ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

キリスト教68~カトリック教会の分裂と混乱

2018-06-29 12:08:28 | 心と宗教
●聖職叙任権闘争

 ここで、西方キリスト教のヨーロッパ文明の内部における動きを書く。ヨーロッパ文明では、10世紀末に神聖ローマ帝国が成立したことで、教皇は東ローマ帝国から政治的に独立した。ここで生じたのが、聖職者の任命権をめぐる問題である。
 ゲルマン人の教会は、もともとローマ人の教会と異なり、農民の私的所有権と自主性を保持する私有教会だった。教会は設立者である君主の支配を受け、その指導者・管理者である司教の叙任はその所有者の意志に従わねばならなかった。しかし、11世紀に入ると、有能な教皇たちが、それまで世俗領主たちに握られていた聖職者の任命権を獲得することによって、教会の影響力を世俗的な社会においても強めていった。そこで教会と皇帝や各地の君主との間で対立が起こった。これが聖職叙任権闘争である。
 1075年以降、教皇グレゴリウス7世は世俗君主による叙任を禁じた。これに、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が反発し、激しい抗争が行われた。1077年皇帝が教皇の廃位を要求したところ、逆に破門された。皇帝は、ドイツ諸侯の反乱を恐れ、北イタリアのカノッサに教皇を訪ね、恭順の意を示した。それによって波紋を解かれた。このカノッサの屈辱と呼ばれる事件は、皇帝権が教皇権に屈服した象徴的な出来事である。
 教皇は、宗教上の指導者であり、帝国の政治権力を持たず、軍隊の指揮権も持たない。そうした教皇がどうして、中世ヨーロッパでは皇帝を上回る権限を持つようになったか。その理由は、中世ヨーロッパの社会が信仰を絆とした信仰共同体であることによる。
 その社会の価値観によれば、ローマ教皇は、神から与えられた権威を持つ。これに対し、世俗の権力は、人間の堕落と罪の産物である。皇帝は、即位に際して、聖職者によってその役割を聖なるものに高められる。現世の秩序は、教皇の指導によって初めて道義的、宗教的に正しいものにできる。したがって、教皇は皇帝を監督する権利と義務を持ち、皇帝は教皇に服従しなくてはいけない。皇帝がもし教皇の指導を拒むならば、破門された。破門は、信仰共同体から追放されることである。破門になると、家臣は服従義務が解消され、皇帝に従わなくなる。武力・財力等の権力の基盤が消滅する。それゆえ破門によって、すべての権利を失うことになる。そのうえ、破門によって、救いへの道が絶たれる。教皇は天国への扉の鍵を握り、個々の信者に対して天国への扉を開くことも閉じることもできる。そういう宗教上の判断権を持ち、また裁判権も持っている。こういう社会において、皇帝は教皇の宗教的な権威に従わざるを得なかった。
 叙任権闘争は以後も続き、1122年には教皇カリトゥス2世と皇帝ハインリヒ5世の間で、ウォルムス協約が結ばれ、ドイツ地方以外での叙任権は教皇に帰属することとなり、皇帝権は後退した。

●カトリック教会の分裂と混乱

 叙任権闘争を通じて、ローマ・カトリック教会では、教皇権は世俗の皇帝権・国王権を超越した権威であるという認識が強まった。13世紀初め、教会法の専門家であり、政治家としても有能だった教皇インノケンティウス3世は、皇帝の選挙に干渉し、イングランド王ジョン、フランス王フィリップを破門にするなど、名実ともに教皇権の優越性を示すことに成功した。1215年に召集した第4回ラテラン公会議で「教皇は太陽、皇帝は月」と演説した。
 また、教皇ボニファティウス8世は、1302年に教書「ウナム・サンクタム」を発し、教皇はキリストの代理者として霊界と俗界の二つの剣を持つと説いた。これを両剣論という。彼は、俗界の剣を行使するのは王と騎士であっても、彼らに命令を下すのは教皇の側であると主張し、「すべての人間は霊魂の救いを全うすべく、ローマ教皇に服従すべきである』と宣言した。当時、各国の国王が権力を強めはじめていた。教皇の宣言は、絶対王政を目指すフランス王フィリップ4世に対抗しようとしたものだが、アナーニ事件でこの戦いに敗れ、ボニファティウス8世は憤激のうちに没した。彼の死後、教皇権は衰退した。
 一方、国王権はフランスやイングランドなどで増大し続け、教皇庁と各国君主の間で、教皇権の優越という概念をめぐって争いが行われるようになった。教会財産の所有権、聖職者裁判権、司教任命権等が激しく争われた。この状況において、教皇を補佐すべき高位聖職者である枢機卿たちは、自らの出身国や結びつきの強い国家の利益の代弁者のようになって争った。
 フィリップ4世は枢機卿団の争いを利用して、教皇庁に介入し、フランス出身の教皇クレメンス5世の擁立に成功した。王の意を受けた教皇は、1309年に教皇庁をフランスのアヴィニョンに移した。以後、1377年にグレゴリウス11世がローマに帰るまで、7代の教皇がフランス王権に屈した。これをユダヤ人のバビロン捕囚にたとえて、アヴィニョン捕囚という。
 教皇のローマ帰還後も、アヴィニョンには別の教皇が並立し、西方キリスト教の教会分裂(シスマ)が続いた。事態収拾のために開かれた教会会議は、ローマとアヴィニョンの2人の教皇の廃位を宣言して、新しい教皇を選出したものの、2人が廃位を認めず、3人の教皇が鼎立するという異常な事態になった。
 前例のない混乱によって、教皇の権威は低下し、聖職者たちの中で公会議が教会の至上決定権を持つべきだとする考えが強まった。これを公会議主義という。この主張を受け入れた皇帝ジギスムントは、1414年にコンスタンツ公会議を招集した。この会議は3人の教皇の退位に成功し、新たな教皇が選出された。また、教会の抜本的な改革の実施が宣言された。この改革を「頭と体の改革」という。しかし、改革は進まず、公会議によって教会を変えるという理想は潰えた。そのことが宗教改革への一つの伏線となった。

