ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

イスラーム22~イラン・イラク戦争、湾岸戦争

2016-02-29 09:29:40 | イスラーム
●イラン・イラク戦争

 一旦話を1979年(昭和54年)のイラン革命の時点に戻して、イラクの動向を見よう。イラン革命が起きると、アラブ諸国は、米国とともに、革命の波が石油を産出するサウジアラビア、クウェートなどの君主国に及ぶことを恐れた。そして、イラクを「イラン革命の防波堤」と見なして期待をかけた。
 イラクでは、シーア派が人口の約60%を占め、主に南部に居住する。イラクのシーア派は、イランと同じ12イマーム派である。スンナ派は、少数派となっている。
 イラクは、東部・南部でイランに接するほか、多くの国と隣接する。北西部はシリア、最北部はトルコ、中西部はヨルダン、南西部はサウジアラビア、最南部はクウェートという具合である。
 イラクでは、1968年にバース党が、軍部とともにクーデタを起こして政権を奪取し、その政権が続いた。79年にサダム・フセインが大統領の地位に就いた。バース党はアラブ統一・社会主義・自由を基本綱領とするが、イラクの社会主義は一党独裁によって軍人・官僚が膨大な石油収入を私益化するものとなり、アラブ・ナショナリズムも最初の理想を失い、アラブ至上主義、領土拡張主義に堕してしまった。
 フセインは、イラン革命当時の国際情勢、革命によるイランの軍事的弱体化などの状況を読んで、領土拡張を図った。イラクとイランの間には、シャトルアラブ川下流の国境を巡る対立がある。フセインは、領土紛争を口実に、1980年(昭和55年)9月イランとの戦争を始めた。これがイラン・イラク戦争である。
 フセインはイランに侵攻した。だが、イランはイラクの3倍の人口を持ち、イスラーム革命を唱えるイラン軍の士気も高かった。イラク軍は82年に追い出され、逆にイラン軍がイラクに攻め込んだ。イランの台頭を恐れる米国など西側諸国、サウジアラビアなど湾岸諸国はこぞってフセイン政権に軍事的、財政的支援を与えた。イラク軍は米国から潤沢な援助を受け、アメリカ製武器による近代装備を誇っていた。これをイランが人海戦術で打ち破ることは不可能だった。戦局は膠着化し、イライラ戦争と呼ばれる長期戦が続いた。
 この戦争には、フセイン政権が、シーア派革命の輸出を夢見るホメイニ師指導下のイランを極度に警戒して、イランに先制攻撃を加えたという宗教的な側面もある。イラクのバース党政権は、少数派のスンナ派を母体としており、最初は「脱宗教主義」を取った。フセイン政権は、イランとの戦争では、イラクをまとめあげるため、声高に「イラク・ナショナリズム」を叫んだ。
 1988年(昭和63年)、ようやく両国は国連の停戦決議を受け入れて停戦した。イラン・イラク戦争で、イランは約500億ドル、イラクは約900億ドルの戦費を使い、両国とも財政の悪化に苦しむことになった。それが、後の湾岸戦争の背景となっていく。

●冷戦終結後に、湾岸戦争が勃発

 冷戦時代は、アメリカを盟主とする自由主義とソ連を盟主とする共産主義が世界を二分した。第2次世界大戦が終了した1945年(昭和20年)8月から1989年(平成元年)12月、ブッシュ父とゴルバチョフの米ソ首脳による冷戦終結の共同宣言までの時期が、この時代である。
 ハンチントンによると、冷戦期には、世界が自由主義、共産主義、第三世界と三分されていたが、21世紀初頭の世界は、文化的なアイデンティティの違いにより、7または8の文明によって区分される。また、冷戦時代には、米ソという超大国が二つあったが、今日の世界は一つの超大国(アメリカ)と複数の地域大国からなる一極・多極体制を呈するようになった。そして、ハンチントンは今後、世界は多極化が進み、真の多極・多文明の体制に移行すると予想する。また特に西洋文明とイスラーム文明・シナ文明との対立が強まる。西洋文明対イスラーム=シナ文明連合の対立の時代が来ると警告した。
 冷戦終結後、間もなくイスラーム文明の中心地域である中東で、湾岸戦争が勃発した。イラン・イラク戦争後、イラクは中東の軍事大国となったものの、フランスに約30億ドルという多額の債務を背負っていた。サダム・フセインは、経済危機を解決しようとして、1990年(平成2年)8月クウェートに侵攻した。クウェートの石油を押さえて財政を好転させようとしたことが、直接的な要因である。イラクは、国境地帯にあるクウェートのルイメラ油田はイラクの石油資源を盗掘していると非難した。
 イラクはイギリスがオスマン帝国から切り離して作った国だった。イギリスは、オスマン時代の州の一部をイラク、一部をクウェートとした。そのため、イラクにはクウェートはもともと自国の一部だったという見方があった。
 アメリカは、イラク軍のクウェート侵攻で、西側の石油資源が危機にさらされたと判断した。そして、クウェートの解放、サウジアラビアの防衛を目指す大規模な軍事介入を図った。
 国連安保理はイラクにクウェートからの撤退を要求したが、1991年(平成3年)1月、撤退期限が過ぎた。安保理は全会一致で制裁を決議したものの、国連軍は組織されなかった。安保理決議をもとに、アメリカが主導して、ヨーロッパ諸国、エジプト、シリアなど29カ国の多国籍軍を組織し、1月17日イラクへの攻撃を開始した。これが、湾岸戦争である。
 フセイン大統領は、米国など西側に対抗するため、「異教徒の軍隊に対する聖戦」を呼号した。多国籍軍のバクダッド等への空爆に対し、イラクはイスラエルへのミサイル攻撃で応じた。フセインは、湾岸戦争をパレスチナ問題にリンクさせて戦線の拡大を図った。しかし、これには、イスラエル、アラブ諸国が応じず、結局多国籍軍の圧倒的な軍事力により、空爆からわずか42日間でイラク軍は多国籍軍に敗れた。
 湾岸戦争は、冷戦終結後、初めて起こった大規模な国際紛争だった。この戦争は、それまでの米ソ冷戦による二極的な世界秩序に替わり、アメリカ主導の一極的な世界秩序維持の動きの出発点となった。
 湾岸戦争において、パレスチナの主要組織であるPLOのアラファト議長は、イラク支持を打ち出して国際的に孤立した。そのため、湾岸産油国からの援助が受けられなくなり、パレスチナは経済危機に直面した。1993年、ビル・クリントン米大統領の仲介により、アラファト議長とイスラエルのラビン首相の間でオスロ合意がされた。これによってパレスチナの暫定自治の基本合意が成立した。パレスチナ人の多くは当時レバノンに移住していたが、イスラエル軍が占領しているガザ地区とエリコ地区での自治が認められた。PLOは、テロ行為を放棄し、パレスチナの代表として認知されることになった。だが、95年にラビン首相はユダヤ人の過激派に暗殺され、アラファト議長は2004年(平成16年)に亡くなった。イスラエル首相に対パレスチナ強硬派のネタニヤフが就くと、和平への道は閉ざされた。
 パレスチナでは、1987年(昭和62年)イスラーム教スンナ派の原理主義組織ハマスが創設された。ハマスは比較的穏健なPLOを批判し、対イスラエル強硬路線を鮮明にしている。現在も日常的にイスラエルとパレスチナ側の戦いが執拗に繰り返されている。
 イスラエルは、ユダヤ系の巨大国際金融資本と超大国・米国を後ろ盾としている。強い軍事力と高い諜報力を持ち、また核兵器を所有しているとみられる。ユダヤ教は選民思想を説き、異教徒を敵対視する。強硬派政権のイスラエルの存在は、イスラーム文明の諸国にとって大きな脅威である。イランは、イスラエルの核に対抗するために、核兵器を開発・所有しようとしてきたとみられる。
 中東における対立・抗争は、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教のセム系一神教同士の争いである。またユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の争いでもある。その争いは人類全体を巻き込みかねない危険性を秘めている。

