ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

対米依存で専守非核の日本5

2006-12-31 08:53:04 | 国際関係
●経済中心の日本、核中心の中国

 鳩山にしろ岸にしろ、敗戦後10数年の間は、独立主権国家たるべき国防思想を、日本の政治家は持っていた。また、憲法を改正して、主権を完全に回復するために努力していた。
 しかし、昭和35年(1960)、池田隼人が首相になると、憲法改正は棚上げされた。池田は、経済官僚出身らしく、所得倍増政策を打ち出した。これが高度経済成長の皮切りとなった。

 わが国は、日本国憲法と日米安保の組み合わせによって、防衛負担なく高度経済成長ができる立場にあった。資源のないわが国は、戦前、英米の排他的なブロック経済で窮地に立ち、大陸に進出して、中国・米英等と戦う羽目になった。戦後は、ブレトン=ウッズ体制に転換され、日本にとっては、武力を用いずに石油と市場を得られる環境となった。アメリカに対する保護国的な地位で主権を制限されたまま、日本は経済大国へと成り上がっていく。

 中国は、国民生活を省みずに核開発を続けた。最初の核実験が行われたのは、昭和39年(1964)10月である。ソ連に続いて、中国が核を持つに至ったことは、わが国の国防を根本的に見直すべき出来事だった。しかし、中国の核が、どれほど潜在的な成長力を持っているか、ほとんど意識されなかった。
 中国が核実験に成功した39年10月。わが国では、東京オリンピックが行われていた。オリンピックは、敗戦国・日本が国際社会に復興の姿を示す一大ページェントだった。国際競技に備えて新幹線や首都高速道路が建設された。高度経済成長を成し遂げるインフラが整備されていったわけである。経済中心の日本と核中心の中国は、著しい対象を示していた。

 ここで重要な政策が開始された。オリンピックの翌年の昭和40年(1965)、わが国は赤字国債の発行を決めた。財政の原則は収支のバランスである。わが国はこの原則を曲げて、借金の上に借金を重ねながら成長を続けるという禁じ手を使った。
 赤字国債はやがて返済の先送りをされ、さらに昭和60年には「60年償還ルール」が採用された。償還に60年とは、将来の世代に責任を持たない自世代本位の考え方である。これが、今日の巨額財政赤字国家・日本を生み出すことになった。

●佐藤首相による非核三原則の提唱

 わが国は、世界で唯一の被爆国である。わが国は、わが国に原爆を落としたアメリカの占領を受け、そのアメリカと安全保障条約を結び、アメリカに国防の大部分を委ねてきた。アメリカにとっては旧敵国の継続占領、日本にとっては安保ただ乗りによる経済成長。これが、コインの両面である。
 わが国の防衛政策を特徴付ける非核三原則は、国民が国防の意識すら失い、ひたすら、ものとお金を得るために働き続けているなかで、提唱された。

 昭和42年12月11日の衆院予算委員会で、佐藤栄作首相は、次のように述べて、非核三原則を掲げた。
 「この際私どもが忘れてはならないことは、わが国の平和憲法であります。また核に対する基本的な原則であります。核は保有しない。核は製造もしない、核は持ちこまないというこの核に対する三原則、その平和憲法のもと、この核に対する三原則のもと、そのもとにおいて日本の安全はどうしたらいいのか、これが私に課せられた責任でございます」と。

 この「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則は、翌43年1月の佐藤の施政演説で提唱された。佐藤は、「平和憲法」と非核三原則を、ほとんど同等の原則と位置づけている。「平和憲法」が戦勝国による敗戦国への主権制限であることを考えると、佐藤の非核三原則は、アメリカに対して、日本は独自に核兵器を製造・保有しない、どこまでもアメリカの保護下にとどまる、と誓約したようなものだろう。この政策によって、佐藤は、岸が留保していた核保有の意思を否定した。憲法解釈としても、憲法が認める自衛権を、非核という範囲に限定したものである。

 その後、46年11月24日に、衆議院で「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」がされた。「政府は、核兵器を持たず、作らず、持ち込まさずの非核三原則を遵守するとともに、沖縄返還時に適切なる手段をもって、核が沖縄に存在しないこと、ならびに返還後も核を持ち込ませないことを明らかにする措置をとるべきである」としている。以後の衆院決議では、非核三原則は「国是」と表現されてきた。

 次回に続く。

対米依存で専守非核の日本4

2006-12-30 12:03:42 | 国際関係
●防衛政策を規定した「国防の基本方針」

 昭和32年(1957)5月20日、岸内閣の時代に、国防会議と閣議で「国防の基本方針」が決定された。この基本方針は、今日にいたるまで、わが国の防衛政策の基本方針となっている。内容は、以下の通りである。
 「国防の目的は、直接及び間接の侵略を未然に防止し、万一侵略が行われるときはこれを排除し、もって民主主義を基調とするわが国の独立と平和を守ることにある。この目的を達成するための基本方針を次のとおり定める。
(1) 国際連合の活動を支持し、国際間の協調をはかり、世界平和の実現を期する。
(2) 民生を安定し、愛国心を高揚し、国家の安全を保障するに必要な基盤を確立する。
(3) 国力国情に応じ自衛のため必要な限度において、効率的な防衛力を漸進的に整備する。
(4) 外部からの侵略に対しては、将来国際連合が有効にこれを阻止する機能を果し得るに至るまでは、米国との安全保障体制を基調としてこれに対処する。」

 以上の方針の基本姿勢は、自主国防が第一ではなく、他に依存するということである。国連を中心とするが、国連が有効に機能するようになるまでは、日米安保に頼るということである。
 問題は、国連は一枚岩ではないことである。安保理常任理事国の五カ国は拒否権を持ち、特にアメリカと旧ソ連=現ロシアは、しばしば方針が一致しない。アメリカは、国連の動向が自国の利益にならない場合は、国連の決議を得ずに行動する。国連中心主義ではなく、国益中心主義である。そのため、わが国の防衛政策は、一貫性がなく、主にアメリカの意思に合わせるものとなっている。
 方針の第2に「愛国心を高揚し」とあるが、政府は、これをほとんど実行していない。平成18年の改正教育基本法でも、「愛国心」という言葉は避けられた。国家の防衛力は、単に兵器の質と量で決まるのではない。自ら国を守ろうという国民の意思が最も大切である。国家・国民という意識を育て、国益・国防に関する関心を高めなければ、独立主権国家としての国防は確立されない。

