域まで領土を拡大した。この王朝の時代に、モロッコ生まれの大旅行家イブン=バットゥータがインドを訪れ、当時のインドの事情を『三大陸周遊記』に記している。
 トゥグルク朝の政治が乱れ、分裂を生じていたところに、中央アジアからティムールの率いる遠征軍が攻め入り、1398年にはデリーを占領し略奪を行った。その後、トゥグルク朝は滅び、第4王朝のサイイド朝が樹立されたが、インドの統一と安定は回復しなかった。
 1526年、ティムールの子孫であるバーブルがロディー朝を倒し、ムガル帝国を建国した。ムガルはモンゴルに由来する言葉だが、王朝の支配層はトルコ=モンゴル系である。
 ムガル王朝はデリー、アーグラーを中心として支配権を確立し、16世紀から19世紀にかけて、広大な帝国を建設・維持した。その支配は、イギリスがインドを植民地化するまで続いた。
 ムガル帝国のインド支配は16世紀後半、第3代皇帝アクバルの時に確立した。アクバルは、法制・官僚制・軍制・貨幣制度を改革し、強大な帝国を築いた。
 イスラーム勢力の侵攻を受け、仏教が13世紀に消滅したのに対し、ヒンドゥー教は根強く抵抗し続けた。仏教と違って民衆にしっかりと根を下ろしていたからである。イスラーム側は、強制的に改宗を迫ることをせず、ヒンドゥー教徒に「啓典の民」に準じる地位を認め、宗教対立が起るのを避けた。アクバルはヒンドゥー教徒との融和を図り、1564年に人頭税ジズヤを廃止し、ヒンドゥー教徒を官僚に登用した。
 アクバルは皇帝を神とするディーネ=イラーヒーという新たな一神教を創設した。これはイスラーム教においては、異端というべき特異な事象である。だが、定着せずに終わった。その一方、アクバルは、キリスト教イエズス会の宣教師を歓迎し、ジャイナ教やゾロアスター教にも寛大だった。紀元前3世紀のアショーカ王が想起される。アクバルは「礼拝の家」を創って、インドの諸宗教の代表者を招いて討論を行わせた。しかし、この試みは成功せず、やがて実施されなくなった。
 ムガル帝国は、17世紀後半のアウラングゼーブ帝の時に、南インドを征服し、ほぼインド全土を統一した。その治世がムガル帝国の全盛期となった。アウラングゼーブは、イスラーム教に深く帰依し、ヒンドゥー教徒との融和策を止め、ジズヤを復活させた。このことが、ムガル帝国の衰退の一因となった。
 ムガル帝国の支配下においても、デカン高原のヒンドゥー勢力はマラーター王国を中心にマラーター同盟を結成してイスラーム王朝に反抗した。また、16世紀に現れたスィク教は、ムガル帝国の弾圧に反発して反イスラーム化し、帝国と抗争を続けた。スィク教について、詳しくは後の項目に書く。
 これら2件を除くと、ムガル帝国時代のインド文明では、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間の戦いは少なく、20世紀中半以降に見られるような両者の大規模な対立はなかった。民衆の多くや南インドの王朝は、ヒンドゥー教を信奉し続けた。その結果、インド文明では、多神教のヒンドゥー教と一神教のイスラーム教が併存する体制ができ上がった。
 文化的には、ムガル帝国では、インド文化とイスラーム文化の融合が起こり、インド=イスラーム文化が発達した。ミニアチュールを特徴とするムガル絵画、イスラーム様式のタージ・マハル廟等が知られる。

