ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

キリスト教166~世界の諸文明とキリスト教系諸文明

2019-02-27 09:45:32 | 心と宗教
●世界の諸文明とキリスト教系諸文明

 ここで欧米、ラテン・アメリカ、アフリカ等のキリスト教の歴史を書きたい。本稿全体の記述の都合により、ここでの記述は、第2次世界大戦後、今日までの期間を含むものとする。
 さて、国際政治学者のサミュエル・ハンチントンは、冷戦後の現代世界の主要文明を7または8と数える。キリスト教的カソリシズムとプロテスタンティズムを基礎とする「西洋文明(西欧・北米)」、ギリシャ正教を基礎とする「東方正教文明(ロシア・東欧)」、イスラーム教を基礎とする「イスラーム文明」、ヒンドゥー教を基礎とする「ヒンドゥー文明」、儒教を要素とする「シナ文明」、「日本文明」、カトリックと土着文化を基礎とする「ラテン・アメリカ文明」。これら7つに、今後の可能性のあるものとして、「アフリカ文明(サハラ南部)」を加えている。
 私見を述べると、これらのうち、キリスト教系の文明は、「西洋文明(西欧・北米)」、「東方正教文明(ロシア・東欧)」、「ラテン・アメリカ文明」の三つである。また、私は、キリスト教がユダヤ教と同根であることを強調する時などに、キリスト教をユダヤ=キリスト教と呼ぶ。この名称を使って言い換えれば、西洋文明、東方正教文明、ラテン・アメカ文明は、ユダヤ=キリスト教諸文明である。ハンチントンは、上記の文明を単に並列的に見たが、私はそれらを一神教文明群と多神教文明群とに分ける。キリスト教諸文明またはユダヤ=キリスト教諸文明は、一神教文明群に属する。一神教文明群には、ほかにイスラーム文明、ユダヤ文明が属する。
 これらの諸文明のうち世界に広がることになった西洋文明は、ヨーロッパで発生した。私は、ヨーロッパ文明が北米にも広がった段階以降を、西洋文明と呼んでいる。ヨーロッパについては、地理的な地域区分を明確にする必要がある。本稿では、キリスト教の歴史を踏まえて、ヨーロッパを西部・南部・北部・東南部・東北部に分ける。歴史的に西部・南部・北部は現在の西洋文明、東南部・東北部は東方正教文明が支配的な地域である。

●ヨーロッパの地域区分

 ヨーロッパの地域区分において、それぞれ主な国々は、次のようになる。西ヨーロッパは、イギリス、アイルランド、フランス、ドイツ、オーストリア、スイス、ベネルクス三国。南ヨーロッパは、スペイン、ポルトガル、イタリア。北ヨーロッパは、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、バルト三国。東ヨーロッパは、東南ヨーロッパと東北ヨーロッパに分ける。東南ヨーロッパは、バルカン半島・黒海西岸の国々すなわちギリシャ、アルバニア、ブルガリア、ルーマニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ。東北ヨーロッパは、しばしば中欧と呼ばれる国々のうち北方のポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーである。
 これらヨーロッパの国々に、ヨーロッパ文明の影響の強い北米及び大洋州の欧米系の国を合わせて見ると、国民の人口のうちカトリックの多い国は、割合順に次の通り。ポーランド、ポルトガル(以上、9割台)、ルクセンブルク、アイルランド(以上、8割台)、ポーランド、リトアニア、イタリア、ベルギー、スペイン(以上、7割台)、フランス、オーストリア、スロヴァキア(以上、6割台)等である。プロテスタントの多い国は、同じく次の通り。スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、デンマーク(以上、7割台)、イギリス(6割台)、アメリカ合衆国(5割台)等である。カトリックとプロテスタントにあまり差のない国は、ドイツ、スイス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド等である。また、東方正教会が多い国は、東南ヨーロッパのほとんどの国である。例外は、アルバニアとボスニア・ヘルツェゴビナで、国民のうち最も多いのはイスラーム教徒である。
 次に、地域別に、キリスト教を中心とした宗教事情を概術する。西ヨーロッパ、南ヨーロッパについては、これまである程度書いたので、現在の宗教割合を中心に簡略に書く。北ヨーロッパについては、ほとんど触れていないので、少し詳しく書く。次に北米、大洋州の国々について簡単に書く。また、これまでほとんど触れていない東ヨーロッパについては、少し詳しく書く。

 次回に続く。

外国人政策7~改正法への批判に応じた政府の方針・方策

2019-02-26 09:44:00 | 移民
●政府の方針・方策

(2)改正法への批判に応じた政府の方針・方策
 安倍首相の方針表明に続き、政府は、首相の指示のもと、急遽検討を行い、昨年12月25日、「特定技能」に関する基本方針や分野別の運用方針、外国人全般に対する総合的対応策を閣議などで決定した。急増する外国人を「生活者」として迎え入れる基盤の整備を国主導で進め、改正入管法施行後2年をメドに必要があれば見直すとした。引き続き政府は制度の細部を定める法務省令を策定し、31年1月23日の衆院法務委員会の閉会中審査で説明すると発表した。
 その内容は、大略次の通りである。

①特定技能に関する基本方針
 政府の特定技能に関する基本方針は、五つの柱で構成されている。その概要は次の通りである。

(ア)特定技能1号
・受け入れ国
 「特定技能1号」について、受け入れる国は当面、9カ国(ベトナム、フィリピン、カンボジア、中国、インドネシア、タイ、ミャンマー、ネパール、モンゴル)とする。
 悪質なブローカーを排除するための2国間協定を結ぶ。

・技能試験
 日本語試験を実施し、日常会話に支障がない程度の日本語能力を資格取得の条件とする。また、資格に見合った技能や知識を有しているかを測るために技能試験を行う。技能試験は、業種ごとではなく「溶接」「塗装」などの業務ごとに設ける。
 だが、準備不足のため、実施できるのは、本年4月時点で「介護」「宿泊」「外食」の3業種のみ。残り11業種は10月ないし来年度内等にずれ込む。このため当面は、実習期間を終えた外国人技能実習生からの無試験での移行が大半となる。
 私見を述べると、準備不足のため、無試験で特定技能1号の資格を与えるというのは杜撰である。これ自体、入管法の改正内容の原則を崩すものである。

・報酬・転職等
 企業に対し、特定技能取得者に日本人と同等以上の報酬を支払うよう求める。転職は業務の範囲内に限って可能だが、兼業は禁止する。
 私見を述べると、新制度は外国人を「労働者」と位置付け受け入れる以上、転職や移動を制限するのは、容易ではないだろう。同一業務などでの転職を認めたので、例えば東北で水産物加工に携わっていた技能実習生が、資格を取得すれば首都圏の食品製造会社などでも働ける。若者の採用が難しい地域では、都市部や人気の業種に労働者を奪われるのではないかとの懸念が出ているのは当然である。
 
