ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

西欧発の文明と人類の歴史24

2008-06-30 10:03:25 | 歴史
●砂糖生産のための奴隷貿易

 イギリスは市民革命を経て、政治的近代化を成し遂げ、繁栄の道を歩んだ。その繁栄に触れるには、17世紀における近代世界システムの発展から語らねばならない。
 近代世界システムが形成された「長期の16世紀」すなわち1450年ころから1640年ころ、西欧における主要な輸入商品は、胡椒・香辛料だった。胡椒・香辛料をめぐって、西欧の諸都市・諸国家は交易に競い合った。しかし、17世紀中半は、胡椒・香辛料は社会的需要において重要性をなくした。それに替わって新たな需要を生んだのは、砂糖や茶、コーヒー、タバコ等だった。
 胡椒・香辛料は食品・医薬品であり、西欧では生活必需品だった。それに比べ、砂糖は食品ではあるが、生活に不可欠なものでは全くない。その砂糖が普及したことによって、茶やコーヒー等を飲む習慣がはやった。タバコをふかしながら、舶来の飲料を味わう。生きるうえでは有っても無くてもよいものだが、こうした贅沢品が人々の欲望を引き出し、貿易や経済を変え、有色人種への支配・収奪を強化させた。さらに国家と文明に争いを生み、地球の環境までも破壊していくことになった。

 サトウキビの原産地は、南太平洋の島々である。そこから東南アジアを経て、インドに伝わった。サトウキビから砂糖を作ったのは、インドが最古とされる。インドの砂糖やサトウキビは、アラビアに伝えられた。ヨーロッパには、11世紀に十字軍が持ち帰ったのがはじめである。
 1520年代にスペインが、セント・ドミンゴで砂糖農園を開始した。続いて、ポルトガルがブラジルで砂糖農園を始めた。ブラジルでは、1580年頃からサトウキビ栽培が進んだ。ここでプランテーション経営が広まり、労働力として、アフリカ西岸から運ばれてきた黒人奴隷が利用された。
 奴隷貿易は1530年頃、始まった。最初は小規模だったが、ラテン・アメリカで砂糖のプランテーションが行われるようになった16世紀後半から、急激に拡大した。砂糖の栽培・収穫・製糖には、多くの労働力が必要だったからである。
 17世紀に入ると、西欧で茶やコーヒーが流行し、砂糖の需要が増加した。オランダは南米のガイアナでプランテーション経営を行った。イギリス人は砂糖の製法をオランダ人から学び、バルバドス、次いでジャマイカ島へと砂糖プランテーションを拡大した。フランスもこれに続いた。18世紀には、紅茶やコーヒーの飲用が普及して、砂糖の需要がますます増大した。イギリス支配下のジャマイカ島は、ブラジルを抜き、世界有数の砂糖の産出地になった。

 砂糖の需要が増大した背景について、ゾンバルトは、『恋愛と贅沢と資本主義』において、「女性崇拝と砂糖の結合は、経済史的にはきわめて重要な意味がある。なぜなら、(略)女が優位にたつと砂糖が迅速に愛用される嗜好品になり、しかも砂糖があったために、コーヒー、ココア、紅茶といった興奮剤がヨーロッパでいちはやく広く愛用されるようになった」と書いている。

 イギリスは、1714年、スペイン継承戦争の結果結ばれたユトレヒト条約で、スペイン植民地での奴隷貿易独占権を獲得した。これによって、イギリスは奴隷貿易の主導権を握った。イギリス商人は、奴隷の大量輸送方式を実現し、オランダなど他国の奴隷貿易を遥かに凌ぐに至った。僅か2~3ポンドで購入した奴隷を25~30ポンドの10倍の値段で売却し、大きな利益を上げた。
 1709年に開始されたリバプールの奴隷貿易は、1795年にはヨーロッパ全体の奴隷貿易の7分の3を占めるに至った。リバプールからは、武器や雑貨がアフリカに輸出された。これらの商品は、西アフリカの海岸で黒人奴隷と交換された。黒人奴隷は、西インド諸島やアメリカ大陸に運ばれた。そこでの人身売買の代金で砂糖や綿花等が購入され、イギリスに搬送された。イギリスからアメリカ大陸には、毛織物等が輸出された。フランスのボルドーも、奴隷売買による三角貿易で栄えた港だった。こうしてヨーロッパーアフリカーアメリカ大陸を結ぶ三角貿易が活発に行われた。西欧先進諸国を中核とし、アフリカ西海岸と南北アメリカ大陸を周辺とした近代世界システムの新たな展開となった。

 次回に続く。


西欧発の文明と人類の歴史23

2008-06-28 12:58:00 | 歴史
●ホッブスとロック

 近代西洋思想の骨格を成すリベラリズム・デモクラシー・個人主義・資本主義の思想は、どれも源を探ると、ジョン・ロックにたどり着く。
 ロックを語るにはトマス・ホッブスから語るのが常である。17世紀前半の西欧では、三十年戦争(1618-48)が起こり、既成の秩序が失われ、教皇も皇帝も領主も社会を安定させることができなくなっていた。イギリスでは、先に書いたように1640年にピューリタン革命が起こり、政治的・宗教的混乱の中で内戦が続き、クロムウェルがチャールズ国王を処刑するという事態となった。王制が廃止され、共和制となるが、独裁者が死ぬと王政が復古し、またそれが腐敗するという混迷が続いていた。人間が相争い、いつ殺されるかわからない。そういう状況で生命の安全、生存という最も基本的な権利を確かなものとするにはどうすればよいか。この深刻な状況において、1651年、ホッブスの「リヴァイアサン」は書かれた。
 ピューリタン革命の最中、王党派のホッブスは、フランスに亡命していた。当地で彼は、政治的・宗教的混乱を収めて、生命を最低限確保する原理を説明しようとした。フランシス・ベーコンの秘書であり、ルネ・デカルトを信奉していたホッブスは、近代西欧科学的な論理的思考で、この説明を試みた。彼の結論は、個人の権利と個人の権利がぶつかり合うのを、上から抑えたり、折り合いをつけさせるには、絶対的な権力が必要だ、それがないと、社会は万人の万人に対する闘争が繰り広げられる自然状態に戻ってしまうということだった。ホッブスの理論が先駆けとなって、ロックが出現した。

