ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

改憲論17~安保法制で何が改善されたか

2018-05-31 13:26:47 | 憲法
5.安全保障関連法制による改善

(1)安保法制で何が改善されたか

 安全保障関連法制は、国会での激しい論議の末、平成27年(2015年)9月30日に成立した。平和安全法制とも呼ばれる。安全保障関連法制は、平和安全法制整備法と国際平和支援法の総称である。以下、安保法制と略称する。
 安保法制は、安全保障に関する10の既存法を改正し、1の新法を制定したものである。以前の既存法は、つぎはぎのため切れ目があり、一貫性・整合性がなかった。そこで既存法を一括して改正する平和安全法制整備法案を提示した。また、それまで国際平和活動は特措法で対処してきたのを改め、恒久法とする国際平和支援法案も同時に提示した。これらを合わせた安保法制が、国会で賛成多数で成立した。
 こうしてできた安保法制の内容は、日本の平和と安全に関するものと、世界の平和と安全に関するものに分けられる。主な事柄を挙げる。

①日本の平和と安全に関するもの。

<1> 有事への対処
 自衛権を行使するのは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」事態に限るとした。これを「存立危機事態」と呼ぶ。
 わが国への武力攻撃には従来通り、個別的自衛権を行使するが、新たに、日本が中国等に侵攻された時や朝鮮半島等で戦争が起こった時を想定し、集団的自衛権を限定的に行使できるようにした。それによって、戦争抑止力を高めることを狙っている。
 集団的自衛権の限定的行使として武力を行使するのは、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が発生した場合で、わが国にとって「明白な危険」があるとともに、「他に適当な手段がない」こと、「必要最小限度」の範囲であることという三つの要件を満たす必要があるとした。それゆえ、この場合の武力行使は厳しく限定されている。

<2> 有事でも平時でもない中間的事態への対処
 警察・海上保安庁が警察行動を行う平時でも、自衛隊が防衛出動する有事でもない中間的な事態に対処できるようにした。

<2-1> グレーゾーン事態への対処
 武力攻撃を受けるまでには至っていないが、国家の主権が侵害されている事態をグレーゾーン事態と呼ぶ。漁民を装った武装集団が離島へ上陸した場合などがこれにあたる。こうした事態では緊急な判断が必要であるとして、速やかな臨時閣議開催が困難なときは、首相の主宰により、電話等により各閣僚の了解を得て閣議決定することとした。

<2-2> 重要影響事態への対処
 日本有事や周辺有事ほど深刻ではないが、放置すれば日本の平和と安全に重要な影響を与える事態を、「重要影響事態」と呼ぶ。従来の「周辺事態」を「重要影響事態」に改め、「日本周辺」の概念を外した。自衛隊が地理的な制約なしに活動でき、また米軍以外の国々の軍隊をも後方支援できるようにした。

<3> 平時の活動
 海外でテロに襲われた日本人を自衛隊が救出に行けるようにした。当該国の同意があれば、その国の警察・軍隊とともに救出活動を行う。

②世界の平和と安全に関するもの。

<1> 国際平和共同対処事態
 国際社会の平和と安全を脅かし、日本が協力する必要がある事態を「国際平和共同対処事態」と呼ぶ。国際平和共同対処事態では、「国際平和支援」の活動のため、自衛隊が多国籍軍などを後方支援することができるようにした。自衛隊の派遣は、国連総会か国連安全保障理事会の決議を要件とした。

<2> 駆けつけ警護
 日本人NPO職員・他国軍等に対する「駆けつけ警護」ができるようにした。従来、武器使用は正当防衛・緊急避難による自己保存目的に限っていたが、任務遂行目的の使用を可能にした。

<3> 人道復興支援
 人道復興支援は、国連決議がない場合でも、EU等の国際機関の要請があれば、自衛隊を派遣するとした。

 以上が安保法制の主な内容である。

 次回に続く。
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キリスト教53~ローマの国教へ

2018-05-30 12:20:33 | 心と宗教
●ユダヤ教におけるエルサレム神殿の崩壊

 キリスト教徒がローマ帝国で激しい迫害を受けていた時代、ローマ人総督ピラトが悪政の限りを尽くしたため、ユダヤ人は紀元後66年にローマ帝国からの独立を目指して、大反乱を起こした。これを第1次ユダヤ戦争という。だが、反乱は70年に鎮圧され、ローマ軍によってエルサレムの都市と神殿が破壊された。その結果、ユダヤ人は祖国を喪失し、流浪の民となった。
 エルサレム神殿の崩壊でサドカイ派が没落すると、ファリサイ派が90年代にラビたちによるヤムニア会議を開催し、聖書はヘブライ語で書かれた39の文書で構成されることを決定した。当時キリスト教では、マルコ、マタイ、ルカの共観福音書ができあがっていた。キリスト教徒は、それ以外にギリシャ語訳の七十人訳聖書(旧約聖書)と使徒による手紙等を持っていた。ユダヤ教でユダヤ教の聖典を定める動きが起ったのは、この動きへの対抗ともなっていた。ヤムニア会議は、七十人訳聖書の一部の文書はヘブライ語がもとになっていないとして、外典とした。また、キリスト教徒は、会堂(シナゴーグ)から追放されることになった。この会議によって、キリスト教はユダヤ教と決定的に分離した。
 第1次ユダヤ戦争後、キリスト教ではエルサレム教会の権威が失墜し、ギリシャ語を話す国際的なユダヤ人や非ユダヤ人が活動の中心になっていた。ヤムニア会議の結果、キリスト教がユダヤ教とは別個の宗教となったことにより、一層脱民族的で普遍性の高い宗教へと成長していった。
 ユダヤ人は132年に再び反乱を起こした。これを第2次ユダヤ戦争という。この反乱もまた鎮圧された。その結果、ユダヤ人は、共同体の中心地をガリラヤに移した。一方、キリスト教は、ローマ帝国で迫害を受けながらも信者を増やし続けた。1世紀末から2世紀にかけて、原始キリスト教団は、名実ともに教会と呼ばれるべきものへと成長した。ローマ帝国内の制度的な教会となったものを、古カトリック教会という。「古」とつけるのは、後にローマ・カトリック教会と東方正教会に分かれる前のカトリック教会として区別するためである。