・受け入れ人数の上限
 約34万5千余人という受入人数は、これを上限として運用する。人手不足が解消した分野は受け入れ対象から外す。上限の超過を防ぐために、各受け入れ企業に対して業界団体などが調査を行い、地域別・分野別の受け入れ数を把握し、3か月ごとに公表する。

・大都市集中の防止
 外国人の大都市集中を防ぐため、受け入れ人数と同様の調査を行い、3か月ごとに公表する。官民で作る業種別協議会も設置し、有効求人倍率といった統計も参考にして調整を図る。
 私見を述べると、受け入れ人数の超過、及び大都市集中の防止のために調査を行うのは良い方法だが、調査というものは、必ず結果が出た時には既に実態は変化している。結果を把握してから対応策を実施しても、常に変化している現実より遅れる。しかも、最大の問題は、対象が人間であることである。外国人労働者という自らの意思を持った人間の動きをコントロールすることは、容易なことではないだろう。

(イ)特定技能2号
 制度開始から2年後に「建設」「造船・舶用工業」の2業種で本格導入する。他業種の受け入れ時期は未定である。雇用形態は直接雇用が原則だが、農業と漁業は例外的に派遣を認める。

②分野別運用方針
 分野別運用方針には、14業種別の受け入れ見込み数や技能試験の開始時期を記載した。

③共生社会実現のための外国人全般に対する総合的対応策
 総合的対応策は126項目に上り、総額224億円の予算で共生社会実現をめざす。対応では地方自治体が大きな役割を担う。自治体の役割は、民間と連携した支援ネットワークづくりや日本語教室の拡充、地域企業とのマッチングなど多岐にわたる。
 対応策の柱となるのは、「多文化共生総合相談ワンストップセンター」。自治体の職員と入管庁の職員が常駐し、一元的な窓口となる。これに相当する拠点は現在、新宿区、さいたま市、浜松市に各1カ所あるのみ。これを全国で100カ所に増やす。
 このほか、運転免許試験や110番、災害情報発信などさまざまな分野で多言語化を推進する。

 以上が、政府が急遽提示した方針・対応策の概要である。だが、先に挙げた15の問題点の多くは、十分検討されていない。施行後に実際に運用しながら対応していくという姿勢と見られる。準備不足の感はぬぐえない。

 次回に続く。

キリスト教165~ロシア以外の東方正教会と東方諸教会

2019-02-24 08:45:38 | 心と宗教
●ロシア以外の東方正教会と東方諸教会

 次に、ロシア以外の東方正教会と、古代に異端とされた東方諸教会について述べる。
 オスマン帝国によって東ローマ帝国が滅ぼされると、ギリシャ人をはじめとする東方正教徒の居住地域の多くが、イスラーム帝国領になった。東方正教会は異教徒への隷属状態の中で、屈辱に耐えながら信仰を保持した。正教徒は、イスラーム教徒と戦って殉教し、信仰を絶やしてしまうことよりも、将来に希望を抱いて生き延びることを選んだ。
 オスマン帝国は、キリスト教の信仰の自由を認め、教会財産を尊重した。そのうえで、東方正教会を組織的に統治に利用した。東ローマ帝国の皇帝に代わり、異教徒の君主が、今度は正教会の最高指導者と並列の関係でなく、上下の関係で教会を治めた。トルコ半島にいるコンスタンティノポリス総主教を保護して、傘下の信徒を統制する方法である。総主教は、ムスリムの支配のもとで正教徒の管理をし、税金の取り立てまでさせられた。
 キリスト信徒は、庇護民としてイスラーム教徒より社会的に下の身分に置かれた。教会の活動は布教をはじめとして制限された。正教会の教育機関は活動を禁止された。高位聖職者を目指す者は、ローマ等に留学してラテン語で神学教育を受けるしかなかった。その結果、正教会に対するカトリック教会の影響が強くなっていった。
 キリスト教の聖地とされるエルサレムは、かつて西方キリスト教の十字軍が奪還を目指して失敗に終わった場所だが、1517年以降、オスマン帝国の統治下に置かれた。その状態は約400年間、第1次世界大戦が終了する1918年まで続いた。
 オスマン帝国の支配から脱却しようとする動きが、まったくなかったのではない。それは、西欧発のナショナリズムの影響による。ナポレオン戦争を通じて、ヨーロッパではナショナリズムが広がった。その影響は、ラテン・アメリカに及んだ。アメリカ独立やフランス革命が刺激になって、ラテン・アメリカ各地で、スペイン・ポルトガルからの独立の気運が高まり、1810年代から20年代にかけて、18の独立国家が誕生した。
 続いて、イスラーム教徒に支配されてきたバルカン半島やその周辺地域でも、独立への気運が起ったのである。独立運動に伴って、東方正教では、オスマン帝国の統制下にあるトルコ半島のコンスタンティノポリス教会の干渉を受けない独立教会への志向が生まれた。ギリシャでは、コンスタンティノポリス総主教の慰撫を振り切って、1821年から解放戦争が開始され、30年にギリシャ王国がオスマン帝国から独立した。これに伴い、33年にギリシャ正教会が独立教会を宣言した。コンスタンティノポリス教会は50年にこれを承認し、相互に独立を承認した教会の関係になった。ただし、ギリシャ正教会の首座主教はアテネ大主教とし、新たな総主教座を設けてはいない。
 ルーマニアでは、オスマン帝国の支配下にあったワラキア、モルドヴァ両公国が1859年に統一し、78年に独立が承認された。その後、85年にルーマニア正教会が独立教会となった。セルビアは、78年に王国として独立し、翌年、セルビア正教会が独立教会となった。ブルガリアは、60年にブルガリア正教会が独立正教会となった。その後、78年にオスマン帝国に貢納する自治公国が創設され、1908年には王国として独立した。
 20世紀初頭、バルカン半島は、パン・スラヴ主義を掲げるロシア帝国と、パン・ゲルマン主義を掲げるオーストリア=ハンガリー二重帝国が激しく利権を争う場所となっていた。1912年、オーストリア=ハンガリー二重帝国は、突如としてボスニアとヘルツェゴビナを併合した。これに対し、ロシアは、12年にセルビアを中心とするバルカン同盟を結成して対抗しようとした。しかし、ロシアの意に反し、バルカン同盟の諸国は、オスマン帝国に戦争を仕掛け、半島のオスマン帝国領のほとんどを奪い取った。この第1次バルカン戦争の後、バルカン同盟内で、オスマン帝国から獲得した領土の分配をめぐって、ブルガリアと周辺国との間で、第2次バルカン戦争が起こった。敗れたブルガリアはドイツ、オーストリアに接近し、バルカン半島は大国、小国の利害がますます複雑に絡み合う地域となった。そして、「ヨーロッパの火薬庫」と化したバルカン半島を発火点として、第1次世界大戦が勃発することになった。
 オスマン帝国は、19世紀末から、既に瀕死の重病人と言われていた。大戦はオスマン帝国に大敗をもたらし、帝国領の東方キリスト教徒の多くが、イスラーム教徒の支配から解放された。ただし、今度は西方キリスト教徒の管理下に置かれる地域が出現した。
 中東・北アフリカでは、東方正教会とともに東方諸教会が存在し、地域や国家によっては、それらの教会の信徒が混在している。大戦後、オスマン帝国が解体され、イギリスがイラク・パレスチナ、フランスがシリアを、国際連盟の委任統治領という名目で、実質的な植民地にした。
 オスマン帝国の領土で辛くも残った小アジアでは、1923年にケマル・アタテュルクがトルコ共和国を樹立して、西欧をモデルにした近代化=西欧化を進めた。その結果、イスラーム文明はオスマン帝国という中心を失って分裂の道を進み、西欧諸国の進出が急速に進んだ。
 イギリスが委任統治するパレスチナの一部では、委任統治下にトランス・ヨルダン首長国が成立し、1946年にヨルダン王国として独立した。フランスが委任統治するシリアの一部では、レバノンがシリアから分離した後、1944年に独立した。またシリアの残りの地域は、46年に独立した。エジプトは、第1次大戦中にイギリスの事実上の植民地とされたが、22年に王国として独立を認められた。
 こうした中東、北アフリカの諸地域、諸国家に分布する東方正教会及び東方諸教会は、イスラーム教徒の支配下から、西方キリスト教徒の支配下に移り、その後、種々の独立国家に所属することになった。