 次回に続く。

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米メディアが安倍政権の武漢ウイルス対策を批判

2020-03-25 11:40:55 | 国際関係
 産経新聞のワシントン駐在客員特派員の古森義久氏は、米メディアも安倍政権の武漢ウイルス対策を批判していることを、3月3日付の同紙の記事で伝えた。少し前の記事だが記録のために掲示する。
 ワシントン・ポスト紙「安倍晋三首相はコロナウイルスへの正面対決よりも習近平国家主席の訪日を前に中国の気分を害さないことに気を使った」、ニューヨーク・タイムズ紙「安倍政権の対応は医学よりも政治的な計算を優先させていた」――ズバリその通りである。
 その後、米国で武漢ウイルスの感染者・死者が急増している。3月13日トランプ大統領は国家非常事態を宣言した。米国は国民皆保険制度がなく、医療費が極めて高く、貧困層は簡単には医者にかかれない。死者が増加し続けた場合、米国の反日的なメディアは、米国自体が抱える問題をさておいて、安倍政権の失策によって米国に被害が広がったと書く可能性がある。仮にその部分が多少はあるとしても、より大きな原因は米国の社会にある。そして、なにより根本原因は、生物兵器を開発・漏出し、感染を隠蔽し、被害者数をごまかし続けている中国共産党政府にあることを、しっかり世界に訴えていかなければならない。
 以下は、古森氏の記事の全文。

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●産経新聞 令和2年3月3日

【緯度 経度】
防疫より中国に忖度したのか――古森義久・ワシントン駐在客員特派員

 日本での新型コロナウイルス感染の拡大は、安倍政権が中国の反発を恐れて中国からの入国者を規制しなかったことが主要な原因だとする見解が米側で広まってきた。
 米国など多数の諸国が中国からの直接の入国を全面禁止しているが、日本は一部の省からの入国規制だけで、防疫よりも政治を優先した結果だとする辛辣(しんらつ)な見方である。
 「安倍晋三首相はコロナウイルスへの正面対決よりも習近平国家主席の訪日を前に中国の気分を害さないことに気を使った」―米国の有力紙ワシントン・ポストが2月20日付の記事でこんな見解を報道した。安倍首相の習主席の国賓来日への「忖度(そんたく)」が日本国内でのウイルス感染を広めた、という手厳しい批判だった。
 この記事は同紙のサイモン・デニヤー東京支局長によって書かれた。
 「日本政府が疫病への対応で非難を浴びる」という見出しの同記事は、日本のコロナウイルスへの対応について全体をまず以下のように伝えていた。

・日本の停滞気味の経済へのコロナウイルスの打撃は破局的であり、今年夏の東京オリンピックへの影響も計り知れない。
・このウイルスは高スピードで広まったが、日本政府の対応は遅く、間違っていた、と多くの専門家たちが述べている。

 同記事はさらに日本政府の対応についてより具体的に次のように報じていた。

・日本政府は中国政府が武漢でのウイルスの爆発的な広がりを公式に認めた1月20日から3日後までは中国からの旅行者たちの空港での体温測定などの準備もしていなかった。
・武漢が所在する湖北省からの来訪者の入国を禁じるという措置も2月1日まで取らず、中国全土からの来訪者の入国規制はその後もない。米国政府は1月末に中国からのすべての外国人の入国を禁じた。
・その結果、2月冒頭まででも日本には湖北省からの旅行者が数千人もすでに入国していた。その中には明らかにウイルス感染者たちが入っていた。

 同記事は日本のこうした異様な対応の原因について安倍首相自身が「習近平主席の訪日予定のために中国の気分を害さないことに防疫よりも多くの気を使ったからだ」と総括していた。
 この種の批判的な指摘はニューヨーク・タイムズ紙の2月28日付の東京発記事にも共通していた。

・安倍政権の対応は医学よりも政治的な計算を優先させていた。
・安倍政権の対応は及び腰であり、消極的だった。中国など外国からの訪問者を減らしてしまうことを恐れたようだ。

 この報道でも日本の対策は中国への配慮のために遅れたのだとする基調が明白だった。
 中国のコロナウイルス拡散に対してはすでに米国、ロシア、オーストラリア、フィリピンなど多数の国が、中国滞在歴のある外国人の入国を全面禁止するようになった。医療上、人道的な措置だった。当然、そこには中国人は遺跡の差別的な意図はないといえる。
 だが日本だけはこの国際的な防疫措置にあえて背を向けたようにみえる。その動機は中国への間違った遠慮だろうと米側から指摘されるようになったわけだ。
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インド63~シャクティ派、タントリズム

