●砂糖生産のための奴隷貿易
イギリスは市民革命を経て、政治的近代化を成し遂げ、繁栄の道を歩んだ。その繁栄に触れるには、17世紀における近代世界システムの発展から語らねばならない。
近代世界システムが形成された「長期の16世紀」すなわち1450年ころから1640年ころ、西欧における主要な輸入商品は、胡椒・香辛料だった。胡椒・香辛料をめぐって、西欧の諸都市・諸国家は交易に競い合った。しかし、17世紀中半は、胡椒・香辛料は社会的需要において重要性をなくした。それに替わって新たな需要を生んだのは、砂糖や茶、コーヒー、タバコ等だった。
胡椒・香辛料は食品・医薬品であり、西欧では生活必需品だった。それに比べ、砂糖は食品ではあるが、生活に不可欠なものでは全くない。その砂糖が普及したことによって、茶やコーヒー等を飲む習慣がはやった。タバコをふかしながら、舶来の飲料を味わう。生きるうえでは有っても無くてもよいものだが、こうした贅沢品が人々の欲望を引き出し、貿易や経済を変え、有色人種への支配・収奪を強化させた。さらに国家と文明に争いを生み、地球の環境までも破壊していくことになった。
サトウキビの原産地は、南太平洋の島々である。そこから東南アジアを経て、インドに伝わった。サトウキビから砂糖を作ったのは、インドが最古とされる。インドの砂糖やサトウキビは、アラビアに伝えられた。ヨーロッパには、11世紀に十字軍が持ち帰ったのがはじめである。
1520年代にスペインが、セント・ドミンゴで砂糖農園を開始した。続いて、ポルトガルがブラジルで砂糖農園を始めた。ブラジルでは、1580年頃からサトウキビ栽培が進んだ。ここでプランテーション経営が広まり、労働力として、アフリカ西岸から運ばれてきた黒人奴隷が利用された。
奴隷貿易は1530年頃、始まった。最初は小規模だったが、ラテン・アメリカで砂糖のプランテーションが行われるようになった16世紀後半から、急激に拡大した。砂糖の栽培・収穫・製糖には、多くの労働力が必要だったからである。
17世紀に入ると、西欧で茶やコーヒーが流行し、砂糖の需要が増加した。オランダは南米のガイアナでプランテーション経営を行った。イギリス人は砂糖の製法をオランダ人から学び、バルバドス、次いでジャマイカ島へと砂糖プランテーションを拡大した。フランスもこれに続いた。18世紀には、紅茶やコーヒーの飲用が普及して、砂糖の需要がますます増大した。イギリス支配下のジャマイカ島は、ブラジルを抜き、世界有数の砂糖の産出地になった。
砂糖の需要が増大した背景について、ゾンバルトは、『恋愛と贅沢と資本主義』において、「女性崇拝と砂糖の結合は、経済史的にはきわめて重要な意味がある。なぜなら、(略)女が優位にたつと砂糖が迅速に愛用される嗜好品になり、しかも砂糖があったために、コーヒー、ココア、紅茶といった興奮剤がヨーロッパでいちはやく広く愛用されるようになった」と書いている。
イギリスは、1714年、スペイン継承戦争の結果結ばれたユトレヒト条約で、スペイン植民地での奴隷貿易独占権を獲得した。これによって、イギリスは奴隷貿易の主導権を握った。イギリス商人は、奴隷の大量輸送方式を実現し、オランダなど他国の奴隷貿易を遥かに凌ぐに至った。僅か2~3ポンドで購入した奴隷を25~30ポンドの10倍の値段で売却し、大きな利益を上げた。
1709年に開始されたリバプールの奴隷貿易は、1795年にはヨーロッパ全体の奴隷貿易の7分の3を占めるに至った。リバプールからは、武器や雑貨がアフリカに輸出された。これらの商品は、西アフリカの海岸で黒人奴隷と交換された。黒人奴隷は、西インド諸島やアメリカ大陸に運ばれた。そこでの人身売買の代金で砂糖や綿花等が購入され、イギリスに搬送された。イギリスからアメリカ大陸には、毛織物等が輸出された。フランスのボルドーも、奴隷売買による三角貿易で栄えた港だった。こうしてヨーロッパーアフリカーアメリカ大陸を結ぶ三角貿易が活発に行われた。西欧先進諸国を中核とし、アフリカ西海岸と南北アメリカ大陸を周辺とした近代世界システムの新たな展開となった。
