ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

「人権――その起源と目標」を完結

2017-01-16 10:06:45 | 人権
 拙稿「人権――その起源と目標」は、第4部第12章「人権の理論と新しい人間観」の連載を終え、マイサイトに掲示しました。既に掲載してある第11章の後に追加しました。通してお読みになりたい方は、下記へどうぞ。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i-4.htm

 拙稿「人権――その起源と目標」は、これを以って全体の連載を完結しました。4年6か月にわたり、ご愛読ありがとうございました。目次を、下記に掲載しました。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i.htm
 4部構成、約92万6千字の大作です。全体の要旨を記すとーー人権の起源は、近代西欧における普遍的・生得的な権利という観念にあるが、人権の実態は歴史的・社会的・文化的に発達してきた権利である。生まれながらに誰もが持つ「人間の権利」ではなく、主に国民の権利として発達する「人間的な権利」である。「発達する人間的な権利」としての人権の目標とすべきものは、個人の自由と選好の無制約な追求ではない。個人においては人格的な自己実現であり、国家においては共同体の調和的発展、人類においては物心調和の文明、共存共栄の世界の実現である。こうした目標を追求するには、新しい人間観として心霊論的人間観の確立が必要であるーーと主張するものです。
 本稿が、従来の人権に関する多くの主張の誤りや人権を掲げた左翼的な運動の偏りを正し、日本の再建と人類の調和的発展に、少しでも寄与できるならば幸いです。

※お知らせ
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http://khosokawa.sakura.ne.jp
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人権401~精神的・道徳的な向上を促す力が待望される

2017-01-13 08:49:12 | 人権
 最終回。

●精神的・道徳的な向上を促す力が待望される

 物心調和の文明、共存共栄の世界を建設する上で、最大の道徳的な課題は、人類はそれぞれの共同体的な集団におけるような、家族的生命的なつながりを基にした同胞意識や連帯感を、ネイション(国家・国民)やエスニック・グループ(民族)を越えて保持し得るかということだろう。
 世界人権宣言には、「human family」という用語が使われている。正確に訳すなら、「人類家族」である。人類は、果たして一つの家族としての同胞意識・連帯感を持ち得るだろうか。 現在の世界人口を70億人とすると、70億人で一つの社会とはなっていない。人類社会は、複数の社会の集合である。主権国家及びそれに準ずる政治組織は、190を越える。これらの集団間には様々な差異があるが、その一つとして人口の差がある。この差は非常に大きい。人口10億人以上の国家、1億人以上の国家、1千万人以上の国家、百万人以上の国家、百万人未満の国家と多様である。10億人の人口を持つ国家は、500万人の人口を持つ国家の200倍の規模である。200とは、地球上の国家と地域の数に近い数字である。
 人間は血統や地域や生活を共にすることによって、相互扶助・協力協働の関係を築く。また、家族愛や友愛を育む。集団生活における直接的な交流は、数百人から数千人程度が普通である。数百万人、数千万人と直接交流する人は、ごく少ない。多くの人間は、直接的で具体的な経験を超えて、他者への理解や同情を持つことは難しい。直接的で具体的な経験なくして、同胞意識や連帯感を持てるようになるには、共感の能力の開発による大きな精神的・道徳的な向上が必要である。そのために教育・啓発活動の役割は大きい。だが、よほど強力な感化力を持った思想や宗教でなければ、既成観念にとらわれた人々の意識の変革はできないだろう。そこで、多くの人間の自己実現・自己超越を促進する精神的な巨大なエネルギーが求められる。人間の精神に感化を与え、破壊的・自滅的な思考回路を消滅させ、恐怖をもたらすトラウマを癒して、精神を健全に発達させる力が待望されている。
 その力はまた人類を物心調和の文明、共存共栄の世界の建設に導く力でもある。宇宙には秩序と発展をもたらす力が存在する。この力は万物を貫く理法に基づいて働く。ここで理法とは、第11章の結びに書いた古代ギリシャのノモスやシナ文明の道(タオ)、日本文明の道(みち)または道理に通じるものである。また、その力は、万物を理法に沿った調和へと導く力である。その力が人類に作用して、人類の知能や文明・科学等が発達してきたと考えられる。子供は成長の過程において、最初は肉体が成長し、後に精神が成長する。それと同じように、人類の文明も、最初は物質文化が発達し、次は精神文化が発達する。人類がその力を求め、受け入れる時、かつてない精神的・道徳的な向上が始まるだろう。
 この力とは、宇宙の万物を生成流転させている原動力である。宇宙本源の力である。その宇宙本源の力を受けることによる精神的・道徳的な向上は、一部の人たちから始まり、また一部の国から広がるだろう。経済中心・物質中心の価値観から物心調和の価値観に人々の価値観が変化する。そうした国々で物心調和の文明の建設が始まる。この新たな文明が、その他の国々にも広がる。それによって、共存共栄の世界が実現されていく。諸個人・諸国家・諸民族の調和的な発展によって、国家間の富の収奪が抑制され、過度の不平等が是正されていく。国際間の平和と繁栄が共有され、国家間の格差が縮小される。物心調和の文明、共存共栄の世界が建設される過程で、諸国家における国民の権利が発達する。戦争・内戦等の人為的原因で発生する難民が減少する。こうして諸個人の自己実現・自己超越が相互的・共助的に促進される社会が実現する。このサイナジックな社会において、物心調和の文明、共存共栄の世界の建設は一層大きく進むことになる。それによって、また諸個人の自己実現・自己超越が相互的・共助的に促進される。こうした循環が螺旋的に進行するに従って、人類は飛躍的な進化を体験することになるだろう。
 人権とは、それ自体が目標ではなく、人格の成長・発展、ネイションの調和的発展、物心調和の文明と共存共栄の世界の実現という目標を達成するために必要な条件である。

●結びに

 本稿は、ブログとMIXIに平成24年(2012)7月8日から、約4年6か月にわたって連載した。第1部で人権の基礎理論、第2部で人権の歴史と思想、第3部で人権の現状と課題、第4部で人権の目標と新しい人間観について書いた。目次と本文を下記に掲示している。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i.htm
 全体の要旨を再度記すと、人権の起源は、近代西欧における普遍的・生得的な権利という観念にあるが、人権の実態は歴史的・社会的・文化的に発達してきた権利である。生まれながらに誰もが持つ「人間の権利」ではなく、主に国民の権利として発達する「人間的な権利」である。「発達する人間的な権利」としての人権の目標とすべきものは、個人の自由と選好の無制約な追求ではない。個人においては人格的な自己実現であり、国家においては共同体の調和的発展、人類においては物心調和の文明、共存共栄の世界の実現である。こうした目標を追求するには、新しい人間観として心霊論的人間観の確立が必要である、と主張するものである。
 本稿が、従来の人権に関する多くの主張の誤りや人権を掲げた左翼的な運動の偏りを正し、日本の再建と人類の調和的発展に、少しでも寄与できるならば幸いである。(了)
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人権400~心霊論的人間観の確立を

