ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

キリスト教15~律法の順守より愛の実践

2018-02-27 15:50:02 | 心と宗教
律法の順守より愛の実践

 キリスト教は、ユダヤ教から律法を受け継いでいる。律法は、ユダヤ教で教義の中心をなすものである。律法は、神ヤーウェが決め、モーセに与えられたものを主とする。
 モーセが受けた律法を十戒という。十戒は、神からユダヤ民族に一方的に下された命令である。神がシナイ山でモーセに石板二面に書いて示したとされる。神は、エジプトで奴隷になっていた古代イスラエルの民を救い出した。だから、神に全面服従しなければならないとする。もし守らなければ、人間は神の怒りに触れて、たちまち滅ぼされてしまうというのが、ユダヤ教の考え方である。
 十戒は、『出エジプト記』20章と『申命記』5章に記されている。大意は次の通りである。

(1)あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
(2)あなたはいかなる像も造ってはならない。
(3)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
(4)安息日を心に留め、これを聖別せよ。
(5)あなたの父母を敬え。
(6)殺してはならない。
(7)姦淫してはならない。
(8)盗んではならない。
(9)隣人に関して偽証してはならない。
(10)隣人のものを欲してはならない。
 
 キリスト教は、これらの十戒を継承する。ただし、ローマ・カトリック教会とルター派では、(1)(2)を合わせて1項目とし、偶像崇拝の禁止を除く。また(10)を「隣人の妻を欲するな」と「隣人のものを欲するな」という二項に分ける。
 キリスト教では、十戒に独自の解釈を行う。ユダヤ教が律法の宗教であるのに対して、キリスト教は愛の宗教である。それは、イエスが律法を乗り超えるものとして、「神に対する愛」と「隣人に対する愛」を基本の掟とし、その実践を説いたことによる。
 イエスは、律法を否定してはいない。イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と言っている(マタイ書5章17節)。これは安息日をめぐってユダヤ教正統派のファリサイ派と論争した時の言葉である。律法を自己目的化してしまうファリサイ派の独善を批判したのである。
 イエスは、『マタイによる福音書』において、ファリサイ派の律法学者から律法の中でどの掟が最も重要かと問われたとき、次のように答えたとされる。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と(マタイ書37~40節)。
 この第二の掟について、イエスは、『ヨハネによる福音書』では、次のように語ったとされている。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ書15章12~14節)と。イエスは、律法と預言者は、この二つの掟に基づいていると理解する。こうした教えによって、イエスは「神に対する愛」と「隣人に対する愛」を説き、ユダヤ教の律法主義・戒律主義を乗り超えようとした。
 イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ書5章43~44節)と教えた。「隣人を愛し、敵を憎め」というのはユダヤ教の教えである。ユダヤ教史上最高のラビと言われる紀元後2世紀のラビ・アキバは、ユダヤ教を一言で言うと、『レビ記』19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」であると述べている。ただし、ユダヤ教における隣人とは、ユダヤの宗教的・民族的共同体の仲間である。仲間を愛する愛は、選民の間に限る条件付つきの愛である。人類への普遍的・無差別的な愛ではなく、特殊的・差別的な愛である。なぜなら彼らの隣人愛のもとは、神ヤーウェのユダヤ民族への愛であり、その神の愛は選民のみに限定されているからである。イエスは、このユダヤ民族の隣人愛は、同時に敵への憎悪と結びついていることを指摘する。それが「隣人を愛し、敵を憎め」である。これに対し、イエスは、ユダヤ教の隣人愛を普遍的・無差別的な人類愛に高めようとした。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とうのが、その教えである。その高められた愛が、キリスト教の愛である。ただし、キリスト教徒の歴史は、ごく一部の例外を除いて、この理想の愛とはかけ離れている。
 イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と説いた。隣人として仲間や共同体の所属員を愛することは、比較的容易である。だが、敵を愛することは、困難である。自分を虐げ、親や子、妻や友を殺し、祭壇を破壊し、神を冒涜するような敵を、どうやって愛することができるか。パウロは、『ローマの信徒への手紙』に次のように書いている。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『“復讐はわたしのすること、わたしが報復する”と主は言われる』と書いてあります」(ローマ書12章19節)と。ここでパウロが述べているのは、自分が敵に報復するのではなく、神の怒りに任せることである。
 注意すべきは、まずこの神は敵に対して怒り、報復する神であることである。また、パウロは復讐心を捨てよ、とは説いていないことにも注意を要する。この神は、敵を赦し、愛する神ではない。復讐心を捨て、敵を赦せと諭す神ではない。無差別的な愛ではなく、罪人を裁き、滅びをもたらす神である。パウロは、そうした神が復讐してくれるから、自分たちは復讐しなくてよいのだと説いている。この考え方は、最後の審判に関する信仰に基づく。人間は最後の審判で真の裁きを受ける、悪人は必ずその時に罰せられるから、いま自分たちが悪人に報復する必要はないと考えるものである。
 また、これに加えて、イエスの弟子は、神の本質と愛とする思想を説いた。ここでいう愛は、ギリシャ哲学におけるアガペーにあたる。性愛的なエロスではなく、精神的な愛である。キリスト教では、アガペーの語を神の人間への愛に充てる。さらに『ヨハネの手紙一』4章16節には、「神は愛です。」と書かれている。これは、イエスの言葉ではないが、弟子たちが創ったキリスト教の特徴的な思想の一つとなっている。
 キリスト教は神は愛であると説く一方で、その神が怒り、裁く神であることを信じる宗教である。また「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と説きながら、神がその敵に報復してくれると信じる宗教である。ここには信念の矛盾が見られる。その矛盾は、キリスト教の神はユダヤ教の神ヤーウェと同一であり、ヤーウェは無差別的な愛の神ではないことに起因している。いかにイエスが「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と説いて、無条件の愛の実践を諭しても、そのイエス自身が捕えられ、磔刑にあっている。そして、イエスを救世主と信じてその教えに従った者の多くが迫害を受け、惨殺された。ペトロやパウロは、宣教活動の中で殉教している。こうした事実は、イエスの教えに矛盾があるからだろう。

●ユダヤ教の戒律は重視しない
 
 ユダヤ教では、律法以外に、細かい戒律が定められている。紀元前5世紀から約1000年の間に、律法学者(ラビ)が形成した「ラビのユダヤ教」では、613の戒律を定める。戒律には、「~してはならない」という禁忌戒律と「~すべき」という義務戒律がある。禁止戒律は365戒、義務戒律は248戒あり、計613である。これらの戒律は、狭義の宗教的戒律のほかに、倫理的戒律と生活的戒律を含む。
 福音書の描くイエスは、戒律や規則については、たいていの場合はそれを尊重する態度を取ってはいるが、場合によっては、躊躇せず反対の態度を取ることもある。祭儀の規則や、何世紀もの信仰の伝統によって認められた慣習に対しては、イエスは自由に批判した。いざとなれば、律法から自分を解放し、また弟子たちも自由にさせることを辞さなかった。またイエスは、新たな戒律を決めていない。
 キリスト教では、キリスト教成立までにユダヤ教で定められた戒律を重視しない。そのまま守っている教派はない。ユダヤ教の戒律主義から脱却することによって、戒律に含まれているユダヤ民族の生活文化を相対化し、民族を超えて伝道できる普遍性の高い教義の形成が可能になった。
 キリスト教会が発達すると、教会や修道院が様々な規則を定めた。特に修道院では、修道生活に関わる規則を定めて戒律としている。

