ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

日本の心150~インドの独立にも日本人が貢献

2022-07-31 09:13:41 | 日本精神
 大東亜戦争は戦う必要のない、無謀な戦いでした。しかし、そのなかで、アジアの解放を目指し、アジア民族のために尽くした日本人がいたことを、私たちは記憶にとどめるべきでしょう。
 今や世界最大の民主主義国といわれるインド。その国が、長い英国の支配から独立できた陰には、日本人の協力があったと今もインドの人々から感謝されています。
 藤原岩市少佐は、昭和16年9月、日米交渉が難航し、米英との戦争が避けがたい状況に陥った時、特務命令を受けました。命令は、マレー半島の英国軍の中核をなすインド兵に対して、投降工作を行い、インド独立の基盤をつくることでした。彼が率いる特務機関は、「F機関(藤原機関)」と呼ばれました。
 12月8日、大東亜戦争が開戦されるや、日本軍は破竹の勢いでマレー半島を南下しました。そこに英国軍の一大隊が、退路を断たれ、孤立しているとの情報が入りました。英国人は大隊長だけで、中隊長以下は、すべてインド人でした。
 この時、藤原少佐は一切武器を持たずに、この大隊を訪れました。そして、大隊長と会って全隊を投降させることに成功しました。少佐は、約200名のインド人投降兵の身柄を預かりました。この中に、後にインド国民軍を創設したモハン・シン大尉がいたのでした。
 英国人はインド人を奴隷視・家畜視し、彼らと食事を共にすることなどありませんでした。しかし、藤原少佐は、インド兵たちとともに、インド料理を手づかみで食べました。これには、インド人もビックリ。日本人は、彼らを同じ人間として扱ったのです。彼らの心をつかんだ藤原少佐は、モハン・シン大尉を説得しました。この戦争こそ欧米の支配からアジアが独立する絶好の機会だ、インド人自身によるインド国民軍を創設すべきだ、と。
 昭和16年12月末に発足したインド国民軍は、各地で英国軍内のインド兵を説得して、増員していきました。シンガポール陥落時には、数万人規模にもなりました。
 インド独立の志士スバス・チャンドラ・ボースは、当時、弾圧を逃れてドイツにいました。機を見たボースは18年5月、日本政府からインド独立への支援の約束をとりつけ、シンガポールに入りました。そして、インド国民軍総帥の地位につき、自由インド仮政府を樹立して、英米に宣戦布告を発しました。
 激戦で名高いインパール作戦は、ボースにとって、すべてをかけた戦いでした。「チャロー・デリー!」(征け、デリーへ)が合い言葉でした。北ビルマからインド東部に進攻し、国内の独立活動を活発化させて、英国の支配者を駆逐しようとしました。しかし、結果は大惨敗。死者は3万人にものぼり、インド国民軍も8千人の犠牲者を出しました。彼我数倍の兵力差と雨期にたたられ、物資補給が途絶えたことが、主な敗因でした。しかし、インパール作戦は、これをきっかけに、インド独立の気運が高まった歴史的な戦いでした。
 昭和20年8月の日本敗戦の後、英国はインド国民軍の約2万名を、反逆罪で軍事裁判にかけようとしました。しかし、ガンディー、ネルーらの国民会議派は、「インド国民軍将兵は、インド独立のために戦った愛国者である」と反発し、反英運動を繰り広げました。そして2年間にわたる弾圧をはね返し、インド人は自らの手で独立を勝ち取ったのです。
 戦後インドは、日本に対して大変友好的な態度を取っています。インド政府は戦争賠償の請求を放棄し、また東京裁判ではインド代表パール判事が「日本無罪論」を唱えました。パール判事を日本に送ったネルー首相は、日本が独立を回復すると、日本の国連加入を支援してくれました。
 インド独立の道を切り開いた藤原少佐らは、「インドの独立は、日本のお陰で30年早まった」と、インドの人々から感謝されています。その感謝は、現在も絶えることがありません。平成10年(1998)、インド国民軍(INA)全国委員会は、靖国神社に感謝状を奉納しました。そこには「インド国民は日本帝国陸軍がインドの大義のために払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。インドの独立は日本帝国陸軍によってもたらされました。ここに日印両国の絆がいっそう強められることを祈念します」と書かれてあります。
私たちは、誤った戦争であったとはいえ、大東亜戦争において、被抑圧民族のために尽くした日本人がいたことを心に留め、英霊の安らかならんことを祈りたいと思います。
 インドは、世界で最も親日的な国の一つです。それはインド独立のために尽くした日本人がいたからです。インドは、IT革命の先端を行き、21世紀中半には経済力で中国を抜くかもしれないというほどの潜在力を持っています。反日的な政策をとる国のことばかり意識するのでなく、日本を愛し、日本に感謝している国々を大切にし、関係を深めていくという外交も必要でしょう。

参考資料
・西岡香織著『アジアの独立と大東亜戦争』(芙蓉書房出版)
・加瀬英明著『日本は国の柱を取り戻せ』(『漁火』平成12年10月1日号 経営者漁火会)

 次回に続く。

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戦略論35~クラウゼヴィッツの『戦争論』

2022-07-30 08:22:44 | 戦略論
●クラウゼヴィッツ(続き)

◆思想(続き)

#『戦争論』の抜粋

★戦争
・戦争の本性は、拡大された決闘である。
・戦争は、敵に強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる実力行使である。
・血を流すことを厭う者は、これを厭わぬ者によって滅ぼされる。
・戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続である。

★戦略と戦術
・多くの戦闘を連合して戦争の目的を達せしめるのが戦略であり、一つの戦闘を計画し実施するのが戦術である。
・戦略は戦術を準備する。いつ、どこで、どのくらいの戦闘力をもって戦うかを決める。
・戦略は戦術を収穫する。戦術的成果は、勝利でも敗北でも、これを取り上げて、戦争目的達成に利用する。
・戦術的成功がなければ、戦略的成果はない。
・敵の戦闘力の破壊という戦争本来の手段をなるべく使わないで済まそうとする戦略は誤りである。しかし、敵の戦闘力を直接破壊することだけが戦略ではない。

★準備
・戦略の第一条件は、できるだけ強大な戦力をもって戦場に臨むことである。
・数の優勢ということは、勝利の諸要件のうちの一つにすぎない。
・十分でない戦力をもって戦争を開始することは、成功しないばかりでなく、かえって害がある。
・一息に全作戦を実行し終われるだけの力を貯えてから仕事に取りかからねばならない。小飛躍は大飛躍より容易ではあるが、広い濠の半分だけを、まず飛び越えるということは不可能である。
・戦いは、勝とうと思う者同士の抗争である。必勝の条件というものは望めない。準備において、できるだけ勝利の条件をととのえ、実行に当たっては打算を超越して断行せよ。

★開戦と終戦
・開戦のための判断を誤らないことは、天才にだけできることで、たんなる理論的計算では不可能である。
・戦争の終末を考えないで、その第一歩を踏み出すことはできない。
・武力だけでは、戦争の目的を達成できない。
・戦勝軍の終戦条件は過大ではいけない。武力の効果を過信するな。将来に禍根を残すな。

★作戦と展開
・戦略的には、最初から全戦力を使用すべきであるが、戦術的には、逐次に使用することもある。戦術上の好機はしばしば終末期の混戦中に生ずるからである。
・大火は、小火がいくつ集まっても出せないほどの大熱を出す。
・十の力をもって一時間でできる仕事は、五の力をもって二時間でできるという理論は、戦争では通用しない。

★詭計と明察力
・戦略の語源はギリシャ語の詭計である。しかし、詭計が戦略ではない。(註 戦略の語源を詭計とするのは、一説)
・詭計にも相当の労力と時間とが必要であり、下手をすると本来の戦力を減らす。責任ある将帥はこれを好まない。詭計よりも、明察力のほうが大切である。

★成功と勝利
・作戦は幾何学的形式(態勢)の優越だけで成功するものではない。
・大きい成功をすれば、小さい成功はこれについてくる。いたるところで勝つ必要はない。
・勝つためには、常に敵全体の重心を目指し、全力をあげて突進せよ。敵の軍隊・首都(政治中枢)・同盟強国などは重要な突進目標である。目的はパリ、目標はフランス野戦軍(対仏作戦計画)
・一連隊の敗戦は、一軍の戦勝によって盛り返すことができるが、一軍の敗戦は、一連隊の戦勝では盛り返せない。

★攻撃と防御
・防御は攻撃よりも堅固な戦闘方式である。防御は、待機と反撃よりなる、前者は後者に先行する。
・防御の目的は消極的である。防御するのは、攻撃する力のないときにかぎる。
・攻撃は防御よりも敗れやすい戦闘方式であるが、それ故に大なる成功を収めることができる。