2017-01-11 09:31:31 | 人権
心霊論的人間観の確立を

 いったい人生の根本問題とは何か。成長して大人になること、自分に合った伴侶を得ること、子供を産み育てること、よい死に方をすること。私はこれらに集約されると思う。これは、様々な宗教・哲学・思想の違いに関わらず、人間に共通する問題だろう。そして、よい死に方をするためには、自分が生まれてきた意味・目的を知ること、生きがいのある人生を送ること、自己の本質を知ること、死後の存在について知ることが必要になる。人生の根本問題の前半は、なかば生物学的・社会学的なものである。しかし、死の問題は違う。死の問題は、哲学的であり、宗教的な問題である。唯物論は、人生の後半の問題については、まったく役に立たない。むしろ、自己の本質について、根本的な誤解を与える。
 人間は死んで終わりなのか、死後も存在しつづけるのか。死の認識で思想は大きく二つに分かれる。死ねば終わりと考えるのは唯物論であり、死後も続くと考えるのが心霊論である。心霊論には、キリスト教のような人格的唯一神による創造説や、仏教のような縁による発生説がある。人生は一回きりという一生説と、輪廻転生を繰り返すという多生説がある。また、祖霊の祭祀を行う場合と、行わない場合がある。単に思い出、記憶として親や先祖を思うという場合もある。しかし、心霊論は、死後の存在を想定して人生を生きる点では、共通している。
 心霊論的人間観では、死は無機物に戻るのではなく、別の世界に移るための転回点であると考える。身体は自然に返る。しかし、霊魂は、死の時点で身体から離れ、死後の世界に移っていく。人生においては、この死の時に向かっての準備が重要となる。霊魂を認め、来世を想定する心霊論的な人間観に立つと、フロイトの「死の本能(タナトス)」とは違う意味での「死の本能」が想定される。来世への移行本能と言っても良いし、別の次元の生に生きる再生本能と言っても良い。
 身体から独立した霊魂を認めるという考え方は、特異なものではない。近代西欧で唯物論的人間観が有力になるまで、ほとんどの人類は、そのように考えていた。唯物論的人間観の優勢は、物質科学・西洋医学の発展やダーウィンの進化論、マルクス、ニーチェ、フロイトらの思想によるところが大きい。だが、近代西欧にあっても、カント、ショーペンハウアー、シジウイックらの哲学者、ウォーレス、クルックス、ユングらの科学者は、霊的現象に強い関心を表したり、心霊論的信条を明らかにしてきた。20世紀の代表的な知性の一人であるベルグソンは、特にテレパシーの事例に注目した。ベルグソンは「心は体からはみ出ている」として、身体と霊魂の関係を「ハンガーと洋服」の関係にたとえている。テレパシー以外にも臨死体験や体外離脱体験等には、否定しがたい多数の事例があり、それらをもとに、霊魂が身体と相対的に独立し、死後は別の仕方で存在することを主張することができる。超心理学の研究によって、超感覚的知覚(ESP)の解明が進められているが、その研究対象は、霊的存在の領域へと向かっていくだろう。
 今日の人類は、人権の目標を目指すために、心霊論的な人間観を確立する必要がある。心霊論的な人間観に立つと、社会や文明に対する見方は、現在の常識や諸科学の知見とは、大きく異なったものになる。私は、心霊論的人間観を確固としたものにするために、超心理学とトランスパーソナル学のさらなる発展に期待している。また、それらを補助とする新しい精神科学の興隆が、文明の転換、人類の精神的進化の推進力になる、と私は信じる。

●物心調和の文明、共存共栄の世界を築くために

 「発達する人間的な権利」としての人権が国際的に広く保障される世界を建設するためには、人類は二つの面で飛躍的な向上を成し遂げることが必要である。一つは経済的・技術的な向上、一つは精神的・道徳的な向上である。前者は物の面、後者は心の面である。人類は、これら物心両面にわたる飛躍的な向上を必要としている。そして物心調和の新たな文明を創造し得たとき、初めて「発達する人間的な権利」が諸社会に広く保障され、またさらに発展し続けるだろう。
 物質文化と精神文化が調和した物心調和の文明を建設しなければ、人類は自ら生み出した物質科学の産物によって、自滅しかねないところに来ている。この危機を避け、地球に共存共栄の世界を実現するには、心霊論的人間観に基づいて、人格の成長・発展による精神的・道徳的な向上を目指す必要がある。個人個人の人格的な成長・発展なくして、物心調和の文明、共存共栄の世界は建設し得ない。
 それとともに私は、この建設過程で、国家の役割は重要である、と考える。諸国家が自国の国民に国民の権利を保障し、さらに拡充していくときに、人類社会全体が物心両面において発展し、新文明の建設が進められていく。国家の役割を排除して、個人個人の努力のみによるのでは、この過程は進行し得ない。また、国際機関は直接、個人個人の人格の成長・発展を支援し得ない。人権は、国家の否定によってではなく、諸国家の調和的発展によってのみ発達し続けることができると私は考える。
 地球の人類社会は現在、貧困と不平等だけでなく、食糧・水・資源等の争奪、核の拡散、環境の破壊等により、修羅場のようになっている。各所で対立・抗争を生じている複雑で不安定な国際関係の中では、個人の権利を「人間的な権利」として実現することが、非常に困難な状態にある。国家間の平和と繁栄があってこそ個人の権利の保障・拡大ができる。国家間の平和と繁栄は、国家間の努力によってしか実現し得ない。
 国際社会を平和と繁栄の方向に進めるために、近代西欧で発達した自由・平等・デモクラシー・法の支配等の価値は、現在の世界で有効なものと言える。われわれは、各国家・各国民(ネイション)において、それぞれの文化・伝統・習慣に合った形でこれらの価値が実現され、そうした価値を実現しつつある諸国家・諸国民が、それぞれの固有の条件のもとで多種多様に発展し、協調する世界を構想すべきだろう。様々な国家・国民がお互いを尊重しながら協調し、物心調和・共存共栄の新文明が実現されてこそ、人権は大きく発達し、人類はさらに精神的・道徳的に向上する道を進むことができるだろう。