 次回に続く。

人権274~自助あっての互助・共助

2016-02-28 08:55:25 | 人権
●人権状況の改善は自助あっての互助・公助

 人権は、普遍的・生得的な「人間の権利」ではない。歴史的・社会的・文化的に発達する「人間的な権利」であり、主に「国民の権利」として発達するものである。それゆえ、発展途上国において貧困・虐待・暴行・虐殺等から人々の権利を守ることは、第一義的にはその人々が所属する国の政府の責任である。その政府の権利保障の取り組みを推奨・促進するものとして、国連等の国際機関やNPO等の国際団体の活動がある。自助が基本であり、次に友好国や支援団体による互助、さらに国際機関による公助がある。
 重大な人権問題が起き、当事国がこれに対処できていないか、または対処しようとしない時は、国連安保理で常任理事国が対応を決める。常任理事国が一致しなければ、国連は動かない。常任理事国が自国の利害から問題に関与せず、放置された事例は少なくない。その事例の一つが、ルワンダでの大量虐殺である。
 中部アフリカのルワンダでは、1994年、民族間の対立で大虐殺が起こった。国連は、安保理常任理事国の政治的思惑から、積極的な対応をしなかった。ルワンダは、1962年、ベルギーから独立したが、クーデター、内戦等が続いた。94年の大量虐殺では、人口約730万人のうち、80~100万人が殺害されたとみられる。またこのとき約210万人もの大量の難民が周辺国に流出した。人口の約4割が死亡または国外流出したことになる。亡国に至りかねない危機だった。しかし、ディアスポラ(離散民)となって世界各地に散らばったルワンダ人は、それぞれの地で技術を身に着け、教育を受け、意識を高めた。そして、彼らは祖国の農業、観光産業、不動産等に投資し、また約半数の100万人が帰国し、祖国の再建に努めている。それによって、ルワンダは驚異的な復興と目覚しい成長を行い、「アフリカの奇跡」と呼ばれている。
 ルワンダの例が示しているのは、第一にその国民、その民族の自助努力の大切さである。人民には「発展の権利」がある。その権利を生かし、経済的・社会的・文化的発展を実現するには、人民自身の努力が必要である。友好諸国の互助、国際機関の公助は、その国の人民の自助があってのものであり、補助に過ぎない。人権は、普遍的・生得的な「人間の権利」ではない。歴史的・社会的・文化的に発達する「人間的な権利」である。それを発達させるのは、主にそれぞれの国民であり、それぞれの集団なのである。
 自助努力はしばしば実力行使や独立運動となる。また国民形成、成長・発展の取り組みとなる。その自助努力の中でしか、人権と呼ばれる権利は発達し得ない。人権は観念であり、理想・目標であって、それを実現するのは、各国民・各民族・各集団である。国民の権利の協同的な行使によってのみ、人権の発達は可能となる。
 近年南アフリカの人種差別反対運動、中国・北朝鮮・ケニア等の権利保障の悪い国で自由や権利を求める運動が行われてきた。こうした自助努力の奨励のために、発展途上国での人権運動の指導者に国際機関が褒賞を行うことは、意義がある。ノーベル平和賞は近年、南アのネルソン・マンデラ、中国の劉暁波等、それぞれの国で人権運動をしている人物に贈られることが多い。
 2011年(平成23年)は、アフリカと中東で非暴力の人権活動を続ける3人の女性が選ばれた。アフリカ初の女性大統領としてリベリアの国家再建に力を尽くしたエレン・サーリーフ大統領、同国の平和活動家リーマ・ボウイー、イエメンの人権活動家タワックル・カルマンである。これら発展途上国における人権運動を評価し、推進するため、国際的な褒賞を行うことは有効である。ただし、平和賞は、政治的な思惑が絡んでいると見られる時があり、特に先進国の指導者への授章は十分な検討が望ましい。
 もう一つ、ルワンダの例が示しているのは、新興国における国民の形成の大切さである。氏族的・部族的集団の対立・抗争状態を脱し、国民的集団を形成することができなければ、近代的な武器を得た国内の政治団体の争いが高じ、せっかくできた独立国家が内部から機能マヒとなり、さらに自壊さえしかねなくなる。ここで国民形成の推進力なるのが、ナショナリズムである。人権とナショナリズムの関係については、第6章に書いたので、ここでは現代世界におけるナショナリズムについて、簡単に補足する。
 先に書いたように、国際人権規約は、自由権規約も社会権規約も第1条で、人民(peoples)の自決権を定めている。「すべての人民(peoples)は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する」が、その条文である。peoples は、人民とも国民、民族とも理解し得る。それらの自決権は、しばしば民族自決権と訳されるが、一般的に言うと、集団の自決権である。国際人権規約に集団の自決権が盛り込まれたのは、第2次世界大戦後、アジア・アフリカで民族解放・独立運動が高揚し、多くの独立国が建設されたことによる。集団の権利が確立されてこそ、個人の権利が保障される。その思想が、国際人権規約に盛り込まれている。人民の独立なければ個人の人権なし、という原則が、打ち立てられたのである。そして、有色人種の諸集団では、西欧諸国から独立を勝ち得た後に、国民個人の権利の保障や拡大が進められつつある。その前提は集団として持つ権利の獲得である。
 集団の権利の獲得は、周辺部におけるナショナリズムの高揚によるものである。ただし、ナショナリズムはリベラリズム、デモクラシーと結合したものとならなければ、個人の権利の保障・拡大にはつながらない。ナショナリズムは、リベラリズム、デモクラシーと結合した時に、人権の観念の発達・伝播をもたらすものとなる。アジア・アフリカには開発独裁型の発展途上国や社会主義の影響を受けた新興国、部族連合が発展した国家等が多くあり、そうした国々では、国民の自由と権利は思想として発展しておらず、逆に自由と権利への抑圧がしばしば横行している。ナショナリズムがリベラル・デモクラシーと結合して発達した時に、集団の権利とともに個人の権利の発達が可能となる。
 以上、今日の世界の人権状況について概説した。こうした状況において、「人間的な権利」の発達を図るには、人権の基礎づけ、定義、内容、実践に関する検討が必要である。その点については、第4部で人権の理論と新しい人間観について述べる際に、具体的に書くこととする。

