ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

西欧発の文明と人類の歴史52

2008-07-31 10:17:17 | 歴史
●近代国家建設に日本は成功

 1867年(慶応3年)、徳川慶喜は、約700年続いた武家政権から朝廷に大政奉還を行った。明治天皇は王政復古を宣言し、ここに明治維新が始まった。1868年(慶応4年、明治元年)、新政府の政治方針として「五箇条の御誓文」が公布された。御誓文の示す根本方針下、明治政府は、古代からの皇室中心の国柄を明確にしつつ、近代的な中央集権国家を建設するというユニークな国づくりを推進した。
 1869年(明治2年)に版籍奉還が行われ、同4年には廃藩置県が断行された。武士の時代に発達した封建制をやめ、近代西洋の制度を採り入れて近代国家を建設するための改革である。廃藩置県の成功は、世界史上比類ない無血革命という快挙だった。

 明治政府は、富国強兵・殖産興業・文明開化をスローガンとして、日本の近代化を図った。日本の近代化は、近代西洋文明の「挑戦」に対する「応戦」の一環だった。近代化は、同時に西洋化の過程でもある。進歩発展した欧米に追いつくために、総力をあげて、西洋の思想・文化・知識を採り入れた。とりわけ西洋近代科学技術の輸入は、日本に本格的な科学革命をもたらした。
 1889年(明治22年)には帝国憲法の公布、91年には教育勅語の発布ついで帝国議会の開設が行われた。政府によって資本主義が導入され、90年代半ばの日清戦争前後には製糸・紡績などの軽工業を中心に産業革命が本格化した。さらに1900年代半ばの日露戦争前後には軍需部門を中心に重工業が発達して、産業革命が達成された。わが国は、この資本主義的工業生産力をもって、近代国家としての発展を確固としたものにした。

 こうして日本は、非西洋社会ではじめて近代化に成功した。それは、古代から東洋精神文化の総合場所となっていた日本が、今度は東洋文明と西洋文明の総合の場所となったことを意味している。
 近代世界システムという観点から言えば、わが国は半周辺国としてシステムに参入し、急速に中核部へと上昇していくことになった。

●日露戦争で日本を支えた日英同盟

 この間、日本が体験した日清・日露戦争は、新興日本の国運を賭けた戦いだった。日本と清国とロシアの国益は、朝鮮半島をめぐってぶつかり合った。
 まずわが国は、1894~95年(明治27~28年)の日清戦争で大国シナを打ち破った。その結果、東アジアにおける日本とシナの地位が逆転し、日本文明のほうが、シナ文明に影響を与える関係になった。一方、清国が「眠れる獅子」ではないことを知った欧米列強は、シナの分割を行った。特に極東への南下政策を取るロシアの野心は露骨だった。日本は、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉を受け、遼東半島を返還させられた。
 ロシアの影響が朝鮮半島に及ぶのを恐れた日本は、イギリスと同盟を結ぶことを希望した。イギリスも極東でロシアの南下を食い止めてくれる相手を探していた。交渉相成り、1902年(明治35年)、日英同盟が締結された。日本が初めて結んだ平等条約であり、しかも当時世界最強のイギリスが条約の相手としたことにより、日本の国際的地位は向上した。
 日清戦争の勝利は、強国ロシアとの戦いを余儀なくするものだった。幕末以来、北から迫ってくるロシアは、日本の独立を脅かす最大の脅威だった。1904年(明治37年)に勃発した日露戦争で日本が勝つと、世界は驚嘆した。15世紀以来の西洋白人種の優位を、初めて有色人種が打ち砕いたのである。日露戦争における日本の勝利は、被抑圧民族を奮い立たせ、独立への情熱を駆り立てた。近代西洋文明の世界支配体制は崩れ始めた。日露戦争は、世界史を西から東へと動かす、歴史的な出来事だった。

 日露戦争での勝利は、日英同盟あってのものであり、またユダヤ人の経済力・金融力の支援あってのものだった。戦争が始まると、イギリスから提供された情報がわが国の軍事・外交に大きな力となった。イギリスのメディアが、日本の勝利とロシアの連敗を世界中に大きく報道したことが、国際世論を日本の側にひきつけた。黒煙を出さず燃費もいい良質な英国炭を、イギリスは日本には売るが、ロシアには売らなかった。イギリスがフランスに圧力をかけたため露仏同盟が有効に働かなかった。またバルチック艦隊は英仏の港に入れず、船の修理・整備が出来ないまま、日本海海戦に入ったため、軍艦の戦闘力を完全に発揮できなかった。
 私は、これらが日本の勝利に貢献した以上に、戦争継続のための資金に不足するわが国が、ユダヤ人資本家の協力を得たことが大きかったと思う。特命を受けてロンドンに行った高橋是清は、アメリカのクーン・ローブ商会のヤコブ・シフから外債の大量購入の申し出を受ける。2億ドルという巨額の融資だった。シフの背後に、ロスチャイルド家がいたことは想像に難くない。
 日英同盟時代のイギリスの政策は、ロスチャイルド家の意向と切り離せない。イギリス王室とロスチャイルド家の利害は、ほぼ一致していた。日露戦争は、そうしたイギリスとの同盟を支えとして展開され、わが国は元寇以来の存亡の危機に勝利した。

 わが国が二度の戦争を通じて参入した国際社会は、欧米列強が激しく争い合う帝国主義の時代だった。新興国日本は一個の近代国家、ネイション・ステイトとして生き残りをかけて、国策を展開することになった。
 アメリカは、日露戦争に勝った日本の台頭を警戒し、対日戦争に備える「オレンジ計画」の策定を開始した。シナ大陸への進出を狙うアメリカは、日本がイギリスと同盟関係にあることを嫌った。第1次世界大戦後、アメリカはワシントン会議を主導し、四国条約(アメリカ・イギリス・日本・フランス)を成立させる。この条約は日英同盟を不要なものとして破棄させ、日本の後ろ盾をなくすものだった。

 次回に続く。
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西欧発の文明と人類の歴史51

2008-07-30 09:57:04 | 歴史
 書き続けているうちに、50回を越えてしまった。私は第2次世界大戦の戦後以降を現代と区分している。大戦のところまでであと20回くらい。その後、現代について書きたいと思う。

