ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

西欧発の文明と人類の歴史77

2008-08-31 10:12:12 | 歴史
●わが国の開戦と敗戦の背後にあるもの

 第2次世界大戦において、日本は戦前からのシナとの戦争を解決できないまま、アメリカとの関係が悪化し、遂に米英との無謀な戦争に突入した。その結果、わが国は開国以来ない大敗を喫した。この過程で、ソ連の謀略がわが国の進路を狂わせ、日本を破滅へと導く作用をした。ソ連は、同時にアメリカ政府にも深く工作の手を伸ばし、ルーズベルトの政策を大きく左右した。
 20世紀は、共産主義が1億人もの犠牲者を生み出した世紀だった。第2次大戦後、ソ連は共産主義を広範囲に広げ、世界を二分した。ソ連解体後も共産主義は生き延び、21世紀の世界で、中国が新たな大国として力を増強している。ソ連解体後のロシアは、再び統制主義的な政策で復興し、中国との連携を深めている。こうしたことを考えると、20世紀前半、ソ連がわが国やアメリカに及した影響は、もっと明確に認識されるべきものと思う。
 この点を強調するために若干補足したい。

 1930年代、わが国はスターリンの謀略に嵌められ、中国との戦争に引きずり込まれた。日中が全面戦争に進むと、英米はソ連に続いて蒋介石を支援し、日本には経済圧迫を加えて、シナの抗日戦意をあおり、日中の抗争を長引かせ、泥沼化させた。
 ソ連は中国に戦闘機や爆撃機を与え、軍事顧問団ととともにパイロットを派遣していた。アメリカも中立を装っていながら、軍事顧問団に加え、空軍パイロットを送っていた。これは中立国としては絶対に許されない行為だった。白人諸国は、東洋の黄色人種、日本と中国を戦わせ、アジアでの権益を拡大しようとしていたのである。日本も中国も、この白色人種の魂胆を見抜いて、日中が堅く提携していくべきだった。しかし、それを実行できる指導者を、ともに欠いていた。

 ソ連の世界共産主義革命戦略の基本方針は、レーニン以来、「帝国主義戦争を革命へ」であったと私は考える。戦争によって資本主義国が相打ち、相弱ることは、革命運動に有利な状況を生み出す。この戦略のもと、スターリンは、日中だけでなく、日米をも戦わせようとしていた。W・ビュリット駐ソ大使は、早くも1935年(昭和10年)7月、「アメリカを日本との戦争に引き込むのがソ連政府の心からの願望」だと米国政府に知らせている。しかし、ルーズベルト大統領は、スターリンの遠大なスケールの謀略を見抜くことが出来なかった。
 ルーズベルトは、ソ連・中国の捏造した田中上奏文を真に受けて日本を敵視していた。1941年(昭和14年)9月、ヨーロッパでナチス・ドイツが電撃的な進撃を開始すると、ルーズベルトは欧州への参戦を願っていた。しかし、選挙では、不参戦を公約している。そこで日本を挑発して先に手を出させ、それを口実に大戦に参入しようとしていたのである。
 この思惑はスターリンの狙いと一致していた。ソ連は大統領の側近にスパイやエージェントをつくって工作し、ハル・ノートの作成にも一部関与した。スターリンは、アメリカを早く太平洋に誘い出し、力を分散させることで、戦後の欧州やアジアの共産化を狙っていたのだろう。

 スターリンは、世界革命戦略の中で、日本の共産化を非常に重視していた。スターリンの意思を受けたゾルゲと尾崎秀美は、日本で工作活動を行い、日本軍を対ソ北進から南進政策に転じせしめた。これによって、スターリンは、ドイツと日本による挟み撃ちを免れた。それと同時に、日米を激突させることにも成功したのである。
 日本の南進は、アメリカの強い反発を招いた。石油の対日輸出禁止は、日本の喉元を締め上げるものだった。ハル・ノートを突きつけられた日本は、これへの対処を誤り、真珠湾攻撃へと突き進んだ。

 日本にとどめをさすソ連の参戦を決めたヤルタ会談では、ソ連のスパイ、アルジャー・ヒスが暗躍した。国務省の高官として、ルーズべルト政権に仕え、ヤルタに随行した。彼は、国務省を代表して会談に出席し、重病のルーズベルトを補佐した。ヤルタ協定の草案は、ヒスが作成した。ソ連はヤルタ協定によって、堂々と東欧と日本の一部を略取した。その延長線上で中国の共産化、朝鮮北部の従属化にも成功した。
 1995年(平成7年)7月、アメリカ政府は、長年非公開としてきたソ連の暗号電報を公開した。暗号の解読は最高機密活動であり、1943年(昭和18年)から陸軍の特殊部隊によって行われた。「ヴェノナ作戦」と呼ばれた。その資料公開によって、1940年代から50年代にかけて、米国政府内に、100人以上ものソ連のスパイが潜入していたことが確認された。彼らは、ホワイトハウス・国務省・財務省・司法省や、CIAの前進である戦略情報局(OSS)、陸軍省等で暗躍していた。ハル・ノートに関わったホワイト、ヤルタ会談に関わったヒスらは、その一部に過ぎない。

 1945年(昭和20年)8月9日、日本が原爆投下によって瀕死の状態に陥ったところを見計い、スターリンは日ソ立条約を一方的に破棄して、満州・樺太・千島に侵攻した。わが国は、辛くも北海道または日本の東部を軍事占領されることは、避けられた。しかし、ソ連は、アメリカによる自由化・民主化に乗じて、共産主義を日本に浸透することに成功した。
 日本人の精神は、敗戦による自信喪失と、アメリカ・ソ連から流入した外国思想によって、分裂状態に陥った。今日なお、日本人の多くは日本精神を取り戻すことができておらず、国家としての再建もその途上にある。第2次世界大戦という世界規模の戦争の中でわが国が戦った大東亜戦争の影響は、存続しかつ今も甚大である。
 戦後の世界及び日本については、現代史のところで改めて書きたい。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「日本を操る赤い糸~田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion07b.htm
 第6章 ゾルゲ~二つの祖国を持つスパイ
 第7章 尾崎秀美と「敗戦革命」戦略
 第8章 ハル・ノートにスターリンの謀略
 第9章 ヤルタ会談でもソ連スパイが暗躍
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西欧発の文明と人類の歴史76

