ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

講演「日本の国柄と天皇の役割」の概要2

2016-10-31 09:50:47 | 皇室
●天皇陛下がお気持ちを表明

 今上陛下は、56歳で昭和天皇から皇位を継ぎ、常に国民の安寧と世界の平和を祈って様々なご公務をされてきた。現在82歳というご高齢になっておられる。
 本年7月13日NHKテレビが天皇陛下は「生前退位」のご意向という異例の放送をし、国民に衝撃を与えた。報道の仕方が不適切であり、また「生前退位」という誤った用語が使われた。宮内庁は報道された内容を全面否定した。そのような経緯があって、陛下が直接国民にお気持ちを語られることになった。8月8日NHKテレビで「天皇陛下のお気持ち表明」という番組が放送された。天皇陛下が直接国民にビデオで御言葉を述べられたのは、約5年前の東日本大震災の時以来だった。このたびの御言葉の概要は以下の通りである。

 まず、陛下はかねて高齢社会において「天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか」と考えてきたと語られ、80歳を超えて「次第に進む身体の衰え」を考慮すれば、「これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないか」という懸念を述べられた。
 続いて、ご即位以来「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ること」とともに、「国民に、天皇という象徴の立場への理解」を求め、天皇も「国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要」を感じてきたと振り返られた。
 しかしながら、「天皇の高齢化」に伴って「国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろう」し、「重病などによりその機能を果たし得なくなった場合」に「天皇の行為を代行する」摂政を置くことも、「天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま」に生涯「天皇であり続けること」に変わりはないと胸中を明かされた。
 そして「天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶこと」を心配され、「皇室がどのような時にも国民と共に」あるとともに、「象徴天皇の務め」が「安定的に続いていくこと」を念じて、「国民の理解を得られることを、切に願っています」と結ばれた。

 天皇陛下は、数年のうちに譲位することを強く希望されていると理解される。
 皇室典範には、譲位の規定はなく、天皇は自らのご意思で譲位することはできない。皇室典範に譲位の規定がないのは、明治以降、譲位による争いを避けるためにそうしたものである。皇室の歴史には、皇位を巡る争いが幾度かあり、上皇方と天皇方に分かれて戦った争いもあった。そのような争いを防ぐために、明治時代に皇室典範を作った際、譲位の規定を設けず、天皇には終身お勤めいただくこととした。ただし、不慮の事柄等によって、天皇がお勤めを果たせない事態は考えられる。そこで、摂政を置くことを定め、大正天皇の代には、皇太子(後の昭和天皇)が摂政となって、天皇のお勤めを代行された。
 大東亜戦争の敗戦後、占領下でつくられた現行の皇室典範にも、戦前の皇室典範と同様、摂政の規定がある。下記の条文である。

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第十六条 天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。
2 天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。
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 そこで、この規定に則って、天皇陛下は御在位のままで、摂政を置くという対応が考えられる。具体的には「精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、」という一節を柔軟に解釈するか、「高齢による心身の著しい衰え」といった文言を加えることが考えられる。皇室の伝統や日本の歴史をよく知る有識者には、摂政を置くのが良いという考えの人が少なくない。
 もっとも今上陛下は摂政を置くことよりも、譲位を強くご希望と理解される。仮にお気持ちに応えて、譲位を可能にする場合は、はるかに重い検討を要する。譲位を可能にするには、典範を大幅に改正する必要がある。このことは、皇室制度の根幹に関わることである。わが国の歴史・伝統・国柄を踏まえた一大研究が必要である。明治維新の時以来の大きな重みをもった取り組みになる。

 最大の課題は、先に書いたように、譲位による争いを避ける工夫である。その他、様々な検討点が挙げられる。譲位がされれば、元号が変わることになる。現行の皇室典範には、譲位した後の天皇の称号を定めていない。歴史的には太上天皇いわゆる上皇が用いられたが、これをどうするか。譲位後の先帝の権能、お住まい、公費の支給額等をどうするか。また、皇太子が天皇に即位した場合、男子のお子様がいないので新たな皇太子を置くことができない。皇太子は「皇嗣たる皇子」と皇室典範に定めているからである。皇位継承順位第1位となる秋篠宮殿下は、皇太子ではなく別の呼称が必要になる。歴史的には皇太弟というが、これも皇室典範に新たに定めねばならない。その他にもいろいろ検討点がある。

 これらを短期間に検討して皇室典範を改正するのは、至難の課題である。そこで政府は、皇室典範の改正ではなく、特例法制定で譲位を可能にする方針と報じられる。憲法は皇位継承について「皇室典範の定めるところによる」と規定しているので、皇室典範の付則に「特別の場合」に限定して特例法で対応できる旨を追加する。9月23日に有識者会議のメンバーが発表された。皇室制度の専門家や日本の歴史に深く通じた人が一人もいない。この点が心配だが、これら有識者を中心に幅広い意見を聴取して、特例法案の内容を詰め、提出は年明け以降になる見通しと伝えられる。早ければ、1~2年ほどで譲位が行われ、元号が変わるということになるかもしれない。わが国は大きな節目に近づいている。
 このたびの天皇陛下の御言葉を受けて、わが国の歴史・伝統・国柄を振り返るとともに、社会の高齢化を踏まえたあり方を考慮し、国民の英知を集めて適切な対応がされることが望まれる。

 次回に続く。
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人権369~人権は近代西欧的理性で基礎づけ得るか