次回に続く。
イギリスは市民革命を経て、政治的近代化を成し遂げ、繁栄の道を歩んだ。その繁栄に触れるには、17世紀における近代世界システムの発展から語らねばならない。
近代世界システムが形成された「長期の16世紀」すなわち1450年ころから1640年ころ、西欧における主要な輸入商品は、胡椒・香辛料だった。胡椒・香辛料をめぐって、西欧の諸都市・諸国家は交易に競い合った。しかし、17世紀中半は、胡椒・香辛料は社会的需要において重要性をなくした。それに替わって新たな需要を生んだのは、砂糖や茶、コーヒー、タバコ等だった。
胡椒・香辛料は食品・医薬品であり、西欧では生活必需品だった。それに比べ、砂糖は食品ではあるが、生活に不可欠なものでは全くない。その砂糖が普及したことによって、茶やコーヒー等を飲む習慣がはやった。タバコをふかしながら、舶来の飲料を味わう。生きるうえでは有っても無くてもよいものだが、こうした贅沢品が人々の欲望を引き出し、貿易や経済を変え、有色人種への支配・収奪を強化させた。さらに国家と文明に争いを生み、地球の環境までも破壊していくことになった。
サトウキビの原産地は、南太平洋の島々である。そこから東南アジアを経て、インドに伝わった。サトウキビから砂糖を作ったのは、インドが最古とされる。インドの砂糖やサトウキビは、アラビアに伝えられた。ヨーロッパには、11世紀に十字軍が持ち帰ったのがはじめである。
1520年代にスペインが、セント・ドミンゴで砂糖農園を開始した。続いて、ポルトガルがブラジルで砂糖農園を始めた。ブラジルでは、1580年頃からサトウキビ栽培が進んだ。ここでプランテーション経営が広まり、労働力として、アフリカ西岸から運ばれてきた黒人奴隷が利用された。
奴隷貿易は1530年頃、始まった。最初は小規模だったが、ラテン・アメリカで砂糖のプランテーションが行われるようになった16世紀後半から、急激に拡大した。砂糖の栽培・収穫・製糖には、多くの労働力が必要だったからである。
17世紀に入ると、西欧で茶やコーヒーが流行し、砂糖の需要が増加した。オランダは南米のガイアナでプランテーション経営を行った。イギリス人は砂糖の製法をオランダ人から学び、バルバドス、次いでジャマイカ島へと砂糖プランテーションを拡大した。フランスもこれに続いた。18世紀には、紅茶やコーヒーの飲用が普及して、砂糖の需要がますます増大した。イギリス支配下のジャマイカ島は、ブラジルを抜き、世界有数の砂糖の産出地になった。
砂糖の需要が増大した背景について、ゾンバルトは、『恋愛と贅沢と資本主義』において、「女性崇拝と砂糖の結合は、経済史的にはきわめて重要な意味がある。なぜなら、(略)女が優位にたつと砂糖が迅速に愛用される嗜好品になり、しかも砂糖があったために、コーヒー、ココア、紅茶といった興奮剤がヨーロッパでいちはやく広く愛用されるようになった」と書いている。
イギリスは、1714年、スペイン継承戦争の結果結ばれたユトレヒト条約で、スペイン植民地での奴隷貿易独占権を獲得した。これによって、イギリスは奴隷貿易の主導権を握った。イギリス商人は、奴隷の大量輸送方式を実現し、オランダなど他国の奴隷貿易を遥かに凌ぐに至った。僅か2~3ポンドで購入した奴隷を25~30ポンドの10倍の値段で売却し、大きな利益を上げた。
1709年に開始されたリバプールの奴隷貿易は、1795年にはヨーロッパ全体の奴隷貿易の7分の3を占めるに至った。リバプールからは、武器や雑貨がアフリカに輸出された。これらの商品は、西アフリカの海岸で黒人奴隷と交換された。黒人奴隷は、西インド諸島やアメリカ大陸に運ばれた。そこでの人身売買の代金で砂糖や綿花等が購入され、イギリスに搬送された。イギリスからアメリカ大陸には、毛織物等が輸出された。フランスのボルドーも、奴隷売買による三角貿易で栄えた港だった。こうしてヨーロッパーアフリカーアメリカ大陸を結ぶ三角貿易が活発に行われた。西欧先進諸国を中核とし、アフリカ西海岸と南北アメリカ大陸を周辺とした近代世界システムの新たな展開となった。
次回に続く。