●ローマ帝国での迫害から公認、国教へ

 キリスト教がローマ帝国内に広まっていくと、帝国による迫害を受けた。迫害は、1世紀中葉から4世紀初頭まで断続的に行われ、多くの殉教者が出た。迫害の原因は、宗教的なものである。ローマ帝国はもともと多神教の国家であり、その神々を偶像として否定する唯一神の信仰は、弾圧された。また、キリスト教徒は、東方社会の影響でローマでも行われていた皇帝崇拝に従わなかったから、取締りの対象とされた。
 皇帝ネロの迫害によって、64年に使徒ペトロとパウロが殉教したという説がある。1世紀後半のドミティアーヌス帝は自分を「主にして神」と称した。自分への礼拝を拒否したキリスト教徒を迫害した。キリスト教信者は、たびたび円形競技場でライオンの餌にされた。それでも信者は増え続け、教会は2世紀末にはローマ帝国の全域に組織を広げていたと推測される。
 ディオクレティアヌス帝は、最大の迫害者だった。303年の大迫害は、それまでの迫害が主に聖職者や信者個人に向けられていたのに対し、教会堂の破壊や聖典の焚書によって、キリスト教の撲滅を図るものだった。だが、キリスト教徒は人口の1割に達していたという推計があるほどに増加しており、もはや皇帝の権力を以てしても撲滅はできなかった。
 なぜ、迫害をうけたにも関わらず、キリスト教徒は増え続けたのか。小田垣雅也は著書『キリスト教の歴史』に次のように書いている。「その理由は経済的にも精神的にも不安定であった当時のローマ社会にあって、キリスト教会が人々に安らぎを与えたからである。実際、当時教会は失業者に仕事を斡旋し、多少の基金も持ち、教会の中では社会的身分を越えた交わりがあった。要するに教会は信仰を離れても、病気、失業、投獄、死等に直面している人々の力となったのである」と。
 大迫害に耐えたキリスト教徒は、逆にローマ帝国で公認を獲得するようになった。そのきっかけは、皇帝コンスタンティヌス1世の改宗である。伝説によると、312年にコンスタンティヌスは、人生最大規模の戦いに臨んでいた時に夢を見た。自軍の倍の軍勢と対峙したコンスタンティヌスは、翌日の戦いで自分は死ぬだろうと覚悟した。ところが、その夜、夢に天使が現れ、十字架の印を携えて、「あなたはこの印を用いれば勝利するだろう」と語った。コンスタンティヌスは、すぐさま自軍の盾を十字架の印で飾るように命じた。翌日彼はミルヴィス橋合戦で勝利を収め、ローマ帝国の支配を確かなものとした。そして、キリスト教への血債を償うことを誓ったという。
 もっともコンスタンティヌスの夢に現れたのは、キリスト教的なものではなかったようである。また、彼のキリスト教への改宗は、ずっと後のことで、洗礼を受けたのは、臨終の間際だった。
 ともあれ313年に、コンスタンティヌス大帝とリキニウス帝はミラノ勅令を出し、それによってキリスト教は帝国内の公認宗教の地位を得た。
 当時キリスト教では、ギリシャ哲学を摂取した神学の発展に伴い、教義を巡る争いが激しくなっていた。特にキリストの位置付けをめぐるアリウス派とアタナシオス派の論争は、暴力を伴う争いを招くまでに過激化していた。コンスタンティヌスは、それを解決するために、325年に宗教会議を招集した。全地のキリスト教会の代表者が初めて集まり、公会議を開いた。これが第1回ニカイア公会議である。皇帝がキリスト教に介入したのはこのときが最初である。コンスタンティヌスの意図は、ローマ帝国の求心力低下という課題解決のためにキリスト教の勢力を利用することにあった。公会議の時点で、コンスタンティヌスはキリスト教徒ではなかった。彼が洗礼を受けたのは、臨終の間際である。なお、ニカイア会議の内容については、後に項目を改めて書く。
 コンスタンティヌス帝は、330年に帝国の首都をトルコ北西部に移し、都市名をビュザンティウムから自分の名にちなんだコンスタンティノポリス(現イスタンブール)と改称した。
 コンスタンティヌスの後を継いだユリアヌスは、多神教ないし太陽神信仰に傾き、キリスト教への優遇政策を廃止した。キリスト教側からは「背教者」と呼ばれる。
 その後、テオドシウス1世はキリスト教徒を保護し、380年にローマ帝国の国教と宣言した。さらに392年にはキリスト教以外の宗教の信仰を禁止した。キリスト教国家となったローマ帝国において、ユダヤ教徒の共同体は弾圧された。
 ところで、初期キリスト教徒たちはユダヤ教徒のように土曜日を安息日としていたが、ユダヤ教との対立の中で、徐々にキリストの復活した日とされる日曜日を主の日、主日とし、祝日とするようになった。
 主日を日曜日とも呼ぶようになったのは、正式には4世紀からである。321年にコンスタンティヌス帝が日曜日強制休業令を強制し、364年にラオディキア教会会議によって日曜日の安息日化が正式に決定された。それまでローマ帝国では、日曜日は太陽神の日だった。380年にローマ帝国がキリスト教を国教としたとき、キリスト教ではキリストを光とするところから、真の太陽はキリストであるとして、日曜日を主キリストの日としたのである。
 テシオドシウス1世は、395年に没した。それをきかっけに、ローマ帝国は東西に二分された。これに伴ってキリスト教会も東西に二分された。
 西ローマ帝国は、ゲルマン民族の大移動や帝位を巡る内紛などで、没落の道を進んだ。帝国の政治的・経済的混乱の中でキリスト教会は消滅することなく存続し、次の時代を準備した。

 次回に続く。
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改憲16~自民党の平成24年改正原案

2018-05-29 09:32:01 | 憲法
4.自民党の過去の改正案とほそかわ私案(続き)

 私が上記の憲法改正私案を出した6年後、自民党は平成17年版を改訂した案を発表した。これが平成24年版の憲法改正原案である。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
●自民党平成24年版憲法改正原案
 
第2章 安全保障

(平和主義)
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。

(国防軍)
第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
3 国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。