 次回に続く。

イスラーム21~イスラーム原理主義とイラン革命

2016-02-27 08:44:53 | イスラーム
●イスラーム教原理主義とイラン革命

 19世紀以来の「イスラームの危機」の自覚に基づき、イスラーム文明の歴史を反省し、現状の変革を要求するイスラーム改革運動が起こった。その中から、イスラーム教原理主義が台頭した。イスラーム教原理主義は「イスラームの理想に返れ」という思想・運動である。
 中東では、1930年代以来、エジプトのムスリム同胞団に代表されるような大衆的社会運動が行われ、公正と正義に基づくイスラーム教国家の再建が追及されてきた。こうしたイスラーム改革運動は、1970年代のイランで大きく高揚した。1970年(昭和45年)頃、中東では欧米文化が流入し、急激な欧米化・都市化が進んだ。これに対し、「イスラームの理想に返れ」という運動が起こった。こうした動きを、欧米ではイスラーム教原理主義と呼ぶようになった。キリスト教の原理主義(ファンダメンタリズム)になぞらえた言い方である。
 イスラーム教原理主義の流派の一つは、イランから現れた。イランは、中東イスラーム教諸国の中では、異色の存在である。イランは、古代にはペルシャ文明が栄えた地であり、イラン国民の多くは、ペルシャ民族である。また最大の特徴は、アラブ諸国にはイスラーム教の多数派であるスンナ派が多いが、イランには少数派のシーア派が多いことである。
 イラン発の原理主義は、シーア派の教義に基づくものである。イランは、16世紀初頭以来、シーア派の中で最も多くの信徒を有する12イマーム派を国教としている。12イマーム派は、アリーを初代イマームと認め、第12代までのイマームを神聖不可侵とする。第12代目のムハンマド・アルムンタザルは、874年に死亡した。彼には子どもがなく、そこでイマームは途絶えた。ところが、12イマーム派では、第12代イマームは死んだのではなく、「隠れ(ガイバ)」の状態に入っていると解釈する。そして、この世の終末に「時の王」となって再臨し、アッラーの教えに沿った日々を送ることを保証する「正義」をもたらしてくれると信じている。一種の救世主信仰と見ることもできる。終末までの間、「イマームの代理人」として「隠れイマーム」と信徒を結び、信徒のために「隠れイマーム」の意志を解釈し伝達する役割を担うのは、ウラマー(法学者)だとする。12イマーム派は、イランだけでなくイラクでも多数派を占め、クウェートやバーレーンなどの湾岸諸国にも多い。
 イランでは、第2次世界大戦において、パフラビー朝の国王ムハンマド・レザー・シャーがナチス政権と提携した。戦後、レザー・シャーは南北から進駐してきた英ソ両軍により退位させられて亡命した。シャー・パーレビが後を継いだ。
 イランの石油利権は、イギリスのアングロ・イラニアン石油会社が独占していた。しかし、同社は契約改定交渉で譲歩しなかった。これに対する不満が強まるなか、急進的なエスニック・ナショナリストの集団が政権を握り、議会は石油国有化法案を可決した。1951年(昭和26年)に首相となったモザデクは、世論を背景にアングロ・イラニアン石油会社を国有化した。これに対し、イギリスはタンカーの航路を封鎖し、国際石油資本は石油の買い付けを拒否した。そのため、イラン経済は大打撃を受けた。
 1953年8月、アメリカの支援を受けた国王パーレビ2世が、クーデタによりモザデクを倒し、政権に復帰した。翌54年には8大石油資本(米・英・蘭・仏系)の合弁会社イラニアン・コンソーシアムが設立され、国有化された石油会社の運営に当たることになった。こうして、イランにおけるイギリスの石油利権独占体制は打ち破られた。
 パーレビ2世は、ソ連やアラブ急進派との関係悪化を承知の上で親米路線を貫き、CIAの援助で秘密警察を設置し、反対派を弾圧して独裁体制を築いた。63年から白色革命と呼ばれる一連の近代化政策を強力に推進した。膨大な石油収入を背景に軍や首都の近代化、農地改革、国営企業の払い下げ、識字運動など、政府主導の近代化が進められた。しかし、他方で貧富の差が拡大し、国家情報治安局(SAVAK)による反対派への監視、弾圧が続いた。75年以降になると復興党(ラクターヒーズ)の一党独裁が強化された。この時期、イランはアメリカの中東における拠点としての役割を果たしていた。21世紀の今日とは大違いである。
 こうした「近代化=西洋化」の改革に対し、イスラーム教シーア派のウラマー(法学者)たちが強く反発して抗議集会を開いた。国王は容赦のない弾圧を加えた。パーレビ国王が行った改革を批判して王制打倒闘争を指導する最高指導者ホメイニ師を、国外追放にした。
 12イマーム派は、シーア派の中で教義的には穏健派に属するといわれる。だが、その教義をもとに、隠れイマームが「時の王」として出現するまでは公正な法学者が政府を指導・監督すべだという改革の理論を唱えたのが、ホメイニ師である。ホメイニ師は、12イマーム派の最高位であるアヤトラオズマ(大アヤトラ)の地位にあった。アヤトラは「神の徴」を意味する。
 1978年(昭和53年)、イランで国王の圧政に反対するデモが起こり、首都テヘランでは数千人の死者が出た。さらに12月には200万人の大デモが起こり、もはや鎮圧できなかった。79年1月にパーレビ2世はエジプトに亡命した。すると、2月ホメイニ師がフランスから帰国して革命政府の樹立を宣言した。パフラビー朝は崩壊し、3月国民投票でイスラーム教を国家原理とするイラン・イスラーム共和国が発足した。
 この時、制定された憲法は、第5条に「時の王が現れるまでの間、正しく、信心あり、物事をわきまえ、勇気あり、進取の気性に富み、大勢の人々から指導者として尊敬される宗教法学者に国家と社会の指導を任せるものとする」と定めた。以後、ホメイニ師は国家元首である最高指導者の地位にあった。
 ホメイニ師は、イスラーム教的な社会規律の回復など宗教色、民族色の強い政策を追求した。石油を国有化し、一方で産油量を激減させた。オイル・メジャーによるイラニアン・コンソーシアムは利権を失い、石油は1バレルが23ドルへと高騰した。エネルギー・コストの上昇による不況が世界を襲った。そのあおりを受けて中南米諸国は経済に壊滅的な打撃を受けた。これを第2次石油危機という。以後、開発途上国も資源を持つ国と持たない国に分かれ、次第に格差が広がることになった。
 ホメイニ師のもと、イランは反米色を強め、中央条約機構(CENTO)から脱退した。これによって、中東におけるアメリカの拠点は失われた。同じ1979年(昭和54年)にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、イランは反ソ色も強め、独自の姿勢を示した。
 ホメイニ師の改革理論に基づいて、イランにおける革命をイスラーム教諸国に輸出しようとする運動が推進された。この運動は、西洋文明を批判し、とりわけその中心となっている米国を敵視する。だが89年のホメイニ師の死後、ホメイニ理論の解釈を巡って対立が生じ、イスラーム革命を輸出しようとする急進派は、イランではほぼ壊滅したとみられる。
 イスラーム文明において、イランは、サウジアラビアとともに地域大国だが、宗派が少数派のシーア派で、言語はアラビア語ではなくペルシャ語ゆえ、中核国家とはなり得ない条件下にある。またシーア派は、世界のイスラーム教徒の15%程度を占めるにすぎず、その5倍以上の信徒数を持つスンナ派には及ばない。
 イランがイラン革命で宗教と政治が一致した体制を作ると、スンナ派がシーア派の活動を警戒するようになった。ここに、7世紀以来続くスンナ派とシーア派の対立が、再び活発化した。そして、スンナ派の中からも、その宗派の教義に基づく原理主義が出現した。「イスラームの理想に返れ」という点では、イランのシーア派と共通する。
 文明学を活用した国際政治学者サミュエル・ハンチントンは言う。「イスラーム世界全体で、小さな集団と偉大な信仰、部族とウンマ(註 イスラーム教徒の宗教的共同体)が忠誠と献身の第一の中心であり、国民国家の重要性はもっと低い」「主権を持つ国民国家という概念は、アッラーの至高性とウンマの権威への信仰と矛盾する。革命的な運動として、イスラーム教原理主義は国民国家を拒絶してイスラーム国家の団結を尊重した」と。
 そして、イスラーム教原理主義の中から過激な行動をする者たちが出現した。過激組織は、1979年に旧ソ連がアフガニスタンに侵攻したのに対抗するためにCIAによって作られたアルカーイダが、その元祖である。アルカーイダは、スンナ派の原理主義過激組織であり、西洋化・欧米化を批判し、1980年代から武装闘争やテロ活動を行っている。こうした過激組織については、後に項目を改めて書く。

 次回に続く。

人権273~発展途上国と難民問題

2016-02-26 10:03:02 | 人権
●発展途上国の人権状況

 次に、発展途上国の人権状況について述べる。今日、世界の独立国は、約190カ国を数えるにいたっている。その大多数は、植民地から独立した有色人種の発展途上国である。その多くでは、白人種によって剥奪されていた統治権の回復はされたものの、人民の自由と権利はいまだよく発達していない。アジア、アフリカ、ラテンアメリカの多くの地域に、貧困、不衛生、飢餓、内戦、虐待、環境破壊等の問題が存在する。これらの問題の解決には、まず国家の集団として持つ権利が拡大され、そのうえで個人の自由と権利が発達しなければならない。
 発展途上国における国家的権力の強化は、しばしば独裁や腐敗を生み、それが固定化される。経済発展と国民形成はうまくいかず、混迷と混乱が続く。先進国側は人権の擁護のための関与の正当性を主張し、人権の尊重を求める。これに対し、発展途上国は、人民の「自決の権利」を援用して、先進国の要望を内政干渉として非難するという構図となっている。
 有色人種の国家の多くは、欧米・日本等の近代化の先進国より人権状況がよくない。その例の一つが、北朝鮮である。わが国と北朝鮮の間には、日本人拉致の問題がある。北朝鮮では、金日成・金正日政権のもと、多くの日本人を含む外国人の拉致が行われた。国家最高指導者の指示による拉致は、最も許されざる人権侵害であり、国家によるテロである。2003年(平成15年)4月、国連人権委員会は、北朝鮮が多くの国民を強制収容所に送り込み、拷問をし、幼児を餓死させるなど、人権を蹂躙していると非難して「組織的かつ広範囲で重大な人権違反を犯している」という決議をした。この決議は日本人拉致問題の全面的解決を要求した。
 とはいえ、この委員会には、国内で人権を蹂躙している多くの諸国が名を連ねていた。議長国は、カダフィを元首とする専制国家当時のリビアだったことは、皮肉なことだった。北朝鮮による人権侵害を糾弾する決議を採択したこの同じ委員会は、ロシアによるチェチェンの陵辱、中国におけるチベットでの弾圧等には目をつぶった。ロシアや中国の人権問題について国連で議論らしい議論がされないのは、こうした加盟国の実態も背景にある。
 北朝鮮に関しては、国連において拉致問題等に関する理解が進み、近年対応に変化が出ている。2014年2月、国連北朝鮮人権調査委員会が、北朝鮮の人権問題について最終報告書を公表した。これを受けて、3月28日国連人権理事会は、北朝鮮による国家ぐるみの人権侵害行為は「人道に対する罪」と非難する決議を賛成多数で採択した。決議は、拉致被害者らの帰国、全政治犯収容所の廃止と政治犯の釈放等を要求し、犯罪に関与した人物の責任を追及するよう明記した。人権状況を今後も把握するため「実態の監視と記録を強化する組織」の創設を盛り込んだ。また、国連安保理に対し「適切な国際刑事司法機関」への付託の検討を勧告した。そして、北朝鮮の人権侵害を国際刑事裁判所(ICC)に付託するよう勧告した初めての北朝鮮人権決議案が、12月18日に国連総会本会議で採択された。過去の決議は北朝鮮住民たちの人権問題だったが、このたびの決議は「人道に対する罪」の最高責任者として金正恩の責任をICCで問うことを目指したものである。
 だが、金正恩は、拉致した多数の日本人の帰国を拒み、生死や安否に関しても正確な情報を提供しようとしていない。わが国は、拉致問題は金日成・金正日の指示によって行われ、現在も金正恩が関与している国家犯罪であることを強く打ち出し、またこれを国際社会が一致協力して解決すべき人権侵害犯罪として、米国および国際社会により積極的にアピールすることが必要である。
 その他の各地の発展途上国に目を向けると、バルカン半島のボスニアにおけるムスリムへの虐殺・虐待・強姦等は、民族浄化(エスニック・クレンジング)といわれるほど、苛烈なものである。アフリカ北東部の南スーダンのダルフール地方における紛争は、多くの難民を生み出している。その他、イラク、エチオピアのソマリ州、コンゴのギブ地方、ジンバブエ、ソマリア、パキスタンの北西部、シリア、イスラーム教過激組織ISILが支配する地域等、近年その国の国民の権利が著しく侵害されている国は、少なくない。問題の原因には、宗教的対立、少数民族の独立運動、相対的強国による併合、為政者の独裁・専横、資源確保を図る先進国の関与等がある。専制国家、独裁国家においては、特権的な支配集団を除く多数の国民が権利を制限され、多民族国家・多宗教国家においては、少数民族や少数集団が権利を制限されている例が多い。
 こうした人権問題への対処としては、国連が政権に対して非難決議をしたり、国際社会が経済的等の手段によって制裁を加えたりして、政治体制の変化を促す。また安保理の決議によって、PKF・PKOが活動し、治安と秩序の回復を図る。だが、安保理は、常任理事国の意見が一致しなければ、国連としての行動は取らない。その場合、特定の国家やそれに連携する国家群のみで行動を起こすことがある。その戦争が侵攻戦争なのか人道支援なのか、今のところ客観的な基準は存在しない。立場・利害が異なると、軍事行動に対する評価は大きく異なる。軍事行動の目的も、人権の擁護より、主は石油・天然ガス等の資源の確保にあることが多い。今日の国際社会では、国益の追求が優先され、国益を実現するため、または国益を損なわないようにするために、人権擁護の行動がされることが多い。

