●権利の要素③ 正当性
権利は、意思の発動としての能力の行使であるが、能力の行使は、他者の承認を要する。「~することができる」ということと、「~してよい」ということは別である。前者は能力であり、後者は承認に関係する事柄である。能力の行使は他者との意思交通によって他者の承認を得たときに、初めて権利となる。他者より行使を承認された能力が、権利である。またこの権利を持つ立場を資格という。
権利を主張することは、能力の行使に承認を求めること、及び承認を得ていることの正当性を主張することである。他者の承認を受けた能力行使は、正当な行為である。他者による承認またはそれを得た資格が、正当性の根拠となる。ここに権利の第3の要素として正当性を挙げられる。
英語で正当性を表す言葉は right である。right は「権利・正当性・正義」等を意味する。例えば、ロングマンの英語辞典では、right の語義を次のように説明する。
1 <allowed> [C usually singular] if you have the right to do something, you are morally, legally, or officially allowed to do it.
2 <freedom/advantages> rights [plural] the freedom and advantages that everyone should be allowed to have.
ここで、right の意味の核心は、allowed にある。すなわち、何かをすることを承認・許可されていることである。
権利には、それを承認・許可する者と、承認・許可される者との間で、了解が必要である。政府の承認や保障は、基本的に必要ない。人々が社会において、統治機関の存在の有無にかかわらず、相互に能力の行使を承認していればよい。政府は、それを公的な権力によって公認し、実力の裏付けを以て保障する役割をする機関である。
西欧語の多くで、「権利」を表わす言葉は、「正当性・正義」も意味する。英語のright と同じく、独語のRecht、仏語のdroitには、「正しさ」という意味がある。これらが示しているのは、西欧における「権利」とは、「正しさ」を主張し、承認された事柄であることである。すなわち、「~する権利(right)がある」ということは、「~する正当性(right)がある」ということと同義である。
わが国では、権利と正義の両義を持つ right/Recht/droit を「権利」と訳した。そのため、元の西欧単語が持っていた「正当性・正義」の意味が隠れてしまった。だが、西欧語の多くでは、権利とは、正しいと認められていること、正当であることを意味することに留意すべきである。
社会的な承認は、何らかの基準に基づいて行われる。その基準は、行為や評価が正当か否かを判断する基準となる。何かを「する能力」を用いる時、西洋人は、何をもってその行為を正当であると考えるか。また何を正当性の根拠を考えるか。もともと西洋では、人々が自己の「正しさ」を主張するとき、先祖から伝わる慣習、伝統的な道徳、宗教的な教義をもとにしていた。そうした何らかの根拠があり、それを基準として「正しい」と認められたものが、「権利」だった。ところが、近代社会においては、そうした基準が否定されるか、括弧に入れられるようになった。原因は、共同体の解体、キリスト教の権威の低下、世俗化の進行による。そして、正当性の根拠は、現実の人間同士の約束や取り決めのみに求められるように変化した。それによって、権利は人間の間における利害関係を意味することが多くなった。ここに権利の第4の要素としての利益が浮かび上がる。
●権利の要素④ 利益
権利は、広義では、能力の行使について、他者の承認を受け、正当性を持つものをいう。一方、狭義では、一定の利益を主張し、またこれを享受する手段として、法が一定の者に与える能力をいう。権利は個人や集団の利益に関わるものであり、権利の第4の要素に利益がある。
利益とは、能力を行使した結果、得られる善いもの、善い結果である。権利は利益であり、また利益を追求し、実現する能力であり、その行使を承認された能力である。「利益」と訳す西欧単語は、英語 interests、独語 interessen、仏語 interestsである。英語では profit、benefit 等も利益の概念に当たる。これらの訳語に充てられた「利益」という漢語は、もともと仏教の言葉である。仏教では利益の語を「りやく」と読み、法力によって恩恵を与えることを意味する。自らを益するのを功徳(くどく)というのに対し、他を益するのを利益という。つまり、「利益(りやく)」は利他的な意味を持つ言葉だった。
ところが、利益の語は西欧語の翻訳に使われて「利益(りえき)」となったことで、宗教的な意味を失い、世俗的な意味を表すようになった。現代日本語の利益は、「ためになること」「益になること」である。また「利すること」「得分」「もうけ」「有利」「好都合」等を意味する。経済的な意味で使うときは、経済活動を通じて獲得・実現された富の増加分を意味する。
こうした利益の概念は、善、快楽、幸福等の概念と重なり合う。利益とは、能力を行使した結果、得られる善いもの、善い結果である。何を善いものとするかによって、さまざまな利益があり得る。物質的利益だけでなく精神的利益、個人的な利益だけでなく集団的な利益がある。精神的な利益とは、必ずしも物質的な結果を伴わない精神的な満足や幸福感をいう。集団的な利益は、その集団にとって善いもの、善い結果である。国家においては、国家国民の利益としての国益が追求される。国益には、政治的・経済的・軍事的・外交的等の利益があり、国益の追求とは生命的・経済的・社会的・精神的価値の実現によって、国民の幸福を実現し、増大することである。こうして国民の幸福を実現・拡大することは、国民諸個人の幸福追求の権利を集団的に行使し、諸個人にとって善い結果を集団的に実現することとなる。
権利は、こうした幅広い意味での利益であり、利益を追求し、実現する能力であり、またその行使を承認された能力である。その利益の保持及び追求の正当性を保護するものが、法である。次に、権利の第5の要素として、法について述べる。
次回に続く。
権利は、意思の発動としての能力の行使であるが、能力の行使は、他者の承認を要する。「~することができる」ということと、「~してよい」ということは別である。前者は能力であり、後者は承認に関係する事柄である。能力の行使は他者との意思交通によって他者の承認を得たときに、初めて権利となる。他者より行使を承認された能力が、権利である。またこの権利を持つ立場を資格という。
権利を主張することは、能力の行使に承認を求めること、及び承認を得ていることの正当性を主張することである。他者の承認を受けた能力行使は、正当な行為である。他者による承認またはそれを得た資格が、正当性の根拠となる。ここに権利の第3の要素として正当性を挙げられる。
英語で正当性を表す言葉は right である。right は「権利・正当性・正義」等を意味する。例えば、ロングマンの英語辞典では、right の語義を次のように説明する。
1 <allowed> [C usually singular] if you have the right to do something, you are morally, legally, or officially allowed to do it.