 次回は最終回。
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人権399~人権の起源と目標

2017-01-09 08:46:31 | 人権
●人権の起源と目標

 人権の起源は、近代西欧発の普遍的・生得的な権利という観念にあるが、人権の実態は歴史的・社会的・文化的に発達してきた権利である。生まれながらに誰もが持つ「人間の権利」ではなく、主に国民の権利として発達してきた「人間的な権利」である。「発達する人間的な権利」としての人権の目標とすべきものは、個人の自由と選好の無制約な追求ではない。個人においては人格的な成長・発展であり、国家においてはネイションの調和的発展、人類においては物心調和の文明、共存共栄の世界の実現である。ここにおいて、人間が人格的に成長・発展するための条件が、人権と称される自由と権利である。自由と権利は、それ自体が目的ではなく、人格の成長・発展のための条件である。目標とすべき物心調和とは、物質的繁栄と精神的向上の両面の調和であり、共存共栄とは、諸個人・諸国家・諸民族等の調和ある発展である。
 人権の目標である個人的・国家的・人類的な三つの目標を目指すには、人間観の転換が必要である。私は、人間とは何かという問いについて、本章の人権の内容に関する項目に見解を書いた。そこで述べたように、人間には個人性と社会性、生物性と文化性、身体性と心霊性という三つの対で示される性質がある。また、人間は、共通の根に共感の能力を持つ諸能力を発揮する人格的存在である。そうした諸能力は、人間の欲求を実現するために集団において協同的に発揮される。だが、現代で支配的な人間観では、こうした人間の全体像をとらえることができない。そこで、私が必要と考えるのが、心霊論的人間観の確立である。
 心霊論的人間観とは、人間の持つ諸性質を総合的に把握したうえで、その中の心霊性を重視し、人間を単に物質的な存在と見るのではなく、人間には物質的な側面と心霊的な側面の両面があるとする人間観である。心霊論的人間観は、近代西欧が生み出した人間を単に物質的にとらえる唯物論的人間観の欠陥を是正する。心霊論的人間観においては、個人の人格は死後も霊的存在として存続する可能性を持ち、また共感の能力は、身体的な局所性に限定されず、時空を超越し、波長の異なる領域にも及び得ると理解する。こうした人間観を確立することによって、人権の目標である個人的・国家的・人類的な目標を達成するために必要な人間観の転換を果たし得る、と私は考える。

●人間観の転換が必要

 世界人権宣言の人間観のもとになっているのは、ロック=カント的な人間観であり、それが現代の国際社会の人間観に基本的な枠組みを与えている。ロック=カント的な人間観とは、人間は、生まれながらに自由かつ平等であり、個人の意識とともに、理性に従って道徳的な実践を行う自律的な人格を持つ、という人間観である。今日支配的な人間観は、ロック=カント的な人間観を個人主義的に解釈し、社会を個人中心・個人本位に考える傾向がある。また、人間の諸性質のうち生物性と身体性を重視し、経済的・物質的な欲求の充足を目指す傾向がある。
 だが、ロック=カント的な人間観の元になったカント自身の思想は、唯物論ではない。カントは心霊論的信条を抱き、感性界・現象界と超感性界・叡智界を区別し、霊魂の不滅を要請し、人格を死後も霊的存在として存続するものと考えた。カントにおける人間は、感性的であると同時に超感性的であり、市民社会の一員であると同時に、霊的共同体の構成員である。「目的の国」は、感性界で完結するものではなく、超感性界につながっている社会である。今日支配的になっているロック=カント的人間観は、こうした心霊論的側面を排除し、唯物論的に人間をとらえる傾向にあるものである。
 今日支配的な個人主義的かつ唯物論的な傾向を持つ人間観の枠組みでは、人間を総合的に理解することができない。私は、人間の総合的理解を深めるには、マズローの理論を参考にすべきと考える。マズローの欲求段階説については、本稿で何度か述べてきたが、マズローは人間の5つの欲求の最上位に、自己実現の欲求を置く。そして自己実現こそ人生の最高の目的であり、最高の価値であるとマズローは説く。また人間が最も人間的である所以とは、自己実現を求める願望にあると説く。
 この理論は、単なる欲求とその充足の理論ではなく、人格の成長・発展に関する理論と理解することができる。人間は人格的存在であり、人格を形成し、人格的に成長・発展することを欲求として潜在的に持つ。人格の形成は親の愛情、言語・習慣・道徳等の教育による。人格の基礎が出来れば、さらに成長・発展したいという欲求が働く可能性が生まれる。自己実現の欲求は、人間に内在する人格的な欲求であり、道徳的な能力の発現である。人間には自己実現を達成する能力が潜在しており、その能力が発揮されることによって、人格の高度な成長・発展が可能となる。自己実現の欲求が働くとき、人は自己実現を目指して、自らの人格を成長・発展させようとする。この欲求は、基本的には下位の欲求が充足された後に追及されるが、人によっては、下位の欲求の充足如何に関わらず、自己実現の欲求の実現を求める。例えば、宗教的修行者、賢者等にそれが見られる。
 自己実現には、具体的な人格的目標が必要である。父母、祖父母、教育者、集団の指導者等が目標となり得る身近な存在である。また、しばしば釈迦、孔子、プラトン、イエス、ムハンマド等の精神的な指導者が目標とされる。それらの指導者への感動、敬服、憧憬等の感情を通じて人格的感化を受ける。人格的感化は、近代西欧的な理性の働きだけでなく、感性の働きによるものであり、相互間の共感の能力によるところが大きいと考えられる。
 マズローの事例研究によると、自己実現を成し遂げた人は、しばしば、さらに自己超越を求めるようになる。自己超越の欲求とは、自己を超え、自分自身を超えたものを求める欲求である。そして、他の多くの人々のために尽くしたり、より大きなものと一体になりたいと願ったりする。自己超越とは、自己が個人という枠を超えて、超個人的(トランスパーソナル)な存在に成長しようという欲求である。それは、悟り、宇宙との一体感、宇宙的な真理や永遠なるもの、社会の進化や人類の幸福などの、より高い目標である。古今東西の宗教や道徳でめざすべき精神の状態とされてきたものである。
 マズローは、自己実現の心理学から、自己超越の方向に進み、個を超える、より高次の心理学を提唱した。これがトランスパーソナル心理学である。マズローは、「トランスパーソナル」とは「個体性を超え、個人としての発達を超えて、個人よりもっと包括的な何かを目指すことを指す」と規定している。
 人間には、こうした自己実現を経て自己超越に向かう人格的な欲求が生得的に内在している。その欲求は、アニミズムやシャーマニズムと呼ばれる原初的な精神文化にもさまざまな形で表れている。人類史に現れた諸文明は、より発達した宗教をその中核に持ち、多くの宗教は、死後も人間は霊的な存在として存続することを説いている。マズロー以後、トランスパーソナル心理学は、心理学という枠組みを超え、さまざまな学問を統合するものとなり、包括的な視点に立って人間のあり方を模索する学際的な運動となっている。これをトランスパーソナル学と呼ぶ。トランスパーソナル学では、人間は霊性を持つ存在であることを認めている。繰り返しになるが、本稿で霊性は心霊性と同義である。人間に生死を超えた心霊性を認めてこそ、人間観は身体的な局所性を超えて、真に時空に開かれたものになる。死をもって消滅するものは、真の人格とは言えない。人権論の基礎に置くべき新しい人間観は、こうした霊的な存続可能性を持つ人格を中心にすえたものとならねばならない。
 人権の目標を目指すには、人間には自己実現・自己超越の欲求が内在し、また人間は霊的存続可能性を持つ人格的存在であるという人間観に転換する必要がある。

 次回に続く。
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人権398~人権発達のための実践で重要なこと(続)

2017-01-06 09:30:13 | 人権
●人権発達のための実践で重要なこと(続)