●難民及び国内避難民が4,300万人

 今日の世界の人権状況で深刻なものの一つに、難民の問題がある。難民については、個別的人権条約の一つとして、1951年に難民条約が締約された。難民条約は、第1条A(2)にて難民を定義している。すなわち、この条約の成立を分岐点として、「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、かつ、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」が、難民と規定された。要件は、迫害の恐怖、国籍国の外にあること、国籍国の保護の喪失の3つである。こうした難民を狭義の難民または条約難民という。迫害を受ける理由は、人種、宗教、国籍、特定の社会集団または政治的意見の5つである。それゆえ、戦争や内乱、自然災害によって国を追われる人々は、難民ではない。また、国籍国の外にあることが要件ゆえ、国内にとどまっている者も同様である。国籍国の外にあっても、国籍国の保護を受けている者も同様である。
 難民条約が定める狭義の難民に対し、外国軍隊の侵攻や内戦、食糧危機等により生じた国内避難民、人道上の難民等を、広義の難民と言う。国内避難民とは、武力紛争や内乱、自然災害、大規模な人権侵害等によって、難民と同じく移動を強いられているが、国境を越えていないので難民とは分類されない人々である。国内避難民は、国籍国の保護を期待できないという点に関しては、難民と共通した境遇にある。
 国籍国に代わって難民に保護を提供するのは、難民条約の締約国である。ただし、どの国家も、難民条約の締約国となることによって、難民を受け入れる義務を負うわけではない。たとえ自国の領域に入った人々が難民と認定されても、これを受け入れるかどうかは、各国が領域国として独自に主権的判断に基づいて決定し得る事項とされている。
 一方、国家の権利としては、国籍国から迫害を逃れてきた個人を領域内に庇護する自由を、国家は持つ。これを領域内庇護権という。領域内庇護権は、主権国家の権利であって義務ではない。またあくまで国家が庇護する権利であり、個人が庇護を受ける権利ではない。
 無国籍の場合は、国外強制退去となった時に、当該個人を受け入れる国がないということが起きる。無国籍は個人の重大な不利益を招くため、1954年に「無国籍者の地位に関する条約」、61年に「無国籍の減少に関する条約」が成立した。ただし、これらの条約の締約国は多くない。
わが国の外務省によると、2009年(平成21年)末の時点で、世界における難民及び国内避難民は、4,300万人を超えるといわれる。日本の人口の3分の1である。それだけの人々にとって、地球は安住の地となっていないのである。
 こうした難民及び国内避難民への支援においても、国連の役割は重要である。だが、国連には、安保路常任理事国の構成だけでなく、他にも問題が存在する。その一つが、左翼主義の浸透である。国連は、世界の人権状況を改善する中心的な国際機関だが、そこに自らの思想を浸透させて利用しようとする勢力が存在する。そうした勢力が関わっているものの一例が、戦前の日本軍の慰安婦問題である。1996年(平成8年)に国連人権委員会(現人権理事会)に出されたクマラスワミ報告書は、慰安婦を「性奴隷」と定義し、その人数を「20万人」と記述した。この報告書は、虚偽であることが明白な著作を基にしたものだった。その他、さまざまな国連機関が、日本の責任を追及する報告書や勧告を相次いで出してきた。その背景には国連を利用し、自らの主張を通そうとする左派・リベラル系団体の活発な動きがある。彼らは、NGO(非政府団体)という公認の団体を通じて、国連諸機関に働きかけて、自国の政府への批判や他国の政府への攻撃を行い、党派的・民族的な利益を実現しようとしている。市民運動の名目で、国際的な左翼や反日勢力が活動している。人権は普遍的・生得的な価値と思われやすく、また国連機関は一見政治的に中立な機関であるので、国連機関から人権問題として指摘されると、抗弁がしにくい。それゆえに、国際的な左翼や反日勢力の巧妙な活動には十分な注意が必要である。
 国連の改革のためには、国連から左翼人権主義を駆逐しなければならない。

 次回に続く。

イスラーム20~エジプトとイスラエルの和平、印パ対立

2016-02-25 09:26:04 | イスラーム
●エジプトとイスラエルの和平

 第4次中東戦争後、アラブ諸国の内部に大きな変化が現れた。4度にわたる中東戦争で最も人的・物的損害を被ったエジプトが、イスラエルとの共存の道を模索し始めたのである。
 サダト大統領は、ナーセルを継いだ後、最初は社会主義的経済政策を継承していたが、第4次中東戦争後の1974年(昭和49年)から政策を転換した。外資の導入、輸入の自由化、公共部門の民営化等の自由主義的な政策の採用である。サダトは、これによってアメリカへの接近を図った。そして、アメリカを通じてイスラエルに圧力をかけることで、失地の平和的回復を目指したのである。
 サダトはイスラエルとの間に兵力引き離し協定を結び、77年11月19日にイスラエルを訪問した。これを機会に、エジプトとイスラエルの和平交渉が開始された。
 当時、米国は、カーター政権だった。カーター政権は、ニクソン=フォード両政権におけるキッシンジャーの現実主義的な外交からの転換を図り、アメリカ的価値観を掲げた理想主義的な人権外交を打ち出した。78年9月、カーター大統領の仲介で、サダトとイスラエルのベギン首相が米国のキャンプ・デイヴィッドで会見し、和平合意に達した。翌79年(昭和54年)3月、エジプト・イスラエルの抗争を収拾するための「中東和平会議」が開催された。カーターはみずから中東を訪問し、交渉に当たった。もし決裂すれば、第3次世界大戦へと発展しかねない危険な状況であった。和平交渉は暗礁に乗り上げ、3月10日、11日、12日と難航を続けたが、13日交渉は奇跡的といえる成立を見た。そして26日、エジプト・イスラエル間で平和条約が調印された。歴史的和解と賞賛された。
 中東の国際関係が難しいのは、すべての人民が平和を望んでいるのではないことである。サダトはイスラエルとの融和路線に反対する者によって、81年に暗殺されてしまう。だがエジプトは、サダトの後を継いだムバーラク大統領の下で、念願だったシナイ半島の回復を果たした。領土問題は一応の決着に達した。
 イスラエルとアラブ諸国、ユダヤ人とパレスチナ住民は、4度の戦争を経て、ようやく和平への道を歩みだしたかに見えた。しかし、なおその道は遠く、軍による攻撃とテロの応酬が今日も日常的に繰り返されている。

