ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

新日英同盟4~グローバル・ブリテン構想と日本への期待

2021-03-31 08:29:21 | 国際関係
●イギリスのグローバル・ブリテン構想

 EU離脱後、イギリスは世界の舞台でどのような役割を果たすべきかについて、イギリス首脳部はかなり前から検討していたようである。2016年6月23日の国民投票で離脱が決定的になると、テリーザ・メイ首相(当時)は、離脱後の構想を発表した。それがグローバル・ブリテン構想である。メイを後継したジョンソンは、この構想を継承している。
 グローバル・ブリテン構想とは、イギリスがEUの規制から自らを解き放ち、活動の場を地球規模に広げ、世界各国との連携を通じて経済成長や影響力拡大を図ろうとする構想である。EU離脱によって国力が低下するのを防ぎ、自由貿易協定(FTA)や安全保障協力を通じて、新たな発展を目指す。経済・外交・安全保障に渡る総合的な戦略を以って、国家の針路を半世紀ぶりに大陸から海洋へ向け、特にインド太平洋地域に積極的に進出する構想である。
 メイ自身は、以前は離脱反対の立場だったが、国民投票で離脱が決まると、一転して積極的な構想を打ち出した。国民投票のわずか3カ月ほど後、10月2日の保守党大会で、メイは、首相の立場でグローバル・ブリテン構想について、イギリスが「自信と自由に満ちた国」として「ヨーロッパ大陸にとどまらず、幅広い世界で経済的・外交的な機会を求める」構想だと説明した。そして国民投票の結果は、イギリスが「内向きになる」ことではなく、「世界で野心的かつ楽観的な新しい役割を担う」ことへの決意の表れなのだと主張した。発想の転換は見事である。
 メイの言うイギリスの「新しい役割」には、安全保障上の役割が含まれる。具体的には、イギリス海軍がインド太平洋地域で「航行の自由」を守り、航海路と航空路の開放を維持するという役割がそれである。2016年に当時外相としてオーストラリアを訪問したジョンソンは、イギリス海軍が2020年代に空母クイーン・エリザベスとプリンス・オブ・ウェールズの2隻を南シナ海に派遣すると述べた。その後、首相となったジョンソンは、本年2月、クイーン・エリザベスの南シナ海への派遣を発表した。南西諸島を含む西太平洋に長期滞在するという。クイーン・エリザベスを中心とする空母打撃群は、空母の他、駆逐艦や補給艦などで構成され、世界最強の米海軍に次ぐ戦闘能力があり、一国の海軍力に匹敵するといわれる。西太平洋で米国または周辺国以外の国の空母打撃群が長期間活動するのは異例である。プリンス・オブ・ウェールズは、建造中で本年中に就航する予定である。
 2018年末、ギャビン・ウィリアムソン国防相は、2年以内に極東に軍事基地を設置する計画を明らかにした。ブルネイとシンガポールが候補地と伝えられる。また、近年イギリスは、イギリス、マレーシア、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランドの5カ国が1971年に結んだ防衛協定を根拠として、東南アジア・オセアニアにおける防衛活動を拡大している。

●イギリスの日本への期待

 グローバル・ブリテン構想において、イギリスが特に期待するのが、日本である。
2017年(平成29年)8月30日、メイ首相は、日本を訪問した。アジア諸国を歴訪するのではなく、安倍首相と会談するために来日したものだった。
 両首脳は、「日英共同ビジョン声明」、「安全保障協力に関する日英共同宣言」、「繁栄協力に関する日英共同宣言」を発表した。安倍首相は、自由、民主主義、人権、法の支配という基本的価値を共有する「グローバルな戦略的パートナー」としてイギリスを重視していると述べた。両首脳は、安全保障・防衛協力については、「自由で開かれたインド太平洋」の確保のための協力を含め、共同訓練,防衛装備品・技術協力、発展途上国の能力構築支援、テロ対策、サイバー等の分野で具体的協力を引き続き推進することを確認した。経済協力については、政治レベルの強い関与の下、EU離脱後の日英経済関係の強化に向けて緊密に連携していくことで一致した。世界の繁栄と成長のための協力については、少子高齢化、保健、女性の活躍の推進等の日英共通の課題への対応に関し、知見の共有のための国際的な取り組みを日英が連携して主導していくことで一致した。
 メイ首相は、安倍氏に対し、日本を「アジア最大のパートナーで、“like – minded” の国」と評した。like-minded は、「同じ心の」「同志の」を意味する。
 「英国人が『like-mindedの国』という表現を使うのは、オーストラリアやニュージーランド、カナダなど、英連邦の中でも英国と関係が深い『兄弟国』に対してだけだ。メイ前首相が日本を『like-mindedの国』と呼んだことは異例だった」と産経新聞論説委員・前ロンドン支局長の岡部伸氏は述べている。(『イギリスの失敗』PHP新書)
 岡部氏は、「安全保障協力に関する日英共同宣言」について、日英の安全保障協力を新段階に押し上げ、「日英関係をパートナーの段階から『同盟』の関係に発展させることを宣言した」と理解する。岡部氏によれば、メイはイギリスがグローバルパワーとして日本との「同盟関係」を活用し、インド太平洋地域の安定に関与していく方針を明確にした。「日英が互いを『同盟国』と公式に呼び合ったのは、1923年に日英同盟が破棄されて以来、初めてのことだった。すでに英政府は、2015年の国家安全保障戦略で、戦後初めて日本を『同盟』と明記した。日英関係を『同盟』という言葉を使って表現し始めたのは、英国側が先である。つまり日本側ではなく、英国主導で『日英同盟』が復活されたことを明記したい」と書いている。(同上)
 2015年とは、イギリスがデーヴィッド・キャメロン政権だった時である。岡部氏は、イギリスが日本を「同盟国(ally)」と明記したことを重視し、現在の日英関係を「新日英同盟」と表現する。私は、これには異論がある。旧日英同盟は、英語では Anglo-Japanese Alliance という。私が調べた限り、2017年の「安全保障協力に関する日英共同宣言」の英語版で、alliance(同盟)という言葉が使われているのは、世界の繁栄と成長のための協力に関する項目において、イギリス政府が主導しているネット上の児童への性的虐待を終わらせるための the WePROTECT Global Alliance においてのみである。これは、日英の同盟関係についていうものではない。またally(同盟国)という語もない。軍事同盟は、基本的に共通の仮想敵国を持つ国々が相互の安全保障のために締結するものである。だが、日英の安全保障協力は、そこまで確固たるものではない。準同盟であり、英語では quasi-alliance という。
 岡部氏は、2020年10月に刊行された著書『新・日英同盟 100年後の武士道と騎士道』(白秋社)に、次のように書いている。
 「日本の指導者は、中国にすり寄るよりも、イギリスとの関係をさらに強固にすべきである。『新・日英同盟』が構築されれば、日米に日本とイギリスを加えた日米英の連携で、グローバルかつパワーバランスが安定する海洋同盟が誕生する。さらに『新・日英同盟』に太平洋・インド洋に位置する英連邦加盟国との連携も組み合わせれば、ロシアや中国という強権的な大陸国家を囲い込んで、世界平和を担う史上初の『グローバル海洋同盟』が生まれる」と。
 この記述では、新日英同盟は、既に構築された同盟ではなく、これから構築されるべきものとされている。それが適切な認識である。
 日本は米国と安全保障条約を締結している。1952年(昭和27年)発効の日米安保条約は、第2次世界大戦の直後に戦勝国と敗戦国という特殊な関係のもとで、日米が結んだ条約である。対等の独立主権国家同士が結んだものではない。根本的には、日本は米国に基地を提供するだけだが、米国は日本に対して防衛の義務を負うという片務的な契約である。1960年(昭和35年)の改定によって、片務性はある程度改善され、さらに2015年(平成27年)に日本が集団的自衛権を限定的に行使するための法整備が行い、相互性が一定程度、強化された。ただし、日本国憲法は、第9条に戦力不保持と交戦権否認を定めているので、現行憲法のもとでは日米安保条約は十分な双務性を確立し得ない。
 日本は現時点で、イギリスとの間で、日米安保条約のような安全保障条約を締結していない。岡部氏の言う「新日英同盟」は、目指すべき目標であって、現在は安全保障協力関係を強化している段階である。私は、この協力関係を発展させて、対等の独立主権国家同士の安全保障条約を締結すべきと考える。その締結の前提として、現行憲法を改正し、日本人が自ら国を守る自主国防体制を構築することがある。この国防の基本を実現してはじめて、他国と安全保障条約を結ぶことに真の意義が生じる。