●日本文明と近代西洋文明の遭遇

 前回、イタリアとドイツの統一について書いたが、19世紀後半において、もっとはるかに大きな意味を持つのは、日本の国際社会への登場である。日本の登場によって、欧米中心の時代から東洋・アジアが興隆する時代への移行が始まり、物質科学偏重の文明から物心調和の文明への飛躍が準備されることになる。

 ユーラシア大陸の西端では、5世紀から西欧文明が発生・発達した。これと並行するように、ユーラシア東方においては、日本文明が発生・発達していた。
 日本文明は、古代シナ文明の影響を強く受けたが、早ければ9世紀末から10世紀、遅くとも12世紀末~13世紀には、精神的にも制度的にも、主要文明となったと私は見ている。詳しくは拙稿「人類史の中の日本文明」に書いたので、ここでは、本稿に関係する範囲で簡単に書く。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion09c.htm

 西欧文明は15世紀末から地理的な発見の時代に入り、東南アジアにも進出した。日本文明もまた同時期に海洋アジアに進出した。わが国は鉱山を開発して金・銀を輸出し、アジアの物産を輸入した。こうしたわが国に1543年(天文12年)、西欧文明が到来した。種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝えられ、続いてフランシスコ・ザビエルがキリスト教宣教師として日本の土を踏んだ。これまでと異なる文化・機械技術・宗教などとの出会いは、日本文明に大きな刺激を与えた。
 しかし、日本人は、キリスト教に対して伝統・国柄と相容れないものを感じ、その伝道による西洋文明の侵入を防ぐため、17世紀前半に鎖国政策を取った。そして欧州支配の近代世界システム」から離れて、自給自足の体制を築いた。このことが、日本文明を熟成せしめることになった。

 約220年間の鎖国期間を中心とする江戸時代に、日本文明は、人と自然、人と人の間に、最高の「和」を実現した文明として大成した。
 江戸時代の日本人は、シナから摂取した儒教の日本化を行い、また国学を打ち立て、シナ思想からの自立を進めた。またシナとは異なる自国の歴史の研究を通じて、日本文明の独自性の自覚を深めた。創造力豊かな個性溢れる文化を発達させ、また和算による微積分の発見など同時代の西欧に匹敵する科学的業績も生んだ。江戸時代を通じて、日本固有の精神、「日本精神」は、より豊かなものへと成長した。
 こうして熟成した日本文明に、再度、西洋文明との衝撃的な出会いが待っていた。アメリカからの黒船の来航である。

 15世紀から西欧で発生した近代化革命の進展する近代西洋文明が、日本に到達した。わが国はデカルトの時代に、ちょうど鎖国に入り、近代化の外で過ごしていた。その間、近代西洋文明は、ラテン・アメリカ、アフリカ、アジアへと支配と収奪の構造を広げていた。そして遂に日本もまた征服・支配の危機に直面した。この文明の「挑戦」に対し、わが国は世界史上に残る見事な「応戦」を成し遂げた。
 江戸時代には、鎖国下ではあったが、蘭学者によって西欧の学術が学ばれていた。幕末には、幕府や西南雄藩が積極的に軍事技術や化学工業等を採り入れるようになった。西欧における近代化の成果は、極東にも伝播していたのである。
 近代化の進展する近代西洋文明は、強力な軍事力と高い科学技術をもっている。その前に、幕末の日本は開国を余儀なくされ、屈辱的な不平等条約を結ばざるをえなかった。ここで外圧への「応戦」に失敗すれば、白人種に隷属することになりかねない。また、もし日本人同士が分かれて争えば、その隙に欧米諸国に付け入られるおそれがある。シナ文明はアヘン戦争で列強に敗れており、日本人は、非常な危機感を持った。滅亡か、さらなる発展かという重大な岐路に遭遇したのである。
 そうした中で、天皇の存在や、わが国の独自性が強く自覚されるようになり、尊皇倒幕の運動が高まった。

 次回に続く。
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西欧発の文明と人類の歴史50

2008-07-29 08:54:46 | 歴史
●分裂半島イタリアの統一

 19世紀後半の近代西洋文明を語るには、イタリアとドイツを登壇者に加えねばならない。
 ルネサンス期から諸都市・諸国家が分立を続けていたイタリアでは、19世紀後半にようやく統一が達成される。統一前のイタリアは、サルディニア王国、ローマ教皇領、フランス・ブルボン家の両シチリア王国などに分かれていた。
 19世紀後半に入ると、サルディニア王国を中心に、統一の気運が高まった。首相のカヴールは、フランスと密かに手を組んで、ハプスブルク家が統治するオーストリア帝国と戦い、ロンバルディアを併合した。フランスには見返りに、サヴォイアとニースを割譲し、その黙認のもとに、中部イタリアを併合した。

 イタリア統一運動には、フランス革命の影響を受けた共和主義者の活動が重要な役割を果たした。政治結社「青年イタリア」出身のジュゼッペ・ガリバルディは、1860年赤シャツ千人隊を組織し、シチリアに上陸し、両シチリア王国を占領して、サルディニア国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上した。ここに、61年、イタリア王国が建国された。オーストリアが領有していたヴェネチアと、教皇領を併合し、ほぼイタリア全土が統一された。残るチロルとトリエステは、「未回収のイタリア」と呼ばれた。これらの地域は第1次世界大戦後にイタリアへ編入されることになる。
 統一運動の英雄ガリバルディは、フリーメイソンだった。彼は1872年にこう述べている。「われわれの最終目的は、カトリック信仰の絶滅だ。ユダヤ人がメシアを待望するように、この最終目的に同意する一人のメイソンの法王を待ち望むのだ」と。ここにもローマ・カトリック教会とフリーメイソン、キリスト教と啓蒙思想の複雑な関係の一端が露呈している。

●ドイツの統一と躍進

 ナポレオン戦争により神聖ローマ帝国が滅亡した後のドイツでは、ナショナリズムが高揚し、統一への機運が高まった。諸邦のうち有力なのは、北方のプロイセン王国と南方のオーストリア帝国だった。ドイツの統一をリードしたのはプロイセン王国である。
 プロイセンは、オーストリアを除いた統一を目指した。首相となったビスマルクは、工業化による経済成長、文化闘争と呼ばれるカトリック教徒への抑圧、社会主義者への弾圧と社会保障制度の拡充を合わせた政策などにより、国力増強と国民統合を図った。それをもとに、ビスマルクは鉄血政策による統一を進めた。
 鉄血政策は、ビスマルクが首相就任直後の演説で、「現下の問題は言論や多数決ではなく、鉄と血によって解決される」と言明したことに由来する。鉄つまり鉄製の武器と、血つまり兵士の血による軍備増強をもって、ドイツ統一を進める決意を表したものである。