 次回に続く。
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キリスト教67~十字軍と東西教会の決定的分裂

2018-06-28 08:55:02 | 心と宗教
●十字軍と東西教会の決定的分裂

 1054年の東西教会の分裂後、西方キリスト教のヨーロッパ文明は、イスラーム文明への反攻を行った。それが十字軍である。十字軍は、1096年から1291年まで、約2世紀の間、8回繰り返された。これは、イスラーム文明の圧力によって陸地に封じ込められたヨーロッパが、その外圧をはねかえそうとした動きだった。この二つの文明の間の戦いは、キリスト教とイスラーム教との宗教戦争であり、またユダヤ教を元祖とする一神教、聖書を共有する啓典宗教同士の争いだった。
 11世紀になると、西欧では、農業生産力の向上によって人口が増加した。生活に余力が生まれ、聖地巡礼が盛んに行なわれるようになった。ところが、エルサレムは異教徒に支配されていた。エルサレムは本来、ユダヤ教の聖地だが、イエス・キリストが処刑され、復活した地でもあり、キリスト教にとっても聖地となっていた。
 この聖地を支配するイスラーム文明では、11世紀にトルコ民族がアッバース帝国に侵入して、セルジューク朝を築いた。ローマ帝国崩壊後、地中海東部では、東ローマ帝国が、ギリシャ=ローマ文明を継承して独自の発展を続けていた。セルジューク朝は、東ローマ帝国を圧迫した。セルジューク朝の進出を抑止できない東ローマ帝国の皇帝は、ローマ教皇に援軍を求めた。
 教皇ウルバヌス2世は、この求めに応じ、1095年に十字軍遠征を提唱した。東西教会は1054年に分裂したが、なお外敵に対してはキリスト教徒同士が協力したのである。ヨーロッパの諸侯や騎士たちは、教皇の呼びかけに応え、十字軍を結成した。遠征は、聖地回復という理想の下、1096年に第1回の遠征が行われた。
 第1回十字軍はエルサレムの奪回に成功した。この時、聖地では5万人のうち4万人が殺戮され、略奪が行なわれたという。ソロモン神殿では、兵士たちがくるぶしまで血につかって進むほどの殺戮がなされたと伝えられる。
 第1回十字軍の遠征に協力した見返りとして、ヴェネチア、ジェノヴァ、ピサの3都市は、占領地域での貿易特権を獲得した。十字軍の経済効果は大きかった。度重なる遠征で兵士や物資の輸送が行なわれることにより、これら北イタリアの港湾都市が発達した。それによって、西ローマ帝国滅亡後、沈滞していた商業がヨーロッパに復活した。
 当時はイスラーム文明の方が、ヨーロッパ文明よりはるかに高い文化を持っていた。イスラーム文明は、西ローマ帝国滅亡後も繁栄を続ける東ローマ帝国の文明から文化要素を摂取した。イスラーム地域に侵入したキリスト教徒たちは、そこに保存されていたギリシャ=ローマ文明の遺産を持ち帰った。このことが大きな刺激となり、ヨーロッパに「12世紀ルネサンス」と呼ばれる知的運動が起こった。古典古代の哲学・科学・法学・文学等の文献が翻訳された。
 イタリア商人は、やがて地中海東部の交易を支配するようになった。そのきっかけは、1202年~1204年に行われた第4回十字軍である。
 第4回十字軍は、教皇権の絶対性を確信する教皇イノケンティウス3世が招集した。この時、東ローマ帝国で帝位をめぐる争いが起こり、支援を求められた十字軍は、コンスタンティノポリスを陥落し、ラテン帝国(ロマニア帝国)を築いた。占領は1203年から61年に及んだ。西方キリスト教徒の十字軍がコンスタンティノポリスに侵攻したことに、東方正教会は憤った。それが東西教会の決定的な分裂に結果した。
 第4回十字軍の遠征の際、北イタリア諸都市の商人は十字軍の軍事力を利用して、イスラーム教徒(ムスリム)の商人、ビザンティン商人を排除し、東地中海交易の支配権を握ろうとした。ヴェネチア商人は、兵士たちに借金の代償としてアドリア海に面した都市ザラへの攻撃を求めた。兵士たちはザラで多くのキリスト教徒を殺害した。怒ったイノケンティス3世は兵士たちを破門にした。
 第4回十字軍の結果、地中海東部の商業権は、ヴェネチア商人に移った。これに対抗して、ジェノヴァ商人は、東ローマ帝国の亡命政権であるニカイア帝国を助けた。ジェノヴァ支援のニカイア帝国は、1261年にヴェネチア支援のラテン帝国を滅ぼし、東ローマ帝国を復活させた。こうしてヴェネチア商人から主導権を奪い取ったジェノヴァ商人は、当時大発展していたモンゴル帝国のムスリム商人と積極的に結びつきを進めた。
 ヴェネチアやジェノヴァは、地中海の制海権がセルジューク朝やモンゴル帝国に握られている時でも、ムスリム商人と取引を行なっていた。政治や宗教と経済活動は別である。この東方交易による経済的繁栄が、後のイタリア・ルネサンスの物質的基礎となっていく。
約200年に渡る十字軍の過程で、新たな修道会が誕生し、聖地巡礼者の防衛、イスラーム教徒への伝道、捕虜交換と傷病者治療の救出等を行った。新たに誕生した修道会の一つ、ドミニコ会は、イスラーム圏からのアラビア語文献の輸入と翻訳を通してアリストテレスの哲学を再発見し、スコラ神学の開花に貢献した。
 十字軍の時代、ヨーロッパ文明は一方的に攻勢をかけていたわけではない。1242年には、モンゴル帝国の侵攻を受け、モンゴル軍がウィーン郊外まで達するという危機に直面した。しかし、ウィーン侵攻を避けられ、破壊・略奪を免れた。
 その後も十字軍遠征は、1291年まで続けられた。だが、エルサレムはイスラーム教軍に奪い返され、結局当初の目的である聖地奪回は失敗に終わった。その結果、教皇の権威は失墜した。また、十字軍遠征の繰り返しによって、騎士階級は疲弊し没落した。封建領主の力は弱まり、農奴に貨幣地代の納入を認めた結果、富農や独立自営農民が出現し、封建制が変動することになった。封建領主の地位が相対的に低下したことによって、国王が中央集権化を進め、絶対王政が出現することにもなっていった。
 西方キリスト教の十字軍による首都占領を経験した東ローマ帝国は、その後もイスラーム教徒の西方進出によって衰退していった。そして、最終的にオスマン帝国によって1453年に滅ぼされることになる。