 次回に続く。

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仏教131~鈴木大拙の生涯と思想

2021-03-30 10:08:02 | 心と宗教
#鈴木大拙

・生涯
 西田の項目で触れた鈴木大拙は、世界的にその名を知られる仏教哲学者・仏教学者である。仏教、特に禅の思想の研究・普及に努力した。生年は1870年(明治3年)、没年は1966年(昭和41年)である。
 西田とともに四高、東大選科で学んだことは、既に書いた。大拙も、鎌倉円覚寺で禅を修行した。大学を出た2年後に渡米し、イリノイ州ラサールの出版社オープン・コートに入り、ドイツ人哲学者ポール・ケーラスに助力して東洋学関係の出版に従事した。そのかたわら、ケーラスと『老子道徳経』を共同で、『大乗起信論』を自身で英訳して発表し、1907年(明治40年)には英文で書いた『大乗仏教概論』を出版した。それによって、大拙は一躍、新進の仏教学者として欧米で注目されることになった。
 約12年間の対米生活を終えて帰国すると、東大や学習院で教えた後、大谷大学教授となった。また、東方仏教徒協会を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト』を創刊し、仏教と禅を広く世界に紹介した。1938年(昭和13年)に英文で書いた『禅と日本文化』は、欧米人に禅の思想を解き明かし、またその日本文化への幅広い影響を書いた名著である。北川桃雄による日本語訳版が1940年に出版された。
 大東亜戦争の末期、1944年(昭和19年)に出した『日本的霊性』は、宗教意識を霊性と呼び、日本的霊性は鎌倉時代に目覚めたとし、浄土系思想と禅がその最も純粋な姿だと主張するものである。本書で大拙が説いた「即非の論理」と西田の「絶対矛盾的自己同一」の関係については、先に書いたところである。
 大戦終結後、大拙は再び米国に渡り、コロンビア大学、ハーバード大学等で仏教思想を講義した。この時の在米は約10年間に及び、禅のブームをもたらすとともに、東西の思想・文化の交流に大きく貢献した。晩年には、親鸞の『教行信証』を英訳している。
 96歳と長命だったが、最後は、腸間膜動脈血栓症のため、「苦しい、わしゃかなわん」と叫びながら亡くなった、と報じられた。長年、参禅し、仏教の研究・普及に献身した彼のような人物でも、大安楽往生を達成することは、出来なかったのである。

・思想
 大拙は、『禅と日本文化』で、禅の思想的な特徴について、次のように述べている。 「禅は精神に焦点をおく結果、形式(フォーム)を無視する。すなわち、禅はいかなる種類の形式のなかにも精神の厳存をさぐりあてる。形式の不十分、不完全なる事によって、精神がいっそう表われるとされる」と。そして、次のように、禅では直覚的経験を重んじることを強調する。「哲学的見地からは、禅は知性主義に対立して直覚を重んじる。直覚の方が真理に到達する直接的な道であるからだ」。
 そして、禅の思想が、日本の諸美術、武士道、儒教、茶道、俳句等に深く影響を与えていることを明関している。例えば、茶道については、次のようにいう。「禅の茶道に通うところは、いつも物事を単純化せんとするところに在る。この不必要なものを除き去ることを、禅は究極実在の直覚的把握によって成しとげ、茶は茶室内の喫茶によって典型化せられたものを生活上のものの上に移すことによって成しとげる」と。
 大拙の思想が最もよく表れているのは、『日本的霊性』である。大拙は、霊性という言葉を「宗教意識」の意味で使っている。そして、「霊性の日本的なるもの」とは、「浄土系思想と禅とが、最も純粋な姿でそれである」という。神道は「まだ日本的霊性なるものがその純粋性を顕わしていない」。「霊性的直覚なるものは、まず個己の霊の上において可能である。即ち一人の直覚である。ところが神道には、集団的・政治的なものは十分にあるが、一人的なものはない」と指摘する。「古代の日本人には、本当に言う宗教はなかった。彼らは極めて素朴な自然児であった。平安時代を経て鎌倉時代に入って、初めてその精神に宗教的衝動を起こした、即ち日本的霊性の目覚めがほの見えた。この衝動の結果として、一方には伊勢神道なるものが起こり、他方には浄土系統の仏教が唱えられるようになった。日本人はこのとき初めて宗教に目覚めみずからの霊性に気づいた」という。
 大拙によれば、仏教も鎌倉時代以前には、「まだ十分に日本的霊性の所産とならなかった」。「平安時代には、伝教大師や弘法大師を始め、立派な仏教学者も仏教者もずいぶん出ている。しかし、わし(大拙)は言う、ーー日本人はまだ仏教を知らなかった、仏教を活かして使うものを、まだ内にもっていなかった」。そして、「日本的霊性なるものは、鎌倉時代で初めて覚醒した」「鎌倉時代になって、日本人は本当に宗教、即ち霊性の生活に目覚めたといえる」と主張する。
 ここで大拙の思想の最も個性的な部分は、大地の強調である。「鎌倉時代になって、政治と文化が貴族的・概念的因襲性を失却して、大地性となったとき、日本的霊性は自己に目覚めた」「鎌倉時代は、霊の自然、大地の自然が、日本人をしてその本来のものに還らしめたと言ってよい」というのである。さらに、次のようにまでいう。
 「我らの考えが大地遊離的方向に進むと、そこに地獄も極楽もあるが、我らは大地そのものであるということに気付くと、ここが直ちに畢覚浄の世界である。考えそのものが大地になるのである、大地そのものが考えるのである。そこに大悲の光がひらめく。大悲のあるところが極楽である、それのないところが地獄必定である。真宗の信仰の極致がここに在る」。
 そして、大拙は、この見方を親鸞に結び付ける。「本当の鎌倉精神、大地の生命を代表して遺憾なきものは親鸞聖人である」「親鸞の宗旨の具象的根拠は大地に在ることである。大地というは田舎の義、百姓農夫の義、智慧分別に対照する義、起きるも仆れるも悉くここにおいてするの義である」「大地の生活は真実の生活である、信仰の生活である、偽りを入れない生活である、念仏そのものの生活である」という具合である。
 私見を述べると、最後の一文は、鈴木正三の「仏法即世法」「農業即仏行」の思想に通じる。正三については、彼の項目に書いたが、大拙は『日本的霊性』に正三の言行録である『驢鞍橋(ろあんきょう)』から、「農業すなわち仏行なり(中略)しかるあいだ農業を以て業障を尽くすべしと、大願力を起こし、一鍬一鍬に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と耕作せば、必ず仏果に至るべし」という言葉を引用している。
 大拙の「日本的霊性」とは、いわば「大地」の「宗教意識」である。「大地の生活」「大地そのもの」の霊性なのである。だが、仏教は本来、輪廻からの解脱を目指す宗教である。現世志向の宗教ではない。ましてや大地に根差す信仰ではない。大地に根差す信仰は、農耕民族の宗教である。土を耕し、田に稲を植え、育て、採れた作物を神々に感謝して捧げる。大地に生まれ、土に帰っていく。そうした日本人の生き方は、神道という固有の宗教にこそ最もよく表れている。大拙は、日本独自の宗教である神道の特徴を一面においては良くとらえていながら、神道の本質を深く理解しておらず、そして仏教については、大地を強調する非常に個性的な理解をしていたのである。そして、大拙は神道への理解不足と仏教の独自の解釈を以って、日本的仏教を世界に伝えたと言わざるを得ない。