 ロックは医者であり、近代科学思想に通じ、王立協会の会員ともなった。その新知識に基づき、中世的プラトニズムを排して生得観念を否定し、感覚に基づく経験論を説いた。また、デカルト的・要素還元主義的な発想によって、個人を社会の原理とする個人主義的な社会契約論を打ち出した。ロックはまた労働による所有を意義づけて、私有財産を肯定し、近代資本主義を正当化した。近代世界システムの政治学・経済学は、ロックに多くを負っている。
 ロックの政治的主著「統治二論」(1690)の眼目は、「人間は生まれながらにして完全な自由をもつ。人間はすべて平等であり、他の誰からも制約を受けることはない」という一文にある。ロックは、絶対主義王政に対して、リベラリズム・デモクラシーを唱え、自然権の実現をめざす。そして、「民衆の信頼に反するような法律や政令を発見した場合は、民衆にはその法律を改廃させる優越的権利が依然としてある」として抵抗権・革命権を認めている。
 ただし、ロック自身は共和主義者ではない。ロックもまたピューリタン革命の悲惨を見ており、共和主義の危険性を知っていた。専制君主の権力を制限して、民衆が政治権力に参加し、君民共治を図るという思想である。ロックは名誉革命の理論家といわれるように、君主制の下での議会制デモクラシーを理論化した。議会政治においては、ウイッグ党(王権制限派)だった。

 ロックの契約国家論は、実際のイギリスの歴史とは一致しない。しかし、歴史的権利や伝統を尊重する立場から一定の修正を加えれば、彼の思想は保守主義の理論的基礎となる。一方、抵抗権・革命権を徹底すると、急進的な共和主義になる。これがフランス革命やアメリカの独立運動の思想に発展した。それゆえ、ロック以降の政治社会思想は、ロックをどのように解するかによって分かれているともいえる。
 ロックの思想は17世紀以降、この21世紀まで、世界に甚大な影響を与えている。その重要性は、マルクスやニーチェやフロイトの比ではない。わが日本国憲法も、根本思想はロックである。世界人権宣言も、ロックが基底にある。西欧発の文明と人類の歴史を俯瞰し、今日の世界を論じるには、ロックをどのように評価し、また批判するかが一つの重要なポイントになると思う。この点は後日、啓蒙思想とフリーメーソンについて述べる際に、改めて触れたい。

 次回に続く。


西欧発の文明と人類の歴史22

2008-06-27 09:35:00 | 歴史
●リベラリズムとデモクラシーの融合

 イギリス市民革命は、ヨーロッパ大陸の知識人に影響を与えた。イギリス市民革命は、急激な変革は国民を分裂させて内戦を生じ、過激な権力批判はかえって独裁者の登場を許すという歴史的な教訓を残した。フランスの知識人は、その教訓を学ばず、イギリスの悲劇を繰り返した。

 後日改めて述べるが、フランスでは絶対王政への反発から思想が急進化した。そして、ルソーや百科全書派らの思想によって、フランス市民革命が勃発した。イギリス同様、国王が処刑されて君主制が廃止され、共和制が実現した。ロベスピエールが登場して独裁が行われ、ギロチンによる処刑や反対派の殺戮が繰り広げられた。対立抗争は内戦に発展し、さらに対外侵攻戦争へと拡大した。まるでイギリスの悲劇の再演である。フランス革命では、ギロチンによる虐殺や総計200万人の殺戮が繰り広げられた。研究が進むにつれ、フランス国内でも、革命の狂熱を批判する学者・専門家が増えている。
 わが国では、フランス市民革命が理想とされ、イギリス市民革命は中途半端な変革として、あまり評価されない傾向にある。しかし、西欧には、フランス革命の共和主義・暴力主義を批判する国が多い。イギリスだけでなく、スペイン、スェーデン、オランダ、ベルギー等がそうである。

 イギリスでは、リベラリズム(自由主義)とデモクラシー(民衆参政制度)が発達し、それらが近代西洋文明の政治思想の柱となった。リベラリズムとは、国家権力から権利を守るため、権力の介入を規制する思想であり、デモクラシーとは民衆が政治に参加する制度またそれを求める思想である。もともと別の思想だったリベラリズムとデモクラシーが、17~18世紀のイギリスで融合し、政治的近代化の中心思想となった。リベラル・デモクラシーは、西欧文明の拡大とともに、世界的に広がった。
 発生地のイギリスでは、いまも君主制が維持され、そのもとで立憲議会政治が行われている。イギリスから独立したアメリカは、王政から離脱し、国民主権の国家を建国した。主権在民のリベラル・デモクラシーは君主制と相容れないのではなく、その後、アメリカはイギリスを最も友好的な同盟国としている。西欧発の文明と人類の歴史を俯瞰するとき、アメリカ・フランスの政治体制を模範とする見方は、大きなゆがみを生じる。ほとんどの世界史・近現代史の本は、この点のゆがみがあり、共和主義ないし共産主義の宣伝普及の文書となっている。