2008-08-30 09:55:54 | 歴史
●大戦は悲劇の終盤へ

 1944年(昭和16年)後半、ヨーロッパでも、戦局は連合軍の側に大きく傾いた。「Dデイ」と呼ばれた6月6日、連合軍は、北フランスのノルマンディーに上陸した。「史上最大の作戦」といわれ、第一波攻撃だけで、約17万6千人の兵士が作戦に参加した。その後3ヶ月で、連合軍はフランスの大部分を奪還した。
 ノルマンディー上陸作戦に成功した連合国は勢力を強め、45年(昭和20年)に入るとドイツ領内に侵攻する。こうした戦争の最中、米英は、戦争の終結と戦後体制の構築を検討していた。
 2月4日からクリミア半島のヤルタで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ首脳による会談が行われた。彼らは、ドイツに対する戦後処理として、米英仏ソ4カ国による共同管理、戦犯処罰、非武装化を決めた。また連合国を発展させた国際機構をもって戦後世界を管理する体制に大枠合意した。この会談で、米英首脳は、スターリンに対日参戦を求め、見返りとして千島と南樺太の奪取を認めた。これは領土不拡大を宣言した大西洋憲章を曲げる密約だった。
 スターリンはヤルタ密約を背景に、ドイツに進軍した。ドイツは東西から挟撃された。4月、アメリカ軍とソ連軍がエルベ川近くで合流した。ソ連軍がベルリンを包囲するなか、追い詰められたヒトラーは自殺した。ドイツは正統な政府のない状態で、5月に無条件降伏した。枢軸国側で残る主要国は、日本のみとなった。

 ドイツの敗色が濃くなっていた45年2月13日、ドイツの古都ドレスデンが、英米軍による空襲を受けた。死者は約3万5千人に上った。この攻撃は、軍事施設を攻撃する戦術とは明らかに異なり、一般市民への無差別攻撃である。アメリカはこうした攻撃を日本に対して、徹底的に実行した。

●昭和天皇による「終戦の御聖断」

 3月10日、東京はアメリカ軍のB29による空襲を受けた。一夜で約10万人が犠牲となった。一般市民を対象とした無差別攻撃であり、戦時国際法に違反した行為である。4月、5月にも空襲が行われた。東京は三度の空襲によって、大部分が焼け野原となった。
 4月には、沖縄本島がアメリカ軍の侵攻を受け、多くの島民が犠牲になった。しかし攻撃を受けたのは沖縄だけではない。わが国の66の主要都市が次々に無差別攻撃され、老若男女の無辜の民が斃れていった。

 わが国は、戦争終結の道を探り、ソ連に仲介を期待した。しかし、虎視眈々と参戦の機会をうかがっているスターリンが、それに応じるはずはなかった。
 8月6日、アメリカ軍は広島に原子爆弾を投下した。この人類史上初の原爆投下によって、約14万人の生命が奪われた。そのほとんどは、非戦闘員である。続いて9日には、二発目の原爆が長崎に投下された。約7万人が殺害された。
 9日未明、弱りきった日本の姿を見て、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦した。満州、樺太、千島列島等に、ソ連軍が猛然と攻め込んできた。

 ここにいたって、昭和天皇は、8月9日の御前会議において終戦の御聖断を下された。御聖断に従って、わが国は8月10日にポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。12日に回答が届いた。そこには「日本政府の形態は、日本国民の自由意思により決定されるべき」という一文が記されていた。天皇は14日に閣僚全員を召集し、御前会議が開かれた。
 日本は、正統なる政府が厳然と存在し、連合国と外交交渉を行ったので、日本の降伏は条件付き降伏である。ポツダム宣言とは、その降伏の条件を示した降伏勧告文書に他ならない。
 9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ号の船上にて、日本の降伏文書の調印が行われ、未曾有の大戦争であった第2次世界大戦は終結した。
 
・関連掲示
以下のページの拙稿
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind10.htm
21「国民を思った終戦の御聖断~昭和天皇(4)」
22「御聖断に込められた願い~昭和天皇(5)」

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西欧発の文明と人類の歴史75

2008-08-29 13:33:00 | 歴史
●緒戦の優勢が翌年には逆転

 日本は12月8日、米英と開戦するや3日後の11日に、三国単独不講和確約を結んだ。同盟関係にある日独伊は、自国が戦争でどのような状況にあっても、単独では連合国と講和を結ばないという約束である。ここでわが国は、ドイツ、イタリアとまさに一蓮托生の道を選んだことになる。昭和天皇は、このことに関し、「昭和天皇独白録」で次のように述べている。
 「三国同盟は15年9月に成立したが、その後16年12月、日米開戦後できた三国単独不講和確約は、結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ」「この確約なくば、日本が有利な地歩を占めた機会に、和平の機運を掴(つか)むことがきたかも知れぬ」と。
 米英との開戦はまことに悔やむべきことだったが、戦争を始めた以上、今度はこれを有利に終結するのが、政治の役割である。日露戦争の時は、善戦している間に講和の機会をつくる努力をしていた。もし長期戦となり、第3国に講和の仲介を拒否されていたら、苦しい戦いになっていっただろう。しかし、昭和の指導層は、日露戦争の時の先人の貴重な教訓を生かせなかった。まことに残念なことである。

 1942年(昭和17年)中盤までは、ヨーロッパ、東アジア・太平洋両戦線ともに、日独伊を中心とした枢軸国が優勢だった。しかし、わが国は、42年6月、ミッドウェー海戦で最初の躓きを味わった。米空機の急襲により主力空母を失った日本は、以後、戦争の主導権をアメリカに奪われた。
 戦争が長期化するにつれ、物資や情報の面で勝る連合国側が次第に戦局を有利に展開するようになった。42年秋までには、アメリカの軍需生産は圧倒的な規模に達した。戦争の長期化はわが国に不利であることは、海軍上層部を中心にわが国の軍人の間でも、予測されていた。それが現実になっていく。
 ヨーロッパでは、この年8月、ドイツ軍がソ連第3の工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)に侵攻した。スターリングラード攻防戦は、第2次大戦最大の激戦となった。ドイツ軍は、41年暮れに続いて、再びロシアの冬に直面した。明けて43年(昭和18年)1月、ドイツ第6軍がソ連軍に降伏した。これ以後、ドイツは、各地で敗北を重ねることになる。

●日本軍の苦戦は続く

 ドイツが対ソ戦で惨敗した翌月、43年2月、アジア・太平洋戦線では、ガダルカナル島が陥落した。前年8月に米軍が上陸し、激戦が繰り返されたが、ついに日本軍は撤退した。これにより、戦争の主導権は、完全にアメリカが握ることになった。
 ヨーロッパ戦線では、42年(昭和17年)11月、英米連合軍が北アフリカから反攻を開始し、43年7月にはシチリア島に上陸した。イタリアでは軍部や保守派がムッソリーニを逮捕し、独裁者は失脚した。代わったバドリオ政権は、同年9月無条件降伏した。枢軸国の一角が崩れた。
 ムッソリーニは、その後、一時政権に返り咲くが、45年4月処刑された。