 次回に続く。

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新日英同盟3~イギリスがクアッドにも参加希望

2021-03-29 10:15:13 | 国際関係
●イギリスがクアッドにも参加希望

 イギリスは、世界的な活動を行う軍隊を持つ軍事大国の一つである。ヨーロッパ最強の軍事力と世界屈指の情報機関を持つ。イギリス軍はイギリス本国と海外各地にある領土を防衛し、英連邦諸国を中心に世界各地に約80の軍事基地がある。
 経済面での連携と安全保障面での協調は、表裏一体である。それが外交の常識であり、イギリス首脳部は、当然そのことをよく理解している。イギリスは、経済面でのTPPへの加盟申請とともに、安全保障面では日米豪印の4カ国による戦略対話「クアッド」への参加を希望している。クアッドは、「四つ子」を意味する。
 この戦略的な対話は、日本の提案によって始まった。日本は、独力で軍事大国・中国から自国を防衛することは出来ない。そこで米国との安全保障条約を維持して、米国の防衛協力を得ている。しかし、中国は海洋進出を図っており、日米同盟だけでは、中東から日本へ石油を運ぶシーレーンを中国から防衛することは出来なくなっている。そこで、安倍晋三前首相は、強大な中国を封じ込めるため、日米豪印の4カ国による「セキュリティ・ダイヤモンド」構想を打ち出した。それをもとに、より広く地域の国々に呼びかけたのが、「自由で開かれたインド太平洋」構想である。米国のドナルド・トランプ前大統領は、「自由で開かれたインド太平洋」構想に賛同し、自国のインド太平洋政策に組み入れた。日本の政治家が提案した戦略的な構想を米国の最高指導者が採用したのは初めてのことである。
 「自由で開かれたインド太平洋」構想の中核となるのは、日米豪印の4カ国である。これら4カ国が行っているのが、クアッドである。クアッドは、実質的に共産中国に対抗するための安全保障面での連携である。ただし、緩やかな連携である。北大西洋条約機構(NATO)のような共同軍事行動は考慮していない。理由は、日本の事情による。わが国は、憲法に戦争放棄とともに戦力不保持・交戦権否認を定めており、国防を米国との安全保障条約に依存している。米国以外の国とは単純には集団的自衛権を行使できない。そのため、現状では日米豪印の連携は緩やかなものとならざるを得ない。また、インドは、中国と国境紛争を繰り返していながらも敵対化は避けようとしており、かつ非同盟政策を伝統としており、この点でも4か国の連携は現状では緩やかなものとならざるを得ない。
 米国のトランプ前大統領は、クアッドを含む中国包囲網の構築を積極的に進めた。ジョー・バイデン大統領も、本年1月20日の就任後、菅義偉首相と初めて行った電話会談で、クアッドの協力関係を強化することで一致した。1月29日、ジェイク・サリバン大統領補佐官(国家安全保障問題担当)は、バイデン政権が中国に厳然とした対応を取っていくと強調し、クアッドによる協力が「インド太平洋地域における米政策の基礎となる」と述べた。米国がこのような方針を明らかにした同じ29日、イギリスのジョンソン首相は、記者会見でクアッドへの加盟を希望する意思を表明した。イギリスと米国の間に連携があることがうかがわれる。
 ジョンソンは、この時の発言で、G7にオーストラリア、インド、韓国を加えて「D10」に発展させるべきだとも語った。「D」はDemocracyの「D」である。オーストラリア、インド、韓国はいずれもインド太平洋地域の国々であり、イギリスがこの地域を重視していることは、「D10」に関する発言にも表れている。
 3月12日、クアッドを行っている日米豪印4カ国が、初の首脳会合をテレビ会議形式で開催した。菅首相、バイデン米大統領、スコット・モリソン豪首相、ナランドラ・モディ印首相は共同声明で、東シナ海・南シナ海での共産中国の強引な海洋進出を念頭に海洋安全保障の協力促進をうたった。「民主的価値に支えられ、威圧によって制約されることのない地域のために尽力する」と強調し、中国を名指しせずに、「東シナ海および南シナ海におけるルールに基づく海洋秩序に対する挑戦に対応する」との文言を盛り込んだ。
 首脳会談を主催したバイデン大統領はクアッドを基軸に、「自由で開かれたインド太平洋」構想を主導する姿勢を明確に打ち出した。インド太平洋地域での共産中国との関係を「民主体制と専制体制との競争」と位置付け、4カ国の連携を緊密化させていく考えを示した。4首脳は年内に対面形式で会合を開催し、外相レベルでは少なくとも年に1回は会議を行うことでも合意したと伝えられる。
 私としては、「クアッド(四つ子)」に参加を希望しているイギリスを加え、「クインズ(五つ子)」へ発展させるとよいと考える。イギリスは、インド太平洋地域に多くの英連邦加盟国を持つ。イギリスが加わると、より強力な対中包囲網が出来る。経済面だけでなく安全保障の面でも、イギリスをインド太平洋地域に参入させることは、地域の平和と繁栄に大きなプラスとなる。

●英中関係と香港問題

 イギリスは現在、香港や新疆ウイグル地区などでの人権問題をめぐり、共産中国への非難を繰り返している。この点からも日米豪印との連携を強めたいという考えと見られる。
 イギリスは、かつてインド太平洋地域に多くの植民地を所有していた。そのほとんどは第2次世界大戦後、独立したが、香港はイギリス領であり続けた。1984年に共産中国との間で、香港の返還や返還後の統治体制について合意し、英中共同声明を出した。香港には中国本土の社会主義を適用せず、「従来の資本主義体制や生活様式を返還後50年間維持する」と明記し、「一国二制度」を保障するものだった。声明に基づいて、1997年7月1日、イギリスは香港の主権を中国に返還した。声明の趣旨は、返還前の1990年に成立した香港基本法に盛り込まれた。同法は香港の憲法にあたるもので、言論や報道の自由、デモやストライキの権利など、中国本土では制限される各種の権利を認め、香港政府には「行政管理権、立法権、独立した司法権および終審権」を与えている。
 返還の50年後とは、2047年に当たる。その年まで「一国二制度」が保障されていた。そこには、50年も経てば、経済発展するとともに中国は民主化されるというイギリス側の甘い期待があった。ところが、中国共産党政府は、近年香港への弾圧を強めており、2020年(令和2年)7月1日に、遂に香港に対して国家安全維持法を適用した。英中共同声明を無視した行為である。香港の旧宗主国であるイギリスにとって、この約束違反は看過できないことである。また香港には、今も多くのイギリス人が住み、イギリス資本も多く入っている。
 香港への国家安全維持法の適用に対し、イギリス政府は速やかに対抗措置を取った。香港市民のうち約300万人に、イギリスの市民権申請を可能にしたのである。対象となるのは、1997年の香港返還以前に生まれた香港市民の持つことができるイギリス海外市民(BNO)パスポートの保持者、及び申請資格者である。人口750万人ほどの香港で、約300万人とは、約4割に上る。イギリス政府は、また香港問題の対応で、米国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドなど機密情報を共有する「ファイブ・アイズ」の国々と協調し、対中政策を主導的に進めている。
 イギリスは、香港問題で共産中国への姿勢を強めていることが、クアッドへの参加希望につながっている。

 次回に続く。

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 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
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仏教130~西田幾多郎の思想(続き)

2021-03-28 08:35:53 | 心と宗教
・思想(続き)

