ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

『国家の品格』と武士道精神5

2006-05-31 10:47:29 | 日本精神
藤原正彦氏は、「私は、日本の武士道精神と美意識は、人類の普遍的価値となりうるものと思う」(『けじめ』)という。それゆえ、武士道精神の復活は、日本のためだけではなく、世界のために必要だというのである。

 まず日本について。「21世紀は、武士道が発生した平安時代の混乱と似ていないでもない。日本の魂を具現した精神的武装が急務だ。切腹や仇討ち、軍国主義に結びつきかねない忠義などを取り除いたうえで、武士道を日本人は復活すべきである。これなくして日本の真の復活はありえない」(『けじめ』)
 次に世界について。「世界はいま、政治、経済、社会と全面的に荒廃が進んでいる。人も国も金銭崇拝に走り、利害得失しか考えない。義勇や名誉は顧みられず、損得勘定の巷となり果てた。ここ数世紀の間、世界を引っ張ってきたのは欧米である。ルネッサンス後、理性というものを他のどこの地より早く手にした欧米は、論理と合理を原動力として産業革命をなしとげ、以後の世界をリードした。論理と合理で突っ走ってきた世界だが、危機的な現状は論理や合理だけで人間はやっていけない、ということを物語っている。それらはとても大切だが、他に何かを加える必要がある。
 一人一人の日本人が武士道によりかつて世界の人々を印象づけた高い品格を備え、立派な社会を作れば、それは欧米など、荒廃の真因もわからず途方に暮れている諸国の大いに学ぶところとなる。これは小手先の国際貢献と異なる。普遍的価値の創造という真の国際貢献となるであろう。この意味で、戦後忘れられかけた武士道が今日蘇るとすれば、それは世界史的な意義をもつと思われる」(『けじめ』)

 上の引用のように、藤原氏は、武士道精神の復活の意義を力説する。日本人は自己自身のために武士道精神を復活するとともに、それを通じて真の国際貢献をすべきである。この行いは、日本人が個々に努力するにとどまらず、国家としての日本が国の方針として行なうべきだ、と氏は訴えたいのだろう。

 氏は、次のようにも書いている。「日本は正々堂々と、経済成長を犠牲にしてでも品格ある国家を目指すべきです。そうなること自体が最大の国際貢献と言えるのです。品格ある国家、というすべての国家の目指すものを先んじて実現することは、人類の夢への水先案内人となることだからです」(『品格』)
 「世界に示すには、世界に向かって口角泡を飛ばすのではなく、まず日本人それぞれが情緒と形を身につけることです。それが国家の品格となります。品格の高い国に対して、世界は敬意を払い、必ずや真似をしようとします。それは、文明国が等しく苦悩している荒廃に対する、ほとんど唯一の解決策と私には思えるのです」(『品格』)

 実際は藤原氏の説とは違い、すべての国家が「品格ある国家」を目指してきたとは、言えない。「品格の高い国」に他国が敬意を払い、真似しようとするとも限らない。世界史が示しているのは、国家及び文明の間に顕著なのは、道徳的な感化よりも、力による支配―服従や、富による伝播―模倣である。
 氏のいう「品格ある国家」とは、従来、道義国家といわれてきたものに近い。道義国家とは、人類普遍的な道徳を理念とする国家である。力や富の追求ではなく、精神的な価値の実現を目標とする国家である。藤原氏は、この道義にあたるものとして、武士道精神を提示しているわけである。
 かつて武士道精神は、日本人に品格を与えていた。日本人が精神的に向上することは、わが国に「国家の品格」を生み出す。「品格ある国家」は、周囲に道徳的な感化を与える。こうした発想は、武士道に融合した儒教が理想とした王道や徳治に通じるものである。
 氏の主張を掘り下げるならば、東洋の政治思想や、それを最もよく体現したわが国の皇室の伝統に思いをいたすことになるだろう。武士道は、平安時代の発生期から尊皇を本質的要素とする。またわが国の国柄は、皇室の存在を抜きにとらえることが出来ないことを指摘しておきたい。

 さて、藤原氏は、次のようにも述べている。「日本人一人一人が美しい情緒と形を身につけ、品格ある国家を保つことは、日本人として生まれた真の意味であり、人類への責務と思うのです。ここ4世紀間ほど世界を支配した欧米の教義は、ようやく破綻を見せ始めました。世界は途方に暮れています。時間はかかりますが、この世界を本格的に救えるのは、日本人しかいないと私は思うのです」(『品格』)
 ここでは単なる国際貢献ではなく、「世界を救う」という、崇高な目標が述べられている。それでは、日本人がこの役割を担うには、どうすればよいか。長くなったので、次回改めて書くことにする。

参考資料
・武士道の本質的要素については、以下の拙稿をご参照下さい。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind09.htm
02「武士とは、武士道とは」
・わが国の国柄の特徴については、以下の拙稿をご参照下さい。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind02.htm
コメント (2)

『国家の品格』と武士道精神4

2006-05-30 11:13:53 | 日本精神
 藤原正彦氏は、武士道は「昭和のはじめごろから少しづつ衰退し始め」、大東亜戦争の戦後は「さらに衰退が加速された」という。アメリカは占領期間、日本弱体化のためにさまざまな政策を行なった。「たった数年間の洗脳期間だったが、秘匿でなされたこともあり、有能で適応力の高い日本人には有効だった。歴史を否定され愛国心を否定された日本人は魂を失い、現在に至るも祖国への誇りや自信をもてないでいる」(『けじめ』)
 「戦後は崖から転げ落ちるように、武士道精神はなくなってしまいました。しかし、まだ多少は息づいています。いまのうちに武士道精神を、日本人の形として取り戻さなければなりません」(『品格』)

 基本的には、私は同感である。ただし、藤原氏の所論には重要なことを補う必要がある。戦後、武士道精神が失われてきた根本的な理由である。
 日本は、GHQから押し付けられた憲法により、主権独立国家として不可欠な国防を大きく制限された。憲法上、国民には、国防の義務がない。「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ」という文言のある教育勅語は、教科書から取り除かれた。国家が物理的に武装解除されただけでなく、日本人は精神的にも武装解除された。その結果、日本人は自ら国を守るという国防の意識さえ失った。
 武士道とは、本来、武士の生き方や道徳・美意識をいうものである。武士とは、武を担う人間である。武を抜きにして、武士道は存立しない。自衛のための武さえ制限され、自己の存立を他国に依存する状態を続けている日本人が、急速に武士道精神を失ってきたのは当然である。
 根本的な原因は、憲法にある。日本国憲法が、日本人から武士道精神を奪っているのである。この問題を抜きにして、武士道精神の衰退は論じられない。