2016-10-29 09:24:17 | 人権
●人権は近代西欧的理性で基礎づけ得るか

 人権の基礎づけは、近代西欧的理性をもって、なし得ることだろうか。
 後期ロールズは、人間や社会について、「道理を理解する」とか「良識ある」という形容を行った。ロールズの項目に書いたが、「道理を理解する」は reasonable の訳語であり、「穏当な」「筋が通っている」等とも訳す。「理性」と訳される reason から派生した語である。ロールズは、また非西洋文明の諸社会について、「良識ある社会」とそうでない社会を分ける。「良識ある」は、decent の訳語である。「まともな」等とも訳す。「良識ある社会」とは、「自由ではないが、政治的な正しさや正義に関する一定の条件を満たす基本的諸制度は有しており、諸国民衆の社会に関する相当程度に正義に適った法を尊重するべくその市民たちを導いていくような社会」であるとロールズはいう。ここには、このような社会が、decent だというロールズの価値観が表れている。逆に、こうしたロールズの価値観から見ると、decent でない、まともでない社会とその社会の人々がいることになる。それは、近代西洋文明諸国の市民のような理性的思考をしない人々ということになるだろう。だが、その人々が、必ずしも理性を欠いた人々とは言えない。文化的な土壌は異なるが、論理的な思考力や善悪への判断力は、人類に広く認められる。また近代西洋文明諸国の市民の理性的思考には、必ずしもまともだとは言えないところがある。そのうえ、今日、近代西欧的な理性に対する反省が世界的に求められている。
 ともにユダヤ人の哲学者・社会学者であるマックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノは、近代化・合理化の進む西欧において、合理化が生み出す非合理性を見た。ナチスによるユダヤ人虐殺や世界大戦の勃発である。彼らは、『啓蒙の弁証法』(1949年)で、「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」と問うた。そして、近代西欧の理性は、近代の初めに持っていた神的意味を失って、目的を実現する手段に変じ、「道具的理性」となっていると批判した。さらに、彼らは西洋文明の発生にまでさかのぼって、合理化について検討した。18世紀の啓蒙主義に関して使われた「啓蒙」という概念の意味を拡大し、「啓蒙」つまり「文明」について検討した。彼らによると、「啓蒙」とは、「呪術の追放」によってアニミズムを否定することであり、自然との一体性を失い、自然から分離することである。神話は、ものに名をつけ、起源を語り、説明しようとする。ホルクハイマーとアドルノは、そこに「啓蒙」が発生したとし、「神話は啓蒙である」と述べた。そして、神話に表れた自然の克服の形式は、近代の啓蒙の限界と暗転を示しており、「啓蒙」の中に自己崩壊の芽があったと断じた。
 近代西洋文明における「啓蒙」は、人間の自己保存のために、自然を支配する力となり、強者が弱者を支配するものとなった。その結果、「啓蒙」は、ナチスによるユダヤ人虐殺や世界大戦などの野蛮に転じた。この逆説を彼らは「余すところなく啓蒙されたこの地球は、災禍が勝利を誇る場となってしまった」と指摘した。そして、啓蒙の自己崩壊を仮借なく批判できるものもまた、理性の自己批判能力以外にないと論じた。
 哲学者のユルゲン・ハーバーマスは、ホルクハイマー、アドルノの問題意識を継承した。マックス・ウェーバー以降、合理性を目的合理性としてのみとらえてきた結果、後期ウェーバーやホルクハイマー、アドルノは近代合理性に対して悲観主義に陥ることになった、とハーバーマスはいう。そして、ウェーバー以後の合理化論は、合理化を「目的合理性の制度化」としてのみとらえていると批判した。ハーバーマスは、そのような「組織・体制的(システム的)な合理化」は近代の一面にすぎず、「生活世界の合理化」を近代の偉大な達成として認めるべきであると指摘する。そして、彼は、近代化はコミュニケーション的な合理性もまた拡大したと評価する。コミュニケーション的合理性とは、対話と意思疎通によって了解をつくっていくという合理性である。ハーバーマスは、近代の合理主義・啓蒙主義を全否定するのではなく、合理性の別の面に光を当て、これを取り出して、現代社会に生かそうと試みている。この発想は、ロールズの「重なり合う合意」に通じるものである。
 人類存亡の危機にある現代人にとって、ホルクハイマー、アドルノのいう理性の持つ自己批判能力や、ハーバーマスのいう対話による相互了解能力を高めることは、必要不可欠のことである。人間に理性がある以上、理性による自己批判や相互了解に、われわれは努力を尽くさねばならない。しかし、近代西洋文明の理性中心の思考では、理性以外の人間の能力について、あまりよく考慮できていない。そのため、人間の能力の全体を見失いないがちになっている。そのため、私は、近代西欧的な理性を以てしては、人権の基礎づけは為し得ないと考える。

 次回に続く。
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講演「日本の国柄と天皇の役割」の概要1

2016-10-28 09:25:39 | 皇室
 三笠宮殿下の薨去の報に接し、謹んで哀悼の意を表します。

 国民が深い悲しみに包まれるなか、本日朝、産経新聞は「生前退位」を止め、「譲位」を使うと発表した。マスメディアや有識者に用語の変更を求めてきた者の一人として、産経新聞のこの対応を評価する。
 一方、「生前退位」を使い続けるとともに、三笠宮殿下の「薨去」については「逝去」「死去」という誤った用語で報道しているメディアに対し、強く抗議する。

 さて、政府は、天皇陛下が皇太子殿下に皇位を継承する際の重要な儀礼である大嘗祭を、平成30年11月に執り行う方向で検討に入ったと報じられる。この日程で計画するには、準備に1年近くかかるため、来年(29年)の通常国会で皇室典範の改正を含む法整備を行わねば間に合わないという。10月17日、安倍首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の初会合が首相官邸で開催された。来月から始める専門家からのヒアリングを踏まえ、年明けにも論点をまとめる。政府は有識者会議の提言を受け、必要な法整備を目指すとのことである。
 1か月ほど前になるが、私は、9月の中旬から下旬にかけて、本件に関わる講演を、東京都港区、長野県松本市、栃木県下野市で行った。題名は「日本の国柄と天皇の役割」である。その概要を3回に分けて掲載する。

●日本の国柄と天皇の役割

 我が国に伝わる伝統的な精神を、日本精神という。日本精神は、人と人、人と自然が調和して生きる人間の生き方である。家庭にあっては親子や夫婦が調和して生きる。また、祖先を敬い、子孫の繁栄を願って生きる。そうした家族が多数集まって、一つの国を形成している。その国の中心には、皇室があり、国民が皇室を中心とした一大家族のような社会を築いている。これが日本の伝統的な国柄である。これは人為的に作ったものとは違う。自然に作られてきたものであり、自然の法則にかなっている。
 今上陛下は、第125代の天皇であり、神武天皇以来、男系による継承が今日まで一貫して行なわれてきている。世界に類例を見ない万世一系の皇統である。ここにわが国の比類ない国柄がある。
 だが、大東亜戦争の敗戦後、こうした国柄が見失われがちになっている。我が国を占領したGHQは、占領政策の目的を、日本が再び米国及び世界の脅威とならないようにすることにおいた。一言で言えば、日本の弱体化である。最大のポイントとされたのは、天皇の権威を引き下げ、天皇の権限を少なくし、天皇と国民の紐帯を弱めることだった。
 その結果、現行憲法において、天皇は「日本国の象徴」にして「日本国民統合の象徴」と規定されている。象徴とは何かについて憲法は規定していない。
 もともと我が国は祭政一致を伝統とする。天皇は本来、民族の中心として祭祀を司るとともに、歴史的には親政を行ってきた。貴族や武士に政権を委ねても、最も重要なことは、天皇が裁可した。本来の天皇は、象徴以上のものである。