 わが国は、広範囲に軍を展開したため、兵站線が延び切って、武器・弾薬や食糧等の補給が不足した。兵士の死因は、餓死・病死が多くなっていく。
 日本軍は、各地で苦戦した。中でも44年(昭和19年)3月に行ったインパール作戦は、最も失敗した作戦として知られる。作戦は、英軍のビルマ進攻防止と、チャンドラ・ボースの自由インド政府を支援するために発動されたが、英軍の反撃や補給の途絶などにより、日本軍は敗退した。日本軍には、7万人以上の死傷者が出た。しかし、日本軍の支援と共闘がインド人に勇気を与え、インドの独立運動を促進したことも確かな事実である。

 この年6月、米軍はサイパン島に上陸した。日本軍は地上戦を展開したが、7月に部隊は全滅。同島に航空基地を確保した米軍は、日本本土への本格的な空襲を開始した。大塚先生は、米英との開戦前から、警告を入れないならば、わが国は木造建築の弱点を衝かれて、空襲を受け、大都市は焦土と化すと警告されていた。それが不幸にして現実になる。
 東条打倒を目指す動きが、一部の政治家・官僚等によってひそかに進められていた。7月その効あって、東条内閣は総辞職した。しかし、その後を次いだ政権も、約1年以上戦争を終結へと進められなかった。

 10月21日、明治神宮で、出陣学徒壮行会が行われた。訓練不足の学生が戦地に次々に出征していった。
 壮行会の2日後に行われたレイテ沖海戦で、わが国は惨敗を喫した。フィリピン周辺海域での戦闘で、戦艦武蔵を始めとする主力軍艦を失い、連合艦隊は事実上壊滅した。この海戦に際し、神風特別攻撃隊が編成され、体当たり攻撃が実行された。

 次回に続く。

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西欧発の文明と人類の歴史74

2008-08-28 09:38:18 | 歴史
●わが国は対米交渉に努力

 対日石油輸出禁止を続けるアメリカに対し、わが国の政府は、外交による事態の打開を図った。近衛文麿首相は日米首脳会談を決意し、米側に申し入れたがルーズベルトはこれを拒否した。ルーズベルトとチャーチルは、41年(昭和16年)8月14日大西洋憲章と呼ばれる共同宣言を発し、領土不拡大、民族自決、通商・資源の均等解放等の指導原則を明らかにした。この共同宣言が、国際連合憲章の基礎となる。会談で米英両首脳は対日戦争での協力を約束していた。わが国がアメリカ政府と会談を重ねても、交渉は進捗する可能性は低かった。
 わが国は、9月6日の御前会議において、外交努力を継続しつつも、10月下旬を目途に戦争準備を整え、10月上旬に至っても交渉が成立しない場合は対米英開戦を決意するという方針を決定した。昭和天皇は、この御前会議において、ご自分の意見を述べるのではなく、明治天皇の御製を読み上げられた。
 
 よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ

 これは対米英戦争の開始には反対である、戦争を回避するように、という間接的な意思表示だった。

 10月下旬が過ぎても、アメリカはかたくなな姿勢を崩さなかった。近衛に代わった東条英機首相に対し、昭和天皇は「9月6日の御前会議にとらわれず慎重に再検討するように」という意向を伝えた。東条は、シナ・仏印からの撤兵を含む大幅な譲歩を表す甲案と、甲案不成立の場合に戦争勃発を防ぐための暫定協定となる乙案を、アメリカに提示した。

●ハル・ノートへの対処が分かれ目に

 外交努力を続けるわが国に対し、ルーズベルトは11月7日に甲案を拒否、11月20日には乙案も拒否した。そして、国務長官ハルが、いわゆるハル・ノートを突きつけてきた。わが国の指導層は、その要求は到底呑めないと判断し、これを事実上の最後通牒と理解した。そして、対米決戦へと歩を進めた。
 ハル・ノートは、財務省高官のハリー・デクスター・ホワイトが起草した。ホワイトはルーズベルトに強い影響力を持つ財界の大物・財務長官モーゲンソーの右腕であり、頭脳だった。ホワイトの書いたものは、そのままモーゲンソーが署名し、モーゲンソーの文書として大統領に提案されたという。ホワイトは両親がユダヤ人であり、モーゲンソーもユダヤ人だった。
 ホワイトには、戦後、ソ連の協力者という疑惑が持ち上がった。スターリンの指令を受けたソ連のスパイが、ホワイトに接触し、日本を挑発するために強硬な要求を書かせた可能性がある。ソ連はホワイトへの工作を彼の名にちなんで「スノウ作戦」と名づけていた。
 スターリンは、自国の安全保障と将来の日本の共産化のため、日米開戦を画策していた。ルーズベルトの方も、大戦参入のきっかけを求めていた。参戦はしないと選挙で公約していたので、自分から公約は破れない。しかし、ニューディール政策は、限界にぶつかっていた。財界には、戦争というビジネス・チャンスを待望する者たちがいた。日本を挑発し、先に手を出させる。そうすれば、正当防衛だとして正義の戦争を始められる。私は、こうしたスターリンとルーズベルトの思惑が一致したのだろうと思う。

 わが国がハル・ノートを突きつけられたころ、ドイツ軍は対ソ戦で苦戦する兆しを表していた。ここでわが国の指導層は、独ソ戦の戦況を冷静に見極め、ハル・ノートが要求する三国同盟の空文化を徹底し、百害あって一利なき三国同盟を破棄すべきだった。そして、泥沼に陥ったシナ本土や、欧米を刺激する仏印からは撤退するが、満州国は堅持するという方針で対米交渉を続けていけば、そのうち国際関係のバランスが崩れ、欧米列強が相打つ戦況が展開しただろう。そして、わが国は、ルーズベルトの挑発やスターリンの思惑に乗らずに、無謀な対米開戦を避け得る道筋が開けたと私は思う。

●ついに米英との開戦に突入

 わが国の指導層は、ハル・ノートの詳細な分析や独ソ戦に関する情報の分析を欠いたまま、1941年(昭和16年)12月1日、御前会議で米英に対する開戦が決定された。昭和天皇は、戦後、「昭和天皇独白録」で、「その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も言わなかった」と語っている。
 12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。また同日、イギリス領マレーのコタ・バルに対する上陸作戦を開始した。
 こうしてヨーロッパで始まった戦争は、東アジア・太平洋での戦争と結合し、世界規模の大戦となった。わが国は自国の戦争を大東亜戦争と名づけ、アメリカは太平洋戦争と称した。