(領土等の保全等)
第9条の三 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 上記の24年版では平成17年版にはなかった自衛権が明記された。また自衛軍が国防軍に変わった。軍務及び機密に関する裁判のために審判所を置くことが新たに盛られた。17年版の9条の二、三を一つにまとめた。そのうえで9条の三に領土等の保全等を定めたものとなっている。優れた案だと思う。ただし、私案の方が安全保障条項としての要素を網羅しており、より徹底した部分があると自分では思っている。
 自民党は平成24年の時点でこのようによく練り上げた案を作り上げていた。当時、自民党は、野党だったが、その年12月、安倍晋三総裁のもと衆議院総選挙で勝利し、政権に返り咲いた。ここに第2次安倍内閣が成立した。
 安倍首相は、自分の内閣において、自民党の立党以来の課題である憲法改正を実現することを最大の使命とし、改正への取り組みを行ってきている。
 だが、第2次安倍政権でも、憲法改正は容易に進んでいない。その間、中国・北朝鮮による我が国への軍事的脅威は増大する一方であり、安倍政権は現行憲法のもとでも可能な範囲で安全保障を強化する必要に迫られた。そこで行ったのが、安全保障法案の提出である。

 次回に続く。
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キリスト教52~パウロの活躍と使徒の時代の終り

2018-05-28 08:54:32 | 心と宗教
●パウロの活躍と使徒の時代の終り

 ローマ帝国で迫害が始まってからも、キリスト教徒は宣教を広げた。この宣教の拡大は、パウロの活躍によるところが大きい。
 パウロについては、概要の使徒の項目に書いたが、もとはユダヤ教のファリサイ派に属し、その博士としてキリスト教徒を迫害していた。しかし、ある時、復活したイエスが現れ、「目からうろこが落ちる」体験をしてから、熱烈なキリスト教伝道者となった。ユダヤ人だけでなく、多くの非ユダヤ人に福音を伝えた。小アジア、マケドニア、ギリシャ等に3回の伝道旅行をして、いわゆる異邦人教会を多く設立した。またキリスト教の教義の確立に大きな貢献をした。
 パウロの布教方針は、エルサレム教会の方針と対立した。エルサレム教会の最高指導者ペトロは他の使徒とともに逮捕され、代わりに指導者になったのが、イエスの異母兄または従兄などと考えられている小ヤコブだった。
 長老ヤコブを中心とするエルサレム教会は、禁欲主義の下に財産を共有して生活するユダヤ人の信仰共同体的な集団であり、エルサレムを離れた布教活動には積極的でなかったと見られる。しかし、パレスチナ以外の各地に離散したギリシャ語を話す国際的なユダヤ人キリスト教徒が積極的な伝道を行い、異邦人の信者が増加していった。彼らの拠点の一つとしてシリアのアンティオキアに教会が設立されて、一定の力を持つようになった。パウロはアンティオキア教会を活動拠点としたが、この教会では、布教のために異邦人の文化への適合や慣習の利用を行った。その一例が、ペルシャの太陽神を崇拝するミトラ教による冬至の祭礼クリスマスの取入れである。ミトラ教は、キリスト教が広まる前、ローマ帝国で大流行した。その祭礼を取り込んだのである。
 パウロとヤコブは、信仰内容やイエスに関する捉え方、洗礼の概念などを巡って、互いに譲らずに対立した。ヤコブは、いわばキリスト教イエス派が持っていたヘブライ主義を保ち、ユダヤ教の伝統を守ろうとした。これに対し、パウロはユダヤ教の民族文化を脱した普遍的な宗教を目指していた。
 ヤコブは、紀元49年ころエルサレムで使徒会議を主宰し、エルサレム教会とアンティオキア教会の対立を緩和する案を示めして解決を図った。彼が示したのは、異邦人改宗者は「絞殺した動物、血、偶像礼拝、不品行」を忌避すれば、割礼等の他の律法の遵守は免除されるという案である。
 この案で合意が成立すると、エルサレム教会とアンティオキア教会は別の管区を分け持ち、互いに干渉や越権行為を行わないこととした。その後設置された管区でもそれぞれの独立性と自治性を尊重することが原則となった。
 これをパウロの側に立って見れば、パウロはキリスト教を脱ユダヤ化し、異民族にも広く受け入れられる普遍性のある宗教に発展させることに成功したということになる。これは、世界宗教となったキリスト教において、パウロの大きな功績である。
 またパウロの別の功績は、内面と外面の二分を行ったことである。キリスト教は、ローマ帝国の法律に反するとの理由で大弾圧を被った。そこで生き延びるためにパウロは、内心と行動を区別し、キリスト教徒は、内面において堅くイエス・キリストを信じていれば、外面はローマ帝国の市民として帝国の規律に従ってよいとした。心の中でイエスの教えを信じていれば、外面的にはそれに反する行動をとっても許されるということである。こうした内外二分法によって、キリスト教徒は信仰を失うことなく、外面的行動を変え、ローマ帝国で生き延びることができることができた。もし内心と行動を一致させなければならないとしたら、キリスト教は弾圧によって絶滅していただろう。その点では、パウロの最大の功績と言えるだろう。
 パウロ自身は、ローマ帝国の迫害を受け、「不安を与える新奇な事を教唆した者」として斬首刑に処せられた。その時期は早くて62年、遅くとも64年とされる。ヤコブもまた62年に処刑されて殉教した。
 彼らと同じころ使徒筆頭者のペトロもまた殉教した。ペトロは、イエスが「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(マタイ書16章18~19節)と言ったとして、キリスト教会の権威の起源とされている。ペトロは皇帝ネロの迫害により、64年に殉教したとされる。64年から67年の間という説もある。ローマで死んだとされ、ペトロ殉教の地にあるローマ教会が各地の教会のうち中心的な教会とされた。ただし、ペトロがローマに来たかどうかは確証されていない。
 イエスの直弟子である使徒や彼らと同世代のパウロらの死によって、キリスト教の歴史の一つの段階が終わった。イエスの使徒が原始キリスト教団を設立して伝道活動を開始してから、彼らの死までを厳密な意味での原始キリスト教団の時代ということができる。その後は、福音書を中心とする新約聖書という書物に基づく信仰活動を行う時代となる。
 ローマ帝国において制度的に教会が整備されるのは、1世紀末から2世紀にかけてだった。その時に成立した教会を古カトリック教会という。そこで、広い意味での原始キリスト教団の時代は、古カトリック教会の成立までとすることができる。古カトリック教会は、ローマ帝国の東西分裂によって東西の教会に分かれるが、最終的に1054年に分裂した。それゆえ、古カトリック時代は、この東西教会の最終分裂までということになる。この間、より細かく見て、使徒の世代以後の時代を、教父時代と呼ぶことができる。教父時代は、後に述べる教父が活躍した時代で、1世紀後半から7~8世紀までを指すものである。