 次回に続く。

キリスト教164~ソ連における正教会の苦難

2019-02-23 08:50:37 | 心と宗教
●ソ連における正教会の苦難

 20世紀初頭、ロシア正教会では、教会改革のために全国公会の開催を要求する声が高まった。だが、第1次世界大戦が勃発して開催は遅れた。1917年の2月革命によって、帝政が崩壊すると、ロシア正教会への抑圧が一時、収まった。しかし、10月革命で権力を奪取したボルシェヴィキ政権は、教会と信徒の抵抗を排して、政教分離、教会所有地と財産の没収などの施策を強行した。また、政府に忠誠を誓った対立教会の活動を支援したり、大規模な反宗教宣伝活動を開始したりした。
 この間、17年から18年にかけてロシア全国公会がモスクワで開かれ、ピョートル1世の教会改革以来、廃止されていた総主教制の復活を決めた。約200年ぶりの復活だった。総主教には、モスクワ府主教ティーホンが選ばれた。ティーホンは当初、無神論を標榜する共産党政権に強く反発したが、教会への弾圧の激しさを見て、妥協的姿勢に転換した。レーニン率いる革命政権をロシアの正当な政府と認めて一定の協力を行った。だが、そんなティーホンが22年に投獄されてしまった。彼が25年に没すると、政府は次の総主教の選立を禁止した。総主教座は空位となり、代理者も次々に逮捕された。
 1927年、総主教代理代行セルギイ・ストラゴロツキーの働きかけで、ようやく教会は政府から法的認可を獲得した。セルギイは、信徒への文書でソ連政府に対するキリスト教徒の忠誠を誓った。その文書の内容がその後、ロシア正教の憲章になった。だが、多くの聖職者や信徒は、セルギイの忠誠宣言に反対した。彼らは教会が国家と完全に手を切ることを要求し、法的な認可など統制に過ぎないと主張して、セルギイに従うことを拒否した。
 実際、セルギイの方針によって、教会への弾圧を回避することはできなかった。スターリンの指導の下、28年から5か年計画が着手されると、戦闘的無神論者同盟が組織され、キリスト教の根絶が図られた。また、多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収された。30年にはカザン・クレムリンの生神女福音聖堂、31年にはモスクワの救世主ハリストス大聖堂が破壊された。36年のスターリン憲法のもとで大規模な粛清が行われた時には、教会も厳しく弾圧された。セルギイの方針に反対を唱えていたレニングラードの府主教イオーシフを中心とする信徒の一団は、37年から38年にかけて血の粛清を受け、イオーシフは処刑された。
 1918年から41年にかけて、ロシア正教会は、世界のキリスト教史上かつてないほどの迫害を受けた。18年から30年にかけて、約4万2千人の聖職者が殺害された。30年代にも3万以上の聖職者が投獄または銃殺された。
 こうした状態が変化したのは、第2次世界大戦が起ってからである。1941年6月、ナチス・ドイツは独ソ不可侵条約を破棄して、突如、ソ連に侵攻した。ドイツ軍は北部ではモスクワやレニングラード、南部ではコーカサスに迫った。これに対し、ソ連では祖国防衛のために、国民の総力結集の気運がみなぎり、ロシア正教会は政府に協力して戦意高揚に努めた。スターリンは教会の貢献を認め、43年に教会政策を転換し、一定の活動を許可した。総主教の選立が許され、セルギイが総主教となった。聖職者は追放を解かれ、多くの教会や聖職者育成のための教育機関が再開され、教会関連の出版が限定的に認められた。
 44年にセルギイが死去すると、アレクセイが総主教になり、70年まで務めた。大戦後も、ロシア正教会は共産主義体制に追従する路線を続け、国際的な反戦会議などでソ連政府の外交政策の代弁者を務めた。
 10月革命後、革命政権の迫害を恐れ、多数の亡命者が出た。欧米には、すでにロシア移民が建てた教会があった。ソ連からの亡命者は、そこに集って信仰を守った。彼らがパリやニューヨークに建てたロシア正教の神学校は、正教の神学研究の中心機関となった。また、亡命した国で新たな教会を設立する者たちもいた。彼らの教会を在外ロシア正教会と呼ぶ。同教会は、セルギイの総主教座の継承を認めず、彼の後継者の正統性も長い間、認めなかった。
 第2次世界大戦後のソ連のキリスト教については、別の項目に書く。

 次回に続く。

外国人政策6~安倍首相の方針表明

2019-02-22 09:33:16 | 移民
●政府の方針・方策

(1)安倍首相の方針表明
 多くの問題点が指摘されるなか、安倍晋三首相は、平成30年12月10日、国会閉会後の記者会見で、こうした懸念に対応する意向を示し、年末までに外国人受け入れ体制の全体的な方向性を示す基本方針や、生活支援など総合的な対応策などを策定する方針を表明した。
 首相は、改正入管法について「全国的な深刻な人手不足の中、即戦力となる優秀な外国人材にもっと日本で活躍してもらうために必要だ」と成立の意義を訴えた。長期在留や家族の帯同が認められる特定技能2号でも素行や技能など厳しい要件が課されることを念頭に、改正入管法は「いわゆる移民政策ではない」と強調した。
 首相は、大略次のように語った。