 ビスマルクは、1866年、ライバルのオーストリア帝国と矛を交えた普墺戦争に勝利を収めた。ビスマルクは、プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を設立した。これにより、オーストリアと南ドイツを除いて統一が進んだ。このプロイセンの強大化を恐れたフランスの皇帝ナポレオン3世は1870年7月、プロイセンに宣戦を布告し、普仏戦争が開始された。しかし、プロイセン軍はセダンの戦いでナポレオン3世を捕虜とし、フランス第二帝政は崩壊した。プロイセン王ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国の成立が宣言された。戦勝により、プロイセンはアルザス=ロレーヌ地方を獲得した。

 フランスを屈服させた後、ビスマルクは三帝同盟、三国同盟、独露再保障条約と次々に同盟を結び、露土戦争の紛争収拾では、どの国の恨みも買わぬよう「公正な仲裁人」を演じた。
 こうした外交政策の目標は、フランスを孤立させ、それ以外の国と良好な関係を作るが、かと言ってあまり親密な関係は作らないというやり方である。列強各国の利害を把握し、各国間に軽い緊張状態を作りながら、どの国もうかつに戦争を起こせない状態を作り出そうとした。これがいわゆるビスマルク体制である。
 ビスマルクの外交戦略は成功し、ヨーロッパには第1次世界大戦まで小康状態が続いた。その間、ドイツは資本主義を発展させ、工業力を伸張していった。

 88年にヴィルヘルム1世が死去すると、息子のフリードリヒ3世、次いですぐさらにその息子のヴィルヘルム2世が後継した。この若き皇帝は、ビスマルク外交の手練手管が理解できず、単純で直線的な植民地拡大政策を欲した。また、社会主義者鎮圧法の更新に反対し、ビスマルクと度々衝突した挙句、90年にはビスマルクを解任した。
 ビスマルクを排除したヴィルヘルム2世は、単純に力で植民地を奪い取ろうと3B政策を推進した。3B政策とは、ベルリン、ビュザンティウム(イスタンブール)、バグダッドという三つの都市の名に由来する。目的は、これら3都市を結ぶ鉄道を建設し、バルカンから小アジアを経てペルシャ湾に至る地域を経済的・軍事的にドイツの勢力圏にすることにあった。この政策は、アフリカの南北からインドまでを押さえようというイギリスの3C政策と対立した。
 ドイツは、1882年にオーストリア、イタリアと三国同盟を締結した。ロシアとは、独露再保障条約の更新を拒否したことにより、対立した。一方、イギリスは、1891年の露仏同盟、1904年の英仏協商、07年の英露協商によって、英仏露の三国協商を結んだ。
 こうして、19世紀末から20世紀の初頭における西欧の国際関係は、イギリス対ドイツの対立を主軸として進んでいく。英独にロシアやフランス等が絡む形で植民地争奪戦が行われ、それが高じて世界大戦へと大規模化していく。

 次回に続く。

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西欧発の文明と人類の歴史49

2008-07-27 09:52:42 | 歴史
●アメリカ合衆国は領土を拡大した

 アメリカ合衆国は、イギリスから独立後、1803年にフランスからルイジアナを購入した。これを皮切りに、アメリカ=メキシコ戦争でカリフォリニアを獲得するなどして、領土を拡大していった。合衆国は、ワシントンの「中立宣言」以来、欧州諸国の問題に介入せず、自国の利益を守ることを伝統的な外交政策としていた。これを孤立主義(アイソレイショニズム、不干渉主義)という。
 ナポレオン戦争においてイギリスは、ナポレオンの大陸封鎖令に対抗して海上封鎖を行った。不干渉政策を取っていた合衆国もこれには反発し、12年米英戦争が勃発した。
 合衆国は苦戦した。14年に講和が結ばれたものの、一時は首都ワシントンまで占領される有様だった。しかし、イギリスとの戦争は、合衆国にとって、経済的に自立する機会となった。戦争で貿易が一時中断したことにより、国内工業が保護された。特に北部諸州では綿工業等が発展した。そのことにより、米英戦争は、第2次独立戦争とも呼ばれる。

 北米は、植民地時代から、産業構造に違いがあった。独立後、違いが一層顕著になった。北部諸州では商工業が発達した。南部諸州は、綿花やタバコを栽培するプランテーションを営み、黒人奴隷を労働力に用いていた。北部がイギリスの工業に対抗するため、保護関税政策を求め、自由労働を重んじて奴隷制度に反対した。一方、南部は、イギリスの綿工業の発達により綿花の輸出が激増し、自由貿易政策を主張していた。
 私の視点から言うと、近代世界システムの中で、合衆国北部は、半周辺部から中核部に上昇しようとし、南部は周辺部にとどまることを利益とした。北部が第2の西欧を目指していたとすれば、南部は北方の中南米であろうとした。

 このように内部に大きな利害の相違をはらみつつ、連邦国家アメリカは、西部の開拓を続けた。1846年から、太平洋岸側の広大な地域を次々に併合・割譲・買収し、1853年には大陸領土が確定した。先住民を駆逐し、領土を拡張することは、「明白な運命」(マニフェスト・デスティニイ)として正当化された。その運命とは、ユダヤ=キリスト教的な神から与えられた使命と思念された。インディアンに対する姿勢は、15世紀末から中南米のインディオを虐待・殺戮した白人種の姿勢に通じている。
 領土が広がるにつれ、地域間に存在する利害の対立は、激しさを増した。最大の係争点は、奴隷制だった。旧本国イギリスでは、先に書いたように、33年には奴隷制が廃止されている。その影響が合衆国にも及んだ。

●南北戦争を経て世界最大の工業国へ

 西部開拓が進み、新たな州が誕生すると、新しく出来た州に奴隷制の拡大を認めるか否かで南北の対立が深まった。1860年に奴隷制に反対する共和党のリンカーンが大統領に就任した。これを機に、翌61年南部11州が合衆国からの脱退を宣言し、アメリカ連合国を結成して、北部諸州に対して武力抗争を開始した。北部諸州は分離独立を認めず、ここに南北戦争が始まった。
 この戦争は今日、内戦(シヴィル・ウォー)とされているが、南部諸州は独立国家を結成したのだから、国際紛争と見るべきである。北部側は、かつてイギリスから独立していながら、自国からの独立は認めないというわけである。