●国民国家とナショナリズムの登場

 リベラル・デモクラシーだけではない。個人主義も資本主義も、イギリスで発達した。私はさらに加えて、国民国家(Nation-state)もナショナリズムも、イギリスで誕生したと見るべきだと思う。
 イギリスは、1066年にノルマン・コンクエストで征服され、王族・貴族はフランス系だが、大衆はアングロ=サクソンやケルト系という階層社会となった。異なる民族・文化・言語の融合によって、今日の英語が生まれた。中世の英仏は、王家が血族も所領も不可分の関係にあり、14~15世紀の百年戦争をはじめとする戦争を繰り返しながら、イギリスには独自の集団意識が形成された。
 イギリスは、宗教的には、王族・貴族はカトリックだったが、宗教改革後、新興階級を中心に、カルヴァン派が広がった。旧教・新教の対立の中から、イギリスには1534年、英国国教会という独自の宗派が生まれる。国教会の創設は国王の私的な都合によるものだったが、結果としてローマ・カトリックから自立した宗教を持ったことが、イギリスに独自性の核を与えた。

 国民国家(Nation-State)は、通説では、フランス市民革命によって身分制社会が解体され、革命の理念を継承したナポレオン・ボナパルトが、自由かつ平等な国民の結合による国民国家を打ち立てた。この国家体制が強力だったので、フランスに対抗するため、西欧諸国は次々に国民国家になったとされる。しかし、ナポレオン伝説を打ち破ったのは、イギリスだった。国民皆兵制が最強ならば、ネルソン提督やウェリントン将軍は英雄になれなかっただろう。
 イギリスでは、17世紀のピューリタン革命・名誉革命を通じて社会階層の融和が進んだ。またイングランドとスコットランドの併合によって、連合王国が形成された。19世紀を通じて政体の変遷を繰り返すフランスや、プロシアを中心にようやく国家建設をしたドイツに比べ、イギリスは国民国家の確立においても、先進的だったと見るべきだと思う。
 通説では、ナショナリズムもまた18世紀後半のフランスから勃興したとされる。ナポレオン戦争によって、西欧にナショナリズムが広がったという。確かに展開的にはそうなのだが、その前に、イギリスでナショナリズムが発生・発達しており、それへの対抗において、フランス等の諸国にナショナリズムが普及したと考えたほうが、大きな流れが見えると思う。
わが国では、共和制・国民主権を理想とするアメリカ・フランス系の思想が世界標準のように錯覚されている。実際は、リベラリズムもデモクラシーも、個人主義も資本主義も、国民国家もナショナリズムまでもが、君主制・議会主権のイギリスにおいて発達した。今日の福祉国家の理念を生んだ漸進的な社会改良主義もまたイギリスで発達した。それらが、イギリスから近代世界システムの中核諸国に広がったことが見逃されやすいのは、共和主義とその過激な形態としての共産主義の影響だと思う。

 次回に続く。


西欧発の文明と人類の歴史21

2008-06-26 18:10:51 | 歴史
●イギリスにおける市民革命

 イギリスでは、封建制の解体が西欧で最も早く進んだ。17世紀のイギリスでは、絶対王政が敷かれる一方、ヨーマン(独立自営農民)やジェントリ(郷紳)が市民階級を形成し、議会に進出して政治的な影響力を持つようになっていた。彼らの多くはカルヴァン派プロテスタントのピューリタン(清教徒)だった。
 1603年にエリザベス1世が死ぬと、ジェームズ1世が即位し、スチュアート朝を開いた。ジェームズ1世は、王権は神に授けられたものだとする王権神授説を唱えて、王権を絶対的なものだとする絶対王政を敷いた。ジェームズ1世とその子チャールズ1世は議会を軽視し、ピューリタンを弾圧した。これに反発した議会は、1628年に権利請願を提出した。国債の強制、勝手な課税、不法な逮捕・投獄等を、国民の歴史的権利に反するものとし、これらに反対する請願を国王に出したのである。

 イギリスでは、1215年に、イングランド王ジョンの圧政に反抗して要求書を出し、マグナ・カルタが発布されている。国王の専制に貴族や新興階級が抵抗し、権力の行使を制御する約束を取り付けたものである。権利請願は、こうした伝統に基づいて、議会が国王に出した請願書である。
 これに対し、チャールズ1世は議会を解散して対応した。その後、1640年にチャールズ1世は、スコットランドで起きた反乱に対する戦費調達のために、議会を召集したことにより、ピューリタン革命が始まった。ピューリタン革命は、17~19世紀の西欧で勃発した市民革命の嚆矢となる。市民といっても都市生活者とか国家否定の国際人という意味ではない。歴史的意味での市民であり、ブルジョワジーのことである。
 イギリス議会では王党派と議会派が激しく対立し、42年に内乱状態になった。議会派は長老派、独立派、水平派に分かれ、当初は王党派が有利だった。しかし、独立派から徹底抗戦を主張するクロムウェルが台頭し、鉄騎兵を組織して、王党派軍に圧倒的な勝利を収めた。49年に、クロムウェルは、議会の前で国王を斬首刑に処し、共和制を樹立した。
 クロムウェルは、王党派の強いアイルランドやスコットランドを征服する一方、51年に航海法を出してオランダと刃を交えた。53年に残部議会を解散し、護国卿となったクロムウェルは独裁政治を行った。クロムウェルが58年に病没すると、長老派が王党派と組み、前王の子チャールズ2世を迎えて、1660年に王政復古が行われた。