④逆対応と平常底
 これまで書いてきた西田の思索の到達点が、1945年(昭和20年)4月に脱稿した最後の論文『場所的論理と宗教的世界観』である。ここで西田は、親友の鈴木大拙が1944年(昭和19年)発表した『日本的霊性』に刺激を受け、大拙が本書で書いた「即非の論理」について考察した。
 「即非」とは、『金剛般若波羅蜜経』で説かれるもので、「般若即非」ともいう。「仏の般若波羅蜜と説くは即ち般若波羅蜜に非ず、是れを般若波羅蜜と名づく」とあるのが、「即非の論理」の由来である。鈴木大拙は、著書『禅と日本文化』(原書は1938年刊)でも、この点に触れ、大意次のように書いている。「般若経に『諸心皆為非心、是名為心』というので、要約して『即非の論理』」という。「『心は心に非らざるが故に心なり』で、否定がすなわち肯定で、否定と肯定とは相互に『非』の立場にある。絶対に相向い立っているが、この『非』の立場が、ただちに『即』である。自分はこれを禅の論理というのである。『即非』はまた『無分別の分別』『無意識の意識』でもある」と。
 西洋には、「即非の論理」と同じ判断は存在しない。形式論理学では「AはAである」という判断を自同律という。これはAの自己同一性を表す文である。これに対し、「般若の論理」を判断式で表すならば、「AはAではない。ゆえにAである」となる。西田も、本論文に「仏仏にあらず故に仏である、衆生衆生にあらず故に衆生である」と書いている。一度、AがAであることを否定したうえで、Aであると肯定する。単なる肯定ではなく、否定を媒介した肯定である。これは、Aの実相は、通常考えているようなAではない。主観・客観の区別を超えた直観によってのみ、物のありのままの真相がとらえられるという意味と推察される。また、こうした物の真相を直観する智慧を般若というので、「即非の論理」は「般若の論理」ともいうわけである。
 「即非」における「即」という用語は、西田哲学でも使われてきた。「一即多」「内即外」「主観即客観」等である。「即」の前後に相矛盾する概念が置かれ、それらが「即」で結ばれる。そのもとをたどれば、日本天台宗の本覚思想に行き着く。本覚思想では、煩悩即菩提、生死即涅槃、娑婆即浄土のように反対概念を「即」の語で結び、不二一体を表現する。本覚思想は、禅宗や浄土宗にも深い影響を与えた。西田は、この本覚思想における「即」を論理学的に解き明かそうとしたと考えられる。本論文でも「永遠の生命は生死即涅槃という所にある」等と書いている。
 西田は、大拙の「即非の論理」を、自身の場所的論理によって、「絶対矛盾的自己同一」ととらえる。そして、絶対矛盾的自己同一が神と人間の関係を表すとともに、現実の歴史的世界の論理構造でもあると主張する。
 西田は、論文『場所的論理と宗教的世界観』で、「絶対矛盾的自己同一」に「逆対応」と「平常底」という用語を加えて、宗教的な世界観を論じている。
 逆対応とは、絶対者と自己、神と人間、仏と衆生との間の関係を表わす概念である。絶対的に隔絶し、逆方向の極端にあるものが、相互に自己否定的に対応し合っていることをいう。西田は、本論文で、「神と人間との対立は、どこまでも逆対応的であるのである。故に我々の宗教心というのは、我々の自己から起るのではなくして、神又は仏の呼び声である。神又は仏の働きである。自己成立の根源からである」と書いている。また、「我々の自己は、どこまでも絶対的一者と即ち神と、逆限定的に、逆対応的関係にある」と書いている。そして、こうした観点から、西田は、親鸞の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という思想は、この逆対応を表わすものととらえている。また、大燈国師の「億劫相別れて而も須臾(しゅゆ)も離れず、尽日相対して而も刹那も対せず」という言葉も、その例として挙げている。
 平常底は、「平常心是道」等に使われる平常心とは違う。西田独特の言葉である。平常底の立場とは、「歴史的世界の永遠の過去と未来と、即ち人間の始と終との結合の立場、最深にして最浅、最遠にして最近、最大にして最小の立場」だと西田はいう。この文は、まず逆対応の関係を時間的な側面からとらえている。過去と未来、始まりと終わりが同時に存在し、その永遠の現在の自己限定として現在があるという時間論に基づくものである。西田は、この平常底を歴史的世界の根底とする。また、この根底とは、先の文で「最深にして最浅、最遠にして最近、最大にして最小」というように相異なるものが統一された絶対的な次元を示唆している。
 「絶対矛盾的自己同一」は論理学的な用語だが、西田は日常語をもとに作った言葉で、これを表現している。「絶対矛盾的」を言い換えたのが「逆対応」であり、「自己同一」を言い換えたのが「平常底」といえるだろう。
 西田は、本論文で場所的論理によって「即非の論理」を哲学的に考察したうえで、宗教的な世界観について述べる。「絶対矛盾的自己同一的場所の自己限定として、場所的論理によってのみ、宗教的世界というものが考えられる」と、西田は書いている。

⑤普遍的な次元を切り開いた哲学
 最後の論文『場所的論理と宗教的世界観』で、西田は、それまで主に依拠していた禅の自力的修行の思想から、浄土信仰の他力的信仰の思想へと重点を移している。そして、親鸞の説く悪人正機や阿弥陀仏の名号をもって、絶対矛盾的自己同一の典型例としている。ここには、禅と浄土信仰が合体した禅浄一致の思想の影響が明らかである。
 西田哲学は、西田の参禅体験と仏教に対する深い理解に基づくもので、まぎれもなく日本仏教を背景とした哲学である。ただし、それは、単なる仏教的哲学ではない。西田は、本論文で、場所的論理でとらえた一般者を「神」と呼び、キリスト教の一神教的な信仰にも深い理解を示した。「絶対無」を「絶対の無即有」、「絶対無の一般者」を「絶対的一者」とも書いている。
 西田は、絶対矛盾的自己同一の場所的論理による自身の哲学を、汎神論ではなく万有在神論であると自認していた。万有在神論の神は、宇宙神である。神と人間の関係には超越と内在がある。万有在神論は、神を対象的・超越的にとらえるか、一体的・内在的にとらえるかによって立場が分かれる。西田哲学における神は、対象的超越的方向に想定した神ではない。自己の内の内、あるいは底の底に想定した神である。
 超越者が人間に内在すると考えるのは、超越的内在である。人間の自己の内に超越者を求めるのは、内在的超越である。キリスト教の神は超越神であり、イエス=キリストは超越的内在である。これに対して、大乗仏教の仏性は内在的超越である。西田哲学は、内在的超越型の万有在神論と言える。
 西田は、本論文の結尾部に、「ただ私は将来の宗教としては、超越的内在よりも内在的超越の方向にあると考えるものである」と書いている。超越的内在の方向に考えられる絶対者は、われわれの自己とは別個の人格である。これに対して、内在的超越の方向に考えられる絶対者は、究極的には、真の自己である。この場合、神と自己、仏と衆生は隔絶したものではなく、両者は不二一体である。その関係を西田は、「絶対矛盾的自己同一」とし、逆対応と平常底で表現していると理解される。ここでは、真の自己を探求する道は、神という全体性・根源性へ向かう道となっているのである。
 それゆえ、西田哲学は、単なる仏教的哲学ではなく、キリスト教に基づく思想をも包含し得る、人類に普遍的な次元を切り開いた哲学と評価されるべきものである。ただし、その継承・発展は困難である。それは、哲学の本質的な性格による。
 科学においては、ある科学者が見出した法則や発見は、その科学者の人格を離れて、客観的な知識として共有され、蓄積されていく。そこに科学の発達がある。哲学は、思索によって真理に到達し得る可能性がある。だが、哲学は、仮にある哲学者が真理に接近し得て、その後継者が先駆者の哲学を受けてさらに発展させようとしても、科学とは異なり、思索は蓄積的に発展しない。後継者は、先駆者の影響を受けながら、新たな哲学を生み出す。その繰り返しが哲学史である。

 次回に続く。

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 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
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 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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新日英同盟2~イギリスがTPPに加盟申請

2021-03-27 10:12:59 | 国際関係
●イギリスの国勢と英連邦

 イギリスは、正式には「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」(the United Kingdom)という。本稿では、通称としてイギリスと英国を使う。
 イギリスは、世界の主要7か国(G7)の一員であり、また国際連合(連合国)の安全保障理事会の常任理事国でもあって、国際社会に一定の影響力を持つ。
 日本の人口は、1億2581万人で世界11位である。イギリスの人口は、6644万人で世界第22位であり、日本の半分ちょっととなる52.9%である。日本のGDP(2020年、市場為替レート[MER])は、4兆9106億ドルで世界第3位だが、イギリスのGDP(同上)は、2兆6,383億ドルで世界第6位である。GDPでも日本の半分ちょっとの53.7%である。ヨーロッパでは、ドイツに次ぐ第2位を占める。
 イギリスは、ユーラシア大陸の西端に位置する島国である。大陸の半島のような位置にあるヨーロッパ諸国とは、適度な距離を置いて、独自の文化を発展させた。17世紀からいち早く近代化を進めて海洋に進出し、七つの海を股にかけた大英帝国を築き上げた。18世紀半ばから20世紀初頭まで、世界最大の覇権国家だった。今日、その歴史を留めているのが、英連邦(Commonwealth of Nations)、通称コモンウェルスである。コモンウェルスは「公共善 (common good)」を意味し、そこから公益を目的として組織された政治的共同体を意味する。コモンウェルス・オブ・ネイションズ(国民国家共同体)としての英連邦は、旧大英帝国の領土のほぼすべてに当たる54の加盟国からなる。連邦の首長はイギリス国王であり、今日、女王エリザベス2世は、君主制の加盟国のうち16か国の元首である。他に独自の君主を持つ5か国と33の共和国がある。
 加盟国は、西アジアではインド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ等、東南アジアではシンガポール、マレーシア、パプアニューギニア、ブルネイ等、オセアニアではオーストラリア、ニュージーランド、フィジー、ソロモン諸島、トンガ等、南北アメリカではカナダ、トリニダード・トバコ等、アフリカでは南アフリカ、モザンビーク、ルワンダ等と、広範囲に存在する。加盟国の総面積は、世界の国土面積の20%にあたり、総人口は世界人口の3分の1近くに上る。
 加盟国は、英語の使用と歴史的・文化的なつながりを持つ。また、英連邦憲章には自由、民主主義、人権、法の支配という共通の価値観が明記されている。だが、加盟国は、法的義務を負っておらず、政治的にまとまることもない、緩やかな独立主権国家の連合体を形成している。実利的な結びつきでは、発展途上国への経済援助と開発投資が大きな役割を果たしている。また軍事的には、1971年にイギリス、オーストラリア、ニュージーランド、マレーシア、シンガポール5か国が英連邦5か国条約を結ぶなど、一部の加盟国間では緊密な防衛協力が行われている。
 日本がイギリスと経済と安全保障の両面で関係を深めれば、日本と英連邦諸国との関係も広がるだろう。

