●律法の順守より愛の実践
キリスト教は、ユダヤ教から律法を受け継いでいる。律法は、ユダヤ教で教義の中心をなすものである。律法は、神ヤーウェが決め、モーセに与えられたものを主とする。
モーセが受けた律法を十戒という。十戒は、神からユダヤ民族に一方的に下された命令である。神がシナイ山でモーセに石板二面に書いて示したとされる。神は、エジプトで奴隷になっていた古代イスラエルの民を救い出した。だから、神に全面服従しなければならないとする。もし守らなければ、人間は神の怒りに触れて、たちまち滅ぼされてしまうというのが、ユダヤ教の考え方である。
十戒は、『出エジプト記』20章と『申命記』5章に記されている。大意は次の通りである。
(1)あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
(2)あなたはいかなる像も造ってはならない。
(3)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
(4)安息日を心に留め、これを聖別せよ。
(5)あなたの父母を敬え。
(6)殺してはならない。
(7)姦淫してはならない。
(8)盗んではならない。
(9)隣人に関して偽証してはならない。
(10)隣人のものを欲してはならない。
キリスト教は、これらの十戒を継承する。ただし、ローマ・カトリック教会とルター派では、(1)(2)を合わせて1項目とし、偶像崇拝の禁止を除く。また(10)を「隣人の妻を欲するな」と「隣人のものを欲するな」という二項に分ける。
キリスト教では、十戒に独自の解釈を行う。ユダヤ教が律法の宗教であるのに対して、キリスト教は愛の宗教である。それは、イエスが律法を乗り超えるものとして、「神に対する愛」と「隣人に対する愛」を基本の掟とし、その実践を説いたことによる。
イエスは、律法を否定してはいない。イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と言っている(マタイ書5章17節)。これは安息日をめぐってユダヤ教正統派のファリサイ派と論争した時の言葉である。律法を自己目的化してしまうファリサイ派の独善を批判したのである。
イエスは、『マタイによる福音書』において、ファリサイ派の律法学者から律法の中でどの掟が最も重要かと問われたとき、次のように答えたとされる。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と(マタイ書37~40節)。
この第二の掟について、イエスは、『ヨハネによる福音書』では、次のように語ったとされている。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ書15章12~14節)と。イエスは、律法と預言者は、この二つの掟に基づいていると理解する。こうした教えによって、イエスは「神に対する愛」と「隣人に対する愛」を説き、ユダヤ教の律法主義・戒律主義を乗り超えようとした。
イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ書5章43~44節)と教えた。「隣人を愛し、敵を憎め」というのはユダヤ教の教えである。ユダヤ教史上最高のラビと言われる紀元後2世紀のラビ・アキバは、ユダヤ教を一言で言うと、『レビ記』19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」であると述べている。ただし、ユダヤ教における隣人とは、ユダヤの宗教的・民族的共同体の仲間である。仲間を愛する愛は、選民の間に限る条件付つきの愛である。人類への普遍的・無差別的な愛ではなく、特殊的・差別的な愛である。なぜなら彼らの隣人愛のもとは、神ヤーウェのユダヤ民族への愛であり、その神の愛は選民のみに限定されているからである。イエスは、このユダヤ民族の隣人愛は、同時に敵への憎悪と結びついていることを指摘する。それが「隣人を愛し、敵を憎め」である。これに対し、イエスは、ユダヤ教の隣人愛を普遍的・無差別的な人類愛に高めようとした。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とうのが、その教えである。その高められた愛が、キリスト教の愛である。ただし、キリスト教徒の歴史は、ごく一部の例外を除いて、この理想の愛とはかけ離れている。
イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と説いた。隣人として仲間や共同体の所属員を愛することは、比較的容易である。だが、敵を愛することは、困難である。自分を虐げ、親や子、妻や友を殺し、祭壇を破壊し、神を冒涜するような敵を、どうやって愛することができるか。パウロは、『ローマの信徒への手紙』に次のように書いている。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『“復讐はわたしのすること、わたしが報復する”と主は言われる』と書いてあります」(ローマ書12章19節)と。ここでパウロが述べているのは、自分が敵に報復するのではなく、神の怒りに任せることである。
注意すべきは、まずこの神は敵に対して怒り、報復する神であることである。また、パウロは復讐心を捨てよ、とは説いていないことにも注意を要する。この神は、敵を赦し、愛する神ではない。復讐心を捨て、敵を赦せと諭す神ではない。無差別的な愛ではなく、罪人を裁き、滅びをもたらす神である。パウロは、そうした神が復讐してくれるから、自分たちは復讐しなくてよいのだと説いている。この考え方は、最後の審判に関する信仰に基づく。人間は最後の審判で真の裁きを受ける、悪人は必ずその時に罰せられるから、いま自分たちが悪人に報復する必要はないと考えるものである。