 藤原氏は、武士道精神の中核は「惻隠の情」だとし、「弱い者いじめ」に見て見ぬふりをせず、卑怯を憎む心を強調する。氏のいうような武士道精神に照らすなら、例えば北朝鮮による同胞の拉致に対し、日本人及び日本国は、どのように行動すべきか。中国のチベット侵攻や台湾への強圧に対し、どのように考えるべきか。
 これらの問題は、単なる道徳論では論じられない。日本という国の現状、自分たち日本人のあり様を、国際社会の現実を踏まえて論じる必要があるだろう。やはり、「この国の形」を決める憲法に帰結する事柄である。

 さて、藤原氏は、戦後、衰退してきた武士道精神が、バブルの崩壊によって、一層、顕著に衰退してきたという見解を表している。
 「歴史を否定され愛国心を否定された日本人は魂を失い、現在に至るも祖国への誇りや自信をもてないでいる。だから、たかがバブルがはじけたくらいで狼狽し、世界でもっとも優れた日本型資本主義を捨て、市場原理を軸とするアメリカ型を安直に取り入れてしまった。その結果、日本経済は通常の不況とは根本的に異なる、抜き差しならない状況に追い込まれている」(『けじめ』)
 「バブル崩壊にともなう市場原理主義は、武士道精神を崖からまっさかさまに突き落としつつある。日本人の道徳基準であっただけに今後が心配である。とりわけ新渡戸稲造が武士道の中核とした惻隠の情が急激に失われつつあることは、我が国の将来に払拭できない暗雲としてたれこめている」(『けじめ』)

 市場原理主義について、次のように藤原氏は述べている。 「市場原理に発生する『勝ち馬に乗れ』や金銭至上主義は、信念を貫くことの尊さを粉砕し卑怯を憎む精神や惻隠の情などを吹き飛ばしつつある。人間の価値基準や行動基準までも変えつつある。人類の築いてきた、文化、伝統、道徳、倫理なども毀損しつつある。人々が穏やかな気持ちで生活することを困難にしている。市場原理主義は経済的誤りというのをはるかに越え、人類を不幸にするという点で歴史的誤りでもある。苦難の歴史を経て曲がりなりにも成長してきた人類への挑戦でもある。これに制動をかけることは焦眉の急である」(『けじめ』)
 
 市場原理主義は、資本主義発生期の経済的自由主義の現代版である。この古典的自由主義は、修正的自由主義が「リベラリズム」を標榜するのに対し、「リバータリアニズム(徹底的自由主義)」ともいう。英米ではこの国権抑制・自由競争の思想が、伝統的な「保守」である。アダム=スミスに始まり、ハイエク、フリードマンらがこの系統である。ブッシュ政権に集合した「ネオコン」と呼ばれる新保守主義者は、その新種である。
 国防に致命的な欠陥を持つわが国は、1980年代にアメリカを主人とする金融奴隷のような構造に組み込まれた。バブルの崩壊後は、その構造のもとで、アメリカ主導の市場原理主義に押し捲られている。そして、米国政府に成り代わって、市場原理主義を積極的にわが国で推進しているのが、小泉=竹中政権である。

 現在の自民党は、私が「経済優先的保守」や「リベラル」と呼ぶ人たちが主流派となり、「伝統尊重的保守」は駆逐されてきた。日本政府が行なっている改革は、アメリカの「年次改革要望書」に応える改革にすぎない。ここ5年ほどの間に、自由競争と個人主義が徹底的に推進されてきたことにより、「格差社会」が生まれ、若者を中心に「下流」が増大している。経済中心、金銭中心、個人中心の国策によって、日本人の精神性は劣化している。
 『国家の品格』が大ベストセラーになったのは、こうしたわが国のあり方を批判する藤原氏の言説が、多くの国民に共感を呼ぶからだろう。

 既に引いた文章と多少重複するが、藤原氏の主張を再度、引用したい。
 「バブル崩壊後、日本では政府ばかりか国民までもが『経済を回復させるためなら何をしてもいい』と考えるようになった。アメリカからの要求に従うような改革が次々断行され、貧しい者や弱者、地方が泣かされるという、非情な格差社会が生まれた。(略) この勢いは経済の領域を超え、社会全体が拝金主義や「勝ち馬に乗れ」といった風潮を蔓延させつつある。(略) さらに、日本人の繊細な感性を育んでいた日本の美しい自然や田園も、開発という名の破壊を受けて見るかげなく、子供達の教育も混乱を極めている。(略)
 私は、こうした様々な現象の元凶は、アメリカ流の経済至上主義や市場原理主義だと思っている。市場原理とは、できるだけ規制をなくし競争原理を働かせるものだが、結果は勝者と敗者ばかりの世界になる。規制とは弱者を守るためのものだからだ。世の中は、勝者でも敗者でもないふつうの人々が大半を占めなければ安定しない。市場原理で代表されるアングロサクソンの『論理と合理』を許し続けたら、日本だけでなく世界全体もめちゃくちゃになってしまう。
 こんな世界の中で、日本はどうすべきか。私は、経済的豊かさをある程度犠牲にしてでも『品格ある国家』を目指すべきだと考えている。そのためにも新渡戸稲造の『武士道』の精神を復活させることが大切だ。」(『何か?』

 私は、氏の所論に強い共感を覚える。ただし、これを単なる道徳論に終わらせないためには、先に書いたように、日本人は憲法を論じなければならない。今日の日本で武士道精神の復活を実現するには、「精神の形」だけでなく、「この国の形」を論じる必要があるのだ。
 「国としての形」をなしていない国に、「国家の品性」は備わりえない。それが道理である。そのことを『国家の品性』を読んだ人々に、ともに考えていただきたいと思う。

 次回で、連載を終える予定である。
 
参考資料
・以下の拙稿をご参照下さい。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion13a.htm
「日本的な保守と日本精神の復興」(主に第5章)
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion13.htm
02「第二の敗戦からの復興」
03「国家破産の危機と日本の再生」
コメント (20)   トラックバック (7)