★決戦
・栄冠は最後の勝利者に与えられる。途中の得点の総和が敵にまさっていても、なんにもならない。
・三つの敵に対する場合、第一の敵、第二の敵を破っても、第三の敵に敗れれば、全ての敵に敗れたのと同じである。
・決戦時には、勝敗両者ともに危機にある。精神力を失うことが、勝敗の分かれる原因である。

◆影響

 『戦争論』ほど、その後の戦略思想に大きな影響を与えた本はない。内容は陸戦を主としているために、海戦の重要性が増し、さらに航空戦が本格化した第2次世界大戦以後は、古典的な理論書となった。だが、基本的な部分は現代の戦争にも当てはまるものであり続けている。
 『戦争論』の影響で見逃してはならないのは、共産主義の革命理論にも大きな影響を与えた点である。フリードリッヒ・エンゲルスやウラディミール・レーニンは、クラウゼウィッツの説く戦争の本性を、階級闘争における支配階級の撃滅と読み替え、革命の成功には人民大衆の階級意識の形成が重要であるとした。彼らは「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続である」という定義を強調し、武力闘争によって権力の奪取を図る軍事理論を実践した。彼らの姿勢は、その後の共産主義者に継承された。また、ゲリラ戦略の指導者やテロリストにも受け継がれている。

 次回に続く。

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日本の心149~日本人はインドネシア独立に協力した

2022-07-29 13:11:18 | 日本精神
 大東亜戦争は無謀な戦いであり、敗れるべくして敗れました。しかし、その中において、アジアの解放を目指して、アジア民族のために尽くした日本人がいたことを、忘れてはならないでしょう。
 インドネシアは、現在、ASEANのメンバーとしてめざましい発展を遂げています。しかし、この国は、17世紀以来、3世紀半にわたって、オランダの過酷な植民地支配を受けていました。独立を願う民衆の間には、いつしか、「いつか北から同じ人種がやってきて、とうもろこしが芽を出して実をつけるまでにインドネシア人を救ってくれる」という予言が生まれました。
 その予言は、昭和17年3月1日に実現しました。日本軍が総兵力5万5千をもって、ジャワ上陸を行ったからです。わずか10日後には、オランダ軍司令官は全面降伏しました。予言を信じた人々が、積極的に日本軍に協力したからです。
 オランダ支配下では、強制労働が行われ、オランダ語が強制され、政治的には分割統治が行われ、愚民扱いの政策が行われ、人々には政治参加の機会が与えられませんでした。独立運動は弾圧され、独立旗(メラプティ)・ 独立歌(インドネシア・ラヤ)は禁止され、インドネシア人には軍事能力を絶対に与えない政策がされていました。 
 後に大統領になるスカルノやハッタは、独立運動の指導者として活動していました。彼らの情熱は、第16軍の今村均中将を感動させました。今村は、彼らの運動を支援しました。「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」というのが、今村の信念でした。
 また、日本は、ペタと呼ばれる祖国防衛義勇軍を組織して訓練し、3万5千の将校・兵士を育成しました。このペタが独立戦争で活躍するようになったのです。
 ペタ出身の元大将スミトロ氏は、日本軍政の三年半は「インドネシア独立のアクセルとなった」と語っています。また、チョクロプラノロ氏(元ジャカルタ州知事)は、日本がインドネシア人にインドネシア語を使うように教育したことにより、「感情の統一、行動の統一、民族の統一がなされ、独立にとっての力を発揮することができた」と語っています。ケマル・イドリス氏(ペタ出身)も「独立戦争の基本となった軍事能力を与えてくれた」とも語っているのです。
 日本は、オランダとは異なり、インドネシアを一つの地域として認め、中央参議院・州参議会を設置して、インドネシア人に政治参加の機会を与えました。約300もの多数の言語に分かれているインドネシア人のために国語(インドネシア語)を整備して教育し、教員学校・職業学校も設立しました。インドネシア・ラヤのラジオ放送を行い、将来の独立を承認して、最終的には独立旗・独立歌を承認しました。こうした政策は、白人が有色人種を支配した政策とは、全く違う日本独自の政策だったのです。
 日本が敗戦を迎えた昭和20年8月15日の2日後、スカルノとハッタは独立宣言を発し、翌日、インドネシア共和国憲法を採択しました。しかし、イギリスとオランダは植民地の復活を狙い、独立運動を阻止しようとしました。インドネシア側には、戦いのために武器が必要でした。群衆が武器を要求して、日本軍の施設を襲う事件が起きた時、日本軍は「撃つな、指導者と話し合え」と厳命を下しました。そのため、暴徒に殺された日本人もいました。「インドネシアの独立に栄光あれ」と自らの血糊で壁に書き残した人もおり、その血文字は、今も人々に多大の感銘を与えています。
 日本軍には、オランダ軍の目を盗んで、インドネシア側に協力する動きが現れました。そして、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自動車など200台、中小口径砲など多数と、ジャワの日本陸軍の装備の半分以上が手渡されました。自らインドネシア軍に身を投じた日本人も多くいました。たとえば、その一人青木政四郎曹長は、オランダ軍が千ギルダーもの懸賞金をかけるほどの勇士で、戦闘に慣れないインドネシア人を率いて指揮をしました。青木は「民家のものは決して奪うな。日本人でも女を襲ったり物品を略奪したら撃ち殺す」という厳しい規律を貫き、厚い信頼を受けました。
 オランダとの独立戦争は昭和24年12月まで、4年5ヶ月も続きました。インドネシア側の死者は80万人にも及んだといわれますが、民衆は粘り強く抵抗を続けました。インドを始めとするアジア諸国はオランダを非難し、国連安保理事会や米国議会も撤兵勧告を行いました。国際世論に押されたオランダは、遂に植民地の回復を諦めざるをえなくなり、インドネシアは白人の支配から独立を勝ち取ったのです。
 日本の敗戦後、現地に残留し、インドネシア独立義勇軍に身を投じた人々は約2千人、そのうち約千人が戦死等で亡くなったと推定されています。首都ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地には、独立戦争で特別な功労を立てて戦死した人々が祀られています。この中には11名の日本人が英雄として手厚く葬られています。
 独立戦争の生き証人である宮本静雄氏(元16軍陸軍参謀)は、「敗戦後、インドネシア人に密かに武器を渡す方法を考えた。軍隊を街に残すと、インドネシア人との衝突が起こるので、軍隊を武装解除して山に入れて軍属や邦人を街に残し、インドネシア人との衝突を避けて密かに武器を渡すことに成功した」と語っています。また、小野盛氏(元16軍陸軍指令部参謀部勤務)は、「約2千人の日本人が独立戦争に参加したが、その内約千人が戦死した。何故これだけの戦死者がいるかと言うと、日本人は指揮官として第一線で戦ったからである」と語っています。
 平成3年、海部俊樹首相がASEAN諸国を謝罪して回りました。この時、インドネシアの元復員軍人省長官で東欧大使を歴任したサンバス将軍は、語りました。「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った海部演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。海部さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、アジア・アフリカの悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」と。
 誤った戦争であったとはいえ、大東亜戦争において、アジア解放の理想のために尽くした立派な日本人がいたことを、私たちは忘れてはなりません。そして、アジアの立場に立った歴史の視点をしっかり持っていきたいものです。

参考資料:
・田中正明著『アジア独立への道』(展転社)
・名越ニ荒之助著『日韓2000年の真実』(ジュピター出版)
・『祖国と青年』平成6年2月号(日本青年協議会)

 次回に続く。

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戦略論34~クラウゼヴィッツの概要と思想

2022-07-28 09:42:48 | 戦略論
●クラウゼヴィッツ

◆生涯

 カール・フォン・クラウゼヴィッツは、19世紀前半のドイツの軍人で軍事学者である。1780年に生まれ、ナポレオン戦争に、プロイセン王国の将校として参加した。戦後は、ナポレオンのロシア遠征、ワーテルローの戦い等の実戦の経験をもとにして、戦争の研究と著述に専念した。主著『戦争論』は、死の1年後の1832年に発表された。

◆著書

 クラウゼヴィッツの主著『戦争論』は、人類の戦争史の画期となったナポレオン戦争以降の近代的な戦争を体系的に研究した軍事理論書である。戦争の本質から戦略論・戦術論までを含む包括的な内容となっている。『孫子』と並んで、東西の二大戦争書と称される。
 全体の構成は、「戦争の本性」「戦争の理論」「戦闘」「戦闘力」「防御」「攻撃」「戦争計画」からなる。

◆思想

♯戦争の定義
 クラウゼヴィッツは、戦争の本性を「拡大された決闘」であるととらえた。そして、戦争を「敵に強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる暴力行為である」と定義した。ここで暴力は 独語gewalt の訳語だが、組織化された軍事的な力に暴力という漢字単語を用いるのは、弊害が多い。(この点は拙稿「人権~その起源と目標」第1部第3章で検討した) 私は主に実力を使っている。実力とは、物理的な強制力である。そこで、先の定義を訳語を替えて書き直すと、戦争とは「敵に強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる実力行使である」となる。