 最初は南部が優勢だった。しかし、リンカーンは62年に、国有地に5年間居住・開墾すれば無償で与えるという自営農地法(ホームステッド法)を発布し、これによって、西部農民の支持を獲得した。さらに、63年に奴隷解放宣言を発し、内外世論を味方につけた。ゲティスバーグの戦いで北部が優勢になり、65年北部が南部に勝利した。
 戦死者・戦病死者は合計62万人に達し、南部は戦災により多大な被害を受けた。マーガレット・ミッチェルの小説「風と共に去りぬ」は、南北戦争を南部の視点で描いた名作で、題名は、過ぎ去った時代の南部の文明を意味する。
 65年、合衆国憲法に修正第13条が加筆され、奴隷解放が実現した。奴隷制を巡る南北戦争を経験したアメリカ合衆国は、内部にはらむ価値観、利益の違いを越えて、ネイション・ステイトとして国民を統合する原理を、一層強く打ち出す必要を生じた。その原理が、自由、デモクラシー、人権である。しかし、黒人奴隷は法律上解放されたものの、実質的な差別が存続し、社会的地位の向上は1960年代の公民権運動の高揚まで待たねばならなかった。

 南北戦争の結果、工業国として歩むこととなったアメリカ合衆国は、めざましい発展を遂げた。ヨーロッパからの移民によって人口も急増した。1869年には、最初の大陸横断鉄道が開通し、広大な国土に存在する豊富な資源の輸送、工業製品・農業製品の流通、労働者・消費者の移動等が可能になった。そして、1890年代には、合衆国は、イギリスを抜き、世界最大の工業国となった。
 合衆国は、98年の米西戦争でフィリピンやグアムなどを獲得し、さらにハワイを併合して太平洋地域への勢力拡大を本格化させた。カリブ海諸国に対しては、武力で内政に干渉する棍棒外交を展開した。
 近代世界システムの中核部に、イギリスに並ぶ有力国家が確立したのである。これにより、近代西洋文明は、アングロ=サクソン文化、及びそこに深く浸透したユダヤ文化を主要な文化要素とする文明として、世界各地に伝播していくことになった。

 次回に続く。
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西欧発の文明と人類の歴史48

2008-07-26 10:03:57 | 歴史
●アヘンを使ってシナにも進出

 18世紀後半から、欧米列強は、新しい市場と資源の可能性を求め、広大なシナへの進出を開始した。ここでも先頭を行ったのは、イギリスである。
 18世紀末には、イギリスは対清貿易をほぼ独占していた。ところが、シナの紅茶や絹織物等の輸入が増えるばかりで、イギリスの機械製綿布は売れず、大幅な入超に陥り、銀の支払いに困っていた。その一方、インドよりも人口の多いシナで綿布を売ることができれば、その利益は計り知れない。そこで目をつけたのが、シナ人のアヘン吸飲の習慣である。
 インドの大部分を支配下に収めていたイギリスは、インドでアヘンを栽培し、これを清に密輸することを考え出した。イギリスの工業製品をインドへ、インドのアヘンをシナへ、シナの茶をイギリスへという三角貿易である。シナでは、アヘンを売って銀を得て、その銀で茶を購入する。
 これによりイギリスは貿易黒字に転じ、清からは大量の銀が流出した。イギリスは、インドとの間では、木綿生産の技術競争に勝ったのだから、資本主義の論理では正当化される。しかし、アヘンの密輸は、消すことのできない汚点である。

 清国内ではアヘンの広がりが大きな社会的問題となった。清朝政府はアヘンの輸入をたびたび禁止した。しかしイギリス東インド会社は、私貿易商人を通じてアヘンを清に密輸出し続けた。1839年に広東に派遣された林則徐が、アヘン厳禁の布告を出し、イギリス商人のアヘンを没収・廃棄した。これに対し、イギリスは翌40年、軍艦を派遣してシナ沿岸の各地を攻撃。圧倒的な軍事力で清を屈服させ、南京条約を結んで、清の貿易制限を撤廃させた。この時奪われた香港が中国に返還されたのは、1997年のことである。
 アヘン戦争は、幕末のわが国に大きな脅威を与えた。やがてわが国にも白人が攻めてくる、という危機感が、倒幕維新の運動につながっていく。

 南京条約後、イギリスの期待に反し、シナでのイギリス製品の輸出は伸びなかった。この状況を打開するため、イギリスはフランスと組んで、清に戦争を仕掛けた。これがアロー戦争である。第2次アヘン戦争ともいわれる。イギリスは、清の役人が英国国旗を掲げるアロー号のシナ人船員を捕らえ、国旗を引き降ろした事件を口実にした。フランスは宣教師の殺害を理由にした。
 英仏連合軍は、広州・天津・北京を占領し、清と北京条約を結び、開港場の追加やキリスト教布教の自由を認めさせた。これにより、列強による清の半植民地化が決定的なものとなった。西洋近代文明は、アジアの文明をまた一つ支配したのである。

●イギリスでは奴隷制廃止、アメリカでは継続

 さて、こうした展開において、イギリスでは、奴隷貿易・奴隷制への反対運動が起こり、これらの廃止へと進んでいった。
 奴隷貿易は最盛期には、イギリスだけで毎年30万人以上の黒人奴隷が大西洋を越えて運ばれた。19世紀初頭までの間に、推計1,000万人から2,800万人の黒人奴隷が大西洋を渡ったとされる。しかし、イギリス人の中には、奴隷制の非人道性に気づいたものが現れ、1787年に奴隷貿易・奴隷制に反対する運動が始まった。
 まず奴隷貿易廃止のための議会請願運動が行われた。奴隷労働によって生産された砂糖をボイコットする運動も行われた。これを受け、議会では活発な議論が繰り広げられた。その結果、1807年に欧米諸国としては初めて、イギリスで奴隷貿易が廃止された。続いて、1820年代には、奴隷制廃止のための活動が開始された。この時も議会請願運動が起こり、150万人以上の人々の署名が集まった。こうした大衆運動を背景として、1833年には奴隷制そのものが、やはり欧米諸国で初めてイギリスで廃止された。