 「受け入れる人数には明確に上限を設けます。そして、期間を限定します。みなさまが心配されているような、いわゆる移民政策ではありません。現在、有効求人倍率は47すべての都道府県で1倍を超える中で、全国で多くの、特に地方の中小・小規模事業者のみなさんが深刻な人手不足に直面しています。この現実に向き合わなければなりません。中小・小規模事業者のみなさんは設備投資等により、生産性向上に懸命に取り組んでおられます。こうした取り組みを行ってもなお、介護、農業、建設業など特に人手不足が深刻な分野に限って、就労の資格を設けます。即戦力となる外国人材を受け入れ、日本経済を支える一員となっていただく。そのために、日本人と同等の職場環境、賃金面での待遇はしっかりと確保していきたいと考えています。同時に、健康保険などの適用については不正があってはなりません今後、厳格な対策を講じます。出入国在留管理庁を新たに設置し、国民の皆さんの不安にしっかり答えられるよう、在留管理を徹底していきます。(略)技能実習制度を含め、今後制度の運営に万全を期してまいります」
 「これは、待ったなしの喫緊の課題であり、政府として、今回改正法を成立をさせ、来年4月から制度のスタートを目指しています」
 「年内に政府基本方針や分野別運用方針、そして外国人の受け入れ、共生のための総合的対応策をお示しするとともに、改正法の施行前には、政省令事項を含む法制度の全体像を国会に報告し、制度の全容をお示しいたします。その上で、今後新設する出入国在留管理庁のもとで、在留管理を徹底し、制度の運用に万全を期して参る考えであります」と。

 こうした首相の方針表明を聴いて、私は、憲法改正がいよいよ急務であると強く感じた。早急に憲法改正をして、国のあり方を根本から立て直さないと、外国人労働者の急増によって日本の社会が混乱し、ひいては国家が崩壊してしまう恐れがある。この点、安倍首相は、外国人労働者の受け入れ拡大と憲法改正を結び付けた方針を明確には打ち出していない。
 首相は、先ほどの記者会見で、憲法改正についても、述べてはいる。平成32(2020)年の改正憲法施行を目指す考えを重ねて示して、首相は次のように語った。「私は憲法改正について国民的な議論を深めていくために、一石を投じなければならないという思いで、2020年は新しい憲法が施行される年にしたいと申し上げましたが、今もその気持ちには変わりはありません」。そして「それぞれの政党が憲法改正の考え方を開陳しなければ国民は議論を深めようがない」と述べ、主要野党が臨時国会の憲法審査会で実質的な議論に応じなかったことに不快感を示した。「まずは具体的な改正案が示され、国民的な議論が深められることが肝要であります。そうした中から与党、野党といった政治的な立場を超えて、できるだけ幅広い合意が得られることを期待しています。その後のスケジュールは国会次第でありまして、予断を持つことはできないと考えています」と首相は述べた。
 このような発言をしてはいるのだが、安倍首相は、明確に外国人労働者の受け入れ拡大と憲法改正を結び付けた打ち出しをしてはいない。だが、憲法改正ができないまま外国人労働者の受け入れ拡大が進むと、日本の将来は非常に危ういことになると私は強く懸念する。首相は、このことを踏まえて、今こそ憲法改正の必要性を国民に訴えるべきである。