 真珠湾攻撃は、はなばなしい戦果を挙げた。しかし、在米外交官の失態により、宣戦布告の通知が遅れた。ルーズベルトは、事前に日本外務省の打電内容を解読・承知していながら、ハワイのキンメル将軍に伝えなかった。そして、日本軍に攻撃をさせ、これをだまし討ちとして、最大限宣伝に利用した。米国の世論は一気に対日報復戦争へと沸騰した。大統領が自国民をだましたのである。
 マレー沖海戦では、日本軍の航空部隊がイギリス東洋艦隊の主力戦艦を撃沈した。チャーチルは、深刻な打撃を受けた。わが国は、西太平洋の制海権、制空権を握った。日本軍は、東南アジアの白人植民地や太平洋諸島に進撃を続けた。国民の多くは、連戦連勝の報道に酔いしれた。

 大塚寛一先生は、米英との開戦は、建国以来の大敗を招くと警告していた。そして、厳正中立・不戦必勝の大策を、指導層に建言していた。しかし、当時のわが国の指導層の多くは、先生の慧眼を理解できなかった。
 ヒトラーやムッソリー二の覇道をまねた軍部は、ソ連の策謀とアメリカの挑発に引っかかり、米英との戦争に突入した。これは、大調和の精神である日本精神に外れた行動だった。また、世界の大転換という時の到来を感知せぬ行動だった。その結果、わが国は史上例のない敗戦を喫してしまうことになる。詳しくは拙稿「大東亜戦争は戦う必要がなかった」、「大東亜戦争は、こうすれば回避できた」を参照願いたい。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind06.htm

 次回に続く。
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西欧発の文明と人類の歴史73

2008-08-27 08:50:04 | 歴史
●痛恨の三国同盟締結

 1939年(昭和14年)9月、ヨーロッパで大戦が開始されると、大塚寛一先生は9月11日、「大日本精神」と題した建白書を認め、わが国の指導層への送付を開始された。比類ない洞察力を持つ大塚先生は、ヒトラーの野望を見抜き、政治家・軍人・官僚等に建白書を送って繰り返し警告した。しかし、当時の指導層の多くは、ヨーロッパを席巻するドイツの勢いに幻惑され、日本人本来の精神を失っていた。松岡洋右らの親独派が中心となって「バスに乗り遅れるな」との掛け声のもと、40年(昭和15年)9月27日、日独伊三国軍事同盟が締結された。
 ヒトラーは、自己の目的のために日本を利用しようとしていたのだが、当時ほとんどの日本人は、ヒトラーのたくらみに気づかなかった。ヒトラーが最も警戒していたのは、欧州戦線にアメリカが参入することである。そこで、ヒトラーは、アメリカを太平洋に釘付けにしておくために、日本の海軍力をけん制に利用しようとしたのだろう。さらに、戦況が不利になったときにも、日本を利用できると考えていたのではないか。

 三国同盟の締結は、欧米の強い反発を買った。三国同盟調印の4日前、わが国は北部仏印に進駐した。進駐は、シナ事変解決のため、蒋介石政権を支援する「援蒋ルート」を絶つことを目的とした。ナチス占領下のフランスとの合意に基づく行動だったが、わが国はドイツと結んだゆえに、欧米を敵に回すことになった。
 三国同盟は絶対締結すべきでなかった。しかし、締結してしまった以上は、米英とも同盟を結んで害悪を相殺して中立関係を築き、とりわけドイツへの加担というアメリカの懸念を晴らすのが、善後策だったと私は考える。これは、大塚寛一先生の「不戦必勝・厳正中立」の大策の一部をなす独創的な建言による。こうすれば、アメリカは日本に石油を輸出してもドイツに回る恐れはないとして、輸出禁止は回避できただろう。
 この善後策も採用されなかった場合は、次善の策として、独ソ戦の開戦時の1941年(昭和16年)6月または遅くとも同年11月26日のハル・ノート以後に、独ソ戦の展開を見極めて三国同盟を破棄すべきだったと思う。

●石油を巡る角逐

 わが国は41年(昭和16年)4月に日ソ中立条約を結んだ。ドイツは39年8月に独ソ不可侵条約を結んだから、これにならうものとなった。そこにはノモンハン事件の影響がある。わが国は39年(昭和14年)5月にノモンハンでソ連と矛を交えた。わが国の損失は大きく、陸軍は彼我の装備の差に愕然とした。ソ連も深刻な被害を蒙ったのだが、ソ連はそれを隠していた。わが国は当面ソ連との戦いを避けたい。ソ連は日独による挟撃を望まない。そこで利害が一致し、中立条約が調印されたものだろう。
 わが国は、これを機に南進政策を取る。しかし、南進政策は、東南アジアに植民地や利害関係を持つ英・米・オランダと利害対立を深めることになる。

 アメリカは大戦の開始後、伝統的な孤立主義によって中立を保っていた。ヒトラーはアメリカの参戦を最も警戒していた。そのアメリカが41年(昭和16年)3月、武器貸与法を制定して、連合国への支援を開始した。7月に入ると、アメリカは在米日本人の資産凍結を発表した。オランダは日蘭石油民間協定の停止を決めた。わが国は石油確保を目指して、南部仏印に進駐した。ところがその行動がアメリカの態度を硬化させた。
 8月1日わが国はアメリカの対日石油輸出禁止という制裁を受けた。石油が入ってこないということは、経済活動が縮小し、ジリ貧に陥ることである。わが国の政府は、米英支蘭の対日政策を、ABCD包囲陣と呼んだ。
 ここで注目すべきことは、アメリカは、大東亜戦争に先立って、1941年(昭和16年)春、中国国民党を支援する、通称フライングタイガースと呼ばれる部隊を送っていたことである。彼らは民間義勇軍といわれていたが、実は米国防総省の承認の下に集められた正規のエリート空軍部隊だった。アメリカは日本の真珠湾攻撃以前に、すでに対日参戦に踏み切っていたわけである。これも、宣戦布告なき攻撃だった。