#戦争と政治の関係
 フランス革命によって、戦争は絶対王政の国王が雇った傭兵同士が戦うものから、国民が兵士として参加する国民国家の軍隊の戦いに代わっていった。クラウゼヴィッツの『戦争論』は、そうした時代の変化の中で、戦争と政治の関わりを考察した。そして、「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続である」と定義した。
 この定義は、第一に、戦争は政治目的を達成するための手段であることを示す。第二に、戦争は外交とは別の手段である実力を行使して、自分の意思を相手に強制する行為ととらえる。第三に、戦争は政治の下位に位置することを意味する。
 こうした定義は、戦争の開始・継続・終了は、その国の政治が判断する事柄であることを明らかにする。

#戦略と戦術
 クラウゼヴィッツは、「多くの戦闘を連合して戦争の目的を達せしめるのが戦略であり、一つの戦闘を計画し実施するのが戦術である」と定義した。この定義によれば、一つ一つの戦闘に関わるのが戦術であり、多くの戦闘を組み合わせるのが戦略ということになる。
 クラウゼヴィッツは、また「戦略は戦術を準備する。いつ、どこで、どのくらいの戦闘力をもって戦うかを決める」「戦略は戦術を収穫する。戦術的成果は、勝利でも敗北でも、これを取り上げて、戦争目的達成に利用する」と述べている。
 私は、クラウゼヴィッツに学んで戦略と戦術を区別した上で、国家総合戦略と軍事戦略を分け、軍事戦略には世界戦略・地域戦略・作戦戦略があるとしている。クラウゼヴィッツの戦略論において、国家総合戦略のレベルに当たるのは戦争と政治の関係についてである。軍事戦略以外の個別的な分野の戦略については、外交以外は述べておらず、外交に関してもごくわずかしか触れていない。軍事戦略に関しては、彼の時代はまだ世界戦略を考える時代ではなく、地域戦略及び作戦戦略が論じられている。戦争と政治の関係を除くならば、地理的・空間的に限られた範囲での作戦戦略が主に論じられている。

#絶対的戦争と現実的戦争
 ナポレオン1世は、敵を徹底的に殲滅する作戦を実践してそれまでのヨーロッパにおける軍事思想に大きな影響を与えた。クラウゼヴィッツは『戦争論』において、「さまざまな現実の制約がなければ、我と敵の暴力の相互作用によって戦争は無制限に暴力性を拡大する」と考え、そうした戦争を「絶対的戦争」と呼んだ。
 「絶対的戦争」とは、敵を完全に打倒するまで戦う戦争である。敵に自らの意思を強制するためには、実力を行使して敵の戦力の殲滅を目指すことが必要である。しかし、一方で戦争は政治の下位に位置し、戦争の目的は政治目的に従属する。また多かれ少なかれ外交的手段を伴う。クラウゼヴィッツは、「敵の戦闘力を直接破壊することだけが戦略ではない」「武力だけでは、戦争の目的を達成できない」と述べている。
 この点からクラウゼヴィッツは、「戦争は常に政治的交渉の継続の文脈におかれているため、現実の戦争は絶対的戦争にはなり得ない」として、絶対的戦争に対して「現実的戦争」という概念を用いた。また戦争には、目的が無制限のものと目的が制限されているものがあるとした。現実的戦争は、目的を制限された戦争であり、政治的な目的が達成されれば、戦争は停止される。

#軍事的天才
 戦争に勝つためには、優れた指導者が不可欠である。クラウゼヴィッツが、軍事的天才として念頭に置いた指導者は、ナポレオン1世である。
 軍事的天才とは、複雑で不確実性の高い環境においても、常に最適の戦略を的確に発想する能力を持ち、高度な論理的思考力、勇気、決断力、忍耐力、自制心等を兼ね備えた人間である。そうした指導者を得られるかどうかが、戦争の勝敗に大きく影響することをクラウゼヴィッツは強調している。

 次回に続く。

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日本の大黒柱・安倍元首相が殺害される11

2022-07-27 13:01:14 | 時事
●統一教会の政界での暗躍(続き)

20220722
<報道>
 日刊ゲンダイの記事より。

ーーーーー
 ・・・昨年までの35年間で消費生活センターなどが受けた統一教会に関する相談は3万4537件、被害総額は約1237億円に上る。弁護団によるとそれも「氷山の一角」だという。これほど被害が膨らんでいるのに、なぜ警察は一向に捜査に動かないのか。
 そこで興味深いのが、統一教会問題を30年以上、追い掛け続けている参院議員の有田芳生氏の証言だ。
 安倍元首相を銃撃した山上徹也容疑者(41)の母親が統一教会に入信したのは、1991年ごろ。有田氏は95年、警視庁公安部の幹部から「統一教会の摘発を視野に入れている。相当な情報源ができた。金の関係から入る」と打ち明けられている。しかし、摘発はなかった。
 有田氏がこう続ける。
 「10年後、元幹部に『今だから言えることを教えて欲しい。なんでダメだったのか』と聞いたら、答えは『政治の力だった』の一言でした。警察は個人名を含めた全国の捜査リスト『統一教会重点対象名簿』を作り、実際に動いていたのですが」
 「全国連絡会」の紀藤正樹弁護士も、会見でこう指摘していた。
 「統一教会のような伝道、経済活動、合同結婚式の3点セットがすべて違法となる集団は世界中どこにもありません。我々はすべて民事事件で解決してきました。普通はどこの国でも、これだけ問題を起こせば途中で刑事事件になります。日本だけが放置され、信教の自由の御旗の下に許されてきたから現実に今、統一教会がある」・・・
ーーーーー

 警察が統一教会を捜査し摘発しようとすると、政治的な圧力がかかってストップさせられる。その圧力は、統一教会と関係の深い政党や、警察に影響力のある政治家からかかったものでしょう。
 統一教会系の国際勝共連合の創設にKCIA(韓国情報部)が関わったことはよく知られています。私の推測ですが、その後も統一教会のバックにKCIAがあり続け、日本の政党や政治家のスキャンダル情報をつかんでいて、それを使って統一教会に協力させたり、霊感商法等の問題をもみ消させていたのではないかと思われます。

20220723
<ほそかわ>
 戦後日本の新宗教の歴史を振り返って、政治との関係で大きな問題だと私が思うことに、次の三つがあります。

1.創価学会の最高指導者・池田大作氏は、婦女暴行・多額献金等の多くの疑いを受けながら、国会に証人喚問されなかったこと。(長期重病説、既に死亡説、ミイラ化して保存説等あり)
2.オウム真理教に対し、公安審査委員会は破壊活動防止法による解散請求を棄却し、また一連の裁判ではロシア・北朝鮮との関係がまったく取り上げられなかったこと。
3.霊感商法・合同結婚式等が大きな社会問題になった統一教会が、宗教法人法に基づいく解散命令を受けず、家庭連合への名称変更を認証されたこと。

 これらのうち3の問題が、安倍元首相殺害事件によって、期せずして浮かび上がりました。
 日刊ゲンダイに前川喜平・元文科事務次官が、この問題について語っています。名称変更問題の時に、文化庁文化部宗務課長、のち文科審議官だったとのこと。嘘の多い人物ゆえ、どこまで事実を語るつもりか、何か政治的な目的があるのかどうか分かりませんが、当時の省庁の担当者の話として興味深い内容です。

ーーーーー
前川喜平・元文科次官が明かす「統一教会」名称変更の裏側【前編】「文化庁では教団の解散が議論されていた」

 (註 リード)・・・霊感商法や合同結婚式などによる被害が明るみとなり、1980~90年代に大きな社会問題となった旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)は、名称変更で実態をゴマカし、組織維持を画策。所轄庁の文化庁は突っぱね続けていたが、第2次安倍政権下の 2015年8月に認証した。一連の動きの背景で何が起きていたのか。・・・
(註 前川氏)僕が文部省の外局である文化庁の宗務課長に異動した1997年、旧統一教会が「世界基督教統一神霊協会」から「世界平和統一家庭連合」に名称を変更したいと認証を求めてきた。「事前相談」があったのです。・・・
 宗務課がどう対応したか・・・組織の実態が変わっていなければ、規則変更は認証できない。そう判断し、申請を受理しなかったのです。申請を受けて却下したわけではありません。水際で対処したのです。・・・
 霊感商法で多くの被害者を出し、損害賠償請求を認める判決も出ていた。青春を返せ裁判などもあった。「世界基督教統一神霊協会」として係争中の裁判もあり、社会的にもその名前で認知され、その名前で活動してきた実態があるのに、手前勝手に名称を変えるわけにはいかない。問題のある宗教法人の名称変更を認めれば、社会的な批判を浴びかねないという意識はありました。
 オウム事件後の宗教法人法改正で慎重対処に転換した矢先だった(註 小見出し)・・・(註 前川氏)宗教法人をより注意深くチェックして慎重に対処し、怪しい教団を認証しない考え方へ大きく変化しました。そうした中、名称変更の認証を求めてきたのが統一教会(現・世界平和統一家庭連合)だったのです。・・・
 オウム真理教による一連の事件を受け、1996年9月に改正宗教法人法が施行されました。僕が98年7月まで在任していた文化庁文化部宗務課でも、所轄する統一教会について議論になりました。公序良俗に反する宗教法人を解散させることはできないものかと。・・・
 宗教法人法は第81条で解散の事由をこう規定している。