●皇位に必要なもの~血統・神器・君徳

 我が国の天皇は、古来、侵しがたい権威あるものと仰がれてきた。その権威は、天照大神の子孫である神武天皇の血筋を引いており、また天照大神から授けられた三種の神器を持っていることによっている。そして、そのうえに、天皇が天皇にふさわしい徳を備えていることが、国民の崇敬を集めてきた所以である。すなわち、血統・神器・君徳の三つが天皇に求められる要件とされてきた。

(1)血統
 初代神武天皇以来、今日の第125代の今上陛下まで、一系の血統で皇位を継承している。「万世一系」とは、単に血筋がつながっているのでなく、男系継承によってのみ可能なことである。男系とは父方を通じて皇室とつながっているということである。一度も途切れることなく皇位が男系で継承されてきたから、「皇統連綿」と言いうる。男系継承を2千年以上、125代にわたって続けてきた人類唯一の家系が、日本の皇室である。このような王朝は、世界のどこにもない。
 ところで、10年ほど前、女性天皇を可能にしようとする動きがあった。悠仁親王殿下が誕生されたので、その動きは下火になった。悠仁様がおられるのに、愛子内親王を天皇にするという考えはありえない。しかし、共産党は男女平等だから女性も天皇になれるようにすべきだと主張し、学校でもそのように教えているところがあるようだ。
 天皇や皇室に関することは、皇室典範に定めている。明治時代に皇室典範に天皇は男子が継承すると決め、現在の皇室典範もそのように定めている。歴史的には、女性天皇は8方10代の例がある。男系男子による継承を原則として、適当な男子がいない時に、つなぎとして女性天皇を立てたものだった。
 今後もし、また女性天皇を可能にという動きが起った場合、女性天皇には皇室廃絶の危険性があることを知らねばならない。女性天皇は在位中は結婚しないのが慣習である。だが、もし女性天皇に結婚してよいと変え、子供が生まれるとその子は女系となる。女系の子が継ぐと、配偶者(皇配)の系統となりそこで王朝が替わってしまう。つまり、神武天皇以来の皇室がそこで断絶し、別の王朝になってしまう。配偶者が佐藤家なら佐藤王朝、その子も女性で鈴木という配偶者と結婚すれば鈴木王朝ということになる。こういうことがないように、元皇族の系統の方々に皇族に戻っていただくなどして、皇族の人数を増やし、皇室が繁栄していけるようにする必要がある。

(2)神器
 天皇は、単に血統によるだけでなく、三種の神器を保持していることを求められる。三種の神器は、古代から天皇の位を象徴するものとして、歴代天皇に継承されてきた。
 記紀によると、皇室の祖先神とされる天照大神は、天孫ニニギノミコトを、葦原中国(あしはらのなかつくに)すなわちこの日本国に遣わす際、「三種の神器」を授けたとされる。つまり八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)の三種である。
 鏡は伊勢神宮に、剣は熱田神宮に、それぞれ祀られている。八坂瓊曲玉だけは神璽(しんじ)として宮中に安置されてきた。また、分霊された鏡が宮中の天照大神を祀る賢所(かしこどころ)に奉安されている。剣の分身と曲玉は、天皇のお側近くに常に安置されている。
 これら三種の神器は、代々の天皇により皇位の証として継承され、天皇が一日以上の行事に出かけられる時は、剣璽御動座(けんじごどうざ)といって剣と曲玉が陛下と共に渡御(とぎょ)される。

(3)君徳
 天皇に必要なものは、血統と神器だけではない。天皇にふさわしい徳、君徳を備えていることが求められる。
 わが国の天皇には、国民に「仁」の心を持つという伝統がある。日本書紀には、初代天皇とされる神武天皇が、「民」を「おおみたから」と呼んだことが記されている。神武天皇にとって、国民は皇祖・天照大神から託された大切な宝物だった。そして、神武天皇は、日本を建国するに当たり、国民を大切にすることを統治の根本とした。
 その後の天皇には、こういう思想が受け継がれている。最も有名なのは、第16代仁徳天皇である。仁徳天皇は、国民が貧しい生活をしていることに気づくと、3年間年貢などを免除した。そして、3年後、高台に立って、炊事の煙があちこちに上がっているのを見て、「自分は、すでに富んだ」と喜んだと伝えられる。
 こうした仁の伝統は、現代の皇室にまで脈々と受け継がれている。天皇・皇后両陛下は即位後、大規模な自然災害が起きるたび、可能な限り速やかに現地を訪問されてきた。平成7年(1995)の阪神淡路大震災では、震災後約2週間で兵庫県に入られた。深い哀悼の意を表される両陛下のお姿は、現地の人々に感動を与えた。また一人一人に温かい声をかけられる両陛下のお心は、被災者の人々に大きな励ましとなった。平成23年(2011)3月11日、東日本大震災が起こった際には、震災発生から5日後、3月16日、国民にビデオメッセージを賜った。陛下がビデオでお気持を述べられるのは、初めてのことだった。