また、これに加えて、イエスの弟子は、神の本質と愛とする思想を説いた。ここでいう愛は、ギリシャ哲学におけるアガペーにあたる。性愛的なエロスではなく、精神的な愛である。キリスト教では、アガペーの語を神の人間への愛に充てる。さらに『ヨハネの手紙一』4章16節には、「神は愛です。」と書かれている。これは、イエスの言葉ではないが、弟子たちが創ったキリスト教の特徴的な思想の一つとなっている。
キリスト教は神は愛であると説く一方で、その神が怒り、裁く神であることを信じる宗教である。また「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と説きながら、神がその敵に報復してくれると信じる宗教である。ここには信念の矛盾が見られる。その矛盾は、キリスト教の神はユダヤ教の神ヤーウェと同一であり、ヤーウェは無差別的な愛の神ではないことに起因している。いかにイエスが「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と説いて、無条件の愛の実践を諭しても、そのイエス自身が捕えられ、磔刑にあっている。そして、イエスを救世主と信じてその教えに従った者の多くが迫害を受け、惨殺された。ペトロやパウロは、宣教活動の中で殉教している。こうした事実は、イエスの教えに矛盾があるからだろう。
●ユダヤ教の戒律は重視しない
ユダヤ教では、律法以外に、細かい戒律が定められている。紀元前5世紀から約1000年の間に、律法学者(ラビ)が形成した「ラビのユダヤ教」では、613の戒律を定める。戒律には、「~してはならない」という禁忌戒律と「~すべき」という義務戒律がある。禁止戒律は365戒、義務戒律は248戒あり、計613である。これらの戒律は、狭義の宗教的戒律のほかに、倫理的戒律と生活的戒律を含む。
福音書の描くイエスは、戒律や規則については、たいていの場合はそれを尊重する態度を取ってはいるが、場合によっては、躊躇せず反対の態度を取ることもある。祭儀の規則や、何世紀もの信仰の伝統によって認められた慣習に対しては、イエスは自由に批判した。いざとなれば、律法から自分を解放し、また弟子たちも自由にさせることを辞さなかった。またイエスは、新たな戒律を決めていない。
キリスト教では、キリスト教成立までにユダヤ教で定められた戒律を重視しない。そのまま守っている教派はない。ユダヤ教の戒律主義から脱却することによって、戒律に含まれているユダヤ民族の生活文化を相対化し、民族を超えて伝道できる普遍性の高い教義の形成が可能になった。
キリスト教会が発達すると、教会や修道院が様々な規則を定めた。特に修道院では、修道生活に関わる規則を定めて戒律としている。
次回に続く。
キリスト教は、ユダヤ教から律法を受け継いでいる。律法は、ユダヤ教で教義の中心をなすものである。律法は、神ヤーウェが決め、モーセに与えられたものを主とする。
モーセが受けた律法を十戒という。十戒は、神からユダヤ民族に一方的に下された命令である。神がシナイ山でモーセに石板二面に書いて示したとされる。神は、エジプトで奴隷になっていた古代イスラエルの民を救い出した。だから、神に全面服従しなければならないとする。もし守らなければ、人間は神の怒りに触れて、たちまち滅ぼされてしまうというのが、ユダヤ教の考え方である。
十戒は、『出エジプト記』20章と『申命記』5章に記されている。大意は次の通りである。
(1)あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
(2)あなたはいかなる像も造ってはならない。
(3)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
(4)安息日を心に留め、これを聖別せよ。
(5)あなたの父母を敬え。
(6)殺してはならない。
(7)姦淫してはならない。
(8)盗んではならない。
(9)隣人に関して偽証してはならない。
(10)隣人のものを欲してはならない。
キリスト教は、これらの十戒を継承する。ただし、ローマ・カトリック教会とルター派では、(1)(2)を合わせて1項目とし、偶像崇拝の禁止を除く。また(10)を「隣人の妻を欲するな」と「隣人のものを欲するな」という二項に分ける。
キリスト教では、十戒に独自の解釈を行う。ユダヤ教が律法の宗教であるのに対して、キリスト教は愛の宗教である。それは、イエスが律法を乗り超えるものとして、「神に対する愛」と「隣人に対する愛」を基本の掟とし、その実践を説いたことによる。
イエスは、律法を否定してはいない。イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と言っている(マタイ書5章17節)。これは安息日をめぐってユダヤ教正統派のファリサイ派と論争した時の言葉である。律法を自己目的化してしまうファリサイ派の独善を批判したのである。
イエスは、『マタイによる福音書』において、ファリサイ派の律法学者から律法の中でどの掟が最も重要かと問われたとき、次のように答えたとされる。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と(マタイ書37~40節)。
この第二の掟について、イエスは、『ヨハネによる福音書』では、次のように語ったとされている。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ書15章12~14節)と。イエスは、律法と預言者は、この二つの掟に基づいていると理解する。こうした教えによって、イエスは「神に対する愛」と「隣人に対する愛」を説き、ユダヤ教の律法主義・戒律主義を乗り超えようとした。
イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ書5章43~44節)と教えた。「隣人を愛し、敵を憎め」というのはユダヤ教の教えである。ユダヤ教史上最高のラビと言われる紀元後2世紀のラビ・アキバは、ユダヤ教を一言で言うと、『レビ記』19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」であると述べている。ただし、ユダヤ教における隣人とは、ユダヤの宗教的・民族的共同体の仲間である。仲間を愛する愛は、選民の間に限る条件付つきの愛である。人類への普遍的・無差別的な愛ではなく、特殊的・差別的な愛である。なぜなら彼らの隣人愛のもとは、神ヤーウェのユダヤ民族への愛であり、その神の愛は選民のみに限定されているからである。イエスは、このユダヤ民族の隣人愛は、同時に敵への憎悪と結びついていることを指摘する。それが「隣人を愛し、敵を憎め」である。これに対し、イエスは、ユダヤ教の隣人愛を普遍的・無差別的な人類愛に高めようとした。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とうのが、その教えである。その高められた愛が、キリスト教の愛である。ただし、キリスト教徒の歴史は、ごく一部の例外を除いて、この理想の愛とはかけ離れている。
イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と説いた。隣人として仲間や共同体の所属員を愛することは、比較的容易である。だが、敵を愛することは、困難である。自分を虐げ、親や子、妻や友を殺し、祭壇を破壊し、神を冒涜するような敵を、どうやって愛することができるか。パウロは、『ローマの信徒への手紙』に次のように書いている。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『“復讐はわたしのすること、わたしが報復する”と主は言われる』と書いてあります」(ローマ書12章19節)と。ここでパウロが述べているのは、自分が敵に報復するのではなく、神の怒りに任せることである。
注意すべきは、まずこの神は敵に対して怒り、報復する神であることである。また、パウロは復讐心を捨てよ、とは説いていないことにも注意を要する。この神は、敵を赦し、愛する神ではない。復讐心を捨て、敵を赦せと諭す神ではない。無差別的な愛ではなく、罪人を裁き、滅びをもたらす神である。パウロは、そうした神が復讐してくれるから、自分たちは復讐しなくてよいのだと説いている。この考え方は、最後の審判に関する信仰に基づく。人間は最後の審判で真の裁きを受ける、悪人は必ずその時に罰せられるから、いま自分たちが悪人に報復する必要はないと考えるものである。
また、これに加えて、イエスの弟子は、神の本質と愛とする思想を説いた。ここでいう愛は、ギリシャ哲学におけるアガペーにあたる。性愛的なエロスではなく、精神的な愛である。キリスト教では、アガペーの語を神の人間への愛に充てる。さらに『ヨハネの手紙一』4章16節には、「神は愛です。」と書かれている。これは、イエスの言葉ではないが、弟子たちが創ったキリスト教の特徴的な思想の一つとなっている。
キリスト教は神は愛であると説く一方で、その神が怒り、裁く神であることを信じる宗教である。また「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と説きながら、神がその敵に報復してくれると信じる宗教である。ここには信念の矛盾が見られる。その矛盾は、キリスト教の神はユダヤ教の神ヤーウェと同一であり、ヤーウェは無差別的な愛の神ではないことに起因している。いかにイエスが「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と説いて、無条件の愛の実践を諭しても、そのイエス自身が捕えられ、磔刑にあっている。そして、イエスを救世主と信じてその教えに従った者の多くが迫害を受け、惨殺された。ペトロやパウロは、宣教活動の中で殉教している。こうした事実は、イエスの教えに矛盾があるからだろう。
●ユダヤ教の戒律は重視しない
ユダヤ教では、律法以外に、細かい戒律が定められている。紀元前5世紀から約1000年の間に、律法学者(ラビ)が形成した「ラビのユダヤ教」では、613の戒律を定める。戒律には、「~してはならない」という禁忌戒律と「~すべき」という義務戒律がある。禁止戒律は365戒、義務戒律は248戒あり、計613である。これらの戒律は、狭義の宗教的戒律のほかに、倫理的戒律と生活的戒律を含む。
福音書の描くイエスは、戒律や規則については、たいていの場合はそれを尊重する態度を取ってはいるが、場合によっては、躊躇せず反対の態度を取ることもある。祭儀の規則や、何世紀もの信仰の伝統によって認められた慣習に対しては、イエスは自由に批判した。いざとなれば、律法から自分を解放し、また弟子たちも自由にさせることを辞さなかった。またイエスは、新たな戒律を決めていない。
キリスト教では、キリスト教成立までにユダヤ教で定められた戒律を重視しない。そのまま守っている教派はない。ユダヤ教の戒律主義から脱却することによって、戒律に含まれているユダヤ民族の生活文化を相対化し、民族を超えて伝道できる普遍性の高い教義の形成が可能になった。
キリスト教会が発達すると、教会や修道院が様々な規則を定めた。特に修道院では、修道生活に関わる規則を定めて戒律としている。
次回に続く。