●経済中心の日本、核中心の中国
鳩山にしろ岸にしろ、敗戦後10数年の間は、独立主権国家たるべき国防思想を、日本の政治家は持っていた。また、憲法を改正して、主権を完全に回復するために努力していた。
しかし、昭和35年(1960)、池田隼人が首相になると、憲法改正は棚上げされた。池田は、経済官僚出身らしく、所得倍増政策を打ち出した。これが高度経済成長の皮切りとなった。
わが国は、日本国憲法と日米安保の組み合わせによって、防衛負担なく高度経済成長ができる立場にあった。資源のないわが国は、戦前、英米の排他的なブロック経済で窮地に立ち、大陸に進出して、中国・米英等と戦う羽目になった。戦後は、ブレトン=ウッズ体制に転換され、日本にとっては、武力を用いずに石油と市場を得られる環境となった。アメリカに対する保護国的な地位で主権を制限されたまま、日本は経済大国へと成り上がっていく。
中国は、国民生活を省みずに核開発を続けた。最初の核実験が行われたのは、昭和39年(1964)10月である。ソ連に続いて、中国が核を持つに至ったことは、わが国の国防を根本的に見直すべき出来事だった。しかし、中国の核が、どれほど潜在的な成長力を持っているか、ほとんど意識されなかった。
中国が核実験に成功した39年10月。わが国では、東京オリンピックが行われていた。オリンピックは、敗戦国・日本が国際社会に復興の姿を示す一大ページェントだった。国際競技に備えて新幹線や首都高速道路が建設された。高度経済成長を成し遂げるインフラが整備されていったわけである。経済中心の日本と核中心の中国は、著しい対象を示していた。
ここで重要な政策が開始された。オリンピックの翌年の昭和40年(1965)、わが国は赤字国債の発行を決めた。財政の原則は収支のバランスである。わが国はこの原則を曲げて、借金の上に借金を重ねながら成長を続けるという禁じ手を使った。
赤字国債はやがて返済の先送りをされ、さらに昭和60年には「60年償還ルール」が採用された。償還に60年とは、将来の世代に責任を持たない自世代本位の考え方である。これが、今日の巨額財政赤字国家・日本を生み出すことになった。
●佐藤首相による非核三原則の提唱
わが国は、世界で唯一の被爆国である。わが国は、わが国に原爆を落としたアメリカの占領を受け、そのアメリカと安全保障条約を結び、アメリカに国防の大部分を委ねてきた。アメリカにとっては旧敵国の継続占領、日本にとっては安保ただ乗りによる経済成長。これが、コインの両面である。
わが国の防衛政策を特徴付ける非核三原則は、国民が国防の意識すら失い、ひたすら、ものとお金を得るために働き続けているなかで、提唱された。
昭和42年12月11日の衆院予算委員会で、佐藤栄作首相は、次のように述べて、非核三原則を掲げた。
「この際私どもが忘れてはならないことは、わが国の平和憲法であります。また核に対する基本的な原則であります。核は保有しない。核は製造もしない、核は持ちこまないというこの核に対する三原則、その平和憲法のもと、この核に対する三原則のもと、そのもとにおいて日本の安全はどうしたらいいのか、これが私に課せられた責任でございます」と。
この「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則は、翌43年1月の佐藤の施政演説で提唱された。佐藤は、「平和憲法」と非核三原則を、ほとんど同等の原則と位置づけている。「平和憲法」が戦勝国による敗戦国への主権制限であることを考えると、佐藤の非核三原則は、アメリカに対して、日本は独自に核兵器を製造・保有しない、どこまでもアメリカの保護下にとどまる、と誓約したようなものだろう。この政策によって、佐藤は、岸が留保していた核保有の意思を否定した。憲法解釈としても、憲法が認める自衛権を、非核という範囲に限定したものである。
その後、46年11月24日に、衆議院で「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」がされた。「政府は、核兵器を持たず、作らず、持ち込まさずの非核三原則を遵守するとともに、沖縄返還時に適切なる手段をもって、核が沖縄に存在しないこと、ならびに返還後も核を持ち込ませないことを明らかにする措置をとるべきである」としている。以後の衆院決議では、非核三原則は「国是」と表現されてきた。
