●有識者の見解
道徳教育の充実を求める有識者は増えている。そのうち、教育評論家の石井昌浩氏、政治ジャーナリストの細川珠生氏、明星大学教授の高橋史朗氏の意見を紹介する。
まず、石井昌浩氏の意見。東京都国立市の教育長等を歴任した石井氏は、「もともと教育には押しつけなしには成立しないところが多い。価値観が多様化している現代だからこそ、子供たちには社会を構成する一員として守るべき時代を超えて変わらないルールや、その場にふさわしい振る舞いのできる弁(わきま)えを身に付けさせるべきである。幼いうちから『ダメなものはダメ』と子供に教え育てることは押しつけでも何でもない」「道徳の教科化により体系的理論や古今東西の先人の『生き方の座標軸』が提示されることで、子供たちには『人格の完成』のような人間性を高めるための普遍的目標が初めて身近なものとして理解されてくるだろう」と述べている。
以下、石井氏の記事の転載。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
●産経新聞 平成25年3月23日
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130323/edc13032307420000-n1.htm
【解答乱麻】
教育評論家・石井昌浩 道徳の教科化に賛成する理由
2013.3.23 07:41
政府の教育再生実行会議が道徳の教科化を提言したが、教科化についての反対論も少なくない。賛否両論その理由はさまざまだが、道徳教育をめぐる認識の違いが浮き彫りにされていて興味深い。教科化に賛成の立場で論点を整理してみたい。
第1に、「価値観の押しつけに反対」の立場からの批判について。価値観の押しつけは教育になじまないという耳に心地よい言葉を口実に、親と教師は子供たちに道徳を語ることから逃げてきたと思う。
戦後社会において私たちは、価値観多様化を理由に価値判断の分かれる事柄について深く立ち入ることを避けてきた。このような「価値相対主義」によって立つのが道徳教育の主流だった。そこでは、子供たちの人格形成、価値判断の基準となる、人生の羅針盤の役割を果たす具体的モデルを示すことはしなかった。
もともと教育には押しつけなしには成立しないところが多い。価値観が多様化している現代だからこそ、子供たちには社会を構成する一員として守るべき時代を超えて変わらないルールや、その場にふさわしい振る舞いのできる弁(わきま)えを身に付けさせるべきである。幼いうちから「ダメなものはダメ」と子供に教え育てることは押しつけでも何でもない。
第2に、「道徳の教科化がいじめ問題解決につながらない」という批判について。「道徳の時間」がいじめ問題の解決に寄与できなかった理由の一つに、教科でないために授業がおざなりにされてきたことがある。
大人、子供を問わず、人間の集団にはいじめがつきものだ。学校も人間の集団なのだからいじめが起きるのが当たり前である。いじめは幼児のいたずらに近いものから犯罪といいうべきものまで多種多様なので、完璧ないじめ対策などあるはずがないと思う。それでも、死を招くような深刻ないじめについては断じて食い止めなければいけない。
子供たちの人間形成の多くは学校における学習や生活の場面での子供同士の交流を通してなされる。楽しいことや、不愉快なこと、屈辱的なことも含めて多様な経験を重ね子供たちは自らの道を切り開いて社会的自立を果たしていくのだ。
道徳の教科化により体系的理論や古今東西の先人の「生き方の座標軸」が提示されることで、子供たちには「人格の完成」のような人間性を高めるための普遍的目標が初めて身近なものとして理解されてくるだろう。
第3に、「道徳は評価の対象になじまない」という批判について。教科でないので教科書もなく、指導方法も確立しないままにすべてを学校任せにしてきた「道徳の時間」を前提に評価を論じるのには無理がある。
教科化により検定教科書が使われ、指導方法の研究開発が進むにつれて評価方法も改善されよう。そもそも他の教科が道徳と比べて成績評価が容易だと考えるのは筋違いである。たとえば美術、音楽、技術・家庭、保健体育などの技能の習熟を目指す教科における技能評価の難しさは言うまでもないが、国語や社会、理科、数学・算数、英語などの教科の成績評価も決して簡単ではない。道徳だけがことさらに評価が難しいという主張の根拠は乏しい。
道徳を教科化することにより長いあいだ形骸化していた「道徳の時間」を立て直し、すべての教師が道徳と真剣に向き合える環境が初めて整うのだ。道徳の教科化は半世紀前からの積み残された課題である。
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次回に続く。