 次回に続く。
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宗教3~宗教の分類

2018-02-26 09:25:31 | 心と宗教
●宗教の分類

 これまで触れてきたものを含めて、宗教には様々な種類がある。主なものを整理すると、次のようになる。

・原初宗教/高度宗教
・アニマティズム/アニミズム/シャーマニズム
・マナイズム/フェティシズム/動物崇拝/トーテミズム/天体崇拝
・自然宗教/創唱宗教
・祖先崇拝/自然崇拝
・多神教/一神教/汎神教
・神を立てる宗教/神を立てない宗教
・有神教/無神教/無神論
・聖典を持つ宗教/聖典を持たない宗教
・啓典宗教/啓典なき宗教
・啓示宗教/非啓示宗教
・契約宗教/非契約宗教
・氏族的・部族的宗教/民族宗教/世界宗教
・集団救済の宗教/個人救済の宗教

●原初宗教/高度宗教
 
 旧石器時代から認められる原初的形態の宗教を、原初宗教という。アニマティズム、マナイズム、アニミズム、シャーマニズム、フェティシズム、動物崇拝、トーテミズム、天体崇拝、自然崇拝等がそれである。こうした原初宗教を基盤として、独自の理論と実践方法を持って発達したものが、高度宗教である。今日まで続くユダヤ教、キリスト教、イスラーム教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、道教、神道等のほか、歴史的には、ピュタゴラス教、ゾロアスター教等も挙げられる。

●アニマティズム/アニミズム/シャーマニズム

 アニマティズムは霊力信仰、アニミズムは精霊信仰である。シャーマニズムは、シャーマンと呼ばれる宗教的職能者を中心とした宗教である。詳しくは、先の項目に書いたので、ここでは簡単にとどめる。

●マナイズム/フェティシズム/動物崇拝/トーテミズム/天体崇拝
 
 マナイズムは、メラネシアに見られる不思議を起こす超自然的な力への信仰をいう。アニマティズムの一種である。フェティシズムは、呪物信仰であり、宝石・金属片・文字・図像等の物体に超自然的な力が宿るという信仰である。動物崇拝は、動物の持つ霊力に対する信仰である。崇拝の対象には、蛇、牛、犬、狐等のほか、空想上の動物である龍等もある。トーテミズムは、ある個人または集団がそれぞれ特定の動植物と超自然的な関係で結ばれているという観念及びそれに基づく制度をいう。その特定の動植物をトーテムと呼ぶ。天体崇拝は、太陽、月、金星、北極星等に超人間的な聖性と霊的な力を認める信仰である。

●自然宗教/創唱宗教
 
 創唱者のいる宗教を創唱宗教といい、明確な教祖のいない宗教を自然宗教という。例えば、ユダヤ教は自然宗教であり、キリスト教、イスラーム教は創唱宗教である。ヒンドゥー教は自然宗教であり、仏教は創唱宗教である。

●祖先崇拝/自然崇拝

 氏族・部族・民族などの祖先の霊を祀るものが祖先崇拝である。崇拝の対象となる祖先には、始祖・祖神・死者・死霊等がある。自然物や自然現象を崇めるのが自然崇拝である。崇拝の対象は、天空、大地、太陽、月、山、川、風、雷、火、岩石、動物、植物等がある。フェティシズム、動物崇拝、トーテミズム、天体崇拝、自然崇拝は、自然崇拝の諸形態でもある。

●神を立てる宗教/神を立てない宗教
 
 神を中心的な観念とする宗教が、神を立てる宗教である。神を中心観念としない宗教が、神を立てない宗教である。宗教の多くは前者だが、仏教は本来、法の教えであり、神を立てない宗教である。詳しくは、拙稿「宗教、そして神とは何か」に書いた。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11d.htm

●有神教/無神教/無神論
 
 神を立てる宗教を有神教、神を立てない宗教を無神教と私は呼ぶ。無神教の代表例は原始仏教・根本仏教である。無神教はあくまで宗教の一形態であって、無神論とは違う。無神論は、狭義ではセム系唯一神教の神の存在を否定する思想をいう。無神論の代表例はラ・メトリー、マルクスらの唯物論であり、霊的存在や来世をも否定するものである。

●多神教/一神教/汎神教

 有神教のうち、一つの神のみを祀る宗教が一神教、多数の神々を祀る宗教が多神教である。また、神と万有を同一視する宗教を汎神教という。詳しくは、先の項目や上記の別稿に書いた。
 なお、神と万有を同一視する考え方は、宗教だけでなく哲学にも見られる。哲学において神と万有を同一視する考え方は汎神論と呼んで、宗教としての汎神教と区別することができる。

 次回に続く。
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キリスト教14~原罪論と堕落論

2018-02-25 08:44:47 | 心と宗教
●原罪論と堕落論

 ユダヤ教では、人間は原罪を負っているが、神から自由意志を与えられており、人間の自由意志により神の命令を守ることができるとする。律法や戒律を実践し、よいことをすることができると考えるので、原罪はそれほど強調されない。これに対し、ローマ・カトリック教会は、明確な原罪論を説き、原罪を強調する。
 ジョン・ハードン編著『カトリック小事典』は、原罪について、次のように書いている。「人間の頭としてのアダムが犯した罪、あるいはアダムが子孫に伝えた罪を意味し、キリストとその母を除いて、すべての人類はこの罪をもって受胎し生まれる」と。注意すべきは、イエスの贖罪によって人類の原罪が消滅し、以後の人類には原罪が受け継がれなくなったとは説いていないことである。イエスの犠牲にもかかわらず、人類はその後の世代も、今の世代も、これからの世代も生まれながらに原罪を受け継いだ罪びとである、というのが、カトリック教会の原罪論である。そして、カトリック教会は原罪を強調することにより、カトリック教会で洗礼を受け、その教会の指導を受けることによってのみ罪から救われると説く。
 だが、キリスト教のすべての教派が原罪論を説くのではない。東方正教会は、罪に対する罰が死と考えることについては、カトリック教会と共通している。しかし、カトリック教会のような原罪論はない。教父時代以来の習わしを堅持する東方正教会は、人間の罪と死について、堕落の概念を中心に説く。これを本稿では、原罪論と対比して堕落論と呼ぶ。
 東方正教会では、神は人間を善なる者として創造したことを強調する。また、人間に自由意志があるとする。人間が堕落するのは、自由意志によって神に背を向ける行為をするからであり、罪は人間が堕落の行為をすることによって生じると考える。カリストス・ウェアは、著書『私たちはどのように救われるのか』で、次のように解説する。東方正教会は、堕落とその結果について、人間は神の像をかろうじて保持しているだけでなく、善と悪の選択の自由も保持していると理解する。人間の選択の自由の能力は、堕落によって傷つき、限界はあるが、決して絶滅されてはいない。堕落の状態にあって人間の意志は病んではいるが、死んではいない。健康な時より、はるかに困難だが、人間は依然として善を選択することができる、と。
 東方正教会では、イエスの死による犠牲よりも、復活の喜びを強調する。イエスは人類の原罪を購ってくれた救世主というより、死を克服して復活したことで人類に死を克服することを示してくれた指導者ということが強調される。この場合、イエスは人間が目指すべき目標であり、神を信じる者は修行によって神との合一を目指す生活が理想となる。
 ところで、イスラーム教もユダヤ教の聖書を聖典の一つとし、アダムとエバの物語を継承している。しかし、『クルアーン』の記述には、聖書との違いがある。ユダヤ教・キリスト教の聖書では、邪悪な蛇がエバを唆し、エバが禁断の実に手を伸ばすのだが、『クルアーン』では、男のアーダム(アダム)がサタンに唆されて、禁断の実に手を伸ばす。禁断の実を食べたアーダムとその妻(註 名はない) は過ちに気づき、アッラーに赦しを乞う。アッラーは二人を赦し、それから二人を楽園から追放する。ここも聖書と違う。
 楽園追放は、聖書では人間の原罪と堕落を意味する。だが、イスラーム教では、人間が地上の世界に来ることになったことに積極的な意味を見出している。なぜなら、二人が地上に遣わされたのは、罪が赦された後のことだからである。アーダムはアッラーの導きに従えば必ず成功すると約束され、子孫に神の教えを伝えた。こうしてアーダムは最初の預言者となったとされる。
 ユダヤ教、キリスト教のローマ・カトリック教会、東方正教会、イスラーム教で、原罪に関する考え方が異なる。これは原罪の観念自体に矛盾があるからだろう。そして、その矛盾のもとは、唯一神が最初の人間を神の似像として土から創造したという考え方に発していると考えられる。原罪をめぐる考え方の違いは、人間の自由意思や救済の原理に関わる事柄である。この点は、もう少し教義について述べたうえで考察する。
 私見を述べると、人間には知恵と自由が与えられている。人類は長い歴史の中で、知恵と自由の働きによって、自然の状態から離れてきた。知恵と自由はその用い方によって、自らに不幸や災厄を招く。アダムとエバの話は、このことを神話的に表現したものだろう。
 キリスト教では、原罪の他に自分が行ったことの罪を自罪と呼んで、その罪の告白と赦しの大切さを説く。しかし、物事には原因と結果の法則があり、最初期の人類が行ったことが悪い原因となるだけではなく、続く世代が行ったこともまた悪い原因となって、自らの将来や子孫の運命に悪い結果をもたらすと考えられる。だが、キリスト教には、悪い原因が世代間で継承されて積み重なっていくという考え方は見られない。