 ヨーロッパでもヒトラーは、石油を求めていた。戦争が長引くと、大量の石油がいる。石油は戦争継続に不可欠な戦略物資である。ヒトラーは、スターリンにソ連南部の油田の共同開発を申し出たが、断られた。41年4月、ヒトラーは軍隊をバルカン半島に侵攻し、ユーゴスラヴィア、ギリシャを制圧した。
 ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲは、ドイツの侵攻近しと日本から本国に報告した。しかし、スターリンは侵攻を予期していなかった。ヒトラーは、その隙を衝いた。独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、360万の大軍をもってウクライナ等に進撃した。41年6月22日、ここに独ソ戦の火蓋が切られた。全体主義国家同士の激突である。
 ヒトラーは他国との条約を簡単に破った。しかもその相手国を奇襲攻撃した。この時、わが国は、この人物の信義にもとる人格を見抜き、三国軍事同盟を解消すべきだった。しかし、わが国の指導層は、なお目が覚めなかった。

 次回に続く。

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西欧発の文明と人類の歴史72

2008-08-25 09:39:11 | 歴史
●ヒトラーは電撃作戦でフランスを占領

 ついにヒトラーが動いた。40年5月10日、ドイツは電撃的な作戦を開始した。デンマーク、ノルウェーを占領し、オランダ、ベルギーに侵攻した。さらにベルギーから北フランスに攻め入った。これはフランスには想定外のことだった。対独防衛のために構築していたマジノ線は、やすやすと突破された。フランス兵は、なすすべもなくもなく殲滅され、フランスは国防力の大部分を失った。
 6月18日、まさかのパリが占領された。第3共和制は崩壊した。追い詰められた英仏連合軍は、ダンケルクから撤退し、22日、独仏休戦協定が成立した。フランスには、ヒトラーの傀儡、ヴィシー政権が成立した。ドイツの破竹の勢いを見たイタリアは7月10日、正式に英仏に宣戦布告を発して、大戦に参戦した。
 侵攻後、わずか6週間弱で、大国フランスは、惨敗した。市民革命によって自由・平等・博愛の理想を掲げたフランスが、全体主義の支配を受けるはめになった。4年と約4ヶ月にわたって、フランス人は、鉤十字(ハーケン・クロイツ)に服従を強いられた。
 ナチス・ドイツの侵攻に対し、フランスはどうしてあっけなく敗北したのか。文芸評論家のアンドレ・モーロアは、亡命先のアメリカで、痛恨の反省を込めて祖国の敗因を書いた。その書「フランス敗れたり」は、今日の日本人が大いに学ぶべき本である。本書については、拙稿「『フランス敗れたり』に学ぶ~中国から日本を守るために」をご参照願いたい。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion08l.htm

 フランスを占領したヒトラーは、その勢いで9月からロンドンへの空襲を開始する。イギリスは、ドイツの爆撃機、潜水艦の攻撃に耐え得る資源を持っていなかった。しかし、チャーチル首相は、不屈の意思をもって英国民を指導し、イギリスは粘り強く抗戦を続けた。短期決戦をもくろんでいたヒトラーの構想は、くじかれた。
 チャーチルは、一貫してロスチャイルド財閥に忠実だった。ヒトラーは、ユダヤ国際資本との戦いを企図していたが、そのユダヤ国際資本の元締めは、ロスチャイルド家である。強大な資金力と緻密な情報力を持つロスチャイルド=ユダヤ・ネットワークは、徐々に劣勢を跳ね返していく。

●杉原千畝と樋口季一郎

 ここで、日本人とユダヤ人の関係において、特筆すべき事例として、杉原千畝と樋口季一郎のことを記しておきたい。
 1940年(昭和15年)夏、ドイツ占領下のポーランドから多数のユダヤ人がリトアニアに逃亡した。彼らは当地で各国の領事館・大使館からビザを取得しようとした。しかし、リトアニアはソ連に併合されており、ソ連政府は各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めた。そこでユダヤ難民は日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。この時、彼らのために、ビザを発給したのが、杉原千畝である。先回、ヒトラーとスターリンの密約について書いたが、杉原の行動は、ドイツとソ連がポーランドを分割し、ソ連がバルト三国を併合するという状況におけるものだったのである。
 杉原の職を賭した勇気ある行動によってリトアニアを出ることのできたユダヤ難民は、シベリアを渡り、ウラジオストク経由で敦賀港に上陸した。うち約千人はアメリカやパレスチナに向かった。杉原によって救われたユダヤ人は、六千人にのぼると推計されている。1985年(昭和60年)、杉原は、イスラエル政府から日本人で唯一、「諸国民の中の正義の人」としてヤド・バシェム賞を受賞し、顕彰碑が建てられた。

 時期的には杉原より前になるが、樋口季一郎もまた多数のユダヤ人を救出した。1938年(昭和13年)、約2万人のユダヤ人が、ソ満国境沿いのシベリア鉄道オトポール駅にいた。ナチスの迫害から逃れて亡命するためには、満州国を通過しなければならない。しかし、入国許可は出なかった。彼らの惨状を見た樋口少将は、部下の安江仙江大佐らとともに即日、ユダヤ人に食糧・衣類等を与え、医療を施し、出国、入植、上海租界への移動の斡旋を行った。
 大戦末期、樋口はソ連軍千島侵攻部隊に打撃を与え、北海道占領を阻止した。スターリンはその樋口を戦犯に指名した。これに対し、世界ユダヤ協会は、各国のユダヤ人組織を通じて樋口の救援活動を展開し、欧米のユダヤ人資本家はロビー活動を行った。その結果、マッカーサーはソ連による樋口引き渡し要求を拒否し、身柄を保護した。樋口の名は、イスラエル建国功労者として、「黄金の碑」に「偉大なる人道主義者」として刻印され、その功績が顕彰されている。
 ユダヤ人を迫害したナチス・ドイツと誤った提携をしたわが国ではあったが、こうした人道的な行為をして感謝されている日本人がいることは、誇りとすべきである。

 次回に続く。

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西欧発の文明と人類の歴史71

2008-08-24 08:49:14 | 歴史
●英仏の宥和策がドイツの周辺併合を許す

 わが国がシナ問題で苦慮していた時、ヒトラーは着々と野望を実現しつつあった。ヒトラーは、1935年に再軍備を宣言し、ドイツの工業力を駆使して、軍備増強を進めた。36年にはラインラント非武装地帯に軍隊を進駐させた。こうした動きを、英仏の政府は追認した。その理由は、第1次世界大戦の記憶から英仏の国民は平和の継続を求めていたこと、また英仏の指導層は反共を掲げるナチスがソ連への対抗勢力となることを期待したためである。こうした様子を見たヒトラーは、ドイツの周辺国に住むドイツ系住民に関して民族自決権を主張し、ドイツ人居住地域をドイツに併合することを要求した。手始めにヒトラーは38年3月、オーストリアを併合した。
 続いてヒトラーは、チェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を求めた。英仏はドイツとの戦争を避けようとして宥和政策を取った。38年9月のミュンヘン会談で、イギリスのチェンバレン首相とフランスのダラディエ首相は、ヒトラーに妥協して、ズデーテン地方の対独割譲を決めた。勢いに乗ったドイツは、同地方を割取しただけでなく、チェコを保護国とした。