▼法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと。
▼第二条に規定する宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をしたこと又は一年以上にわたつてその目的のための行為をしないこと。

 ・・・(註 オウム真理教に対してと同様に)統一教会にも公共の福祉の侵害や宗教法人の目的逸脱などの規定を適用できないものか。信者が引き起こした刑事事件はいくつもあり、教団側が敗訴した民事裁判もたくさんある。内部で検討はしたものの、当時は厳しいとの結論に至りました。
 こうした経緯からも、統一教会が求める名称変更を文化庁が認証したのは、方針の大転換だったのです。20年近く押し返してきたわけですから。第2次安倍政権下の2015年8月のことで、僕は事務次官に次ぐ文科審議官のポストに就いていました。(後編につづく)
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 後編で政治家個人の名前を挙げて批判するかな。当時の総理大臣が安倍氏、文科相が下村氏。

20220726
 東京新聞の記事より。日刊ゲンダイに前川氏の記事の後編が掲載される前に、東京新聞が独自取材を加えた記事を掲載。

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旧統一教会、19年越しで名称変更のなぞ 下村文科相在任中に突如実現

 安倍晋三元首相銃撃事件にからみ、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と政治の関連が問題化する中、そもそもなぜ「旧」統一教会となったのか、をめぐる疑問が浮上した。旧統一教会側は1997年に名称変更を当時の文部省(現文部科学省)文化庁に相談したものの、同庁は水際で拒否。以降、名称変更は認められてこなかったが、2015年の下村博文文科相時代に突如、変更が認められた。いったい何があったのか。(特別報道部・宮畑譲、中山岳)

◆1997年の申請拒否が前例だったが…
 97年、旧統一教会が求めた名称の変更を断ったのが、当時、文化庁で宗務課長を務めていた元文科次官の前川喜平氏だ。その前川氏が25日、「こちら特報部」の取材に応じた。
 「いくつも訴訟を起こされ、社会的に問題がある宗教法人。そして、その実態は変わっていなかった。『申請されても認められない。申請しないでください』と伝えて断った」。前川氏が振り返る。名称を変更するには、社団法人などの定款に当たる規則を変えなければならない。申請があり、問題がなければ、文化庁が認める形を取る。
 この申請拒否が前例になり、そのまま18年が過ぎた2015年に突如、旧統一教会の名称変更が持ち上がった。文科審議官に就いていた前川氏は、文化庁の宗務課長が報告に来たことを覚えている。規則の変更は文化部長が決裁する。しかし、これまでの判断を覆して名称変更を認めるとは尋常ではない。
 前川氏によれば、日本の官僚は「官僚は間違ったことをしない」との前提に立つ。従って前例踏襲となる。それを覆すには強い動機が必要となる。

◆覆った前例踏襲「政治の強い意図が分かった」前川氏 
 「それまで何年も続いてきたことが変わる。これは役所にとっては大変に大きな出来事。それに教団は多くの問題があった。名称変更は官僚の『慣性の法則』から言えば、官僚の側から出てくる理由はない。政治の強い意図が働いているのがわかったが、駄目だと言っても無理だろうと、抵抗できなかった」
 この文化庁の対応に疑問を突きつけたのが当時、民主党の参院議員だった有田芳生氏だ。有田氏の質問に対し、文化庁は「本件(名称変更)については大臣に事前に説明いたしました」と回答。教団の過去や現状についても「周辺情報」として伝えていたという。
 前川氏は「これは役人としては大臣に判断を仰いでいることと同義だ。どうでもよいことなら報告しないし、前例を覆すこともしない。少なくとも大臣は名称変更にストップをかけられたはずだ」と考える。

◆事務方から説明あったが「関わっていない」下村氏側
 名称変更があった当時、大臣だったのが下村氏。どんな経緯があったのか。
 既に取材のあった週刊誌への回答として、下村氏は13日、ツイッターに「文化庁によれば『通常、名称変更については、書類が揃い、内容の確認が出来れば、事務的に承認を出す仕組みであり、大臣に伺いを立てることはしていない』」とする文書を載せた。
 しかし、あらためて「こちら特報部」が事務所に問い合わせると、「事務方から事前に説明があったことは21日に会見して説明した。名称変更について指示をした事実はなく、したがって本件に『全く関わっていない』のは事実です」との回答があった。
 前川氏は「まさに『通常、大臣に伺いを立てることはしない』が、官僚は報告した。それは政治的な圧力があった証拠。語るに落ちる。それに、報告を受けた上司が『全く関わっていない』と言える組織はどこにもない」と批判する。
 こうなると、なぜ事前に下村氏に説明したのか、当時の下村氏の反応はどうだったかが問題となる。「こちら特報部」は文化庁宗務課に尋ねたが、「当時の担当者がいないため分からない」と述べるに留まった。
 下村氏は13~14年、旧統一教会系の日刊紙「世界日報」や、同紙の月刊誌「ビューポイント」にインタビュー記事などが複数、掲載された。また、発行元の世界日報社は16年3月、下村氏が代表を務める「自民党東京都第11選挙区支部」に6万円を寄付していた。こうした関係性も、名称変更の不可解さを増幅させている。

◆悪名捨て勧誘、被害拡大か
 それにしても、なぜ旧統一教会は19年越しでも名称変更にこだわったのか。
 旧統一教会の動きに詳しいジャーナリストの鈴木エイト氏は「霊感商法で悪名高くなった統一教会の名称を変えることで、勧誘や伝道活動をしやすくなるからだ」とみる。
 鈴木氏によれば、旧統一教会は前川氏の「拒否」以降も、たびたび名称変更を文化庁に打診していたという。「当時は霊感商法などの問題から、文化庁は申請自体をさせないようにしていた。必要書類をそろえた申請書を受け取ると、認証せざるをえないからだ。そのため統一教会は13年ごろから自民党の文教族ら政治家へ接近するようになった」と話す。
 政治家との結び付きの強さをうかがわせたのは、名称変更が認められた約2カ月後の15年10月。旧統一教会が幕張メッセ(千葉市)で開いた「世界平和統一家庭連合出帆記念大会」だった。鈴木氏によると、国会議員たちから60通以上の祝電が届き、与野党の衆院議員らも祝辞を述べた。
 文化庁は名称変更後1年間、世界平和統一家庭連合に「統一教会」の旧名も併記することを課したとされる。ただ、鈴木氏は被害拡大を抑えたとは言い難いとし「つぼや印鑑などを高額で売り付ける手法は10年以降はほぼなくなったものの、家系図作成の受講料として数十万円を要求することや、多額の献金集めは継続していた。名称変更の1年後には、街頭で勧誘活動をする信者たちが『もう統一教会と言わなくていい』と喜んでいた」と語る。
 全国霊感商法対策弁護士連絡会は文化庁に名称変更を認めないよう再三、求めていた。山口広代表世話人は、名称変更後、文化庁宗務課の担当者が「書類がそろっていたら受理せざるを得ない。それ以上の説明はできない」などと言っていたのを覚えている。「名称変更後に、統一教会とは知らずに深みにはまった被害者もいる」と問題視する。

◆旧統一教会側は「働きかけたことはない」
 旧統一教会は、どう考えているのか。
 ユーチューブ上の公式チャンネルによれば、97年4月8日に団体としては名称変更をしていたという。世界平和統一家庭連合日本本部(東京)広報部は、韓国の教団本部が個人の救済を目指す宗教活動から理想家庭の実現へと活動の軸足を移すため、世界各地の団体を名称変更すると発表したと説明。広報担当者は「信者に丁寧に説明して違和感なく理解してもらい、(法人名の変更で)国の許可を得たのが2015年になった。下村氏に働きかけたことはない」と述べる。
 ただ、前出の有田氏は、名称変更の影響について「旧統一教会が霊感商法で巨額の資金集めをしていたのは日本だけだった。平和、家庭といった文言を使った名称に変わり、こうした問題点も消えてしまいがちになった」と指摘。山口氏も「名称変更によって被害の拡大につながったと言える。政治力が影響したのなら問題だ。今からでも経緯を検証すべきだ」と求める。