『国家の品格』と武士道精神3

2006-05-29 19:39:51 | 日本精神
 武士道精神の復活を唱える藤原正彦氏は、武士道の歴史と変遷をどのようにとらえているのだろうか。もとより氏は、歴史家や思想家ではないのだが、そのとらえ方には傾聴すべきものがある。
 「武士道はもともと、鎌倉武士の『戦いの掟』でした。いわば、戦闘の現場におけるフェアプレイ精神をうたったものと言えます。しかし、260年の平和な江戸時代に、武士道は武士道精神へと洗練され、物語、浄瑠璃、歌舞伎、講談などを通して。町人や農民にまで行き渡ります。武士階級の行動規範だった武士道は、日本人全体の行動規範となっていきました」(『品格』)
 「明治維新のころ海外留学した多くの下級武士の子弟たちは、外国人の尊敬を集めて帰ってきた」「武士道精神が品格を与えていたのである」(『けじめ』

 明治維新によって、身分としての武士は消滅した。その後の武士道精神の変遷を、武士道精神の中核を「惻隠の情」と理解する視点から、藤原氏は次のように述べている。
 「かつて我が国は惻隠の国であった。武士道精神の衰退とともにこれは低下していったが、日露戦争のころまではそのまま残っていた」(『けじめ』)。
 その実例として、氏は、水師営での会見で、乃木将軍が敗将ステッセルに帯剣を許したこと。日本軍は各地にロシア将校の慰霊碑や墓を立てたこと。松山収容所では、ロシア人捕虜を暖かく厚遇したことなどを挙げている。
 「日本人の惻隠は大正末期にはまだ残っていたようである」(『けじめ』)。
 その実例として、氏は、第1次大戦後、ポーランド人の援助要請に応え、日本人が極東に残されたポーランド人孤児765名を救済したことを挙げる。

 確かに、私たちの先祖であり先輩である明治・大正の日本人は、異国の人々の身の上を、わがことのように思いやり、親切このうえなく心を尽くした。まだほとんど外国人と接する機会のなかった時代であるのに、国際親善・国際交流の鑑のような行動を、人情の自然な発露として行っている。
 こうした日本人の精神を、藤原氏は、武士道に重点を置いて、武士道精神と呼ぶわけである。

 大東亜戦争の敗戦後、武士道精神は大きく低下した。しかし、氏は、これは戦後、突然起こった現象ではないと見ている。
 「武士道精神は戦後、急激に廃れてしまいましたが、実はすでに昭和の初期の頃から少しづつ失われつつありました。それも要因となり、日本は盧溝橋以降の中国侵略という卑怯な行為に走るようになってしまったのです。『わが闘争』を著したヒトラーと同盟を結ぶという愚行を犯したのも、武士道精神の衰退によるものです」(『品格』)
 「当時の中国に侵略していくというのは、まったく無意味な『弱い者いじめ』でした。武士道精神に照らし合わせれば、これはもっとも恥ずかしい、卑怯なことです」(『品格』)
 「日露戦争に比べ、日中戦争や大東亜戦争での捕虜の扱いはかなり違う。日本軍は捕虜を労働力と見るようになり、酷使、虐待を平気でするようになった。昭和の初めごろより惻隠が少しずつだが衰えていったのである。明治が遠くなったこともある。野卑な外国を見習ってしまったこともある」(『けじめ』)

 ヒトラーと同盟を結んだのは、武士道精神の衰退によるという見方は、私も同感である。私は、三国同盟締結は日本精神に外れた行いだったことを、別に書いてもいる。ただし、藤原氏が、日本の大陸進出を「まったく無意味な『弱い者いじめ』」「もっとも恥ずかしい、卑怯なこと」とのみ書いているのは、歴史認識の視野の狭さ、底の浅さを露呈したものと思う。

 20世紀前半の日中関係には、国際市場のブロック化、共産主義の策謀、シナの排日運動・協定違反・日本人虐殺等、複雑な要素が重なり合っていた。氏は「盧溝橋事件以降の中国侵略」と安易に筆を走らせているのではないか。盧溝橋事件は日本側の攻撃によるものではない。また、事件後、第2次上海事件によって本格的な戦争になってしまうまで、わが国は戦争回避のため慎重な対応に努力した。
 ところが、日本を大陸に引き釣り込み、戦争を勃発・拡大させて、共産革命を実現しようとするコミンテルンや中国共産党の工作が行われていた。わが国は、まんまと大陸の泥沼に誘い込まれたという面があったのである。
 次に、捕虜の扱いについて、氏がどういう事例を思い浮かべているのか分からないが、国家総力戦段階に突入した世界における戦争の悲惨さを抜きにして、日本人の精神面の変化だけでは論じられないものがあると思う。
 こうした藤原氏の現代史に関する認識は、よく注意して読む必要があるだろう。
 日露戦争について水師営の会見、大正時代についてポーランド人孤児の救援などを挙げるのであれば、大東亜戦争についてもインドやインドネシアの独立への支援などを挙げるのでなければ、昭和戦前期の日本人に対して否定的すぎるだろう。

 いずれにしても藤原氏は、武士道は「昭和のはじめごろから少しづつ衰退し始め、戦後はさらに衰退が加速された」(『けじめ』)というとらえ方をしている。武士道精神が悪いから「侵略」「虐待」をしたのではなく、反対に武士道精神が衰退・喪失し始めたから、そういう行動が出てきたのだという理解である。
 私はおおむねこれに同意する。日本精神が悪いから戦争を起こしたのではなく、日本の指導層が日本精神から外れたために、三国同盟を結び、米英戦争に突入し、大敗を喫したのである。

参考資料
・以下の拙稿をご参照ください。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/j-mind06.htm
05「大東亜戦争は戦う必要がなかった」
14「ナチス迎合を神道家が批判~葦津珍彦」
15「天皇を補佐する者の役割と責任とは」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion07b.htm
「日本を操る赤い糸」(主に第2章の張作霖爆殺事件、第3章の日中戦争)
コメント   トラックバック (1)

『国家の品格』と武士道精神2

2006-05-28 23:05:38 | 日本精神
 藤原正彦氏が武士道精神を持つようになったのは、氏の受けた家庭教育による。
 「私にとって幸運だったのは、ことあるごとにこの「武士道精神」をたたき込んでくれた父がいたことでした」と氏は『国家の品格』(新潮新書、以下『品格』)に書いている。
 父とは、小説家の新田次郎氏である。
 「私の父・新田次郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった」「幼少の父は祖父の命で裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を上諏訪の町まで油を買いに行かされたりした」という。(『この国のけじめ』文芸春秋、以下『けじめ』) 
 こうした教育を受けた父親が、藤原氏に武士道の精神を教え込んだのである。