●イギリスがTPPに加盟申請

 第2次世界大戦後、イギリスは、歴史的につながりの強いアメリカとの関係を重視し、大陸ヨーロッパの諸国には一定の距離を置いていた。しかし、各地の植民地を失ったイギリスは、それに替わる市場を必要としたため、ヨーロッパ共同体(EC)への加盟を求めるようになった。加盟はフランスなどの反対で拒否されていたが、1973年に実現した。1970年代末のイギリスは「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほど経済が停滞した。ECの市場に頼らざるを得なかった。ECはその後、1993年にヨーロッパ連合(EU)に発展した。EU加盟国の多くは統一通貨ユーロを採用したが、イギリスはユーロを採用しなかった。自国の通貨ポンドを保った。ここにイギリスの誇りと忍耐心を見ることができる。
 43年間加盟していたEUからの離脱をイギリスが選択できた最大の要因は、ユーロを採用せず、自国で発行する通貨を持ち、独自の金融政策を行なう経済的な主権を守ったことにある。そのことが、イギリスに別の道の選択を可能にした。英国民の強い主権意識こそ、沈みゆくヨーロッパ大陸から離れて、自国の運命を切り開く推進力となるだろう。
 EUを離脱すれば、イギリスは、それまでEUに合わせていた移民、労働、環境等に関する規制を自国の判断で決めたり、自由に通商政策を行なうことが可能になる。またそれによって、経済の競争力の向上を図ることもできる。こういう見通しを以って、イギリスは離脱への移行期間に、EU諸国と個別に自由貿易協定(FTA)の実現を進めた。イギリス議会の上下両院が批准に向けた関連法案を可決し、女王の裁可を得ており、EU側もFTAを暫定発効させる準備を終えている。それゆえ、イギリスがEUを離脱した後も、関税なしの自由貿易が維持されている。
 ただし、EUとの人やモノ、サービスの自由な移動がなくなったので、そのための混乱は避けられない。また、イギリスの金融機関は、EU加盟国で認可を受けない限り、EU域内で取引ができなくなった。認可を得るために業務をEU域内に移す金融機関が相次ぎ、世界の金融センターの一つであるロンドンから事業や人材が流出することが懸念されてもいる。ロンドンには、ニューヨークのウォール街と並ぶ金融街シティーがある。
 だが、イギリス首脳部は、アジア太平洋地域にチャンスを求めるという大胆な方針を採った。そして、TPPへの加盟を申請した。これは欧米だけでなくアジア諸国との貿易も重視したいという考えによる。ボリス・ジョンソン首相は「世界と自由貿易を進め、英国史に新たなページを開く」として、その意義を強調している。
 現在のところ、イギリスからTPP加盟国への輸出は同国全体の8%に過ぎない。しかし、TPP11カ国は5億人の人口と世界のGDPの13.5%を占める。そのうえ、EUよりも高い成長性が見込まれている。加盟国との間で関税が引き下げられた後の経済効果は非常に大きい、とジョンソン政権は期待している。
 TPPは、当初、オバマ政権の米国が主導して協議が進められた。しかし、2017年(平成29年)1月に発足したトランプ政権は、方針を転換し、TPPから離脱した。その後、日本が中心になって、米国を除く11か国で協定をまとめ直し、2018年(平成30年)に発効した。日本にとっては、米国への経済的な従属を決定的にする窮地を脱し、逆に主導的に地域の経済連携を進められるようになった。私は、最悪から最善に転じた僥倖だと思っている。
 TPPの発効後、当初の参加国以外で正式な加盟申し入れをしたのは、イギリスが初めてである。加盟交渉は、今春から始まると見られる。イギリスは、太平洋に英領ピトケアン諸島を持つ。太平洋諸国であることはTPPの参加条件ではないが、仮にその点について指摘されても問題がない。TPPの議論を主導してきた日本にとっては、イギリスの加盟申請は、加盟国の拡大を実現する好機である。イギリスの加盟が実現すれば、自由貿易圏としてのTPPの影響力は増大することが確実である。また、イギリスがインド太平洋地域との関係を強めれば、他の欧州諸国も刺激を受けてアジア・オセアニアとの関係強化のためにTPPへの参加を検討する可能性がある。欧州諸国が参加すれば、イギリスは欧州とアジア・オセアニアとの結節点になり得る。また、イギリスの加盟によって、英連邦からの加盟国が増えるだろう。これも大きなプラスとなる。
 ここであらためて注目されるのが、TPPに対する米国と中国の態度である。トランプ政権を後継したバイデン政権は、TPPへの復帰には慎重ないし消極的と伝えられる。2021年(令和3年)3月現在、同政権は新型コロナウイルスへの対策や国内の雇用拡大を最優先課題としており、経済外交への交渉はまだ本格的には始まっていない。イギリスの加盟は、米国がTPPへの復帰を再考するきっかけになるかも知れない。
 TPPは高い水準の経済の自由化を目指している。そこには、共産中国に対する経済的な包囲網を作るという狙いが含まれている。私は、米国が主導的だった段階で、日本にとってTPP加盟に利益があるとすれば、対中政策だけだと考えていた。日本が主導的になった後も、この点の有効性は保っている。それゆえ、イギリスの参加が実現すれば、対中包囲網を強化することにつながる。中国もTPP参加の検討を表明しているが、TPPが求める自由化水準を達成するには、ハードルが高い。私は、共産中国が「一帯一路」構想を進めている限り、TPPは中国抜きでいくべきと思う。

 次回に続く。

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仏教129~西田幾多郎の思想

2021-03-26 08:50:27 | 心と宗教
・思想

 西田の哲学は、求道者の哲学である。彼は、常に真の自己を探求し、真理への到達を目指した。

①純粋経験が出発点
 西田は、『善の研究』で、西洋哲学と東洋思想の比較の上に立って、自身の禅体験で得たものを西洋哲学の概念と論理で表現することを試みた。本書は、第1編「純粋経験」、第2編「実在」、第3編「善」、第4編「宗教」の4編で構成されている。
 近代西洋哲学は、キリスト教文化圏で科学が発達するなか、デカルトが主観と客観、物質と精神を分ける主客二元図式と物心二元論を打ち立てたことに始まる。カントは、その枠組みのもとで、人間理性を基礎づけてその能力の限界を定め、科学と道徳を両立させる批判哲学を構築した。デカルトは物質と精神をそれぞれ独立した実体としたが、スピノザは神を唯一の実体とする汎神論的な一元論を説いた。その影響を受けたフィヒテとヘーゲルは、カントの二元論に不満を持ち、再び主客を統一する一元論の哲学を展開した。フィヒテは自我を主体とし、ヘーゲルは神を実体にして主体とした。デカルトからヘーゲルまでの系譜は、プラトン以来の観念論の諸形態である。マルクス・エンゲルスは、デモクリトス以来の唯物論の立場からこれを批判し、唯物論による一元論の哲学を打ち出した。こうして観念論と唯物論、二元論と一元論が対立する思想状況が生まれた。
 西田が西洋哲学に触れた19世紀末、アンリ・ベルクソンは、分割不可能な意識の流れを「持続」と呼び、身体と精神は持続の律動を通じて相互に関わり合うと説いて、デカルトの物心二元論を乗り越えようとした。この持続の一元論から意識・時間・自由・心身関係を考察した。また、ウィリアム・ジェイムスは、主観と客観、精神と物質の対立を超えたところに、具体的実在としての意識の流れがあると説いた。意識の流れは根源的な「純粋経験」であり、抽象的な観念や思想は、この流動する意識の流れから二次的に作り出されたものであるとした。
 西田は、こうした近代西洋哲学の課題に対し、自らの参禅体験に則り、主客が分離する以前の状態を思索の出発点とした。西田は、『善の研究』で主客未分の状態を、ウィリアム・ジェームズの用語に示唆を得て、「純粋経験」と呼ぶ。西田の純粋経験は、主客未分の、あるがままの事物の直接的な知覚をいう。西田は純粋経験が唯一の実在であると考え、それを自己の根本的立場とした。そして、純粋経験からすべてのものを説明し、純粋経験の発展の諸相としてすべてのものを見る観点から、本書で実在、善、宗教の諸問題を論じている。