 こうした奴隷貿易・奴隷制の廃止は、1804年にハイチで黒人奴隷が反乱を起こし、フランスから独立を勝ち取ったことや、重商主義から自由主義への経済政策の転換に伴う奴隷の必要性の減少のためだと考えられてきた。しかし、近年は、奴隷制の非人道性に目覚めたイギリス人が、解放奴隷たちと連携して行った世界初の人権運動の成果と理解されている。
 ただし、この時点では、イギリスが綿花の供給を確保するアメリカ合衆国においては、奴隷制が継続している。イギリスで奴隷貿易・奴隷制が廃止されても、綿花と線製品の生産関係は変わっていない。合衆国における奴隷制の廃止は、南北戦争後まで待たねばならない。また廃止後も解放奴隷は、近代世界システムの下層労働者として、英米の資本主義を支えた。

 次回に続く。
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西欧発の文明と人類の歴史47

2008-07-25 09:36:07 | 歴史
●イギリスがインドを完全支配

 イギリスの帝国主義政策は、インド、アフリカ、シナ等へと展開された。
 まず産業革命と深い関係のあるインドについて述べる。イギリスは、1600年東インド会社を設立し、ポルトガルやオランダに続いてインド洋交易に参加していた。東インド会社は1757年にプラッシーの戦いで勝利してフランス勢力を駆逐した。以後、イギリスはインドの諸国を次々に征服した。1840年代後半にはシク戦争に勝って、パンジャブ地方を併合し、インド征服を完成した。
 1820年代以降、産業革命の進むイギリスから、機械生産による綿布が、インドに大量に流入した。インドの手工業者は圧迫され、インド経済は打撃を受けた。インド人の不満は高まり、1857年セポイの反乱が勃発した。セポイとは、東インド会社が雇ってインド征服の手足としていた傭兵である。反乱は大規模化したが、59年イギリス軍はこれを鎮圧した。この間、イギリス政府は、東インド会社の機能を停止し、直接支配に切り替えた。そしてムガール皇帝を廃して帝国を滅亡させ、77年にはヴィクトリア女王が皇帝を兼ねるインド帝国を創建した。
 こうしてインドは、実質的に植民地化された。これは非常に重大な出来事だった。西欧文明が、初めてアジアの文明のひとつを完全に支配下に置いたのである。

●3C政策でアフリカを植民地化

 次に、アフリカについてである。イギリスのアフリカ・アジアへの進出の大きなきっかけとなったのは、スエズ運河の株式を取得したことだった。スエズ運河は1869年に開通。これにより、ヨーロッパの船は、喜望峰を回らずに、地中海からインド洋、海洋アジアへと出られるようになった。世界交通史上の一大転機だった。運河の建設はフランス人レセップスが成功させたもので、管理はフランスとエジプトの共同出資による会社が行っていた。
 ところが、財政難に陥ったエジプトは、同社の株式を売却しようとした。この情報を得たイギリスのディズレーリ首相は、ロスチャイルドから巨額の資金を得て、一挙に同社株式の44%を取得し経営を支配した。さらに82年には、運河地帯を占領した。
 スエズ運河の支配は、イギリスの帝国主義政策を促進した。イギリスは、スエズ運河を通って、中東、インド、シナ等の植民地支配を大々的に展開するようになった。

 さらに、イギリスは、アフリカ大陸に進出した。イギリスに負けじと、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギーなどもアフリカ分割に参加し、1880年代以降、アフリカの植民地化が一気に進んだ。
 イギリスは、北アフリカのカイロと南アフリカのケープタウンを結ぶアフリカ縦断政策を進めた。この線をさらにインドのカルカッタに伸ばそうとした。この政策を、三つの都市の頭文字を取って、3C政策という。

 アフリカ最南端にあるケープ植民地は、16世紀にポルトガル、17世紀中半からはオランダの植民地になっていた。オランダ系移民はボーア人と呼ばれた。1814年、ナポレオン戦争後のウィーン条約で、この地はイギリス領となった。奥地に追われたボーア人は、黒人先住民を征服して、トランヴァール共和国とオレンジ自由国を建国した。
 1870年、オレンジ自由国のキンバリーで、世界屈指のダイヤモンド鉱山が発見された。続いて、81年、トランスヴァール共和国のヨハネスブルグで、世界一の金鉱が発見された。イギリス人セシル・ローズは、若くしてアフリカに渡り、金とダイヤモンドの採掘で巨万の富を築いた。90年、ケープ植民地の首相となったローズは、トランヴァールとオレンジの北方に植民地を拡大し、両国の内政に干渉し始めた。当地は、彼の名前にちなんで、ローデシアと名付けられた。
 若きローズに資金を提供したのは、ロスチャイルドである。1888年、ロスチャイルドが南アフリカに作ったデ・ビアス社は、現在も世界のダイヤモンドの8割を支配している。
 ローズは、3C政策を進める本国政府に呼応して、帝国主義的な拡張政策を進めた。99年に金やダイヤモンドの資源をねらって、ボーア戦争を起こした。1902年、イギリスはトランヴァールとオレンジの両国に勝利し、植民地化を完成した。イギリス人は、ボーア戦争でボーア人を大量虐殺し、歴史に汚名を残している。

 次回に続く。
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西欧発の文明と人類の歴史46

2008-07-24 10:10:28 | 歴史
●イギリスの絶頂期と社会改良政策

 産業革命後のイギリスは、まさに世界経済の中心となった。とりわけ1837年~1901年の60年余にわたって王位にあったヴィクトリア女王の時代に、イギリスは絶頂期を迎えた。国内では自由党と保守党が交互に政権を担当する議会制デモクラシーが定着した。二大政党は労働者の支持を得て優位に立とうとし、それが政策にも反映された。19世紀後半の選挙法改正で、都市労働者や農業労働者も選挙権を獲得し、教育法の制定、労働組合の合法化など、労働者を体制に取り込む政策が取られた。
 マルクスは、資本主義が発達することによって、労働者が絶対的に窮乏化するという説を説いた。しかし、実際はイギリスでは、資本主義の発達によって、労働者大衆の所得が増大し、生活水準が向上した。マルクス・エンゲルスは、この傾向を追認するようになった。富を増大した中核部のイギリス社会は、資本主義の矛盾を是正しようとする政策が行われた。これは、市場にすべての決定を任せる自由主義を修正した修正自由主義や、キリスト教的な慈善運動に基づく社会改良主義の政策である。そうした政策によって、イギリスの労働者大衆の生活は豊かになり、政治的社会的な権利も拡大した。
 共産主義による革命より、漸進的な社会改良という方法が、西欧の資本主義諸国では主流となっていく。資本主義の矛盾は、闘争と革命という急進的な方法ではなく、融和と改良という漸進的な方法によっても改善することが可能なのである。そして、歴史が示しているのは、急進的な方法は、かえって矛盾を拡大し、目的と結果に巨大な乖離を生み出すということである。