 次回に続く。
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改憲論をアップ

2018-06-27 09:37:21 | 心と宗教
 4月26日からブログとMIXIに連載した憲法改正に関する拙稿を編集し、マイサイトに掲載しました。9条の改正を中心としたものです。通してお読みになりたい方は、下記のアドレスへどうぞ。

■いまこそ憲法を改正し、日本に平和と繁栄を
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08q.htm

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キリスト教66~東西教会は対立から分裂へ

2018-06-26 09:24:03 | 心と宗教
●東西教会は対立から分裂へ
 
 ここで7世紀以後の東西教会の違いの拡大と対立について書く。東西教会の違いについては、中世の項目の初めに書いたが、人間観、世界観、実在観の全般に渡り、そこから教会の組織や政治と宗教の関係等にも違いが生じた。そうした違いがさらに拡大することになったものに、画像論争、教皇権論争、フィリオクェ論争がある。
 7世紀末から9世紀中葉にかけて画像論争が起こった。ユダヤ教、キリスト教では偶像崇拝を禁止する。だが、キリスト教では、各地で教会が建設されていくと、イエス・キリストや聖母マリアの画像を掲げて飾り、かつ礼拝することが行われるようになった。殉教者の聖遺物礼拝も行われるようになった。これに対して、ユダヤ教徒やイスラーム教徒から偶像崇拝だという非難が起った。こうしたなか、古カトリック教会で、画像を巡る論争が行われたのである。
 726年に東ローマ帝国の皇帝レオ3世が、画像の使用を禁止する画像禁止令を出した。これは、教会において画像を崇拝することを禁止し、それを破壊することを命じたものである。目的は、一切の偶像を否定するイスラーム教に対抗するためにキリスト教の原則に戻そうとすることであり、また命令に反対する教会・修道院の領地の没収が狙いだったとも見られる。これに対し、ローマ教皇が反発した。それが、東西教会の対立の端緒となった。
 787年に第2ニカイア公会議が行われ、画像の崇拝と礼拝を区別し、崇拝の対象としては画像が認められた。また、画像に燈明を献じ、香を焚くことが是認された。この7回目となる全教会公会議は、東西両教会が認めた公会議の最後のものとなった。
 ところが、公会議の決定後、また東ローマ帝国で画像を破壊する政策が行われた。そのため、再度論争になった。今度は、ローマ教皇が画像破壊論者たちを異端と断じた。画像を認めることで、ローマ教皇は東ローマの皇帝の支配下にはないことを示したのである。9世紀に入ると、東ローマ帝国でも、教会側の巻き返しによって画像を認める動きが起こった。その結果、843年に皇太后テオドラによって画像崇拝が認められた。ただし、東方正教会では、立像は禁止され、イコン(聖像)という平面の画像のみが認められた。これによって画像論争は解決した。しかし、この論争によって東西教会の対立は深まった。
 9世紀後半、ローマ教皇ニコラス1世は、教皇権を強硬に前面に押し出した。全世界とすべての教会は、教皇の下にあるという主張であり、伝統的な諸教会並立の形態からは全く考えられないものだった。東ローマ帝国下のコンスタンティノポリス総主教区のフォティオス総主教は、これに反論した。この教皇権論争に、フィリオクェ論争と呼ばれる教義問題が加わった。
 ローマ教会は、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に、公会議の承認なく、「子から出て」と付け加えた。ラテン語でフィリオクェという言葉である。追加によって、その部分は「父と子から出て」と修正された。
 西方キリスト教では、6世紀ごろからフィリオクェの考え方が一部の地方で受け入れられていた。9世紀に入ると、ローマ教会はその考え方を受け入れて、教皇権の主張とともに固守するようになった。
 東方正教会では、定められた信条の通り「父から出て」を守っていた。父と子と聖霊の関係については、聖霊は「子を通じて父から」と信じていた。これは同時に、聖霊と子は、神性の唯一の源である父から、共に現れてくるという理解である。しかし、ローマ教会では、聖霊は「父と子から」すなわち「父及び子から」出るとしたので、父と子がこの点では同格になる。東方正教会は、公会議で決められた事項の改訂は、公会議でされるべきとし、「フィリオクェを煮詰めると異端となる」と反対した。これは、教義上大きな対立であり、東西の教会の相互の違和感は増大した。
 東方正教会では、古代以来の伝統を守り続けた。これに比し、ローマ・カトリック教会では、10世紀ころから伝統の意識が希薄になり、発展をよしとする考え方が強くなっていった。その傾向は、ローマ帝国の滅亡により、帝国とともに教会が分裂して以後、現れていたが、10世紀を境に、初代からの伝統を継承する東方キリスト教と、変化による発展を目指す西方キリスト教の姿勢の違いが明瞭になった。
 東方教会と西方教会の違いの拡大と対立の深刻化が進み、遂に1054年に、ローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教が、互いを破門するに至った。これを大分裂(シスマ)という。
 相互破門により、2世紀から「聖なる一つの公の使徒の教会」として続いてきた古カトリック教会は、西方のローマ・カトリック教会と東方の正教会に分裂した。東方正教会では、首都コンスタンティノポリスの総主教が全地総主教としての格式を持つようになり、他の東方三管区を指導することとなった。
 この東西教会の分裂が決定的な出来事だったのかどうかについては、東西で見解が異なる。十字軍については後に書くが、東方正教会の側では、1204年の第4回十字軍までは分裂は確定してはいなかったと解釈している。教会の東西分裂後も、西方教会では東方教会との再統合を求める声が根強く残り、公会議などで幾度か統合の道が模索された。十字軍が開始されたのは、東の求めに西が答えたからである。しかし、第4回十字軍がコンスタンティノポリスに侵攻したことによって、関係は決定的に悪化した。以後、正教会側のローマ・カトリック教会への反感は収まることなく、再統合への試みは成功しなかった。第4回十字軍以降、東西の教会は全く別の道を歩むことになったのである。