●アメリカの関与で、中東情勢は一層深刻に

 私は、超大国アメリカの果たすべき役割は、イスラエルとアラブ諸国の対話を促し、中東に和平を実現することにあると思う。そういう試みもされてはきたが、むしろ両者の対立を強める結果を生む動きのほうが多い。ケネディ大統領は、イスラエルが核開発をすることを認めなかった。しかし、彼が暗殺された後、アメリカはイスラエルの核保有を黙認するようになった。1960年代から、イスラエルはアメリカの政界・議会へのロビー活動を活発に行い、アメリカ指導層をイスラエル支持に固めていった。
 カーター大統領の時期には、アメリカはイスラエルとエジプトの和平に努力した。しかし、再び対立的な方向に戻り、今やアメリカの指導層は、イスラエル政府の外交政策を支持する親イスラエル派やシオニストが主流を占めている。アメリカのキリスト教保守派の多くは、イスラエルを守るべき国とし、キリスト教とユダヤ教の結びつきは強化されていく。そのこともユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の対立を激化させる要因となる。
 イギリスの三枚舌外交が生んだ中東の対立構造は、アメリカの関与によって一層深刻になり、そこに石油資源の獲得競争が加わって、中東は世界で最も危険な地域になっている。

●インドとパキスタン・バングラデシュの文明間的関係

 第2次世界大戦後、イスラーム文明と他の文明の間で緊張が高まったのは、中東だけではない。西アジアでもインドを中心に緊張が高まった。
 インド文明にイスラーム教が浸透したのは、13世紀以降である。16世紀に始まるムガル帝国時代にイスラーム教への改宗が進んだ。19世紀からはイギリスの植民地となっていたが、第2次大戦後の1947年(昭和22年)8月、イギリスからインドとパキスタンが分離独立した。ヒンズー教徒の多いインドに対し、イスラーム教徒が多数派を占める地域がパキスタンとなったものである。1971年には、同じくイスラーム教徒が多い地域がバングラデシュとして独立した。
 パキスタンは世界第2位となる約1億9千万人のイスラーム人口を有する。バングラデシュにも約1億4千万人のイスラーム教徒がいる。インドのヒンズー教の社会にも、約1億6千万人のイスラーム教徒がおり、世界第3位のイスラーム人口となっている。約12億2千万のインド人口の約13%を占める。実にこれら3国で5億人近くのイスラーム教徒がいる。この地域は、世界のイスラーム人口の3分の1弱の信徒を有するのである。
 インドとパキスタンは、分離独立後、1947年10月にカシミールの帰属をめぐり、第1次印パ戦争を行った。以後、65年9月に第2次、71年12月に第3次印パ戦争が起こった。インドのジャンム・カシミール州では、州人口の90%以上を占めるイスラーム教徒が、1990年(平成2年)以来、分離独立運動を起こし、反印闘争を展開している。
 多神教のヒンズー教と一神教で偶像崇拝を否定するイスラーム教という宗教対立が根底にあるインドとパキスタンの対立は根深い。1998年(平成10年)5月には両国が相次いで核実験を実施した。対立する双方が核兵器を持っているという点では、中東のイスラエルとイスラーム教諸国の関係よりも、インドとパキスタンの対立は深刻になっている。

 次回に続く。

人権272~イスラーム教諸国の人権状況

2016-02-24 09:48:10 | 人権
●イスラーム系移民の増加と西洋文明の対応

 イギリス、フランスの人権状況には、キリスト教文明とイスラーム文明の相互作用における国民と移民の権利問題がある。そのことを補足したい。
 イスラーム文明は、非キリスト教文明群の一つだが、セム系一神教文明に所属し、キリスト教とは兄弟のような関係にある。イスラーム文明は世界で最も人口が増加している地域に広がっている。人口増加とともに、イスラーム教徒の数も増加している。イスラーム教は、今日の世界で最も信者数が増加している宗教である。そして発展途上国のうち、中東・アフリカ・中央アジア・南アジアにはイスラーム教国が多い。世界人口の4人に1人がムスリムと言われる。サウジアラビアやイランなど一部のイスラーム教国ではキリスト教に根拠を置く人権思想を異教の思想として受け入れられないとする考えが根強い。その一方、イスラーム教国も、血の神聖さなどの教義を中心としたシャリーア(イスラーム法)における人権という考え方を持って欧米の人権思想との整合性を図っている。だが、イスラーム法の人権は制限が厳しく、欧米から人権侵害であると非難されている。特に女性の権利への制限は、西洋文明と大きな価値観の相違を示している。そこには、宗教だけでなく、家族型による価値観の違いが表れている。むしろ、家族型的な価値観が宗教的価値観のもとにある。
 中東・アフリカのイスラーム教徒の多くは、共同体家族である。共同体家族は、ユーラシアに広く分布し、権威と平等を価値観とする。フランスのマグレブ人はアラブ系だが、アラブの家族制度は族内婚で、かつ父系的なので、内婚制父系共同体家族と呼ばれる。この家族型は、アラブ圏全域に加えて、イラン、アフガニスタン、パキスタン、トルコ、トルキスタンに分布する。インドネシア、マレーシア等の東アジアを除くイスラーム圏の大半の地域である。
 アラブ社会では、遺産相続は男子の兄弟のみを平等とし、女子を排除する制度である。それゆえ、女性の地位は低い。女子は家内に閉じこめられ、永遠の未成年者として扱われる。ヨーロッパの価値観に立てば、女性の権利が制限されるアラブの文化、ひいてはイスラーム教の文化は、人権侵害となる。逆にムスリムから見れば、女性が顔や肌を露出し、性的に自由な行動をするヨーロッパの文化は不道徳となる。アラブの族内婚は、伯叔父・伯叔母の家に嫁ぐために、親しく大事にされ、族外婚の女子が体験するような苦労がない。アラブ社会は、西洋的な価値観に立てば、女性が抑圧されていると見られるが、親族内で女子が守られるという一面もある。それゆえ、こうした家族型による価値観の違いを理解し、そのうえで相違の次元の根底にある共通の次元を見出し、それぞれが人民の自由と権利を拡大していくのでなければならない。
 イスラーム文明では現在、2011年(平成23年)の「アラブの春」と呼ばれる出来事の波紋が続いている。同年1月、チュニジアで民衆運動が起こり、ベンアリ大統領の長期独裁体制が崩壊した。チュニジアの動きはエジプトに波及し、やはり長期独裁体制を続けていたムバーラク大統領が辞任した。リビアでは民衆の運動を弾圧しようとした最高指導者カダフィが、反乱軍によって射殺された。他にもトルコ、イエメン、バーレーン、イラク、サウジアラビア等でデモが起こり、アラブ諸国が大きく揺れた。シリアでは、反政府勢力が活発化し、内戦が始まった。これを「アラブの春」という。
 イスラーム文明において、これほど多くの国で政治体制に対する民衆の反対運動が起こったのは、初めてのことだった。各国で事情は異なるが、共通しているのは長年続く独裁体制に反発した民衆が、独裁者の退陣を要求した点である。「アラブの春」をきっかけに、アラブ社会に巨大な地殻変動が起こりつつある。「アラブの春」は、さらにイスラーム文明の激動の開始ともなっている。
 シリアでは、「アラブの春」以後の内戦が長期化し、ドロ沼化している。内戦による死者は25万人を超え、400万人以上の難民を出している。(2016年1月現在) 難民は近隣のトルコ、レバノン、ヨルダン、エジプト、リビアに逃れ、約32万以上が地中海を渡ってヨーロッパへ流入している。シリアの統治機構が安定しない限り、難民の流出が止まることはない。また、この内戦を舞台にして、ISILが勢力を伸長し、強大化してきた。これに対し、国際社会はISILへの空爆を行って、ISILの掃討作戦を展開している。
 またリビアでは、2014年(平成26年)以降、イスラーム教勢力を中心とする軍閥とこれに対抗する勢力との戦闘が激化し、多数の難民が発生し、欧州等へ流入している。地中海を粗末な船で渡ろうとして、沈没・水死する者も多数出ている。内戦状態で政府が機能しておらず、多くの武装組織の武器調達ルートとなっている。また、ここでもISIL系過激組織が勢力を拡大している。
 欧州連合(EU)では、中東や北アフリカイスラーム文明諸国からの難民・移民の流入が、2014年(平成26年)から急増している。シリアの内戦やアフガニスタン、リビア等の混乱が原因である。流入する移民や難民の49%がシリアから、12%がアフガニスタンから、その他の多くがリビア等のアフリカ諸国からといわれる。
 難民・移民問題は、人権問題でもある。人権の思想を生み、人権の先進地帯であるヨーロッパで、西洋文明とイスラーム文明が価値観の違いでぶつかり合っている。ぶつかり合っている価値観は、宗教観・世界観・人間観・女性観・国家観・生命観等の全般と絡み合っている。その中心に、人権に関する考え方がある。この状況は、今後ますます深刻化していく可能性が高い。
 米調査機関のピュー・リサーチ・センターは、2015年4月、世界の宗教別人口について、現在はキリスト教徒が最大勢力だが、21世紀末にはイスラーム教徒が最大勢力になるとの予測を発表した。同センターは世界人口をキリスト教、イスラーム教、ヒンズー教、仏教、ユダヤ教、伝統宗教、その他宗教、無信仰の8つに分類。地域別などに人口動態を調査し、2010年から50年まで40年間の変動予測を作成した。2010年のキリスト教徒は約21億7千万人、イスラーム教徒は約16億人で、それぞれ世界人口の31・4%と23・2%を占めた。イスラーム教徒が住む地域の出生率が高いことなどから、2050年になるとイスラーム教徒は27億6千万人(29・7%)となり、キリスト教徒の29億2千万人(31・4%)に人数と比率で急接近する。2070年にはイスラーム教徒とキリスト教徒がほぼ同数になり、2100年にはイスラーム教徒が最大勢力になる、と同センターは予測している。
 ヨーロッパにおいて、イスラーム文明からの難民・移民にどう対応して、各国の「国民の権利」を守るかは、今後いっそう重大な問題になっていくだろう。逆にイスラーム教徒にとっては、このことは、イスラーム教徒の権利をどう実現するかという課題である。とりわけ21世紀後半、世界的にキリスト教徒とイスラーム教徒の数が歴史上初めて伯仲し、さらにイスラーム教徒の数が上回っていく段階になった時、ヨーロッパのみならず世界的にイスラーム的価値観と非イスラーム的価値観の間の相互理解と、それを通じての人々の自由と権利の保障、特に女性の自由と権利の保障が、より大きな課題となっているだろう。