次回に続く。
鳩山にしろ岸にしろ、敗戦後10数年の間は、独立主権国家たるべき国防思想を、日本の政治家は持っていた。また、憲法を改正して、主権を完全に回復するために努力していた。
しかし、昭和35年(1960)、池田隼人が首相になると、憲法改正は棚上げされた。池田は、経済官僚出身らしく、所得倍増政策を打ち出した。これが高度経済成長の皮切りとなった。
わが国は、日本国憲法と日米安保の組み合わせによって、防衛負担なく高度経済成長ができる立場にあった。資源のないわが国は、戦前、英米の排他的なブロック経済で窮地に立ち、大陸に進出して、中国・米英等と戦う羽目になった。戦後は、ブレトン=ウッズ体制に転換され、日本にとっては、武力を用いずに石油と市場を得られる環境となった。アメリカに対する保護国的な地位で主権を制限されたまま、日本は経済大国へと成り上がっていく。
中国は、国民生活を省みずに核開発を続けた。最初の核実験が行われたのは、昭和39年(1964)10月である。ソ連に続いて、中国が核を持つに至ったことは、わが国の国防を根本的に見直すべき出来事だった。しかし、中国の核が、どれほど潜在的な成長力を持っているか、ほとんど意識されなかった。
中国が核実験に成功した39年10月。わが国では、東京オリンピックが行われていた。オリンピックは、敗戦国・日本が国際社会に復興の姿を示す一大ページェントだった。国際競技に備えて新幹線や首都高速道路が建設された。高度経済成長を成し遂げるインフラが整備されていったわけである。経済中心の日本と核中心の中国は、著しい対象を示していた。
ここで重要な政策が開始された。オリンピックの翌年の昭和40年(1965)、わが国は赤字国債の発行を決めた。財政の原則は収支のバランスである。わが国はこの原則を曲げて、借金の上に借金を重ねながら成長を続けるという禁じ手を使った。
赤字国債はやがて返済の先送りをされ、さらに昭和60年には「60年償還ルール」が採用された。償還に60年とは、将来の世代に責任を持たない自世代本位の考え方である。これが、今日の巨額財政赤字国家・日本を生み出すことになった。
●佐藤首相による非核三原則の提唱
わが国は、世界で唯一の被爆国である。わが国は、わが国に原爆を落としたアメリカの占領を受け、そのアメリカと安全保障条約を結び、アメリカに国防の大部分を委ねてきた。アメリカにとっては旧敵国の継続占領、日本にとっては安保ただ乗りによる経済成長。これが、コインの両面である。
わが国の防衛政策を特徴付ける非核三原則は、国民が国防の意識すら失い、ひたすら、ものとお金を得るために働き続けているなかで、提唱された。
昭和42年12月11日の衆院予算委員会で、佐藤栄作首相は、次のように述べて、非核三原則を掲げた。
「この際私どもが忘れてはならないことは、わが国の平和憲法であります。また核に対する基本的な原則であります。核は保有しない。核は製造もしない、核は持ちこまないというこの核に対する三原則、その平和憲法のもと、この核に対する三原則のもと、そのもとにおいて日本の安全はどうしたらいいのか、これが私に課せられた責任でございます」と。
この「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則は、翌43年1月の佐藤の施政演説で提唱された。佐藤は、「平和憲法」と非核三原則を、ほとんど同等の原則と位置づけている。「平和憲法」が戦勝国による敗戦国への主権制限であることを考えると、佐藤の非核三原則は、アメリカに対して、日本は独自に核兵器を製造・保有しない、どこまでもアメリカの保護下にとどまる、と誓約したようなものだろう。この政策によって、佐藤は、岸が留保していた核保有の意思を否定した。憲法解釈としても、憲法が認める自衛権を、非核という範囲に限定したものである。
その後、46年11月24日に、衆議院で「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」がされた。「政府は、核兵器を持たず、作らず、持ち込まさずの非核三原則を遵守するとともに、沖縄返還時に適切なる手段をもって、核が沖縄に存在しないこと、ならびに返還後も核を持ち込ませないことを明らかにする措置をとるべきである」としている。以後の衆院決議では、非核三原則は「国是」と表現されてきた。
次回に続く。