 次回に続く。
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自衛隊明記の場合の9条改正案~西修氏

2018-02-24 10:08:42 | 憲法
 昨年5月3日、安倍首相が自民党総裁の立場で、2020年に新憲法施行というスケジュール案を示し、憲法改正論議を活発化することを求めた。また、9条の1項、2項を維持し、3項に自衛隊を明記する案を提示した。以後、憲法改正に関する議論が活発化し、早期に改正を実現しようとする勢力と、改正に絶対反対するという勢力が対立している。
 安倍首相の提案は、それまで自民党が作り上げた憲法改正案とは異なる提案である。平成24年版の自民党憲法改正原案は、9条を本格的に改正するものだった。9条1項の言葉を整え、2項は削除して、「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」という条文を入れる。9条の二を設けて、自衛隊ではなく「国防軍」について規定し、最高指揮官、任務、組織、軍人等の裁判等について定める。9条の三を設けて領土の保全等についても定めるものだった。
 しかし、安倍首相は、9条の大幅な改正は連立与党の公明党の理解を得られにくく、発議後の国民投票で過半数の賛成を得られるかどうかも難しいと考え、現実的に改正が可能な案として提出されたものだろう。 
 安倍氏の案は、24年版の条文案を止めて、9条の1項、2項を維持し、3項に自衛隊を明記するというシンプルなもので、条文案は示されていない。また、9条の二、三を設ける考えは見られない。自衛隊の明記に目的をしぼっている。
 安倍首相は「自衛隊員に『君たちは憲法違反かもしれないが、何かあれば命を張ってくれ』というのはあまりにも無責任だ。そうした議論が行われる余地をなくしていくことが私たちの世代の責任だ」と述べている。最低、これは実現したいという考えと見られる。
 この提案に対し、自衛隊は国民の大多数が認めており、今更憲法に書き込む必要はないという反対意見がある。しかし、国民が自衛隊を認めているということと、自衛隊が合憲かどうかは別の事柄である。裁判所の判断は曖昧であり、高裁判決を含め多くは「統治行為論」を採用し、正面からの判断を避けている。統治行為論とは、国家の基本にかかわる高度に政治的な問題については、国会や内閣の判断に委ねるという理論である。下級審判決の中には、長沼事件1審判決のように自衛隊を違憲としたものもある。それゆえ、最終的な憲法判断を行う最高裁が合憲判断が下せるよう、自衛隊を憲法に明記し、その法的地位を確立するという狙いがあると見られる。
 ただし、仮に自衛隊を明記する改憲案が国民投票で承認されなくとも、国民投票は自衛隊の合憲か違憲かを決めるものではない。あくまでその判断をするのは、裁判所である。
 安倍首相は、3項の具体的な条文案を示していないので、自衛隊の役割と目的をどのようなものとしたいと考えているかは、わからない。自衛隊を自衛のための最小限度の実力組織という従来の性格のままとするのか、自衛のための戦力とか国防のための軍隊と位置づけ直すのか。二つの方向性がある。どちらの方向性にも、2項を削除または改正する必要があるという考え方、詳細を定めるため9条の二を追加するという考え方等がある。

 私は、目指すべき憲法には、安全保障の章を設け、以下のような要素を盛り込む必要があると考える。
 国際平和の希求/侵攻戦争の否定/平和的解決への努力/個別的・集団的を含む自衛権の保有と行使/国民の国防の義務と権利の一時的制限/国軍の保持/国際平和維持のための協力/最高指揮権の所在/軍の活動への国会の承認/軍人の政治への不介入/軍人の権利の制限/軍事裁判所等である。これらを盛り込んだ私案をネット上に掲載している。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08h.htm
 平成18年(2006年)に発表したものだが、その6年後に出された自民党の平成24年版の案より徹底したものとなっている。独立主権国家と国防のあるべき姿を追求したものである。
 しかし、国会と国民の現状から見て、私は、まず現実的に可能な改正をし、段階的に整備していくという方法論も検討されるべきと考える。

 ここでは、自衛隊を明記する案の一つとして、駒澤大学名誉教授の西修氏の提案を紹介する。氏の提案は、次の通り。

 「現行の第9条をそのまま残し、新たに第9条の2を加える。

第9条の2
 (1)日本国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、自衛隊を保持する。
 (2)自衛隊の最高の指揮監督権は、内閣総理大臣に属し、自衛隊の行動については、文民統制の原則が確保されなければならない。
 (3)自衛隊の編成及び行動は、法律でこれを定める。」
 
 提案の主旨は、下記の記事に述べられている。自衛隊明記の案としては、優れたものと思う。弱点は、現状の9条と新設の9条の2との関係が明記されていない点である。氏の案を発展させるとすれば、現状の9条に3項を設け、「前2項の規定は、自衛権の発動を妨げない」と加え、そのもとに9条の2を設ける必要があるだろう。
 以下は、西氏の記事。

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●産経新聞 平成30年2月22日

http://www.sankei.com/politics/news/180222/plt1802220006-n1.html
2018.2.22 11:00更新
【正論】
私の憲法9条改正案を提示する 駒沢大学名誉教授・西修

(略)