◆デスクメモ
 18年もの拒否の理由について、通常はないはずの部下からの事前の説明は、下村氏にとっても重みを持ったはずだ。それを聞いてもなお、ストップをかけなかったので名称変更は実現した。少なくとも、説明を聞いてどう思ったか、どんなやりとりがあったか、詳しい説明が必要だ。(歩)
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20220723
<報道>
 日刊ゲンダイの記事より。

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旧統一教会と関係ある「安倍派議員35人」のリストがコレだ! 自民党内でも圧倒的な人数

 安倍元首相銃撃事件で再燃した「政治と宗教」への関心は高まる一方だ。〈#自民党って統一教会だったんだな〉がツイッターでトレンド入り。まさにその通りで、旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の政界への浸透はすさまじい。とりわけ群を抜いているのが安倍派(清和会)だ。
 日刊ゲンダイがジャーナリスト・鈴木エイト氏から入手した旧統一教会と関係のある国会議員100人超のリストを基に、安倍派所属の議員をピックアップ。その数は35人に上った。もっとも、あくまで判明分のみだ。
 党内最大派閥の安倍派は21日に総会を開催。総力支援を受けて参院選で初当選した生稲晃子議員ら新人・元職らの加入などで4人増え、21日時点の会員数を「97人」と発表した。となると、旧統一教会と関係のある議員はおよそ4割。ア然とするほかない人数だ。・・・
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20220728
<報道>
 共同通信社の記事より。

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旧統一教会が岸防衛相の選挙支援 安倍元首相の実弟

 岸信夫防衛相は26日の記者会見で、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に所属する人物から過去の選挙の際に手伝いを受けたことがあると明らかにした。「何人かと付き合いがあり、ボランティアとしてお力を頂いた」と述べた。電話での投票呼びかけに当たったという。
 岸氏は銃撃されて死去した安倍晋三元首相の実弟。「選挙なので、支援者の数が多く集まることは必要なことだと思っている」と語った。
 一方、自民党の茂木敏充幹事長は会見で、旧統一教会との関係について「党として組織的関係がないことを既にしっかり確認している」と強調した。
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20220728
<報道>
 テレ朝newsより。

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二之湯大臣 旧統一教会との関わりに「事実」

 安倍元総理の銃撃事件をきっかけに、現職の大臣や議員とのつながりが明らかになるなか、警察庁を所管する二之湯国家公安委員長も過去に旧統一教会の関連団体イベントで実行委員長を務めていたと会見で明らかにしました。
 旧統一教会の関連団体のイベント「ピースロード」は、2018年に京都で行われました。
 二之湯国家公安委員長は26日の会見で、このイベントで記者からの質問を受けて京都府実行委員会委員長を務めていたのは、「事実」と答えました。
 二之湯国家公安委員長は「会員でもなく、教義も良く知らなかった」としたうえで、当時の事務所に出入りしていた教団関係者から「名前を貸してほしいと言われ、名前を貸した」と説明しました。
 また、イベントでは集まった人たちの前でスピーチしたということです。
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20220727
<FBから取り込み>
 東京都荒川区議 小坂英二

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 間違えてはならないこと。統一教会問題は「政治と宗教の関係」ではなく「政治と反社会的存在の関係」の問題です。
 「政治家のよくある付き合いの一つ」と矮小化するのは致命的な間違いです。
 反社会的詐欺団体が政治家に対して「秘書の長期派遣」「練度の高い選挙スタッフ提供」「金銭支援」「集票」をして、見返りに組織拡大・防衛の便宜を得るという反社会的存在との癒着は許してはなりません。
 統一教会は「日本原罪論」を信者に植え付け、朝鮮半島にお詫び・献身を尽くさねばならないとマインドコントロールします。
 韓国の諜報機関KCIAの指揮下で日本を貶め、先祖や子孫の不幸など恐怖をあおり巨額の集金を徹底している組織です。
 正に反社会的、反日勢力です。この日本人を貶め不幸を量産する組織は存在を許してはなりません!
 統一教会の関連団体等が「日本の誇りを取り戻す教育を」「大東亜戦争での日本人が貶められている不当な状況の是正を」などと言っているのは、日本の保守派、愛国派を取り込む方便・撒餌です。
 騙されてはなりません。彼らの本心は「日本は朝鮮を侵略をした罪深い存在で、償い続けねばならない」という日本悪玉史観そのものです。
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●まとめ

20220722
<ほそかわ>
 安倍晋三氏には、統一教会の実態を知ってもらい、自民党の統一教会への依存を断ち切り、自民党の脱統一教会化を成し遂げてほしかった。逆に、統一教会との関係は、あなたに非業の死をもたらしたことによって、最大の汚点になりました。私の働きかけが力及ばず、誠に残念です。私ごときがであり、おこがましいことではありますけれども。
 あなたを失ったことは、日本にとっても、世界にとっても誠に大きいです。
 あなたの長年にわたる多大な貢献に感謝するとともに、ご冥福を心からお祈り申し上げます。

註 宗教と政治の関係については、拙著『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)の第6章(2)「宗教の政治への関わり」をご参照下さい。

 以降、随時掲載。

************* 著書のご案内 ****************

 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『細川一彦著作集(CD)』(細川一彦事務所)

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日本の大黒柱・安倍元首相が殺害される10

2022-07-27 12:55:12 | 時事
●国葬が閣議決定、各国に伝達

20220722
<報道>
 読売新聞の記事より。

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安倍元首相の国葬、各国に日程伝達…参列者数「小渕氏の葬儀を超えるだろう」

 安倍晋三・元首相の「国葬(国葬儀)」が閣議決定されたことを受け、政府は22日、関係府省庁に担当部局を設置し、準備を本格化させた。式典当日に向け、費用の検討や参列する海外要人の調整、警備態勢の構築などに政府を挙げて取り組む方針だ。
 松野官房長官は22日の記者会見で、「無宗教形式で簡素、厳粛に行う。心のこもった国葬となるよう、関係方面と密接な連携を取りつつ執行に万全を期していく」と述べた。
 国葬は、岸田首相が葬儀委員長、松野氏が葬儀副委員長を務め、全閣僚や3人の官房副長官らが葬儀委員に名を連ねた。
 内閣府には22日、実務の総合調整を担う事務局が設置された。葬儀委員でもある森昌文首相補佐官が指揮し、内閣府や内閣官房、財務省、外務省、警察庁などの職員約20人で構成。具体的な式典進行や費用などについて検討する。
 海外要人の受け入れ調整のため、外務省は約30人の準備事務局を発足させ、石月英雄アジア大洋州局参事官が事務局長に就いた。同日のうちに、日本と外交関係のある195か国のほか、台湾や香港などの4地域、80の国際機関に国葬の日程を伝えた。(略)
 一方、閣議決定を受け、与野党からは様々な反応が上がった。自民党の高市政調会長は「国葬の形で多くの海外要人が弔問する場を作る意義は大きい」と評価。公明党の石井幹事長は「国民に弔意を強制するものではない」と強調した。
 日本維新の会の松井代表は「反対ではないが、政府には説明責任がある」と指摘。国民民主党の玉木代表も、国葬に理解を示しつつ国会での説明を求めた。
 これまで賛否を明らかにしていなかった立憲民主党の泉代表は、「時の政権が元首相の業績を主観的に判断するのはおかしい」と主張し、反対を明言した。共産党の田村智子政策委員長も「弔意の押しつけにつながる」と批判した。
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●高まる国際的評価

20220721
<報道>
 共同通信の記事より。

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安倍氏たたえる決議採択 米上院で全会一致

 米上院は20日、銃撃されて死去した安倍晋三元首相をたたえる決議案を全会一致で採択した。安倍氏を「一流の政治家で民主主義の価値の擁護者」と評価し、「日本の政治、経済、社会、そして世界の繁栄と安全保障に消し去ることのできない足跡を残した」とした。
 決議は前駐日大使のハガティ上院議員ら70人近い議員が13日に共同提出。安倍氏が「自由で開かれたインド太平洋」の考え方を広めたことに触れた上で、現在の日米豪印4カ国の枠組み「クアッド」の基礎となる構想を推進したと強調した。米大統領とともに日米同盟を強化し、北朝鮮の非核化や日本人拉致問題の解決にも精力的に取り組んだと指摘した。
 「米国は偉大な友人を失った」としながらも「そのリーダーシップにより、日米が世界中で自由、繁栄、安全を促進し、専制主義や独裁政治に対抗するため今後数十年にわたって協力する基盤が築かれた」と締めくくった。(共同)
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●根拠なき陰謀論と科学的な策謀論の区別を

20220720
<報道>
 日刊SPA! の記事より。黒猫ドラネコなるペンネームの作者による。

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安倍氏銃撃事件はヤラセ」…拡散される陰謀論とそれを支持する人たちの不気味さ