(11)国家の役割が重要であることを認識する
 次に、人権発達のための実践において、国家の役割が重要であることを認識する必要がある。現代の世界は、さまざまな国家が並存している国際社会である。国際社会における主要な行為主体は、国家即ち各国の政府である。これに加えて、補助的な行為主体として国際機関・民間団体・諸個人等が活動する。国連は基本的に国家を単位とし、加盟国は190以上にのぼる。各国は、政治的自由によって国連に加盟し、一個の集団的主体として討論や投票に参加する。仮にこの主体を個人単位にすると、70億人もの個人を等しく国連の参加者とすることになる。これは、現実的に不可能である。国家を単位にするのが妥当である。
 人権条約は諸個人が直接採択しているのではなく、諸政府が採択している。個人の人権を擁護するのは、基本的に各国の政府が行うべきことである。その国の政府ができない場合やどの国の政府もできない場合に、国際機関や民間団体、篤志ある個人等が、政府の役割を補助するという副次的な役割を担う。その役割も重要だが、人類全体の人権の発達を目指すには、個人や民間団体の活動では、規模が限られている。国家が主体とならなければ、大規模な動きはできない。国家を排除したり、軽視したりする考え方は、大きな計画の実施を困難にするだけである。
 人権発達の実践のためには、費用がかかる。費用負担のためには、国民総所得の主体であるネイションの役割が不可欠である。ミレニアム宣言の実行は、先進国でネイションの役割の回復・強化を行うことなしには、現実のものとならない。ネイションの本質的な価値を否定すると、ネイションの責任担当能力を発揮させられない。
 ネイションの国内的・国際的な役割を再評価し、諸国家・諸民族が協調し、共存共栄し得る地球社会の指導原理を追求すべきである。国際間の平和と繁栄、諸国家・諸民族の共存共栄のもとでしか、人権の大きな発達は実現できない。
 国家の中でも大国の役割が重要である。ネイションとして負う道徳的責任は、ネイションによって異なる。大国と小国では、能力が異なる。GNIという経済的な能力だけでなく、政治的な影響力の違いもある。GDPの大きい国や、国連安保理常任理事国として拒否権という特権を持つ国の責任は大きい。私はまずこうした国々、特権的な米・英・仏・ロ・中の5大国と、それらの国以外でGDPの大きい日本・ドイツ、合わせて7か国について、その結果責任及び救済責任を具体化し、責任の履行を確実なものとするための体制を構築することが必要だと思う。
 そのためには、米国が国連分担金の未払い分を支払うこと、及び国連憲章の敵国条項を廃止することが先決である。次に、国際機関の改革が必要である。ミレニアム宣言で合意したGNI0.7%の移転だけでなく、IMF・WTO等の国際的な経済機構の改革へと議論の枠組みを広げて、国際的な合意を作っていくべきである。グローバリゼイションを規制して、発展途上国が「発展の権利」を行使でき、諸国家・諸民族が共存共栄できる仕組みを創出しなければならない。

(12)米国の価値観の変化と中国の民主化を促す
 大国の中でも、特に米国の役割が重要である。ハンチントンによれば、現在の世界の権力構造は、超大国、地域大国、第2の地域大国、その他の国々という四つの階層からなる。国際関係は、それらの国々の権利と権力の力学によって、日々動いている。国際法を無視して地域覇権を目指す国や、核開発をして発言力・影響力を強めようとしている発展途上国もある。西洋文明の価値観による国際秩序を破壊しようとするイスラーム教徒の過激組織もある。こうした国際社会で秩序と平和を維持するには、自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等といった理念を尊重するとともに、強い国力を持った国が必要である。
 現状において、その役割を担う能力を持つ国が、超大国アメリカである。しかし、米国は世界最大のGDPを持つ豊かな国であり、最も強い政治的影響力を持つ国でありながら、富裕層と貧困層の格差が拡大し、無保険者が5000万人、乳幼児死亡率が発展途上国並みとなっているという現実がある。米国の国民多数が自由至上の価値観を改め、自由と平等の均衡を図る思想に転換しないと、米国は国内で社会正義を実現し得ない。また米国民が自由至上の価値観に固執している限り、世界の発展途上国の諸国民は、貧困と不正義の解消へと進むことができない。それゆえ、国際社会で人権を発達させるための一つの重要な条件は、米国における価値観の変化である。米国にそれを実現する思想及び指導者が現れることが期待される。
 米国の役割の一つは、覇権主義的な国々の無法な行動を抑えることにある。なかでも共産中国への対応が重要である。中国共産党政府は急速な軍拡をして、地域覇権どころか宇宙空間を含めて、全地球的に米国に対抗して覇権を獲得しようとしている。その一方で、チベットや新疆ウイグルで、少数民族を弾圧・虐殺している。中国で、人権と正義が実現しなければ、国際社会の取り組みは、その努力の多くが損なわれる。中国は、国連安全保障理事会で拒否権という特権を持つ常任理事国である。世界人口の約5分の1を有する人口大国である。アジア・アフリカの諸国に資源の支配、経済的進出等を強めている。また北米・欧州・オーストラリア・ロシア等に大量の移民を送り出している。中国の問題を抜きにして、世界の貧困と不平等の改善ばかりに関心を向けている人権論者や左翼人権主義者の主張は、間接的に共産中国の覇権主義を容認・助長するものとなっている。中国の民主化を促し、伝統的な東洋の精神文化の復興を進める必要がある。
 日本には、米国の価値観の変化と中国の民主化を促す上で特段の役割がある。そして、日本の伝統である和の精神に基づく指導原理を世界に広める使命がある。日本人がそのことを自覚し、人類の平和と発展、精神的進化に貢献しようと決意し、行動するかどうかに、人権の発達もまたその多くがかかっている、と私は思う。物質的な繁栄は、精神的な向上と、ともに進むものでなければ、人間は自らの欲望によって自滅する。物心調和の社会をめざすのでなければ、真の幸福と永遠の発展は得られない。米国と中国が従来の価値観を脱し、物心調和の文明を目指す国に変わらなければ、世界全体もまた人類が生み出した物質文明とともに崩壊の道を下るだろう。
 ただし、この問題は半分以上、今日の日本人自身の問題ともなっている。他国を善導できる日本になるためには、日本人は日本精神を取り戻し、物心調和・共存共栄の道を進む必要がある。日本自体、精神的に復興しなければ、米国の影響によらずとも、自ら衰亡の坂を転げ落ちる瀬戸際にある。自覚と決起、邁進の時である。

 以上、人権発達のための実践において、私が重要と思うことを12点述べた。
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人権396~人権発達のための実践で重要なこと(続)

2017-01-02 08:27:28 | 人権
●人権発達のための実践で重要なこと(続)