 次回に続く。
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改憲論15~自民党の過去の改正案とほそかわ私案

2018-05-27 08:41:59 | 憲法
4.自民党の過去の改正案とほそかわ私案

 次にこれまで書いたことを踏まえて、憲法第9条の改正を目指す動きについて述べる。
 憲法改正への動きを最も強く推進している政党は、自民党である。自民党は、昭和30年(1955年)の立党宣言に「自主独立の権威の回復」の文言を掲げた。だが、その後、自主独立の権威回復の要となる憲法の改正のできないまま、半世紀が経過した。そこで自民党は、平成17年(2005)の立党50年に当たって、「新綱領」の第一に「新しい憲法の制定を」を掲げた。
 この年、自民党は、憲法改正草案を発表した。そのうち第9条は、次のような案となっていた。

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●自民党平成17年版憲法改正草案より

第二章 安全保障

(安全保障と平和主義)
第九条 日本国民は、諸国民の公正と信義に対する信頼に基づき恒久の国際平和を実現するという平和主義の理念を崇高なものと認め、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する平和国家としての実績に係る国際的な信頼にこたえるため、この理念を将来にわたり堅持する。
2 前項の理念を踏まえ、国際紛争を解決する手段としては、戦争その他の武力の行使又は武力による威嚇を永久に行わないこととする。
3 日本国民は、第一項の理念に基づき、国際社会の平和及び安全の確保のために国際的に協調して行われる活動に主体的かつ積極的に寄与するよう努めるものとする。

(自衛軍)
第九条の二 侵略から我が国を防衛し、国家の平和及び独立並びに国民の安全を確保するため、自衛軍を保持する。
2 自衛軍は、自衛のために必要な限度での活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和及び安全の確保のために国際的に協調して行われる活動並びに我が国の基本的な公共の秩序の維持のための活動を行うことができる。
3 自衛軍による活動は、我が国の法令並びに国際法規及び国際慣例を遵守して行わなければならない。
4 自衛軍の組織及び運営に関する事項は、法律で定める。

(自衛軍の統制)
第九条の三 自衛軍は、内閣総理大臣の指揮監督に服する。
2 前条第二項に定める自衛軍の活動については、事前に、時宜によっては事後に、法律の定めるところにより、国会の承認を受けなければならない。
3 前二項に定めるもののほか、自衛軍の統制に関し必要な事項は、法律で定める。
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 安全保障を独立した章として新設し、現行9条の主旨を維持しつつ、9条の二、三を設けて自衛軍を保持するとしたものである。
 私は、翌年となる平成18年の拙稿「日本再建のための新憲法――ほそかわ私案」でこの案を批判し、憲法改正私案を提示した。私案の全体は、下記の掲示文をご参照願いたい。私は自民党員ではなく、どの党の党員でもない。一国民として意見を述べている者である。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08h.htm
 本稿では、第9条にかかわる私案の条文のみを掲示する。条文の番号が現行憲法と異なるのは、私案全体における通し番号になっていることによる。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
◆ほそかわ案より

(国際平和の希求、侵攻戦争の否定)

第十三条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国際紛争を解決する手段としては、戦争その他の武力の行使又は武力による威嚇を永久に行わないこととする。
2 前項の目的を達するため、我が国は国際条約を遵守し、国際紛争を平和的手段によって解決するよう努める。

(自衛権、国防の義務と権利の制限)
第十四条 日本国民は、国家の平和と独立、国民の生命と財産、自国の伝統と文化を守るため、自衛権が自然権であることを確認する。
2 わが国は、自衛権の一部である集団的自衛権を保有し、平和を維持するため、国際的な相互集団安全保障制度に参加することができる。
3 日本国民は、統治権を共有する者として、国防の義務を負う。また、国家防衛と治安維持のために、必要最低限度において、自由と権利の制限を受ける場合がある。

(国軍)
第十五条 外国からの武力攻撃やテロリズムから我が国を防衛し、国家の平和及び独立並びに国民の生命及び財産を保守するため、国軍を保持する。
2 国軍は、自衛のために必要な限度での活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和及び安全の確保のために国際的に協調して行われる活動並びに我が国の基本的な公共の秩序の維持のための活動を行うことができる。
3 国軍による活動は、我が国の法令並びに国際法規及び国際慣例を遵守して行わなければならない。
4 国軍の組織及び運営に関する事項は、法律で定める。

(国軍の統制)
第十六条 国軍の最高指揮権は、内閣総理大臣に属する。
2 内閣総理大臣は、国家安全保障会議を組織し、これを統括する。国家安全保障会議については、法律で定める。
3 前条第2項に定める国軍の活動については、第十九条に規定される非常事態宣言が発せられている場合を除いては、国会の承認を必要とし、動員には、外国の侵攻を受けた場合またはその危険が切迫した場合の他は、国会の事前の承認を必要とする。
4 前3項に定めるもののほか、国軍の統制に関し必要な事項は、法律で定める。

(軍人の地位) 
第十七条 現役の軍人は、内閣総理大臣及びその他の国務大臣になることができない。
2 軍人については、軍隊の規律を保ち、その任務を遂行するに必要な限度において、第五章の規定の適用を排除することができる。

(軍事裁判所)
第十八条 軍人は、軍事上の犯罪について、軍事裁判所の管轄に服する。
2 軍事裁判所は、最高裁判所の統括管理に服せず、内閣総理大臣がこれを統括管理する。
3 軍事裁判所の組織、訴訟手続については、法律でこれを定める。

(註 非常事態条項については、本稿では割愛する)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 次回に続く。
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キリスト教51~イエスの活動とキリスト教の誕生