2020-03-24 09:26:58 | 心と宗教
●シャクティ派

 シヴァ宗における神妃パールヴァティー、ドゥルガー、カーリー等は、シャクティとも呼ばれる。シャクティは、サンスクリット語で、「能力」や「創造力」を意味する。この語は、ヒンドゥー教では、世界を維持する最高神の活動力を意味し、同時に女性的な力、性力、特に生殖力を意味する。シヴァ神妃の信仰は次第に盛んになり、独立した地位を得るようになり、シヴァ宗から独立して、7世紀までにシャクティ派が成立した。シャークタともいう。わが国では、しばしば性力派と訳す。
 シャクティ派は、最高神である男性神シヴァよりもその神妃を重んじ、それを至高の存在として崇める。彼らは、女性の持つ産む力を神格化し、それを擬人化して崇拝する。特にドゥルガーとカーリーを崇拝する。ドゥルガーとカーリーは、女神シャクティとも呼ばれる。
 シャクティ派において、シヴァはブラフマンと同一であり、瞑想するのみで全く活動せず、活動するのは神妃であるとする。すべての活動力であるシャクティは女性原理であり、かつ原動力である。その女性的な原理・原動力によって、一切万有が生み出されている。世界はこの力の展開に過ぎないとされる。
 非活動的なシヴァと活動的なシャクティという対の観念には、サーンキヤ学派における精神原理プルシャと物質原理プラクリティの思想の影響が顕著である。瞑想中で何も活動しないシヴァはプルシャ、活動的で生産的なシャクティはプラクリティに相当する。
 シャクティ派は、『ウパニシャッド』や初期仏教のように欲望を否定することなく、現世を肯定する。また、カースト制を否定し、女性やすべての階級の者に、誰もが解脱できるという可能性を示した。
 シャクティ派は、中世のインド(8世紀から19世紀)で、ヴィシュヌ宗・シヴァ宗に対しても、また仏教に対しても影響を与えた。シャクティ派では、宇宙と人間には大宇宙と小宇宙という対応関係があると考える。修行者は、生前解脱を目指して大宇宙との一体化を図り、また神通力を得るために特殊な行法を行った。行法は秘儀とされ、複雑なマントラや性的な象徴性のあるマンダラが発達した。
 仏教の密教化には、シャクティ派の影響が認められる。仏が妃を持つようになったのは、その影響の一つである。密教では三密行を実践することで、自己と大日如来が一体化する境地を目指す。また、真言や曼荼羅が発達した。これらは、密教とシャクティ派との類似点である。
 シャクティ派が7世紀までに形成されとき、タントラと呼ばれる経典群が成立していた。タントラは、「枠組み」「教義」を意味する言葉である。その名称を以って、シャクティ派は、しばしばタントリズムとも呼ばれる。

●タントリズム

 タントラ経典を奉じるインドの宗教諸集団を、欧米人はタントリズムと総称した。タントラ経典の思想は、基本的には梵我一如、神人合一である。その点では、『ウパニシャッド』やヴェーダーンタ哲学と共通する。それらと区別してタントリズムと称されるのは、それらの諸集団が呪術的・神秘主義的な傾向を強く示し、また、現世の快楽や性愛を積極的に肯定することによる。
 タントリズムは、7~8世紀以降に南インドで広がりはじめ、9~12世紀には、ヴィシュヌ宗、シヴァ宗に大きな影響を与えた。タントリズムは、主にシャクティ派を指すが、ヴィシュヌ宗、シヴァ宗にもタントリズムとみなされる集団がある。わが国ではタントリズムをタントラ教と訳すことがあるが、特定の宗教・宗派を指すものではない。
タントリズムは、仏教にも影響を与えた。インドの密教やチベット仏教もタントラ思想を取り入れている。仏教への影響については、後期密教の項目に書いた。
 また、ハタ・ヨーガにも影響を与えている。ハタ・ヨーガでは、人間に内在する根源的な生命エネルギーをクンダリニーと呼ぶ。詳しくはハタ・ヨーガの項目に書いたが、クンダリニーはシャクティとも呼ばれ、シャクティはシヴァ妃である女神の名前ともなっている。ハタ・ヨーガは、人体において、男神シヴァと女神シャクティの合体を目指す行法である。ここには、シャクティ派とタントリズムの影響が認められる。呪術的・神秘主義的性格が強く、また現世の快楽や性愛を積極的に肯定する。