 陰謀論インフルエンサーたちが案の定、嬉々として自説を展開

 誰もが衝撃を受けた、安倍晋三元首相の銃殺事件。

 大きなニュースがあると、必ず「陰謀論」も湧き上がる。筆者はツイッター上で、これまで様々な医療デマや反ワクチン思想などを垂れ流してきたアカウントを事件直後から観察した。
 予想通り、数千~数万フォロワーを抱えて“陰謀論インフルエンサー”となっている者達が、稚拙な投稿を繰り返している。
 そこには、混乱のなか懸命に救命にあたった方々や、悲しむ多くの人々、そして故人の功績までも踏みにじるような戯れ言の数々が渦巻いていた。
 まず信じられないことに、それら有象無象は、今回の事件を「ヤラセだ」と本気で思っている。単なる検索サイトのバグをスクリーンショットし、「2日前に記事が用意されていた」との画像まで拡散する始末だった。「報道が早すぎる」「メディアのヘリの方が先に病院に到着した」などの疑念が募ってそうさせたようだ。

◆しょせん陰謀論者は素人、プロの仕事を理解できない
 記者が多数いる状況下で起きたことだから、情報が早いのは当然だ。
 大手メディアの記者は、たとえ若手で未熟でも、何か事件があった時はすぐデスクや本社の指揮系統に連絡することを叩きこまれている。その伝達によって社内で記事が作られ、素早くネットに流せるシステムも確立されている。
 全国紙で警視庁担当も務めた元記者によれば、「今回の一報(速報)は遅かったぐらい。『何か音がして安倍さんが倒れている』との事実だけで記事を流すのは当たり前」。ヘリ手配についても、「大事件であり、ヘリを使える社なら数分程度で飛ばすかどうか判断したはず」と話す。
 これに関連して「犯人の名前や家が分かるのが早すぎでは」「なぜ容態や運ばれる病院が分かるのか」などの疑問も全て一蹴できる。
 「警察や官邸筋から記者に情報が渡ることは珍しくない。現場でレク(発表)がなくても、県警からの警察庁への報告をいかに早く手に入れるかが勝負。東京で事件担当を任される力量でそれができない記者はまずいない」(同・元記者)
 一般からすれば情報漏えいとも思われそうだが、事件のニュースは通常このようなルートを持つ記者たちの迅速な働きで読者や視聴者に届けられる。「早すぎる」のはプロの仕事をこなした証だ。

◆また出てきた、「亡くなったのは影武者」説
 そして当たり前だが、警察もまたプロであることを忘れてはならない。「銃創が不自然」「他の銃弾が見つかっていない」など、ネット上で勝手な検証を始める者は後を絶たなかったが、少なくとも素人が思い付くような懸案を調べない訳がない。要人警護の不備を指摘される中にあって、捜査上の見逃しは許されない。既に銃創も解説され、銃弾の跡も見つかったと報じられている。
 「ヤラセ」の根拠として、噴飯ものの“都市伝説”も拡がっていた。「クライシス・アクター」と呼ばれるものだ。異なる事故や事件現場の画像から似た人を見つけ「また同じ人が出演している=茶番である」と騒ぐ程度の低いネット民がいる。
 特に有名なのは「M・H(実名イニシャル)」という女性で、実在の人物だ。テレビ局員として現場レポートやいくつかの番組に出演した画像が出回ったことから誤解され、陰謀論者の誹謗中傷の的にされている。
 今回は救命措置をする輪の中にいた女性がM・Hさんとされ、「やっぱりね」などと揶揄を受けていた。
 荒唐無稽が過ぎる「安倍元首相生存説」も流れた。「本物は逃げている」「亡くなったのは影武者」などの妄言が確認できる。これらはQアノン信奉界隈などではおなじみ「ゴム人間」という用語が源流。著名人はゴム製マスクをかぶった偽者が多い、とのことだ。介抱される安倍氏の「ズボンが後ろ前」との指摘もあった。これは「状況が裏返ることのメッセージ」らしい。

◆現実と虚構の区別がつかなくなると、別の形で再び悲劇が起こる
 いずれも何を言っているかよく分からないが、「耳の形が」「首の皺が」「服装が」と、画像の映り具合で騒ぎ立てる者は一定数いる。政治家や芸能人は特に標的にされやすい。
 こうした幼稚な話で通じ合うコミュニティーと化したものが、ネット上にはある。画像や映像などの断片的な情報から、今回も例えば「(小道具の)血糊に違いない」などの不謹慎な発信をし、それを称え合う者がおそらく万単位でいた。実に不気味だ。
 JFK暗殺、911テロなどでも分かるように、「陰謀論」はどんなに論破されても後世まで根強く残る。根拠の薄い話がいつの間にか「隠された真実」とされて拡がり、故人や傷付いた人達を冒涜する。
 今回の事件でも、それでなくても表現の自由の範疇を超えた投稿が散見された。事実と反する話を嘲笑とともに多く流すアカウントには、プラットフォーム側の厳しい対処をお願いしたい。
 このコロナ禍では、流言を鵜吞みにする人達と、社会との分断が確実に生まれている。現実との境界が失われてネットの闇に溺れる人が増えれば、また違った形の悲劇も起こりかねないだろう。<文/黒猫ドラネコ>
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 黒猫ドラネコ氏は、「JFK暗殺、911テロなどでも分かるように、『陰謀論』はどんなに論破されても後世まで根強く残る」と書いている。JFK暗殺、911テロには、様々な疑惑が出ており、米国政府が事実を公表していないので疑惑に留まり、「論破」はされていない。だが、黒猫ドラネコ氏は、「論破」されているかのように書き、今回の安倍氏殺害事件で現れた様々な書き込みを同じレベルのものと決めつけている。

20220720
<ほそかわ>
 私は、根拠なき空想文学的な陰謀論と、社会科学的かつ自然科学的な策謀論を区別しています。
 根拠なき空想文学的な陰謀論は、事実の裏付けを欠き、また検証を求められることなく流行します。マスメディアや権威主義的な知識人は、様々な角度から物事を検討する議論に対しても十把一絡げに陰謀論というレッテルを貼り、取るに足らない妄説として、言論の場から排除します。また同時に、荒唐無稽な空想に走り、無責任に極端な主張をする陰謀論は、事実・実態に迫ろうとする真摯な取り組みをも、それらと同じような類いのものと人々に思わせるものとなっています。その結果、かえって真相がカムフラージュされてしまいます。
 私は、今回の安倍元首相の殺害事件について、過去の様々な事件から考えて、背後に組織的、国際的な策謀がある可能性を排除せずに、事実を注意深く分析、検討する必要があると思います。しかし、根拠なき陰謀論が流布拡散されることによって、重要な問題点を指摘する策謀論も、陰謀論として同様の扱いを受けることになっていると思います。最初から、何の根拠もなく、アメリカの陰謀だ、CIAの仕業だ、いや中国だ、北朝鮮だ、ロシアだと決めつけるのは、先入観と思い込みによる臆断でしょう。

20220725
 ZAKZAKの記事より。

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安倍元首相銃撃、消えた弾丸 致命傷を与えた銃弾がいまだ見つからないとの情報 自民・青山議員が告発「貫通なし、司法解剖でも未確認」

 安倍晋三元首相が、参院選の街頭演説中に銃撃を受けて死亡した事件をめぐり、安倍氏に致命傷を与えた銃弾がいまだに見つかっていないとの情報が浮上した。救命措置を担当した医師も事件当日に語っていたが、自民党の治安・テロ対策調査会で20日、警察庁の担当者が「銃弾はなかった」と語ったというのだ。この証言を伝えた同党の青山繁晴参院議員(69)のユーチューブ動画「消えた銃弾」は、25日朝時点で36万回の再生回数となっている。
 20日に非公開で開かれた自民党治安・テロ対策調査会には、警察庁の警備局長や捜査1課長、経産省の職員らが出席し、事件について説明があったという。青山氏は、銃弾の弾道などについて質問した。
 動画によると、警察庁側は、安倍氏について銃弾が身体を貫かず、体内にとどまっている傷「盲管銃創」が確認されたと説明した。
 このため、青山氏が「それでは安倍氏の体内に銃弾は残っていたのか」と聞いたところ、警察庁側は「残っていなかった」と答えたという。青山氏が「(銃弾を)捨てたのか」と確認すると、警察庁側は「貫通していないが、銃弾はなかった」と返答したという。
 確かに、事件当日の8日、安倍氏が搬送された奈良県立医科大学付属病院で、救命措置を担当した教授は同日夕の記者会見で、「手術しているときに弾丸は確認できなかった」「銃創が2つあった」と語っている。
 奈良県警はその後、徹底的に捜査しているはずだが、まだ銃弾は見つかっていないということなのか。
 安倍氏を襲撃した山上徹也容疑者(41)=殺人容疑で送検=は、警察の取り調べに対し、「一度に6発の弾丸が発射される仕組みだった」と説明しているという。発見されたカプセル状の物体に弾丸6発を入れて発射する構造だった可能性が高い。
 青山氏は注目の動画で、「(警察側に銃弾については)丸薬のような小さな丸いもの(と確認した)」「警察が噓を言っているとは思わない」「警察側も(銃弾が見つからずに)頭を抱えているのではないか」「(死亡後の)司法解剖で見落とされることはあり得ないので、それ以前の段階で紛失したのではないか」「陰謀論とは別にしても事件には未解明な部分がある」などと見解を示している。
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●統一教会の政界での暗躍