2018-05-26 08:50:28 | 心と宗教
●イエスの活動とキリスト教の誕生

 ナザレのイエスが誕生したのは、パレスチナがローマ帝国の支配を受けている時代である。イエスの誕生は、紀元前7年から紀元後4年の間と考えられる。バプテスマのヨハネの洗礼を受けたイエスは、紀元30年前後にユダヤ教を改革する独自の教えを説いた。イエスはユダヤの最高法院で裁かれ、ローマ領ユダヤの総督ピラトによって死刑を宣告された。十字架刑に処せられて死んだのは、紀元後30年から32年の間と推定されている。
 その生涯については、概要の教祖の項目に書いたので、ここでは省略する。歴史的な人物としてのイエスの実像に迫ることは、極めて難しい。福音書は、伝承に基づくものであり、伝承がどこまで事実を伝えているかの検証は困難である。しかも福音書は客観的な事実のみを書こうとしたのではなく、福音書家らの信仰内容を表現した部分が多くあると考えられる。そこに記されたイエスの言葉にすら、彼らの思想が混じっている。
 イエスの死後、彼の弟子たちがイエスを救世主と信じ、その教えを広めた。それがキリスト教となった。エルサレムで最初のキリスト教の信徒共同体、原始キリスト教団が成立したのは、弟子たちによるイエスの復活信仰が確立したのと同時と考えられる。
 また、より具体的に言えば、聖霊降臨がキリスト教の始まりと言える。『使徒言行録』に、次のことが記されている。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話した」(使徒言行録2章1~4節)
 これが聖霊降誕である。聖書でいう霊とは、ヘブライ語の「ルアハ」(息吹、風)から来ており、天地万物を造り、生かす神の生命の力、働きのことを意味する。聖霊の降誕によって、使徒たちは、不思議な能力を発揮するようになり、預言や癒しのわざをしたり、異言を語ったりしたことが、『使徒言行録』に記されている。この記述が何らかの事実を伝えているとすれば、キリスト教はイエスだけでなく使徒たちもいくばくか奇跡を起こすことができたことにより、その神秘な働きによって信者を獲得していったと考えられる。
 キリスト教は、最初ユダヤ教の一宗派として存在していた。サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派の主な三つの宗派に、新たな宗派が加わったような形で始まったのである。いわばユダヤ教イエス派である。
 キリスト教の集団には、最初期にすでに複数の小集団があったことが、パウロの手紙などから分かる。そこで指導的立場にあったのは、イエスの弟子と親族を中心に形成されたエルサレム教会だった。
 キリスト教はエルサレムで始まり、シリア、小アジア半島、バルカン半島にあるアンティオキア、エペソ、ピリピ、テサロニカなどの都市を経て、ギリシャのアテネに至った。アテネは、バルカン半島のコリント、クレタ島のクレタと並んで、初期キリスト教の重要な拠点となった。キリスト教はこれらの東地中海の諸都市をつないで、帝都ローマに入った。この間、キリスト教はギリシャ文化圏を改宗させ、今日に至るまでこの地域の主要な宗教となっている。
 キリスト教が東から伝播していったローマ帝国では当時、エジプト、シリア、小アジア、ペルシャ等のオリエント諸地方に由来する宗教が流行していた。それらの教えの中心には、神話に根差す神々の物語があった。それらの神々は、最初は植物の姿をし、秋になると死に、春に再生する。エジプトの神オシリス、フリギアの神アティス、シリアの神アドニスなどがその代表的なものである。死んで復活した後に、不死に達する神々である。これらの宗教は、農耕文化に基づく植物神または大地の神を信仰するものである。象徴的に言えば、太陽は朝に生まれて、夕方に死に、翌朝に復活する。また季節的には秋から冬にかけて光が弱まり、最も日が短くなる冬至から再び光を強める。いわば、死と復活を繰り返している。ローマ帝国において、イエスの死と復活を信じるキリスト教が宣教を始めたのは、それらの宗教の流行と同時代だった。キリスト教は、多種多様な外来の宗教の一つに過ぎなかった。
 当時ユダヤ教は、ローマ帝国の認可を受けた宗教として、帝国内の各都市にあったユダヤ人の共同体であるディアスポラで活動していた。キリスト教もこの各地のディアスポラを中心に活動した。しかし、ユダヤ教との信条の違いが明らかになると、ユダヤ教の他宗派から反感を買うようになった。
 キリスト教がユダヤ教から離反すると、ローマ帝国は、帝国の認可のないものとしてキリスト教を迫害し始めた。

 次回に続く。
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改憲論14~自衛官の宣誓、国民の印象、実態と自己欺瞞

2018-05-25 12:42:10 | 憲法
(10)自衛官の宣誓

 自衛官は、任官に当たり、「ことに臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託に応える」と宣誓する。国家の主権と独立、国民の生命と財産を守るために、命をかけて任務に当たっているのが、自衛官である。そうした職業を選び、その職務に専心している人々に対して、国民は敬意を抱くべきである。
 人間には利己心と利他心があるが、国家・国民を守るために危険を顧みず、生命をかけて務めを果たすことは、最も強く利他心を発揮する行為である。国家という一つの共同体は、命を懸けてその共同体を守る者が存在しなければ、危難に遭遇した時に崩壊する。危難のうち最大のものは、主権と独立が脅かされる事態、特に外国による侵攻である。それゆえ、普通の国では、国家・国民の防衛のために貴い生命を捧げた人々に深く感謝し、篤い敬意を表し、最高の名誉を与える。
 わが国では、自衛隊創設以来、訓練中の事故等によって、約1,800人の自衛官が殉職している。殉職自衛官は、外国の侵攻に立ち向かう自衛戦争の中で斃れたのではない。だが、わが国の平和と安全を守るためには、日常の厳しい訓練が欠かせない。その訓練において殉職した自衛官に対しては、国家危急の時に散華し、靖国神社に祀られている英霊と同様に、感謝と慰霊の誠が捧げられるべきである。

(11)国民の印象

 自衛隊は、創設以来、これを違憲だとする見方があり、多くの国民から冷たい目で見られてきた。自衛官が殺人者のように罵倒されたり、自衛官の子供がいじられたりすることが長く続いた。しかし、そのような中でも、自衛員は黙々と任務に勤しむことにより、段々国民の支持を拡大してきた。特に平成23年(2011年)の東日本大震災における献身的な救助活動は、国民の多くに感動をもたらした。
 平成27年(2015年)1月に内閣府が行った世論調査では、全般的に見て自衛隊に対して良い印象を持っているか聞いたところ、「良い印象を持っている」とする者の割合は92.2%だった。内訳は「良い印象を持っている」が41.4%、「どちらかといえば良い印象を持っている」が50.8%である。一方、「悪い印象を持っている」とする者の割合は4.8%だった。内訳は「どちらかといえば悪い印象を持っている」が4.1%、「悪い印象を持っている」が0.7%だった。国民の9割以上が、自衛隊に良い印象を持っており、悪い印象を持っている者は5%に満たない。
 このように国民の大多数が自衛隊に良い印象を持っていながら、現行憲法では、自衛隊の存在は違憲だという見方が、憲法学者の約7割を占めている。この乖離を埋めることが、強く求められている。
 自衛隊は合憲のか、違憲なのか、憲法上明確な根拠規定がないとされる現状を改善する必要がある。