 次回に続く。

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武漢ウイルス肺炎で中国が経済危機に~石平氏

2020-03-22 09:42:50 | 国際関係
 シナ系日本人評論家の石平氏は、産経新聞令和2年2月20日付の記事に、武漢ウイルス肺炎によって中国が経済危機に直面していることを書いている。
 「昨年2019年の中国経済は過去最低の成長率を記録し減速のどん底に陥ったが、今年1月早々からの、新型肺炎の蔓延によって経済環境は一気に悪化した」
 石氏は、悪化する経済環境について述べた後、次のように述べている。
 「このような状況が今後も続くと、中国経済全体への悪影響は、はかりきれない。商売が全くできなくなった小売業やその他のサービス業における企業の倒産・休業が多発し、製造業の中小企業は軒並みに潰れていくことも予測される。それに伴う『失業の大波』の襲来も必至だろう。
 中国国内の生産開始が遅れたことで、中国から部品調達している多くの世界企業は部分的生産停止に追い込まれている。このような状況が長引くと、外国企業は部品の調達先や生産拠点を中国以外に移していくしかない。外資の中国離れが加速、国内のさらなる失業拡大につながる。
 倒産と失業の拡大は社会的不安の拡大をもたらし、共産党の政治支配を根底から揺るがす危険要素となろう」
 中国共産党指導部は、新型肺炎が蔓延する中で、経済問題への対処に神経をとがらせていると、石氏は書いている。
 だが、「政権側が経済危機の回避のために企業の生産再開などを性急に進めると、それが結果的に新型肺炎のさらなる拡大を助長することになりかねない。北京、上海、深圳(しんせん)などの大都会が『第2の武漢』となってしまえば、経済の崩壊はもとより、共産党支配そのものが危うくなる」
 中国共産党政府は、感染者数や死者数を少なくごまかして世界を欺いている。それは武漢”人工”コロナウイルスによる経済への影響が政権の土台を揺るがすことを恐れるからだろう。迫る倒産の危機にあって、大幅な赤字を隠すために粉飾決算をしている企業のようなものである。
 以下は、石氏の記事の全文。