 次回に続く。
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人権368~自由と権利に伴う責任と義務

2016-10-27 09:40:09 | 人権
●自由と権利に伴う責任と義務

 人権の要素とされる自由と権利は、それ自体が目的ではない。個人においては、人格の成長・発展こそが、目的である。自由と権利は、人格の成長・発展のために必要な条件であり、また条件に過ぎない。条件と目的を混同してはならない。政府が国民に自由と権利を保障するのは、個人を人格的存在ととらえ、人格の成長・発展のために、国民が政府を通じて相互に自由と権利を保障するものである。
 人格は、自己にだけでなく、他者にも存在する。人は他者にも人格があることを認め、互いにそれを尊重し合わねばならない。個人の人格の成長・発展は、自己のためのみでなく、他者のためともなり、また社会の公益の実現につながるものでなくてはならない。ここにおいて個人間の関係とは、抽象化された成人の関係だけではない。子供や青少年は、親の保護と社会の教育のもとに、将来大人となるべく人格を形成する。親や大人には、子どもや青少年の人格を涵養する義務がある。年齢や性別等の違いを超えて、自他は互いに人格の成長・発展を促す共同的な存在であり、自由と権利は相互的・共助的な人格の成長・発展のために、必要な条件として集団によって保障されるべきものである。ここで集団とは、家族を単位とし、血縁・地縁による結びつきを持つ地域・民族・国家等の集団であることに注意すべきである。
 自由の擁護と権利の保障は、個人の欲求を無制限に認めるものではない。人はみな人格的存在であるという認識を欠いたならば、自由は放縦となり、権利は欲望の追求の正当化になる。権利の保障のための相互承認ではなく、権利の拡張・奪取のための闘争となる。だが、人権という言葉は、今日しばしば放縦や欲望の隠れ蓑になっている。私は、人格という概念の掘り下げを欠いたまま、自由と権利を人権条約や各国憲法で保障することは、自由と権利が目的化されてしまい、利己的個人主義を助長するおそれがあると考える。
 ここで重要なのが、自由に伴う責任、権利に伴う義務である。個人の権利は集団の権利あってのものであり、権利の行使には、社会的責任を伴う。権利を相互に承認することは、その保障について何らかの社会的義務を負うことである。
 人間の能力については、一般に本能、知能、理性、知性、感性、感覚、感情、思考、霊性、徳性等の概念が用いられる。世界人権宣言は、これらのうち、理性・良心・同胞愛の精神を揚げる。これらの能力を持つ主体が、宣言における人格である。宣言に基づくならば、人格的存在としての諸個人は、これらの能力を発揮して、社会生活を行う。その能力の行使が承認されたものが権利であり、その権利を普遍的・生得的なものと仮定したところに、人権の観念が成立した。
 宣言は、理性・良心・同胞愛の精神を掲げることによって、暗黙の裡に、人間は、人格的存在として理性・良心・同胞愛の精神を持って、自由に伴う責任、権利に伴う義務を果たすべきものと想定していると理解される。しかし、宣言は、人権に関する宣言であり、責任と義務については、主題的に宣言していない。宣言を踏まえて人権を考察する時、権利を行使するだけでなく、責任と義務を担う人格的存在としての人間を考察する必要がある。
 人間は集団生活を行う動物であり、生物としての人間の集団は、生存と繁栄を活動の目的とする。集団の構成員は、集団の目的に沿った行動をしなければならない。諸個人は、それぞれの能力を発揮する際、集団の目的のもとに、集団に貢献するよう、本能によって方向づけられている。この基本は、いかに文化が発達しても、人間が生物である以上、変わらない。人間はまた文化を創造し継承するという人間独自の集団活動を行う。人間は、協力して文化を創造し、親から子へ、世代から世代へと生命とともに文化を継承していく。諸個人の能力は、集団の文化が継承・発展されることに貢献するよう、知能・理性・知性等と呼ばれる能力によって、方向付けられている。こうした集団における能力の行使が社会的に承認されたものが、権利である。それゆえ、権利は本来、集団の目的に沿って、社会的な責任を以て行使しなければならず、またその行使には社会的な義務を伴う。その責任と義務の範囲内で、権利の行使が認められる。権利には、例えば、子供ではなく成人に限るとか、心神耗弱者ではなく健常者に限る等の場合があるのは、そのためである。しかし、近代西欧においては、共同体の解体によって、個人本位の考え方が強くなり、個人の権利を中心に考える傾向が顕著になった。個人の権利は集団の権利あってのものであることや、集団の目的のもとに責任と義務を伴うことが軽視されている。
 世界人権宣言の起草においては、西洋的伝統だけでなく、それ以外の多くの伝統を持つ諸社会からも代表が送り込まれて、議論がされた。だが、人権、自由、平等、人格等の価値は、基本的に近代西洋文明で生み出されたものであり、宣言はこれらの概念を十分検討することなく使ったため、自由に対する責任、権利に対する義務の側面が軽視されている。自由の擁護と権利の保障は進んだが、その反面、先進国を中心に個人主義的な権利意識が強まり、社会の共同性が損なわれる傾向に陥っている。この点の反省を踏まえて、権利を行使するだけでなく責任と義務を担う人格的存在としての人間の諸能力が考察されねばならない。

 次回に続く。
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人権367~人格的存在の権利として基礎づける