2 <freedom/advantages> rights [plural] the freedom and advantages that everyone should be allowed to have.
ここで、right の意味の核心は、allowed にある。すなわち、何かをすることを承認・許可されていることである。
権利には、それを承認・許可する者と、承認・許可される者との間で、了解が必要である。政府の承認や保障は、基本的に必要ない。人々が社会において、統治機関の存在の有無にかかわらず、相互に能力の行使を承認していればよい。政府は、それを公的な権力によって公認し、実力の裏付けを以て保障する役割をする機関である。
西欧語の多くで、「権利」を表わす言葉は、「正当性・正義」も意味する。英語のright と同じく、独語のRecht、仏語のdroitには、「正しさ」という意味がある。これらが示しているのは、西欧における「権利」とは、「正しさ」を主張し、承認された事柄であることである。すなわち、「~する権利(right)がある」ということは、「~する正当性(right)がある」ということと同義である。
わが国では、権利と正義の両義を持つ right/Recht/droit を「権利」と訳した。そのため、元の西欧単語が持っていた「正当性・正義」の意味が隠れてしまった。だが、西欧語の多くでは、権利とは、正しいと認められていること、正当であることを意味することに留意すべきである。
社会的な承認は、何らかの基準に基づいて行われる。その基準は、行為や評価が正当か否かを判断する基準となる。何かを「する能力」を用いる時、西洋人は、何をもってその行為を正当であると考えるか。また何を正当性の根拠を考えるか。もともと西洋では、人々が自己の「正しさ」を主張するとき、先祖から伝わる慣習、伝統的な道徳、宗教的な教義をもとにしていた。そうした何らかの根拠があり、それを基準として「正しい」と認められたものが、「権利」だった。ところが、近代社会においては、そうした基準が否定されるか、括弧に入れられるようになった。原因は、共同体の解体、キリスト教の権威の低下、世俗化の進行による。そして、正当性の根拠は、現実の人間同士の約束や取り決めのみに求められるように変化した。それによって、権利は人間の間における利害関係を意味することが多くなった。ここに権利の第4の要素としての利益が浮かび上がる。
●権利の要素④ 利益
権利は、広義では、能力の行使について、他者の承認を受け、正当性を持つものをいう。一方、狭義では、一定の利益を主張し、またこれを享受する手段として、法が一定の者に与える能力をいう。権利は個人や集団の利益に関わるものであり、権利の第4の要素に利益がある。
利益とは、能力を行使した結果、得られる善いもの、善い結果である。権利は利益であり、また利益を追求し、実現する能力であり、その行使を承認された能力である。「利益」と訳す西欧単語は、英語 interests、独語 interessen、仏語 interestsである。英語では profit、benefit 等も利益の概念に当たる。これらの訳語に充てられた「利益」という漢語は、もともと仏教の言葉である。仏教では利益の語を「りやく」と読み、法力によって恩恵を与えることを意味する。自らを益するのを功徳(くどく)というのに対し、他を益するのを利益という。つまり、「利益(りやく)」は利他的な意味を持つ言葉だった。
ところが、利益の語は西欧語の翻訳に使われて「利益(りえき)」となったことで、宗教的な意味を失い、世俗的な意味を表すようになった。現代日本語の利益は、「ためになること」「益になること」である。また「利すること」「得分」「もうけ」「有利」「好都合」等を意味する。経済的な意味で使うときは、経済活動を通じて獲得・実現された富の増加分を意味する。
こうした利益の概念は、善、快楽、幸福等の概念と重なり合う。利益とは、能力を行使した結果、得られる善いもの、善い結果である。何を善いものとするかによって、さまざまな利益があり得る。物質的利益だけでなく精神的利益、個人的な利益だけでなく集団的な利益がある。精神的な利益とは、必ずしも物質的な結果を伴わない精神的な満足や幸福感をいう。集団的な利益は、その集団にとって善いもの、善い結果である。国家においては、国家国民の利益としての国益が追求される。国益には、政治的・経済的・軍事的・外交的等の利益があり、国益の追求とは生命的・経済的・社会的・精神的価値の実現によって、国民の幸福を実現し、増大することである。こうして国民の幸福を実現・拡大することは、国民諸個人の幸福追求の権利を集団的に行使し、諸個人にとって善い結果を集団的に実現することとなる。
権利は、こうした幅広い意味での利益であり、利益を追求し、実現する能力であり、またその行使を承認された能力である。その利益の保持及び追求の正当性を保護するものが、法である。次に、権利の第5の要素として、法について述べる。
次回に続く。