 マルクスは、周期的に訪れる恐慌とそれによる革命という展開を予想した。恐慌はほぼ10年に1度発生していたが、19世紀末期には周期性を失った。また実際に革命が起こったのは、マルクスが理論的に予想した先進国ではなく、後進国のロシアだった。革命のきっかけは恐慌ではなく、戦争とその結果の敗戦だった。
 再び恐慌が国際市場を襲ったのは、1929年の世界大恐慌だった。このときは、アメリカ、イギリス等では政府による経済への介入・管理や失業対策が行われた。ドイツでは、国家社会主義が台頭し、いっそう統制的な政策が行われた。それらもまた資本主義の経済政策である。マルクスが考えたほど、資本主義は単純ではなく、大きな可変性を秘めていたのである。この点は、大恐慌の項目のところで再び触れることにする。

●第2次産業革命と米独の追い上げ

 産業革命後、「世界の工場」として圧倒的な工業力・経済力を持つにいたったイギリスは、自由主義の貿易政策の下で繁栄を誇った。ここで自由主義というのは、経済的自由主義のことであり、政府が経済に介入せず、市場の決定に任せる政策である。資本主義システムの歴史においては、19世紀のイギリスの覇権体制が、自由主義の時代である。経済学には、この時代の世界経済を理念化し、経済を自立した法則の貫徹するシステムとしてとらえようとするものがあるが、政治と経済は決して切り離せない。国家と資本は別々の論理で動いているようでいて、現実には相互依存の関係にある。
 イギリスを覇権国家とする自由主義的資本主義の時代は、長くは続かなかった。1870年代に入ると、イギリスは他国に追われる身になった。70年代からの不況で、各国は保護関税政策に転換した。そのため、イギリス経済は、徐々に力を削がれていく。

 後に触れるが南北戦争を経て工業国として成長するアメリカや、プロイセンを中心として統一を実現したドイツでは、不況を乗り切るため、企業の集中が進み、技術革新が行われた。80年代には、鋼鉄が生産され、化学工業が勃興した。90年代には、新エネルギーとして電力が登場し、内燃機関が使用されるようになった。第2次産業革命である。技術体系の変化と産業の巨大化に伴って、新産業分野では膨大な設備投資が必要となった。巨額の資金を調達するため、銀行・証券会社などを通じて市場で投資を募る株式会社が普及した。
 アメリカでは、「ビッグ・ビジネス」と呼ばれる大企業が登場した。ビッグ・ビジネスとは、1万人を超える筋肉労働者(ブルー・カラー)を雇用し、多数の事務労働者(ホワイト・カラー)による官僚的管理システムを持つ企業をいう。そうした大企業がグループをなす財閥も出現した。
 アメリカに続いて、各国に大企業・財閥が出現し、利潤を求めて競い合った。価値増殖を自己目的とする資本の運動によって、人間の欲望は次々に製品として実現された。商品の登場が新たな欲望を刺激し、多量かつ多様な消費が創出された。新しい製品の開発が、企業の存亡の鍵となる時代が訪れた。

 イギリスの資本は、巨大資産家の私的資本が中心だったため、第2次産業革命の技術革新では遅れをとった。アメリカやドイツの資本の追い上げにより、イギリスの国民経済が低迷した。先進国として賃金水準が高くなっていたため、生産コストが上がり、国際的な競争力が弱まった。
 そこでイギリスは、それまで蓄積した豊富な資金と海上運賃、保険料収入、対外投資収益などを利用して、金融大国として生き残る方法を取った。ロンドンのシティは世界の金融センターとなっていたが、この時代に支配的な地位を確立した。金の価格は現在もシティで決められている。それとともに、イギリス資本は、安価な労働力と資源に恵まれた諸大陸の植民地に資本を輸出した。政府は資本家と協同し、対外投資による利益拡大へと政策を転換し、植民地の拡大を図る帝国主義政策を推進した。

 帝国主義とは、軍事力を背景に他国を植民地や従属国に転化する政策を言う。近代資本主義以前の古代のローマ帝国に見られるような膨張主義、征服主義である。特に1870年代から第1次世界大戦に至る時期は、欧米列強が植民地獲得に狂奔し、数ヶ国で「世界の分割」を完成させたので、この時期を特に帝国主義の時代と呼ぶ。近代世界システムが、中核部で覇権国家と対抗国が競合しながら、地球規模に拡大していく過程であり、近代西洋文明が他の文明を包摂し、周辺文明化していく過程である。
 イギリス以外の国々については、別の項目で書き、その上で、再度、帝国主義の本質と構造について述べたいと思う。

 次回に続く。

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西欧発の文明と人類の歴史45

2008-07-23 09:30:05 | 歴史
●産業資本を成長させた商業資本・銀行資本

 近代資本主義は、産業革命によって、真の意味での資本主義となった。産業化した資本主義の主体は、産業資本である。マルクスやウェーバーに依拠する経済学者・経済史学者の多くは、産業資本を近代資本、それ以前の商人資本や高利貸し資本を前近代的資本とし、前近代的資本からは近代資本主義は発達しなかったという。
 私はこれに異論がある。産業資本が近代資本主義をもたらした資本の形態であることは、そのとおりである。しかし、産業資本は生産、商業資本は流通、銀行資本は金融において価値増殖を行う資本である。生産を行う資本は、流通・金融の資本と結びついてこそ、生産力を発揮できる。作ったものを売る商人がいなければ、産業資本は維持も発展もできない。また、産業資本に投資したり信用を扱う銀行家がいなければ、大きな事業を展開できない。これらの役割を軽視すべきでない。
 産業資本の発生においては、プロテスタントが主要な役割をした。私は、マックス・ウェーバーの説を基本的には承認する。しかし、出来た製品を売ったり、産業資本家に金銭を工面したり、為替で外国貿易を支えるところでは、ユダヤ人が重要な役割をした。ユダヤ人を中心とした商業資本・銀行資本なくして、産業資本はこれほどの発達はできなかったに違いないというのが、私の見方である。14~15世紀にはイタリア諸都市やスペイン、ポルトガルで、17世紀にはオランダのアムステルダムで、17世後半からはイギリスのロンドンで、ユダヤ人は才能を発揮した。ヨーロッパ経済また資本主義システムのその時々の中心地で、ユダヤ人は活躍した。