②無を根本に置く
 『善の研究』は近代日本の知識人に大きな感動と影響を与えたが、本書は、西田の悪戦苦闘の始まりに過ぎなかった。西田は「純粋経験」の立場から進んで、「自覚」の考察に向かった。自覚とは、知るものと知られるものとが一体である主客未分の直観的な意識と、それを外側から眺める反省的な意識とが内的に結合され、統一された状態である。 「自覚」における直観と反省を考察した西田は、西洋の「有」を根本に置いた哲学に対し、東洋の「無」を根本に置いた哲学の構築を模索した。西田における「無」は、シナの老荘思想の影響を受けた禅の思想に基づいている。また、単なる直観の哲学ではなく、直観の内容を反省によって論理的に思考し、直観と論理の統一を目指すのが、西田哲学の基本姿勢となった。
 西田の「無」を根本に置いた哲学の模索において、重要な部分を占めたのが、論理学の徹底的な検討である。
 アリストテレスの形式論理学では、個物―特殊―普遍という概念の関係が立てられる。判断は、言語によって行う。文は主語と述語からなり、「AはBである」という形式をとる。判断式における主語と述語は、特殊と普遍の関係に対応し、主語は特殊を、述語は普遍を表す。例えば、「人間は動物である」という文において、主語は特殊、述語は普遍である。また、動物を基準にすると、人間は動物より下位であり、これを類という。また生物は動物より上位であり、これを種という。このような種と類の系列において特殊と普遍の関係を分析すると、系列の最初に、主語にはなっても述語にはならないものがなければならない。それが、真の意味の個物であり、アリストテレスはこれを第一実体と呼ぶ。これに対して、類・種は第二実体とされる。
 アリストテレスは、主語が述語を有すると考え、主語の側から述語を説明する。西田は、これを「主語の論理」と呼ぶ。これに対し、ヘーゲルは、述語が主語に自己自身を限定すると考え、述語の側から主語を説明する。西田は、これを「述語の論理」と呼ぶ。ヘーゲルの絶対的観念論の弁証法は、「述語の論理」による論理学である。ヘーゲルは、述語的一般者である神を実体かつ主体とし、その弁証法的な自己運動として世界史をとらえた。西田は「述語の論理」の側に立ったうえで、ヘーゲルにおける述語的普遍即ち一般者は「有の一般者」であるとし、その底に存在の根拠としての「無の一般者」を想定した。そして、「無の一般者」の自己限定としての新たな弁証法を生み出した。それが、場所的論理による弁証法である。
 西田の哲学は、究極の普遍である「無の一般者」が自己限定することによって、様々な特殊や個物が存在するという世界観である。これは、普遍の観念を存在の根源とする観念論である。ヘーゲルの哲学がキリスト教的な絶対有の弁証法的観念論であるのに対して、西田の哲学は仏教的な絶対無の弁証法的観念論である。

③絶対矛盾的自己同一
 無の一般者とは、絶対に対象化できないものであり、これを「絶対無の一般者」という。この絶対無の一般者を、西田は「場所」ともいう。主語的な個物がそこにおいてある述語的な場所という意味である。場所といっても、現実的な空間のことではなく、意味の領域である。そして、西田は、個物は絶対無の一般者である場所の自己限定として存在するとした。また、絶対無の一般者を「神」ととらえて、神と人間の関係を「絶対矛盾的自己同一」という論理構造でとらえた。ここで神とは、キリスト教的な超越神ではなく、万有在神論的な神である。
 「絶対矛盾的自己同一」とは、絶対に矛盾し対立するものが、矛盾・対立しながら、同時に自己同一を保持していることをいう。形式論理学では、同じものが同じ関係において、同時にAかつ非Aであることはあり得ないとする。これを矛盾律という。「絶対矛盾的自己同一」は、矛盾律に反する。だが、西田は、個物と普遍に「多」と「一」という概念を組み合わせて、個物的多と普遍的一には、「一即多、多即一」の構造があると主張する。
 「一即多、多即一」とは、「一」が「一」でありつつ同時に「多」であり、「多」が「多」でありつつ同時に「一」であることを表す。事物を運動の相でとらえる弁証法の論理においては、過程的には「一」が「多」となり、「多」が「一」となる。昨日の自分と今日の自分、明日の自分は、それぞれ異なるが、同じ自分である。すなわち、「一即多、多即一」である。
 だが、西田が生み出した弁証法は、過程的な側面を持つだけでない。彼の弁証法は、絶対無の一般者の場所を想定した場所的論理の弁証法である。この場所的論理の弁証法において、「一即多、多即一」は、単に過程的でなく、同時に構造的である。構造的とは、非時間的な論理的関係をいう。集合の概念で考えれば、「多」を一つの集合ととらえるとき「一」であり、「一」の集合の要素は「多」である。こうした過程的かつ構造的な「一即多、多即一」の論理は、絶対無の一般者という絶対的次元においてのみ成立する。
 西田によれば、「絶対矛盾的自己同一」における「一即多、多即一」の「一」とは絶対無の一般者であり、「多」とはその一般者の自己限定としての個物である。ここにおいて、西田は、アリストテレスとヘーゲルをともに越えた独自の論理学を樹立した。この場所的論理学が、東洋、とりわけ仏教の「無」の思想に基づくものであることは、言うまでもない。一見、非論理的または超論理的で、直観的・象徴的と考えられてきた「無」の思想には、固有の論理が潜在していたことを、西田は初めて明らかにしたのである。

 次回に続く。

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21世紀型の日英同盟の実現を~日本とインド太平洋地域の対中防衛のために1

2021-03-25 10:06:11 | 国際関係
 イギリスは、2016年(平成28年)6月の国民投票で欧州連合(EU)からの離脱を決めた。これをブレクジット(Brexit)という。Britain(英国)と exit(退場)を合わせた造語である。EU離脱までの間、イギリスをEU加盟国と同等に扱う移行期間が設けられた。その期間は昨年2020年(令和2年)12月31日に終了し、本年2021年(令和3年)1月1日に、イギリスはEUを完全に離脱した。これによってイギリスは独自の歩みを進める段階に入った。
 いまイギリスは、経済と安全保障の両面からアジア太平洋地域に深く関与しようとしている。2月1日イギリスは、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に正式に加盟申請をした。また、日米豪印4か国による戦略対話「クアッド(QUAD)」への参加希望を表明している。
 私は、これらの動きを大いに歓迎する。本稿は、わが国とイギリスとの連携の強化を進めるべきことを主張し、そのためにも日本の自立が必要であることを書くものである。