 チャールズ2世は、国民の権利を制限し、親カトリック政策を取った。続くジェームズ2世は、国王大権を乱用し、カトリック化を推進した。国民の不満が高まり、1688年、議会のトーリー党(王権擁護派)とウイッグ党(王権制限派)が結束して、ジェームズ2世の娘でプロテスタントのメアリと、その夫のオランダ統領ウィレムに援助を要請した。ウィレムが軍を率いてイギリスに上陸すると、ジェームズ2世は戦わずしてフランスに亡命し、名誉革命が成し遂げられた。
 ウィレム夫妻は、イギリスでそれぞれウィリアム3世、メアリ2世となり、共同統治者として王位に就いた。その時、即位の条件として、議会は権利宣言を承認させ、これを権利章典として制定した。その結果、議会を中心とする立憲君主制が確立した。この革命が、名誉革命と呼ばれる。無血革命とは言うが、スコットランドとアイルランドでは戦闘が行われ、多くの血が流れた。
 ちなみに、ジョン・ロックは、ウィレムが渡英する際、亡命先のオランダから帰国した。彼がオランダで書いた「統治二論」は、名誉革命の理論となった。

 メアリ2世の後、妹のアンが即位し、女王在位中にイングランドとスコットランドの併合が成り、グレート・ブリテン連合王国が形成された。アンが夭折するとスチュアート朝は絶え、1714年、ジェームズ1世の血を引くドイツのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世として即位した。今日まで続くハノーヴァー朝の始まりである。
 ジョージ1世は英語を解さず、政治に無関心だった。そのため、議会の多数派が内閣を形成して政治を行うようになった。1721年、ウイッグ党のウォルポールが首相となり、内閣が国王ではなく議会に対して責任を負う責任内閣制が確立した。イギリス独特の「王は君臨すれども統治せず」という伝統が生れたのである。その後、イギリスの社会は安定し、繁栄の道を歩んだ。

 次回に続く。


西欧発の文明と人類の歴史20

2008-06-25 12:47:52 | 歴史
●重商主義による貨幣の蓄積

 ウェストファリア条約で西欧に確立された近代主権国家は、当初国王に権力が集中し、官僚制と常備軍を備えた絶対主義国家だった。
 絶対主義国家は、王家同士の政略結婚で王族・貴族の姻戚関係を広げ、また国家間の同盟政策で勢力の均衡を図った。それとともに、重商主義政策を取った。西欧諸国は資源が乏しく、国内では限られた収入しか期待できない。王権が官僚制・常備軍を維持するためには、海外での経済活動に力を入れる必要があった。海を媒介とする交易ネットワークの開発、植民地の拡大、金銀鉱山の開発、輸出増加のための産業の振興などが推進された。こうした政策が、重商主義である。

 重商主義の基本にあるのは、富とは貨幣であり、国力の増大とは貨幣の蓄積であるという思想である。重商主義は、初期の重金主義と後期の貿易差額主義に分けることができる。
 重金主義は、金銀鉱山を開発して貨幣を蓄えようとするもので、16世紀のスペイン、ポルトガルの代表的な政策である。国家間での金塊等の争奪や私掠船の横行、輸出規制合戦の様相を呈した。貿易差額主義は、輸出を進めて輸入を制限することにより国内産業を保護育成し、貨幣蓄積をはかるもので、17世紀以降のイギリスで、中心的な政策となる。

●オランダからイギリスへの覇権の移動

 近代世界システムの覇者は、スペイン、ポルトガルから17世紀前半にはオランダに移行した。しかし、最初の覇権国家オランダの栄華も永続しなかった。後を襲ったのは、イギリスである。
 後に触れるピューリタン革命の後、オリヴァー・クロムウェルが1651年に航海法を出して、オランダ人をイギリスから締め出した。これがきっかけで両国は戦争状態に入り、1652年から74年にかけて、3次にわたる英蘭戦争が行われた。その結果、オランダの海上覇権はイギリスに奪われた。この間、オランダ領ニュー・アムステルダムを獲得したイギリスは、ニュー・ヨークと改称して支配した。
 イギリスでは、エリザベス1世の時代、1566年にトマス・グレシャムによってロンドンに王立取引所が作られた。イギリスでは、国内産業が成長して、産業資本の形成が進み、1780年~1815年頃には、資本主義世界経済における主導的地位は、アムステルダムからロンドンに完全に譲った。

 オランダの衰退には、さまざまな原因がある。そのひとつは、オランダは連邦制を取っていたため、軍事面で強大化し得なかったことである。英蘭戦争、フランスのルイ14世による軍事的圧力によって国力を消耗した。また、中継貿易に専念したことから近代工業の体系を築けなかった。オランダの毛織物工業は、仕上げ工程を中心としていた。イギリスの羊毛を原料とし、イギリスから未仕上げの毛織物を輸入していた。ところが、イギリスの農村でマニュファクチュアによる毛織物生産が盛んになり、オランダに材料が入ってこなくなった。また、東南アジアで行なっていた胡椒・香辛料の貿易の重要性が低下した。
 こうしたいくつもの原因が複合して、オランダの衰退が進んだ。

 オランダからイギリスへと覇権が移行する間、西欧では、文化・社会・政治・経済に及ぶ文明の大変化が起こった。
 イタリアで花開いたルネサンスは、北方のヨーロッパ諸国に伝播し、16世紀には広く西欧ルネサンスを生んだ。イギリスでは、エリザベス1世の時代に、ウイリアム・シェイクスピアが優れた演劇作品を生んだ。
 大陸で起こった宗教改革はイギリスにも上陸し、プロテスタントの政治的な活動が社会に変動をもたらした。17世紀には、イギリスで西欧諸国に先駆けて市民革命(ブルジョワ革命)が起こった。またイギリスを中心に科学革命が起こった。また近代資本主義が本格的に発達して、18世紀には産業革命が勃興する。
 西欧の近代化は、イギリスにおいて、文化・社会・政治・経済の全領域で、明確かつ総合的な変化として拡大・加速された。私は、西欧の近代化を、人類史における近代化革命と呼ぶ。17~18世紀において近代化革命はイギリスを主たる舞台として進行する。本稿では、市民革命・科学革命・産業革命を順に概述していきたい。