 次回に続く。

イスラーム19~第4次中東戦争と世界を襲った石油危機

2016-02-23 08:52:32 | イスラーム
●第4次中東戦争と世界を襲った石油危機

 1970年(昭和45年)エジプトでナーセルが死に、副大統領のサダトが大統領となった。サダトは、イスラエルに占領されていたシナイ半島、ゴラン高原などの奪回を目指して軍事行動を起こした。エジプト・シリア両軍は、73年10月6日、イスラエルに対して奇襲攻撃を行い、第4次中東戦争が始まった。
 不意を衝かれたイスラエル軍は苦戦したが、やがて劣勢を挽回してシリアに攻め込み、スエズ運河を渡ってエジプトに侵入した。これに対し、最初から軍事的劣勢を自覚していたアラブ側が産油国の強みを活かした強力な策を打った。それが石油戦略である。
 同年10月17日、石油輸出国機構(OPEC)に加盟するペルシャ湾岸6カ国が、原油価格の21%引き上げを発表した。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)に加盟する10カ国は、前月の産油量を基準に、イスラエルを支持する国向けの生産量を毎月5%ずつ削減する。逆に、アラブ諸国を支持する国、イスラエルに占領地からの撤退を求める国には、従来通りの量を供給すると発表した。そのうえ、アメリカ・オランダなどのイスラエル支援国には、石油の全面禁輸措置が取られた。こうしたアラブの石油戦略の発動は、先進国の経済に深刻な影響を与えた。これを第1次石油危機という。
 アラブ諸国の石油戦略は、石油を使ってアラブ諸国への支持を広げ、イスラエルを孤立させることを狙ったものだった。アラブの産油国は、石油を武器にすれば、国際社会で強い影響力を持てることに気づいたのである。それまで親米路線をとり、石油戦略の発動に慎重だったサウジアラビアも強硬路線に転じた。
 石油の全面禁輸をちらつかせるアラブ側の前に、日本や西欧諸国は次々と対イスラエル政策の見直しを声明した。これを切り崩そうとするアメリカに対し、サウジも強硬姿勢を示し、アメリカの軍事介入を防いだ。こうして、アラブ側は、日本や西欧諸国に中東政策の見直しを迫ることに成功した。
 1930年代以降、オイル・メジャーと呼ばれる巨大な国際石油企業が、世界の石油を支配していた。これらの企業は、アメリカ、イギリス、オランダ系の7社だったので、セブン・シスターズ(七人姉妹)とも呼ばれた。この7社が生産と価格に関するカルテルを結んで、莫大な利益を上げていた。これに対し、産油国は1960年(昭和35年)9月、OPECを作った。さらにアラブの産油国は、独自に68年1月にOAPECを結成し、メジャーの寡占体制に異議を唱えるようになった。
 産油国のこうした行動は、西洋文明に対するイスラーム文明の応戦であり、非西洋文明の応戦である。また近代世界システムにおける周辺部の中核部への反抗でもある。また国家単位で見れば、旧植民地の旧宗主国への逆襲であり、また資源ナショナリズムの高揚でもある。こうした画期的な行動だった。
 アラブ産油国の主体意識は、強まった。1970年代に入ると、世界の石油生産量の36%を中東が占めるようになっていた。先進諸国は中東への石油依存度を高めており、産油国は発言力を増した。こうした事情を踏まえて、アラブの産油国は、石油戦略を発動したのである。
 第4次中東戦争は1973年(昭和48年)11月に停戦となり、痛みわけに終わった。OPECは、同年12月には石油の削減の中止と増産を決めた。石油危機はひとまず終わった。しかし、アラブ側がこの戦いで取った新戦術が、その後も世界を大きく左右していく。
 アラブの石油戦略は、欧米のオイル・メジャーから、石油の価格と生産量の決定権を取り返すものだった。石油のような地下資源は、いつかは枯渇する。産油国が協調すれば、供給を制限したり、価格を引き上げたりすることができる。そうして得た資金を経済基盤の整備に当てれば、石油が枯渇した後も繁栄を維持できるようになる。石油戦略には、こうした長期的な構想があったとみられる。
 石油の決済は、ドル建てである。アラブの産油国に流れ込んだ大量のドルは、価値の増殖を求めて、世界の金融市場を動きまわるようになった。これをオイル・マネーという。オイル・マネーは、世界経済の動向に一定の影響力を与えるものとなった。