 ヒトラーの狙いはこれにとどまらなかった。ヴェルサイユ条約によって、ドイツはポーランド回廊を失った。そのため国土が分断され、ドイツ人は不満を持っていた。ヒトラーは、ポーランド政府に対し、同地での道路・鉄道の敷設を要求した。ポーランドはドイツの圧力に屈しなかった。また、ミュンヘン会談の合意を反故にされた英仏では、世論がドイツとの対決を辞せずという方向へと急速に変化した。
 39年8月、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を結んだ。反共のドイツが共産ソ連と握手したのだから、各国指導層は驚愕した。ドイツと防共協定を交わしていたわが国では、平沼騏一郎首相が「欧州情勢は複雑怪奇」と言って総辞職した。もとよりヒトラーとスターリンは、互いを信頼しているわけではない。ヒトラーは当面の作戦のために東方の安全を図り、スターリンは戦争準備のために時間稼ぎをすることが目的だろう。いずれ劣らぬ権謀術数の騙し合いである。

●第2次世界大戦は、独ソの密約で始まった

 ソ連との不可侵条約締結の翌月、1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻した。同月3日英仏はドイツに宣戦を布告し、ここに第2次世界大戦が勃発した。
 ここで重要なことは、ポーランドに侵攻したのは、ドイツだけではないことである。ドイツに続いて、17日ソ連もポーランドに侵攻した。その行動は、独ソ不可侵条約に付属する議定書に基づく行動だった。ヒトラーとスターリンは、密約によってポーランドを東西に分割したのである。

 英仏がドイツに宣戦したのは、ポーランドを守る条約を結んでいたためやむを得ずのものだった。開戦後、西部戦線で英仏は攻勢に出ず、ドイツも軍事行動を起こさなかった。そのため、「奇妙な戦争」と呼ばれる状況が約8ヶ月続いた。
 この間、積極的に侵攻戦争を遂行していたのは、ソ連のみである。ポーランドに続いてスターリンは、同年11月フィンランドに侵攻し、領土を拡張した。フィンランドの提訴により、国際連盟は同年12月ソ連を除名した。日独伊は脱退だが、ソ連は除名である。スターリンは、またラトヴィア、リトアニア、エストニアのバルト三国に圧力をかけ、翌40年これを併合した。これらの侵攻もドイツとの秘密議定書による行動だった。
 ヒトラーは、41年6月スターリンの隙を衝いて攻め、独ソ戦となるが、スターリンは、それまでヒトラーを経済的にも外交的にも支援していた。だから、ドイツは戦線を西に絞り、大胆な作戦を行うことができたのである。
 大戦末期、ソ連は日ソ中立条約を破棄して満州国・日本領に侵攻し、樺太・千島等を略奪する。わが国ではその点はよく論及されるが、スターリンは、この大戦で初めから領土拡張戦争を行ったことを見逃してはならない。戦後の東欧諸国の共産化=従属化は、その延長線上に行われたのである。

 次回に続く。

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西欧発の文明と人類の歴史70

2008-08-23 10:24:53 | 歴史
●スターリンの対日革命工作

 わが国は、1937年(昭和12年)7月に始まったシナ事変を解決する糸口をつかめなかった。シナ事変は、その前にわが国がシナ大陸に進出し、シナのナショナリズムの抵抗を受け、これに適切に対処できなかったことの結果である。しかし、ここで記しておきたいことがある。それは、スターリンの対日革命工作である。

 大東亜戦争の敗戦後、東京裁判でわが国の国家指導者が断罪された。東京裁判において、米国・旧ソ連・中国などの連合国は、日本を裁くうえで、田中上奏文を重要な根拠とした。田中上奏文とは、26年(昭和2年)に当時の首相田中義一が昭和天皇に上奏して作成されたという文書である。
 裁判の冒頭陳述で、キーナン主席検事は、田中上奏文の内容に基づいて、日本は1928年(昭和3年)以来、「世界征服」の共同謀議による侵略戦争を行ったと述べた。東アジア、太平洋、インド洋、あるいはこれと国境を接している、あらゆる諸国の軍事的、政治的、経済的支配の獲得、そして最後には、世界支配獲得の目的をもって宣戦をし、侵略戦争を行い、そのための共同謀議を組織し、実行したというのである。
 28年以来というのは、張作霖爆殺事件を指す。東京裁判は、31年(昭和6年)の満州事変や37年(昭和12年)の盧溝橋事件ではなく、張作霖爆殺事件を起点に置いた。それは、世界征服計画を書いた田中上奏文のシナリオに基づいて、日本は侵攻戦争を行ったと仕立て上げるためである。

 田中上奏文といっても、日本語の原書は存在しない。中国語版や英語版が出回っていることにわが国の政府が気づいたのは、29年(昭和4年)だった。何者かが捏造したものであることは明らかであり、現在では、本文書が偽書であることは定説になっている。ただし、中国共産党は、なお本文書をもとに日本の侵攻を非難している。
 近年、田中上奏文の作成・頒布には、ソ連共産党が関わっていたという説が出されている。張作霖爆殺事件についても、従来は日本の関東軍の謀略だったと言われてきたが、ソ連のGRU(ソ連赤軍参謀本部情報総局)の工作であった可能性が浮かび上がっている。もしこれが事実であれば、非常に大きな意味を持つ。

 私は、田中上奏文の捏造や張作霖爆殺事件が計画・実行された1920年代後半という時期に注目する。当時は、スターリンがソ連で権力を掌握し、独裁者として辣腕を振るうようになっていった時期である。スターリンは、日露戦争でロシアが日本に敗れたことに、復讐心を持っていた。また、日本の天皇をロシアのツアーと同じような存在と誤解し、皇室制度を打倒して日本を共産化し、自らの支配下に納めようと考えていた。その目的のために、田中上奏文の作成・頒布と張作霖の暗殺計画が進められたと考えられる。
 私がこのような見方をする理由は、シナにおけるわが国の蹉跌は、わが国の軍部の暴走、政府の失策だけでなく、国際共産主義運動の対日工作という要素を考慮しなければ、原因が十分明らかにならないと思っているからである。