●日米安保の新条約も片務的・依存的

 岸首相は、「国防の基本方針」のもと自衛力の増強に努め、また安保条約の改定をはかった。旧条約は、わが国を軍事的保護国のように扱っていた。内乱条項といわれる「大規模の内乱及び騒擾を鎮圧」する役割まで米軍が担っていた。条約の期限もつけられていなかった。岸は、こうした屈辱的な内容を改めようとした。
 昭和35年(1960)5月19日に新条約案が国会で強行採決されると、安保反対のデモが国会に押し寄せた。しかし、国民多数の意思に基づいて、6月23日、日米安保新条約の批准書が交換された。岸内閣は責任を取る形で総辞職したが、安保の改定は、日本の主権の回復において必要不可欠のことだった。

 岸は、安保条約の改定が日本の国益の回復になると固く信じて、新条約の締結を成し遂げた。新条約では、内乱条項はなくなった。期限がつけられ、10年を経過した後は、1年毎の自動延長とされた。事前協議制も取り入れられた。新条約に伴って、在日米軍と軍属の地位に関する協定が改められ、日米地位協定が作られた。
 改善はされたものの、日米安保が片務条約であるという本質は、変わっていない。米軍基地や駐留米軍の国内法に束縛されない特権は維持された。事前協議制は、有名無実と化すことになった。最も重要なことは、日本が第三国の侵攻を受けた場合、米軍が参戦するという義務は規定されていないことである。いざとなったとき、アメリカが本当に日本を守るかどうかは、不明瞭である。
 ただし、日米安保は、対等の攻守同盟ではないから、これもやむをえない。命がけの防衛義務を相手に求めるには、こちらも同じ義務を果たせねばならない。命を賭けて互いを守るという真の友情は、基地の提供や金銭的負担で得られるものではない。憲法の改正、国軍の保有、集団的自衛権の行使等を実現せずに、他国民に献身を期待するのは、都合が良すぎるというものである。不平等条約を改正するには、まず日本が真の自主と独立の国にならねばならない。

 次回に続く。

対米依存で専守非核の日本3

2006-12-29 08:53:27 | 国際関係
●鳩山首相は敵基地攻撃が可能と答弁

 わが国は、独立回復後、最初から対米全面依存・専守防衛・非核三原則の方針を取っていたわけではない。憲法の制約はあったものの、昭和30年代までは、国家指導者が国防に対して、もっと自主的かつ現実的な考えを示していた。

 昭和31年(1956)2月29日、鳩山一郎首相は、衆院内閣委員会で防衛問題について答弁した。当日鳩山は公務で委員会を欠席したので、船田中(ふなだ・なか)防衛庁長官が首相答弁の要旨を代読した。内容は、以下のようである。
 「わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して滅亡を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられないと思うのです。そういう攻撃を防ぐのに万やむをえない必要最小限度の措置を取ること、たとえば誘導弾等による攻撃を防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います」

 誘導弾とは、ミサイルのことをいう。この時点でアメリカのほかに核兵器を持っていたのは、日本周辺ではソ連だけだった。鳩山は、ソ連を想定している。場合によって、ソ連の核ミサイル基地を攻撃することは、憲法上可能だという見解を、鳩山は明らかにしたわけである。独立回復後、数年のうちの日本の政治家は、こういう気概を持っていた。

●岸首相は核保有を留保した

 また、核兵器についても、非核三原則が提唱される前には、政治家はそのような硬直した政策を掲げてなかった。昭和32年2月に首相となった岸信介は、35年(1960)3月7日参議院予算委員会にて、次のように答弁した。
 「自衛権を裏づけるに必要最小限度の実力という問題の内容は、これは、言うまでもなく、科学兵器の発達等によりまして、大砲が何門だとか、あるいは小銃がどうだとか、というふうに限るわけには私はいかぬと思います。発達につれて必要な実力というものを持つことは許しておる、こう解釈すべきものだと思う。従って、その意味においていやしくも核兵器という名がついたから全部いかないのだという憲法解釈は、これは憲法の解釈としては、われわれはとらないところだということを申しておる。
 しかしながら、いわゆる、現在ありますところの核兵器の大部分というものは、主たるものが相手方の攻撃の内容を持っており、そういうものを主たる内容としておるような実力を持ち得ないことは、自衛力という立場から、本来の解釈から、私は当然だと思います」と。

 岸は、必要最小限度の実力は、科学兵器の発達によって変わってくる。だから、核兵器と言えば、憲法上全く駄目という解釈は取らないというわけである。岸発言は、憲法解釈上、将来における核兵器の保有を留保したものといえる。攻撃的ではなく防御的な核兵器が開発された場合には、保有は可能という含意があったのだろう。

 その後、核の技術は進んだ。今日では、核弾頭が小型化され、巡航核ミサイルが開発されている。巡航核ミサイルは、先制核攻撃に使用されることはない。報復核攻撃の実施だけに使用できるものゆえ、「軍事バランスを安定化させる核ミサイル」といわれている。岸がどの程度、時代の先を読んでいたかわからないが、あのギョロ目は炯眼だと私は思う。
 現行憲法は自衛権を認めていると解釈するのであれば、最小限度の自主的な核抑止力は自衛力の一部と考えることができる。あとは核の開発・保有がわが国の国益にとってプラスが大かマイナスが大かを判断する政策上の問題となる。科学兵器の発達の度合いや国際環境の変化に応じて、政策の適否を点検していけばよいのである。