 次回に続く。


西欧発の文明と人類の歴史19

2008-06-24 09:34:01 | 歴史
●ドイツ三十年戦争とウェストファリア条約

 15世紀末から、外に向かって拡張し続けた西欧諸国は、同じ文明の内部でも抗争が絶えなかった。その争いには、宗教の対立が絡んでいた。
 ルター、カルヴァンらは、カトリック教会に異議を唱え、信仰とは教会に従うことではなく、各個人が神と直接に向かい合うことであり、それによってこそ福音はもたらされると主張した。彼らプロテスタントの思想は各国に広がった。
 同じキリスト教徒でありながら、カトリックとプロテスタントは、各地で血みどろの戦いを繰り広げた。17世紀前半に新教国・旧教国が参戦して大戦争となったドイツ三十年戦争(1618-48)は、キリスト教の宗教戦争の最たるものである。カトリック擁護のハプスブルグ家とプロテスタント支持の諸侯の対立で始まった内戦に、デンマーク、スウェーデン、フランス等の諸国が参戦し、皇帝・教会・諸侯が入り乱れて争った。主な舞台となったドイツでは、人口が3分の1になるというほどの悲惨な戦いだった。

 三十年戦争は「長期の16世紀」(1450頃~1640年頃)の最終期に起こっている。オランダが覇権国家としてヨーロッパ経済を主導していた時期である。西欧文明は近代世界システムの形成をほとんど終えようとし、そのシステムが作動し、異文明を支配・収奪していた時期に、西欧の内部では、激しい抗争が繰り広げられていたのである。
 三十年戦争のさなか、当時、覇権国家となっていたオランダで、グロチウスが『戦争と平和の法』(1625)を刊行した。同書は戦争と平和という観点から世界秩序を構想するものだった。グロチウスは、神的理性による自然法の理論に基づいて、国家間にも法のあることを力説した。その理論をもとに、1648年にウェストファリア条約が結ばれ、三十年戦争に終止符が打たれた。
 ウェストファリア条約によって、ドイツではプロテスタントの信仰が公認されるとともに、ドイツの各領国に主権が認められた。これが発展して西欧に国家が多数並立する状況が秩序として定着された。こうした多国間関係の中で形成されたのが、近代主権国家である。

●近代主権国家の出現

 戦争は、技術や組織を発達させる。西欧では14世紀以降、火器と傭兵制が登場し、騎士の存在意義は失われた。大砲や鉄砲の技術が進むと、傭兵軍隊を維持できる者でないと、戦いに勝ち残れない。封建領主の中の第一人者に過ぎなかった国王が、他に抜きん出た存在になっていった。
 16世紀には、封建制の崩壊が進んだ。商業の活性化によって地域間の結びつきが強まり、諸国の国王は、地方の諸侯を支配下に組み込んでいった。王権の強大化は、経済活動に都合がよいので、都市の大商人から支持された。
 30年にも及ぶ宗教戦争は、教皇の権威や皇帝の威信を著しく低下させた。そのなかで、国王に権力が集中し、官僚制と常備軍を備えた絶対主義体制が確立していった。近代主権国家は、最初こうした国家として姿を現した。

 近代主権国家は、領土と国民と主権を、三つの要素とする。中心的な要素は、主権である。主権とは、英語 sovereignty の訳語であり、「最高の力(puissance souveraine)」を意味する。主権とは、国の内外に対する統治権の最高性を形容したものである。
 「主権」=「最高の力」は、発生的には、ユダヤ=キリスト教の唯一男性神つまり「主」が持つとされる、完全な自由と力を言う。ユダヤ教の経典でもある旧約聖書では、この神の性格として軍事と裁きが強調されている。この神の力を地上において代行するものは、かつてはカトリック教会だった。いまや国王が権力を強め、教会に対して、宗教的・世俗的な権利を主張して、王権を「最高の力」=「主権」と称したのである。ユダヤ=キリスト教の神の権力が、地上の国王の権力となったものとして正当化された。
 実際は主権といっても、主権を主張する国家が隣接していくつも並立しているわけだから、絶対的なものではありえない。もともと相対的な存在である。理念と現実の間に開きがある。
 近代主権国家は、17世紀から西欧の政治体制として普及し、19世紀に西欧が世界を制覇したことにより世界化した。