≪2項と自衛隊明記は矛盾せず≫
 いうまでもなく、現行憲法の最大の問題点は、わが国の平和を維持するための安全保障条項を欠いていることと、自衛隊の合・違憲性をめぐり、果てしのない神学論争が続いてきたことである。
 この問題点を解決すべく、いくつかの改正案が提起されている。自民党では、自衛隊を憲法に明記することで案のとりまとめが進められているが、「戦力の不保持」を定めている9条2項を維持するのか、あるいは同項を削除するのかで、意見の対立がみられる。
 後者は「戦力の不保持」規定を残したまま自衛隊を明記することは、つじつまが合わないと主張する。しかし、この主張は正しくない。
政府は、自衛戦力を含む一切の「戦力」の保持を禁止するとしつつ、「自衛権の行使を裏付ける自衛のための必要最小限度の実力を保持することまでも禁止されておらず、わが国を防衛するための必要最小限度の実力組織としての自衛隊は、憲法に違反しない」との解釈をとっている。それゆえ、「戦力にいたらない自衛隊」を2項とは別に規定することに、矛盾は生じない。
 なお、私はいわゆる芦田修正後に展開された極東委員会の熱論を経て、66条2項の文民条項が導入されたいきさつを精査すると、本来、9条2項は「自衛戦力」の保持まで禁じられていないと解釈すべきであると考えるが、ここでは控える(本欄平成29年11月27日付)。

≪独立国家に国防条項は不可欠≫
 私案について、いくつかの面から説明しておきたい。
 第1に、平和を維持するための安全保障条項を設定することは、独立国家として、憲法上、不可欠である。近年、多くの国の憲法に平和条項が導入されているが、それと同時に、その平和を担保するための国防条項が設けられているのが通常だ。少なくとも、人口500万人以上の独立国家で、国防条項を欠いている憲法を日本以外に私は知らない。
第2に、憲法を改正するには、多くの国民の支持を得なければならない。内閣府が27年1月に実施した世論調査によると、自衛隊に「良い印象を持っている」人たちが92・2%にのぼり、「悪い印象を持っている」人たちは、わずか4・8%にすぎない。また、自衛隊を憲法に明記することに関する最近の世論調査では、産経・FNNの合同調査で「賛成」58%、「反対」33%(産経新聞30年1月23日付)、テレビ朝日系のANN調査で「賛成」52%、「反対」34%(1月22日発表)という数値が示されている。
 これに対して、「戦力」としての軍隊あるいは国防軍の設置については、いまだ多くの国民のあいだにアレルギー現象が払拭されていない。

≪立憲主義に従い国民の意思問え≫
第3に、憲法に自衛隊を明記するとすれば、シンプルでかつこれまでの政府解釈の範囲内に収まるものであることが望まれる。私案「第9条の2」の1項は、現在の自衛隊法第3条1項「自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする」のうち、主任務を設定したものであり、現状となんら齟齬(そご)はない。
私案2項は、おなじく自衛隊法第7条「内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する」を援用したものであって、新たな権限を内閣総理大臣に付与しない。
 自衛隊の行動をシビリアンコントロールのもとにおくようにすることは、必置の憲法事項である。私案では「文民統制」の語を使用した。先述したように、憲法に「文民」の語があり、新奇な用語ではない。
 第4に、私案にあって、「自衛のため必要最小限度の実力組織」としての自衛隊が存続されるわけであるから、「自衛のため必要最小限度の実力」の中身が問われ続けられることになる。国の平和、独立、安全、そして国民の生命、自由および幸福追求の権利を確保するためにいかなる措置を講ずるべきか、従来の法律レベルではなく、憲法レベルで、国民全体が考究していくことが求められる。
 憲法改正は、憲法自身が定めている国民主権の最大の発露の場である。延々と議論を重ねているだけでは、なんら得るものがない。立憲主義にのっとり、国民の意思を問うてみようではないか。(駒沢大学名誉教授・西修 にしおさむ)
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キリスト教13~楽園追放

2018-02-23 09:35:57 | 心と宗教
●神に背いて楽園追放に

 次に人間観について詳しく述べる。
 キリスト教の人間観において特徴的なのは、原罪と楽園追放の思想である。これもユダヤ教から継承したものである。
 『創世記』は、神によって創造されたアダムと女は、罪を犯し、楽園から追放されたとする。同書3章1~6章に概略次のように記されている。
 「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか』。女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです』。蛇は女に言った。『決して死ぬことはない』。女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」
 アダムと女の行為は、神の知るところとなる。続いて、3章8~24節に概略次のように記されている。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』。アダムは答えた。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました』。主なる神は女に向かって言われた。『何ということをしたのか』。女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました』。
 神はアダムに言われた。『お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く』。神は女に向かって言われた。『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する』。神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ』。
 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。神はこうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」
 創世記』4章では、アダムとエバの間には、カイン、アベル、セトが生まれたことが記され、続いて子孫の物語が綴られている。
 これまで書いたように、ユダヤ教では、人間は神ヤーウェが神に似せて創造したものであるとする。神は土くれから、最初の人間アダムを創造した。次にアダムの肋骨からエバを造った。神の似像として造られた人間は、他の生物とは異なる存在であり、地上のすべての種を支配すべきものとされる。この考えもキリスト教はユダヤ教から継承している。
 年老いた蛇に唆されたエバは、禁断の知恵の実を食べた。そのために、人間は神に罰せられ、エデンの楽園から追放された。それゆえ、人間は罪を負っている。最初の人類が神の命令に逆らったことが人間の罪の始まりであるから、これを原罪という。原罪によって、人間は互いに敵意を抱き、男には食べ物を得るための労働、女には産みの苦しみが課せられたとする。こうしたユダヤ教の人間観も、キリスト教に受け継がれている。この人間観には、自由の肯定と知恵の発達による禍、人間の尊厳と原罪という相反する要素の認識が見られる。そこには、人間に対する深い洞察が見られる。
 神は、自らの意志によって天地万物や人間を創造する自由を持つ。人間が神に似るということは、人間にも意志の自由が与えられているということを意味する。自由は、人間における神に似た要素として最も価値あるものであるとともに、また神への背反の原因ともなりうるものである。
 もう一つ、原罪の結果と考えられているのが、人間の死である。神の命令に逆らった罪に対する罰として、人間は死すべきものとなった。原罪によって、人間はみな死に、土に還る定めを負ったと理解する。このことは、人類が知恵を持つことによって、死を意識するようになり、また死を意識することによって、生きることの意味を問うようになったことを象徴的に表しているものだろう。ただし、ユダヤ教は、死を以って終わりとせず、この世の終りに、すべての死者はよみがえり、生前の行為に応じて最後の審判を受けるとしている。キリスト教は、この観念を継承している。詳しくは、後に最後の審判、死生観の項目で述べる。
 キリスト教では、ユダヤ教に基づき、先に書いたように人間は神によって神の似像として創造され、神から自然を支配し、これを利用することを使命として与えられていると考える。同時に、この項目に書いたように、人間は自らの過ちにより原罪を負っており、そのために争い、労働と産みの苦しみ、そして死を免れないと考える。これがユダヤ教から受け継いだキリスト教の人間観の主要な内容である。