(5)人間の他者依存性と自己責任性を理解する
 次に、権利・義務・責任を帰すべき主体である人間には、他者依存性と自己責任性があることを理解することが必要である。ミラーが説くように、人間は他者に依存する存在であるとともに、自己の責任を担う存在でもある。自主的な責任遂行能力があることを軽視して、ただ他者に依存せざるを得ないものと人間を見ることは、間違っている。
 人間には個人性と社会性があり、また諸個人には親子・男女・長幼等の違いがある。親は子供を保護し、子供はやがて親の世話をする。男女は、それぞれの特徴を認め合い、生殖や子供の養育でそれぞれの役割を担う。年長者は、親が子供を保護することに協力し、年少者はやがて年長者を助ける。こうした家族的な関係を基礎として、諸個人は社会において他者依存性と自己責任性の両面を持って生活している。
 自己の責任遂行能力を発揮せずに他者への依存を強めるような権利の主張は不当である。そうした要求に応じることは、道徳的義務ではない。他者に依存せざるを得ない人々に、自己の責任遂行能力を発揮できるように助力することが、道徳的義務の実行の仕方である。
発展途上国を中心に、基本的なニーズを欠き、全く無力で、絶望的な状態の人々が地球上に多数いる。だが、その個人が所属する集団の内部に、構造的な支配・収奪や過度の不平等がある場合は、その集団の構成員が集団のあり方を自ら正すべきである。その取り組みを通じて、国民が実質化され、共同体としてのネイションが形成されなければ、その集団の構成員全体の権利は発達しない。
 センは、飢饉が生じるのは、デモクラシーではない国々においてであり、民主的な統治が行われている国々では、飢饉は起こらないことを指摘している。公共的討議を重んじる非西洋文明の様々な社会の伝統に光を当て、デモクラシーを発展すべきことを、センは説く。そして、世界から飢饉をなくしていくためには、デモクラシーの発展が不可欠だ、と主張する。私見によれば、他国が行うべきことは、独裁国家・専制国家で生じた飢饉に対し、その度に人々を救助することではなく、その国が民主的に統治され、飢饉に陥らないように促すことである。集団そのものが持っている課題に自ら取り組むことを抜きにして、個人個人を無条件・無制限に支援することは、人間の他者依存性と自己責任性から見て適切ではない、と私は考える。

(6)自立自助を促す支援をする
 次に、支援の方針を定めることが必要である。後期ロールズは、正義の原理を自由のみにしぼり、対話可能と想定される範囲の国々の間での国際的正義を追求した。そして、国際間では、「重荷を背負っている社会」への援助義務を説いた。援助義務とは、グローバルな配分的正義を目指すものではなく、「重荷を背負っている社会」が自らの政治文化を変化させ、正義に適った制度を自らの力で確立できるようになるまで、援助を提供することである。その社会が、「自由な社会」または「秩序ある社会」になれば、それ以上の援助を続けて、全面的な平等を目指す必要はないという考えに基づく。私の理解では、この援助義務も法的義務ではなく、道徳的な義務である。
 発展途上国において貧困・虐待・暴行・虐殺等から人々の権利を守ることは、第一義的にはその人々が所属する国の政府の責任である。その政府の権利保障の取り組みを推奨・促進するものとして、国連等の国際機関やNPO等の国際団体の活動がある。自助が基本であり、次に友好国や支援団体による互助、さらに国際機関による公助がある。
 支援のあり方としては、ある程度民主化がされ、討議による統治が行われている国家については、その国の政府によって人権が保障されることを期待できる。政府によって国民の最低限の権利が擁護されるようになれば、自然災害や紛争難民の発生などの特別の場合を除くと、国際的な人権の保障の必要性は生じない。他国からの援助は切迫した状態に置かれた人々を救済するための緊急対応や、その国の政府が所得の再配分を行う能力を得られるように支援することなどに限定される。
 集団の外部からの支援が必要な場合、支援は無条件・無制限のものではなく、ある段階まで直接的な援助を行ったら、後は自助努力を促すことに切り替えるべきである。限度のない支援は、その国の政府が自らなすべきことを果たさずに、他国の援助に頼る恐れがある。支援の原則は、自立できるように支援することである。自立できないほど収奪することも、自立できないほど援助することも、ともに間違っている。支援の方針は、自立自助への助力とすべきである。最低限保障を目指すべき権利も、本来、各ネイションが保障すべきものゆえ、国際社会はただ物資と環境を与えるのではなく、そのネイションが自力で成員に保障できるように助力するのでよい。
 各ネイションで実現すべき権利まで、国際社会が実現を支援するには、相応の負担が生じる。負担には、費用と労役がある。自発的な道徳的行為であれば、それを進んで担うところである。だが、センは、この世における不正義を取り除く力を持つ者には、一方向的な「有効な力の責任」があるとし、その責任を果たすことを道徳的義務として要求する。こうした要求が強く出される場合、最低限保障を目指すべき権利を明確に定めないと、支援を求められる側の負担が、際限なく増大するおそれがある。その一方、他者に依存する側は、ケイパビリティとしての選択の幅が広がっても、必ずしも支援する側が望ましいと思うような選択をしない可能性がある。不満や誤解が広がりやすい。
 個人にしてもネイションにしても、人類社会全体の中での道徳的義務の履行能力に、ある程度対応した権利の内容という、権利と義務のバランスを考慮する必要がある。再提言保障を目指すべき権利についても、達成期間や地域別の取り組み等を具体的に検討しなければならない。そうしないと、どこまでも道徳的権利として支援を要求する者と、どこまでも道徳的義務として支援を要求される者との間に、権利-義務をめぐる争いが生じるだろう。その争いを避けるためには、人類が道徳的に向上できる方法を探求する必要もある。

(7)人間開発を促進し、人間の安全保障を強化する
 人権の発達を目座す実践においては、人間開発を促進し、人間の安全保障を強化することが必要である。ただし、これらの概念の不備を補ったうえで、取り組むべきである。
 センは、人権を人間開発指数(HDI)で具体化・定量化し、政策の優先順位づけや評価を行えるようにした。人間開発は「人間の自由と潜在能力を全般的に高めることに焦点を絞るべきだ、とする考え方」であると言う。また、人間の安全保障は、「人間の生にとってかけがえのない中枢部分を守り、すべての人の自由と可能性を実現すること」と定義している。
 人間開発と人間の安全保障に共通するのは、人間である。人間とは何かを問い、その答えの追求において国際的な合意を作り、その合意をもとに、人間開発の促進と、人間の安全保障の強化が行われねばならない。私は、この問いについて考慮すべき点を先に書いた。人間開発は自由の拡大を目的とするが、自由は責任を伴うものであり、公共善の実現に寄与するように行使されねばならない。また人間の安全保障は、生存のための最低限の条件の平等を実現しようとするものであるが、私は各国及び国際社会が最低限保障を目指すべき権利について先に書いたが、人間の安全保障の取り組みは、人間は単に生命的価値だけではなく、文化的・心霊的価値の創造と継承によって尊厳が認められることを踏まえたものとすべきである。
 諸個人のケイパビリティの拡大は、集団全体のケイパビリティの拡大が進められてこそ、その中において可能になる。人類は主にネイションを単位とした集団生活を送っているので、各ネイションにおいてケイパビリティの拡大が進められなくてはならない。また人間の安全保障を実現しようとするには、集団全体が発展しつつあることが必要であり、集団全体が発展し得てこそ、構成員個々の生活の安全をよりよく保障し得る。それゆえ、人間開発においても、人間の安全保障においても、集団の目的と個人の目的の一致が求められる。集団は個人のために、個人は集団のためにという相互的な保障の整備・強化が必要である。

 次回に続く。
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人権395~人権発達のための実践で重要なこと

2016-12-29 08:49:14 | 人権
●人権発達のための実践で重要なこと(続)