●日本はシナとの戦争で泥沼に

 シナ事変のきっかけは、37年(昭和12年)7月8日に起こった盧溝橋事件である。わが国政府は事件の拡大を防ぐべく、早期解決に努めた。しかし、通州事件、大山中尉虐殺事件に続いて8月13日に起こった第2次上海事件が、日中全面戦争に発展するきっかけとなった。
 ユン・チアンとジョン・ハリディの共著「マオーー誰も知らなかった毛沢東」は、この事件は、国民党の張治中が蒋介石の命令を無視して、日本軍攻撃を指揮して起きたと主張している。張は中国共産党の秘密党員であり、スパイ工作員だった。中共とコミンテルンの指令を受けた張の企てによって、日中は全面戦争へと導かれたという。

 37年9月、蒋介石率いる中国国民党は、抗日戦遂行を目的として、中国共産党と提携した。1920年代に孫文が行った第1次国共合作に対し、これを第2次国共合作という。
 シナのナショナリズムは、日本が大陸に進出するにつれ、抗日という形で高揚したが、共産主義と融合することで抗戦力を強めた。その背後にはスターリンがいた。日本は大陸でシナのナショナリズムとともに、国際共産主義とぶつかったのである。
 1930年代半ば、スターリンは、シナ大陸に駐屯している日本軍が、北上してソ連に侵攻することを防ぎたいと考えていた。それには、日本軍をシナ大陸で国民党軍と戦わせればよいと考えたのである。一方、毛沢東は、国民党軍を日本軍と戦わせながら、中国共産党の勢力を温存し、シナの奥地で勢力を拡大しようと考えていた。目的はシナにおける共産革命である。スターリンと毛の思惑が一致した。こうした国際共産主義の謀略によって、わが国は、広大なシナ大陸に引きずり込まれた。

 戦争は長期化し、泥沼化した。その原因の一つに、スターリンが積極的に蒋介石の戦争続行を支援したことがある。スターリンは、金を融資して、航空機・戦車・大砲等の武器を売却した。ソ連はシナにとって最大の武器供給国であったのみならず、事実上唯一の重火器、大砲、航空機の供給国だった。
 さらにソ連は、空軍と軍事顧問団を派遣した。37年12月から39年(昭和14年)末までの間に、2千人以上のソ連軍パイロットがシナで戦闘任務につき、日本の航空機約千機を撃墜した。日本統治下の台湾に対する爆撃まで行った。ソ連は、この時点で既に対日参戦をしていたのである。そして、スターリンによる武器の供給、人員の派遣は、英米の援蒋政策の先例ともなった。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「日本を操る赤い糸~田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion07b.htm
 第1章 日本悪玉説のもと、『田中上奏文』
 第2章 嵌められた日本~張作霖爆殺事件
 第3章 引きずりこまれた日中戦争
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西欧発の文明と人類の歴史69

2008-08-22 08:51:49 | 歴史
●日本の苦境と迷走

 第1次世界大戦後、日本への欧米諸国の風当たりが強くなった。日本は、新たな「挑戦」にぶつかることになった。それは、西洋文明と非西洋文明、白人種と非白人種の文明間のぶつかり合いでもあった。
 明治時代の日本人が大国シナや強国ロシアに勝つことができた要因には、国民が精神的に結束していたことが挙げられる。江戸時代に熟成した日本文明は、日本固有の精神を豊かで力強いものに育て、幕末・明治の危機がそれを鍛えた。しかし、日本人は、近代化・西洋化を進める中で、徐々に自己本来の精神を忘れ、ひたすら欧米文化を採り入れて、これに追いつこうという考えにとらわれてしまった。その結果、本来の「日本精神」がないがしろにされ、すぐれた国民性が失われた。国家指導層にある政治家や財界人も、段々日本の本質というものがわからなくなっていったのである。

 日清・日露戦争に勝利すると、東アジアは安定し、日本は他から攻撃される憂いがなくなった。ここで日本人は、次に目指すべき国家目標を見失った。政治家は、国益に基づく政治よりも、個人的な利益の追求に傾き、腐敗堕落していった。資本主義の発達によって、財界にも私利私欲をほしいままにする傾向が生じた。
 こうした中で、わが国は、第1次世界大戦に参戦した。連合国側の一員として戦ったわが国は、列強の間に確乎たる地歩を固めることができた。しかし、そのわが国の前に立ちふさがったのが、アメリカである。わが国は、1921~22年(大正10~11年)のワシントン会議の結果、アメリカ主導の四カ国条約によって日英同盟を解消され、国際社会で不利な立場となった。また、24年には、完全排日移民法がアメリカで成立し、わが国は露骨な人種差別政策の対象とされた。

 1929年(昭和4年)に世界を襲った大恐慌は、わが国にも深甚な影響をもたらした。その中で、翌年浜口雄幸内閣が行った金解禁が裏目に出て、不況は深刻化した。同年政府がロンドン海軍軍縮条約に調印すると、右翼・軍部が反発し、統帥権干犯という論理を振りかざして政治に口を出すようになった。
 内外の諸問題に政治が対応できずにいるなか、軍部が台頭し、独断専横で動き、1931年(昭和6年)には満州事変を起こした。これは、シナ人のナショナリズムの抵抗にあった。翌年、わが国が満州国を建設すると、国際連盟はこれを承認せず、わが国は33年(昭和8年)に国際連盟を脱退し、国際的孤立化の道を進んだ。この状況において、政治経済など総合的な視野を持たない青年将校が中心となって、32年(昭和7年)に5・15事件、36年(昭和11年)に2・26事件を起こした。その結果、軍部が政治を左右し、国の進路が軍部の意向によって引きずられていくようになった。

●指導層における日本精神の喪失

 わが国の国内においては、ロシア革命後、共産主義が知識人や学生を中心に浸透していた。1922年(大正11年)、コミンテルンの日本支部として、日本共産党が結成された。スターリンは、日本における革命を重視し、「27年テーゼ」「32年テーゼ」を発して運動方針を指示した。共産主義は、わが国の皇室制度を廃止しようとする。これは、わが国の伝統・文化・精神を破壊するものとなるので、共産主義からわが国の国体を守ることは、重大な課題だった。わが国は36年(11年)、日独防共協定を結び、協定は翌年日独伊三国防共協定に発展した。
 時代の先の先を見通す慧眼の持ち主、大塚寛一先生は、世界的に見て、1936年(昭和11年)のスペイン内戦は重要な時期だったと言われている。スペイン内戦は、第2次大戦の前哨戦といわれ、英仏独伊ソの思惑が交錯した国際紛争でもあった。この時が、ヒトラーの行動をよく観察できる好機だった。大塚先生は、ここで彼の野望を見抜いてドイツと防共協定を結ばず、ソ連とは中立を厳守していれば、やがてヨーロッパで英ソ対ドイツの間で大戦が勃発し、これにアメリカも参戦する展開になっただろうと説いておられる。大戦になれば、米英は援蒋政策を行う余裕はないから、日本はシナとの問題を解決し、共存共栄の道を進むことができた可能性があった。
 しかし、1930年代半ば当時のわが国の指導層は、世界の大局を把握できなかった。逆に陸軍を中心に、ドイツを友邦と頼む者が多くいた。ヒトラーは著書「わが闘争」において、日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用で小利口で役に立つ民族と侮蔑していた。またユダヤ人を差別し、迫害を行って、国際的な批判を浴びていた。こうしたヒトラーと手を結び、行動を共にしようとしたことは、日本の国家指導層が、幕末・明治までの日本人が持っていた自己本来の精神、日本精神を半ば喪失していたことの現れだろう。