 次回に続く。

対米依存で専守非核の日本2

2006-12-28 08:21:12 | 国際関係
●独立は回復したが、憲法は放置、国防は依存

 朝鮮戦争の最中、わが国は、昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約に調印した。この条約に基づき、独立回復後の安全保障のため、日米安全保障条約が締結された。
 昭和27年4月28日、わが国は独立を回復した。回復したといっても、憲法によって主権に制約がかけられていた。主権の重要要素である国防が制限され、わが国は、アメリカの軍事的な庇護の下に置かれた。講和条約が発効されると同時に、日米安保体制が開始された。講和条約と安保条約は、セットになっていた。講和によって独立回復を認めるが、軍事的には保護下に置くという仕組みである。
 この時発効したのが、旧安保条約である。旧安保は、日本はアメリカに駐留権を与えるが、駐留軍は日本防衛の義務を負わないという片務的な内容だった。内乱条項といわれる「大規模の内乱及び騒擾を鎮圧」する役割をも米軍が担っていた。事実上、戦勝国の軍事占領の継続を認める不平等条約だった。

 独立は回復したが、日本人は、憲法改正を成し遂げられなかった。これは、他国から妨害があったからではない。実は、連合国の極東委員会は、新憲法が昭和21年11月に公布された後、2年以内に再検討すべしと決めていた。占領基本法のような一時的な性格のものだからである。マッカーサーも、憲法の押付けは理不尽であることを十分理解していた。そこで、彼は極東委員会の決定を受けて、吉田茂首相に、憲法施行後1~2年の間に改正が必要であるなら、国民の判断に委ねるべきことを伝えた。しかし、吉田は、これを無視した。この吉田の憲法放置・国防依存の方針が、わが国のあり方を束縛することになった。
 独立回復後の日本では、国論は分裂し、国民的な団結は生まれなかった。左翼勢力が成長増大したからである。彼らは、日本国憲法は自己の活動に有利と見た。そして、その下で社会主義・共産主義を目指す革命運動を展開してきた。

●自衛隊の創設は、アメリカの要請による

 朝鮮戦争は、昭和28年(1953)7月27日休戦協定が結ばれた。戦争の後半は、毛沢東が中国軍を大量投入したために長引き、双方に多大な犠牲者が出た。朝鮮で共産軍と戦うことになったアメリカは、日本における治安維持と防共のために、警察力の強化と軍事力の回復の必要性を痛感した。その結果、アメリカの要請により、昭和29年(1954)に、警察予備隊と自衛隊が組織された。これは、アメリカの管理の下に、日本の限定的な再武装を行うものだった。
 自衛隊の編成は、アメリカ軍を補完する形で進められた。日本は、独自の国軍を持たない代わりに、アメリカの軍事的な保護を受けるという保護国的な立場にあり続けることを選択した。軍事だけではない。日本は、エネルギー、食糧等、国家安全保障の基本要素をアメリカに管理される状態となった。

 一方、共産中国は、朝鮮戦争でアメリカの核による威嚇を受けた。それに続く、インドシナ戦争等でも、繰り返し威嚇された。毛沢東は、アメリカに対抗するために、核保有を決断した。そして、国力を集中して、核開発を推進した。日中戦争後の日中両国は、全く異なった国家体制と国策を取った。その違いは、年を追うごとに対照的になっていった。
 私は、昭和29年に生れた。ここに書いているのは、私が生きてきた同時代の日本、私の祖国の歴史である。

●55年体制の間に、日中の力の差が広がった

 この昭和29年に日本民主党が結成され、鳩山一郎内閣が誕生した。この内閣は、自主憲法の制定、自主外交による領土回復、自衛軍の創設など、自主独立路線を基本とした。しかし、昭和30年(1955)の総選挙において、鳩山内閣は改憲に必要な勢力の確保に失敗した。独立回復後、憲法改正に最大のチャンスは行き過ぎた。
 この年、左右の社会党が統一し、護憲、再軍備反対の勢力を形成した。前後して、自由党と民主党の保守合同が実現し、二大政党が成立した。両勢力は一定の均衡に達し、この枠組みのままわが国の政治は推移した。これが55年体制と呼ばれる。

 55年体制は、米ソ冷戦の時代に、日本国内で、親米派と親ソ派が拮抗した状態だった。それはまた「改憲か護憲か」の対立と膠着の構図だった。自衛隊は軍隊か否か、合憲か違憲かという国際社会の厳しい現実とは、かけ離れた論争が行われた。保守と革新の緊張は、やがて馴れ合い政治に堕し、自民党単独の政権が持続した。
 平成3年(1991)にソ連が崩壊し、米ソ冷戦が終結すると、わが国の国内政治にも構造的な変化が起こった。平成10年(1998)、細川護煕を首班とする反自民連立政権が誕生した。これによって、38年間続いた55年体制は終結した。

 この間、中国は、核開発を行い、アメリカを脅かす核大国に成長した。わが国は対照的に、対米依存を深め、非核三原則を掲げ、受動的な防御に徹する専守防衛を国防の方針としてきた。その結果、現在では、わが国と中国の戦力の差は、途方もなく広がっている。
 近年の中国の高圧的な外交姿勢・内政干渉は、軍事的優位の表われである。わが国は、中国に土下座外交を続けてきた。それのみならず北朝鮮に対しても、屈辱的な弱腰外交を続けてきたのは、国防の欠陥に最大の原因がある。

 次回に続く。

対米依存で専守非核の日本1

2006-12-27 11:16:47 | 国際関係
 わが国は、大東亜戦争で有史以来の大敗を味わった。多くの日本人が、二度と戦争はしたくないと思った。また、核の廃絶を願った。占領下でGHQに憲法が押し与えられ、国防が制限された。その憲法が放置されたまま、昭和43年(1968)に、わが国は、非核三原則の政策を掲げた。さらに昭和47年には、国防を受動的な防御に徹する専守防衛に限定した。
 こうしたわが国に比べ、戦後、シナを共産化した中華人民共和国は、まったく対照的な道を進んできた。建国後、繰り返しアメリカから核攻撃の威嚇を受けると、1950年代中半に核を保有する方針を決め、国力を集中して核開発を進めた。昭和39年(1964)に最初の核実験に成功し、昭和45年(1970)に、日本を射程に収めるIRBMを完成させた。わが国は、この時点から、中国の核ミサイルの標的になっている。