20220721
<報道>
 日刊SPA! の記事より。作家・評論家の古谷経衡氏の発言。

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「安倍元総理と旧統一教会のつながり」は常識。犯行の正当化ではない/古谷経衡

 (略)旧統一教会は岸信介と、戦後右翼の二大フィクサーと言われた児玉誉士夫(鳩山自由党設立を支援)、笹川良一のラインで繋がっており、同時に反社会的勢力(戦後右翼)などと関係があり、かれらやその界隈が反共のスローガンのもと、1968年に国際勝共連合を設立したことは事実です。
 反共産主義(反共)を鮮明にして中国との国交回復(台湾断交)に反対したのが福田赳夫の清和会が誕生した要因のひとつでありましたが、前述したようにこの界隈は鳩山自由党の時代、さかのぼれば児玉誉士夫が統率した「児玉機関」(戦中の軍による戦略物資買い付け機関)と繋がっています。
 また岸、児玉、笹川の三名はいわゆる「巣鴨プリズン」出所組であり、釈放後はアメリカの極東戦略(反共主義)が背後に見え隠れします。このような歴史から、自民党清和会は伝統的に反共で、旧統一教会や国際勝共連合との関係が最も強い派閥となりました。清和会のプリンスと言われ、岸の孫である安倍元総理が縁故関係により旧統一教会とつながりがあるという事実は、戦後政治史・戦後保守史を少しでもかじっていれば常識的で、皆知っています。
 ただし、ソビエトが崩壊し反共の主敵を失った以降の旧統一教会とその関係団体は、バブル期のいわゆる「霊感商法」「合同結婚式」など世論から批判を受けたこともあって、右派界隈の中では存在感が弱まっており、代わって1990年代後半からは宗教右派の集合体である「日本会議」の方が権勢が強まることになりました。安倍元総理が旧統一教会と関係があったことは事実ですが、かつてほどの濃密な関係かどうかまでは断定することはできかねます。(略)
 旧統一教会、国際勝共連合の影響力はとりわけ21世紀に入って減退傾向であり、旧統一教会の信徒数も数万~多くて10万人程度とされています。自民党清和会を支援する宗教団体としては「中堅規模」であることは認識するべきです。(略)
 旧統一教会と自民党清和会の関係性はすでに述べた通り既知のことで、「関係がない」というのは無理な話です。一方で「政権の隅々にまで入り込んでいたズブズブの関係」というほど濃い関係だったのかどうかまでは留保が必要です。
 言わずもがな、政権に最も影響を与えている宗教団体は旧統一教会ではなく信徒数200万~300万人ともいわれる創価学会です。
 旧統一教会と自民党清和会、安倍元総理との関係性は「あった」訳ですが、その濃淡については広く議論することが求められます。それとは別に、宗教二世の問題や、旧統一教会による金銭等の被害者の救済は、これもまた別問題として追及していかなければなりません。
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20220720
<ほそかわ>
 岸信介元首相のほか、統一教会の日本での活動を支援した政治家の代表格が、福田赳夫元首相。
 1974年(昭和49年)に文鮮明氏が日本で行った「希望の日フェスティバル」は、大きな資金力と動員力を感じさせました。この年は、私が大学に入学した年。一方で過激化した極左の残党が反日爆弾闘争へ、他方で韓国の反共かつ反日の宗教団体が大々的に日本で活動。既存の政治社会思想ではとらえきれない状況となりました。
 「希望の日フェスティバル」の運動の頂点は、帝国ホテルでの晩餐会。岸氏が名誉実行委員長、来賓代表が次期総理候補の福田赳夫大蔵大臣。福田氏は、次のように挨拶。
 「アジアに偉大なる指導者現る。その名は文鮮明である。
 私はこのことを伺いまして久しいのでありますが、今日は待ちに待った文鮮明先生と席を同じくし、かつただいまは、文先生のご高邁なご教示にあずかりまして、本当に今日はいい晩だなと気が晴れ晴れしたような感じがいたすのであります。
 今日は文先生から『お前らは神の子である』という激励を受けまして、少し何かえらくなったような感じもいたします。私は『この神の子である』というのは、世の中のために大いに奉仕していく。またそういう気持ちになった日本人個々を育て上げなさいと、こういうことであろうと受け取りました。
 今日は文先生本当に立派なお話を承りましてありがとうございました。心から御礼を申し上げます」
 絶賛ですね。浅はかで卑屈。反日韓国人宗教家に騙されているのに、自分ではうまく利用している気になっている。情けない。
 総理大臣にまでなった保守の大物政治家が、共産主義から日本を守るために、日本精神の復興促進に協力するのではなく、韓国の反日的な宗教団体の力を利用したことによって、どれだけ自民党がゆがめられ、日本が侵されてきたことか。とりわけ選挙で権力を握り、拡大するためには、なんでも利用しようとする政治家のあさましい権力欲が、日本のあり方をどれほどおかしくしてきたことか。
 福田赳夫氏は、息子の康夫氏も総理大臣。孫の達夫氏は現在の自民党総務会長。

 次回に続く。

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 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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日本の心148~日本の戦争をマレーシアから見る

2022-07-27 09:11:03 | 日本精神
 日本にとって、第2次世界大戦は、戦う必要のない戦争であり、戦えば負けることは最初から明らかでした。しかし、大東亜戦争と呼ばれたこの戦争が、結果として、アジア諸民族の独立に寄与したことも、歴史的な事実です。私たちは、この戦争を様々な角度から総合的に見る必要があります。そのための一つの視点として、東南アジアの人々の見方をご紹介します。
 マレーシアは、かつてイギリスの植民地でした。イギリスは、マレーシアを支配するために、インド人、中国人を移民させて複合民族化し、分割統治を行って、非人間的な収奪をしていました。マレーシアではゴム園や錫鉱山で使役したマレー人に、イギリスはマラリアの特効薬だとして阿片を売りつづけました。阿片販売はジュネーブ協定違反ですが、イギリスはこの協定はアジアに適用されないとして、日本軍に追い払われるまでやめませんでした。植民地体制を打ち破る切っ掛けを作ったのは、日本でした。それまで、マレーシアの人々にとって、白人は絶対に逆らうことのできない支配者でした。しかし、同じ有色人種の日本軍は、英国軍と戦って破り、マレーシアの人々に独立をめざす勇気を与えたのでした。そして、マレーシアは、1957年に独立を勝ち得たのです。
 このことに対し、マレーシアの人々はどのように考えているのでしょうか。例えば、ピン・モハマッド・ナクラ氏(近代史研究家)は「神と見えた白人がアジアの軍隊に負けたので、独立は我々の力で達成できると感じた」と語っています。そして、日本最初の上陸地コタバルには、ケランタン州政府によって、日本軍の勝利を記念する戦争博物館が建設されているのです。
 ガザリー・シャフェー外相(当時)は、昭和63年9月、先の大戦について詫びる日本の政治家を批判して、次のように語りました。「とくに私が惜しいと思うのは、日本くらいアジアのために尽くした国はないのに、それを日本の政治家が否定することだ、責任感をもった政治家だったら、次のように言うだろう。『その頃、アジア諸国はほとんど欧米の植民地になっていて、独立国はないに等しかった。日本軍は、その欧米の勢力を追い払ったのだ。それに対して、ゲリラやテロで歯向かってきたら、治安を守るために弾圧するのは当然でないか。諸君らは何十年何百年にわたって彼らからどんなひどい仕打ちを受けたか忘れたのか? 日本軍が進撃した時にはあんなに歓呼して迎えながら、負けたら自分のことは棚に上げて責任をすべて日本にかぶせてしまう。そのアジア人のことなかれ主義が、欧米の植民地から脱却できなかった原因ではないか』と」
 最後に、マレーシアのリーダーとして、「ルック・イースト政策」を推進してマレーシアを発展に導いたマハティール元首相は、どうでしょうか。マハティールは、「東アジア諸国だけで経済問題を討議する組織をつくろう」という東アジア経済協議体(EAEC)構想を打ち上げるなど、アジアの立場から堂々と発言してきた指導者です。そのマハティールは、日本の最大の功績として、白人と対等に口をきけるようにしてくれたことを挙げています。平成7年、村山富市首相がマレーシアを訪問し、謝罪外交を行ったときには、マハティール首相(当時)は、次のように語りました。
 「日本がいつまでも過去の戦争について謝り続けているのはおかしい。日本のかつての戦争に関する責任を問うならば、アジアを長きにわたって植民地化し非人間的な収奪と支配を続けた欧米の宗主国の責任はどうなるのか」と。
 マハティールの発言は、かつて東京裁判で日本を一方的に裁いた欧米人の間に、大きな反響を引き起こしました。しかし、彼らからは、反省や謝罪の声はほとんど現れませんでした。
 日本は、マレーシアが、イギリスの苛酷な統治から独立したことに大きな貢献をしたと、感謝されているのです。
 私たちは、アジアには日本を評価する見方があることを踏まえて、大東亜戦争を様々な角度から見てゆく必要があるでしょう。