 「父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、『弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ』『暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ』と繰り返し言った。問答無用に私に押し付けた。義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう」(『けじめ』)
 氏は、特に卑怯を憎むことを、心に深く刻まれたようだ。
 「父は『弱い者がいじめられているのを見てみぬふりをするのは卑怯だ』と言うのです。私にとって『卑怯だ』と言われることは『お前は生きている価値がない』というのと同じです。だから、弱い者いじめを見たら、当然身を躍らせて助けに行きました」と書いている。(『品格』)

 こうして家庭において父親から武士道の精神を植え付けられた藤原氏は、その後、今日にいたるまで、武士道精神を自分の心の背骨としている。その氏の武士道に対する理解は、その多くを新渡戸稲造の名著『武士道』に負っている。
 「武士道には、慈愛、誠実、正義や勇気、名誉や卑怯を憎む心などが盛り込まれているが、中核をなすのは『惻隠の情』だ。つまり、弱者、敗者、虐げられた者への思いやりであり、共感と涙である」(『国家の品格とは何か?』朝日新聞平成18年4月5日号、以下『何か?』)
 「惻隠こそ武士道精神の中軸」であり、これを「他人の不幸への敏感さ」とも言っている。(『品格』)
  
 「惻隠の情」は、シナの儒教の賢者・孟子による。他人のことをいたましく思って同情する心である。孟子は「惻隠の心は仁の端なり」と言う。孟子は、性善説に立ち、人間の心のなかには、もともと人に同情するような気持ちが自然に備わっていると考えた。そして、その自然に従うことによって、やがては人の最高の徳である「仁」に近づくことができると考えた。「仁」とは、慈しみであり、思いやりである。
 藤原氏は、このように、武士道は「惻隠の情」がその中核をなす、ととらえている。しかも、その同情や共感は、身を挺してでも他者を助ける行動に表すべきものと理解されよう。単なる惻隠にとどまれば、卑怯というそしりを受けるだろうからである。

 さて、藤原氏は、論理だけでは世の中はうまくいかない、論理よりもむしろ「情緒」を育むことが必要だという。また、それとともに、人間には、一定の「精神の形」が必要だという。
 氏は、次のように書く。「論理というのは、数学でいうと大きさと方向だけ決まるベクトルのようなものですから、座標軸がないと、どこにいるのか分からなくなります。人間にとっての座標軸とは、行動基準、判断基準となる精神の形、すなわち道徳です。私は、こうした情緒を含む精神の形として『武士道精神』を復活すべき、と20年以上前から考えています」と。(『品格』)
 国際的な数学者である藤原氏が、このように言うところに、驚きと同時に強い説得力を覚え、多くの読者が啓発されているに違いない。

 藤原氏は、武士道精神は、わが国に「国家の品格」を与えてきた重要な要素であり、主に武士道精神が失われてきた結果、わが国は「国家の品格」を失ってきたと考えている。だから、日本人は、武士道精神を復活すべきと説くのである。
 それだけではない。この「惻隠の情」を中核とする武士道精神について、「このような日本人の深い知恵を世界に向けて発信することこそ、荒廃した世界が最も望んでいるのではないか」(『何か?』)と言う。「私は『武士道精神こそ世界を救う』と考えています」(『品格』)とさえ言う。

 このように、藤原氏は、現代の日本そして世界にとって、武士道精神がきわめて重要な意味を持つものと説いている。

 次回は、藤原氏が武士道の歴史と変遷を、どのようにとらえているかを見てみたい。
コメント   トラックバック (2)

『国家の品格』と武士道精神1

2006-05-25 23:47:20 | 日本精神
 藤原正彦氏の『国家の品格』(新潮新書)は、220万部を超えているという。『この国のけじめ』(文芸春秋)もよく読まれているらしい。藤原氏は、これらの本で、いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことだと説いている。私は、なかでも藤原氏が武士道に関して述べている意見に強い共感を覚える。その点に焦点を合わせて、本書についてまとめてみたい。

 まず藤原氏が書名にした「国家の品格」とは何か。「品格」とは、「しながら」であり、「品位、気品」をいう。「品位」とは、「人に自然にそなわっている人格的価値」、「気品」とは「どことなく感じられる上品さ。けだかい品位」をいう。(「広辞苑」)
 これらはいずれも人間についていう言葉であって、国家には普通は使わない。それゆえ、「国家の品格」とは、その国の人間つまり国民の品格をいうものである。国民の品格とは、国民一人一人の品格である。国民一人一人に品格があってこそ、国民全体に品格が備わり、それがその国家に品格をもたらす。

 藤原氏の著書『国家の品格』を読んだ多くの人は、これはわが国の品格を説いた本だと理解しただろう。しかし、本書で、国家といい、日本というのは、日本人のことなのであり、その一員としての一人一人の品格が問われているのである。
 このように品格を問われているのは、国家としての日本であり、その一員としての自分自身であると押さえた上で、本稿の主題である藤原氏の武士道論に移りたいと思う。

 『国家の品格』の「はじめに」において、藤原氏は、「論理」に対比して「情緒と形」を置く。「情緒」とは、単なる喜怒哀楽ではない。「懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの」だという。また「形」とは、「主に、武士道精神からくる行動基準」だという。そして、藤原氏は、これらをともに「日本人を特徴づけるもので、国柄とも言うべきもの」だとする。
 藤原氏は、主な用語の定義がゆるやかで、その用語の使い方が、個性的である。「懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの」をいうのであれば、多くの人は「情緒」ではなく、情操とか感性というだろう。「主に、武士道精神からくる行動基準」なら、「形」ではなく、規範とか道徳というだろう。これらは、最も「形」に表しにくいものである。
 また、「国柄」であれば、「情緒と形」ではなく、国家の体質とか国体というだろう。「お国柄」なら国民性や民族文化をいうが、国家の統治機構や、政治社会の基本構造を抜きに「国柄」を説くことはできない。
 こうした独特の用語の定義や使い方が、藤原氏の特徴でもあり、また弱点でもある。それはそれとして、氏のいわんとするところに耳を傾けてみよう。

 藤原氏は、さきほどと同じ「はじめに」において、氏の言うところの「情緒と形」は「昭和の初めごろから少しづつ失われてきました」という歴史認識を示す。
 それらは「終戦で手酷く傷つけられ、バブルの崩壊後は、崖から突き落とされるように捨てられてしまいました」という。「戦後、祖国への誇りや自信を失うように教育され、すっかり足腰の弱っていた日本人は、世界に誇るべき我が国古来の『情緒と形』をあっさり忘れ、市場経済に代表される、欧米の『論理と合理』に身を売ってしまったのです」とも書いている。
 その理由を「なかなか克服できない不況に狼狽した日本人は、正気を失い、改革イコール改善と勘違いしたまま、それまでの美風をかなぐり捨て、闇雲に改革へ走ったためです」とする。
 そして、氏は「日本はこうして国柄を失いました。『国家の品格』をなくしてしまったのです」と述べる。