●21世紀型の日英同盟への歩み

 私は、2013年(平成25年)6月13日に、「21世紀の『日英同盟』復活へ」と題した文章をブログに掲載した。そこで私は、「日本とNATO(北大西洋条約機構)、特に英国との安全保障の連携強化の動きがあり、注目される」「英国との連携は、オーストラリア等、英連邦諸国との関係発展につながる可能性もあり、わが国政府は積極的に日英同盟復活に取り組んでもらいたいである」と書いた。以後、私は、21世紀型の日英同盟の実現を訴えてきている。
 日英の関係強化は、自民党の政治家・安倍晋三氏によって開かれた。安倍氏は、最初の首相時代の2007年(平成19年)1月、日本の首相として初めて、ベルギーの首都ブリュッセルにあるNATO本部で開かれたNATO理事会に出席した。NATOは、北米諸国・欧州諸国・トルコの28カ国が加盟する軍事同盟である。主に旧ソ連、現ロシアに対抗するものである。安倍氏は、NATO幹部を前に演説し、「日本とNATOは平和構築や復興支援、災害救援などで役立つ知識や経験を共有できる。新たな協力の段階へと移行すべきだ」と訴えた。安倍氏のNATO訪問は、欧州諸国のアジアの安全保障への関心を呼び覚ました。以後、日本とNATO間で、戦略的協力とパートナーシップの強化が目指されている。
 欧州諸国の中で日本に最も強い関心を示したのは、イギリスだった。2012年(平成24年)4月デーヴィッド・キャメロン首相が訪日し、民主党・野田佳彦首相と日英防衛協力で合意し、両政府間で戦略対話や武器禁輸三原則の緩和、兵器の共同開発、情報の共有などについての協議を進めた。同年12月首相に返り咲いた安倍氏は、日米同盟に加えて欧州との安保関係を重視する姿勢を表明した。安倍政権は、北朝鮮のミサイル問題や共産中国の海洋進出の積極化など東アジアの安全保障の環境変化に対し、NATOにも理解や協力を呼びかけ、NATO加盟国も東アジア情勢に高い関心を見せた。この時もはやはりイギリスが積極的な姿勢を見せた。
 こうした動きをとらえ、産経新聞論説副委員長・高畑昭男氏は、2013年(平成25年)1月5日付の同紙に「日米プラス英で対中連携を」という記事を書いた。この記事は、戦略的な思考に立つ秀逸なものだった。
 高畑氏は言う。「日本の領土や主権を守り、地域の平和と安定を確保するには、日米同盟の強化と充実だけでは足りない。欧州や世界に安保協力のネットワークを広げていく努力が一層欠かせない時代になった。NATOとの協力の中でも、とりわけ大切なことは英国との関係を強化することだろう」と。
 また「習近平体制の中国はキバをむき出しにした。対抗する日本は日米同盟を立て直すと同時に、日英協力を活用して欧州や豪州、インドなどとグローバルな協力を拡充していく工夫が欠かせない。かつて強力な同盟を通じて帝政ロシアを破った歴史も日英にはある。今また大国の無法な挑発にさらされる中で、日英同盟を実質的に復活させ、日米英でスクラムを組むことは大きな意義がある。日米、米英の同盟に、日英協力の太いパイプが加われば、中国の危険な行動を抑止する日米英の外交パワーを飛躍的に高めることができるだろう」と高畑氏は書いた。
 これに続いて、産経新聞ロンドン支局長の内藤泰朗氏が同年9月2日付の記事で、日英関係の動きを伝えた。
 「日英両国は7月、機密情報の交換を可能にする情報保護と、装備品共同開発の枠組みに関する2つの協定に調印した。日本が安全保障上重要な2協定を締結したのは、米国に次いで2カ国目で、双方の協力の急速な進展ぶりを物語る。武器の共同開発の話などはすでに浮上しているという」「軍拡と領土拡張の野心を見せる中国の脅威への対処が喫緊の課題である日本は再び、英国の有力なパートナーになり得るというわけだ」「日本も、米国に加えて米国最大の同盟国、英国からの武器調達という選択肢は外交に幅を与え、米英両国の機密情報にも接する機会を得ることになる」と。そして、「日本の安全保障の要、日米同盟を補完し、日本独自の安保政策を推進するためにも、21世紀型の新しい日英同盟の構築が求められているのではないだろうか」と内藤氏は問いかけた。
 2013年(平成25年)9月30日から10月1日にかけて、東京で日英安全保障協力会議が、「21世紀の新たなるパートナーシップ形成に向けて」をテーマに開催された。わが国は、安倍首相が出席し、イギリス側はヨーク公爵アンドルー王子が出席した。会議開催を計画したのは、王立防衛安全保障研究所(RUSI)だった。アンドルー王子が事実上の会長職にあるRUSIは、米国及び英連邦諸国と緊密な情報交換ネットワークで結ばれ、英政府に外交安保政策を助言する「特別な研究所」とされる。
 イギリス側の参加者の一人、RUSIのマイケル・クラーク所長は、産経新聞のインタビューに対し、今後数年で日英関係は大きく前進するとの見通しを語った。クラーク所長によると、中国一辺倒だったトニー・ブレア政権が2007年に退陣した後、英政府はインドや日本なども重視したバランス外交に転換した。「5年前までは日本との防衛協力は絵空事だったが、日英両国を取り巻く環境が大きく変わった」とし、「日本も英国も、米国とは特別な関係にある。防衛や安保、自由貿易などを柱に、日本、英国、米国による新たな形の同盟、パートナーシップを構築することは可能だ」と強調したと報じられた。
 私は、こうした日英関係の発展に注目し、わが国政府は積極的に日英同盟復活に取り組み、21世紀型の日英同盟の構築を進めるべきであると主張してきた。21世紀型の日英同盟を構築し、それによって日米英の協力を強化することは、共産中国の覇権主義を封じ、アジア太平洋地域の平和を維持するために、有効かつ重要だと考えるためである。

 次回に続く。

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仏教128~仏教に根差した哲学・文学の開花

2021-03-24 10:05:03 | 心と宗教
◆仏教に根差した哲学・文学の開花

 近代化=西欧化が進むにつれ、知識人の間にそれへの抵抗意識が生じ、明治20年代から欧化主義に対する国粋主義が打ち出され、東洋思想が再評価されるようになった。続いて、西洋哲学を学んだ哲学者が、仏教や儒教の思想を背景とした哲学的思索を行い、日本独自の哲学を創造し始めた。
 参禅の体験を持つ西田幾多郎は、明治時代末期に『善の研究』を刊行し、仏教をはじめとする東洋思想をもとにして、近代日本最初の真に独創的な哲学を生み出した。実存哲学を研究した和辻哲郎は、大正時代に仏教へ、さらに日本の思想へと関心を転じ、東洋的・日本的な倫理学を構築した。
 近代化によって個人としての自我の意識が発達すると、近代的自我の苦悩からの救いを仏教に求める者たちが現れた。大正時代には、作家の倉田百三が親鸞とその弟子を主人公とした戯曲『出家とその弟子』を書き、若い世代に強い影響を与え、宗教文学ブームが起こった。そこにおける仏教の学びは、解脱を目指す厳しい修行や、極楽往生を願う熱烈な信仰というより、近代人の精神生活の支えを求めるという傾向を現した。
 日本は明治時代後半から帝国主義時代の世界に参入した。その時代環境で国家的な危機が募ると、日蓮の思想に基づいて行動する者たちが現れた。田中智学は、国柱会を設立して超国家主義的な活動を行い、北一輝は国家改造理論を構築して、青年将校等に思想的な影響を与えた。彼らの活動は、昭和戦前期の超国家主義の先駆けとなった。

#西田幾多郎

・生涯
 明治時代初めから大正・昭和戦前期を生きた西田幾多郎は、西洋哲学を学んで、東洋思想と西洋思想を総合し、独自の思考を展開した近代日本最初の哲学者である。生年は1870年(明治3年)、没年は1945年(昭和20年)である。
 西田は、金沢の四高を中退した後、東京帝国大学文科大学哲学選科に進んだ。四高の学友に、後に禅を世界に紹介した鈴木大拙がおり、ともに東大選科で学んだ。西田は、学生時代から鎌倉の円覚寺などで参禅した。大学卒業後、四高の教授となり、西洋哲学の研究に努めるとともに、熱心に座禅を行いつつ、哲学的な思索を深めた。彼の仏教、特に禅への関心と座禅の実践を抜きにして、西田の哲学を深く理解することはできない。
 西田は、学習院の教授を経て,京都帝国大学文科大学の助教授となり、哲学、倫理学、宗教哲学の講義をした。この時期の1911年(明治44年)に刊行したのが、名著『善の研究』である。本書で西田は、「純粋経験」を唯一の実在としてそれを自己の根本的立場とした。本書は、明治以後に日本語で書かれた真に独創的な哲学書の最初のものである。西田の求道者的な姿勢とともに、人々に大きな感動と影響を与えた。
 西田は、1913年(大正2年)に京大教授となり、西田哲学と称される独自の哲学を確立していった。1928年(昭和3年)に大学を退官した後も、あくなき思考を続けた。
 『善の研究』以後、『自覚に於ける直観と反省』、『働くものから見るものへ』『一般者の自覚的体系』、『無の自覚的限定』、『哲学の根本問題』等を刊行して、思索を深めながら、自身の哲学の体系化を進めた。その過程は、東洋思想の形而上学的原理である絶対無を、西洋哲学の論理でとらえて、有を原理とする西洋哲学を包含し、東西の思想を総合する試みだった。同時に、西田は、大正期からわが国に流入したマルクス主義と対決し、唯物論の弁証法に対して、場所的論理による弁証法を生み出した。また、哲学を現実の社会の問題に対応し得るものとすべく、歴史的世界の弁証法的構造の解明に取り組んだ。
 1945年(昭和20年)に最後の論文『場所的論理と宗教的世界観』を書き上げた後、間もなく亡くなった。そこで使われた「絶対矛盾的自己同一」こそ、西田哲学を一語で表す概念である。
 西田哲学は、大正・昭和期の日本の思想に大きな影響を与えた。西田の周りに集まった学者や西田の教えを受けた者たちは、西田学派または京都学派と呼ばれる。田辺元、三木清、高山岩男、西谷啓治、高坂正顕、鈴木成高、梯明秀、下村寅太郎、滝沢克己等が代表的存在である。西田学派の影響は、哲学、仏教学、キリスト教学、マルクス学等の広範囲に及んでいる。日本語で哲学的な思考や宗教及び精神文化の研究を行う者にとって、西田哲学を学ぶことは不可欠の課題となっている。