道徳教育の充実を求める有識者は増えている。そのうち、教育評論家の石井昌浩氏、政治ジャーナリストの細川珠生氏、明星大学教授の高橋史朗氏の意見を紹介する。
まず、石井昌浩氏の意見。東京都国立市の教育長等を歴任した石井氏は、「もともと教育には押しつけなしには成立しないところが多い。価値観が多様化している現代だからこそ、子供たちには社会を構成する一員として守るべき時代を超えて変わらないルールや、その場にふさわしい振る舞いのできる弁(わきま)えを身に付けさせるべきである。幼いうちから『ダメなものはダメ』と子供に教え育てることは押しつけでも何でもない」「道徳の教科化により体系的理論や古今東西の先人の『生き方の座標軸』が提示されることで、子供たちには『人格の完成』のような人間性を高めるための普遍的目標が初めて身近なものとして理解されてくるだろう」と述べている。
以下、石井氏の記事の転載。
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●産経新聞 平成25年3月23日
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130323/edc13032307420000-n1.htm
【解答乱麻】
教育評論家・石井昌浩 道徳の教科化に賛成する理由
2013.3.23 07:41
政府の教育再生実行会議が道徳の教科化を提言したが、教科化についての反対論も少なくない。賛否両論その理由はさまざまだが、道徳教育をめぐる認識の違いが浮き彫りにされていて興味深い。教科化に賛成の立場で論点を整理してみたい。
第1に、「価値観の押しつけに反対」の立場からの批判について。価値観の押しつけは教育になじまないという耳に心地よい言葉を口実に、親と教師は子供たちに道徳を語ることから逃げてきたと思う。
戦後社会において私たちは、価値観多様化を理由に価値判断の分かれる事柄について深く立ち入ることを避けてきた。このような「価値相対主義」によって立つのが道徳教育の主流だった。そこでは、子供たちの人格形成、価値判断の基準となる、人生の羅針盤の役割を果たす具体的モデルを示すことはしなかった。
もともと教育には押しつけなしには成立しないところが多い。価値観が多様化している現代だからこそ、子供たちには社会を構成する一員として守るべき時代を超えて変わらないルールや、その場にふさわしい振る舞いのできる弁(わきま)えを身に付けさせるべきである。幼いうちから「ダメなものはダメ」と子供に教え育てることは押しつけでも何でもない。
第2に、「道徳の教科化がいじめ問題解決につながらない」という批判について。「道徳の時間」がいじめ問題の解決に寄与できなかった理由の一つに、教科でないために授業がおざなりにされてきたことがある。
大人、子供を問わず、人間の集団にはいじめがつきものだ。学校も人間の集団なのだからいじめが起きるのが当たり前である。いじめは幼児のいたずらに近いものから犯罪といいうべきものまで多種多様なので、完璧ないじめ対策などあるはずがないと思う。それでも、死を招くような深刻ないじめについては断じて食い止めなければいけない。
子供たちの人間形成の多くは学校における学習や生活の場面での子供同士の交流を通してなされる。楽しいことや、不愉快なこと、屈辱的なことも含めて多様な経験を重ね子供たちは自らの道を切り開いて社会的自立を果たしていくのだ。
道徳の教科化により体系的理論や古今東西の先人の「生き方の座標軸」が提示されることで、子供たちには「人格の完成」のような人間性を高めるための普遍的目標が初めて身近なものとして理解されてくるだろう。
第3に、「道徳は評価の対象になじまない」という批判について。教科でないので教科書もなく、指導方法も確立しないままにすべてを学校任せにしてきた「道徳の時間」を前提に評価を論じるのには無理がある。
教科化により検定教科書が使われ、指導方法の研究開発が進むにつれて評価方法も改善されよう。そもそも他の教科が道徳と比べて成績評価が容易だと考えるのは筋違いである。たとえば美術、音楽、技術・家庭、保健体育などの技能の習熟を目指す教科における技能評価の難しさは言うまでもないが、国語や社会、理科、数学・算数、英語などの教科の成績評価も決して簡単ではない。道徳だけがことさらに評価が難しいという主張の根拠は乏しい。
道徳を教科化することにより長いあいだ形骸化していた「道徳の時間」を立て直し、すべての教師が道徳と真剣に向き合える環境が初めて整うのだ。道徳の教科化は半世紀前からの積み残された課題である。
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次回に続く。