参考資料
・名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』(展転社)

 次回に続く。

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戦略論33~鉄砲の登場、ナポレオン戦争

2022-07-26 08:31:14 | 戦略論
●鉄砲の登場による戦術の変化

 古代から中世までは、人間が馬に乗り、手で鋭利な武器を操って戦うという戦術は、変わらなかった。そこに劇的な変化が起こったのは、銃砲の登場による。
 銃砲は、弓矢や投石機などの射出武器が進歩したものである。それまでの射出武器は、人間の身体的な能力によって物を飛ばす武器だったが、火薬の爆発力が利用されるようになった。
 火薬は、シナ文明で9世紀に発明された。不老長寿の薬を求める錬丹術の研究の中で作られた。最初に実用化されたのは黒色火薬で、13世頃に火器に使用されるようになった。元を通じて全モンゴル軍で使われた時は、火薬弾として使用された。ヨーロッパでは、火薬は14世紀から銃砲の発射薬として使用され、15世紀には小銃が現れて従来の戦法を一新した。ルネサンスの時代である。
 小銃は、それまでの重装甲の騎士軍を無力化した。火砲は、中世式の城砦を破壊できた。15世紀末に火縄銃が発明され、1543年にはわが国に伝わった。銃砲の普及は、築城術に大きな変化をもたらし、銃砲の攻撃に耐え得る近代的要塞が出現した。海戦においても、威力ある大砲が船の船体に穴を開け、敵艦隊を沈没させた。
 ヨーロッパで近代国家が発生した時、最初の国家体制は絶対王政だった。当時の国王の軍隊は、傭兵を主体とした。それが18世紀末まで続いた。小銃を持った兵士が横に並んで緩慢に行進して近接距離になったところで射ち合う横隊戦術が取られた。18世紀後半からイギリスを先頭に産業革命が進展すると、銃砲の発射速度や精度が増し、横隊は次第に散開隊形に変わった。武器の技術の進歩とともに、戦術にも大きな変化が起こり、戦闘による殺傷力・破壊力は増大した。

●ナポレオン戦争が歴史的転機

 近代国民国家は、17世紀イギリスの市民革命を通じて出現した。資本主義がする発達する中で、自由主義・民主主義が普及した。1776年、イギリスの植民地だったアメリカが君主制の宗主国から独立し、共和制の国家を建国した。1789年に始まるフランスの市民革命では、君主制が打倒され、共和制に移行した。その後、何度か政体が変化したが、革命の成果を外国の干渉から守るために国民徴兵による大規模な軍隊が作られた。軍隊は多数の列を組んだ縦隊で急速に行進し、戦闘に当たっては散開して銃砲で攻撃した。動揺する敵陣に白兵突撃を行い、騎兵や予備隊が追撃した。
 ナポレオン・ボナパルトという人類史上、屈指の軍事的な天才の出現によって、戦争の歴史は大きな転機を迎えた。ナポレオン戦争は、近代国民国家の戦争だった。国民国家は、国民が政治に参加する権利を持つとともに、国民が祖国を防衛する義務を負うのが基本である。徴兵制によって国民が参加して行われるようになった戦争を、国民戦争という。国民戦争は、絶対王政の傭兵による軍隊よりはるかに大規模な兵力で戦われる。そのため、将帥の経験や直観に頼らない合理的な軍事理論が必要とされるようになった。また、戦争は従来に増して国家の興亡盛衰に大きく影響するようになったため、政治と軍事の関係の明確化が求められた。そこで18世紀末から、それまで混然としていた戦略と戦術が明確に区別して使用されるようになった。
 ナポレオン戦争の研究を通じて、こうした時代の要請に応える軍事理論が発達した。19世紀前半には、クラウゼウィッツやジョミニがその理論を集大成した。彼らの理論書では、政治と戦争の関係、政治的目的と軍事的手段、指揮官の意義、合理的決断、戦力の優越性の原則、欺瞞や奇襲などの軍事戦略に関する主題が総合的に論じられている。彼らの理論を基盤として、戦略論は今日まで発達してきている。

 次回に続く。

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日本の心147~外国要人も感銘を受けた:昭和天皇10

2022-07-25 08:26:42 | 日本精神
 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、昭和56年2月に来日しました。24日、法王は昭和天皇を表敬訪問し、次のように語りました。
 「私は、陛下が無益な受難が起こらぬようにするため、先の大戦を終わらせようと断固たる努力を払い、そして、すべての国民に代わってひとりで戦争の責任を引き受けようと申し出られた陛下の高貴な御態度に格別の尊敬を表します。陛下は実に、現代日本の民主主義と平和と自由の基礎の確立に、疑う余地のない貢献をなされました。そして、その基礎は、お国の歴史上かつてない進歩と繁栄を実現しました」と。
 また、法王は、この来日の際、次のように語りました。「陛下にお目にかかって日本人の心の美しさが、どこから出てくるのかということが良く分かりました」「今回来日して発見したことがあります。つまり、日本の良さというものを、一点に凝縮すると、天皇陛下なのです」と。
 ローマ法王ばかりでなく多数の外国人が、昭和天皇と会見して、大きな感銘を受けました。それは、昭和天皇の個人的な人格によるのみでなく、わが国の皇室に伝わる伝統あってのものといえるでしょう。その証として、アメリカのレーガン大統領、カーター大統領、東ドイツのシェール大統領など、多くの外国の要人が、皇居で行われる宮中晩餐会で、天皇に体されるわが国の伝統・文化を称えています。
 例えば、パキスタンのモハメッド=ジアウル=ハック閣下は、次のように語りました。「パキスタンにおいて、私どもは、陛下を日本文化の絶えざることの象徴として、また、日本国民の不屈の精神の象徴として尊敬申し上げております。……経済分野における日本のめざましい業績に対し、世界全体が賞賛と羨望とをもって認めていることは疑いありません。しかも、さらに一層敬服に値することは、日本国民がその倫理的な拠(よ)り所をしっかりととらえ、そして独自の文化と伝統を保存することに成功しているということであります。回教国家として、その宗教的遺産に誇りを持つパキスタンの国民は、日本人のこの優れた資質に深い感銘を受けております」と。
 次に、ニジェールのセイニ=クンチェ最高軍事評議会議長は、次のように述べました。「陛下は、世界で最も古い君主国の頂点におられます。最も古く最も賞賛すべき文明のひとつが、富士山の影に横たわるこの列島に生まれました。そこには独創的な文明が発達し、結実し、それによって日本国は、押し寄せる様々な出来事にもかかわらず、自らの個性を守り、その魂を保持することができたのであります。かくて、この地には、その文化を失うこともその伝統を放棄することもなく、最も見事で根本的な変革に断乎として着手し、それを成功裏に実現した偉大な国家が繁栄するに至ったのであります」と。
 また、パラグアイのストロエルネル大統領は、天皇と国民の結びつきを次のように表現しました。「私は、この尊敬する日本国民の本国に参りまして、心が高められるように感じ、人類が常に誇りとしてきた数々の力強い美徳の存在を身をもって感得するような気持ちがいたしております。日本人の国を愛する心は、日本人の持つ純真、克己及び謙譲の精神から永劫の泉のように涵養されることを世界は認識しております。……この高潔な国には、人をして日本国を尊敬せしめた祖先伝来の煌(きらめ)きがあり、天皇陛下に体現される諸体制が整っており、日本国民がその輝かしい宗教を信じ、希望を抱き、そして日本民族特有の力強さをもって天皇陛下をお慕いしていることを何人も否定しないのであります」と。
 これらの言葉は、昭和天皇に対する敬意の言葉であるとともに、また、日本の国民全体に対する賞賛の言葉でもあります。そして、日本の伝統と文化の中心には、天皇の存在があり、天皇と国民の一体性に、日本の国柄の特徴があることを示す言葉ともいえましょう。そして、こうした国柄を最もよく体現したのが、昭和天皇だったことがわかります。
 昭和天皇が崩御して、今日もなおその事績を仰ぎ、その人柄を慕う人々は、絶えることがありません。

参考資料
・『聖帝 昭和天皇をあおぐ』(明成社)

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