 次回に続く。

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 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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尖閣諸島に公務員の常駐を急げ

2021-03-23 09:42:42 | 時事
 3月16日、日米の外交・防衛の閣僚は「2プラス2」で、対中政策を協議し、緊密な連携をしていくことを確認しました。4閣僚の協議で、米国は尖閣諸島における日本の施政の防衛に関与することを明確にし、中国海警局の船舶による武器使用を認めた海警法などが地域の混乱を招くと牽制しましました。
 中国は、外国がいかに厳しく批判しても、意に介せず、覇権主義的な行動を進めます。これを押し戻すには、言葉だけでなく、断固たる行動が必要です。日米は、尖閣周辺での共同演習の実施など、具体的な行動を加速すべきです。なかでも我が国が領土領海を守る意思を明確に示すことが重要です。そのために、速やかに実施すべきなのが、尖閣に公務員を常駐することです。
 自民党は2013年に、尖閣諸島について次の政策を提示しました。
 「わが国の領土でありながら無人島政策を続ける尖閣諸島について、政策を見直し実効支配を強化します。島を守るための公務員の常駐や、周辺漁業環境の整備や支援策を検討し、島及び海域の安定的な維持管理に努めます」(総合政策集「ファイル2013」)
 これは、事実上の公約です。だが、全く実行されていません。

潮匡人氏(軍事ジャーナリスト)
 「この公約の中で、一番わかりやすい公約が公務員の常駐である。これはやるか、やらないかが、明確にわかる。他の周辺漁業環境の整備や支援策については、小さな話を大きく膨らませて、やったと言い張れれば、認めざるを得ないこともあるが、公務員の常駐はそうはいかない。
 公務員の常駐については、検討を行った気配すらないわけで、これは明確な公約違反である。私は、今後の菅政権を見ていくにあたって、これが大きなメルクマールになると考えている」 (「尖閣諸島が本当に危ない!」宝島社)

 新たな動きとしては、防衛省が電磁波を使う陸上自衛隊の電子戦専門部隊を令和5年度末までに沖縄県の与那国島と長崎県の対馬に配備することが、分かったと3月18日に報じられました。北海道から九州にかけた「列島の弧」と九州・沖縄の「南西の弧」という2つの弧を描く形で10カ所以上に部隊を配置し、電子戦で先行する中国とロシアに対抗する構えを築くもの。
 電子戦とは、電波などの電磁波を利用した戦いで、(1)相手の通信機器やレーダーに強い電波などを当てて機能を妨げる電子攻撃(2)電波の周波数変更や出力増加で相手の電子攻撃を無効化する電子防護(3)攻撃と防護のため相手の使用電波を把握する電子戦支援があるとのことです。
 尖閣諸島への中国の挑発活発化を踏まえ、沖縄県内の他の自衛隊拠点への電子戦部隊の配備も検討していると伝えられます。共産中国との有事に日米で共同対処をする上で、前線に位置して能力も米軍より優れている自衛隊の電子戦部隊は大きな役割を果たせるとのことです。中国による南西方面の離島侵攻で電子戦の対象となる電磁波は多くの情報を伝えることができたり、レーダーで使用したりする超短波(VHF)やマイクロ波(SHF)が中心。VHFやSHFは数十キロしか届かず、奄美・与那国両駐屯地をはじめ電子戦部隊を細かく分散配置をするのはそのためで、地の利も生かして自衛隊が主導する作戦になると、産経新聞の記事が報じました。
 実効性のある対応を急ぎ進めてもらいたいと思います。

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仏教127~大乗非仏説の登場、仏教の海外への紹介と伝道

2021-03-22 10:09:09 | 心と宗教
◆大乗非仏説の登場

 先に書いたように、江戸時代の富永仲基は、仏教の経典は釈迦が説いたものではなく、すべて後世に作られたものであるとし、大乗仏教は、釈迦の名を借りて自説を誇示しては、それ以前の説に新説を加上して、順次発達させたものだとする加上説を主張した。
 明治維新後、欧米の方法論と原典資料を用いた仏教の歴史的・実証的な研究が進むと、大乗非仏説が提唱されるようになった。大乗非仏説は、大乗仏教の経典は釈迦自身が説いたものではなく、後世に成立したものだという主張である。
 姉崎正治は1899年(明治32年)刊行の著書『仏教聖典史論』でも大乗非仏説を提示したが、同様の説を説く学者が続いた。
 仏教学者の前田慧雲は、浄土真宗本願寺派の末寺の生まれで、法主大谷光瑞のために本願寺派の学問所主事を務めたり、『大日本続蔵経』の編集・刊行に尽力した。1903年(明治36年)刊行の『大乗仏教史論』で、大乗仏教の教理は初期仏教の中にすでに胚胎していると指摘した。そこから初期仏教すなわち根本仏教に帰れという声が高まった。
 仏教学者の村上専精(せんしょう)は、浄土真宗大谷派の末寺に生れ、仏教学を修めて東京帝国大学教授になった。清沢満之等とともに宗門の革新運動に参加した。1905年(明治38年)刊行の『仏教統一論』で大乗非仏説を主張すると、仏教界の反発にあい、僧籍を剥奪されたが、のちに復籍した。仏教史研究の開拓者として大きな業績を残した。
重要なことは、実証的な研究に基づく大乗非仏説が登場しても、日本の仏教は根本から揺らぐことなく、その教義と組織を維持してきたことである。それは仏教が既に社会に深く根を張り、文化・生活の一部になっていたことによる。
 
◆仏教の海外への紹介と伝道

 明治維新後、仏教を海外に紹介したり、伝道する動きが起こった。

#岡倉天心
 仏教の海外への紹介において、岡倉天心が果たした役割は大きい。岡倉は、明治時代の美術指導者で、国際的な思想家である。日本の伝統美術の振興と革新に指導的役割を果たし、日本及び東洋の美術を海外に紹介した。同時に、日本及び東洋の文化の優秀性を内外に訴えた。
 英文で『東洋の理想』を書き、1903年(明治36年)にイギリス・ロンドンの出版社から発行した。冒頭の“Asia is One.”(アジアは一つである)という一文は有名である。岡倉は、本書でインドの仏教、シナの儒教・道教に代表される東洋の思想を西洋人に紹介し、それらを生んだ東洋の精神の偉大さを強調する。また東洋の理想が日本の伝統美術に結晶していることを、歴史をたどって述べている。そのうえで、西洋文明の思想や文化が流入することによって、東洋の人々の生活や美術を大いに混乱させていることを指摘し、東洋の再生は東洋の理想によってのみ可能であり、東洋の再生のために日本の美術が果たすべき役割は大きいことを主張している。
 岡倉は、欧米人に東洋の理想、日本の美術の素晴らしさを伝えるとともに、日本人に、世界的に見た時の東洋の宗教・思想・文化の価値を知らしめた。また、海外の人々が仏教への関心を持つようになるきっかけを与えた。

#海外各地への布教
 明治維新後、伝統仏教の諸宗派が、海外への布教を開始した。
 その先駆けをした教団は、浄土真宗大谷派(東本願寺派)だった。明治時代初期に、大谷光瑩(こうえい、後に22世法主)等が欧米諸国を視察したほか、小栗栖香頂(おぐるこうちょう)が上海に東本願寺別院を開設してシナ布教を試みた。大谷派は、明治時代中期から朝鮮半島での布教を始めた。また、日清戦争に勝利して台湾を割譲されると台湾にも進出し、シナ大陸での布教も本格化した。ハワイには早くも1868年(明治元年)から移民が渡ったが、大谷派はハワイや北米の日本人移民への布教にも乗り出した。
 大谷派に続いて他の宗派も、東アジアの各地やハワイ・北米等の日本人移民社会への布教活動を展開した。例えば、浄土宗では、1890年代頃からハワイ、台湾、朝鮮半島等への海外布教が始まった。その後もシナ、樺太、南洋への伝道を行った。1908年(明治41年)からブラジルに日本人移民が行くようになり、各宗派はそちらへも対象を広げた。
 日清戦争・日露戦争に勝った日本が李氏朝鮮との関係を深めると、浄土真宗大谷派に続いて、浄土真宗本願寺派、日蓮宗、浄土宗が朝鮮に進出した。1910年(明治43年)に日韓併合が行われた後は、一層、伝道活動が活発になった。

 次回に続く。

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 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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