 次回に続く。

キリスト教163~第1次世界大戦からロシア革命へ

2019-02-21 12:01:48 | 心と宗教
●第1次世界大戦からロシア革命へ

 ここで19世紀後半のロシア近代史に話を戻そう。皇帝アレクサンドル2世は、1861年に農奴解放令を出すなど社会改革を進めて、資本主義の急速な発達を図った。上層階級が西欧化する一方で、下層階級は昔ながらのロシア的な生活をしていた。インテリゲンチャと呼ばれる知識層は、欧化と土着の二極の間で苦悩した。西欧思想の影響を受けた無神論者が現れる一方、熱烈なロシア正教の信仰によってロシアを再興しようとする者も現れた。社会の矛盾が増大するなか、土着的な思想のナロードニキと西欧的な思想の社会主義者は、ロマノフ朝の絶対専制(ツァーリズム)に反発して、行動が過激化していった。81年にナロードニキの活動家がアレクサンドル2世を暗殺した。ここまでが、ドストエフスキーの生きた時代である。ここから先は彼の死後の時代、彼にとっての将来になる。
 さて、皇帝アレクサンドル2世の暗殺事件後、帝位を継いだアレクサンドル3世は、専制権力の強化と経済的譲歩策で、王朝の危機を乗り切り、工業の振興を進めた。94年にはその子のニコライ2世が皇帝となった。ニコライ2世のもと、ロシアは、西欧諸国に習って帝国主義政策を行い、東アジアに進出した。近代西洋文明の半周辺部で近代化を進める日本とロシアは、朝鮮半島をめぐって日露戦争で対決した。ロシア帝国は、日本に苦戦し、敗北を喫した。1905年、生活の困窮をツァーリに訴えるデモ隊に軍隊が発砲した血の日曜日事件が起こった。この事件を機に、労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市でソヴィエト(労兵評議会)が結成された。ニコライ2世は、ドゥーマ(国会)の開設と憲法制定を発表した。国会開設後、首相ストルイピンによる改革が図られたが、社会の根幹は変化せず、ストルイピンは11年に暗殺された。ロシアはこうした不穏な国内情勢を抱えた状態で、第1次世界大戦に突入することになった。
 19世紀後半からロシアは、陸続きのバルカン半島に目をつけ、この地域の国際関係に介入していた。スラヴ系民族の文化的一体性を強調し、その統合をめざすパン・スラヴ主義を推進した。この政策は、ドイツを後ろ盾とするオーストリア=ハンガリー二重帝国のパン・ゲルマン主義と対立した。この対立にバルカン諸国間の対立が加わって、バルカン半島は大国、小国の利害が複雑に絡み合う地域となり、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。
 1914年6月28日、ボスニアの州都サラエボでオーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子フェルディナンド夫妻が、セルビア人青年に暗殺された。それが第1次世界大戦の発端となった。オーストリアは、ドイツの支持を得て、セルビアに宣戦を布告した。ロシアはセルビアを支持して、これに応戦した。続いてドイツがロシアとフランスに宣戦し、さらにイギリスも参戦した。
 第1次世界大戦が長期化すると、もともと経済的基盤の弱かったロシアは、深刻な食糧不足に陥った。 1917年3月(ロシアのユリウス暦では2月)、食糧暴動が起こり、窮状に耐えかねた労働者が首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)でゼネストを敢行した。兵士たちもこのゼネストを支持した。国会では、中道派の立憲民主党を中心とした臨時政府が樹立された。事態を収拾できなくなったニコライ2世は退位した。この2月革命により300年余りに及ぶロマノフ朝は終わりを告げた。
 無政府主義者、社会主義者の活動が活発になった。その中から主導権を得ていくロシア社会民主労働党は、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集める社会革命党(エスエル)と共に積極的な活動を展開した。
 2月革命後、臨時政府とソヴィエトが対立する二重権力状態が生まれた。社会革命党のケレンスキーが指揮する臨時政府は、対独戦を継続する方針だったが、戦局は好転せず、民衆の支持は低下した。4月、亡命先のスイスからレーニンが帰国した。レーニンは、「すべての権力をソヴィエトへ」と訴えて、臨時政府との対決姿勢を明らかにした。各地のソヴィエトで、社会民主労働党の左派、すなわち暴力革命遂行の前衛党を目指す多数派(ボルシェヴィキ)が伸張した。
 1917年11月(ユリウス暦10月)、労働者・兵士がペトログラードで蜂起して臨時政府を倒し、ボルシェヴィキと社会革命党左派からなる革命政権が樹立された。これが10月革命と呼ばれる世界最初の共産主義革命である。
 レーニンを最高指導者とする新政府は、即時停戦と無併合・無賠償による和平、地主の土地の没収、少数民族の自決権の承認等を宣言した。新政府は憲法制定議会の選挙を実施した。選挙の結果、農民を支持基盤とする社会革命党が第一党になった。ところが、レーニンは選挙の結果を踏みにじった。18年1月レーニンは武力で議会を解散し、社会革命党を政権から追放して、ボルシェヴィキによる一党独裁体制を敷いた。少数派が暴力で権力を強奪したのである。議会制デモクラシーとは、自由で公正な選挙によって選ばれた議員によって政治が行われることである。ところが、ロシアで起こったのは、デモクラシーを否定し、武力で政権を奪うクーデタだった。
 革命政権は翌18年3月単独でドイツと講和を結び、第1次大戦の戦線から離脱した。革命が自国に波及することを恐れた列強諸国は、ロシアへの干渉戦争を開始した。連合軍は、各地で蜂起した白軍(反革命軍)を支援した。しかし、赤軍(革命軍)は、国内各地の敵対勢力を屈服させ、22年には外国軍の干渉を排除した。
 ボルシェヴィキは18年に共産党と改称した。22年12月、一党独裁を国是とするソヴィエト社会主義共和国連邦が誕生した。ソ連共産党は、ロシア革命の過程をすべて正当化し、権力の正統性を偽装した。しかし、共産党による一党独裁は、プロレタリア独裁を騙った官僚専制であり、共産主義者が労働者・農民を支配する体制だった。
 1924年1月にレーニンが死ぬと、スターリンは、個人独裁の体制を確立していった。共産党幹部多数を粛清し、恐怖政治を行った。秘密警察と強制収容所、赤軍の諜報機関がスターリンの個人崇拝体制を支えた。
 共産主義は西欧に誕生した。だが、共産主義が深く浸透し、定着したのは、共同体家族が支配的な地域においてだった。共同体家族は、ロシア、シナ等、ユーラシア大陸の大半に分布する。共産主義が広がった地域は、外婚制共同体家族の地域と一致する。共同体家族の権威と平等による価値観は、共産主義の一党独裁と社会的平等という価値観と合致する。これに対し、西欧は平等主義核家族、絶対核家族、直系家族が多く、それらの家族型によって共産主義とは相いれない家族型による価値観を持っていた。西欧では、自由主義、デモクラシー、個人主義が発達した。キリスト教の教派のうち、プロテスタンティズムは、自由主義、デモクラシー、個人主義と親和的である。これに対し、ロシア正教は、共産主義と親和的である。この中間にあって、どちらにも融合し得るのが、カトリックということができるだろう。
 ところで、ソ連は、人種差別・民族差別を行う国家だった。特に注目すべきは、ユダヤ人への差別である。
 19世紀後半、アンチ・セミティズムが、ロシア、東欧、フランス、オーストリア等に広がった。ロシアでは帝政末期の混乱の中で、ユダヤ人を無差別に殺戮するポグロムが行われた。西方キリスト教徒だけでなくロシア正教徒も、ユダヤ人を激しく迫害した。迫害に苦しむユダヤ人の一部は、アメリカなど国外に逃亡した。シオニズムを信奉し、パレスチナの地を目指す者もあった。
 その一方で、ロシアの国内でユダヤ人の解放を目指す者たちもいた。もともとカール・マルクスをはじめ、唯物論的共産主義の指導者には、ユダヤ人が多い。ロシアでユダヤ人の解放を目指すユダヤ人は、シオニズムを批判し、ロシアの革命運動に参加していった。
 ボルシェヴィキの幹部には、ユダヤ人が多かった。トロツキーやジノヴィエフらがそうである。スターリンは、彼らユダヤ人幹部を次々に粛清した。その後も、ソ連におけるユダヤ人差別は続いた。共産主義は人種問題・民族問題を解決するというのは、虚偽の宣伝である。