(12)実態と自己欺瞞

 自衛隊は、普通の国であればそれぞれ陸海空軍に相当する陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊からなり、加えて自衛隊を管理・運営する防衛省が設置されている。
 自衛隊の予算は、ほぼイギリスの軍事予算と同額で、年間5兆円を超える。また、自衛隊は、現代的な最新技術の装備と編成による22.4万人を擁する実力組織である。また、自衛隊は士気、能力、練度ともに高い。その実力は、世界第7位といわれる水準にある。この水準は、台湾、ベトナム、マレーシアなどの軍隊を上回る。これらの国々が保持する軍隊は戦力だが、自衛隊は戦力ではなく、軍隊でもないというのは、外国には通じない詭弁である。自衛隊は、最新型の戦車、巡航ミサイル、イージス艦、戦闘機、潜水艦等を保有する。国際的にみれば軍隊である。その実力は、警察力を遥かに超えている。自衛隊の実態は、自衛戦争を行うための防衛力としての戦力を持つ国防軍である。
 わが国の政府が、自衛隊は憲法の禁止する戦力ではなく、「必要最小限度の実力組織」だと欺瞞的な位置づけをしてきたのは、憲法第9条に問題があるからである。また、自衛隊は国際社会では軍隊とみなされるが、国内では軍隊ではないとされるという矛盾におかれている。これもまた欺瞞である。冒頭に第9条の問題点を述べたが、第9条を改正しなければ、わが国は自己欺瞞から脱することができない。

 次回に続く。
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キリスト教50~イエス出現の時代のユダヤ教の宗派

2018-05-24 09:26:22 | 心と宗教
●イエス出現の時代のユダヤ教の宗派

 紀元前63年、ユダヤ人共同体はローマ帝国の属領となった。紀元前37年から紀元後4年にかけては、ローマの属王ヘロデの過酷な支配を受けた。
 ナザレのイエスが出現した時代のユダヤ教には、主に三つの宗派があった。サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派である。
 サドカイ派は、祭司を中心にした貴族的な集団だった。単なる宗派ではなく、名門の家系による一つの特権階級だった。現状維持派であり、慣例を墨守した。セレウコス朝シリアの支配を受けた時代から、ヘレニズムに妥協的な態度を取り、ローマ帝国の権力に対する態度も同様だった
 サドカイ派は、当時イスラエルを統治していたユダヤ人のヘロデ大王を支持し、ローマの支配を背景としてヘロデ王朝がユダヤを統治することを望む人々の中心となっていた。
 ファリサイ派(パリサイ派とも書く)は、律法に通じ、これを忠実に守ろうとする宗派である。イエスの時代の後のことになるが、紀元70年にローマ軍によってエルサレムの神殿を破壊された後も、ユダヤ教が存続できたのは、ファリサイ派による。彼らは、儀礼の他にシナゴーグ(会堂)を中心として宗教生活を営むという独自の形態を始め、広めたからである。ユダヤ教は神殿を失い、サドカイ派が消滅した後は、ファリサイ主義とほぼ等しいものとなった。
 文明学者アーノルド・トインビーは、劣勢な文明が優勢な文明の侵略を受けた時に、優勢な外来文明に対する態度には、2つの正反対の態度があると指摘した。その典型をヘレニズム文明とユダヤ文明の出会いに見ている。トインビーは、外来文明の優秀なことを客観的に認め、それを積極的に受容しながら自らの劣勢な文明を発展させようとする者を、ヘロデ主義者と呼んだ。また、優勢な外来文明に対してあくまでも伝統文化に固執し、排外的なエスニシズム(民族主義)を取る者を、ゼロト主義者と呼んだ。ヘロデ主義の名はローマ帝国支配下のユダヤ人のヘロデ大王に基づき、ゼロト主義はファリサイ派の中でヘレニズムに反対した熱心党に由来する。ヘロデ主義とゼロト主義は、どの文明同士の「挑戦と応戦」においても現われうる二つの思潮である。先進外来文明に順応する現実的な路線か、固有の文明を保守して抵抗する路線かの違いである。
 ゼロト主義の起源は、BC167年のマカバイ戦争に遡る。ユダ王国崩壊後500年以上にわたって被支配の状態に置かれたユダヤ人の多くは、自らの国家の建国を諦め、被支配下で信仰と民族文化を保つために妥協的な考えを取った。その一方、民族独立を切望する人々もおり、その中で暴力的な手段を以って目的を遂行しようとしたのが、ゼロト主義者である。イエスの時代にもゼロト主義者がおり、新約聖書に「熱心党のシモン」の名が記されている。
 サドカイ派、ファリサイ派に次ぐ第3の宗派が、エッセネ派である。彼らは、動物犠牲をめぐる対立によってエルサレムの神殿から放逐され、荒野で厳格な共同生活を営んだ。1947年に発見された死海文書は、エッセネ派の一派であるクムラン教団の文書である。
 死海文書は、紀元より少し前の文書である。文書中のハバスク書の注解書によれば、その宗派の長である「義の教師」は、紀元前1世紀半ば頃、エルサレムの祭司たちから迫害を受け、死刑に処された。だが、弟子たちは彼が昇天したと信じ、彼が輝かしい復讐のために、世の終わりに再来することを堅く期待した。そして「義の教師」への信仰を、救われて神の国に近づくための条件としていたと見られる。こうした信仰は、キリスト教に通じるものであり、その原型とも考えられる。
 エッセネ派に限らずイエスが出現する前、パレスチナではメシア出現への待望が全土に広がっていた。イエスが誕生したのは、こうしたメシア待望が高揚していた時代においてだった。