 次回に続く。
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宗教2~シャーマニズム、多神教、一神教

2018-02-22 11:30:18 | 心と宗教
●シャーマニズム

 宗教の原初形態において、祈りや祭儀を行うために、特殊な能力を持つ人間が必要とされる場合がある。そのような例の一つとして、シャーマニズムを挙げることができる。
 シャーマニズムは、シャーマンと呼ばれる特殊な霊的能力を持つ宗教的職能者を中心とした宗教である。シャーマンは、トランス(trance)状態と呼ばれる特殊な心的状態において、神・精霊・死者等の霊的存在と直接に交渉し、その力を借りて託宣・予言・治病・祭儀などを行う。
 シャーマンの語源は、ツングース系諸族の言語に求められる。もともと宗教学者は、シャーマニズムをシベリアの原始宗教に限定していたが、類似した現象は中央アジア・北米・東南アジア・オセアニアなど世界各地に見られる。日本やシナ・朝鮮では巫術・巫俗といい、呪術とも訳し得る。それゆえ、地域的な概念であるシャーマニズムを普遍的な概念として拡大使用することが可能であると私は考える。
 シャーマニズムは、アニミズムすなわち精霊信仰の表れの一つであり、アニミズムが人間の霊を対象とするとき、祖先崇拝となる。子孫は、祖先の霊に呼びかけ、祖先の霊を慰め、祖先の霊に加護を祈念する。氏族・部族・民族の共同体において、その祖先の霊に対する儀式を執り行う者が、シャーマンである。シャーマンは、祖先の霊を呼び寄せ、それと接触・交流し、その意思を共同体の成員に伝える。そのような能力を持つ者、または役割を持つ者を通じて、子孫と祖先が霊的につながり、また共通の祖先をもつ者の集団としての共同体意識が形成・維持されてきた。

●多神教と一神教

 アニミズムの様々な形態のうちの一つが、多神教である。多神教は、精霊信仰が発達したもので、多数の神々を祀る宗教である。多神教は、自然の事象、人間・動物・植物等を広く対象とする。これに対し、一神教は、多神教における複数の神格を信仰の対象から排除することによって現れたものである。
 一神教には、単一神教、拝一神教、唯一神教がある。単一神教は、自己の集団において多くの神々を認め、その中に主神と従属神があるとし、他の集団の神格も認めるものである。拝一神教は、自己の集団において唯一の神のみを認めるが、他の集団における神格をも認めるものである。これらの2種は、自己の集団または他の集団における複数の神格を認めている点で、多神教的な性格を持つ。それに対し、唯一神教は、唯一の神のみを神とし、自己の集団においても他の集団においても、一切他の神格を認めない。これが、純粋な一神教である。
 多神教という概念は、この唯一神教を基準にした概念である。ユダヤ=キリスト教を優位に置き、多数の神格を持つ宗教を劣位に置く発想が根底にある。私は、逆にアニマティズムの特殊な形態がアニミズムであり、そのまた特殊な形態が多神教であり、さらに非常に特殊な形態が、一神教であると考える。この特殊な形態の宗教をキリスト教文化圏の学者が最も進歩した宗教とし、それを基準に他の宗教を評価したところに、宗教に対する大きな誤解が生じたのである。
 私の考えでは、多神教は、アニミズムの特殊形態としては多元的だが、根底にアニマティズムが存在しており、その基底面では一元的である。それゆえ、多神教には、アニマティズムに近い一元的多神教と、アニマティズムから離れた多元的多神教があり得る。実際、多神教の中には、神々や霊的存在が単に多元的・並列的ではなく、本質において「一」であるものが、現象において「多」であるという「一即多、多即一」の構造を示すものがある。私は、日本の神道をその例として見ている。
 宗教学では、こうした哲学的な考察がされずに、現象的な「一」の側面を見て一神教、「多」の側面を見て多神教と分けている。だが、宗教の研究を深めていくと、一神教と多神教は全く別のものではなく、根本に「一即多、多即一」という立体的な構造があって、そこから様々な宗教が差異化したと考えられる。そして、私はこうした「一即多、多即一」の構造の中に、一神教と多神教を包摂し、融合・進化させ得る可能性を見出す者である。

●ユダヤ教と仏教の特異性

 古代から続く宗教と文明の歴史の中で、特異な形態の宗教として出現したのが、ユダヤ教と仏教である。
 ユダヤ教は、ユダヤ民族の神話的信仰をもとに、多神教を否定する一神教として発生した。発生の時期の特定はできないが、紀元前6世紀には、第2イザヤらの預言者によって、神ヤーウェが世界を創造した神であり、唯一神であると位置づけられ、唯一神教が確立されていたと考えられる。唯一神教では、神が宇宙の外にあって、無から宇宙を創造したと考える。多神教を否定することでアニミズムを否定し、同時にその根底にあるアニマティズムも否定し、超越的な人格神が宇宙と人間を創造したという発想によっている。唯一神教としてのユダヤ教の発生は、人類の宗教の歴史において画期的な出来事だった。純粋な一神教が誕生したからである。
 ユダヤ教からは、さらに二つの宗教が形成された。まず紀元1世紀にキリスト教が派生し、地中海地域に広がり、古代ローマ帝国の国教となった。ローマ帝国の末期から、アルプス以北のヨーロッパにも広がった。また、ユダヤ教、キリスト教の影響を受けて、7世紀のアラビア半島にイスラーム教が発生し、中東、西アジア、北アフリカ等を席巻することになった。
 一方、仏教は、インド固有の多神教であるバラモン教を背景として、紀元前6~5世紀に釈迦が開創した。仏教は、バラモン教と同じく輪廻転生を教義とする。輪廻転生は、古代のエジプト、ギリシャ等にも見られる思想である。仏教は輪廻転生の世界から抜け出るための知恵と方法を説いた。即ち、解脱、悟りを目指すために、法(ダルマ、真理、法則)を明らかにし、それに基づく実践を説く。その教えによって、民族的・国家的な共同体の宗教ではなく、個人の魂の解放を目指す宗教が誕生した。また、仏教がバラモン教と異なる別の点は、「神を立てない宗教」であることである。釈迦の教えを守り伝えた原始仏教、根本仏教は、その原型を保っている。無神教としての仏教の発生もまた人類の宗教の歴史において画期的な出来事だった。
 仏教は、インドから東北方面はシナ、朝鮮、日本等へ、東南方面は東南アジアへと広がった。インドでは一時、隆盛を誇ったが、やがて衰退した。また、ヒンドゥー教や伝播した地域の多神教の影響を受けた。その結果である大乗仏教や密教は、法を人格化したり、仏陀や如来・菩薩等を神格化しており、有神教の一種と見ることができる。
 人類の多数が信仰してきた多神教から現れた一神教、すなわちユダヤ教から出たキリスト教、イスラーム教は、広域的な宗教に発展し、世界宗教となった。また多神教から現れた無神教、すなわち仏教も、民族宗教の枠を超え出て、世界宗教となった。

