●西欧における国民国家の出現と普及
西欧における国家の変遷は、1648年のウェストファリア条約を一つの転換点とする。1648年以前の西欧における国家は、封建国家(feudal state)だった。領土は封建所領が錯綜しており、明確な境界線を欠いていた。人民は領民(people)であり、その多くは、国家への帰属意識を持っていなかった。統治機構は、国王や領主の政府、聖職者等の教会機構が併存していた。一定の統治権はあるが、主権ではなかった。身分制秩序による支配集団が統治し、複数のエスニック・グループが併存していた。
ウェストファリア条約によって、主権国家(sovereign state)が出現した。経済的には封建制に基づく封建国家だが、それが法制度上、主権を持つと認められた。それぞれの主権国家は、国境で区切られた領土を持ち、領域内の人民は、その国家に所属する国民(nation)となった。ただし、形式的な存在だった。統治機構は、領域において主権を行使する国王の政府となった。絶対王政が行われた。
封建的主権国家から、国民国家(nation-state)が登場した。17世紀末、イギリスで市民革命を通じて、最初の国民国家が形成された。次いで、18世紀後半にイギリスから独立したアメリカ、またイギリスに学んだフランスで国民国家が形成された。市民階級が参加した政府によって、国民(nation)の実質化が進んだ。統治機構は、主権を行使する政府であり、君民共治または国民主権となった。権力に参与する主要なエスニック・グループが、神話・歴史的記憶に基づく集団意識の形成や言語・文化等の均一化を進めた。だが、ほとんどの国で、複数のエスニック・グループが併存していた。
国民国家は、資本主義の経済組織を領土内に統合することに成功した。国内の分業に基づく生産・消費・流通・金融の組織化を進めた。それによって、生産力と軍事力を飛躍的に増大させた。19世紀初頭のナポレオン戦争を通じて、国民国家の威力を見た国々が、広く国民国家を模倣するようになった。富と権力、生産力と軍事力を獲得して、先進諸国に対抗するためである。それによって19世紀後半から20世紀前半にかけて、国民国家の形態が世界の範例となった。
●イギリスにおける国民国家の形成
次に、国民国家の形成と発展を、イギリスから主な事例を順にたどって、人権との関係を見ていきたい。
国民国家について、通説では、フランス市民革命によって身分制社会が解体され、革命の理念を継承したナポレオン・ボナパルトが、自由かつ平等な国民の結合による国民国家を打ち立てたとされる。19世紀初頭、フランスに生まれた国民国家は、単一の法体系と政治体制、固有の領土、共通の民族・文化を持つ。政府は国民に対して徴兵を行い、課税権を行使できる。こうした国民国家は、従来の絶対王政国家とは比較にならないほど強力な軍事力を発揮した。その軍事的機能は、ナポレオンの軍事行動によって実証された。そこで、ヨーロッパ各国は、フランスに対抗するため、次々と国民国家へと移行したというわけである。
しかし、破竹の勢いのナポレオンを打ち破ったのは、イギリスだった。このことに注目したい。フランスより前にイギリスで17世紀末に国民国家が成立していた。イギリスへの対抗において、アメリカ・フランス等の諸国に国民国家が形成され、普及していったと私は考える。西欧の大陸諸国に対し、大ブリテン島のイギリスは市民革命や産業革命だけでなく、国民国家の確立においても、先駆的だったのである。
イギリスは、ノルマン・コンクェストによる征服国家である。ゲルマン人の一派であるノルマン人が、1066年にフランスから渡ってイングランドを征服した。これによって、ノルマン人の集団がイングランドの支配的なエスニック・グループとなった。基本的には、このグループがイングランドのエスニックな核となった。12世紀以降、言語上の借用、結婚、官僚への取り立て等によって、被支配集団であるアングロ・サクソン、デーンとの間に人的交流や文化的な融合が進んだ。
第6章に書いたように、イングランドでは1265年に身分制議会が制定されて以来、議会を通じて国王を中心とする臣民の集団という意識が発達し、エスニックな集団としての意識が形成され、この封建的な身分制議会が、市民革命を経て国民の議会に変化していく。中世の英仏は、王家が血族も所領も不可分の関係にあったが、1339年から百年戦争を戦い、最後はヘンリー5世がイングランドを勝利に導いた。こうした対外戦争と精神的または英雄的な指導者が集団意識の核になった。14世紀後半には、言語上の融合が進み、第7章に書いたように、ウィクリフが聖書の英訳を企て、宗教改革の先駆となった。自国語で聖書を読むことは、ネイションの基礎となる言語共同体の発達を促した。また、14世紀末には『カンタベリー物語』の著者チョーサーによって中世英語が完成された。こうした政治的・社会的・言語的・文化的な変化によって、イングランドでは、将来ネイションを構成するエスニックな要素が十分発達していた。これに加えて、宗教的にはカトリックからの自立が行われた。16世紀チューダー朝のヘンリー8世は、離婚を認めないカトリック教会の教皇と対立して国教会を作り、1534年に自ら首長となってローマ教会を離脱した。国民国家の形成への道において、この宗教的自立は重要な意味を持った。イングランドの住民の多数は、カトリックから国教会に替わることで、エスニックな集団意識を強めた。精神的な中心はローマ法王ではなく、宗教的な首長でもある自国の国王となっていった。
大ブリテン島は、ヨーロッパ大陸から海で隔てられており、ドイツ30年戦争の混乱に巻き込まれなかった。1648年のウェストファリア条約によって、大ブリテン島の諸国家も法理論上、主権国家となった。この時点で、大ブリテン島とアイルランド島には、イングランド、スコットランド、アイルランドという3つの封建制的主権国家が併存していた。これらはそれぞれ独自のエスニック・グループが支配する主権国家だった。