(2)法的な義務と道徳的義務を区別する
 次に、義務について、法的な義務と道徳的な義務を区別することが必要である。正義の中に、国内的正義と国際的正義がある。各ネイションにおいて、国内的正義の一部は法として制度化されている。「正義=法」を履行しなければ、強制的に実行を求められ、実行しなければ罰則が科せられる。だが、現在の国際社会では、「正義=法」としての法は、確立していない。国際法はある。だが、国家の主権に当たる地球的統一的な政治権力はなく、法執行の強制力は存在しない。法に定められた罰則もない。履行しなくとも刑罰を受けることのない義務は、法的義務ではない。それゆえ、現在の国際社会における義務は、法的な義務ではなく、道徳的な義務である。
 センは、義務には完全義務と不完全義務があるとする。完全義務とは、「特定の人が行わなければならない特別な行為として、すっかり明確化された義務」である。これに対し、不完全義務は、「完全義務を超えた倫理的な要求」であり、「人権を脅かされている人に適切に支援をほどこせる立場にいる人すべてに、真剣な考慮を求める要求が含まれている」とする。
 完全義務とは、契約や約束、法律の規定等によって課される義務である。法的権利に対する法的義務である。これに対し、不完全義務とは法的義務ではなく、道徳的要求に対する道徳的義務である。センは、不完全義務の履行を促すことが、世界の貧困問題や不正義等の解決のために有効だと考えている。
 私見を述べると、世界的な貧困や不正義等の解決のために、富裕国の国民の良心に訴え、慈善行為を求めることは有効である。だが、個々人の慈善行為は、各国の政府及びその国民の自国・自国民に対する努力を前提とし、その努力を外から支援するという補助的なものにとどまる。国際間の過度の不平等の是正も、同じく道徳的義務である。履行しなければ、第三者が制裁を課しても差し支えないという強制力を持つ法的な義務ではない。

(3)人道主義的義務とは何かを明確にする
 次に、道徳的義務については、人道主義的義務(humanitarian duty)とは何かを明確にする必要がある。世界には、さまざまな宗教・哲学・思想・信条が存在し、個人や集団によって異なる様々な道徳観がある。道徳的義務は、それぞれの道徳観に基づいて考えられる義務である。
 センは、カント主義的な思想に基づいて、不完全義務の履行を促す。コスモポリタンは、グローバルな平等を説いて、普遍的な義務の実行を呼びかける。彼らに共通するのは、人道主義的な考え方であり、彼らの説く義務は、ミラーのいうところの人道主義的な義務に当たる。
 人道主義的な義務の実行を説くには、人道主義とは何かを明確化しなければならない。そのうえで、人類普遍的な道徳に基づく義務を説かねばならない。だが、人類はそのような人類普遍的な道徳を確立できていない。
 世界人権宣言や国際人権規約等は、その参加国の間では一定の国際的合意を形成したものではあるが、十分な合意には程遠い。ミレニアム宣言において、各国はGNIの0.7%を貧困の撲滅等のために拠出すると取り決めたが、取り決めを実行しない場合に、その国の政府に実行を強制したり、罰則を科すものではない。強制的に拠出金を取り立てたり、取り立てのために資産を差し押さえたりすることは行われない。合意の履行を義務としたとしても、それは、法的義務ではなく、約束したことは実行すべきという道徳的な義務である。だが、約束は必ずしも実行しなくともよいという価値観が国際社会には存在する。状況が変わり、利害関係が変われば、約束を反故にしてもよいという考え方は、国家間の外交において、しばしば見られるものであり、条約も時には一方的に破棄される。
 ロールズの言うところの特定の包括的な教説に依拠せずに「重なり合う合意」を作り上げる努力を重ねなければ、人類に普遍的な道徳は構築できない。人道主義的な義務という言葉がすべての人に共通した意味を持ち得るのは、そうした人類道徳が確立した時のこととなるだろう。現時点では、いわゆる人道主義的義務とは、様々な個人や集団がそれぞれの道徳観で普遍的なものと考える義務の実行を促す呼びかけと言わざるを得ない。
 人道主義的の意味は、人間とは何か、人間らしい生活とはどういう生活かという問いの答えと相関する。また、人類の道徳的な向上の度合いに応じて、人道主義的義務の内容も変化していくだろう。

(4)結果責任と救済責任を明らかにする
 次に、義務と関連する責任については、ミラーが説く結果責任と救済責任を区別することが必要である。結果責任とは、「自らの行為と決断に対して負う責任」であり、「私たちの行動によって帰結する損益についての責任」である。救済責任とは、「助けを必要としている人々の援助に向かわなければならない責任」であり、「それが可能であれば被害や苦痛を取り除く責任」である。ただし、その責任を問うには、行為者が行為の結果を引き受けること、また要求される行為を実行しない場合には制裁を受けることが、行為者、その行為の対象者及び第三者に認識されていなければならない。
 ミラーの言うように、ネイションにはネイションとしての集団的な責任があり、それは結果責任に応じた救済責任としなければならない。結果責任には具体的な分析が必要である。旧植民地であっても目覚ましい経済発展をしている国々もあれば、サハラ以南の国々のように貧困状態にとどまっている国々もある。これらの国々に対し、一律に結果責任を論じるのは、おかしい。また仮に何らかの結果責任があるとする場合、それがどこまで救済責任に結びつくのかが、検討されなければならない。そのうえで、誰にどの程度の救済責任があるかの配分の検討が必要である。救済責任は、法的な義務ではなく、道徳的な義務である。道徳的義務に関する判断は、結果責任と救済責任の質的・量的な検討の上で、なされるべきものである。
 戦後補償の問題については、国家間で講和条約・基本条約等で合意がされ、政府間で賠償金が支払われたり、補助金が支払われたりしている場合、これ以外に個人補償を請求することは不当である。政府はネイションの代表であり、政府間で条約を交わし、実行している事柄について、ネイションはそれ以上の責任を負う必要がない。それでもなお救済責任を感じ、実行するとすれば、道徳的な慈善行為としてすべきものである。その際の道徳観は、現状において、それぞれのネイションの道徳観に基づくものである。

 次回に続く。
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人権394~人権発達のための実践を促進する

2016-12-27 08:50:06 | 人権
●人権発達のための実践を促進する
 
 人権の内容を検討したところで、次に人権の発達のための実践について書きたい。
 人権と称される権利は、歴史的・社会的・文化的に発達してきた「人間的な権利」である。その実態は、主として国民国家における国民の権利である。国民の権利は法的権利であり、法的義務を伴う。これに対し、国際社会における人権は、法と道徳の中間に位置する性格を持っており、法的権利というよりむしろ社会的権利である。人権を社会的権利と考えれば、人権保障のための支援は、法的義務ではなく、道徳的義務である。また、人権の発達を目指すには、国際社会の主要な行為主体である各ネイションにおいて、国内的正義に基づいて国民の権利を発達させることが基本である。そこにおいて、各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利の実現に取り組む。そのうえで、ネイションを基礎とする国際的正義に基づき、国際社会での個人の権利を最低限度に保障することを目指すべきである。この最低限度の権利保障は、国際社会では例外的な状況にある人々が主対象となる。その権利は、各国が一定の条件のもとに恩恵として付与すべきものである。各国における外国籍の移民は、本国の政府がその国の国民として権利を保障すべきであり、居住国の政府は自国民と非国民を権利において区別してよい。
 このような見解のもとに、私が人権を発達させるための実践にあたって重要と考えることを12点述べたい。既に書いたことと重複する部分もあるが、整理のためにそれも含めて書くことをお断りしておく。