 次回に続く。
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改憲論13~専守防衛政策の誤り

2018-05-23 08:53:35 | 憲法
(9)専守防衛政策の誤り

 現在では、あたかも憲法制定以来の原則であったかのように誤解されている「専守防衛」という言葉は、昭和40年代に入って出始めた言葉である。当初、専守防衛は、政治的な用語で、確定した定義はなかった。45年ごろ当時の中曽根康弘官房長官が言い出したらしい。
 防衛庁は、昭和45年(1970年)に『日本の防衛』を発表した。初めての防衛白書である。この白書は、「専守防衛の防衛力」という項目に、次のように記述している。
 「わが国の防衛は、専守防衛を本旨とする。専守防衛の防衛力は、わが国に対する侵略があった場合に、国の固有の権利である自衛権の発動により、戦略守勢に徹し、わが国の独立と平和を守るためのものである」。
 「専守防衛」を本旨とするとしながら、「戦略守勢」という用語も使用している。「戦略守勢」は軍事用語で、全般的にみれば守勢であるが、戦術的な攻撃を含んでいる。敵から攻撃を受けた場合は、敵基地へも反撃を行う。また、明らかに攻撃を受けることが予測される場合は、先制攻撃を行うことも含む。
 したがって、昭和45年の時点では、専守防衛といっても、防衛庁の見解は、攻撃を受けた場合の敵基地への反撃や自衛のための先制攻撃ができるものだったと考えられる。
 また、この昭和45年版防衛白書は、核兵器については、次のように述べている。
 「(註 わが国は)核兵器に対しては、非核三原則をとっている。小型の核兵器が、自衛のため必要最小限度の実力以内のものであって、他国に侵略的脅威を与えないようなものであれば、これを保有することは法理的に可能ということができるが、政府はたとえ憲法上可能なものであっても、政策として核武装しない方針を取っている」
 法理的に可能という部分は、昭和35年(1960年)の岸信介首相がそのような見解を出しており、その見解を保つものである。政策上の方針とは、佐藤栄作首相が打ち出した非核三原則を指している。これらを踏まえて、核武装は「たとえ憲法上可能なものであっても、政策として核武装しない方針」と表現している。「政策として」と明記しているので、政策の変更がありうることが含意されている。
 そして、この白書は、他国を侵略する兵器は持てないが、自衛のために攻撃する兵器は持てるという見解を示していた。B52のような長距離爆撃機、攻撃型航空母艦、大陸間弾道弾(ICBM)等は保有しないとしているが、世界最高級のB52まではいかない長距離爆撃機であれば、保有しうるということである。モスクワまで届くミサイルは持てないが、シベリア、北京に届くミサイルを持つことは可能。シーレーンを往く艦船を護衛する小型空母は可能――こういう余地があったわけである。
 現行憲法の下でも、45年版防衛白書は、このように書いていた。この白書の内容のままであれば、わが国は平成になって北朝鮮の核に右往左往することなく対応でき、外交においても、もっと毅然とした姿勢を取り得ただろう。
 ところが、この後、専守防衛という用語は、戦略守勢と異なる受動的な防御を専らとするという意味に変質した。わが国の防衛政策は、昭和40年代後半から大きく後退してしまったのである。この後退には、米中接近・日中国交回復という戦略・政略の一大変化が関係していた。
 防衛戦略の重大な変更は、日中国交回復の翌月に行われた。昭和47年(1972年)10月31日、田中角栄首相は、衆院本会議で次のように答弁した。
 「専守防衛ないし専守防御というのは、防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、もっぱらわが国土及びその周辺において防衛を行うということでございまして、これはわが国の基本的な方針であり、この考え方を変えるということは全くありません。
 なお戦略守勢も、軍事的な用語としては、この専守防衛と同様の意味のものであります。積極的な意味を持つかのように誤解されないーー専守防衛と同様の意味を持つものでございます」と。
 これが、その後、わが国の防衛政策を制約している政策の変更である。田中は、ここで専守防衛を「防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、もっぱらわが国土及びその周辺において防衛を行う」と説明した。
 田中のいう意味での専守防衛は、戦略守勢の概念とは大きく異なる。戦略守勢は、全般的にみれば守勢であるが、戦術的な攻撃を含んでいる。敵から攻撃を受けた場合は、敵基地に反撃するし、明らかに攻撃を受けることが予測される場合は、先制攻撃することも含まれる。
 ところが、田中は、戦略守勢を、自分が上記のように定義した専守防衛と同様の意味のものであるという。これは、戦略守勢の本来の意味を否定し、受身の防御をもって「専守防衛=戦略守勢」だと歪曲したものである。
 田中は、日中国交回復によって、経済的な利益を求める一方、わが国の防衛を危うくした。私は、国益を大きく損ねた重大な過失だと思う。
 専守防衛という政策は、よほど国防をしっかりしないと、国を危うくする。相手が攻めてくるのを防ぐのみでは、相手はこちらが防ぎきれなくなるまで攻め続けるだろう。よほど守備がしっかりしていないと、執拗な攻撃を防ぎきれず、敗北する。スポーツでも武道でも、彼我の力に大差がない限り、防御だけで守り通すことは、できない。
 もし専守防衛という理想を追求するなら、よほど国民の国防意識を高め、共同防衛の義務を徹底し、防備と訓練を怠らないようにしなければならない。私は、永世中立国だったスイスに学ぶべきものが非常に多いと考えているが、わが国は、スイスに比べ、国民の国防意識が著しく低く、防衛の装備も訓練もされていない。非常事態のマニュアルもない。核シェルターもない。受身一方の専守防衛政策を取りながら、国民をこのような状態に置いてきた政治家の怠慢は、許しがたい。しかし、これもまた、そうした政治家を選び、国政をゆだねてきた国民の責任である。
 昭和47年の田中答弁の後、昭和51年に「防衛計画の大綱について」が策定され、第二版の防衛白書が発表された。
 この白書では、「戦略守勢」という軍事用語が削除された。すなわち、「わが国の専守防衛に徹する防衛力‥‥」とか「わが国の防衛力は自衛に徹する専守防衛のものでなければならない」とかの表現が使われ、戦略守勢とは言っていない。ここでの専守防衛は、45年版のそれとは意味が変わっている。自衛のための攻撃を行わない受動的な防御の意味になっている。田中が「防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、もっぱらわが国土及びその周辺において防衛を行う」と定義した専守防衛に変化している。
 昭和45年版の防衛白書は、他国を侵略する兵器は持てないが、自衛のために攻撃する兵器は持てるという含意のある見解だった。ところが、昭和51年版では、専守防衛の意味の変化により、自衛に用いる攻撃的兵器が持てなくなった。
 45年版は、ICBM、B52のような長距離爆撃機、攻撃型航空母艦等は保有しないとしていたが、51年版では、中長距離弾道弾(ICBM、IRBM)、長距離爆撃機、攻撃型航空母艦等は保有しないという内容になった。45年版は、モスクワまで届くミサイルは持てないが、シベリア、北京に届くミサイルは持てたが、51年版は、北朝鮮に届くミサイルも持たない。中距離弾道ミサイル(IRBM)を持たないからである。長距離爆撃機には「B52のような」という限定がなくなり、長距離爆撃機を一切持たないことした。
 これによって、わが国は敵基地を攻撃し得る兵器を持つ意思を否定した。これは、防衛戦略の大きな後退である。憲法の規定は、変わらない。同じ9条2項のもとで、国防の制約を自ら行ったものである。
昭和47年から、わが国は受動的防御に徹する専守防衛を国是としている。相手から攻撃されるまでは絶対に手を出さない、外国に脅威を与える軍事力を持たない、非核三原則を堅持するというのが、それである。
 そのため、ここにきて北朝鮮の軍事力に脅威を覚え、「反撃」だ、「先制攻撃」だ等と言っても、現在の自衛隊では対処できない。そのための兵器を整備してきていないからである。IRBMも、長距離爆撃機も、攻撃型航空母艦もなく、相手に有効な損害を与えることはできない。これでは、侵攻を抑止する抑止力にはならない。