 次回に続く。
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改憲論28~日本を愛する国民は、どう考えるとよいか

2018-06-25 12:52:37 | 憲法
 最終回。

結びに~日本を愛する国民は、どう考えるとよいか

 現在のわが国の国民及び政治家の状態では、一気にめざすべき内容の憲法に改正することはできない。その理由は、日本国民の多くがまだ日本精神を取り戻していないからである。理想を明確にするとともに、現実をしっかり見据える必要がある。
 国会は、昨29年の衆院選後、いわゆる改憲派が8割超となっているが、第9条の改正には、発議の可能な衆参両院で総議員の3分の2以上が賛成するかどうかは微妙な状況である。賛成は自民党と維新の会と一部野党の議員のみ。連立与党の公明党が賛成しないと、自公による発議は難しい。
 また、国民の現状は、憲法改正に反対の人たちが3割以上いる。9条改正に反対の人たちは、4割以上いると見られる。態度がはっきりしない無党派層は、マスメディアやその時の雰囲気の影響を受けやすい。こうした中で、改正しようとするには、国民投票で過半数を得られるような案を追求せざるを得ない。
 日本を愛する人々の活動によって日本精神の復興が進めば、国民の意識が変わり、国民が選ぶ国会議員も変わる。これから、どこまで国民及び国会議員の意識を変えられるか。それによって、憲法改正の成否、また改正内容が変わる。
 特に国民の半分を占める女性の賛否が、改正を左右する。女性が国防の重要性を理解し、家族を守るため、平和と安全を守るために、9条を改正しようという意識を高めることに、日本の運命がかかっている。そうしたなか、「国防女子」を名乗る女性たちによる、女性を対象とした啓発活動が広がっている。(葛城奈海、川添恵子、赤尾由美氏等)また、女性による「憲法おしゃべりカフェ」が全国で展開されている。日本を愛する女性たちの活動が、日本の国と国民を救う可能性がある。
 もし9条1項、2項維持で3項に自衛隊を明記という案が、国会で成立し、これに賛成か反対かという国民投票が行われることになった場合、日本を愛する国民はどうすればよいか。
 私はもし先の案が発議された場合は、これに賛成するのが適当であると考える。理想的な案でないからと反対したり、棄権するのは、結果としてよくない。というのは、その案が国民投票で否決されれば、現状のままとなる。現状維持を望むのは、共産党、社民党、立憲民主党、旧民進党の一部等の左翼や左派の政党であり、それらと同じ側に立つことになってしまう。また、仮に国民投票で9条改正が否決された場合、もう一度やり直すのは、極めて難しい。国民投票に諮る以上は、過半数を獲得しないと、その後の全面改正への道も、非常に険しいものになる。失敗は許されない。また、9条改正が否決されれば、自衛隊は違憲だという主張が強まり、これまで統治行為論によって明確な判断を避けてきた裁判所が、国民投票の結果を受けて違憲の判決を出す可能性もある。それによって、自衛隊の解散という事態になったら、日本は諸外国に侵攻・占領されて、自滅する。
 まずは現状を打破するため、現実に可能な案で憲法を改正し、それを第一歩として、あるべき憲法を目指していく。そういう考え方が必要な状況である。
 繰り返しになるが、日本国憲法は全面的な改正が必要であり、数項目の改正や新設は、全面改正に向けた第一歩にすぎない。できるだけ早く憲法を本格的に改正し、日本の再建を進めなければならない。(了)
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キリスト教65~ヨーロッパの内陸化と封建制の発達

2018-06-23 08:21:23 | 心と宗教
●ヨーロッパの内陸化と封建制の発達

 西アジアでイスラーム文明が興隆すると、かつてはローマの海だった地中海が、「イスラームの海」になった。その結果、ヨーロッパは、地中海から閉め出されてしまった。ヨーロッパは、イスラーム文明の圧力によって、陸地に封じ込められた。そうした条件の下、初期のヨーロッパ文明は、内陸的な性格をもって成長した。
 ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌは、「文化的統一体としてのヨーロッパ」を誕生させたのはイスラーム化した地中海だと言う。「イスラームなくして、疑いもなくフランク王国は存在しなかったであろうし、マホメットなくしては、シャルルマーニュは考えることができないであろう」と彼は記している。
 陸地に閉じ込められたヨーロッパでは、土地を唯一の富の源泉とする経済秩序が生まれた。ギリシャ=ローマ文明の影響により、ヨーロッパ文明では、部族制度をやめて、血縁集団構造を解体しようとしたのだが、統合のための諸制度の継承や、軍事的・文化的な統合力の摂取は不十分だった。家産制による官僚統合国家をめざしたものの、中央集権化は成功せず、封建制が出現することになる。
 封建制は8世紀末から9世紀の初め、カール大帝の時に形成され、11~13世紀にその最盛期を迎え、以後解体していった。
 封建制では、財の分配は、主として当事者間の社会的交換によって定まった。主君は臣下に土地を与えて、保護下に置き、臣下は主君に忠誠を誓い、騎士として軍務を負う。こうした主従関係は、授封された者がさらに土地の一部を従者に与えることで重層化した。封建制の経済的基盤は、荘園制だった。領主は所領に農奴を抱え、農奴には生産物の一部を領主に納める貢納と、労働を提供する賦役が課せられた。
 封建制は、日本文明とヨーロッパ文明でのみ発達した制度である。封建制は、ユーラシア大陸の中心部で発達した古代帝国の多くに見られる家産制と違って、中央集権による専制体制ではない。そのため、生産力が向上すると、各地の領主が自立性を強め、急速に社会変動が進んだ。商品経済が発達すると、農村共同体が解体し、都市化が進み、資本主義が発達した。封建制は、西欧で近代化革命が起こった経済的・社会的条件であり、日本が後発的な近代化を成功できたのも、封建制社会だったからだといえる。
 封建制の下、日本では武士道、西欧では騎士道が発達した。武士道は領主と武士が親子のような情で結び合ったが、騎士道は相互の意思の一致による契約関係であった。そこに違いはあるが、ともに個人を重視する気風が育った点では共通性がある。封建制は、近代化を担う主体が育成される土壌ともなったのである。