 共産中国の歴史と核開発については、拙稿「中国はこうして核大国化した」に書いた。本稿では、それを受けて、共産中国と対比しながら、戦後のわが国と国防のあり方について書いてみたい。10回くらいになると思う。

●日本に制約を課したGHQ製憲法

 敗戦後のわが国は、6年8ヶ月にわたり、連合国軍の占領を受けた。GHQはこの間、日本弱体化のための政策を強行した。弱体化政策の要は、憲法の改正だった。マッカーサーは、わずか1週間ほどで起草した憲法草案をわが国に押し付けた。銃砲によって言論が管理されるなか、翻訳憲法が制定された。新憲法は、第9条に戦争や戦力・交戦権に関することを定めた。

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第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 この条項は、規定内容が明確でなく、いろいろな解釈がある。第1項は、侵攻戦争の放棄を意味するとされる。「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」を永久に放棄したと規定されている。「国権の発動たる戦争」とは不戦条約の「国家の政策としての戦争」を指し、「武力による威嚇又は武力の行使」は、国連憲章第2条の「武力による威嚇又は武力の行使を慎まなければならない」からの引用だろう。
 しかし、不戦条約においても、ある戦争が侵攻戦争であるか自衛戦争であるかを決めるのは、その当事国の判断に委ねられている。攻撃された国は侵攻だと主張しても、攻撃した国は「居留民保護」「権益保護」等の戦争目的を主張する。自ら侵攻戦争だと認める国は、ほとんどない。日本くらいのものだろう。首相が過去の戦争を「侵略戦争だと認識している」などと公言するのは。

 憲法第9条第2項は、「前項の目的を達するため」という一句で始まる。芦田条項として知られるこの一句が、自衛権の行使を可能にしたといわれるが、なお明確でない。「前項の目的」とは侵攻戦争を放棄することだとしても、次の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という規定は、解釈が分かれる。侵攻戦争を行うための戦力は持たないが自衛のための戦力はよい、自衛も含めて戦力そのものをまったく持たない、自衛隊は名称が軍隊でないから戦力ではない、自衛隊は侵攻戦争を行えるような戦力ではないから合憲だ等のさまざまな見解が出てくる。
 現在、政府は、自衛のため「必要最小限度」という表現で、自衛隊の実力を正当化している。その論理であれば、自衛隊ではなく、自衛軍・国防軍を保持することは、憲法と矛盾しない。
 第1項における「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」の永久放棄には、「国際紛争を解決する手段としては」という条件がついている。侵攻戦争は放棄するが、自衛権の行使は当然の権利とするのであれば、憲法は自衛のための武力行使を禁止していないと解釈するのが自然である。自衛隊の武器使用について、隊員個人の正当防衛用の武器の携行ではなく、部隊自衛用の部隊装備が検討されねばならない。ところが、そういう検討は、カンボジアやイラクに自衛隊の海外派遣が行われるようになっても、未だ積極的にされていない。
 憲法第9条によって、わが国は、国防を制約されたうえに、さらに政府解釈で自制を加え、対米依存を深め、専守非核への道を進んできた。

●マッカーサーの証言

 現行憲法は、前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書いている。しかし、憲法公布のわずか4年後、昭和25年(1950)の6月25日、朝鮮戦争(~28年)が勃発した。「平和を愛する諸国民」であるソ連から、スターリンが金日成に侵攻の指示を出し、戦争は始まった。アメリカを中心とした国連軍が、ソ連の支援を受けた中国・北朝鮮軍と戦った。

 戦争の勃発によって、つかの間の平和は終わった。米ソ二大超大国の対立の時代が始まった。開戦後約5ヶ月たった昭和26年初め、マッカーサーは、年頭挨拶で、日本国民に対し再軍備と改憲を示唆した。マッカーサーは、朝鮮で戦うことによって、戦前の日本の立場を理解した。日本の国防のためには、朝鮮を守らねばならず、朝鮮を守るためには、満洲が生命線となる。満洲を失えば、ソ連・中国が攻め寄せて来る。そのことがよくわかったのだろう。
 毛沢東の人海戦術に苦戦したマッカーサーは、トルーマン大統領に中国本土への爆撃を建策し、原爆の使用を求めた。それによって、彼は26年4月、日本占領の連合国軍最高司令官と、朝鮮戦争の連合国軍(=国連軍と訳す)の最高司令官とを解任された。

 アメリカに帰国したマッカーサーは、上院の軍事外交合同委員会で、次のように証言した。
 日本の産業構造は、絹以外固有の資源がほとんどなく、外国にそれを求めざるを得ない旨を語った後に、マッカーサーは述べる。「もしこれらの原料の供給を絶たれれば1千万人以上の失業者が発生するであろうことを日本は恐れた。従って日本が戦争に飛び込んでいった動機は大部分が安全保障(security)の必要に迫られてのことだった」と。

 この証言は、大東亜戦争は、日本による侵攻戦争ではなく、概ね自衛戦争だと述べているのに等しい。この見解は、マッカーサー自身が行った東京裁判や、占領下での憲法改正は、やりすぎだったという反省につながるものだろう。渡部昇一氏が啓蒙に努めているように、極めて重要な歴史的証言である。しかし、マッカーサーの証言は、今日までわが国のあり方を変えるものとはなっていない。

 次回に続く。

核開発に関する政府内部文書

2006-12-26 09:55:14 | 国際関係
 25日朝、産経新聞の一面トップに、「核弾頭試作に3年以上 費用2000~3000億円 政府内部文書」と題した記事が載った。この文書がどのようにして報道されるにいたったのか、は記事に明記されていない。「ひそかに政府機関の専門家が調査し、まとめた」ものというが、誰の指示、どういう目的で作成されたのかも書かれていない。今後、この文書をめぐる議論が起こるだろうと思う。
 ファイリングを兼ねて、以下転載する。