 次回に続く。

・関連掲示
 拙稿「核大国化した中国、備えを怠る日本~日中戦後のあゆみ」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion12c.htm 
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キリスト教49~ユダヤ教の改革と発展

2018-05-22 09:36:38 | 心と宗教
●ユダヤ教の改革と発展

 預言者の時代の途中である紀元前586年に、ユダ王国はネブカネドザル2世の新バビロニア王国に滅ぼされた。エルサレム神殿は破壊され、ユダヤ人はバビロンに捕虜として連行された。
バビロン捕囚は、約半世紀続いた。圧倒的な政治力・経済力を持つ異郷の地での生活を強いられた。王国はなく、神殿もなかった。この苦難の体験は、ユダヤ人の信仰を堅固なものとした。そこが、ユダヤ民族の非凡なところである。国は滅んでも、宗教的・民族的な共同体として生き続けるための改革が行われた。神ヤーウェとの契約を確認し直し、民族の歴史を振り返って、ユダヤ民族のアイデンティティを確立した。神ヤーウェは、この世界を創造した神であり、唯一神であると位置づけられ、創世記の天地創造の物語が記述された。この時期の代表的な預言者が、先に触れた第2イザヤである。
 新バビロニア王国は、アケメネス朝ペルシャに滅ぼされた。紀元前538年にキュロス2世が捕囚民の解放令を発布すると、ユダヤ人の一部はユダヤの地に帰還した。ここでユダヤとは、イスラエル12部族の一つユダ族の居住地の名称である。それが民族全体を表す語となった。
 帰還後、ユダヤ王朝の復興は許されず、ユダヤ人は王国の再建を断念した。捕囚期に改革・強化されたヤーウェ信仰のもとに、エルサレム神殿を再建した。これを第2神殿と呼ぶ。この神殿は、紀元後70年にローマ人によって破壊されることになるが、それまでユダヤ人はエルサレム神殿を中心として結束し、律法の遵守を実行した。
 預言者の時代に、ユダヤ人は、律法に基づく倫理的応報思想を確立し、以後、禁欲的で道徳的な生活に努めた。その生活態度は、異民族に対する怨恨の感情と結びついていた。それが、ユダヤ人の顕著な特徴の一つである。ユダヤ人が異民族支配下に置かれた捕囚期以降に成立した聖書の『詩篇』には、支配民族への怨恨が強く表れている。
 ユダヤ人は、次のように考えた。暴虐な支配者は、神を恐れぬ不道徳な生活を送っているから、やがて神の裁きを受けて滅ぼされるに違いない。われわれユダヤ人は、神の命令に背いたかつての罪を悔い改め、律法を守る生活を送っている。それゆえ、神は、われらの祈りと願いに応えて、必ず救ってくださる、と。この思いの底には、復讐心が脈打っている。
 復讐心に裏付けられた禁欲的道徳意識は、自らにさらに厳格な戒律を課すことによって強められた。そのような改革を進めたのが、紀元前5世紀中葉の律法学者エズラである。エズラは、バビロニアからモーセの律法の巻物を携えてパレスチナに来た。成分律法は、その時代までに変更不可能な啓典として成立していた。エズラは、それを変化する現実に適用する方法を教えた。エズラ以後、ユダヤ人は、成文律法より広範囲な権威に基づいて決定された法規にも、成文律法と同等の神聖な権威を認めるようになった。これを口伝律法という。広義の律法は、この口伝によるものを含む。
 エズラ以後、約1000年の間に、口伝律法は発展・集積された。口伝律法の研究と発展に携わった律法学者は、ラビと尊称された。そこで、この時代に形成されたユダヤ教を「ラビのユダヤ教」と呼ぶ。中世以後、現代に至るユダヤ教は、「ラビのユダヤ教」が確立した教義に基づく。
 「ラビのユダヤ教」の時代は、ユダヤ民族が何度も絶滅の危機にさらされた激動の時代だった。紀元前4世紀末、ギリシャのアレクサンドロス大王の東征によってヘレニズム化の波が、ユダヤ人を襲った。その政治的・文化的衝撃は大きく、ユダヤ人共同体は、存立を根底から揺るがされた。大王の死後、その帝国はマケドニア、エジプト、シリアの三つの王朝に分裂し、パレスチナはエジプトの支配下に入り、後にシリアの支配下に移った。紀元前2世紀中葉、ユダヤ人共同体を征服したセレウコス朝シリアの王アンティオコス4世は、ユダヤ教を禁止して神殿をゼウス神殿と呼ばせるなど、ヘレニズム化政策を強行した。ユダヤ人の中にはヘレニズム文化に妥協しようとする態度と、それを排除してヘブライズムの純粋性を保とうとする態度が現れた。アンティオコス4世が宗教的迫害を行うと、紀元前167年、ユダヤ人は信仰を守るために、マカベアスのユダを中心として反乱を起こした。これをマカバイ戦争という。ユダヤ人は長い苦闘の末、自治を獲得し、ハスモン王朝によるユダヤ教国家を建設した。
 その後も激動は続いた。地中海地域を支配するようになったローマ帝国が、最大の危機をもたらしたのである。

 次回に続く。
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