●神聖ローマ帝国の成立

 ヨーロッパ文明では9世紀にはいると、フランク王国が相続争いによって衰退した。843年のヴェルダン条約で三分割され、数年後のメルセン条約により再分割された。西フランク王国では、987年にカロリング朝に代わってカペー朝のフランス王国が成立した。一方、東フランク王国では962年に、オットー1世が教皇より帝冠を受けて神聖ローマ帝国が成立した。
 神聖ローマ帝国は、ローマ帝国→西ローマ帝国→フランク王国に続く帝国としての名称を持っていた。そして帝国の長にふさわしいとみなされた者が、ローマで戴冠し、皇帝に就任した。
西ローマ帝国滅亡後、ローマ教皇は東ローマ帝国の影響下に置かれていた。だが、神聖ローマ帝国が成立したことにより、ローマ教皇は、東ローマ帝国の行政上の代理人としての立場から解放され、政治的に独立した。またそれによって、教皇と神聖ローマ皇帝が並立するヨーロッパ独自の政教体制が出現した。
 神聖ローマ帝国の領域は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に広がっていた。帝国とは言っても、実質的には大小の国家連合体であって、古代ローマ帝国の栄光にあやかった理念的な国家だった。それにも関わらず、神聖ローマ帝国は、1806年に消滅するまで、8百年以上も存続した。

 次回に続く。
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キリスト教64~イスラームの興隆とキリスト教社会への影響

2018-06-22 08:53:03 | 心と宗教
●イスラームの興隆とキリスト教社会への影響

 7世紀初め、西アジアで、イスラーム文明が勃興した。ムハンマドはユダヤ教・キリスト教を学び、アラビア半島にあって、新たな唯一神教を創唱した。それがイスラーム教である。
 ムハンマドは、622年にメディナに聖遷し、630年にメッカを征服した。632年に彼が死んだ後、イスラーム教は急速に教勢を拡大した。
 第2代カリフのウマルは、積極的に聖戦(ジハード)を行い、ササン朝ペルシャを滅亡に追いやり、東ローマ帝国からシリア・パレスチナを奪い、エジプトも征服して、西アジア一帯を支配下に置いた。
 ウマルは、638年に、ユダヤ教とキリスト教の聖地であるエルサレムを征服した。エルサレム総主教ソフロニオスと会談して、キリスト教徒がイスラーム教に服従し、その優越性を認めるならば、異教徒の隷属民(ズィンミー)として一定程度の権利を保障することを約束するウマル憲章を発布した。
 イスラーム帝国が支配したシリア、パレスチナ、エジプト等には、東方正教会と対立する東方諸教会が存在していた。彼らは異端として東方正教会から抑圧されていたので、イスラーム帝国を解放者として歓迎した。イスラーム帝国では、異教徒も支配に従い、ジズヤという人頭税とハラージュという土地税を納めていれば、イスラーム教以外の信仰を続けることが認められ、改宗は強制されなかった。そのため、キリスト教内で異端とされた諸派は、東ローマ帝国治下よりも、安全な生活と信仰を保障されたのである。しかし、隷属の続く中で、イスラーム教に改宗するキリスト教徒も徐々に増えていった。
 8世紀後半にはアラブ系のアッバース朝が樹立された。それにより、イスラーム教の諸社会は、一個の文明として発展した。イスラーム文明は、周囲の諸文明を包摂していった。また、東ローマ帝国を中心とする東方正教文明を通じて、ギリシャ=ローマ文明の文化要素を摂取し、独自の哲学、科学、文化を発達させた。イスラーム文明の繁栄は、8世紀から15世紀末まで約8百年間も続いた。

●西方教会の自立と発展

 イスラーム帝国では、661年にウマイヤ朝に替わると、さらに領土を拡大した。最大時の支配領域は、中央アジア、西北インド、北アフリカ、イベリア半島にまで広がった。
 732年にイスラーム教軍はピレネー山脈を超えて、フランク王国に侵攻したが、トゥール・ポアティエの戦いで、メロビング朝の宮宰カール・マルテルに撃退された。この戦いに勝った西方のキリスト教徒はヨーロッパ文明を発展させることが可能になった。
 西方教会は、ゲルマン人の諸地域への宣教を続け、8世紀前半には伝道師ボニファティウスがドイツ地方の大部分を改宗させた。ゲルマン人への布教とアルプス以北のヨーロッパへの拡大によって、西方教会は東ローマ帝国の支配とイスラーム文明の圧迫を排して自立するとともに、ギリシャ=ローマ文明の伝統をヨーロッパ文明に伝え、保持することができた。
 751年にピピン3世がフランク国王に即位し、カロリング王朝が始まった。ピピン3世は西方教会に土地を寄進した。それ以降、ローマ教皇庁は北イタリアに徐々に自前の領土と勢力圏を持つにいたった。こうして成立したのが教皇領である。
 768年にピピン3世の子、シャルルマーニュが即位した。東ローマ帝国で皇位の簒奪があり、皇帝の血統による継承が途絶えたことを機に、ローマ教皇レオ3世は800年にシャルルマーニュにローマ皇帝の帝冠を授けた。ここにカール大帝が誕生し、西ローマ帝国の理念が復興した。また、この戴冠は、ヨーロッパにおける中世キリスト教の成立を象徴する出来事だった。
 カール大帝は、ローマ・カトリック社会を統一し、また教育・文化の発展に尽力して、「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる文化再生運動を起こした。ここにギリシャ=ローマ文明とユダヤ=キリスト教とゲルマン民族の文化という三つの要素が融合し、ヨーロッパ文明の骨格が出来上がった。
 ゲルマン民族はキリスト教への改宗を通じて、ユダヤ教の思想・文化を間接的に摂取した。ゲルマン民族のキリスト教化は、ヘブライズム(ユダヤ文化)がヨーロッパの内陸部・北西部に伝播する過程でもあった。
 こうしたゲルマン民族のキリスト教化、ゲルマン民族を中心とするヨーロッパ文明の発生・発達の過程で、ローマ教会は、宗教的な権威だけでなく政治的・社会的な権力まで持つようになっていった。また、政治的・社会的な必要に応じて、教義や組織を変化させていった。東方正教会が古代の伝統を固守したのに対し、発展の道を進んだ。
 ローマ帝国におけるキリスト教会は、都市型の組織的な「司教の教会」だった。これに対し、ゲルマン人の教会は、農民の私的所有権と自主性を保持する「私有教会」だった。そこでは、教会は設立者である君主の支配を受け、司教の叙任や会議の召集もその所有者の意志に従わねばならなかった。そうした教会が、カール大帝のもとで国教となったキリスト教の地方教会となった。こうしたゲルマン人の教会が持つ特質のもとに、中世ヨーロッパの教会と国家の問題が発生することになった。