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●産経新聞 令和2年2月20日

新型肺炎がもたらす経済危機――石平・評論家
【「正論」産経新聞 R02(2020).02.20 】

 今月12日、中国共産党政治局常務委員会は習近平総書記の主宰で会議を開いた。「新型肺炎疫情分析と対策強化の研究」がテーマである。
 人民日報掲載の公式発表を読んでいると、会議の前半は新型肺炎拡散の現状分析や今後の対策についての検討・指示が内容だが、後半になるとどういうわけか、経済問題が主題となっている。
 その中で常務委員会は、企業の生産再開の必要性を訴えたり、「雇用の安定」の重要性を強調したりした。一方、中央政府と各地方政府に対して「内需の拡大」と外需の安定化」を積極的に図るよう号令をかけ、貿易に対する融資の拡大や外資投資の環境改善についても指示を出した。
 新型コロナウイルスが中国全土で猛威を振るっている最中だから常務委員会会議は本来、いかにしてウイルスの拡散を食い止めるかに議題を絞るべきであろう。だが、会議の関心の半分は経済問題に注がれている。このことは逆に、新型肺炎蔓延(まんえん)下の中国の経済状況はすでに極端に悪化しており「疫病の拡大」以上の危機感を政権に抱かせていることを物語っている。
 昨年2019年の中国経済は過去最低の成長率を記録し減速のどん底に陥ったが、今年1月早々からの、新型肺炎の蔓延によって経済環境は一気に悪化した。春節期間中に人々が外出を控えたことで、稼ぎ時の観光業や外食産業などが深刻な打撃を受けた。春節が終わってからも「都市封鎖令」や「都市内外出禁止令」が多くの都市部で出され、必要最低限以外の商業施設のほとんどが一時休店に追い込まれ、サービス業全体のダメージは甚だしい。
 製造業も本来、春節が終わった今月3日から工場を稼働させるはずだったが、新型肺炎のため10日に延期となり、1週間のロスになった。10日になってからも、全国の生産メーカーの現場では大半の従業員が戻ってこなかったり、政府が義務づけた従業員用マスクの準備ができなかったりするような理由で生産再開は難しくなっている。
 一方、各地方は新型肺炎拡散防止のために高速道路や国道などを勝手に封鎖することがあり、全国の流通網が遮断され、生産メーカーの部品や原材料の調達は普段通りにできない。本格的な生産再開はますます困難になっている。
 このような状況が今後も続くと、中国経済全体への悪影響は、はかりきれない。商売が全くできなくなった小売業やその他のサービス業における企業の倒産・休業が多発し、製造業の中小企業は軒並みに潰れていくことも予測される。それに伴う「失業の大波」の襲来も必至だろう。
 中国国内の生産開始が遅れたことで、中国から部品調達している多くの世界企業は部分的生産停止に追い込まれている。このような状況が長引くと、外国企業は部品の調達先や生産拠点を中国以外に移していくしかない。外資の中国離れが加速、国内のさらなる失業拡大につながる。
 倒産と失業の拡大は社会的不安の拡大をもたらし、共産党の政治支配を根底から揺るがす危険要素となろう。だからこそ、前述の共産党政治局常務委員会は、新型肺炎蔓延の最中であるにもかかわらず、経済問題への対処に神経をとがらせている。
 しかし、政権側が経済危機の回避のために企業の生産再開などを性急に進めると、それが結果的に新型肺炎のさらなる拡大を助長することになりかねない。北京、上海、深圳(しんせん)などの大都会が「第2の武漢」となってしまえば、経済の崩壊はもとより、共産党支配そのものが危うくなる。
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インド62~マドヴァ、ヴィシュヌ宗とシヴァ宗

2020-03-21 09:13:57 | 心と宗教
●マドヴァ

 ラーマーヌジャより200年ほど後、マドヴァが出た。彼は、はじめヴェーダーンタ学派、特にシャンカラの哲学を学んだが、後にこれを批判する立場に転じ、シャンカラ派と対立する哲学体系を確立した。ヴィシュヌ宗の中にマドヴァ派を創始した。生年は1238年、没年は1317年とされる。
 マドヴァは、シャンカラ派の不二一元論すなわち世界幻影論的なブラフマン一元論を批判した。そして、神と人とを厳密に区別し、多元論的な世界実在論を主張した。また、ブラフマンをヴィシュヌと同一視して、ヴィシュヌ信仰をヴェーダーンタ哲学で基礎づけた。
 マドヴァは、ヴィシュヌすなわちブラフマンと個我と世界は実在するが、それぞれがはっきり異なるとして、別異論を説いた。彼によると、ヴィシュヌはあくまで独立した実在であり、多数の個我や世界は、この主宰神に依存している。こらの点では、基本的にラーマーヌジャと同じ立場である。
 マドヴァは、解脱はヴィシュヌの恩寵によって得られるものとした。その点は、テンガライ派と似ている。ただし、神の恩寵を得るには知識が必要であり、その知識を得るには、ブラフマンの考察が必要であると説いた。この点では、バクティのみに偏することなく、知識の道を評価する立場といえる。
 マドヴァは、現在もマドヴァ派の総本山のあるウディピを中心に活躍し、シャンカラ派と激しく抗争したと伝えられる。

