●修行(続き)
・悟りへの道の諸段階
大竹によると、インドの大乗仏教では、われわれ自身に内在する真如は仏性等と呼ばれた。仏性とは、衆生に備わっている仏と同じ本性、または仏となるべき因をいう。大竹は、仏性を「心の本性」としている。大竹によると、シナの大乗仏教では、仏性を「初めて実見すること」が「見性」と呼ぶようになった。禅宗を中心として、インド仏教における見道に該当するものを「見性」と呼んだ。日本の大乗仏教では、禅宗を中心として、見性に該当するものを「悟り」と呼ぶようになった。
日本の大乗仏教でいう「悟り」は、一般的に言えば、覚醒体験である。これは言い換えると、「目覚め」の体験である。「目覚め」とは、真理、宇宙の真相、真の自己に目覚めることである。無明の状態にあって眠っていた者が精神的に目覚めて、真理、宇宙の真相、真の自己を悟ること、すなわち明確に理解し、会得することである。
悟りには、段階がある。いくらか修行を重ねれば、一気に悟りに到達できるというものではない。大竹は、仏教における覚醒体験を「悟り体験」と呼び、「悟り体験」には、(1)自他亡失体験、(2)真如顕現体験、(3)自我解消体験、(4)基層転換体験、(5)叡智獲得体験の5段階があるとする。
大竹によると、第一段階の自他亡失体験とは、「いまだ通常の心である“自我の殻”を残しているにせよ、自己と他者との隔てを亡失して、ただ心のみとなる体験」である。第二段階の真如顕現体験とは、「“自我の殻”を破って、真如が顕現する体験」である。真如とは、法無我である。第三段階の自我解消体験とは、「真如が顕現したことによって、通常の心である“自我の殻”が解消される体験」である。第四段階の基層転換体験とは、「“自我の殻”が解消されたことによって、存在の基層が従来の基層から転換する体験」である。存在の基層とは仏教で言う五蘊であり、現代的に言えば心(精神)と身体(肉体)である。第五段階の叡智獲得体験とは、「存在の基層が従来の基層から転換したことによって、かつてない叡智を獲得する体験」である。第三段階である自我解消体験と、第四段階である基層転換体験とは、第二段階である真如顕現体験の直後にほぼ同時に起こる。第五段階である叡智獲得体験はそれらが終わった後に起こる。
ただし、私見を述べると、叡智獲得体験にまで至ったとしても、まだ三道の最初である見道の段階であり、その先に修道、無学道があると考えられる。このことは、叡智獲得体験をしている聖人でさえ、ようやく預流向の階位にあるにすぎないことを意味する。
悟りへの道の諸段階について詳述するには、インド、シナ、日本における仏教の歴史を踏まえる必要がある。そこで、第2部「仏教の歴史と現在」でインド仏教、シナ仏教について書いたのちに、日本仏教の項目で詳しく記すことにする。
●信仰
出家して修行をして解脱を目指すのは容易なことではない。そこで、釈迦の入滅後、仏や菩薩に帰依すれば救済されるという教えが広まった。これは、信仰による救いの道である。
仏教における信仰は帰依と表現される。唯一神教とは異なり、諸仏や菩薩が信徒に対して絶対服従を求めることはない。
帰依信仰による救いの道を説く事例の一つが、阿弥陀信仰である。阿弥陀信仰は、現世に出現した釈迦仏への信仰ではなく、西方の極楽浄土にいるとされる阿弥陀仏または阿弥陀如来への信仰である。阿弥陀仏または阿弥陀如来を信仰することで、死後、極楽浄土に往生できるとする。
「往生」という漢語は、往と生の2文字で構成されるが、サンスクリット語の言語である upa-✓pad、ut-✓pad、✓dhr等は、「生まれる」という意味の言葉である。それゆえ、「往生」は「生まれること」を意味する。極楽に往(い)くことが、そこに生まれることなのである。
インドの阿弥陀信仰は、浄土に生まれた後、阿弥陀如来の説法を聞いて修行をして悟ることを目指す。それゆえ、信仰だけでなく、修行も必要だとする。シナでは、浄土信仰は独立した宗派を形成することがなかった。シナで発生した禅宗は、禅の修行を行う宗派だが、浄土思想を取り入れ、禅浄の融合が進んだ。これは、修行と信仰の両立の道である。ところが、わが国における阿弥陀信仰は、浄土真宗の開祖・親鸞の教えが典型的であるように、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、誰もが阿弥陀如来のいる極楽浄土に往生できると信じるようになった。信仰だけにより、修行は必要ないという考え方である。
出家して一生を厳しい修行に打ち込んでも、容易に解脱できないのに、帰依信仰のみで来世で救われると説くのは、人々の心の支えや慰めにすぎず、真の救済ではない。
●救済
仏教における救済とは、解脱である。解脱とは、一切の煩悩から脱して自由になることである。解脱して涅槃に入った者は、輪廻転生の世界から出て、もはや生まれ変わってくることはないとされる。
救済は、本来、他者による救いをいう。解脱を救済というのは、修行を通じた自己の救済である。これを自力救済という。これに対して、他者の助けによる救済の道が現れた。これは信仰による救済の道であり、他力救済である。
いずれにしても、仏教の教えは因果説だから、自分が救われる原因をつくらないと救済を得ることはできない。
次回に続く。
************* 著書のご案内 ****************
『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
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・悟りへの道の諸段階