2016-10-25 09:24:34 | 人権
●人格的存在の権利として基礎づける

 前の項目で、人間は相互に権利を認め合う存在であるとともに、相互に権利を奪い合う存在でもあると書いた。人間は、権利を巡って協調と闘争を行う能力を持つ。そうした能力を合わせ持つ主体である諸個人は、人格を持つ存在でもある。人権は、人格的存在の権利として基礎づける必要がある。
 世界人権宣言は、諸個人について、人格の語を使っていながら、人格とは何かについて述べていない。人格を認めていながら、なぜ認めるのか、その理由も述べていない。宣言として合意するには、それでよかったとしても、宣言を基に各国で人権の発達を目指す段階においては、人格について考察する必要があると私は考える。
 後期ロールズは、人格に基づくことなく、また政治的な範囲に限定した正義論を展開した。その影響でロールズ以降の正義論は、人格を論じず、人間に関する考察を積極的に行わない。現代正義論における人権論は、人格を論じることなく、自由と権利という人格の成長・発展の条件に関する議論を行っている。これに対し、私は、人格の成長・発展の条件を論じるだけでなく、人格そのものを論じ、それを通じて人間の考察を行わなければならないと考える。
 人間には、個人性と社会性がある。人格は、個人性の側面を表す。人間性の個別化という論理も可能である。人格について、私は、第1部で基礎的な考察を行った。それを踏まえて述べるならば、人格は、personality 等の訳語であり、「人柄」「人品」を意味する。こうした日常的に使われる人格という用語を、近代西洋哲学では道徳的行為の主体、法学では権利義務が帰属し得る主体の意味で用いている。近代西洋文明では、宗教と道徳と法が分化し、法と道徳が一定の自立性を持つようになったが、法のもとには道徳があり、道徳のもとには宗教がある。宗教は、超自然的な力や存在に対する信仰と、それに伴う儀礼や制度が発達したものであり、宗教から超越的な要素をなくすか、または薄くすると、道徳となる。道徳のうち、制裁を伴う命令・禁止を表すものが、法である。
 宗教・法・道徳が分化していない前近代的または非西欧的な社会のあり方を含めて考えるならば、人格とは道徳的または宗教的な行為を行い、法的または道徳的な権利義務が帰属し得る主体であるととらえる必要がある。ここで主体とは、対象や環境に対して、能動的に働きかけるものである。主体は、近代西洋思想の基本概念のひとつで、主体―客体(subject-object)という対をなす。認識を主にする時は、主観―客観という。主体・主観は、歴史的・社会的・文化的に限定されるものであり、間主体的・共同主観的(inter-subjective)である。客体は対象ともいう。主体は相互に客体・対象ともなる。
 そのような主体としての人格は、人間の諸性質として生物性と文化性、身体性と心霊性を持つ。個人は、生物的身体的な存在であるとともに、文化的心霊的な存在である。また、そのことによって、人間は人格的存在である。
 人格は、人間の心身の発達の過程で形成され、成長・発展を続けるものである。植物は、<種子→芽→葉→花→実>と、生長の過程で形態を変化させていくが、そこに一貫して持続しているものがある。それが植物の生命である。人間は、生命ある存在として、生物性と身体性を持つ。人間は、<精子→受精卵→胎児→幼児→少年→青年→老年→死者>と、成長の過程で形態を変化させていくが、そこに一貫して持続しているものが、人間の生命である。そして、人間においては、生命だけでなく、生命とともに成長するものがある。これを心、精神等という。人間は、精神の活動により、文化を創造・継承し、また心霊的存在であることを自覚する。この生命的かつ精神的な存在が、道徳的または宗教的な行為を行い、法的または道徳的な権利義務が帰属する主体としての人格である。
 人間の集団は、人格的存在としての諸個人によって構成される。諸個人は、性差と血縁によって、集団の最小単位である家族を構成する。個人は家族の一員として生まれ、家族において成長する。個人は親子・兄弟・姉妹・祖孫等の家族的な人間関係において、人格を形成する。そして親族や地域、民族、国家等の集団の一員として、社会的な関係の中で、人格を成長・発展させていく。
 諸個人は、人格的存在として、社会的な実践を行う。その実践において、さまざまな価値を生み出す。価値の中には、まず生命的な価値がある。生命的な価値とは、健康、生長、長寿、子孫繁栄等である。だが、生命の尊厳を絶対的な価値として、人間の尊厳を説くならば、他の生命体の価値も同様となる。人間は、生命的な価値以外に、文化的な価値や心霊的な価値を生み出す。そのことによって尊厳が認められる。世界人権宣言では英語dignityの訳語であり、dignityは「価値のあること」「尊さ」「貴重さ」などを意味する。尊く敬うべき価値である。文化的な価値には、物質文化的価値と精神文化的価値がある。これらを物質的価値、精神的価値ともいう。前者は富、権力、利便等であり、後者は真、善、美、聖、正義、自由、平等等である。精神的な価値のうち、死後の霊的存続可能性や人間を超えた存在に関わる価値が、心霊的価値である。私は、こうした価値を生命的価値、文化的価値(物質的・精神的含む)、心霊的価値の3種に整理する。
 人格は、生命的価値だけでなく、文化的及び心霊的な価値を創造・継承する主体であり、それゆえに人格にも価値が認められる。人権もまた価値の一つであるから、人権の基礎づけにおいて、人格の概念は不可欠である。個人における人格の成長・発展は、社会における価値の創造・増大となる。それゆえ、個人の人格の尊重に基づく権利の相互承認は、社会における価値の創造・増大を促す。人権とは、こうした価値を何らかの形で相互に認め合うところに成立する権利である。
 文化的価値及び心霊的価値は、それぞれの集団において創造され、また評価されるものである。それゆえ、普遍的な価値ではなく特殊的な価値であり、その価値を生み出す主体の権利は、それぞれの集団において発達する。近代国民国家で構成される国際社会においては、価値創造の主体の権利は、主としてそれぞれの国民の権利として発達する。

 次回に続く。
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「生前退位」を止め、「譲位」を使うべし

2016-10-24 07:10:18 | 皇室
 本年7月13日NHKテレビが「生前退位」のご意向という異例の放送をし、国民に衝撃を与えた。報道の仕方が不適切であり、また「生前退位」という誤った用語が使われた。正しくは、歴史的に使われてきた「譲位」の語を使うべきである。ところが、この用語が多くメディアが使い、学者・有識者にも広がって、定着しつつある。大変残念なことである。

 「退位」は、王位を退くことであり、次に王位を譲るのか、王位を廃止するのかが含意されていない。亡命等で王位を捨てる場合や革命等によって王朝が廃絶になる場合に、多く使う。また、退位するのは、生きているうちだから、あえて「退位」の頭に「生前」をつけるのは、不自然である。そのうえ、「生前」は、一般に死後と対比し、天皇であれば崩御を連想させる言葉である。
 それゆえ、「生前退位」は、まったく不適切な言葉である。歴史の教科書や歴史書は「譲位」を使ってきた。そういう確立された用語があるのに、あえて「生前退位」という言葉を創って、これを用いることには、隠された意図を感じる。もっと言えば、悪意である。

 このたび10月20日に82歳になられた皇后陛下は、新聞の1面で「生前退位」という大きな活字を見た際、大きな衝撃を受けられたことをお述べになった。その理由として「歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません」と自らの心情を明かしておられる。まことに御心痛のことであろう。

 マスメディアが「生前退位」の語を使用する根拠は、国会で使用されたからだという。ある人の調べによると、国会で一番最初に「生前退位」を言葉を使ったのは、昭和58年で当時の社民連・江田五月氏だとのことである。政府が答弁で使ったのではなく、左翼の質問者が使ったものである。

 マスメディアや学者・有識者は、誤った「生前退位」を止め、正しく「譲位」の語を用いるべきである。
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人権366~世界人権宣言起草で合意が可能となった理由