 次回に続く。


西欧発の文明と人類の歴史18

2008-06-23 09:57:55 | 歴史
●スペインの没落

 話を16世紀の西欧に戻す。
 以前書いたように、新大陸の銀によって、スペインは巨万の富を得た。スペインは1571年のレパントの海戦でオスマン軍を破って地中海の制海権を握り、フェリペ2世が80年にポルトガル王位を継ぎ、アジア貿易をも掌中にした。これにより、スペインは「太陽の沈まぬ国」と呼ばれた。しかし、絶頂は長く続かなかった。その後、勃興したのが、オランダである。
 現在のオランダ・ベルギーのあたりは、ネーデルラントと呼ばれる。この地域は、中世以来、バルト海交易による商業と毛織物業で繁栄していた。宗教は、プロテスタントのカルヴァン派が多数を占める。カルヴァン派は、キリスト教でありながら、利潤の追求を認めるので、商工業者に信者が多かった。カルヴァン派には、ユダヤ教の影響が指摘される。
 ネーデルラントは、1556年にスペインのハプスブルグ家の領地となった。フェリペ2世は、当地の住民にカトリックを強制し、重税を課した。これに対し、貴族やカルヴァン派の商工業者等が反発して、1568年に独立戦争を起こした。フェリペ2世は、これを鎮圧しようとしたが、戦いは長引いた。
 スペインは膨大な富を得ていながら、イスラム諸国との戦争、宮廷での浪費等によって富を消失した。国内産業も育たなかった。こうしたスペインを脅かしたのが、イギリスである。エリザベス1世は、ホーキングやドレークに私掠特許状を与え、海賊行為を奨励した。主に対象としたのは、スペインの輸送船である。新大陸から運んできた銀を船ごと奪おうというのである。そのイギリスが、ネーデルラントの独立戦争で独立運動側を支援し、ネーデルラントで北方10州が1581年に独立を宣言した。
 フェリペ2世は、イギリスを征伐するために無敵艦隊を派遣した。しかし、無敵艦隊は、逆に惨敗する。これが1588年のアルマダ海戦である。レパントの勝利からわずか17年後のことだった。スペインは、大西洋の制海権を失って弱体化し、以後急速に没落していく。

●オランダの興隆

 ネーデルラントで独立を宣言した北部10州は、オランダとなった。オランダは、最先端の造船技術を持っていた。優秀な船を操るオランダ人は、海外に積極的に乗り出した。大西洋圏では、17世紀初めに、南アメリカのガイアナやブラジル等に植民地を築いて、砂糖のプランテーション栽培を始めた。やがて労働力を求めて、アフリカの黒人を奴隷とする奴隷貿易を本格的に行うようになった。
 イギリスは1600年に東インド会社を設立し、インド洋交易に進出するが、オランダはその2年後に東インド会社を設立し、バタヴィア(現在のジャカルタ)を拠点として海洋アジアに進出した。それによりオランダは、香辛料貿易でポルトガルを抜いた。当時、香辛料と交換しうる唯一の国際商品は、インド木綿だった。イスラム商人は、インド木綿を香辛料と交換して利益を上げていた。オランダはこれに対抗し、インドに商館を開き、木綿を手に入れて貿易を行った。
 オランダは、鎖国時代のわが国でも、西欧諸国で唯一、交易を許されていた。新教国のオランダは、ポルトガル・スペインと違って、キリスト教の布教を企図していなかった。交易のみを目的としたので、徳川幕府は来航を許可したのである。

 こうして17世紀前半には、西欧文明における経済的繁栄の中心は、スペインからオランダに移っていった。
 スペインは、自国に経済センターを作れなかった。アメリカ大陸の銀は、1568年以降、スペインからジェノヴァに回送されていた。ジェノヴァは国際決済の場所であり、西欧経済の中心都市となった。新興のアムステルダムは、これに対抗し、ヴェネチアに学んで経済システムを整えた。1609年に、ヴェネチアのリアルト銀行にならってアムステルダム為替銀行が設立され、預金口座を持つ商人間の取引が手形の無料交換で、銀行の帳簿上で行われるようになった。1613年には、株式取引所も設立された。オランダ東インド会社は、航海ごとに出資者に利益を分配するのではなく、株式を発行して配当を分配する方式で運営されて繁栄した。
 その結果、半世紀続いた「ジェノヴァの世紀」は終わりを告げ、アムステルダムがヨーロッパの金融取引の中心となった。そのうえ、オランダのレヴァント貿易会社は、ヴェネチアに代わって地中海貿易の主導権をも奪った。
 こうしてオランダは、西欧諸国の中で、圧倒的な地位を確立した。ウォーラーステインは、オランダを、近代世界システムの最初の「覇権国家」と呼んでいる。ちなみに彼によると、オランダの次の覇権国家はイギリス、その次はアメリカである。

 次回に続く。


西欧発の文明と人類の歴史17

2008-06-21 15:43:38 | 歴史
●資本主義の精神へのユダヤ教の影響

 神の栄光を増すための「道具」として勤勉に働き、倹約に努めれば、結果として利潤を生む。資本が蓄積される。一旦、資本が形成されると、資本は利潤を要求し、利潤を上げるための経営をしなければならなくなる。
 近代資本主義の特徴の一つは、複式簿記を土台とした合理的な産業経営にある。企業は、明確な数値目標を設定し、目的を実現するために、具体的な計画を立てる。さまざまな資材、労働を効率的に組み合わせ、利潤を最大にすべく計画・実行し、その結果を数値的に確認する。近代資本主義は、こうした形式合理的な態度によって、目的合理的な産業経営を行うことを最大の特徴とする。
 産業資本の形成によって、資本は、利潤の獲得を目的とした価値増殖の運動体に転じた。資本の価値増殖運動は、人間の欲望を拡張する活動である。資本主義の機構を生み出した宗教的な倫理は忘れられ、利潤の追求が肯定されて、価値観が大きく転換した。人々は来世の救済より、現世の利益を求める。もはや宗教的な禁欲ではなく、富と快楽を追求する欲望こそが、経済活動の推進力となる。
 