 次回に続く。
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キリスト教12~世界観・人間観

2018-02-20 08:54:10 | 心と宗教
●世界観~神による天地創造

 キリスト教の世界観は、ユダヤ教のそれと同じく、実在としての神によって、世界が創造されたという考え方に立つ。神すなわち創造主が初めに存在し、世界は神の意志で無から造られたとする。さらに動植物などの万物も神の働きで造られたとする。キリスト教は、こうした世界や万物の起源に関する創造論をユダヤ教から継承している。
 『創世記』1章1節から2章3節にかけて、天地創造が概略次のように描かれている。初めの日に、神は天と地を創造した。地は混沌とし、水面は闇に覆われ、聖霊がうごめいていた。神は光を生み出し、昼と夜とを分けた。2日目に神は、水を上と下とに分け、天を造った。3日目には大地と海とを分け、植物を創った。4日目には日と月と星が創られた。5日目には水に住む生き物と鳥が創られ、6日目には家畜を含む地の獣・這うものが創られ、海の魚、空の鳥、地のすべすべての獣・這うものを治めさせるために人間の男と女が創られた。7日目に神は休んだ。
 ユダヤ教では、神は言葉によってすべてのものを創造したとする。ヘブル語のダバルという語は言葉を意味するとともに、行動、出来事をも意味する。こうした言語において、神の言葉はそのまま神の行い、神の業と考えられることになったのだろう。
 天地創造の時期については、ユダヤ教では紀元前3761年10月7日としているが、キリスト教では諸説ある。今から5千数百年程度する点は共通する。
 16~17世紀に、西欧で聖書の説く天動説の誤りが指摘され、地動説へのコペルニクス的転換が起った。その後、宇宙の科学的研究が進み、地球の発生はキリスト教の説く年代より、はるかに古く、現在は45億年ほど前というのが定説になっている。キリスト教の主な教派は、長くこれを認めてこなかったが、2014年10月、ローマ・カトリック教会の教皇フランシスコは、世界の創造についての科学理論は神の存在論に矛盾するものではなく、逆にこれは相互に結びついたものだという考えを述べ、今日、世界の存在を説明するため用いられているビックバーン理論も創造主の存在と矛盾するものではなく、逆に「創造主の存在を必要とするもの」だと語った。

●人間観~神の似像

 キリスト教の人間観は、神によって、世界とともに人間もまた創造されたという考え方に立つ。この考え方もユダヤ教から継承している。
 人間創造については、『創世記』1章26~30節に、概略次のように記されている。神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言った。自分にかたどって人を創造し、男と女を創造した。神は彼らを祝福して言った。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と。また言った。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」と。
 『創世記』2章7~9節には、より詳しく次のように記されている。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。最初の人間アダムの次に女が造られたとし、同2章22~24節に次のように記されている。「人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。『ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから』。こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」
 ここでは女にはまだ名がない。後に、アダムは女にエバと名付けて妻とした。キリスト教は、こうした人類の誕生に関する神話をユダヤ教と共有している。人間観に関する詳細は、後に項目をあらためて書く。
 ここでは世界観と人間観に共通することを書いておきたい。19世紀半ば、チャールズ・ダーウィンが種は進化するという進化論を唱えた。聖書は、神が種を創造したと説くので、進化論は天動説から地動説への転換に次ぐ大きな影響を西方キリスト教社会にもたらした。進化論は人間がサルから進化した可能性を説くものゆえ、これを認めることは、キリスト教の世界観・人間観を根本から揺るがすものとなる。キリスト教会は、キリスト教の教義に反するものとして、これを否定する。今日でも米国では、キリスト教原理主義と呼ばれる保守的な勢力が学校で進化論を教えることに反対しており、教育を禁止している州もある。
 2014年教皇フランシスコは、ビックバーン理論を認める演説をした際、生物は進化を遂げる前にまず、何者かによって作られたと説明し、その後は、進化をしてきたとして、進化論を肯定する見解を述べた。

 次回に続く。
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宗教の諸相と発展可能性1

2018-02-19 09:56:42 | 心と宗教
 私は近年、文明と宗教に関するものを多く書いている。現在はキリスト教に関する長期連載をしているところだが、宗教一般については、いずれ概論を書きたいと思っている。その準備作業としてこれまで拙稿に書いてきたことを取りまとめておきたい。本稿は、先に書いた「宗教、そして神とは何か」に続いて、宗教の発生と発達、宗教と哲学・社会・政治・科学の関係、宗教における体験と実践、今後の発展可能性について書くものである。10数回の予定である。

●宗教の起源
 
 現在知られている人類の歴史において、一般に最初の時代とされるのは、旧石器時代である。約300万年ないし約200万年前に始まって約1万年前まで続くとされる。この時代に宗教的な意味を持つと考えられる遺跡が現れるのは、約10万年前から約3万5千年前の旧石器時代中期である。ネアンデルタール人などの旧人の遺跡から、死体の埋葬や狩猟の儀式が行われたことがわかる。続いて、約3万5千年前から約1万年前までの旧石器時代後期には、クロマニョン人などの新人による遺跡から、死に関わるものとして墓地や埋葬物等、生命や生殖力に関わるものとしてヴィレンドルフのヴィーナス等、狩猟に関わるものとしてラスコーやアルタミラの洞窟の壁画等が発見されている。それらの遺跡は、宗教的な観念や儀式の存在を想像させるものである。
 旧石器時代以降、どのように宗教が発生したのか。宗教の起源について様々な研究がされてきたが、確定的な答えには至っていない。宗教の原初形態として、宗教学では、アニマティズム、マナイズム、アニミズム、シャーマニズム、フェティシズム、動物崇拝、トーテミズム、天体崇拝、自然崇拝等が挙げられる。それらの相互関係や発達の段階についても定説と言えるものは、まだない。

●神話的信仰
 
 宗教の原初形態において、注目すべき要素に神話がある。人間は、他の動物よりも知能が発達している。その知能、言い換えれば知恵を以て、人間は自分の住む世界や自分自身を言語を用いて認識する。また、世界の成り立ちや人間の由来、生きることの意味等を考え、理解する。その認識と理解が最初に言語によって表現されたものが、神話である。神話は、象徴的な思考によって、一つの社会の持つ世界観や人間観を表し、時には実在観をも示している。
 世界の様々な氏族・部族・民族は、それぞれが生み出した神話を世代から世代へと伝承してきた。神話の伝承は、神話に基づく信仰の伝承でもある。神話に基づいて神々や祖霊を祀る祭儀を行うことは、人類に広く見られる営為だった。先に挙げた宗教の原初形態は、こうした神話的信仰を伴ったものと考えられる。