2016-10-22 08:53:43 | 人権
宣言起草で合意が可能となった理由

 私は、世界人権宣言の起草委員の間で合意がされたことが、そのままで人権の正当化の根拠となりえないと考える。根拠とするには、どうしてそういう合意が成立し得たのかを問わねばならない。言語・文化・宗教・思想等が違っても起草委員の間で人権に関して合意が可能だったのは、合意の出来るような共通性を互いに認め合ったからだ、と考えられる。委員会の提案は、国連総会で決議され、各国で承認を得た。そこにも言語・文化・宗教・思想等の異なる多数の国々が賛同できるような共通性を互いに認め合ったからだ、と考えられる。その共通性とは何か、を問う必要がある。
 私は、人権の正当化の根拠は、権利を相互に承認する人間の能力にあると考える。権利は、神や宇宙的な原理に直接基づくのではなく、人間が相互に承認することによって成り立つ。人々の間での相互承認が要諦である。主権も人権も絶対的なものではない。もとをたどればどちらも人間の権利の相互承認による。仮に承認する者のうちの一人は、その権利は神によって自分にも異教徒にも与えられたものと考え、一人は宇宙的な原理によって等しく人間に内在するものと考え、一人はそれぞれの先祖から受け継いだものとして尊重すべきものと考え、別の一人は互いの利益のために認め合うべきものと考えた、としよう。それぞれの世界観や価値観は違えども、これらの人々が相互に承認するならば、それで人権と称される権利は成立する。世界人権宣言の起草及び総会決議では、こうした合意による承認が行われた。その点をさらに踏み込んでいかないと、人権論は抽象的な認識をやり取りするだけの皮相な議論になると私は思う。
 世界人権宣言の起草の事情を見たとおり、この宣言は、人権の基礎づけをせずに権利を宣言する仕方で発せられた。第2次世界大戦後、世界戦争による自滅、拷問、殺戮等を避けるという目的のもとに、とくかく相互承認の合意が求められたのだろう。この時、宣言に参加した各国の代表者たちは、一方的に権利を主張するのでなく、また一方的に相手の権利を奪うのでなく、相互に権利を認め合う合意をした。この事実が重要である。
 人権は、普遍的・生得的な権利ではなく、権利を相互に承認することによって、人権と呼ばれることになった権利である。人間は、相手の権利を認め、その権利を行使することを許容することができる。だが、同時にまた人間は、相手の権利を奪い、それによって自分の権利を拡張することもできる。人間は権利を巡って協調することも闘争することもできる。
 権利の相互承認は協調的な行為であり、権利の相互争奪は闘争的な行為である。こうした相反する行為は、人間の個人性と社会性に基づく。個人性とは、差異化・個別化を示す性質である。社会性とは、同一化・全体化を示す性質である。一が多となることを分裂という。多が一になることを統合という。分裂は差異化・個別化の方向である。統一は同一化・全体化の方向である。一の否定によって多となり、多の否定によって一となる。一から多へ、さらにその多から一へは、否定の否定である。否定の作用によって、一が多となり、多が一となる。一が多となって分裂した諸個人の間には、対立・闘争が起こる。多が一となって統合した諸個人の間には、融合・合同が行われる。ここで、一か多かという二者択一的な論理には、差異化・個別化か同一化・全体化か、対立・闘争か融合・合同しかない。だが、もう一つ別の論理が考えられる。それは、多が多のままで調和・並存するという関係である。世界人権宣言で合意された人権の思想が示しているのは、この多が多のままで調和・並存する社会の可能性である。世界人権宣言における権利の承認の合意は、この多元的な論理の可能性を示している。
 宣言において、各国の人間が多元的に相互に権利を承認し合ったということは、自分と多くの他者が共通性を持つことを認めたからだろう。多くの他者に自分と同じ権利を認めるということは、相手も自分と同じ能力や欲求を持っていると認めるからである。その認識は、どこから来るのか。共通の文化を持つからでも、共通の神を仰ぐからでも、共通の思想を信じるからでもない。言語・文化・宗教・思想等の違いに関わらず、相互に認め得る共通性が人間に存在するからであり、その共通性を認識する能力が人間にあるからだろう。世界人権宣言は、その共通性を理性と良心と同胞愛の精神という文言にして条文に盛り込んだ。相手も自分と同様、理性と良心を持つという理解と、同胞愛の精神を発揮し得る人類家族の一員だという評価が、権利の相互承認のもとになっている、と考えられる。
 ただし、相手も自分と同じ能力を持ち、また人類家族の一員だと認識したとしても、その上で相手と闘争し、自らの権利を拡張・増大し、相手の権利を制限・剥奪するための行動を起こすのも、また人間である。国際連合は、そもそも連合国の軍事同盟だった。国連加盟国の間でも、かつての米ソの対立、現在の米中の競合等のように、権利を巡る闘争が激しく行われている。この人間の協調性と闘争性という両面を踏まえて、人権を論じるのでなければ、現実を離れた理想論に陥る。協調性を伸長し、闘争性を抑制していくところに、人権のさらなる発達と世界平和の実現のための努力がある。

 次回に続く。
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蓮舫氏は、自らの国籍に関する公文書を公開せよ

2016-10-21 09:44:38 | 時事
 私は、蓮舫氏の国籍に関する問題について、「蓮舫二重国籍事件~国家のあり方を根本から正すべき時」をマイサイトに掲示している。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion13y.htm

 10月13日ついに安倍首相が蓮舫氏の国籍に関する件について、国会で言及した。参院予算委で三原じゅん子議員(自民)の質問に答え、「国会議員として蓮舫氏の責任において国民に対し証明の努力を行わなければならない」と指摘したものである。首相は「小野田氏は戸籍謄本を示し、選択という義務を果たしたことを証明した」と述べ、蓮舫氏との対応の違いを強調した。
 その2日前には、法務省の民事局長が「外国の国籍を離脱し外国国籍喪失届がされた場合は、戸籍に外国国籍喪失の届け出がされた旨などが記載される。日本の国籍を選択し国籍選択届がされた場合には戸籍に戸籍の選択がされた旨が記載される」と説明した。質問者の和田政宗氏(こころ)は、「国籍選択は、戸籍の該当部分を公開すれば容易に結論が得られる」と述べた。首相のいう蓮舫氏がなすべき「証明の努力」とは、戸籍の該当部分を公開することである。
 10月14日金田勝利法務大臣が、「一般論として、台湾当局が発行した外国国籍喪失届(国籍喪失許可証)は受理していない」と指摘した。戸籍法106条によれば、国籍喪失許可証を提出すれば二重国籍を解消することができるが、日本政府は台湾を正式な政府として認めていないから、許可証を受理していないということである。この場合は、同104条に基づき、日本国籍だけを所有する意思を宣誓する「国籍選択宣言」を日本政府に提出する必要がある。法務省は台湾籍を離脱する場合、同宣言の提出を求めているとのことである。
 法相が一般論として言ったことは、蓮舫氏にもそのまま当てはまる。すなわち、蓮舫氏が台湾の国籍喪失許可証を日本の役所に提出しても、役所は受理しないということである。役所は、蓮舫氏に国籍選択宣言の提出を求める。宣言を提出しなければ、台湾籍の離脱は認められない。二重国籍状態は解消されない。
 法相の発言を伝えた15日の時事通信の記事は、「蓮舫氏の手続き不備か」と書くのみで、それ以上の考察や予想をしていない。ポイントは、いったい蓮舫氏は、国籍選択宣言をしたのか。それはいつなのか、である。宣言をしていれば、手続きした日付が戸籍に明記される。だが、蓮舫氏は戸籍謄本の公開に応じようとしない。「極めて個人的なこと」などと言っている。彼女は国会議員だから、国籍に関して戸籍の該当箇所を示すことは、公人としての義務です。有権者の投票により議員になり、税金から多額の歳費等を受け取っている者が、何を言っているのか。よほど都合の悪いことがあるから、公開を拒否しているとしか考えられない。
 蓮舫氏が戸籍謄本を公開しなければ、実は国籍選択宣言をしておらず、またそのために台湾籍を離脱したと政府によって認められていないと理解せざるを得ない。未だ特殊な二重国籍状態だということになる。国民の疑念や不信は高まる。だが現在のところ、それでも公開しない方が、蓮舫氏にとっては、利益があるということだろう。
 公開すれば、国籍選択宣言の日付がいつだとしても、日本国籍のみを選択したことを証明できる。ただし、公開によって、蓮舫氏はこの決定的なところで、ちゃんとやっているかのように大きなウソをついていたことが明らかになる可能性が高い。これもウソであれば、今度のウソは政治家として致命的な結果を生むだろう。このように観測された。