 ここで注目すべきは、ユダヤ教の影響である。この点は、本稿とは別に主題的に検討するので、ここでは簡単に述べる。産業資本の確立期以降の資本主義の精神は、キリスト教よりもユダヤ教に近いものに変貌している。ユダヤ教は、現世における利益の追求を肯定し、金銭の獲得を肯定する。プロテスタンティズム的な「世俗内禁欲」とは正反対の価値観である。そして、ユダヤ教的な価値観が非ユダヤ教徒の間にも広く普及したものこそ、今日に至る資本主義の精神だと私は考えている。
 近代資本主義は、産業資本の形成をもって、初めて資本主義となった。産業資本が出現する以前、資本は商人資本、高利貸し資本という形態を取った。経済史学者は、これらを前期的資本と呼ぶ。そして商人資本、高利貸し資本からは近代資本主義は生まれないとする。
 しかし、経済活動は生産だけでなく、流通と金融なくしては成り立たない。近代資本主義においては、商人資本は商業資本となり、高利貸し資本は銀行資本となった。産業資本は、生産によって利潤の獲得をめざす資本である。これを生産資本と呼ぶならば、商業資本は流通資本、銀行資本は金融資本である。生産だけでなく、流通・金融がバランスよく発達してこそ、経済規模が拡大する。それによって、資本の価値増殖運動は持続的に発展する。この流通と金融に巧みなのが、ユダヤ人だった。
 産業資本の発達による貨幣経済の拡大は、ユダヤ人の活躍の場を広げ、彼らに膨大な富をもたらした。それとともに、資本主義世界経済の発達によって、ユダヤ教の価値観が西欧のみならず、非西欧の文明にも浸透したところに、グローバル資本主義が出現したといえよう。ユダヤ人だけでなく、ユダヤ的なものを身に着けた諸国民が、地球規模の資本主義経済を推進しているのである。

●資本主義の精神の根底にあるものとは

 さて、近代資本主義は、結果として、利潤追求・欲望拡大の文明を生み出した。その資本主義の発達は、産業資本の形成による。ウエーバーは、産業資本形成期におけるプロテスタンティズムの倫理の役割を強調した。しかし、産業資本の発生期より以前にさかのぼると、西欧文明の海外進出には、利潤追求・金銭獲得にもっとむき出しの欲望が働いていた。
 資本の本源的蓄積の時期となった15世紀末以降、西欧人は有色人種を間視し、インディオに強制労働をさせて銀を収奪し、黒人に奴隷労働をさせて砂糖や綿花で富を得た。マルクスは、西欧社会の労働者をプロレタリアと呼んだが、生産手段たる土地から引き剥がされ、鉄鎖以外には失うことのないプロレタリアとは、白人種に奴隷にされた有色人種こそがそうだった。そして、私はこうした異教徒を奴隷化し、彼らを使役して富を得る欲望こそが、近代資本主義の精神の最も根底にあるものではないかと思う。また、そこには、周囲の異教徒を敵視し、自らの神観念を絶対化するユダヤ教に通じるものがあると思う。

 そのうえ、カトリックもプロテスタントも、西欧において魔女狩りを行なった。魔女狩りは非キリスト教的なものを排除する社会現象だった。魔女狩りは、ルネッサンス期に嵐のように吹き荒れたが、その最盛期は、宗教改革時代と共に訪れ、1600年を中心とした1世紀がピークだった。
 魔女狩りはカトリック信者だけでなく、プロテスタントも行った。ドイツのプロテスタントも、アメリカのピューリタンも、魔女狩りに熱狂した。これは、プロテスタンティズムの倫理の暗黒面であり、ユダヤ=キリスト教自体の持つ暗黒面でもある。
 イエス=キリストの教えは、隣人愛を説く。使徒パウロは、神は愛であると説いた。しかし、キリスト教徒の愛は、異教徒には及ばされなかった。いやキリスト教文明の内部ですら、他宗派には及ばされなかった。それをよく表すのが、旧教・新教の間の宗教戦争である。私は、異なるものを徹底的に排除し、破壊しようとするのは、イエス=キリストの教えというより、ユダヤ的なものではないかと思う。

 プロテスタントは、それまでラテン語で書かれ、ラテン語の智識のない者は詠むことの出来なかった聖書を各国語に訳した。これは、ギリシャ=ローマ文明の遺産であるキリスト教の土着化をもたらした。各国語訳の聖書は、印刷技術と紙の使用によって、民衆に普及した。民衆は、自分たちが日常使っている言葉で聖書を読めるようになった。
 私は、このことがキリスト教の再ユダヤ教化をもたらす一要因になったのだろうと考える。イエス=キリストが教えを説く前に書かれた旧約聖書の思想は、ユダヤ教のものである。各国語訳聖書の学習は、キリスト教の教えの習得と土着化とともに、間接的なユダヤ教の摂取ともなったのだろう。
 こうした問題については、いずれ改めて別稿で検討してみたい。
 
 次回に続く。


西欧発の文明と人類の歴史16

2008-06-20 09:28:03 | 歴史
●宗教改革から生まれた「世俗内禁欲」の倫理

 西欧は15世紀末から地理的に拡大したことを述べた。この時期、ルネサンスはイタリアから北方へと広がった。そのルネサンスと時期を重ねながら進んだ重要な変革が、宗教改革である。宗教改革は、西欧の文化的近代化の一過程となった。同時に、経済的近代化にも深い関係がある。西欧における資本主義の発生・発達は、宗教改革を抜きに考えられない。そのことをここに記しておこう。
 中世の西欧では、修道院における修道士たちの労働が富を生み、聖職者が金貸しをしたりするようになっていた。カトリック教会は、さらに免罪符を発行し、金銭によって罪を免ずるという道を与えた。これに対しルター、カルヴァンらは、教会に異議を唱えた。彼ら15~16世紀に現れたプロテスタントの挙げたスローガンは「聖書のみ」「恩寵のみ」「信仰のみ」の三つにまとめられる。プロテスタントは、信仰とは教会に従うことではなく、各個人が神と直接に向かい合うことであり、それによってこそ福音はもたらされると主張した。
 それまでは、カトリック教会が福音の施しを権威的に独占していた。その権威の核が、サクラメント(秘蹟)だった。しかし、ルターは、サクラメントは救済を保証するものではない、とこれを否定した。これは宗教の合理化への重要な契機となった。同時に宗教儀式における象徴の排除は、西欧人の精神に深刻な危機をもたらすことにもなった。