●アニミズムとアニマティズム

 宗教の原初形態のうち、最も広く見られるものは、アニミズムである。アニミズムは精霊信仰、霊魂信仰などと訳される。シャーマニズム、フェティシズム、動物崇拝、トーテミズム、天体崇拝、自然崇拝は、どれも霊的存在を前提にしており、アニミズムの諸形態と考えられる。
 19世紀後半のイギリスの人類学者エドワード・タイラーは、アニミズムを「霊的存在に対する信仰」と定義し、宗教の最も単純で原始的形態とした。彼は、原初形態としてのアニミズムが段階的に一神教に進化したのだと考えた。そして素朴なものから複雑なものまで、宗教はすべて、なんらかの形でアニミズムを含んでいると主張した。タイラーの考え方には、「進化」=「進歩・向上」という価値判断が含まれており、また一神教を最高の形態とし、多神教を下位の形態とみなす西洋中心・キリスト教中心の姿勢が見られる。
 その後の人類学や宗教学では、西洋中心・キリスト教中心の見方への反省がされるとともに、様々な社会の研究が行われてきた結果、宗教の発生・発達は一元的ではなく、さまざまな発生・発達の仕方があり得るという考え方が有力である。この考え方に立てば、原初的な宗教の諸形態は、段階的に並べるべきものではなく、並列的な類型となる。私は、その判断が妥当性である可能性を認めつつ、宗教の発生・発達について、論理的な思考に基づく仮説を抱いている。
 まず私は、宗教はすべてなんらかの形でアニミズムを含んでいるとするタイラーの主張を評価する。タイラーの考え方から「進化」=「進歩・向上」という判断を除いて価値の相対化をすると、宗教のさまざまな形態は、アニミズムの特殊化であると考えることができる。つまり、アニミズムの特殊な形態が多神教であり、さらに非常に特殊な形態が一神教であり、アニミズムがこのように特殊化してきたと見るのである。
 また、私は、アニミズムの根底には、アニマティズムがあると推測する。アニマティズムとは、タイラーの弟子ロバート・マレットが、アニミズム以前のプレアニミズムの一形態として唱えたもので、自然界の事物に霊的な力や生命力が秘められていると考え、この力を人間生活に取り込もうとする信仰である。私は、これを宇宙・生命の根源的な力への信仰と考える。力は物事を生起させる原因に係る概念である。日常的な言語では、目には見えないが人やものに作用し、何らかの影響をもたらすものを力という。特にその力に意思の働きを認めるとき、これを霊力という。それゆえ、アニマティズムは、霊力信仰と訳することができる。また、私は、アニミズムの精霊信仰の基底には、アニマティズムの根源的な力への信仰があると考える。
 例えば、わが国では古来、何かしら尊いもの、偉大なものに触れると、それを「かみ」と呼んで崇めたり、畏れたり、親しんだりしてきた。それが自然の事物や現象だったり、人間の霊魂だったり、生きている人間だったり、対象はさまざまである。だが、ここで「かみ」と呼ばれるものは、それぞれの事物に宿っている霊的存在というより、すべてのものの根源にある力を指すものと考えられる。ポリネシア・メラネシア等広く太平洋諸島に見られる「マナ」や東南アジアの諸民族における「ピー」と、「かみ」は、同じ対象を指すものだろう。この宇宙・生命の根源的な力への信仰がアニマティズムであり、それが最も原初的な宗教の形態であると私は考える。
 アニマティズムとしての霊力信仰は、個々の事物が差別化され、名前が付けられると、事物それぞれに霊的存在が宿るという考え方に変化しただろう。また、遠方または異界からやって来るものが、人や物に憑依するという考え方も現れる。それがアニミズムであると私は考える。
 アニマティズムは、総体としての宇宙を未分化のままにとらえたものだが、アニミズムにおいては、対象が個別化している。それゆえ、アニミズムは、精霊信仰であるとともに、人間の祖先の霊を祀る祖先崇拝であり、また自然の事物の霊を崇める自然崇拝ともなっている。だが、祖先崇拝・自然崇拝は、人間や自然の根底にある宇宙・生命の根源的な力への信仰を否定するものではない。祖先の霊や自然の霊を祀ったり、交流することを通じて、根源的な力の存在を確認したり、その力を受け直したりすることが可能である。それゆえ、私はアニミズムの根底にはアニマティズムがあり、アニマティズムとアニミズムは重層的な関係にあると考える。
 この仮説に立つならば、アニマティズムの特殊な形態がアニミズムであり、そのまた特殊な形態が多神教であり、さらに非常に特殊な形態が、一神教であるという関係になる。アニミズムにしても、多神教にしても、一神教にしても、祈りや祭儀における具象的または観念的な対象が何であれ、宇宙・生命の根源的な力の存在を確認したり、その力を受け直したりする試みだろう。

 次回に続く。
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キリスト教11~教義・実在観

2018-02-18 08:48:57 | 心と宗教
●教義の形成

 宗教は、それぞれ独自の教義を持つ。教義は、主に言語によって説かれるが、象徴によって暗示されたり、儀式によって表現される場合もある。
 古代から続く宗教には、神話の人間観・世界観に基づき、独自の教義を発達させたものが多い。ユダヤ教はその一つである。
 ユダヤ教は特定の創唱者を持たない自然宗教である。幾世代もの間に様々な精神的指導者の説いたことが、部族や民族の知恵として蓄積されて教義が形成された。教義は、宗教的な共同体である民族や教団が存続し、発達していくにつれて、制度的に明確に規定されていき、信仰や生活の規範として確立された。
 ユダヤ教では、民族の神話がそのまま教義の一部となっており、それに加えて先祖や預言者などの精神的指導者たちの言葉が教説となり、教義が形成・確立された。
 これに対し、キリスト教は、ナザレのイエスを創唱者とする創唱宗教である。創唱者イエスの説いた思想が教説となり、教説がもとになって教義が形成された。イエスの教説は、イエスがその場その場で説いた言葉やその時その時に行った行為の記憶や記録を主とする。そのため、十分に体系化されたものではない。その創唱者の教説を弟子が体系化・組織化し、キリスト教の教義となった。

●教義の内容

 キリスト教の教義の核心は、イエスをキリスト(救世主)とすることである。ユダヤ教は、イエスをメシアと認めない。キリスト教では、神は人間を愛するゆえに独り子イエスを遣わし、神の子であるイエスの死は原罪を贖った。イエスの犠牲によって人間は、再び神と結び付いた。イエスをキリストと信じる者は罪の赦しを得て永遠の生命に入る。神にいたる道は一つでイエスによるのみであると説く。これが、キリスト教の教義の要約である。
 キリスト教の教義には、さらに宗教一般がそうであるように、人間観・世界観・実在観が含まれている。すなわち、人間とは何か、世界とは何か、究極的な実在とは何かという問いへの答えとなる考え方である。それらの人間観、世界観、実在観は、ユダヤ教の考え方に基づいている。
 ユダヤ教の教義は、聖書に表現されている。この啓典に、人間観・世界観・実在観が示されており、主に『創世記』に描かれている。『創世記』はユダヤ民族の神話ないし神話に基づく物語であり、ユダヤ教の教義は神話に目指したものである。聖書の続く諸書には、先祖や預言者などの精神的指導者たちによる教説が記されており、それらが教義の内容を構成している。
 キリスト教は、こうしたユダヤ教の教義を継承し、これにイエスに基づく独自の教義が加えられている。その教義の一部は、ユダヤ教の教義に対する新たな解釈を示すものであり、また部はユダヤ教にはない新たな教義である。その点について、実在観、世界観、人間観の順に見ていきたい。

●実在観~実在は唯一の神

 キリスト教の実在観は、唯一の神を実在とするものである。その神は、ユダヤ教の神と共通する。神ヤーウェは、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(『出エジプト記』3章14節)と述べる。ここで「ある」とは、真の実在であることを示唆する。「ある」という神の規定は、神を有(存在)とし、有(存在)を神とする西洋思想の元になっている。
 ユダヤ教は、一元的なものが多様に現れているとし、一元的なもののみを実在とする。それがセム系一神教の基本的な論理となっている。キリスト教は、この論理を継承している。一に対する多としての万物は、神が無から創造したものとするので、神そのものではない。神と万物を一体とらえる汎神論とは異なる。神は創造主であり、万物は神の被造物である。被造物のうち人間のみが神の似像として、特別の存在である。ただし、人間は神の一部ではない。実在は、唯一の神のみである。
 こうしたユダヤ教の考え方に加えて、キリスト教は独自の実在観を持つ。キリスト教の主な教派は、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊の三位一体を信奉する。神の実体(希語ウーシア、羅語スブスタンティア)は一つであり、三つの位格(希語ヒュポスタシス、羅語ペルソナ)を持つとする。また三つの位格は同格とする。このことがキリスト教の実在観に、世界の諸宗教の中でも特に複雑な様相を与えている。キリスト教では、三位一体は人知ではとらえられず、神の定めたものとしてただ信仰するのみと教えられている。
 キリスト教の実在観がさらに複雑なのは、イエスを主とし神としていることである。それゆえ、イエスの存在・活動・教え等がそのまま働きとされる。すなわち、イエスは神の独り子で、神が遣わした救世主であり、マリアの処女懐胎で誕生し、数々の奇跡を起こし、磔刑で死んだ後、3日後に復活し、弟子たちの前に何度も現れたというイエスの物語がそのまま実在の働きとされる。ユダヤ教では、このような実在観はあり得ない。