 18世紀後半の産業革命以後、19世紀の近代後期に入ってからの資本主義世界経済において、ロスチャイルド家を筆頭とするユダヤ人を中心とした商業資本・銀行資本は、産業と貿易の大規模化、国際化、情報化等を推進した。それなくして、今日に至る欧米諸国の政治的・経済的な発展はなかったと私は考える。20世紀から今世紀の世界で覇権国家となっているアメリカにおいても同様である。
 19世紀後半から産業資本は株式会社化し、銀行が株式の発行を引き受け、銀行資本と産業資本は結合した。それが金融資本である。金融資本によって、近代的な形態の資本が完成する。これが21世紀の世界で価値増殖運動をしている資本の主要形態である。資本は、もともと物を作って売るのが目的なのではない。利潤を上げることが目的なのである。それゆえ、必ずしも物を生産しなくとも、金銭や信用によって利潤を上げられれば、資本の目的は達せられる。物を作る労働に汗を流すより、金銭を動かすことで利潤を上げるファンド・マネージャーが、グローバルな情報金融資本主義の主役となる。

●近代化=合理化の進展と人類の危機

 15世紀半ば以降の西欧文明の過程を一言で言えば、近代化である。近代化とは、マックス・ウェーバーによれば、生活全般における合理化の進展である。近代化は、文化的・社会的・政治的・経済的の4つの領域で、それぞれ進展した。西欧における近代化、換言すると西欧発の近代文明の発達は、15世紀末から他文明の支配と、それによる収奪の上に起こったというのが、本稿の強調するところである。
 さらに、17世紀に起こった科学革命による諸発見が、18世紀の産業革命によって、資本主義的な産業経営に応用されるようになった。また17世紀前半に形成された近代主権国家が同世紀後半以降の市民革命を経て、国民国家となり、資本主義世界経済の担い手となった。資本と国家、富と力の一体化が進んだ。これが物質科学を生産、戦争、管理等に活用した。資本と国家と科学という三要素の結合が、近代西洋文明にかつてない機能を与えたのである。
 かくして人類史上、最も強力な文明が欧米において確立した。この近代西洋文明が、現代世界をおおっている。21世紀の世界に広がっているグローバルな資本主義は、経済と情報が結びついた思想・政策であり、世界の隅々までを資本主義化し、近代化し、西洋化しつつある。私はこの資本主義化、近代化、西洋化は、同時にユダヤ的なものの普及でもあると考えている。
 西洋近代文明の発達の結果、人類は未曾有の繁栄を謳歌するとともに、深刻な危機に直面している。その危機の始まりは、産業革命だった。今日、人類が危急の課題としている核の問題は、産業革命で機械工業化した産業が、兵器を改良させて生み出した核兵器の使用による人類自滅の危機である。核兵器の開発には、多数のユダヤ人が参加したことが知られている。また、産業革命後に、近代世界システム、近代西洋文明は、化石燃料の大量消費によるCO2の大量排出を続けてきた。それにより、地球の温暖化が進行している。利益の追求を至上目的とするユダヤ的な原理は、持続可能な成長への道を阻んでいる。物質科学に偏った発展を遂げている近代西洋文明は、発展の半面に破壊を伴い、発展すればするほど破壊を広げ、今日もまだ物心の調和、自然と人間の調和を実現できていない。これを是正し、人類にとって真に益する文明を創造することが、現代人の存亡を賭けた課題である。

 次回に続く。

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西欧発の文明と人類の歴史44

2008-07-22 14:24:39 | 歴史
●科学革命と産業革命の合体

 比較文明学者で科学史家の伊東俊太郎氏は、「世界の近代化に決定的な役割を果たしたのは、近代科学とそれに基づく産業技術であり、結局それを生み出した『科学革命』である」「実に『科学革命』による近代科学の形成・確立こそ、世界史における西欧の優位の真の起源なのである」と述べている。
 科学史家の観点からはこういう見方が出るわけだが、私は、近代西欧科学は産業革命と結びつくことによってはじめて、巨大な威力を発揮するようになったことを主張したい。西欧は中世から16世紀までは、先進的なイスラム文明やシナ文明より、科学の分野でも遅れていた。その後進的なヨーロッパで、17世紀に「科学革命」が起こった。
 起こったといっても、西欧の近代科学は当初、イスラムやシナの科学と大差なかった。世界観や価値観の違いにより、自然の認識や研究の方法・態度が異なる程度だった。ガリレオの実験、デカルトの数理的方法論、ベーコンの帰納法、ニュートンの機械論等、後から見れば画期的な展開となったが、もし西欧に産業革命が起こっていなければ、どれほどの影響力を持つにいたったか、わからない。

 科学革命はイギリスを中心に展開された。1660年に王立協会(ロイヤル・ソサエティ)が設立され、国王が科学認識を深めるための活動を奨励した。しかし、産業革命前のイギリスは、インドからやってくる木綿に圧倒される程度の国家でしかなかった。西欧的な近代西欧科学のもつ潜在力が現実化されるには、18世紀後半からの産業革命を待たねばならなかった。
 西欧文明と他の文明の最大の違いは、西欧では、近代科学の知識を生産技術に応用し得る生産関係が生まれていたことにある。すなわち、資本主義的な経営、目的合理的な産業経営である。近代資本主義による物質的生産力の前に、非西欧諸国は屈服したのである。
 さらに産業資本の生産力と近代主権国家の権力とが結びついたことによって、西欧諸国は強大な力を持った。科学技術と資本の経営体と近代国家の官僚制、これらに共通するものは合理性である。思想や組織等の全般的な合理化が、ものと人に対するかつてない支配力を生み出した。生活全般の合理化としての近代化が、イギリスを初めとする西欧諸国に、他の文明を圧倒する力をもたらした。