 次回に続く。
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改憲論27~護憲派の主張の誤り(続き)

2018-06-21 09:31:28 | 憲法
11.護憲派の主張の誤り(続き)

 次に、護憲派の主張に関連することを、補足として3点述べる。

 第一に、憲法改正反対派の中には、「安倍政権における改憲に反対」という主張がある。安倍政権でなければ改憲に賛成するのかわからないが、憲法改正はどの政権ならよく、どの政権ならダメというような課題ではない。国家の根本的なあり方に関する課題だからである。反安倍派は、安倍政権への不信感を駆り立て、政権の支持率を下げ、それによって憲法改正を阻止しようとしているのである。憲法改正という重大な課題を、政局の問題にし、政党間の闘争に使っているものであり、立法府のあるべき姿から大きく外れている。

 第二に、自衛隊を支持する人々の中には、自衛隊が軍隊になると暴走するのではないかという不安の声がある。わが国では、戦前軍部が暴走し、政治家を暗殺したり、政府の命令を受けずに行動したりして、不幸な戦争に突入した歴史がある。それゆえ、こうした不安を持つ人は少なくないだろう。しかし、軍隊を持てば軍隊が暴走するのであれば、世界中の国々がそうなっているだろう。先進的な民主国家である米国、英国、フランス等の国ではそういうことは起っていない。民主主義が発達している国では、シビリアン・コントロール(文民統制)が行われ、政府が軍隊を統制している。戦前、わが国が軍事同盟を結ぶ枢軸国だったドイツ、イタリアは敗戦後も軍隊を持っているが、軍隊の暴走は起っていない。軍隊が暴走するのは、民主主義が発達していない国や、独裁者のいる国、全体主義の国である。
 戦前のわが国では、天皇が軍隊の統帥権を持っていたことを理由にして、軍部が政治の介入に反発した。また憲法に内閣総理大臣の記載がなく、政府の中心が不明確だった。そのため、軍部の暴走を招いてしまった。戦後のわが国では、シビリアン・コントロールが憲法に定められており、憲法改正の際には、これをさらに明確に定めることで、政府による統制をよりしっかりとしたものにできる。また、国民が政治に関心を持ち、日本の平和と繁栄を維持できるような政治が行われるように選挙等で自らの意思を示し、民主主義がより良く機能するように努力することが必要である。
 
 第三に、現行憲法が改正されぬままの状態で、他国の侵攻を受けた場合、武力行使と交戦権の行使ができるのかという問題についてである。護憲派は、こういう事態において、どうやって国民の生命と財産、国家の主権と独立を守るかを、まともに考えていない。また、国民に考えさせないようにしている。
 他国の侵攻を受けた場合、わが国は自衛権を行使して、武力行使することができる。他国の侵攻を受けた場合、内閣総理大臣は自衛隊に防衛出動を命じる。ただし、武力行使は「我が国に対する武力攻撃が発生」し、「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」と判断された存立危機事態に限る。存立危機事態と認定すれば、内閣総理大臣は自衛隊に武力行使を命令する。
 次に、武力行使以外の交戦権についてはどうか。交戦権は、国家が交戦国として国際法上有する権利であり、戦争の際に行使し得る権利である。その権利の中に、武力行使を含む。同時に交戦権は、敵国との通商の禁止、敵国の居留民と外交使節の行動の制限、自国内の敵国民財産の管理、敵国との条約の破棄またはその履行の停止が、合法的な権利として含まれている。これらを行使し得るかという点が問題になる。
 9条1項は侵攻戦争のみを放棄したものとし、2項の「前項の目的を達するため」という文言は侵攻戦争の放棄という目的を意味し、自衛のための戦力は保持できるという解釈に立てば、9条2項の後半は自衛戦争に関する交戦権までを否認したものではない。だが、わが国の政府は、9条1項は侵攻戦争のみを放棄したものとし、2項の「前項の目的を達するため」という文言は侵攻戦争の放棄という目的を意味するとしながら、自衛のために持てるのは戦力ではなく「最小限度の実力組織」であるという立場を取っている。その場合、わが国はこの「最小限度の実力」の行使を含む交戦権を行使し得るのかが問題となる。一方、左翼勢力は交戦権を国家が戦争をなし得る権利と解釈し、自衛戦争も含めて交戦権を否認したのだと主張する。ここにも解釈上の対立や混乱がある。
 こうした状態において、わが国に対して他国が武力攻撃をして存立危機事態が発生した場合、内閣総理大臣は武力行使以外の交戦権についてどのように判断して、対処するのか。私は、憲法学者や野党等に憲法解釈上異論があることは承知しつつ、国民の生命と財産、国家の主権と独立を守るために、国家最高指導者の責任において判断し、勇断を振るうべきと考える。
 存立危機事態における交戦権の行使は、憲法の規定に違反したり、規定を無視した超法規的措置ではない。憲法解釈上の問題であり、その解釈権は行政において内閣総理大臣にある。内閣総理大臣は、自信を以て国家国民のために、自衛の権利を行使すればよいのである。