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●産経新聞 平成18年12月25日朝刊

核弾頭試作に3年以上 費用2000~3000億円 政府内部文書

 「日本が小型核弾頭を試作するまでには少なくとも3~5年かかる」とする政府の内部文書が24日明らかになった。「核兵器の国産可能性について」と題した文書によると、日本にはウラン濃縮工場や原発の使用済み核燃料の再処理技術・設備はあるが、技術上の制約から核兵器にただちに転用できないとしている。北朝鮮の核実験を機に日本国内では一部に「非核三原則」の見直しや核武装論が出ているが、日本が仮に核武装する決心をしてもほぼゼロからの開発にならざるをえない、という現実を確認したことになる。

 政府内部文書はことし9月20日付で作成された。10月9日の北朝鮮核実験に先立ってひそかに政府機関の専門家が調査し、まとめた。小型核弾頭試作までに3年以上の期間、2000億~3000億円の予算と技術者数百人の動員が必要という。これでは仮に日本が核武装宣言しても、ただちに独力で北朝鮮からの「核の脅威」抑止には間に合わない。

 核兵器の材料は、いわゆる広島型原爆材料の高濃縮ウランか長崎型のプルトニウムの2種類。日本原燃の六ケ所村(青森県)原子燃料サイクル施設や日本原子力研究開発機構東海事業所(茨城県)に、ウラン濃縮や原子力発電所の使用済み核燃料再処理工場がある。

 しかし、いずれも軽水炉用で、核兵器級の原料をつくるのには適さない。濃縮工場は純度3%程度の低濃縮ウランを製造するが、そのため稼働している遠心分離機は故障続きで、短期間での大規模化は困難である。

 政府内部文書では、日本が核武装するためには、結局、プルトニウム239を効率的に作り出すことができる黒鉛減速炉の建設と減速炉から生じる使用済み核燃料を再処理するラインを設置する必要があると結論づける。さらに小型核弾頭をつくるためには日本にとって未知の技術開発に挑戦しなければならない。(編集委員 田村秀男)
                   ◇
 【政府文書骨子】

一、小型核弾頭試作には最低でも3~5年、2000億~3000億円かかる
一、核原料製造のためウラン濃縮工場拡張は非現実的。軽水炉使用済み燃料再処理をしても不可能
一、黒鉛減速炉によるプルトニウム抽出が一番の近道
(2006/12/25 02:38)
http://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/061225/wdi061225000.htm
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中国はこうして核大国化した7

2006-12-25 10:29:58 | 国際関係
●核から海洋と宇宙空間の開発へ

 平成14年(2002)、江沢民に替わって、胡錦涛が国家主席となった。胡政権においても、核兵器の増強を中心においた軍拡路線は、一貫して継続されている。
 いまや中国の大陸間弾道ミサイルは、1万2000キロメートル以上飛んで、ワシントン、ニューヨークを含む米国東部海岸に到達することができる。
 中国のミサイル技術は、急速に向上している。平成15年(2003)、中国は「神舟5号」による最初の有人宇宙船の打ち上げを行った。17年10月12日には、「神舟6号」による第2回目の有人宇宙船の打ち上げに成功した。有人宇宙船の打ち上げ成功は、ミサイル誘導技術の向上を意味する。
 有人宇宙船を打ち上げるロケットは、アメリカ本土に届く大陸間弾道ミサイルを発射するロケットを利用する。中国が、有人宇宙船を予定の軌道に正確に投入したことは、大陸間弾道ミサイルにより、アメリカを核弾頭で正確に攻撃できる能力を備えたことを示している。

 中国海軍は、猛烈な勢いで潜水艦を増やしている。平成17年(2005)6月16日、中国は94型潜水艦から大陸間弾道弾の発射に成功した。このミサイルは、東シナ海の海中から中国内陸部の砂漠地帯の目標地点と見られる地域に飛んだ。この実験の成功は、中国が日本だけでなくアメリカ本土も攻撃できるようになり、ワシントンやニューヨークを一撃のもとに壊滅させることができることになったことを意味する。命中率は、アメリカ海軍の原子力潜水艦から発射されるトライデントミサイルに匹敵すると見られている。
 アメリカ国防総省は、この新型ミサイルをJL-2と命名した。JL-2は、3つないし8つの核弾頭を装備できると見られる。JL-2を搭載した94型潜水艦は、核の第一撃能力を持つ。中国の最新型潜水艦は、アメリカ海軍の監視の及ばない海中からミサイルを発射し、相手が気づかないうちに、第一撃で敵の頭脳部・心臓部を壊滅させてしまうことができることになったわけである。

 中国は、平成22年(2010)には、94型潜水艦を数隻保有することになると見られている。一隻の潜水艦が、16発のJL-2ミサイルを装備する。そうなると、中国は、アメリカの大都市のすべてを、いつでも同時に核攻撃できる力を持つことになる。早ければ中国は、平成22年にアメリカと並ぶ核大国の立場を確立することになるという観測がある。

●宇宙戦争に挑もうとする共産主義者

 20世紀末から21世紀初頭にかけて、小型、軽量化された核弾頭を搭載した数種類の移動式の大陸間弾道ミサイル、中距離弾道ミサイル、短距離弾道ミサイル、さらに原子力潜水艦とそれに搭載する弾道ミサイルが完成し、中国の核戦力は向上し続けている。
 さらに中国は、地上や海中だけでなく、宇宙空間からの攻撃をも開発しつつある。アメリカは中国のICBMに対するミサイル防衛システムの構築を急いでいる。これに対し、中国は、そのシステムを無力化するために、宇宙ステーションを建設し、軍事衛星からの攻撃ができるようにすることを考えている。
 アメリカのMDシステムを打ち砕くために、中国は、レーザー兵器をはじめ、粒子ビーム兵器、極短波パルス兵器等の宇宙兵器を装備し、それに関連した技術を有する軍人や専門家からなる宇宙軍を編成し、宇宙軍事基地を建設して、宇宙での制空権の掌握を目指そうとしている。
 21世紀の世界は、宇宙戦争を制する者が、地上の核戦争で優位に立つという段階に入ってきている。その覇者となることを中国共産党指導部は目指している。