 次回に続く。
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西欧発の文明と人類の歴史68

2008-08-21 10:07:37 | 歴史
●ドイツではナチスが全権を掌握

 世界恐慌で深甚な打撃を受けたドイツでは、底なしの経済危機に陥った。生活苦にあえぐ国民の間には、ヴェルサイユ体制への不満と連合国への恨みが鬱積していた。連立政権で権力基盤の不安定な共和国政府は、有効な打開策を打ち出せなかった。大衆は、既成政党による政治への不信を募らせていた。そうした感情を吸収して急速に勢力を拡大したのが、ナチスである。
 ナチスは、国家社会主義ドイツ労働者党の略称である。21年にアドルフ・ヒトラーが指導者となり、突撃隊(SA)による宣伝・示威・暴力活動を展開した。23年ヒトラーは、ムッソリーニのローマ進軍に習ってベルリン進軍を目指したが、ミュンヘンで鎮圧された。党は非合法化され、ヒトラーは投獄された。このとき、獄中で書いたのが「わが闘争」である。本書でヒトラーは、極端なナショナリズムを掲げ、ユダヤ人の排斥とドイツ民族の生存圏の確立、ヴェルサイユ体制の打破と再軍備等を唱えた。

 ヒトラーは25年に出所すると、大衆組織を利用した合法活動で党勢を伸ばした。同年右翼・軍部の支持で就任したヒンデンブルグ大統領は強権を発動して内閣を入れ替えるなど、議会政治は形骸化していた。世界恐慌後、30年の選挙でナチスは、社会民主党に次ぐ投票を獲得し、32年の選挙では第1党に躍り出た。
 33年、首相に就任すると、ヒトラーは、国会放火事件を利用して共産党を非合法化した。さらに国会で全権委任法を可決させ、ワイマール憲法は事実上その効力を失った。ナチスは、議会制デモクラシーの正当な手続きによって一党独裁体制を確立した。
 ナチスは、国名を「第三帝国」と称し、神聖ローマ帝国、ドイツ帝国を継承するものと自らを位置づけた。33年、国際連盟を脱退し、34年ヒンデンブルグ大統領が死ぬと、ヒトラーは大統領を兼任する総統に就任した。これにより、ヒトラーの個人崇拝体制が完成した。

●ヒトラーの野望とユダヤ人への迫害

 ヒトラーは、内政では、アウトバーンの建設を初めとする公共事業の推進、軍需産業の振興により、雇用を創出して失業問題を解決した。また、映画・美術・文学・スポーツ等を利用して、民族精神の高揚と思想の一元化を図った。こうしたヒトラーをドイツ国民は、熱狂的に支持した。
 外交では、33年に国際連盟を脱退し、35年にはヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して、再軍備を宣言した。36年にはフランス、ベルギーとの間の非武装地帯ラインラントに軍隊を進駐させた。この年、ベルリン・オリンピックを開催し、復興したドイツ民族の姿を誇示した。
同年スペインでは、人民戦線政府が成立し、これに反対するフランコが反乱を起こした。このスペイン内戦に対し、英仏は不干渉政策を取ったが、ヒトラーはムッソリーニとともにフランコを支持し、空軍を主体として軍事支援した。政府軍は、ソ連や国際義勇軍の支援を受けて応戦したので、スペインは、ファシズム対自由主義・共産主義の戦いの場所となった。
 内戦は39年まで続くが、人民戦線政府が国外に亡命し、フランコ軍が首都マドリードを占領して終結した。もしこの時、英仏が積極策を取っていたら、第2次世界大戦は、数年早く開始されることになっていただろう。

 36年、ヒトラーは日本と日独防共協定を結び、翌年イタリアがこれに参加した。日独伊三国防共協定は、共産主義インターナショナルに対する協定であり、コミンテルンの活動に関する情報交換と防衛措置の協議を定めたものだった。世界恐慌で資本主義国が打撃を受けたのに対し、統制主義的な計画経済を進めていたソ連は、恐慌の影響を受けなかった。猛烈な速度で工業生産力を伸ばすソ連は、資本主義諸国にとって大きな脅威だった。このソ連及び共産主義への対応の仕方が、大戦間期の各国の動向において重要な要素となった。ヒトラーは、ソ連及び共産主義との対決の道を突き進んだ。
 ヒトラーは、さらにもっと大きな野望を抱いていた。ナチスによる世界制覇である。その野望の実現のために、わが国を利用しようと画策した。そして、防共協定を足がかりに、日本を日独伊三国軍事同盟の締結へと誘い込んでいく。

 ワイマール共和国時代のドイツは、それまでの歴史で、ユダヤ人が最も活躍した社会だった。物理学者アインシュタインをはじめとして、ノーベル賞受賞者が11人も続出した。“ワイマール憲法の父”プロイス、外務大臣ラーテナウ、法学者イェリネック、フランクフルト学派のホルクハイマー、アドルノ等、科学、政治、経済、文学、美術、報道等、多彩な分野で、ユダヤ人の才能は大きく開花し、驚異的な活動を行った。
 ところが、それゆえにこそドイツ人のユダヤ人への反感が強まった。ドイツでも中世以来、ユダヤ人への差別・迫害が行われていた。ナチスは、そうした国民の伝統的な反ユダヤ感情を増幅させ、ユダヤ人に対する迫害を行った。多くの優秀なユダヤ人が国外に亡命した。
 第2次世界大戦開始後、ナチスによる人種差別的な迫害はさらに激しくなった。通説によると、強制収容所への収容、強制労働、毒ガス等によって、600万人のユダヤ人が犠牲になったとされている。毒ガスの使用や犠牲者の数等、通説には多くの疑義が出されている。ワイマール時代のユダヤ人及び「ホロコースト」については、別稿に書くことにし、ここでは割愛する。

 次回に続く。

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