 ここで氏は「国家の品格」という用語を、「国柄」という用語と、ほぼ重なり合う意味で使っている。その内包は、「情緒と形」である。すなわち「懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの」や「主に、武士道精神からくる行動基準」が、昭和の初めから少しづつ失われていた。終戦後、日本人は、それらをあっさり忘れ、バブルの崩壊後、不況克服のための改革に走ったことによって、さらに失ってきているというわけだろう。

 次回も武士道に関することを中心に、藤原氏の主張の追跡を続けたい。 
コメント

親子で学べる「子どもの作法」

2006-05-23 09:48:52 | 教育
 「のりお先生」という小学校の先生から、『小学生までに身に付ける子どもの作法』(PHP)という本をご紹介いただいた。著者は、野口芳宏氏。国語教育で有名な教育者である。

 親が子どもにきちんと「しつけ」をすること。この当たり前のことが、切実に求められている。それが今日の日本だ。心を育てる教育、道徳・感性・愛国心を育てる以前に、「しつけ」が問題なのである。「しつけ」のできない親。いや、どうしたら「しつけ」をできるのか、わからなくて悩んで、困り果てている親が多いのだ。そこに差し延べられたやさしい手が本書『小学生までに身に付ける子どもの作法』である。

 野口氏は、「あとがき」に、「家庭教育は国語教育と並んで私のライフワークです」と書いている。小学校の先生だった野口氏は、「楽しく素敵なイラストが入った家庭教育の本」を書いてみたいと考えていたそうである。そしてその願いどおり、この本は、子どもと一緒に読めるような、わかりやすく、楽しい本になっている。きっと幼児や小学生の子どもを持ったお父さん、お母さんに、そして幼稚園や小学校の先生に、この本は役立つ。そう思う。

 出版社・著者からの内容紹介を引いておこう。
 「『作法は、人を幸せに導くお守り』です。世の中で生活していく上で必要とされる、さまざまな手本となる正しい決まり[作法]を身につけると、誰からも愛され親しまれます。さらに、品位も生まれ人間としての円熟味が加わり、何よりも本人が楽しく幸せな日々をおくることができます。
 この作法の基本は、実は子どもの頃の家庭教育によって形作られていくもので、幼児期、小学生時期のいわゆるシングルエイジの基準感覚形成時期に身につけることが大切。作法を身につけるのに、大人になってからでは遅すぎる!のです。
 『ありがとう』『すみません』と必要に応じて言わずにはいられない、という『基準感覚』はセンスです。幼い時のしつけがこのセンスを育てます。時期を逸すると感覚の形成やその修正は困難になります。
 この本は、大切な幼児期、小学生の時期のうちにぜひとも身につけたい『基準感覚』を育むためのハンドブック、ガイドブックです。」

 国語教育の大先生が、ここで「シングルエイジ」などというカタカナ語を使うとは思わなかったが、「シングルエイジ」とは、0歳から9歳まで、一桁の年齢のことだ。
 昔から、「しつけ」は「つ」のつくうちにせよ、といわれる。「一つ、二つ」と年を数えるが、最後の「九つ」までに、しっかり「しつけ」をしないとだめだよ。後になってからでは、身につかないよ、ということである。
 野口氏のいう「基準感覚」とは、「人間として必要な基本ルール」に関する感覚のことらしい。人間関係の秩序や礼儀に関する感覚は、幼い時に身につけさせないといけない。それができないと、やっていいことと悪いことの区別がつかず、絶対やってはいけないことに対しても鈍感な人間になる。

 「はじめに」という文章が、この本には、二つある。一つは「お父さん・お母さんへ」。もう一つは「この本を読む子どもたちへ」。大人にも子どもにも、素晴らしい呼びかけが書いてある。
 そして私が感心したのが、イラストのページ。親が子どもと一緒に読める。子どもだけでも、絵本のように読めるだろう。楽しい絵が並んでいる。「挨拶の作法」「話す時と聞く時の作法」「食事の作法」「街を歩く時の作法」が、順にわかりやすく、一つ一つ品格高く書いてある。
 イラストの前には、日常的な作法や挨拶の持つ意味についての解説がある。簡潔でいて内容が深い。「しつけ」は、理屈なしに教え込むものだが、子どもはある程度の年齢になると、どうしてそうするのか考え、反抗したりする。そういう時、親が、どうしてこういう挨拶や言葉遣いをするか、その理由を言い聞かせられるように、この本は手立てを与えている。

 本書は、すぐ役立つ実践的な「親学」の手引書となっている。正直言って、私は反省した。親として恥ずかしいことに、いくつも気がついたからだ。もっと早く出会いたかった。子どもはもう高校生だ。10年前にこんな本があれば、もっとよい子育てができたかも、と考え込んでしまった。
 そんな先輩の反省を込めて、子育てしている人、子どもたちにかかわっている人たちに、本書を手にしていただきたいと思う。

参考資料
・拙稿「道徳教育は『しつけ』から」(4月2日と3日の日記)
コメント (2)

「真の日本精神~」本日発売

2006-05-22 13:07:38 | 日本精神
 私が生涯の師とし、また神とも仰ぐ大塚寛一先生の著書「真の日本精神が世界を救う ~百ガン撲滅の理論と実証」が本日発売された。出版社は、イースト・プレス。定価は1600円である。

 以下は、15日に書いた案内と同じである。

 大塚寛一先生は、戦前、「大日本精神」と題した不戦の建白書を、わが国の指導層に送付し、三国同盟や米英開戦に反対した。言論統制厳しい最中にもかかわらず、逮捕も投獄もされなかった。このまま進めば、日本は開国以来ない大敗を招くと警告し、新型爆弾が投下され大都市は焦土と化すと予言した。しかし、時の指導層はこの警告を受け入れず、わが国は敗戦を喫した。
 戦後、昭和40年代、世界に共産革命の嵐が吹き荒れる時代に、大塚先生は、早くも共産主義の崩壊を予言した。そして、革命と亡国の危機をのりこえるべく、「日本人は日本精神に返れ」と訴えた。昭和43年7月から、全国の人口30万人以上の都市で、連続講演会を実施し、国民を啓発した。さらに昭和44年3月、著書「百ガン撲滅の理論と実証」を刊行した。その本が、今回、改題して復刊された。