●朱成虎将軍は、毛沢東思想の継承者

 共産中国は、毛沢東という独裁者によって形成された。アメリカに対抗して核を持ち、地球の支配者となろうと目指したのは、毛沢東である。今日も天安門広場に写真が掲げられているこの恐怖と恫喝の支配者は、かつて次ぎのように語った。
 「中国は人口が6億人いるから、仮に原水爆によって半数が死んでも、3億人が生き残り、何年がたてばまた6億人になり、もっと多くなるだろう」と。

 今日、朱成虎少将は、次のように発言している。
 「米国がミサイルや誘導兵器で中国の領土を攻撃するなら、中国は核兵器で反撃せざるを得ない」「中国の領土には、中国軍の艦艇や戦闘機も含まれる」「中国は西安以東の都市の全てが破壊されることを覚悟しており」「米国も当然西海岸の100以上、もしくは200以上、さらにはもっと多くの都市が中国によって破壊されることを覚悟しなければならない」

 朱成虎は、毛沢東の同士として人民解放軍を領導した朱徳元帥の孫である。朱は、さらに次のように語っている。
 「人口問題を解決するには、核戦争が最も有効にして手っ取り早い方法だ」「もし我々が被導的でなく主導的に出撃すれば、計画的に全面核戦争に出れば、情勢はきわめて有利である。(略)政府はすべての幻想を捨て、あらゆる力を集中して核兵器を増やし、10年以内に地球人口の半分以上を消滅できるようにしなければならない。(略)人口をもっと増やし、そして計画的に周辺諸国に浸透させるべきだ。(略)全面核戦争が起こったら、周辺諸国に疎開した人口の半分と、農村に疎開した人口の半分があるから、他国に比べて多くが生き残ることができる」「歴史は必ず私の所説の正しさを証明してくれる。(略)核大戦のなかで、我々は百余年来の重荷を下ろし、世界のすべてが得られる。中華民族は必ず核大戦のなかで、本当の復興を得られる」

 朱成虎の核戦略思想は、毛沢東思想の継承であり、その発展である。核大国化した中国において、核先制攻撃戦略や核戦争生き残り戦略が唱えられていることは、単にわが国のみならず、世界人類にとって存亡に関わる事柄である。真の世界平和の実現のために、知恵と願いを結集すべきだと思う。(了)

参考資料
・拙稿「共産中国の覇権主義」「共産中国の国家目標」「人類史上最も危険な思想~中国の積極的核戦争論」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion12.htm
 上記の項目07-09

中国はこうして核大国化した6

2006-12-24 10:55:19 | 国際関係
●日中友好から反日愛国主義への大転換

 中国の反日は、戦後ずっとそうだったのではない。日中国交回復の際、毛沢東・周恩来は日本の戦争責任を追及し賠償金を求めるようなことはしなかった。小平が昭和53年(1978)に主席になり改革開放政策が推進されたが、海外からの技術と資金の導入を求める中国は、日本との積極的交流を国策とした。
 中国人評論家・石平(せき・へい)氏が書いた感動の書『私は「毛主席の小戦士」だった』(飛鳥新社)によると、昭和59年(1984)に訪中した中曽根首相は熱烈歓迎を受け、石氏が学生だった北京大学でも親日ムードで一杯だった。俳優の高倉健や栗原小巻は、中国で国民的なアイドルとなり、山口百恵を知らない中国人はいないくらいの人気だった。
 それが一転、反日愛国主義に転じた。この極端な転換は、天安門虐殺事件の後のことである。日中人民の真の友好を妨げているのは、中国共産党指導部なのである。

 市場経済の導入で外国資本が投資されるとともに、自由主義・デモクラシーの思想が中国に流入した。当時、ソ連を中心とする社会主義陣営は、崩壊の時を迎えていた。アメリカは、ソ連に軍拡競争を仕掛け、ソ連は経済的に逼迫した。ソ連から植民地のように収奪を受ける東欧諸国では、民主化運動が起こった。それが本格化したのが、平成元年(1989)だった。
 6月、中国でも自由と民主主義を求める学生・民衆が行動を起こした。共産党政府は、天安門広場に集まった学生・民衆を虐殺した。中国共産党は、国内における民主化運動を抑圧しなければ、ソ連・東欧の共産党政権の二の舞になることを、痛感したに違いない。

 平成5年(1993)小平は、江沢民を総書記に抜擢した。開放経済によって、国家資本主義的な発展を続ける中国社会は、マルクス=レーニン主義、毛沢東思想の理論とは、大きく乖離し始めた。共産主義では、国内を統制できなくなってきた。そこで江沢民が導入したのが、愛国主義である。
 排外的な民族主義は、国内の矛盾への目を外に向けさせる常套手段だ。国民、特に青少年に反日教育が徹底された。その教育は、文化大革命の時代に毛沢東が、紅衛兵世代に行ったのと同じような、徹底的な統制の中での洗脳教育だった。今日、異常なまでに激化・興奮している反日感情は、共産党専制体制を維持するための意識操作なのである。

●世界の大勢に逆行する軍拡

 天安門虐殺事件の年、ポーランドで自主管理労組「連帯」が選挙で圧勝し、民主化革命が起こった。これをきっかけに、東欧諸国では、次々にソ連型の一党独裁体制が放棄された。11月には、東西ベルリンを隔ててきた壁が取り払われ、翌年(1990)10月、東西ドイツが統一された。共産圏の盟主・ソ連では、この年、ゴルバチョフが共産党の一党独裁を放棄し、翌年(1991)12月、ソ連は崩壊した。
 この結果、米ソの冷戦は終結した。世界は対立と闘争から対話と協調の時代に入ったかと思われた。しかし、その動きに異を唱えるように、中国は猛烈な軍備拡張を開始した。かつてキューバ危機の後に米ソが平和共存に転じたが、その際も共産中国は核開発を進め、共存でなく闘争の旗を振ったことが思い起こされる。