●ヴィシュヌ宗とシヴァ宗の比較
 
 ここでヴェーダーンタ哲学の項目でも触れたヴィシュヌ宗とシヴァ宗を比較し、補足を行う。
 ヴィシュヌ宗の成立は、紀元前5世紀~前4世紀とみられる。一方、シヴァ宗は、それよりずっと遅く、紀元後5世紀頃に明確な形をなしたと考えられている。この間、1千年近い開きがある。
 7~8世紀頃、ヴィシュヌやシヴァに敬虔な信愛(バクティ)を捧げる信仰が南インドで盛んになり、16世紀頃までに、各地域の言語によるバクティ文学の成立を伴いながら、インド全域に波及していったことは、既に触れた。同じくこれまで書いたように、正統派の主流をなすヴェーダーンタ哲学では、『ウパニシャッド』の学説を踏まえつつ、ヴィシュヌやシヴァに対するバクティを理論的に基礎づける必要があった。
 記述の都合上、シヴァ宗から書くと、シヴァ宗は総じてシャンカラの哲学の影響が強い。世界は非実在的であるとする世界幻影論的不二一元論を支持する。幻影(マーヤー)は、知識(ジュニヤーナ)によってのみ明らかにされ、幻影の世界からの解脱は、ヨーガの修行と信仰によって可能になるとする。ただし、大きな違いは、シャンカラはブラフマンの一元論だが、シヴァ宗はブラフマンとシヴァを同一とし、シヴァを最高神・主宰神とすることである。
 ヴィシュヌ宗では、ラーマーヌジャ、マドヴァらがシャンカラを批判する理論を展開した。ヴィシュヌ宗では、シヴァ宗とは異なり、世界はヴィシュヌが遍在する限り、実在的であると考える。最高神・主宰神は自ら地上に降下し、人間に恵みを与え、神との合一としての解脱に導くと信じる。それゆえ、ヴィシュヌ宗では、バクティ(信愛)はシヴァ宗におけるよりも重要度が大きい。
 シヴァ宗では、聖典アルナーチャラ・マーハートミヤにて、シヴァの右側からブラフマーが、左側からヴィシュヌが生まれたとし、シヴァがヴィシュヌとブラフマーの創造者であり、最高神であるとしている。一方、ヴィシュヌ宗では、聖典『パドマ・プラーナ』にて、ヴィシュヌが宇宙創造を決意し、創造のため自身の右側からブラフマーを、維持のために左側から自らを、破壊のため自身の中央部からシヴァを創造したとしている。
 シヴァ宗は、シヴァとドラヴィダ人の女神が結婚するという教義を以って、ドラヴィダ人の間に勢力を拡大した。女神とは、農耕民族であるドラヴィダ人が崇拝する豊穣の女神、大地母神である。シヴァ神妃となった女神には、パールヴァティー、ドゥルガー、カーリー等がある。ヴィシュヌ宗もこうした教義の影響を受け、ヴィシュヌの妃ラクシュミーや、ヴィシュヌの化身であるクリシュナの愛人ラーダーが、ヴィシュヌやクリシュナとともに信仰されるようになった。
 男性原理に対して女性原理を補い、男女両性の一対を以て完全なものと考える陰陽一体の思想をここに見ることができる。

 次回に続く。

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インド61~ラーマーヌジャ、ヴァダガライ派・テンガライ派