次回に続く。
西欧における国家の変遷は、1648年のウェストファリア条約を一つの転換点とする。1648年以前の西欧における国家は、封建国家(feudal state)だった。領土は封建所領が錯綜しており、明確な境界線を欠いていた。人民は領民(people)であり、その多くは、国家への帰属意識を持っていなかった。統治機構は、国王や領主の政府、聖職者等の教会機構が併存していた。一定の統治権はあるが、主権ではなかった。身分制秩序による支配集団が統治し、複数のエスニック・グループが併存していた。
ウェストファリア条約によって、主権国家(sovereign state)が出現した。経済的には封建制に基づく封建国家だが、それが法制度上、主権を持つと認められた。それぞれの主権国家は、国境で区切られた領土を持ち、領域内の人民は、その国家に所属する国民(nation)となった。ただし、形式的な存在だった。統治機構は、領域において主権を行使する国王の政府となった。絶対王政が行われた。
封建的主権国家から、国民国家(nation-state)が登場した。17世紀末、イギリスで市民革命を通じて、最初の国民国家が形成された。次いで、18世紀後半にイギリスから独立したアメリカ、またイギリスに学んだフランスで国民国家が形成された。市民階級が参加した政府によって、国民(nation)の実質化が進んだ。統治機構は、主権を行使する政府であり、君民共治または国民主権となった。権力に参与する主要なエスニック・グループが、神話・歴史的記憶に基づく集団意識の形成や言語・文化等の均一化を進めた。だが、ほとんどの国で、複数のエスニック・グループが併存していた。
国民国家は、資本主義の経済組織を領土内に統合することに成功した。国内の分業に基づく生産・消費・流通・金融の組織化を進めた。それによって、生産力と軍事力を飛躍的に増大させた。19世紀初頭のナポレオン戦争を通じて、国民国家の威力を見た国々が、広く国民国家を模倣するようになった。富と権力、生産力と軍事力を獲得して、先進諸国に対抗するためである。それによって19世紀後半から20世紀前半にかけて、国民国家の形態が世界の範例となった。
●イギリスにおける国民国家の形成
次に、国民国家の形成と発展を、イギリスから主な事例を順にたどって、人権との関係を見ていきたい。
国民国家について、通説では、フランス市民革命によって身分制社会が解体され、革命の理念を継承したナポレオン・ボナパルトが、自由かつ平等な国民の結合による国民国家を打ち立てたとされる。19世紀初頭、フランスに生まれた国民国家は、単一の法体系と政治体制、固有の領土、共通の民族・文化を持つ。政府は国民に対して徴兵を行い、課税権を行使できる。こうした国民国家は、従来の絶対王政国家とは比較にならないほど強力な軍事力を発揮した。その軍事的機能は、ナポレオンの軍事行動によって実証された。そこで、ヨーロッパ各国は、フランスに対抗するため、次々と国民国家へと移行したというわけである。
しかし、破竹の勢いのナポレオンを打ち破ったのは、イギリスだった。このことに注目したい。フランスより前にイギリスで17世紀末に国民国家が成立していた。イギリスへの対抗において、アメリカ・フランス等の諸国に国民国家が形成され、普及していったと私は考える。西欧の大陸諸国に対し、大ブリテン島のイギリスは市民革命や産業革命だけでなく、国民国家の確立においても、先駆的だったのである。
イギリスは、ノルマン・コンクェストによる征服国家である。ゲルマン人の一派であるノルマン人が、1066年にフランスから渡ってイングランドを征服した。これによって、ノルマン人の集団がイングランドの支配的なエスニック・グループとなった。基本的には、このグループがイングランドのエスニックな核となった。12世紀以降、言語上の借用、結婚、官僚への取り立て等によって、被支配集団であるアングロ・サクソン、デーンとの間に人的交流や文化的な融合が進んだ。
第6章に書いたように、イングランドでは1265年に身分制議会が制定されて以来、議会を通じて国王を中心とする臣民の集団という意識が発達し、エスニックな集団としての意識が形成され、この封建的な身分制議会が、市民革命を経て国民の議会に変化していく。中世の英仏は、王家が血族も所領も不可分の関係にあったが、1339年から百年戦争を戦い、最後はヘンリー5世がイングランドを勝利に導いた。こうした対外戦争と精神的または英雄的な指導者が集団意識の核になった。14世紀後半には、言語上の融合が進み、第7章に書いたように、ウィクリフが聖書の英訳を企て、宗教改革の先駆となった。自国語で聖書を読むことは、ネイションの基礎となる言語共同体の発達を促した。また、14世紀末には『カンタベリー物語』の著者チョーサーによって中世英語が完成された。こうした政治的・社会的・言語的・文化的な変化によって、イングランドでは、将来ネイションを構成するエスニックな要素が十分発達していた。これに加えて、宗教的にはカトリックからの自立が行われた。16世紀チューダー朝のヘンリー8世は、離婚を認めないカトリック教会の教皇と対立して国教会を作り、1534年に自ら首長となってローマ教会を離脱した。国民国家の形成への道において、この宗教的自立は重要な意味を持った。イングランドの住民の多数は、カトリックから国教会に替わることで、エスニックな集団意識を強めた。精神的な中心はローマ法王ではなく、宗教的な首長でもある自国の国王となっていった。
大ブリテン島は、ヨーロッパ大陸から海で隔てられており、ドイツ30年戦争の混乱に巻き込まれなかった。1648年のウェストファリア条約によって、大ブリテン島の諸国家も法理論上、主権国家となった。この時点で、大ブリテン島とアイルランド島には、イングランド、スコットランド、アイルランドという3つの封建制的主権国家が併存していた。これらはそれぞれ独自のエスニック・グループが支配する主権国家だった。
次回に続く。