 大塚先生は、本書の「はじめに」に次のように書いている。
 「私はこれまで、理想社会実現のための第一歩として、個人の病気や悩みを救い、数々の奇蹟の実証を示すことによって〝神の実在〟を知らしめてきた。ところが最近、いよいよ世界は重要な転機に直面している。そのため人類の幸福を阻(はば)み発展を妨(さまた)げる世の一切の障害を除かねばならぬことを痛感し、それらの百ガンを撲滅すべく立ち上がることを決意した。」と。
 そして、「真の日本精神」は、日本を再建し、21世紀の世界を救う、唯一の指導原理である、と大塚先生は説いている。

 今回の復刊にあたり、アサヒビール名誉顧問・中條高徳氏が、推薦の言葉を寄せている。 
 「大塚師が戦前預言されたように、日本人は稼いだ富を代償に「日本精神」をどんどん喪ってしまいました。(中略) 言葉乱れ、礼儀すたれ、道義全く地に墜ちたのです。大塚師はこのような事態の到来を夙(つと)に予測され「日本精神復興促進運動」を叫ばれておられました。
 日本のこの憂うべき現状を救うものは、教育を措(お)いて他にないと信じている筆者にとって、この度の大塚師の著作の三十数年振りの改訂版の出版ほど力強いものはありません。憂国の士、特に若い人達の必読の書と言うべきでしょう」

 「憂国の士、特に若い人達の必読の書」、まさにそのような本が、本書「真の日本精神が世界を救う」である。日本を愛し、日本を憂える人々に、一読をお勧めしたい。
 詳しくは、以下をご覧下さい。
http://www.srk.info/syuppan.html
コメント

社民党と極左翼・フェミニズム

2006-05-20 18:55:35 | Weblog
 社民党の衆議院議員・辻元清美氏について、日本赤軍とつながりがある、と11日に書いた。日本赤軍は社民党に工作を行なっていたことが知られている。両者のパイプには、辻元=北川ラインがあると私は推測している。さらに、そのパイプが、近年の社民党のフェミニズム化、親北朝鮮化に影響を与えているのではないかとも思量している。

 平成12年11月、日本赤軍最高幹部の重信房子が、大阪府内で逮捕された。当時の産経新聞の報道によると、押収された重信の所持品を警視庁公安部と大阪府警の合同捜査本部が分析したところ、「社民党との共同と工作」と題された文面が見つかった。それによって、日本赤軍が、社民党に対し、「社民の積極的役割である理念と国政の役割に対して、よりその力が発揮できるよう工作していく」などと位置づけていたことが明らかになった。

 米ソの冷戦崩壊後、社民党は長期低迷し、崩壊の危機に瀕した。平成8年に社民党の党首に復帰した土井たか子氏は、低迷脱却を目指した。土井氏は「市民とのきずな」をキーワードに市民参加を方針とし、同9年4月、政策提言のための市民グループ「市民政治フォーラム」を立ち上げた。
 「市民政治フォーラム」は、会員の人脈を通じて市民団体と交流していた。その中に「希望の21世紀」という団体があった。この団体は、平成7年6月、日本赤軍による人民革命党の大衆部門として組織されたものだった。日本赤軍は、市民団体を通じて社民党に浸透し、やがては国政にも影響力を持って新たな「革命」を目指そうとしていたのである。そのことが重信の所持品から判明したのだ。

 当時、産経新聞は、次のように伝えた。捜査関係者は「『希望』の市民政治フォーラムへの接触は、背後の日本赤軍・人民革命党が徐々に社民党に影響力を強めようとする浸透工作だった」と指摘した。社民党が復活をかけた市民参加政治は、自ら「日本赤軍に付け入るスキ」を与えることになった。「工作が社民党を通じてまさに国政の周辺に及んでいたことを示す」として、捜査本部は工作の全容解明を目指すと発表した、と。

 土井社民党の市民参加政治が「日本赤軍に付き入るスキ」を与えたというが、私の聞き知るところでは、根はもっと深い。消息通から、社民党には、以前から新左翼やその出身者がうようよいたと聞いているからである。

 自社さ連立政権の村山富市内閣の時、総理官邸で秘書をしていた者の一人は、共産主義者同盟(ブント)の戦旗派だったという。平成4年のPKO法反対闘争の時に、唯一国会前で逮捕された活動家だった。もう一人の秘書は、社青同解放派だった。また建設大臣の秘書は、共労党・プロ青だったという。
 社民党は、日本社会党が名称を変えたものである。私が聞いているのは、平成10年ころの話だが、当時の社民党本部書記局は、最大党派が社青同・向坂(さきさか)派、つぎに社青同・太田派だった。これらは社会主義協会派・労農派系で、もとは日本社会党のグループである。
 ここに新左翼系の人間が相当数入り込んでいた。新左翼系で書記局に入っていたのは、社青同解放派、共産同系諸派、日本労働党などだという。日本労働党などは、連合赤軍の片割れであった京浜安保共闘と同系統の党派である。新左翼系の人間にとっては、集会やデモをはじめとした左翼活動を行いながら、一定の給料をもらえるのだから、社民党の事務局は、良い職場だったのだろう。
 再度言うが、この話は平成10年ごろの話である。つまり、土井たか子氏が社民党の党首として、平成9年4月に「市民政治フォーラム」を立ち上げ、市民参加路線を進めていたころの話である。そのころ社民党の本部書記局には、新左翼系の人間が多数いたわけである。

 だから私は、社民党にこうした土壌があったから、日本赤軍が「市民政治フォーラム」に接触し、社民党に影響力を強める浸透工作をすることが可能だったのだろうと思う。社民党が単に日本赤軍に「付き入るスキ」を与えたのではなく、党の中枢部に日本赤軍と親和・連携する人脈があったのだろうと私は見ている。

 そして、そこにさらにからんでくるのが、フェミニズムと北朝鮮との関係である。社民党は、党首が土井氏から福島瑞穂氏に継承されたが、あかたも「日本女権党」とでもいうべきフェミニズムぶりである。また、土井=福島体制において社民党は、親北路線を露骨にしてきた。土井氏、福島氏、辻元氏には、コリア系帰化人という根強いうわさがある。彼女たちが、憲法第9条の死守を声高に唱えるのは、わが国の国防の現状が北朝鮮にとっては有利であるから、とも考えられる。
 そして、近年の社民党の変化やその政策には、辻元清美氏を通じた日本赤軍、さらにその背後にある北朝鮮の影響があるのではないか、と私は推測している。
 全体像が明らかになるには、まだ時間がかかるだろう。今は推測として述べるにすぎない。
コメント (2)   トラックバック (2)