 中国は、平成元年(1989)から18年間、毎年2ケタ台の伸び率で軍事予算を増加している。5年間で軍事費が倍増という猛烈さである。しかも、この数字は実態を表わすものではない。中国は、世界の武器貿易の約4割を占めるペースで、ロシアなどから新しい武器を購入してきた。輸入量は世界一である。こうした武器の購入費は、軍事予算に入っていない。宇宙兵器の開発費なども入っていない。実際の軍事費は、公表されている数字の約3倍だろうと見られている。実態はそれ以上かもしれない。
 危険なことは、猛烈な軍拡と、排外的・好戦的な思想教育が結びついていることである。共産中国は、単なる共産主義ではなく、ファシズム的な共産主義に変貌しつつあるのである。

●高圧的・傲慢な態度は、核の裏づけによる

 中国は、核拡散防止条約(NPT)に平成4年(1992)に加盟したが、平成7年のNPTの無期限延長の採択後も、条約の特権を濫用して、核実験を行った。平成8年9月の包括的核実験停止条約の締結を前にして、小型化・軽量化、複数弾頭化を目的とする実験を実施したものである。

 中国のアメリカや日本への態度が、高圧的になったのは、平成7年(1995)からと見られる。この年から、中国は台湾侵攻のとき、アメリカが軍事介入すれば、中国は米国に核攻撃を行うという威嚇を、米国政府高官に対して何度も行っていると伝えられる。それは、移動式・多弾頭の核ミサイルを完成させたからである。
 移動式のものは、先制攻撃で破壊することができない。中国の対米第二撃能力は、ここに完成した。これによって、中国はアメリカに対し、強気の姿勢を示すようになった。日本に対しても、傲慢な態度を取るようになった。歴史教科書、歴史認識、靖国神社参拝等に関する理不尽な要求は、核の裏づけによる。

 中国の核技術の向上の過程で重要なことは、中国はアメリカから先端技術を盗み出し、それによって、移動式の多弾頭ミサイルを完成させたことである。国際政治アナリストの伊藤貫氏によると、ビル・クリントンが大統領だった時期(1993-2001)、中国は移動式・多弾頭の核ミサイルに関する先端技術をアメリカから盗んだ。それによって中国はアメリカ本土を核攻撃できる能力を手にした。
 クリントン政権は、この窃盗事件に関して対抗策を取らなかった。理由は、クリントン夫妻やゴア副大統領、ケリー上院議員、民主党の幹部・有力者が、中国のスパイ組織を通じて、共産中国から多額の賄賂を受けていたからである。

 次回に続く。

中国はこうして核大国化した5

2006-12-23 11:47:17 | 国際関係
●核が生じた米中接近・日中国交回復

 昭和44年(1969)の中ソ国境紛争を契機に、ソ連は、中国が核大国になる前に叩こうとした。これを察知したアメリカは、中国に接近し、中ソを分断させることに成功した。昭和47年(1972)2月、ニクソン大統領が北京を訪れた。電撃的な米中首脳会談によって、米中共同声明が発表された。
 この時、アメリカは、イデオロギーより、バランス・オブ・パワーを優先した。こういう行動は、初めてではない。第2次大戦では、連合国VS枢軸国の対立を、民主主義VSファシズムと粉飾して、アメリカは、「民主主義」のソ連と手を結んでいる。

 米中接近は、わが国に事前協議なしに行われた。保護国的地位にあるわが国は、アメリカに追従せざるを得ず、同年9月、田中角栄首相が北京を訪問し、日中共同声明が調印された。これにより、わが国と中国は、戦争状態を終え、はじめて国交が開かれた。
 最も重要なことは、この時点で、中国はわが国を核ミサイルで攻撃する力を持つに至っていたことである。中国が日本及び日本にある米軍基地を核攻撃できる軍事力を持ったために、アメリカは中国とソ連を分断し、中国と結んだのである。
 台湾は、核時代の国際政治の力学の狭間で、国連から脱退し、アメリカから断交された。旧本国であるわが国も断交した。

 わが国の戦後処理は、サンフランシスコ講和条約に従って行われた。中国、台湾はともに講和会議に招かれなかったが、台湾は昭和27年(1952)4月の日華平和条約で、「日本国民に対する寛厚と善意の表徴として」、戦争賠償請求権を放棄した。同条約は47年(1972)9月の日中国交正常化で終了したと日本政府は認識していている。
 国交正常化に伴う日中共同声明は、「中華人民共和国政府は中日両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」ことを確認している。

●毛沢東の死、実権の移動、対中ODAの開始

 文化大革命は、毛沢東最後の権力闘争だった。しかし、昭和51年(1976)、独裁者・毛沢東は死んだ。その後、国家主席となった華国鋒は、毛一派の江青ら四人組を逮捕した。その後、毛沢東に近い立場にあった華国鋒は、毛沢東批判勢力によって、失脚させられた。それにより、かつて走資派と呼ばれていた者たちが、復権を成し遂げた。彼らの頭目が、小平である。
 は、毛沢東の生前、3度失脚し、また復権した。が実権を掌中に収めるに従い、中国は大きく路線を転換していく。

 日中国交回復後、わが国は、中国に対して賠償金を支払うのではなく、経済援助を行うことにした。昭和53年(1978)、中国と日中平和条約を結び、翌54年(1979)から、本格的に中国への政府開発援助(ODA)の供与を始めた。
 日本のODAは、中国の経済成長に大きな助力となった。ODAは総計3兆円支出された。民間からの援助金を含めると、6兆円にもなると推計されている。こうした日本の金は、中国の経済発展にのみ使用されたのではない。日本の金は、中国の核ミサイルの開発・製造にも使われたのである。わが国は、中国に金を出して、わが国に向けた核ミサイルを作らせ、中国に従属させられるために、せっせと金を貢いだようなものである。
 しかも、中国からは、一切感謝されていない。中国の一般国民は、日本からの経済援助の事実を知らされていない。そのうえ、中国指導部は、わが国からもっとむしり取ろうと、遺棄化学兵器の処理問題など新手を繰り出してきている。