 次回に続く。

キリスト教162~『カラマーゾフの兄弟』続編の構想と歴史の展開

2019-02-19 09:30:13 | 心と宗教
●続編の構想と歴史の展開

 『カラマーゾフの兄弟』は、続編が考えられていた。続編は、13年後の話として構想されていた。作者の死によって、第2部は書かれることなく終わった。
 ドストエフスキーは、本編の序文で、アレクセイを本編から受ける印象とは全く異なる「奇人とも呼べる変わり者の活動家」と書いている。そうした還俗後のアレクセイを主人公とするのが、続編だった。ドストエフスキーが知人に宛てた手紙には、修道僧時代から相思相愛だったリザヴェータとの愛に疲れたアレクセイがテロリストとなり、皇帝暗殺のテロ事件の嫌疑をかけられて、絞首台へ上るという粗筋が記されていたという。
 テロリストとなったアレクセイは、実在の人物がモデルとなっている。1866年、皇帝アレクサンドル2世の暗殺未遂事件が起きた。犯人は、ドミートリイ・カラコーゾフという。カラコーゾフはよくある姓で、カラマーゾフはそれをひねった家名である。
 ドミートリイ・カラコーゾフは、拷問を受け、傷ついた体で絞首台に上り、処刑された。彼には、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフと共通点があった。『罪と罰』は、実際の殺人事件をもとにした小説である。金貸しの老婆を殺害する大学生ラスコーリニコフは、往来で大声で独り言を続ける半狂人として描かれている。カラコーゾフもまた「死にたい」というのが口癖の、精神科に通う若者だった。ドストエフスキーは、『罪と罰』の刊行と同じ年に起ったカラコーゾフの事件に、驚愕して言葉を失い、身を震わせたという。
 カラコーゾフの皇帝暗殺未遂事件は、ナロードニキ運動に衝撃を与えた。ナロードニキは、人民主義者を意味し、農村共同体(ミール)をもとにしたロシア再生を目指す。カラコーゾフの事件は、「土地と自由」結社に影響を与え、それが発展して1879年に「人民の意志」が結成された。その党員によって、81年3月アレクサンドル2世は暗殺された。ドストエフスキーが死去した翌月の出来事だった。
 『カラマーゾフの兄弟』の続編が、還俗したアレクセイが変わり者の活動家となり、皇帝暗殺のテロ事件の嫌疑を受けて、絞首刑にされるという物語だったと仮定すると、もし実際に書かれていたら、創作の物語と現実の出来事の相似が見られたかもしれない。
 ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』の続編以後の時代となるロシアの将来を、どのように想像していたのだろうか。彼がナロードニキ運動とロシア正教がロシアの将来を開くことを期待していたことは、間違いない。ナロードニキ運動は、彼の死後も発展し、20世紀初頭にはその運動を継承した社会革命党(エスエル)が農民の支持を集め、西欧的な社会主義に依拠する社会民主労働党とともに積極的な活動を行った。
 1917年に2月革命が起ってロマノフ朝は滅亡し、社会革命党のケレンスキーが臨時政府の首班となった。混迷が続くなか、同年10月、労働者・兵士が蜂起して臨時政府を倒し、社会民主労働党の多数派(ボルシェヴィキ)と社会革命党左派からなる革命政権が樹立された。 レーニンを最高指導者とする新政府が憲法制定議会の選挙を実施すると、社会革命党が第一党になった。
ところが、レーニンは18年1月に武力で議会を解散し、社会革命党を政権から追放して、ボルシェヴィキによる一党独裁体制を敷いた。民主的な選挙の結果を否定するクーデタだった。それによって、ドストエフスキーが志向しただろう土着的かつ民主的なロシアの社会変革の道は閉ざされた。同時にそれは、ロシア正教による精神的な変革の道も閉ざされたことを意味する。
 ボルシェヴィキは、同年3月、名称をロシア共産党に改めた。22年12月、一党独裁を国是とするソヴィエト社会主義共和国連邦が誕生した。ソ連共産党のもと、ロシア正教は無神論者によって弾圧され、民衆は抑圧された。こうした歴史の展開については、後の項目に詳しく書く。また、現代の話になるが、革命の70年後、ソ連は崩壊し、共産主義体制は否定された。民主化の中でロシア正教は再興したが、ロシアの社会を精神的に指導する力は十分ではいない。まして世界を救っていくようなロシアの民衆の力は発揮されていない。ドストエフスキーは、その天才的な洞察力と類まれな予見力を以てしても、こういうロシアの将来すなわち実際の歴史を見通すことはできなかった。そして、21世紀の世界で、ロシア正教を含むキリスト教は、終末的完成か発展的解消かのどちらかに至る運命にある。

 次回に続く。

外国人政策5~特定技能の技能水準が明確でないのではないか?

2019-02-18 13:22:18 | 移民
●多くの問題点が指摘されている(続き)

⑦特定技能の技能水準が明確でないのではないか?
 改正法は、高度な専門人材に限っていた従来の外国人政策を大きく転換し、一定の技能を持つ労働者の在留資格を新設した。
 技能実習生は「特定技能1号」に無試験で移行できる。「特定技能1号」の労働者の技能水準は「相当程度の知識又は経験を必要とする技能」とされる。無試験で「相当程度の知識又は経験」を有するかどうか、判定できるのか。「相当程度」とはどの程度なのか。また「2号」の労働者の技能水準は「熟練した技能」とされる。「熟練」とはどの程度なのか。いずれも改正法に定義されていない。

⑧法改正の効果は大都市部に集中して、地方の人手不足は解消されないのではないか?
 この度の法改正が地方の人手不足を解決する決定打になるという保証はない。外国人はよりよい仕事を求めて大都市圏に集中する傾向にある。これを防ぎ、地方に分散して就労する対策は示されていない。

⑨外国人労働者の医療、健康保険などのコスト、年金制度をどうするか?
 民主党政権下の平成24年(2012年)7月、外国人登録制度が廃止された。それに伴い、3カ月を超えて在留する外国人は、国民健康保険に加入することになった。それまでは在留資格1年未満では国民健康保険に加入できなかったが、わずか3ヵ月での在留資格によって国民健康保険に加入できるようになった。この変更は、法改正によってではなく、民主党の小宮山洋子・厚労大臣(当時)下の厚労省省令改正によるものだった。
 現在、在留外国人も健康保険に加入すれば原則自己負担3割で医療機関を受診できる。世界に誇る日本の皆保険制度に、わずか3カ月以上の滞在で加入できるというのは、外国人にとっては大きな利益である。日本に住んでいない扶養親族が受診しても1~3割の自己負担で済む。そのためこの仕組みを悪用する例が跡を絶たない。
 この状態を放置したまま、外国人労働者受け入れ拡大を行うことは、善良な国民に対して不当な負担を増大するのみである。

⑩日本語教育など行政サービスの窓口になる地方自治体への支援はできるのか?
 外国人労働者は機械や部品ではなく、人間である。彼らは日本人とは異なる文化、伝統、風習を持つ。国民の間には、言葉や生活習慣の違いから地域でトラブルが起こるのではないかという心配が強い。地方自治体には、生活相談や苦情対応、日本語の習得支援、社会教育・職業訓練などの充実、行政手続きの情報提供など、幅広い対応が求められる。だが、総合的な支援のあり方について議論ができておらず、準備不足である。制度開始までの準備期間が短く、実際に対応策を講じる自治体の間には「どうすればいいのか」と不安が広がっている。

⑪外国人労働者が増えると、不法滞在・不法就労、犯罪、トラブルが増加するのではないか?
 欧米諸国における移民受け入れは、国民と移民との間に様々な文化摩擦を生んでいる。移民の側には、不公平感や疎外感から犯罪を犯す者や、宗教的過激思想によってテロ活動に参加する者が増えている。日本でそれを防ぐには、地方自治体による幅広い支援を行う一方で、犯罪者の徹底的な捜査・逮捕・入国禁止などを可能とする体制の確立が必要である。だが、その準備ができていない。
 労働者として入国する外国人で最も多いのは、中国人となると予想される。その中国からの外国人労働者に工作員が潜入することを想定しなければならない。だが、日本にはスパイ防止法に相当する国外からの工作活動を処罰する法制度が確立されておらず、スパイ天国といわれている。中国に限らない。他の国々もまた様々な工作活動を行っている。このまま外国人労働者の受け入れを拡大すれば、外国のスパイ活動によって、これまで以上にわが国の国益が大きく損なわれるに違いない。
 日本人が日本精神を発揮し、日本人全体が神の道に沿って団結していれば、海外から入ってくる外国人を同化して、彼等もまた日本精神を身に付けて、日本のために一緒に進んでいくことができるだろう。しかし、日本の現状は、日本人の多くが日本精神を見失い、分裂状態に陥っている。そのため、在日韓国人や朝鮮人、また在留中国人によって引っ掻き回されている。北朝鮮による拉致問題がそうであるし、スパイ活動はやりたい放題である。マスコミまでが牛耳られている。このような現状のまま、外国人を多数受け入れていったならば、さらに状態が悪化することは、明らかである。