世界を救う日本精神~藤原正彦

2006-05-19 12:42:00 | 日本精神
 藤原正彦氏の著書『国家の品格』(新潮新書)が売れ続けている。200万部を超えたのは、新書で過去最速だという。
 本書のいわんとするところを、書籍案内がよく表わしている。「日本は世界で唯一の『情緒と形の文明』である。国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、この誇るべき『国柄』を長らく忘れてきた。『論理』と『合理性』頼みの『改革』では、社会の荒廃を食い止めることはできない。いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、『国家の品格』を取り戻すことだ。」と。

 こうした主張が明快でわかりやすく説かれている。指摘が的確でしかも深い。随所に独創的な視点が見られ、ユーモアにも富んでいる。なかでも私は、武士道精神の復活を訴えていることに強い共感を覚える。その点に照準を合わせて内容を要約するならば、次のようなまとめができよう。
 西洋近代文明の特徴は、論理と合理である。しかし、それだけでは、物事はうまくいかない。数学は、不完全性定理によって、論理の限界を明らかにしている。実は論理の出発点は情緒や形なのである。情緒や形の核となる美意識や道徳観は、わが国では武士道に集約される。戦後、国家の品格を失ってきた日本が、国家の品格を取り戻すには、卑怯を憎む等を教える武士道精神を教育することが重要である。

 私は武士道を日本精神の精華だと考えているが、『国家の品格』は武士道と日本精神の関係について直接触れてはいなかった。藤原氏の近著『この国のけじめ』(文藝春秋)は、この点に言及している。「世界に誇りうる日本人の規範意識」と題した文章においてである。(産経新聞平成15年7月30日号に初出)

 それによると、藤原氏の父親は、幕末の下級武士の家に生まれた祖父から「泥棒の中でも火事場泥棒ほど恥ずかしいもものはない」と繰り返し教えられたそうである。火事場泥棒とは、火災の混乱に乗じ、困り果て途方に暮れている人間につけこみ、物品を奪うという行為である。日本人は、こういう行為を卑劣なものと考える。

 昭和20年8月9日、ソ連は、日本が対米戦争で気息奄々(えんえん)となった機をとらえ、満洲等に攻め入った。虐殺・略奪を重ねたうえ、2百万人ともいわれる日本人をシベリアに強制連行し、抑留酷使した。イラク戦争では、バグダットが陥落したころ、爆撃で壊された店舗や、もぬけのからになったビルから、人々がさして悪びれもせず物品を運び出す。そういう略奪をテレビで見せつけられた。
 これに比べ、わが国では、阪神大震災のとき、そのようなおぞましい行為が見られなかった。「火事場泥棒を、とりわけ卑劣なものと考える我が国の美風が、まだ残っているということである」と藤原氏は書く。そして、次のように続ける。

 「泥棒も火事場泥棒も法律的には等しく窃盗である。論理的には同等でも後者のほうが罪深いと日本人は考える。『他人を騙して金をとる』と同じ詐欺であっても、『年寄りや弱者を騙して金をとる』は格段に罪深い。卑劣とか卑怯がなぜいけないかは、論理的にはほとんど説明できないが、日本人はそう考える。
 このような日本人の規範感覚は、武士道精神に根差している。この精神は、鎌倉時代に『弓矢とる身の習い』、すなわち戦(いくさ)における掟として成立したが、平和の長く続いた江戸時代には精神にまで洗練され、小説、芝居、講談などを通して町人にまで広まったから、日本精神と呼んでよい。誠実、慈愛、惻隠、忍耐、名誉、孝行、公の精神などを重んじ、卑怯を憎む精神である」

 藤原氏は、このように武士道が精神にまで洗練され、国民全体に広まったものを、日本精神と呼ぶ。そして、次のように説く。

 「世界はいま、混迷の中にある。この世界を救う手立てとして、日本精神がきわめて有望と思う。人類を不幸にするに違いない、行き過ぎた市場経済に対しては、大きな者が小さな者をやっつけるのは卑怯、という感覚が歯止めとなる。社会を不安定にするリストラには慈愛や惻隠が役立つ。はびこる個人主義や利己主義には公の精神を、横行するいじめには卑怯を、子供の万引には『親を泣かせる』とか『お天道様が見ている』を、教えるのがよい。不正や不道徳な行為に対しては名誉や自制が抑止力となる。環境問題には自然への畏怖が役立とう。
 天正の遣欧少年使節も明治の留学生たちも、この日本精神ゆえの品格で世界の人々を印象づけた。日本精神を規範とした江戸の社会は当時、世界でもっとも優れていた、と最近になって英国の学者たちが注目している。現代日本人が、この精神をしっかり取り戻し立派な社会を作れば、いまなお論理合理を金科玉条としている世界の多くの人々も、必ずや覚醒するだろう」

 日本精神は「世界を救う手立て」として「きわめて有望」と言う藤原氏は、日本精神に内在する可能性を言い当てている。
 日本精神とは何か。さらにその神髄に触れたいと思うならば、大塚寛一先生の近刊が、最良の導きとなるだろう。本書『真の日本精神が世界を救う』(イースト・プレス)は、真の日本精神こそ、日本を再建し、世界を救う指導原理であることを、理論的かつ実証的に明らかにしている本だからである。
 詳しくは、15日の日記をご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/d/20060515
コメント (4)   トラックバック (6)

教育基本法、真剣な審議を

2006-05-17 20:33:01 | 教育
 教育基本法改正案は、昨16日衆議院本会議で審議入りした。小泉首相が出席して趣旨説明と質疑が行われた。少し長いが、産経新聞は次のように伝えている。