●増大し続ける中国の核戦力

 中国は、小平の指導のもと、昭和53年(1978)に「開放経済」に踏み切った。彼の打ち出した「社会主義市場経済」という概念は、明らかに資本主義を取り入れる政策だった。は、共産党と人民解放軍を掌中に収め、高度経済成長を指導した。小平は平成9年(1997)まで中国の最高指導者の地位にあった。
 この間、中国は、昭和56年(1981)に、核ミサイルの多弾頭化をめざす実験に成功した。また63年(1988)には、原子力潜水艦からの弾道ミサイルの水中実験に成功した。
 こうして中国は、1980年代には、第1世代の核兵器を完成させ、最小限核抑止力、すなわちアメリカの本土を攻撃できる「対米第二撃能力」を保有した。中国は、米国本土を核攻撃するとアメリカを威嚇できるところにまでいたったのである。

 これによって、アメリカが同盟国を保護する「核の傘」は、事実上無効になった。同盟国が核攻撃を受ける脅威にさらされても、本土を核攻撃するぞと脅されたら、アメリカは自国の国民の生命を犠牲にしてまでも、他国を守るはずがないからである。日本は、中国の核から国民を守れない状態になっている。国民に「核の傘」が機能していると思わせてきた政治家の行いは、犯罪的である。

 次回に続く。

中国はこうして核大国化した4

2006-12-22 10:18:05 | 国際関係
●核の第二撃は都市住民を狙う

 20世紀後半における核戦略は、どういうものだったか。
 核戦争では、一般に核兵器の精度と破壊力に優れた側が、第一撃によって相手の報復力を先制攻撃する。これを対兵力戦略という。相手の核ミサイル基地を攻撃して、核ミサイルを破壊するわけである。
 これに対して劣勢側は、相手に先制攻撃を思いとどまらせる手段を持たねばならない。それには、相手の第一撃で生き残り、第ニ撃を行う能力を持つ必要がある。第一撃との違いは、第二撃は相手の住民を目標とすることである。これを対都市攻撃戦略という。住民を攻撃の対象とすることによって、劣勢側は、相手に先制攻撃を思いとどまらせることができる。これが最小限核抑止力である。
 先制攻撃する側は、第一撃で相手の核兵器・関連施設のすべてを破壊しなければならない。一つでも核ミサイルを残してしまうと、自国の都市を報復攻撃され、住民が犠牲になる。反対に、劣勢側は一発の核兵器でも第一撃を免れることができれば、第ニ撃で相手に反撃することができる。実際に攻撃しなくとも、核兵器で攻撃するぞと威嚇することによって、住民をパニック状態にすれば、よい。デモクラシーの国家では、世論が政策を左右するから、特に有効である。優勢側は、戦力で優っていても、自国の住民多数を生命の危険にさらし、政権の支持を失う危険を冒してまで、先制攻撃をすることを控えるだろう。
 それゆえ、劣勢側は、相手より少ない数であっても、ある程度の水準の核兵器を保有すれば、相手と対等の立場に立つことができる。中国の核開発は、このような核戦略のもと、最初からアメリカを敵国とし、アメリカに対する核攻撃能力を持つことを目標として推進されたと思われる。

●日本が核ミサイルの標的に

 中国は、短期間に独自の核開発に成功し、アメリカに対する最小限核抑止力を獲得した。開発は、次のように進んだ。
 昭和39年(1964)に核実験に成功した中国は、昭和45年(1970)年4月、人工衛星を打ち上げ、IRBM(中距離弾道ミサイル)が完成していることを世界に示した。人工衛星打ち上げの成功により、中国は、日本とわが国にある米軍基地を攻撃することができるようになった。アメリカ本土を直接、核攻撃することはできないが、いわば日本人と在日米軍を人質に取ることによって、アメリカの核攻撃を断念させる「第二撃能力」を保有したわけである。文化大革命の大嵐の最中にも核ミサイルの開発は、着々と進んでいたのである。

 この年つまり昭和45年(1970)年に、中国は、わが国を核攻撃の対象とした。わが国は、中国の核ミサイルの標的になったのである。
 本年、平成18年(2006)の7月、北朝鮮がミサイルを乱射し、10月には核実験を強行した。それによって、国防について真剣に考える人が急増した。結構なことだが、わが国は、昭和45年以来、今日北朝鮮から受けている以上の脅威を、共産中国から受けているのである。政治家がそれを言わず、マスコミがそれを報じない。国民は、高度経済成長による「もの」の豊かさに酔いしれ、いまそこにある危機を、見て見えずという状態が続いてきた。

●核開発は一貫して実行

 現代中国研究では、1960年代は「不毛の10年間」とされる。だが、その10年間に、中国は核兵器を開発した。核兵器を保有することによって、中国は国際社会での存在感を強め、昭和46年(1971)に、台湾に替わって国連への加盟を果した。一気に、安保理の常任理事国となり、拒否権を持つ大国として強い発言力を持つに至った。
 平松氏は、1960年代は「不毛の10年間」どころか、「実りある10年間」だったと言う。中国は、大躍進や文化大革命によって、混乱・混迷を続けてきた。しかし、「政治・軍事の中枢は『正常』であり、『健全』に機能してきた」と平松氏は表現している。これが、共産主義国家の特質だと思う。
 全体主義においては、軍に対する民主的な規制はない。国民が生活に窮しても、軍は自律性をもって成長し得る。中国の共産党と人民解放軍の関係には、よくわからないところがあるが、党の指導部で権力争いの転覆闘争が繰り返されても、軍は核兵器の開発を遂行してきたものと見られる。それが、「実りある10年」をもたらし、1970年代以降、中国が飛躍する土台となったのだろう。

 次回に続く。