(1) 権利と主張を区別する
(2)法的な義務と道徳的義務を区別する
(3)人道主義的義務とは何かを明確にする
(4)結果責任と救済責任を明らかにする
(5)人間の他者依存性と自己責任性を理解する
(6)自立自助を促す支援をする
(7)人間開発を促進し、人間の安全保障を強化する
(8)現実を踏まえ、漸進的な改善を目指す
(9)必要な費用を算出し、分担・管理・運用の仕方を決める
(10)国家間の過度な不平等の是正に取り組む
(11)国家の役割が重要であることを認識する
(12)米国の価値観の変化と中国の民主化を促す

 これらについて、次に記す。

●人権発達のための実践で重要なこと

(1)権利と主張を区別する
 人権発達のための実践において、まず権利については、権利と主張を区別することが必要である。
 今日人権について世界的に大きな影響力を持つセンは、「人権の宣言とは(略)道徳的な要求の表明とみなすべきだ」と言う。センによれば、人権は道徳的要求が政治的・社会的な運動を通じて、法的な権利として実現されてきたものである。道徳的要求は、単なる主張ではなく、道徳的な権利であり、必ずしも法制化する必要はなく、法制化されていなくとも、権利として擁護されるべきだ、という考えをセンは示す。
 センはまた「人権を強力な道徳的主張と見なすなら、それらの道徳的要求を促進するうえで異なる手段を考えることに寛容であるべき理由が存在する。人権の倫理を進める方法と手段は、たとえ、しばしば法制化が進むべき正しい道であるとしても、必ずしも新しい法律を作ることに限定される必要はない」と言う。
 こうしてセンは、道徳的な要求を権利とし、それに応じた義務を説く。私は、センの考え方は権利の概念をなし崩しにするものだと思う。道徳的な要求をすべてそのまま権利だとすることはできない。権利は、能力の行使が社会的に承認された時に権利となる。能力行使を権利として承認すれば、その権利を実現する義務が生じるが、承認なき要求は、権利ではなく主張に過ぎない。社会的に承認されていない主張をも権利とするのは、要求する側の一方的な主張に与するものであり、権利に必要な双方の合意を欠いている。たとえ、権利関係・権力関係における劣位者、弱者、困窮者等による切実な主張だとしても、一方的に主張を発するだけで権利となるとするならば、その逆の立場からも、主張すなわち権利という論理が対置されることになる。
 世界人権宣言は、単なる宣言であって法的拘束力を持つものではない。宣言を基に作られた国際人権規約も、締約国に対して出される国際的監視機関の所見に法的拘束力はなく、勧告的な効果を持つにとどまり、強制力はない。国際人権規約に定める権利であっても、国内法におけるような法的権利とはなっていない。そのような状況で、主張をそのまま権利とすることは、権利をめぐる見解に対立を生じ、混乱を招く。権利と主張は、区別しなければならない。

 次回に続く。
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人権393~恩恵として「人間的な権利」を与える

2016-12-25 10:09:27 | 人権
●恩恵として「人間的な権利」を与える

 例外的な状況にある人間は、生きる上で最低限必要な物資と環境を自力で得ることができない。食べるもの、水、着るもの、居る場所等を自分で得ることができず、生きる能力は持ってはいるが、自力で生活する能力を発揮できない。また、家族的生命的な集団に所属できないか、またはその集団が機能しておらず、集団において生存・生活することができない。こうした状態の人間は、他者から支援や保護を受けなければ、生存することや幸福を追求することができない。
 一方的に支援や保護を受けるのみという状態にある人間の中には、乳幼児、重病患者、極貧の困窮者、重度の障害者、要介護の高齢者等があるが、彼らは家庭や集団や国家において、家族の一員、集団の一員、国民の一員として権利を保障される。その点が、例外的状況にある人間とは異なる。
 例外的な状況にある人間の場合は、自力で生活することができない。恩恵によって、飲食物・衣服・居場所等を提供しなければ生きられない。飲食物・衣服・居場所等の提供は、生存・生活に必要な最低限の物資と環境を恵み与えるものである。また、例外的な状況にある人間は、家族的生命的な集団に代わるつながりをつくるための助力を必要とする。その助力も、支援や保護を受ける側は、当然の権利としてではなく、相手に慈善を請い求めるものである。このような関係において、もし支援や保護を行う側が、その相手に精神・生命・身体・財産の権利を認めるとすれば、それは最低限保障を目指すべき「人間的な権利」を恩恵として与える行為である。恩恵としての精神・生命・身体・財産の権利の付与は、道徳的な行為である。
 こうした道徳的な行為を単に自発的なものにとどめず、例外的状況における個人に最低限保障を目指すべき「人間的な権利」を付与し、それを保障する制度を国際的に作り、迫害、強制労働、性的暴行、虐待虐殺等を防ぐことが必要である。例えば、北朝鮮における政治犯収容所での強制労働、セルビア・ヘルツェゴビナでの民族浄化、中国での法輪功の生体臓器取り出しの防止及び停止等を、当該政府に対して要求し、権利の尊重を図るものである。
 例外的な状況にある個人に権利を付与することは、もともとすべての個人に普遍的かつ生得的な権利があるということには、ならない。こうした考え方は、歴史的・社会的・文化的に発達してきたものだからである。それぞれの個人は、集団において生まれ、集団に属し、集団によって権利を与えられる。集団の成員としての権利を持つ。集団において精神・生命・身体・財産の権利は絶対的なものではない。すなわち、不可侵の権利ではない。集団の決まりごとに違反する行為に対しては、法の規定のもとに、精神的自由への権利については規制が、生命的自由への権利については殺害が、身体的自由への権利については拘束が、財産的自由への権利については没収や罰金等が課せられることがある。その集団の決まりごとに従い、秩序を維持するために、こうした権利の制限や剥奪を行う権利が認められる。人間の個人性と社会性の二側面においては、社会性に優位がある。それは、人間は、集団生活を営むことなくして生活・生存できない生物だからである。個人の権利は、集団の秩序・存続・繁栄に寄与する範囲内でのみ、認められる。例外的な状況にある人間に対しての権利の恩恵的付与は、そうした集団が解体・消滅しているか、または集団から孤立している個人への道徳的な支援である。
 先に道徳には、集団の規模と原理の及ぶ範囲によって、家族道徳、社会道徳、国民道徳があるが、最低限保障を目指すべき「人間的な権利」の実現を追求するには、人類規模における道徳、人類道徳を構想する必要があると書いた。人類は未だ人類道徳を確立できていない。国家・宗教・文化・文明等を越えて、すべての集団と個人に共通する道徳を形成できていない。「人間の尊厳」という人権思想の要となる観念についてさえ、共通の認識を確立できておらず、集団の権利と個人の権利の関係についても明確な合意を作り得ていないのだから、当然のことである。人類道徳の形成には、人間観の転換が必要である。その課題については、本章の最後の項目で述べる。