⑫新設される出入国在留管理庁(入管庁)は機能するか?
 入管法の改正を受けて法務省の入国管理局は、今年4月から出入国在留管理庁(入管庁)に格上げされる。政府はこれを「外国人政策の司令塔」とする方針である。
 一定期間暮らす在留外国人は、平成29年(2017年)末で約256万人に上っている。また、訪日外国人は、昨30年末に3000万人を超えた。現在、入管局では入国在留課がこれら出入国や在留の管理を担当している。入管の現場は多くの課題を抱えている。不法残留者が30年1月時点で推計約6万6千人となり、この3年間で1割も増加した。その大半は所在がつかめない。入国審査官は毎年数十人規模で増員されているが、偽造されたパスポートや在留カードなどを使った不正な「偽装滞在」が増えており、対応は追いついていない。
 新たな入管庁では、担当を出入国管理部と在留管理支援部の2部署に分割する。新たな業務として日本に暮らしている外国人の「生活支援」が加わり、支援の具体的な施策について関係省庁の取りまとめや自治体との調整役を担う。業務の増加に対応するため、入管庁は人員を4870人体制から5400人体制に増強する。本庁を1・5倍の210人体制とする。全国8つの地方入管局に配置されている入国審査官を、現在約2880人のところ、400人増やす。不法残留者などを取り締まる入国警備官も、現在約1450人のところ100人増やすという。
 だが、入管庁がどの程度の対応をできるかは、未知数である。ここがうまく機能しなかったら、不法移民が激増することになる。

⑮条件が整えば永住への道が開けるというのは、事実上の移民政策ではないか?
 様々な問題点のうち、長期的に見ると、受け入れ人数のなし崩し的な増加、日本人の雇用への影響、社会保障制度への影響、治安の悪化等は、日本の国家のあり方と国民生活に大きな影響をもたらすことが明らかである。とりわけ重大なのは、改正法をこのまま施行すると、移民拡大につながることである。改正法の施行は、実質的な「移民国家」への道となる恐れがある。
 この点はとりわけ重大なので、後に詳しく書く。

 以上、改正入管法の問題点を15点挙げた。これらの一つ一つが大きな問題を孕んでいる。

 次回に続く。

キリスト教161~ゾシマ長老の死

2019-02-16 08:54:03 | 心と宗教
●ゾシマ長老の死

 『カラマーゾフの兄弟』で私が最も重要と考える部分は、第7篇第一の「腐死の香」である。
「大審問官」の章でイヴァンにカトリック教会の堕落を語らせたドストエフスキーは、この章で、ロシア正教会の長老ゾシマの死について書く。ゾシマは、アレクセイの修道院の長老である。長老とは、ロシア正教会において、精神的に優れていると認められ、精神的指導を行う年長者をいう。ゾシマは、高位の修道士であるスヒマ僧である。謙虚で優しく高潔な精神と深い信仰心を持ち、他の教会関係者や世俗の人々から尊敬を集めている。荒野修道院で修行した聖人ザドンスクのティーホンと長老アンヴロシイがモデルとされる。
 高齢のゾシマは、病気のために死亡する。彼の臨終に前後して、「ある聖人は死んだ後、遺体から腐臭が漂うことなく、それどころか芳しい香りしたらしい」という話が流れる。そして人々は、身分、貧富を問わず、「ゾシマ長老もそのような奇跡を起こすかもしれない」という期待を抱く。しかし、期待に反して奇跡は起こらず、夏の暑さの中、ゾシマの遺体は、普通の場合より早く、ひどい腐臭を放つ。人々は動揺し、神の罰が現れたと考え、長老の高徳を疑い始める。
 動揺する人々に対し、ゾシマの弟子ヨシフ主教は「聖者の遺体は腐敗すべきものではないという考えは、正教の教えではない」と反駁する。だが、「神様のお裁きなのだ」という声が次第に大きくなっていく。
 葬儀は何とか場を取り繕いながら進行するが、そこに突然、苦行僧フェラポントが乱入する。まえまえからゾシマの批判者だったフェラポントは、ゾシマを罵倒し、狂ったように悪魔だと告発する。民衆は、腐臭によってゾシマへの尊敬心を棄て、フェラポントを喝采する。神に祝福されるべき聖人は、逆に神に呪われた者だった。強烈な腐臭がそのしるしだと見なしたのである。失望、侮蔑、猜疑の漂うなか、葬儀は進んでいく。
 ゾシマを敬愛するアレクセイは、一部始終を目の当たりにし、それまで不動だった信仰心が揺らぐ。そして、兄イヴァンの「僕は別に、神さまに反乱を起こしているわけじゃない。ただ神が創った世界を認めないだけさ」という言葉を口にして、ゆがんだ含み笑いを浮かべる。
 私が特に注目するのは、ここまでの件である。なせそう考えるかについては、後ほど述べる。先に物語の続く部分について簡単に書く。
 信仰が動揺したアレクセイは悪友の誘いに乗って、グルーシェンカのもとを訪れる。父と長兄の争いの種になっている身持ちの悪い女である。彼女は、アレクセイに「ネギ一本」の民話を語る。地獄に堕ちた意地悪な老婆の話である。グルーシェンカは、自分もその老婆のように意地の悪い女だと言って泣き出す。アレクセイは、娼婦のような女に宿る信仰心に打たれる。そして、ゾシマの遺体が安置されている庵室に戻る。
 アレクセイは、うたたねののうちに聖書の「カナの婚宴」の夢を見る。婚礼に招かれたキリストが水をぶどう酒に変える奇蹟を起こした場面である。夢の中でアレクセイは、長老ゾシマから語りかけられる。「われわれには限りなく慈悲深いあのお方が見える。客の喜びが尽きないように、水をぶどう酒に変えて、新しい客を待ち受けている。永久に絶えることなく、新しい客を招いておいでになる」――そう長老が語ったところで、アレクセイは目が覚める。そして、ふいに大地に身を投じ、泣きながら接吻する。そして、自分は大地を愛する、永久に愛する、と誓う。再び立ち上がった時、彼はもはやか弱い青年ではなく、生涯揺らぐことのない堅固な力を持った一個の戦士となっていた。―――大体、こういう展開である。
 このように「腐死の香」の章では、アレクセイはゾシマの死を通じて、大きく成長することが描かれている。アレクセイが身を投じたのは、ゾシマの遺体に対してではなく、キリストの聖像に対してでもない。大地に対してである。そして、この後、彼が向かうのは、修道院での修道生活ではなく、民衆が生きる現実の社会である。ここから、ドストエフスキーの信仰が聖書だけでなく大地に根差したものであり、また彼の思想が民衆と生命をともにするものだったことが読み取れよう。
 さて、私がこの「腐死の章」で特に注目するのは、長老ゾシマの死に際して、遺体に奇跡が起こることを民衆が期待することである。キリスト教では、遺体が腐敗せずに残ることを聖人である証明の一つとみなすことが伝統的な見方となっている。ロシア正教でも同様であることが、民衆のゾシマへの期待によってよくわかる。ロシア正教では、4世紀の神学者、修道士のヨハネス・クリュソストモスは「身体は神の被造物であるが、罪によって死と腐敗がその内に注入されたのだ」という思想が影響を与えてきた。死と腐敗は、罪によるものという考え方であり、罪に打ち勝つことができれば、遺体は腐敗せず、神の恩寵が示されるという考え方である。罪に打ち勝つ奇跡が起れば、その実証を見て民衆は死者を尊崇する。逆に腐敗が早く進行すれば、その実態を見て、民衆は落胆し、死者を侮蔑する。これらは、どちらも素直な反応である。
 だが、死後遺体が腐敗せず、死臭も現れないという現象は、希な現象である。さらに死後長時間、体温が冷めず、死斑も現れず、時間がたつに従って顔が崇高な相貌に変わっていく現象を、大安楽往生現象という。大安楽往生現象は、カトリック教会、ロシア正教会等のキリスト教だけでなく、ヒンドゥー教、仏教、道教等にも少数ではあるが、歴史的な文献に記録が見られる。ただし、聖人・高層においてさえ、極めて希な出来事である。一生修行に打ち込む生活をし、徳を積んだ者であっても、ほとんど体験できないのが、大安楽往生である。大安楽往生については、概要の項目に書いたので、参照願いたい。ドストエフスキーは、その実例を自分で見た体験がなかったのだろう。もし彼が自分で大安楽往生を実際に見たことがあったならば、ゾシマの死とアレクセイの成長の場面の記述は、大きく変わっていたに違いない。
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/85eaa80d842dba230ac38ec805853382