大竹によると、インドの大乗仏教では、われわれ自身に内在する真如は仏性等と呼ばれた。仏性とは、衆生に備わっている仏と同じ本性、または仏となるべき因をいう。大竹は、仏性を「心の本性」としている。大竹によると、シナの大乗仏教では、仏性を「初めて実見すること」が「見性」と呼ぶようになった。禅宗を中心として、インド仏教における見道に該当するものを「見性」と呼んだ。日本の大乗仏教では、禅宗を中心として、見性に該当するものを「悟り」と呼ぶようになった。
日本の大乗仏教でいう「悟り」は、一般的に言えば、覚醒体験である。これは言い換えると、「目覚め」の体験である。「目覚め」とは、真理、宇宙の真相、真の自己に目覚めることである。無明の状態にあって眠っていた者が精神的に目覚めて、真理、宇宙の真相、真の自己を悟ること、すなわち明確に理解し、会得することである。
悟りには、段階がある。いくらか修行を重ねれば、一気に悟りに到達できるというものではない。大竹は、仏教における覚醒体験を「悟り体験」と呼び、「悟り体験」には、(1)自他亡失体験、(2)真如顕現体験、(3)自我解消体験、(4)基層転換体験、(5)叡智獲得体験の5段階があるとする。
大竹によると、第一段階の自他亡失体験とは、「いまだ通常の心である“自我の殻”を残しているにせよ、自己と他者との隔てを亡失して、ただ心のみとなる体験」である。第二段階の真如顕現体験とは、「“自我の殻”を破って、真如が顕現する体験」である。真如とは、法無我である。第三段階の自我解消体験とは、「真如が顕現したことによって、通常の心である“自我の殻”が解消される体験」である。第四段階の基層転換体験とは、「“自我の殻”が解消されたことによって、存在の基層が従来の基層から転換する体験」である。存在の基層とは仏教で言う五蘊であり、現代的に言えば心(精神)と身体(肉体)である。第五段階の叡智獲得体験とは、「存在の基層が従来の基層から転換したことによって、かつてない叡智を獲得する体験」である。第三段階である自我解消体験と、第四段階である基層転換体験とは、第二段階である真如顕現体験の直後にほぼ同時に起こる。第五段階である叡智獲得体験はそれらが終わった後に起こる。
ただし、私見を述べると、叡智獲得体験にまで至ったとしても、まだ三道の最初である見道の段階であり、その先に修道、無学道があると考えられる。このことは、叡智獲得体験をしている聖人でさえ、ようやく預流向の階位にあるにすぎないことを意味する。
悟りへの道の諸段階について詳述するには、インド、シナ、日本における仏教の歴史を踏まえる必要がある。そこで、第2部「仏教の歴史と現在」でインド仏教、シナ仏教について書いたのちに、日本仏教の項目で詳しく記すことにする。
●信仰
出家して修行をして解脱を目指すのは容易なことではない。そこで、釈迦の入滅後、仏や菩薩に帰依すれば救済されるという教えが広まった。これは、信仰による救いの道である。
仏教における信仰は帰依と表現される。唯一神教とは異なり、諸仏や菩薩が信徒に対して絶対服従を求めることはない。
帰依信仰による救いの道を説く事例の一つが、阿弥陀信仰である。阿弥陀信仰は、現世に出現した釈迦仏への信仰ではなく、西方の極楽浄土にいるとされる阿弥陀仏または阿弥陀如来への信仰である。阿弥陀仏または阿弥陀如来を信仰することで、死後、極楽浄土に往生できるとする。
「往生」という漢語は、往と生の2文字で構成されるが、サンスクリット語の言語である upa-✓pad、ut-✓pad、✓dhr等は、「生まれる」という意味の言葉である。それゆえ、「往生」は「生まれること」を意味する。極楽に往(い)くことが、そこに生まれることなのである。
インドの阿弥陀信仰は、浄土に生まれた後、阿弥陀如来の説法を聞いて修行をして悟ることを目指す。それゆえ、信仰だけでなく、修行も必要だとする。シナでは、浄土信仰は独立した宗派を形成することがなかった。シナで発生した禅宗は、禅の修行を行う宗派だが、浄土思想を取り入れ、禅浄の融合が進んだ。これは、修行と信仰の両立の道である。ところが、わが国における阿弥陀信仰は、浄土真宗の開祖・親鸞の教えが典型的であるように、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、誰もが阿弥陀如来のいる極楽浄土に往生できると信じるようになった。信仰だけにより、修行は必要ないという考え方である。
出家して一生を厳しい修行に打ち込んでも、容易に解脱できないのに、帰依信仰のみで来世で救われると説くのは、人々の心の支えや慰めにすぎず、真の救済ではない。
●救済
仏教における救済とは、解脱である。解脱とは、一切の煩悩から脱して自由になることである。解脱して涅槃に入った者は、輪廻転生の世界から出て、もはや生まれ変わってくることはないとされる。
救済は、本来、他者による救いをいう。解脱を救済というのは、修行を通じた自己の救済である。これを自力救済という。これに対して、他者の助けによる救済の道が現れた。これは信仰による救済の道であり、他力救済である。
いずれにしても、仏教の教えは因果説だから、自分が救われる原因をつくらないと救済を得ることはできない。
次回に続く。
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『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
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