 次回に続く。
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人権392~例外的状況の人間への対応

2016-12-23 08:46:13 | 人権
●例外的状況の人間への対応

 私は、最低限保障を目指すべき「人間的な権利」について、各国で国民に保障するとともに、諸国家間でその保障を支援し合うべきものであると考える。また、例外的な状況にある人間に対して、諸国家が一定の条件のもとに恩恵として付与すべきものと考える。
 例外的状況とは、奴隷状態にある者、難民、無国籍者、国内避難民、国内被迫害者、人身売買・誘拐等の被害者等に係る状況である。
 第1の例は、奴隷状態にある者である。古代ギリシャやローマの奴隷制社会には奴隷がいた。その多くは征服・支配された異民族と考えられる。また、15世紀末以降、西欧諸国が非西欧社会に進出して、白色人種が有色人種を奴隷とした。これは征服・支配による。奴隷には、支配集団の成員と同じ権利はない。それは、奴隷にされる前の集団における権利を剥奪された状態である。アメリカでは、南北戦争後、憲法修正第13条で奴隷解放の布告が明文化され、奴隷制度が廃止された。それによって、奴隷に普遍的・生得的な人権を認めた。だが、正しくは、もともとの集団的な権利の回復を図るという論理で行うべきものだった。奴隷にされる前の状態に戻せば、元の集団における権利を回復し得る。普遍的・生得的な権利を「人間の権利」として認めるのではなく、集団の権利、及びその成員の権利を回復することが、奴隷解放である。
 今日の世界では、イスラーム教スンナ派過激組織ISIL(自称「イスラーム国」)が、奴隷制の復活を唱え、異教徒を奴隷としている。許しがたい蛮行である。それを宗教の教義の恣意的な解釈によって正当化することは、その宗教内において厳しく糾弾・是正すべきことである。また、奴隷とされている異教徒の所属国及び国際社会は、その救出・解法に努めねばならない。
 第2の例は、難民である。難民条約(1951年)は、難民について、第1条A(2)に「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、かつ、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」と規定している。
 要約すると、難民の要件は、迫害、国籍国の外にあること、及び国籍国の保護の喪失の3つである。国籍国とは、自分が国籍を持つ国をいう。迫害の理由は、人種、宗教、国籍、特定の社会集団または政治的意見の5つとされる。こうした要件を満たす者を、狭義の難民という。条約難民とも呼ばれる。
 国内にとどまっている者は、難民条約がいう難民ではない。戦争や内乱、自然災害によって国を追われる者も、難民条約がいう難民ではない。また、たとえ、難民条約に照らして、難民と認定されても、国家は当該難民を受け入れる義務を負うわけではない。受け入れるかどうかは、各国が領域国として独自に主権的判断に基づいて決定し得る事項とされている。
 これに対し、外国からの軍隊の侵攻や内戦、食糧危機などにより生じた国内避難民、人道上の難民等を、広義の難民という。国内避難民とは、武力紛争や内乱、自然災害、大規模な人権侵害等によって、移動を強いられているものの、国境を越えていないために難民と分類されない者をいう。国籍国の保護を期待できないという点では、国外に出た難民と同じ境遇にある。私は、迫害・戦争・内乱・政府崩壊・災害等によって、国籍を剥奪されたり、喪失したりした無国籍者を難民に加えるべきと考える。
 人道上の難民は、何を以て「人道」また「人道的」というかによって、基準が大きく異なる。「人道主義」は、英語であれば humanitarianism の訳であり、近代西洋思想に現れる humanism (人間主義、人間中心主義)とは区別される。「人道的」は humanitarian の訳であり、humanitarian aid は「人道援助」と訳す。humanitarian は「人道主義的」と訳され、「人間として為すべき」「人間としてあるべき」という道徳的な意味を含む。これらの概念の中核には、human という形容詞がある。ロングマンの英語辞典は、human について「belonging to or relating to people, especially as opposed to animals or machines」と説明する。すなわち「動物や機械ではなく、人間に所属すること、または人間に関すること」である。だが、human には、価値の概念が含まれている。何を以て、human というかについては、何を以て「人間的な」「人間らしい」とするかという価値的な基準と関係する。それゆえ、先に書いた「人間とは何か」「人間らしい生活とはどういう生活か」という問いにどう答えるか、と human 及び humanitarian の意味は、深く関係している。
 難民条約の規定によると、人種、宗教、国籍、特定の社会集団または政治的意見により、国内で迫害を受けている者は、難民ではない。多くの場合、国内において大規模な迫害が行われている結果、国外に逃亡する者が出るのだが、国内にいる限り、難民とはみなされない。例えば、中国において弾圧を受けているチベット族・ウイグル族、北朝鮮で政治的犯罪によって収容施設に収容されている者は、難民ではない。私は、国内被迫害者と呼ぶ。これは、例外的状況の第3の例となる。
 第4の例は、人身売買されて他者の所有物として拘束されている国籍不明の人間、外国に誘拐された身元不明の子供等を挙げることができる。彼らは、国籍国や所属する集団から切り離されている点で、難民とはまた異なる状況にある。その多くは、無国籍者である。
 難民の集団は、もともと集団としての権利を持っていた。難民の権利を擁護することは、「人間が生まれながらに平等に持つ権利」の擁護ではなく、集団の権利及び集団の成員の権利の擁護である。
 所属していた集団が解体または消滅しているか、もしくは集団から全く孤立している状態にある個人にも、人間として生きる能力はある。動物でも機械でもなく、人間として持つ欲求を実現する潜在能力を持ってはいる。だが、能力の行使を承認し、それを擁護する他者や集団との関わりを欠いた状態では、生きる能力を権利として発揮し得ない。能力は、能力の行使を承認する人間がいて、初めて権利となる。人間として生きる能力の承認を受けたとき、その個人は生きる能力を権利として持つ。誰かが例外的な個人に権利を認めると主張したとき、その人が承認した権利を相手は持つ。ただし、この権利付与が私人間にとどまれば、安定的な権利とならない。これを公的に承認して保障し得るものは、特定の国家の政府である。その政府がその個人を難民とか亡命希望者として受け入れた場合、一時的に一定程度の権利を保障する。この場合、多くは元の集団で権利を回復できるように支援する。それが不可能な場合で、またその国家の定める一定の条件を満たす場合は、その国家の政府の判断で、継続的な保護または国籍を与えることができる。その個人に国籍を付与するならば、それと同時に国民の権利を与えることになる。その権利は、普遍的・生得的な人権ではなく、その国の国民の権利、国民の特権を与えたものである。「人間の権利」を保障するのではなく、「国民の権利」を与えるのである。逆に、その国家の判断として「国民の権利」を与えないという自由もある。それは、その国家を形成する人々が集団として持つ権利であり、他の集団及び個人によって、尊重されなければならない。

 次回に続く。
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