2020-03-19 10:27:50 | 心と宗教
●ラーマーヌジャ
 
 ラーマーヌジャは、ヴェーダーンタ学派に属するヴィシュヌ宗の哲学者であり、ヴェーダーンタ哲学において人格神を信愛する理論を確立した。それによって、彼の思想は同学派の主流をなしている。生年1017年~没年1137年頃とされる。
 ヒンドゥー教では、ヴェーダの宗教の時代には目立たなかったヴィシュヌやシヴァが段々、大衆の信仰を集め、7~8世紀になると、南インドでバクティ(信愛)と呼ばれる神々への帰依信仰が表れた。それまで、ヴェーダに基づく宗教では、バラモンによる複雑な祭儀の体系が確立し、祭官が神と人間の仲介者だった。だが、バクティによる帰依信仰では、礼拝者個人が神に向かい、仲介なく神に信愛を捧げる。こうした信仰の発達により、10世紀頃には、ヴィシュヌやシヴァは最高神として絶対的・献身的な信愛の対象となった。このような時代にあって、ラーマーヌジャはバクティを中心とする大衆的なヴィシュヌ崇拝をヴェーダーンタ哲学の枠組みで正当化した。
 シャンカラ以後、ヴェーダーンタ学派では、ブラフマンが属性を持つか否かについての議論が続いた。シャンカラはブラフマンは属性を持たず、どのような限定もできないとしたが、ラーマーヌジャのブラフマンは、属性を持ち、属性によって限定を受けた(ヴィシシュタ)ものである。ラーマーヌジャも基本的には不二一元論だが、シャンカラとの違いは、限定を受けたブラフマンと個我及び世界との不二を説く点にある。そこで、彼の所説は、制限された不二一元論(ヴィシシュタ・アドヴァイタ)と呼ばれる。
 ラーマーヌジャにとっての神とは、最高神ヴィシュヌであり、ヴィシュヌはブラフマンと同一である。神は世界の創造・維持・破壊を司り、被造物に内在して、内側から世界を支配する。だが、世界から超越しており、世界の変化からまったく影響を受けることがないとする。
 ラーマーヌジャは、世界を実在するものとし、シャンカラの世界を幻影とする説を退けた。彼によれば、神、個我、世界は、三つとも実在する。個我及び世界は、単なる幻影ではなく実在性を持つ。ただし、神のみが独立した実体であり、個我と世界は神の様相である。神から切り離して存在することはできない。いわば、真の実在と、それに依存する実在とに区別するわけである。
 神と個我は、ともに実在するものであるが、個我は決して神とは同一ではない。神は個我より遥かに優越した存在であり、両者には絶対的な主従の関係がある。個我は神に背いて、迷いの状態にあり、輪廻転生を繰り返している。そこから救われるために必要なのが、神に対する熱烈な信仰である。また、世界は個我に対し、神に近づくための練磨の場を提供している。この説において、解脱は神による救済と等しい。
 ラーマーヌジャは、制限された不二一元論によって、神の救いを求める信仰に哲学的な理論を提示した。これは、不二一元論とバクティという正反対のものを統合したものである。それによって、ラーマーヌジャは、最高神へのバクティを理論的に根拠づけ、当時の下層階級の信仰心を高めることに大いに貢献した。彼によって、多くの民衆がヴィシュヌ宗に改宗した。
 シャンカラは学生期から直ちに遍歴修行の生活に入ってよいとしたが、ラーマーヌジャは四住期の各段階を順次経てから、遍歴行者となると定めた。この生き方が、ヒンドゥー教の基本的な生き方となっている。
 ヴィシュヌ宗は、シヴァ宗ともに、ヒンドゥー教の二大宗派となっており、ヒンドゥー教の大衆化において、ラーマーヌジャの果たした役割は、非常に大きい。

●ヴァダガライ派・テンガライ派

 ラーマーヌジャは、ヴィシュヌ宗のシュリーヴァイシュナヴァ派に属した。彼の死後、この宗派では、バクティのあり方について、意見の相違が起こった。救いにおける神の恩寵と人間の努力の関係をめぐる対立である。その結果、13世紀頃、北方のヴァダガライ派と南方のテンガライ派との二つに分かれた。
 ヴァダガライ派は、神によって救われるためには信仰と修行の両方を必要とするとした。信仰に基づく修行を実践して功徳を積めば、それに応じて神は恩寵を与えると説く。ラーマーヌジャや宗派の伝統に比較的忠実な考え方である。
 一方、テンガライ派は、人は最高神への信仰のみによって救われると説いた。救いは神の恩寵のみによるのであり、信徒の努力には関係がない。必要なのは神への献身的帰依だけで、修行は不要だとした。これは、自力による修行は必要ないとする他力本願の浄土真宗の教えに近い立場である。
 『バガヴァッド・ギーター』は、行為の道、知識の道、信愛の道という三つの道の総合を説いており、ヒンドゥー教の多くの派は、ヴァダガライ派のように、信仰と修行の両方を必要としている。

 次回に続く。

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「激動する世界を生き抜くため、日本の再建を急げ」をアップ

2020-03-18 10:24:49 | 時事
 3月7日から16日にかけて、ブログに連載した拙稿をまとめて、マイサイトに掲示しました。通してお読みになりたい方は、下記へどうぞ。

■武漢ウイルス、中東・東アジア情勢etc.~激動する世界を生き抜くため、日本の再建を急げ
http://khosokawa.sakura.ne.jp/index.htm
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または
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion12.htm
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