 カルヴァンはさらに予定説を説いた。カルヴァンによると、神は永遠の生命を与えた人間をすでに選び、他の人間は永遠の死滅に予定したという。永遠の生命と永遠の死滅という二重の予定であるので、二重予定説ともいう。
 予定説は、神の自由意志を絶対的なものとし、人間の道徳的努力を一切無力なものと断じた。誰が永遠の生命に予定されているかは、人間には知りえない。しかも人間がそれを変えることは絶対不可能だとする。プロテスタントにとって残された道は一つしかない。自分は神に選ばれているのだと考えて、すべての疑惑を斥けること、つまり自己確信をもつことである。自己確信を獲得するためには、職業労働に専念することであると考えられた。
 職業労働への専念は、ルターの「天職」という概念に基づく。世俗の職業は神が各人に与えた使命であり、「神の道具」となって職業労働に勤めることが「神の栄光を増す」こととされた。こうして救済を求める切実な宗教的欲求が職業労働に向けられることになった。
 かつてカトリックの修道院では、厳しい禁欲的生活が行なわれていた。その修道士たちの行動的禁欲の生活が、今度は修道院の中ではなく、世俗的な社会で行なわれるようになった。これを「世俗内禁欲」という。ウェーバーは、書いている。「宗教改革は、合理的なキリスト教的禁欲と組織的な生活態度を修道院から引き出して、世俗の職業生活の中に持ち込んだ」と。来世を目指しつつ世俗の中で行う生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したものだった。

 ウェーバーは、商品経済の発達、資本の蓄積、技術の発達等だけでは、近代資本主義は成立しなかったと考えた。プロテスタンティズムの職業を天職として、労働に救済の確証を求めるという世俗内禁欲の倫理が、「資本主義の精神」となった。こうした精神があってこそ、近代資本主義は発生したとウェーバーは説いた。

 次回に続く。


西欧発の文明と人類の歴史15

2008-06-19 09:28:10 | 歴史
●資本主義世界経済における労働の多様性

 もう一点、本稿の記述のために補っておきたい。近代世界システムが大きく発展した19世紀の後半、マルクスは、「資本論」で資本制的生産様式が支配的となった社会の原理を究明し、またこの社会が形成された歴史を描こうと試みた。彼のとらえた資本とは、資金とか生産設備とかいった物象ではなく、生産関係にほかならない。「資本とは、物象ではなく、物象を介した人と人との間の社会的関係である」(「資本論」)「資本は一つの社会的生産関係である」(「賃労働と資本」)とマルクスは明言する。賃金労働者は、労働力商品を資本家に売り、資本家は、労働力という他人の所持する商品を買うという関係にある。マルクスは、この資本家と労働者の関係を、階級という概念でとらえ、階級関係は、政治的な支配関係をも伴うが、本質的・基本的には生産の場における経済的関係であることを洞察した。
 このマルクスの分析は、近代西欧社会、特に産業資本が発達しつつあったイギリスにおける資本家―労働者の関係をモデルに分析したものだろう。歴史的に発生・発達した資本主義の全体像を十分把握したものではない。

 資本主義世界経済が発生したとき、システムの中核部にあるイングランドや北フランス等の地域では、荘園制が解体し、自立的な富農が現れ、その蓄積が、復興してきた商業資本と結びついて農村工業が起こった。しかし、ウォーラーステインは、「賃労働は資本主義システムのなかに多数存在する労働管理の形態のうちのひとつにすぎず、しかも決して資本の立場からして、最も利潤の得られるものではない」と主張する。
 私見を加えると、周辺部と中核部の間の社会的分業は、農業と工業、第1次産品の生産と第2次産品の生産、原料または半加工品の生産と加工品の生産の間の分業である。こうした分業における生産諸過程には、それぞれの生産関係がある。資本制的な生産関係は資本家―労働者の関係だが、資本主義は主人―奴隷、領主―農奴等の生産関係をも、そのシステムの中に組み込むことができる。「近代世界システム」の形成においては、それが実際に行われた。

 資本主義世界経済は、西欧における賃労働だけで成り立っていたのではない。資本主義は、非西欧における奴隷労働や農奴労働をも生産過程の中に組み込んで発生・発達した。たとえば、先に書いたように、ラテン・アメリカにおいては、奴隷労働が行われ、安価で大量の銀が西欧に莫大な富をもたらした。また東欧においては、中世的な農奴制が拡大され、西欧に食糧を供給した。奴隷にして農奴にしても、非経済的強制を伴う形態で労働力を再編成したものである。
 ウォーラーステインは、こうした資本主義世界経済における奴隷労働や農奴労働を、「労働力の強制度」を高めたものとしている。第1次産品で利潤率が高ければ高いほど、また周辺的な位置にあって消費市場からの距離が遠ければ遠いほど、利潤の確保のために、より厳しい強制が労働に課せられた。後に触れる西インド諸島の奴隷制プランテーションや、ドイツやポーランドに現れた再版農奴制は、周辺的労働編成の典型である。ウォーラーステインは、これを「長期の16世紀」における「農業資本主義」の成立と言っている。
 西欧を中核部とする近代世界システムは、諸国の国王や資本家が、西欧の賃労働者が生み出す価値だけでなく、非西欧における奴隷労働や農奴労働が生み出す価値をも取得し、その価値を資本として蓄積したのである。

 以上、近代世界システムについて書いてきたが、立ち入ると17世紀以降の資本主義世界経済の発達について話が広がるので、この辺で15~16世紀の西欧に話を戻したい。

 次回に続く。