 翌日の15日、蓮舫氏は、金田法相の発言に関して、記者団の質問に答えた。役所で台湾の国籍喪失許可書は受理されず、日本の国籍選択宣言をするよう行政指導を受け、宣言をしたと説明した。やはり本人は宣言した日付を明らかにしなかった。しかし、民進党関係者は「10月7日」と述べていると産経新聞が報道した。なんとこれほどの大問題になっていながら、10月7日までは、日本国籍を取得はしていても、選択宣言はしていなかったのである。そして、それ以前は、選択義務違反の状態をずっと続けており、その状態で公職についていたのである。
 この点に関し、金田法相は、10月18日の記者会見で「一般論として、(国籍選択義務の)期限後に義務を履行したとしても、それまでの間は国籍法上の義務には違反していたことになる」と述べた。これは法相の個人的見解ではなく、政府としての見解になる。蓮舫氏が国籍法14条に違反してきたことは、政府見解によって確定した。
 蓮舫氏は、これまで「法務省から(国籍法)違反に当たらないとの考え方を文書で頂いた」と述べていた。その話と金田法相の見解が全く違う。これもウソか。通知文書に、一般論では違法だが、蓮舫氏の場合は問題ないと書いてあったのか。文書の発行者は、誰か。どういう職位か。蓮舫氏は、法務省の通知文書を公開すべきである。
 国籍法14条は、次のように定めている。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――
第14条 外国の国籍を有する日本国民は、外国及び日本の国籍を有することとなつた時が20歳に達する以前であるときは22歳に達するまでに、その時が20歳に達した後であるときはその時から2年以内に、いずれかの国籍を選択しなければならない。
2 日本の国籍の選択は、外国の国籍を離脱することによるほかは、戸籍法の定めるところにより、日本の国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄する旨の宣誓(以下「選択の宣言」という。)をすることによつてする。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――

 この条文には、罰則がない。だが、違反は違反である。国政を担う政治家として、この罪は重い。
 また、蓮舫氏は、旅券法23条違反(5年以下の懲役若しくは3百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科) 、戸籍法104条の二に違反、公職選挙法235条及び同条の二に違反(2年以下の禁錮又は30万円以下の罰金)の疑いが濃厚である。一部は時効が成立しているものがあるかもしれないが、彼女は政治家また公職者だから、それにも政治的責任・道義的責任が問われる。
 前代未聞の事例ゆえに、当局は腕の見せ所である。国民の負託に応えて、しっかり仕事をしてほしい。
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人権365~世界人権宣言の起草過程

2016-10-18 08:54:37 | 人権
●世界人権宣言の起草過程

 私は、人権の基礎づけの検討に当たって、世界人権宣言が、どのように起草されたか、を点検することが有益だと考える。世界人権宣言は、今日の人権論が直接間接に拠って立つものだからである。人権論は、具体的な事例と歴史的な経緯を基に論じないと、抽象論に陥る。
 政治学者のマイケル・イグナティエフは、人権を正当化する根拠は必要ないというプラグマティックな考え方を取る。その考え方は、ミラーの挙げる人権正当化の第一の戦略、「実践に基づく戦略」に当たるが、イグナティエフの主張は、世界人権宣言の起草過程を踏まえたものである点で注目される。イグナティエフは、著書『人権の政治学』に次のように書いている。
 「世界人権宣言の起草に際しては、西洋的伝統だけでなく、それ以外の多くの伝統からも代表が送り込まれた。中国人、中東のキリスト教徒、そしてまたマルクス主義者、ヒンズー教徒、ラテンアメリカ人、イスラム教徒である。そして、起草委員会のメンバーたちは、自分たちの任務は西洋が持つ確信を宣言としてまとめさえすればよいのではなく、メンバーたちの非常に多様な宗教的、政治的、民族的、哲学的背景の内部から、ある限られた範囲での道徳上の普遍を定義しようと試みることである、とはっきりと理解していた。
 このことから、この文書の前文がなぜ神に言及していないのかの説明がつく。共産主義国の代表は、いかなるものであっても、神に言及することは拒否しただろう。また神の被造物であるという私たちに共通した実存のあり方から人権を導き出すような言葉づかいをすれば、反目し合っている宗教的伝統の間で意見が一致することなどとうていありえなかっただろう。それゆえ、この文書の素地が非宗教的なものであるのは、それがヨーロッパによる文化的支配であることのしるしなどではなく、むしろこの文書が、文化的及び政治的見解の幅広い違いを越えて合意を可能にするために構想された、プラグマティックな共通分母であることのしるしなのである」と。ただし、「もちろん西洋の発想――そして西洋の法律家たちーーが、この文書の起草において主導的な役割を果たしたという事実に変わりはない」と、イグナティエフは付け加えている。
 宣言の特徴を、イグナティエフは明確に指摘する。「世界人権宣言の第1条は人権を正当化する論拠には全く言及することなく、端的にこう断言する。『すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳及び権利において平等である。人間は、理性及び良心を授けられており、互いに同胞愛の精神をもって行動しなければならない』。世界人権宣言は権利を謳い上げる。しかし、なぜ人々が権利を持っているのかは説明しない」と。
 そして、次のように解説している。「世界人権宣言の起草をめぐる物語は、この沈黙が熟議にもとづくものであることを明らかにしている。1947年2月、エレノア・ルーズベルトがワシントン・スクエア・アパートメントに初めて起草委員会を招集した時、ある中国人の儒家とレバノンのトマス主義者が、権利の哲学的かつ形而上学的な基礎をめぐって議論を始め、お互いに一歩も引かなかった。ルーズベルト夫人は、議論を先に進めるためには、西洋と東洋とでは意見が一致しないということで意見を一致させるしかない、という結論に到達したのである」「それゆえ人権文化の核には熟議に基づく沈黙が存在している」「世界人権宣言は、権利が存在するのは当然のことであるとしたうえで、さらにそれを詳しく述べる方向へと進んでいくのである」と。
 イグナティエフは、このように世界人権宣言の起草過程を踏まえて、人権の基礎づけの必要性を否定する。これに対し、政治学者のエイミー・ガットマンは、イグナティエフを批判する。ガットマンは、世界人権宣言第1条が複数の理由を挙げていることを述べ、根拠は一つではなく、複数認めるのがよいという意見を表明する。ガットマンの見解もまたミラーのいう「実践に基づく戦略」によるものである。
 ガットマンの指摘するところでは、宣言における人権の基礎づけは、列挙的な方法となる。文化・宗教・思想の違う起草委員の間で合意のされたものが、宣言の条文には、複数列挙されている。第1条に盛られた自由かつ平等な人格、平等な尊厳、平等な被造物あるいは天賦の資質、同胞愛、人間としての理性・良心による主体的能力という要素を、ガットマンは人権の複数の根拠とするのである。イグナティエフとの違いは、第1条の文言に人権の根拠を認め、それらをそのまま根拠とする点である。複数の根拠の間の関係や、さらにそれらの基になっている人間については、考察していない。