 次回に続く。

人権271~人権宣言の国・フランスの現状

2016-02-22 10:17:32 | 人権
●人権宣言の国・フランスの現状

 次に、人権宣言の国フランスはどうであろうか。フランスには、平等主義核家族と直系家族という二つの家族型がある。これら二つの家族型には、共通点がある。ひとつは、女性の地位が高いことである。フランスの伝統的な家族制度は、父方の親族と母方の親族の同等性の原則に立っており、双系的である。双系制では、父系制より女性の地位が高い。もう一つの共通点は、外婚制である。フランス人は普遍主義的だが、移民を受け入れるのは、双系ないし女性の地位がある程度高いことと、外婚制という二つの条件を満たす場合である。この最低限の条件を満たさない集団に対して、フランス人は「人間ではない」という見方をする。第2次世界大戦後、フランスに流入した移民の中で最大の集団をなすマグレブ人は、この条件を満たさない。マグレブ人とは、北アフリカ出身のアラブ系諸民族である。アルジェリア人、チュニジア人、モロッコ人の総称である。宗教は、イスラーム教徒が多い。マグレブ人の社会は共同体家族の社会である。女性の地位が低く、また族内婚である。フランス人が要求する最低条件の正反対である。そのため、フランス人は、マグレブ人を集団としては受け入れない。
 マグレブ人は共同体家族ゆえ、権威と平等を価値とする。フランスは、主に平等主義核家族ゆえ、自由と平等を価値とする。ともに平等を価値とするから、普遍主義である。人間はみな同じだと考える。フランス人が人間の普遍性を信じるように、マグレブ人も人間の普遍性を信じる。ただし、彼らが持つ普遍的人間の観念は、正反対のタイプの人間像なのである。フランス人もマグレブ人も、それぞれの普遍主義によって、諸国民を平等とみなす。しかし、自分たちの人間の観念を超えた者に出会うと、「これは人間ではない」と判断する。双方が自分たちの普遍的人間の基準を大幅にはみ出す者を「間」とする。ここに二種類の普遍主義の「暗い面」が発動されることになった、とトッドはいう。第2次世界大戦後、フランスの植民地アルジェリアで独立戦争が起こった。戦争は、1954年から62年まで8年続いた。アルジェリア人の死者は100万人に達した。その悲劇は、正反対の普遍主義がぶつかり合い、互いに相手を間扱いし合ったために起こった、とトッドは指摘する。ただし、フランス人には、集団は拒否しても、その集団に属する個人は容易に受け入れる傾向がある。実際、マグレブ人は婚姻によって、個人のレベルではフランス人との融合が進んでいる。
 わが国には、フランス革命は人間の平等をうたった理想的な市民革命だと思っている人が多い。そして、フランスは人間平等の国と思っている人がいるが、話はそう単純ではないのである。
 今日、フランスは、欧州諸国の中でもイスラーム教徒の絶対数が多いことで知られる。比率も、人口の8%ほどを占める。トッドは、フランスは普遍主義に基づく同化政策を取るべきことを主張しているが、私は、どこの国でも移民の数があまり多くなると、移民政策が機能しなくなって移民問題は深刻化すると考える。その境界値は人口の5%と考える。フランスの人口比率は、その境界値を超えてしまっている。
 2015年(平成27年)1月7日フランスの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」のパリ市内の本社が銃撃され、同紙の編集者や風刺画家を含む12人が死亡、20人が負傷した。 犯人らはフランス生まれのイスラーム教徒で、アルカーイダ系武装組織が事件に関与しているとともに、犯人らは、イスラーム教スンニ派過激組織ISILへの忠誠を表明してもいた。2015年(平成27年)11月13日パリで同時多発テロ事件が起こった。130人が死亡し、約350名が負傷した。フランスでは第2次世界大戦後、最悪のテロ事件となった。「イスラーム国」を自称するISILが犯行声明を出した。ISILへの空爆に参加している主要国の首都で大規模なテロが起こったことが、世界に衝撃を与えた。
 戦後、フランス政府は、移民として流入するマグレブ人イスラーム教徒に対して、フランス社会への統合を重視してきた。だが、彼らの中には、差別や就職難などで不満を持つ者たちがいる。そうした者たちの中から、ISILなどが流し続ける「自国内でのテロ」の呼び掛けに触発される者が出てきている。こうした「ホームグロウン(自国育ち)」と呼ばれるテロリストの増加が、パリ同時多発テロ事件によって浮かび上がった。
 フランスでは、移民の多くが今日、貧困にさらされている。失業者が多く、若者は50%以上が失業している。イスラーム教徒には差別があると指摘される。宗教が違い、文化が違い、文明が違う。そのうえ、イスラーム教過激派のテロが善良なイスラーム教徒まで警戒させることになっている。
 フランスやベルギー等の社会である程度、西洋文明を受容し、ヨーロッパの若者文化に浸っていた若者が、ある時、イスラーム教の過激思想に共鳴し、周囲も気づかぬうちに過激な行動を起こす。貧困や失業、差別の中で西洋文明やヨーロッパ社会に疑問や不満を抱く者が、イスラーム教の教えに触れ、そこに答えを見出し、一気に自爆テロへと極端化する。
 こうした文明の違い、価値観の違いからヨーロッパでイスラーム教過激思想によるテロリストが次々に生まれてくる。これを防ぐには、貧困や失業、差別という経済的・社会的な問題を解決していかなければならない。これは根本的で、また長期的な課題である。
 同時多発テロ事件後、フランスが移民政策の見直しをするかどうかが、注目されている。フランス人権宣言による個人を中心とした自由・人権等を価値とする普遍主義的な価値観を信奉する限り、移民の受け入れはその価値を堅持するものとなる。移動の自由の保障も同様である。だが、この価値観とは異なる主張もフランスにはある。極右政党と言われる国民戦線(FN)は、事件後の選挙で、年間20万人の移民受け入れを1万に減らす、犯罪者は強制送還する、フランス人をすべてに優先、社会保障の充実等を訴え、支持率を伸ばした。FNが大統領選挙及び今後の国政選挙の台風の目となることは確実とみられる。
 パリ同時多発テロ事件は、フランス一国の出来事であるだけでなく、欧州の中心部で起こった事件でもある。2014年(平成26年)から欧州では、中東や北アフリカから流入する移民や難民が急増している。その49%がシリアから、12%がアフガニスタンから、その他の多くがリビア等のアフリカ諸国からといわれる。それぞれ内戦と政情不安が原因である。こうした移民・難民に紛れてイスラーム教過激派のメンバーが欧州諸国に潜入している。パリ同時多発テロ事件で、そのことが浮かび上がった。事件が起こったのはパリだが、テロリストはベルギーやオランダ等にネットワークを広げていた。
 EUの場合、域内での「移動の自由」が保障されている。テロリストは、EUの域内に入ってしまえば、各国の国境を越えて自由に移動できる。地球上でこれほどテロリストが行動しやすい地域はない。こうしたEUの「移動の自由」が、パリ同時多発テロ事件のテロを許した背景にある。
 EU諸国には、フランスの国民戦線と同様に、移民政策の見直しを主張する政党が存在する。そうした政党への支持が増加傾向にある。EUは、国民国家(nation-state)の論理を否定する広域共同体の思想に基づく。だが、異文明からの移民を抱えて社会問題が深刻化し、さらに国境の機能を低めたことでテロリストの活動を許していることによって、広域共同体の思想そのものが根本から問い直されつつある。この問題は、いわゆる人権と「国民の権利」との関係の問題である。
 人権宣言の国・フランスをはじめとするヨーロッパを中心に、普遍的・生得的な「人間の権利」としての人権という理念は、文明間・国家間・民族間の摩擦・対立の拡大の中で、見直されざるを得ない。そういう状況になっている。
 人類は、肌の色、宗教、文化・習俗等、一切の差異を差異と感じず、無差別的に、人間はみな同じと感じる段階には至っていない。今後、人類の諸民族が、個性を尊重しながら、共存調和し得るようになるには、婚姻による融合、識字率の向上と出生率の低下による近代化だけでなく、家族型の違いが生む価値観の相違を相互に理解し合うことが必要である。またそれだけでなく、無意識のレベルから他者や他集団の人間に対する感じ方が変わることが必要である。それには、相当の時間が必要だろう。人権という一見普遍的な観念を唱えれば、どの社会でも人権が実現するとは限らないことを、イギリス、フランスの現状は示している。
 今日の世界の人権状況を概観するために、自由主義諸国の内から、アメリカ、イギリス、フランスの現状を見た。これらの3国は、安保理常任理事国の地位にある。自由民主主義の国家であり、人権を尊重する政策をとっている。だが、安保理常任理事国の残る2か国は、旧ソ連を継承したロシアと共産主義の中国である。これら2カ国については、先に書いたとおり、劣悪な人権状況にあるが、安保理常任理事国であるがために、国連では問題にされないという欺瞞的な状況にある。

 次回に続く。

イスラーム18~ナーセルの挑戦と挫折

2016-02-21 08:47:06 | イスラーム
●ナーセルの挑戦と挫折

 1948年(昭和23年)の第1次中東戦争でアラブ連盟がイスラエルに敗北したことにより、中東におけるイスラエルの存在感は強まった。以後、56年の第2次中東戦争、67年の第3次中東戦争、73年の第4次中東戦争と、4度にわたる戦争を繰り返すことになった。この戦争は、ユダヤ教徒とイスラーム教徒の戦争という宗教的な要素を持つ。
 第2次中東戦争後、イラクとシリアでは、1958年(昭和33年)にアラブ復興党とシリア社会党が統一して、バース党が結成された。バース党は、アラブ復興社会党の略称であり、バースは「復興」「再生」を意味する。シリアのダマスカスに本部を置き、アラブ諸国に支部を持つ。アラブ統一・社会主義・自由を基本綱領とし、アラブ・ナショナリズムによるアラブの統一と社会主義社会建設を目指す。共産主義には反対する。後に同党から、イラクではサダム・フセインが、シリアではバッシャール・アル=アサドが登場する。
 なお、私は、基本的にネイションを政治社会としての「国家」または政治的集団としての「国民」または「国民共同体」、エスニック・グループを「民族」とし、ナショナリズムを「国家主義」「国民主義」、エスニシズムを「民族主義」と区別する。詳しくは、拙稿「人権――その起源と目標」第6章に書いた。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion03i-2.htm
 アラブの盟主を自任するサウジアラビア王国は、1932年(昭和7年)にイブン・サウドがイギリスの支援を受けて建国した。しかし経済的には、33年以降、ロックフェラー系のカリフォルニア・スタンダード石油が石油利権を握り、アメリカ資本の支配下にあった。同社は、44年にアラムコに合併された。同国は、アメリカに石油を供給すると共に、アメリカの中東政策の拠点となっている。
 さて、第2次大戦後の中東に大きな変動をもたらしたのが、エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセルである。エジプトは、1882年以来イギリスの占領下にあったが、第1次大戦後、1922年(大正11年)に独立国となった。36年(昭和11年)に条約によりイギリス軍は撤兵したが、スエズ運河は除外され、イギリスによる軍事占領が続いていた。エジプトの将校だったナーセルは、第1次中東戦争の敗北で、自国の王政の腐敗に幻滅した。52年に革命を起こし、54年から政権を掌握し、大統領となった。
 ナーセルはアラブ諸国で初めて農地改革を行い、反英的な非同盟政策を取って、アラブの民衆の支持を得た。こうしたナーセルを警戒した米英両国は、56年世界銀行によるアスワン・ハイダム建設への資金援助を打ち切った。ナーセルは、これに対抗し、同年スエズ運河の国有化を宣言した。イギリスは、フランス、イスラエルとともにエジプトに軍事干渉し、利権の維持を図った。
 ここに勃発したのが、第2次中東戦争である。イスラエルはシナイ戦争と呼び、アラブ側はスエズ戦争という。この時、アメリカは英・仏・イスラエル三国の行動を支持しなかった。ソ連がエジプトを支持して武力介入する可能性があり、それを避けるためアメリカは英仏を非難したのである。国連決議により三国軍は撤退に追い込まれ、57年戦争は終結した。イスラエル軍は一時制圧していたシナイ半島から撤退し、エジプトはスエズ運河の国有を維持した。
 戦争の結果、ナーセルは、一躍アラブ諸国の指導者的存在となり、アラブのナショナリズムは高揚した。ナーセルは、1961年(昭和36年)にはインドのネルーなどとともに非同盟諸国首脳会議を主導した。ここには、近代西欧発のナショナリズム、すなわちネイションの形成・発展を目指す思想・運動の影響がみられる。アラブのナショナリズムは、西欧諸国に多いシビック(市民的)なナショナリズムとは異なる、エスニック・グループ(民族)をもとにしたエスニック(民族的)なナショナリズムである。そして、近代国家を建設して、欧米諸国に対抗しようとするものである。その点で、本来、西欧の国家思想とは異なる伝統的なイスラーム教の国家思想とは別種のものである。
 ナーセルは、イスラエルへの対抗意識を強め、1967年(昭和42年)、イスラエルのインド洋への出口であるチラン海峡の閉鎖を試みた。これにイスラエルが応戦し、第3次中東戦争が勃発した。
 イスラエル空軍は電撃作戦を展開し、エジプト、シリア、ヨルダンの空軍基地を奇襲攻撃によって破壊した。また同陸軍は、ヨルダン川西岸、ガザ地区を占領したことにより、パレスチナの全域を支配下に収めた。さらにシナイ半島、ゴラン高原をも制圧した。わずか6日間で決着がついたので、6日間戦争ともいう。
 戦争の結果、約300万人のパレスチナ人の半分が、イスラエルの支配下に入った。一方、アラブの星だったナーセルの威信は、地に堕ちた。