 次回に続く。
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中国・習主席の「神格化」が止まらない~石平氏

2018-02-17 12:29:03 | 国際関係
 中国では、習主席の個人独裁体制の確立が進み、さらに習主席の「神格化」が進んでいる。そのことをシナ系日本人評論家の石平氏が、繰り返し伝えている。私は、2月12日にも石氏の警告を掲載したところある。
http://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/a7cd9d838a9e3c57aa42be2cfecdd4fe
 中国で起こっているこの重大な変化を、日本人は見逃したり、軽く考えてはならない。私は、旧ソ連が帝国主義化する過程でスターリンが神格化され、ナチス・ドイツが覇権主義的行動を繰り広げる過程でヒットラーが神格化された例と比べて、現在中国で起こりつつある変化を注視すべきだと考える。
 石氏によると、1月下旬、習氏の神格化はさらにエスカレートして「驚愕(きょうがく)の新段階に入った」「習主席のことを中国人民の領袖だけでなく、人類全体の指導者として持ち上げ始めた」という。
 習主席は昨年1月スイスで2つの演説を行い、「開放型の世界経済」を唱えた。ダボス会議と国連欧州会議におけるものである。今年1月25日、人民日報はその演説から1年経ったことを記念して「思想の光で世界の進路を導こう」と題する長文の論説を掲載した。翌26日にも「人類の進歩と変革を導く力」と題した記事を掲載した。ともに1面トップである。
 記事は、「2つの基調講演は世界人民の心の声を代弁し、世界全体に大きな影響を与えた。“世界がどうなるのか”“われわれはどうすべきなのか”の迷いが広がっている中で、中国の理念の光は人類発展の方向性を示した」。「2つの歴史的演説は哲学の高いレベルから人類の運命を説き明かした。それは大海原の灯台のように船舶の進路を導き、時間と空間をこえた思想的魅力を放った」などと書いている。
 また29日の新華社通信の記事は、「人類の進路を示した習主席の2つの講演は、知恵の声を大地に広げ、真理の光をもって暗闇を照らした」と書いた。
石氏は、「人民日報と新華社通信はどうやら本気で、習主席のことを人類の救世主に祭り上げようとしている。そして習主席自身もそれを黙認しているはずだ」と述べ、「妄想に近い野望を胸に抱いて世界支配へと動きだす“新中華帝国”と“新皇帝習近平”に、どう対処していくのか、それこそがわれわれにとっての大問題だ」として、警告を発している。
 以下は、石氏の記事の全文。

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●産経新聞 平成30年2月8日
http://www.sankei.com/column/news/180208/clm1802080005-n1.html
2018.2.8 09:00更新
【石平のChina Watch】
「神格化」が止まらない習主席 世界の救世主のつもりなのか…〝自画自賛〟に唖然

 1月11日掲載の本欄は、中国国内における習近平国家主席の「神格化」の動きを取り上げたが、実は、それから2週間後、習氏の「神格化」はさらにエスカレートして驚愕(きょうがく)の新段階に入った。人民日報などの共産党宣伝機関は何と、習主席のことを「中国人民の領袖(りょうしゅう)」だけでなく、人類全体の指導者として持ち上げ始めたのである。
 そのために人民日報などが使ったネタは、1年前に習主席がスイスで行った2つの演説だ。昨年1月17日、習氏は中国主席としてスイスで開催のダボス会議(世界経済フォーラム年次総会)に参加して基調演説を行った。翌18日、習主席はジュネーブの国連欧州本部でも演説した。
 この2つの演説において、習主席は「開放型の世界経済」を唱え、米トランプ政権の保護主義を暗に牽制(けんせい)し、一定の注目を集めたが「開放型の世界経済」をいかにして構築するかについて主席から具体的な提案や措置の発表もなく、会議参加者と各国からの反応は今ひとつであった。
 しかし、中国共産党の宣伝機関の手にかかると、習主席の2つの演説はあたかも、この地球上の人々に光と喜びを与える「福音」となったかのように粉飾された。
 今年1月25日、人民日報は1面トップで、習主席の2つの演説が発表されて1周年となるのを記念し「思想の光で世界の進路を導こう」と題する長文の論説を掲載した。翌26日、人民日報は再び1面トップで習主席の演説を絶賛する論評を掲載したが、今度のタイトルは「人類の進歩と変革を導く力」であった。
 つまり人民日報からすれば、習主席の2つの演説はいつの間にか、「人類」と「世界」を導く「光」と「力」となっているらしい。タイトルを見ただけでも、自国の主席に対する人民日報の過剰賛美が既に厚顔無恥の境地に達していることがよく分かった。
 人民日報論評の中身となると、それはまた、読む人の失笑を誘うほど自家賛美のオンパレードであった。
 曰(いわ)く、「2つの基調講演は世界人民の心の声を代弁し、世界全体に大きな影響を与えた。“世界がどうなるのか”“われわれはどうすべきなのか”の迷いが広がっている中で、中国の理念の光は人類発展の方向性を示した」。
 曰く、「2つの歴史的演説は哲学の高いレベルから人類の運命を説き明かした。それは大海原の灯台のように船舶の進路を導き、時間と空間をこえた思想的魅力を放った」。
 この行(くだり)を原文で読んだとき、私はさすがに虫酸(むしず)が走るような思いをしたが、29日に配信された新華社通信記事の「習近平賛美」はそれ以上のものであった。
 曰く、「人類の進路を示した習主席の2つの講演は、知恵の声を大地に広げ、真理の光をもって暗闇を照らした」。つまり新華社通信の表現に従えば、習主席が例の2つの演説を行う前に、われわれ人類一同は「暗闇」の中にいたというのだ。
 自画自賛がここまできたら、普通の神経を持つわれわれはもはや唖然(あぜん)とするしかない。しかし人民日報と新華社通信はどうやら本気で、習主席のことを人類の救世主に祭り上げようとしている。そして習主席自身もそれを黙認しているはずだ。
 それは単なる妄想だと笑って済ませられるものではない。
 「習主席が人類全体の方向性を示さなければならない」という、この一見荒唐無稽の妄想の背後には中華帝国の皇帝が天下の主=世界の支配者であるという中華思想の亡霊と、21世紀における中国の世界制覇という中国共産党と習主席自身の大いなる野望が見え隠れしているからだ。
 妄想に近い野望を胸に抱いて世界支配へと動きだす「新中華帝国」と「新皇帝習近平」に、どう対処していくのか、それこそがわれわれにとっての大問題だ。
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