 次回に続く。

■追記

 本項を含む拙著「キリスト教の運命~終末的完成か発展的解消か」第2部は、下記に掲載しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion12-5b.htm

外国人政策4~最終的な受け入れ見込人数は何人か

2019-02-15 09:40:21 | 移民
●多くの問題点が指摘されている(続き)

③最終的な受け入れ見込み人数は、何人か?
 審議過程で安倍首相は、受け入れ人数の上限を、改正法の成立後、法務省令の「分野別運用方針」で定め、それを5年間は守るという考えを示した。政府は、5年間で最大34万5千余人との試算を示したが、山下法相は、この数字は上限をつくるための「素材」だと言った。こうした発言は、5年間という期間は最初の期間であり、また34万5千余人もその間の見込みであって、これを第1次の計画として、以後、外国人労働者受け入れを継続していこうという意図が見え見えである。
 いわばこの第1次外国人労働者受け入れ拡大法に関し、受け入れの分野別の内訳や上限について、政府は法律に明記すると、景気の動向や雇用情勢の変化に対し機敏な運用ができないという。だが、この最も重要な部分を省令で定めるというのは、官僚への丸投げである。改正法には、必要とされる人材が確保されたと所管省庁が判断した場合は、受け入れを停止する措置を盛り込んではある。だが、官僚によって恣意的な運用がされかねない。なし崩しに受け入れが拡大し続け、日本の総人口のかなりの割合を外国人が占めることになりかねない。
政府には、どの分野でどれだけ受け入れたいのか、5年間に限らず、中長期的な見通しを示す責任がある。

④日本人と仕事の奪い合いになる恐れはないか?
 政府は、人手不足を理由に、外国人労働者の受け入れ拡大を急いだ。しかし、日本人で非正規雇用で不利益を被っている若い世代や、低賃金労働を余儀なくされている国民が多数存在する。働く意欲があるのに機会を得られない女性や高齢者もいる。現状のまま外国人労働者の受け入れを増やすと、一時的な人手不足の解消にはなっても、日本人も外国人もともに低い賃金水準に抑えられる恐れがある。
 政府がまず行うべきことは、日本国民の雇用安定と生活向上でなければならない。

⑤低賃金によってまたデフレになる恐れはないか?
 日本人、外国人労働者とも低い賃金に抑えられると、アベノミクスの成果を後退させ、再びデフレに陥る可能性がある。また、日本の若い層の賃金が上がらないと、経済的な理由によって結婚、出産が抑えられ、少子化が助長される。

⑥従来の技能実習生制度をどうするか?
 平成5年(1993年)、外国人技能実習制度が導入された。この制度は「技能実習」や「研修」の在留資格で日本に在留する外国人が報酬を伴う技能実習、或いは研修を行う制度である。この制度のもと、わが国は毎年、海外から技能実習生を受け入れてきた。平成20年代末には、その人数は20万人規模となった。この実績をもとに、制度を整備すべく、平成29年(2017年)11月1日に外国人技能実習法が施行された。同法において、新たな外国人技能実習制度は「我が国で開発され培われた技能、技術又は知識の開発途上国等への移転を図り、その開発途上国等の経済発展を担う『人づくり』に協力することを目的とする制度」と定義された。それゆえ、あくまで開発途上国等の人材育成に協力するための制度であって、「技能実習は、労働力の需給の調整の手段として行われてはならない」と明記されている。日本の人手不足を補うために技能実習生を労働力として利用してはいけないものである。
 技能実習生は、平成20年(2008年)末に約10万5千人だったが、30年6月末には約28万6千人へと、約2.7倍に増えた。この増加は、日本に在留する外国人労働者を増やそうとしたことによる結果ではない。技能実習生は労働者でありながら、事実上労働基準法を適用しない。そのため、一部企業が技能実習生を安価な労働力として利用し、低賃金で酷使していた。また、違法残業、賃金未払いもある。暴行も行われていることが分かっている。
 こうしたことが要因と思われるが、技能実習生は年間約6千人が職場から逃亡し、行方不明になっている。47人に1人という割合である。実習生の多くを占める中国人は、昨年3116人が失踪した。平成23年(2011年)からの5年間では1万580人にのぼるという。その多くは、不法滞在している模様である。
 入国管理局は失踪者の行方を把握しておらず、警察も事件が発生するまで動かない。その結果、失踪者は野放しで、不法移民が増大し、その数は累計で数万人に達している。法務省は、昨30年、失踪した技能実習生2870人を対象に調査を実施した。失踪した実習生の失踪の動機などを記載した「聴取票」を野党が分析した。その結果、67%に当たる1939人の賃金が最低賃金を下回っていたことが判明した。
 こうした技能実習制度の問題点を把握して、抜本的改善を行うことが必要だが、その実態把握と改善のされないまま、今回の法改正が行われた。
 山下法相は、技能実習生と新たな在留資格の関係は「別物だ」と繰り返し強調した。だが、政府は新在留資格で5年間に受け入れる外国人労働者の45%は、日本で計3年間の実習を積んだ技能実習生からの移行とみている。
 改正法の下でも技能実習生制度は継続する。その制度の改善か廃止が必要である。

 次回に続く。