 次回に続く。
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キリスト教63~修道院の発生と発達

2018-06-20 09:13:48 | 心と宗教
●修道院の発生と発達

 ここで制度的な教会と対比されるものとして、修道生活について書く。人間には、個人性と社会性がある。それゆえ、宗教にも個人性と社会性がある。宗教の社会性は、集団の組織化、機構の制度化に現れる。宗教集団の規模が大きくなれば、権威と権力による組織運営が必要となる。これに対し、宗教の個人性は、信仰に基づく個人の体験や自覚によって深められる。宗教が社会性に傾き、個人性を軽視したら、形式化、形骸化に陥る。古代・中世のキリスト教において、個人性の方面は、修道生活において実践された。ただし、修道生活もまた集団で行う場合、集団の組織化、機構の制度化が必要になる。
 古代のキリスト教では、洞窟や砂漠で一人で修行し、隠遁生活を送る者がいたとされる。東方キリスト教では、西方キリスト教より、積極的に自由意思を肯定するので、人間の努力によって神に近づこうとする修道が発達した。3世紀に聖アントニウスがエジプトの砂漠で修道生活を行ったのが、そのはじめとされる。修道者は隠者だが、独居は困難であるから、集団で暮らすようになった。これがキリスト教の修道制度の起源とされる。その由来は、さらに荒野で厳格な共同生活を営んだユダヤ教エッセネ派などに求められるだろう。
 4世紀にローマ帝国においてキリスト教が公認され、さらに国教になると、禁欲的な生活を求める人々が、砂漠や荒野で修道生活を行う運動に加わった。
 東方キリスト教において、ビザンティン・ハーモニーに安住することをよしとしない者たちが、都市を離れて荒野に移り住んだ。彼らは、過酷な環境で苦行し、自らキリストの完璧な生きた映しとなることを目的とした。修道士は時に帝権と対立し、民衆の代弁者として発言・行動した。彼らは発言権を増していき、高位聖職位を独占するに至った。東ローマ帝国では、政府が修道士を保護し、ギリシャのアトス半島や北西部のメテオラなどの山岳地には大規模な修道院が造られた。
 修道院は、東方で発達した後、西方でも盛んになった。4世紀末~5世紀初めのラテン教父ヒエロニムスがこれを西方教会に伝えるにあたって大きな役割を果たした。ベネディクトゥスは、529年ごろモンテ・カッシノに修道院を起こした。彼の生み出した修道制度は、会則を定め、所属する修道者が同じ精神を共有することに最大の特徴がある。ベネディクト会では、東方の修道士のように禁欲的な修行をして神秘体験を求めて教会に対立するものではなく、合理性と秩序のある生活を維持しながら、謙卑 (フミリタス) をもって神と教会とに仕えることを旨とした。「祈れ、そして働け」をモットーとし、信仰生活だけでなく労働を重視し、荒れた土地を開墾し、農業技術やそれに伴う醸造・製造技術を発展させた。また貧者の救済や病人の世話などの社会活動を教会のために行った。
 ベネディクト会の確立したスタイルにならって、多くの男女修道会が生まれた。そうした修道会では、誓願を立てる。誓願の主な内容は「貞潔、清貧、従順」の三つである。貞潔は、結婚と家庭生活を放棄すること。清貧は、私有財産を放棄し、生活の糧を共有すること。従順は、目上の指導に神の意思を読み取ることである。
 厳しい規律を持って信仰・労働・社会活動を行う集団生活は、ウェーバーが「世俗外禁欲」、「行動的禁欲」を実行するものだった。修道僧たちは、そのように生活していれば、神の救済を受けられると信じた。彼らの集団労働は強大な生産力を発揮し、修道院はその生産力によって、経済的に完全な独立を成し遂げた。また、結果として富を蓄積することになった。中世の西方教会の教えは、富を欲して儲けるのは禁止だが、結果として富が得られることは許された。
 修道院の瞑想、読書、労働の生活が人々に感化を与え、多くの土地の寄進を受けた。その結果、修道院は次第に大規模な土地経営者になっていった。

 次回に続く。
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改憲論26~護憲派の主張の誤り

2018-06-19 12:20:23 | 憲法
11.護憲派の主張の誤り

 第9条の改正に反対する護憲派の人々は、次のように主張する。

 (1) 9条が日本の平和を守ってきた
 (2) 軍隊を持ったら戦争が始まる。
 (3) 日本を戦争の出来る国にするのか
 (4) 9条改正は徴兵制につながる

 このように主張して9条改正の危険性を説く人たちは、ただ、恐怖心を煽って、国民に国防の大切さを考えさせないようにするものである。
 これらの主張について反論する。

 (1)の「9条が日本の平和を守ってきた」という人たちは、外国との紛争は話し合いで解決すべきという。すべての紛争を話し合いで解決できるなら、各国は軍隊をなくすだろう。
実際に日本の平和が守られてきたのは、9条があったからではなく、自衛隊を持ち、日米安保を結んでいるからである。
 旧ソ連から日本が守られたのは、北海道に自衛隊の精鋭の部隊を置き、「北の守り」を怠らなかったからである。もし自衛隊を解体し、日米安保も破棄していたら、非武装中立路線をとっていたら、敗戦前後にソ連軍が満州や樺太等に侵攻した際の惨事が繰り返されただろう。
 もっとも悲惨なのは、仏教国で平和を愛し、小さな軍隊しか持たなかったチベットは、中国の人民解放軍に侵攻され、多数のチベット人が虐殺や迫害を受けている。
 中国は尖閣諸島周辺で領海侵犯を繰り返しているが、尖閣諸島を守ることができているのは、海上保安庁が警備し、後ろに海上自衛隊が控え、また日米安保によって米軍が存在するからである。
 憲法に9条を規定すれば平和が守られるのならば、どうして日本にこの憲法を押し付けた米国は、自国の憲法に9条の内容を取り入れないのか。米国以外の国も平和を愛する国は、どうして9条の内容を取り入れないのか。現実の国際社会では、9条の内容は空想的な理想論にすぎず、そのような規定では自国を守ることができないことがわかっているからだろう。