●エルサレムの占領と紛争の恒常化

 エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の聖地ないし重要な場所である。第3次中東戦争でイスラエルが占領したヨルダン川西岸に存在する。エルサレムは、第1次中東戦争後、国連決議を無視した形で東西に分割されていたが、イスラエルが全市を押さえることとなった。イスラエルは、エルサレムを「統一された首都」と宣言した。同市を国連永久信託統治区としている国連決議を完全に無視した行動である。そのため、世界の多くの国は、エルサレムを首都と認めず、大公使館をティルアビブに置いている。
 イスラエルというと、多くの人はユダヤ人だけの国家のように思っている。国民の8割はユダヤ人だが、残りの大部分はアラブ人である。当然イスラエルには、ユダヤ教徒だけではなく、イスラーム教徒もいる。自由主義者もいれば、社会主義者もいる。政党は右翼政党連合のリクード、左翼の労働党の他、少数党がいくつもある。アラブ諸国との対決を主張する勢力もあれば、和平共存を願う勢力もある。そこに複雑性がある。
 一方、アラブ側には、1964年(昭和39年)、パレスチナ解放機構(PLO)が結成された。PLOは、68年にパレスチナ国民憲章を制定した。憲章は、敵はユダヤ教徒ではなく、英米勢力と結びついたシオニストであるとし、パレスチナに民主的、非宗教的国家を建設する方針を出した。しかし、69年アラファトがPLO議長になると、闘争的な組織に変わった。PLO加盟諸派にはテロやゲリラ活動を行うグループがあり、シオニストとの闘争は激化していった。

 次回に続く。

人権270~人権の歴史的先進国イギリスの現状

2016-02-20 09:38:03 | 人権
●人権の歴史的先進国イギリスの現状

 続いて、イギリスとフランスの人権状況を見てみよう。これらは、国連創設以来、国連安保理の常任理事国である。まず人権の歴史的な先進国イギリスはどうであろうか。イギリスは、第2次世界大戦後に「非白人」移民が大量に流入するまでは「同質的白人国」であった、とトッドは言う。白人のみの国だったということである。イギリスでは、産業革命によって階級分化が起こった。大ブリテン島の大部分で支配的な家族型は絶対核家族である。絶対核家族は、差異主義である。そのため、白人種の間の階級分化が、アメリカにおける人種の差に匹敵するほど大きな階級の差を生み出した。イギリスの労働者階級は、アメリカの「黒人英語」を思わせる社会的方言を話す。トッドは「イギリスの労働者は、白人であるけれども、19世紀半ばより、イギリス中産階級の精神の中では、差異の観念そのものを具現している」と言う。つまり、労働者階級は人種が違うくらいに異なった集団だ、と中産階級が感じていたということである。イギリスはそれほど差異の観念が強い。
 第2次大戦後、イギリスに非ヨーロッパから多数の有色人種が流入した。主な移民は、ヒンズー教の一種であるシーク教徒のインド人、イスラーム教徒のパキスタン人、キリスト教徒のアンチル諸島人である。彼らは当初、イギリス社会に同化する気構えを持っていたが、差異主義的なイギリス人の拒否に会った。拒否に会った移民集団には、それぞれ異なる結果が現れた。受け入れ社会と移民の文化の組み合わせによって、結果が違ったのである。ポイントは家族型の違いにある。
 インド人のシーク教徒の家族型は、直系家族である。彼らにはイギリスの差異主義が幸いし、囲い込みという保護膜に守られた形で同化が進んでいる。パキスタン人は、共同体家族である。共同体家族は、固有の普遍主義を持つ。これとイギリスの差異主義がぶつかった。パキスタン人は隔離された。これに対しもともとイスラーム教スンニ派のパキスタン人は、イランのシーア派の活動組織と結び、イスラーム教原理主義に突き進んだ。アンチル諸島のジャマイカ人はキリスト教徒で、習俗もイギリス化していた。文化的には最も受け入れ社会に近い。しかし、アメリカの白人がそうであるように、イギリス人は肌の色にこだわり、彼らを「黒人」とみなした。そのため、ジャマイカ人は、アメリカの黒人と同様に心理的・道徳的な崩壊へと追い込まれている。ただイギリスの「黒人」がアメリカと黒人と違うのは、イギリス社会で「異なる人種」のような存在となっている労働者階級と、民族混交婚が進んでいることである。それによって、イギリスの「黒人」は、絶対的隔離を免れている。
 今日イギリスは、イスラーム系移民がヨーロッパでも最も多く、またEUの中でも最も速いスピードでイスラーム人口が増加している国である。2009年(平成21年)8月、英『デイリー・テレグラフ』紙は、EU内のイスラーム人口が2050年までに現在の4倍にまで拡大するという調査結果を伝えた。それによると、EU27カ国の人口全体に占めるイスラーム系住民は前年には約5%だったが、現在の移民増加と出産率低下が持続する場合、2050年ごろにはイスラーム人口がEU人口全体の5分の1に相当する20%まで増える。イギリス、スペイン、オランダの3ヵ国では、「イスラーム化」が顕著で、近いうちにイスラーム人口が過半数を超えてしまうという。イギリスは、近いうちにイスラーム人口が過半数を超えると予想されている国の一つである。
 今日の西洋文明には、イスラーム教徒をキリスト教に改宗し得る宗教的な感化力は存在しない。イギリスは、英国国教会という独自の国家的なキリスト教宗派を保ってはいるが、近代化・世俗化の進むイギリスに、熱烈な異教徒を信仰転換できる宗教的情熱は、見られない。近代化・合理化の作用は、他の文明から流入する移民の価値観を変え得る。だが、近代化・合理化は、人々が宗教に求める人生の意味、魂や来世の問題については、何ももたらすものがない。イギリスの差異主義と衝突したイスラーム系移民の一部は過激化し、ロンドン等の大都市で、無差別テロ事件を起こしている。また、イギリス社会では、シャーリア(イスラーム法)の導入を巡って摩擦が起き、一つの社会問題となっている。イスラーム系移民の人口は、年々増加している。その過程で、イギリスの社会には、かつて欧米諸国が体験したことのない質的な変化が起こるだろう。  そうした中で、国民の権利と移民の権利を区別し、国民には何を保障し、非国民には何を付与するかを明確にすることが必要になる。国民と移民を区別しない無差別的な人権思想は、自国の文化・慣習・宗教・国柄を否定し、自らのアイデンティティを否定するものとなるだろう。

 次回に続く。