 近代西洋文明は、産業革命を成し遂げた結果、資本主義的経営、近代国家、科学技術等が一つに結合して、人類史上かつてない圧倒的な力を生み出した。そして、西欧発の文明が西地球のほとんど全表面を支配下に置くまでになった。産業革命によって、近代世界システムによる中心―半周辺―周辺の三層構造は、地球規模に拡大していった。19世紀後半には、世界各地の文明が近代西洋文明の「周辺文明」と化すがごとき状態となった。

 インド文明は、1820年代後、産業革命を経たイギリス木綿が流入し、綿工業が壊滅に近い打撃を受け、白人の植民地と化した。シナ文明は、アヘン戦争・アロー戦争以後、欧米列強が進出し、利権をほしいままにした。イスラム文明は、18世紀末以後、オスマン=トルコの衰退に乗じて、中東・バルカン地域にイギリス・フランス・ロシア・オーストリア等のヨーロッパ列強が進出し、19世紀後半までには植民地化された。
 ラテン・アメリカは19世紀前半に独立したものの、資本主義の垂直的分業体制の不可欠の部分として、西洋文明の下層に組み込まれていた。ラテン・アメリカの「低開発の発展」は、三層構造における下層化であり、下層的分業体制の展開ととらえるとよいと思う。
 アフリカは、1880年代から急速に植民地化が進んだ。アジアの大部分が西欧諸国の植民地・半植民地となった。イスラム文明、インド文明、シナ文明が、近代西洋文明の周辺文明に転落した。残ったのは、日本文明とタイだけだった。
 これらの過程については、後にイギリス資本主義と帝国主義政策のところで具体的に触れる。

 次回に続く。

■追記

 本項を含む拙稿「西欧発の文明と人類の歴史」は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09e.htm
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西欧発の文明と人類の歴史43

2008-07-21 09:57:49 | 歴史
●インドとイギリス、アジアと西欧の逆転

 イギリス綿工業は、ほぼ1世紀の年月をかけてインド木綿の模倣に成功した。輸入代替化に成功したイギリスは、今度はもとの供給国インドに輸出し始めた。イギリス木綿は、1820年代前後から、怒涛のごとくインドに流入した。インドがイギリスに対してもっていた生産の比較優位がここに初めて逆転した。
 産業革命によって、初めてイギリスはインド洋文明圏に対して生産力で優位に立った。かつてインドからイギリスに流れた木綿が、今度はイギリスからインドへと逆流した。それまでヨーロッパへの輸出に依存していたインド綿業は壊滅的な打撃を受けた。「この窮乏は商業史上に例を見ない。木綿職工の骨は、インドの野を真っ白にそめあげている」と描かれるような事態となった。これがムガール帝国の経済的基盤を掘り崩した。
 インド木綿がイギリス木綿にとってかわられたことは、イギリスにおける近代西洋文明の確立と、インドにおけるイスラム的ヒンズー文明の凋落とを象徴する事件だった。インドは、やがてイギリスの植民地とされ、第三世界に転落することになる。

 産業革命の結果、イギリスはアジアに木綿を輸出し、東方から銀を手に入れられるようになった。それによって、西欧文明は19世紀を通じて、ユーラシア大陸の他の諸文明を、次々に中核―半周辺―周辺構造に組み込みながら、発展していく。近代前期のユーラシアの五つの世界帝国と、西欧の世界経済の並立という状況は、産業革命によって大きく変貌する。近代世界システムの中に大英帝国という世界帝国が出現し、この近代化された世界帝国が、他の世界帝国を従えていく。

 川勝氏は、長期の16世紀(15世紀半ば)以降を広義の「近代」とし、その前半となる16世紀から1800年頃までを「近世」、1800年頃以降を狭義の「近代」としている。川勝氏によると、15世紀以来、ヨーロッパはインド洋から、アジアの外圧を受けていた。その外圧をはねのけるのに成功した時期は、ほぼ1800年頃とされる。
 私は、15世紀半ばから1800年頃までを近代前期、1800年ごろ以降を近代後期と二分する。近代後期は、19世紀から20世紀半ばまでとし、1945年以降をもって、現代と私は呼ぶ。

●産業革命による動力・エネルギー・交通の革命

 産業革命は、機械による安価な大量生産を可能にした。紡織機の動力は水力から蒸気力に替わり、化石燃料である石炭が利用されるようになった。これにより、動力革命・エネルギー革命が起こった。
 動力革命・エネルギー革命は、交通革命をも引き起こした。陸では蒸気機関車の発明により、原料や製品が大量に運搬できるようになった。海では19世紀半ばに改良が進んだ蒸気船が高速で安定した輸出を実現した。陸海の交通革命の結果、都市が生活用品の大部分を生産する重要な生産の場に変わった。
 とりわけ鉄道建設は、1840年代から50年代にかけてラッシュとなった。50年代初頭には早くも鉄道網がイギリスを覆い、首都ロンドンを中心とする全国的な鉄道網が出来上がる。鉄道は都市の生活を農村に普及させ、都市と地方の生活の平準化を進めた。鉄道が作り上げた均一性を有する空間が、国民国家・国民経済という新システムの土台になっていく。鉄道建設の波はヨーロッパ大陸へと急速に広がり、国内市場の統一、国民国家の形成に大きな役割を果した。
 
 西欧の市民革命の歴史的な意義を強調するために、都市新興階級であるブルジョワジーの活動が多く語られるが、彼らの舞台は、当時の世界では中規模都市にすぎなかった。産業革命の前まで世界最大の都市は、バグダッドだった。17世紀からの西欧の都市化は、世界的に見ると、小規模な変化だった。わが国の江戸は、19世紀には百万都市となり、ロンドン、パリよりインフラが整っていた。西欧は産業革命によって初めて都市化においても、他の文明に抜きん出た。

 近代世界システムの中核部で、都市に人口が集中すると、高速輸送ネットワークを通じて、大量の食料や工業原料が、都市に供給されるようになった。それによって、さらに人口が集中し、都市と都市が結びついた広域的な人口稠密地帯が広がった。これが、都市爆発の時代の始まりとなった。
 産業革命とそれに伴う都市爆発によって、大規模な自然開発が進められた。エネルギー資源、工業原料、食糧等の生産は、森林の伐採、大気・河川・土壌の汚染、CO2の排出等、環境問題も生み出していく。

 次回に続く。

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