――――――――――――――――――――――――――――――
■教育基本法 衆院審議入り 「愛国心」で与党分断
 揺さぶる民主 自民「羊頭狗肉」

 終盤国会の最大の焦点である教育基本法改正案は十六日の衆院本会議で、小泉純一郎首相が出席して趣旨説明と質疑が行われ、審議入りした。政府提出の改正案は、現行法にない「愛国心」の表現などで公明党に譲歩したため、自民党内の一部に不満が残っている。この日は早速、民主党の鳩山由紀夫幹事長が与党間にくさびを打ち込む作戦を展開した。
 「多くの自民党の皆さんも、私と同じ気持ちをお持ちなのではないか」
 鳩山氏は改正案が「愛国心」の表現について「我が国と郷土を愛する態度」としている点に疑問を表明。さらに、「他国を尊重」とある部分に関し、「拉致という行為を犯した北朝鮮も尊重しなければならないのか」とたたみかけた。
 これに対し、首相は「態度は、心と一体として養われるものと考えている」と強調。さらに「他国を尊重とは、特定の国を指すものではない」と答弁した。ただ、それではなぜ「心」ではなく「態度」としたのかや、「他国」に北朝鮮は含まれるかは、明確にしなかった。
 鳩山氏が指摘した点は、与党の教育基本法改正検討会が非公開の“密室協議”で案を決め、自民党の文部科学部会などで反対が相次いだ部分。「内心では、鳩山さんの言う通りだとうなずいた自民党議員は多いはず」(文教関係議員)との観測もある。
 自民党の関係部会では、「尊重」との表現について「せめて『理解』ではどうか」との意見も出たが、修正は認められなかった。ところが、民主党の対案には、自民党の保守派や同党を支持する宗教団体などの意見を意識して「他国や他文化を理解」との文言が盛り込まれたからだ。
 こうした民主党の攻勢に、自民党幹部は「愛国心を前文に書くだけの民主党案は羊頭狗肉(ようとうくにく)だ」と民主党案に反発する。
 自民党の細田博之国対委員長が、役員連絡会で「日教組に甘い民主党案がよいという議員もいるようなので注意してほしい」と発言する一幕もあった。十六日開かれた自民党の国会対策会議でも「民主党案を分析してきちんと対応を考えなければならない」(関係者)との結論に達したという。
 ただ、自民党執行部は、教育基本法改正案の閣議決定までに比較的スムーズに党内手続きを終えているため、昨年の通常国会で郵政民営化法案の採決の際に「造反議員」が続出したような混乱は想定していない。
 むしろ、党執行部は、今国会での改正案成立のためには会期延長が不可欠であるにもかかわらず、小泉首相が会期延長を否定する発言を繰り返していることの方を懸念しており、官邸と与党との間での水面下の駆け引きが活発化しそうだ。
(産経新聞) - 5月17日4時8分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060517-00000003-san-pol
――――――――――――――――――――――――――――――

 鳩山氏の与党改正案への疑問や指摘は、民主党の改正案を踏まえたものだろう。
 民主党の改正案の要旨は以下の通り。

――――――――――――――――――――――――――――――
●民主党案(要旨)

<前文>
 心身ともに健やかな人間の育成は、教育の原点である家庭と、学校、地域、社会の広義の教育の力によって達成される。 われわれが直面する課題は、自由と責任についての正しい認識と、人と人、国と国、宗教と宗教、人類と自然との間に、共に生き、互いに生かされるという共生の精神を醸成することである。
 われわれが目指す教育は、人間の尊厳と平和を重んじ、生命の尊さを知り、真理と正義を愛し、美しいものを美しいと感ずる心をはぐくみ、創造性に富んだ、人格の向上発展を目指す人間の育成だ。さらに、自立し、自律の精神を持ち、個人や社会に起こる不条理な出来事に対して、連帯で取り組む豊かな人間性と、公共の精神を大切にする人間の育成だ。
 同時に、日本を愛する心を涵養(かんよう)し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、学術の振興に努め、他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求することだ。
 国政の中心に教育をすえ、日本国憲法の精神と新たな理念に基づく教育に日本の明日を託す決意をもって、日本国教育基本法を制定する。

<学習権>
 何人も生涯にわたって、健康で文化的な生活を営むための学びを十分に奨励・支援・保障され、内容を選択・決定する権利を有する。

<学校教育>
 国と地方公共団体はすべての国民と日本に居住する外国人に対し、適切かつ最善な学校教育の機会確保に努めなければならない。

<宗教教育>
 宗教的な伝統や文化に関する基本的知識の修得と宗教の意義の理解、宗教的感性の涵養と宗教に関する寛容の態度を養うことは、教育上尊重されなければならない。
 国、地方公共団体と学校は、特定の宗教教義に基づく宗教教育、宗教的活動をしてはならない。

<教育行政>
 地方公共団体が設置する学校は、保護者、地域住民、教育専門家、学校関係者などが参画する学校理事会を設置し、主体的・自律的運営を行う。

<教育財政>
 政府は、国内総生産に対する公教育財政支出の比率を指標として、公教育費の確保・充実の目標を教育振興計画に盛り込む。国と地方公共団体は、計画の実施に必要な十分な予算を安定的に確保しなければならない。

(産経新聞 5月12日号より)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 民主党案は、愛国心に関しては、「日本を愛する心を涵養」という文言を前文に入れている。宗教的情操の涵養に関しては、「宗教的感性の涵養」という文言を入れる。また、教育行政に関しては、「教育は、不当な支配に服することなく、」については、その文言を用いず、独自の条文案を提示している。その限りにおいて、与党案の持つ欠陥を正す内容となっている。また教改委案に通じる点がある。

 しかし、もっと根本的な問題点に眼を向けなければならない。それは、民主党は、支持団体の一つに日教組を持っており、日教組を基盤としている議員もいることである。ゆえに、民主党の教育政策は日教組を容認するものであり、また日教組は民主党の教育政策を支持するという関係にある。
 今回の改正案について、一体、民主党では、日教組との間で、どれだけ議論がされたのか、疑問である。また、鳩山氏による与党案批判も、氏自身がどこまで本当に国を思い、教育の再建を志して発言しているものか、これも疑問である。

 自民党においては、与党案に修正を求める教改委の動きがある。民主党は、この自民党非主流派に擦り寄り、与党を切り崩し、政界再編のテコにしようと謀っているのかもしれない。政党間または政治家の駆け引きに、教育問題を利用するようなことであっては、ならないと思う。

 自民党に関して言えば、郵政民営化法案の時、小泉政権は、党議拘束をかけ、反対派は選挙で公認しない等の強権的な手法を取った。多くの自民党員は、恫喝と懐柔に対し、自己の信念を曲げて、党執行部に追従した。郵政民営化法案は、わが国をアメリカに身売りするような、まさに売国的な内容のまま成立した。これも重大なことだったが、今度は国家百年の計にかかわる教育をめぐることである。事は、さらに重大である。
 国会議員の諸氏には、党利党略、私利私略を捨て、日本の現状と将来を真剣に考えて、過去・現在・未来にわたる国民の代表として責任と自覚を持って審議をしていただきたいと思う。
コメント   トラックバック (1)