 (2)の「軍隊を持ったら戦争が始まる」――護憲派はこのように言って、特に女性の意識を改正反対に誘導している。だが、軍隊を持てば戦争が始まるというなら、世界中で軍隊を持つ国同士が絶えず戦争を行っているだろう。ヨーロッパ諸国は、イギリス、フランスをはじめみな軍隊を持っているが、第2次大戦後、平和を保っている。第2次世界大戦の枢軸国だったドイツ、イタリアも軍隊を持っているが、軍隊を持ったからといって周辺国に侵攻していない。戦争を仕掛けて領土を略奪する国は、独裁者のいる国や全体主義の国が多い。これに対し、自由民主主義国は、戦争抑止力として、近隣諸国から侵略されないように軍隊を持っている。また、国連を通じて平和を守るために協力し合っている。
 また、国連憲章は、第51条に自衛権を規定し、各国の自衛権を認めている。そのために軍隊を持つことを当然のこととして認めている。そのうえで国際平和を維持しようというのが、国連である。
 護憲派は、具体的にどのように国を守るのかという疑問に、答えようとしない。ただ戦争になると、人々に不安を煽っており、無責任である。

 (3)の「日本を戦争の出来る国にするのか」ということについては、日本の周辺のことを見て、考えてもらいたい。
 まず中国である。日本から中国に戦争を仕掛けたらどうなるか。中国は、核兵器・ICBM・空母等を持っている。「待ってました」とばかりに叩き潰されるだけである。北朝鮮についても、もし日本から攻め入ったら、中距離ミサイルをしこたま打ち込まれる。大都市を中心にサリン等の毒ガスを大量に散布され、大悲劇を招くだろう。ロシアについてもそうで、ロシアは米国に次ぐ世界第二の核大国であり、世界最先端の最新兵器を開発している。徹底的に国土を破壊され、占領・支配を受けるだろう。韓国は日米と連携している国だが、もし日本が韓国に侵攻したならば、韓国は徴兵制の国であって国民は北朝鮮の侵攻に備えて軍事訓練をしているうえに、強い反日感情を持っている。こちらから攻めたら、烈しくやり返されることは、火を見るより明らかである。
 このように日本の周りの国々を考えると、日本がこちらから戦争して得になるような国はない。

 (4)の「9条改正は徴兵制につながる」という主張については、9条改正と徴兵制は直接関係がない。
 最も重要なことは、まず国民が自ら国を守るという意識を持つことである。護憲派には、日本人として自ら日本を守ろうという姿勢がない。外国が侵攻してきたら、無抵抗で降伏することは、国民を略奪・虐待の危険にさらすことになる。むしろ日本が外国に征服・支配されることを望んでいるような倒錯した心理が感じられる。護憲派には、在日韓国人・中国人や韓国・中国からの帰化人が多い。彼らは、母国または精神的な母国の利益のために、日本を丸裸にして侵攻しやすいように図っているものと見るべきである。
 国民が国防の義務を負うことと徴兵制を定めることは、別である。軍隊には、徴兵制と志願制がある。国によって、志願制を採用している国と徴兵制を採用している国がある。それはその国の事情によって国民が選択することである。憲法に国防の義務を定めているが、徴兵制を敷いていない国もある。米、カナダ、英、仏、独、オランダ、ベルギー、イタリア、スペイン、ポルトガル、ポーランド等は、徴兵制を廃止して志願制に変更したが、憲法で国民に祖国防衛の義務を課している。
 世界的な傾向としては、志願制を採用する国が多くなっている。理由の一つは、軍事技術がハイテク化し、現代の軍隊は全職種・全部隊が最新の技術と武器を用い、高度に専門化されていることである。そのため、専門的な訓練を受けていない者は役に立たないという考え方が主流になっている。
 そうしたなかで徴兵制を維持している国もある。韓国は北朝鮮から国を守るため、徴兵制を続けている。また、注目すべきは長く永世中立国だったスイスは、徴兵制を採っていることである。スイスでは数年前に一部の国民が徴兵制廃止を求め、国民投票が実施されたが、徴兵制廃止は反対多数で否決された。国民多数が徴兵制の維持に賛成したのである。
 徴兵制を採っている国においては、良心的兵役忌避を権利として認めたり、兵役の代わりに社会奉仕活動を選択することができるようにしている場合がある。本人の意思と権利を尊重しているものである。
 国防の義務というと、強制的な徴兵制をイメージし、子供が戦争に生かされるのではないかと心配になる親がいるだろう。だが、もし外国の侵攻を受けた時には、外敵から自分や家族を守るための訓練を受け、そのために必要な装備を持っていなければ、多くの人が殺されるのである。子供であれば、親や家族を守るために必要な技術と武器を備えていなければ、何もすることもできずに愛する人々の生命を奪われるのである。その点で、国民全体が自国を守る意識を持ち、基礎的な訓練を受け、必要な装備をすることは、自分と家族を守るために必要なことである。
 私が日本にとって最も参考にすべきと思うのは、先に触れたスイスである。スイスは永世中立国として知られる。近年国連に加盟したので、永世中立国ではなくなったが、スイスは非武装中立ではなく、国民皆兵の国である。国民が一致団結して、国家を防衛することを徹底している。国民が一致団結して外敵に対処する国は、容易に攻め込めない。ヒトラーでさえ、スイスには攻め入らなかった。スイス政府は、国民に『民間防衛』という冊子を配布している。国民は常に訓練を怠らない。道路・施設等のすべてが、いざ外敵が侵攻してきたときには、国を守るために使用できるようになっている。また、小学校など様々の施設の地下に、核シェルターがあり、仮に核戦争になっても国民のほとんどが生き残れるように備えている。こうしたスイスの例から、日本人が国防のあり方を学ぶことのできることは多い。
 9条を改正したうえで、国を守るためにどういう制度にするかは、国民の意思で決定すればよいことである。9条を改正すれば、いつの間にか徴兵制が敷かれるということはない。まず国民が自ら国を守るという意思を持ち、国を守るためにはどういう体制にするのがよいかを国民全体で考えていけばよいのである。

 次回に続く。
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