 次回に続く。
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史上最低の米国大統領選挙~日本は国家再建を急げ

2016-10-17 09:41:38 | 国際関係
 4年に一度の米国大統領選挙が近づいている。過去の選挙の時、私は候補者の主張を比較したり、人脈を分析したりしてきたが、今回はここ数か月まったくその気になれずにきた。予備選の段階から、ほぼ毎日のようにアメリカのテレビ・ニュースを見たり、新聞記事をチェックしているけれども、書く気がわかなかった。理由は、あまりにも候補者に問題が多く、水準が低いからである。

 共和党候補の実業家、ドナルド・トランプと民主党候補の元国務長官、ヒラリー・クリントンの戦いは、嫌われ者同士の戦い、史上最低の大統領選という見方がされてきた。同感である。私は、二大政党の候補者がこの二人に決まった時点から、日本にとっても世界にとっても、トランプが大統領になるのは大凶、ヒラリーがなるのは中凶と予測している。どちらが、よりマイナスが少ないかの戦いだと思う。

 平成24年(2012)のオバマVSロムニーによる大統領選の時は、下記の拙稿を書いた。二大政党や米国財界の支配力など、基本的な構図は今回の選挙も変わっていない。決定的に違うのは、共和党が党内を統制できなくなり、トランプという既成勢力の外にいた人物が指名を勝ち取るという4年前には考えられない状況になったことである。それには、米国の経済・社会の変化、世界全体の傾向等、様々な原因があるわけだが、先に述べたように、それについて書く意欲が、今回は湧いてこない。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion12m.htm

 9月28日、候補者が直接対決する第1回の公開討論が行われた。「世紀の討論」と銘打たれ、全米でこの放送を史上最多の8400万人が視聴したと報じられた。だが、予想通り内容が薄かった。これが世界の指導国の大統領を選ぶための討論会とは、情けなく感じた。
 10月10日には第2回目のテレビ討論会を見たが、あまりの低レベルにうんざりした。90分のうち、米国及び世界の重要問題の政策論争は3分の2ほどで、3分の1弱もの時間をトランプ、ヒラリーが個人攻撃のやり合い。スキャンダルに対してスキャンダルで応じ、露骨な攻撃と、それに対するかわし方を競っているような討論だった。下劣なトランプと老獪なヒラリーによる全米悪口チャンピオン・マッチか? あるメディアが「大統領選の歴史上、最も不快な討論会」と表現したが、現在の米国指導層の精神性があまりに低下していることに、私は今さらながら、あきれた。

 第2回討論会後、トランプのセクハラ問題が、大騒動になっている。不動産王が暴言王になり、いまやセクハラ王である。共和党の実力者たちが、次々にヒラリー・クリントン支持またはトランプ不支持を表明し、同党に大きな亀裂が走っている。そのうえ、主要なメディアがヒラリー支持またはトランプ不支持を次々に表明している。これに対し、トランプは、共和党の実力者をこきおろし、悪態をつき、孤軍奮闘を宣言した。メディアに対しても、全面対決の姿勢である。
 むちゃくちゃな状態である。これが、一時は唯一の超大国となっていた国家の現状である。帝国の終焉は早まっていると感じる。

 マスメディアの報道によると、世論調査の支持率、各州で獲得する選挙人数、特にスゥイング・ステーツの予想から見て、ヒラリーの優位が固まり、トランプの逆転はよほどの爆弾情報や大事件でも起こらない限り、難しいと思われる。だが、果たしてその予想がどれだけ実態を表しているかはわからない。メディアは大衆の意識を操作する能力を持っているからである。
 米国は国力の衰えともに、指導層の水準も低下してきている。なにより精神が低下してきている。わが国の国民は、そういう時代を生き延びるための心構えを、しっかり持たねばならない。いずれにしても、2017年1月以降、覇権国家・米国の混迷が、我が国にとっても世界にとっても、大きな不安定要因になることを覚悟しなければならない。
 日本人が日本精神を発揮し、米国を精神的にリードするようにならない限り、この世界の混乱は解消できないと思う。そのためにまずなすべきことは、まず日本の再建である。

 ここからは、やや空想風の話だが、選挙戦終盤になって想うのは、二大政党の背後にいる米国の支配者集団は、彼らに忠実だが大衆には嫌われ者のヒラリーを次期大統領にするために、ヒラリー以上に嫌われる人物を対抗馬にして、相対的にヒラリーへの支持を集めようとしたーーそんなシナリオがあるのかな、ということである。
 もともとトランプは、問題満載である。以前の米国であれば、決して大統領候補になれる人物ではない。品性にも能力にも経歴にも問題がありすぎる。だが、そうしたトランプをヒラリーの強力なライバルに仕立てるために、まずメディアが盛んにトランプの報道をする。期待と幻想が醸し出される。1%の利益のための現体制に不満を持つ大衆は、このシナリオに乗せられて意識を操作をされる。
 これで数か月間、大統領選という4年に一度の有権者参加型のイベントは、興奮と高揚の中で進んでいく。そして、ヒラリーとトランプの拮抗が頂点に達し、大統領選がいよいよ間近かになったところで、トランプの幾多のスキャンダルをメディアが大々的に報道し、莫大な資金力と強烈な広宣力で、トランプを叩き落とす。こうして、ヒラリーのほうがましという大衆の選択を固めていく。その結果、1%の利益のためのエスタブリッシュメントの維持が、民主的に、合法的に実現する・・・

 米国政治の深層を垣間見てきた人であれば、ほかにもいろいろな洞察を試みるだろう。一般のマスメディアの報道だけでは、米国政治の実態をとらえることはできない。また、アカデミックな政治学・国際関係論の理論だけでは、現代世界の支配構造に迫ることはできない。「現代世界の支配構造とアメリカの衰退」に関しては、下記の拙稿をご参照願いたい。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion09k.htm
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