ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

友愛を捨てて、日本に返れ17

2009-11-30 06:41:38 | 時事
●「友愛=兄弟愛・同胞愛」を説く政治家が兄弟争いとは

 鳩山氏が説く友愛は、道徳的な理念である。政治家が国民に道徳を説くのであれば、まず自らが実践し、率先垂範すべきである。東洋の政治哲学である儒教は、そのように為政者、君子に教えてきた。鳩山氏は、日本国民に対して友愛を説くだけでなく、外国の指導者や他国民に対しても友愛を説く。それほど高唱するのであれば、鳩山氏は、国の内外に広く自ら模範を示す必要がある。
 ところが、鳩山氏は、弟の鳩山邦夫氏とは政治的な意見が異なり、兄は民主党、弟は自民党である。本年10月26日、鳩山首相は、友愛の理念のもとに、国会で所信表明演説を行なった。これに対し、弟・邦夫氏は、「若い女性向けの少女マンガのシーンみたいな話ばっかりだ」と酷評した。また、「兄弟だから1、2割は共感するが、あとはただの美辞麗句だ。辞書の中から美しい言葉ばかりを全部引っ張ってきたような作品だ」などと皮肉交じりに批判した。
 8月の衆議院選挙の際には、邦夫氏は、兄は「黒い鳩」だ、自分は「白い鳩」で正義を行なっていると有権者に訴えた。兄の由紀夫氏が友愛、つまり兄弟愛・同胞愛を満天下に説くのであれば、実の弟である邦夫氏すら信服させられなくて、どうして日本国民や外国の指導者や国民を啓発することができようか。兄が自ら実践し、弟が呼応し、誰もが認めるものとならなければ、鳩山氏の友愛は偽善である。

●偽装献金問題で「黒い鳩」と弟が非難

 鳩山由紀夫氏が「黒い鳩」と弟から非難されるのは、政治資金収支報告書の虚偽記載による偽装献金問題による。本年6月、鳩山氏の資金管理団体「友愛政経懇話会」が、すでに死亡している人や実際には献金していない人から個人献金を受けたと、事実と異なる内容を収支報告書に記載していたことが明らかになった。鳩山氏は記者会見し、収支報告書に記載した5万円を超える個人献金のうち、故人や実際には献金していない人の名義の記載が、平成17~20年の4年間で計約90人、193件、総額2177万8千円に上ると公表した。鳩山氏は自分は知らず、秘書がやったことだと弁明した。しかし、東京地検特捜部から事情聴取を受けた鳩山氏の元公設第1秘書は、虚偽記載は10数年前から行なっており、鳩山氏の父・威一郎の代から長期にわたって繰り返していたと語っている。鳩山家の伝統は友愛だけではなかった。偽装献金も、鳩山家の伝統に加えなければならない。祖父からは友愛を、父からは偽装を受け継いだのが、由紀夫氏である。
 虚偽記載の問題は、東京地検特捜部が現在調査中である。仮に鳩山氏自身が起訴されることになれば、現職の総理大臣が法廷で裁かれることになる。鳩山氏は、首相となる以前、平成15年(2003)7月に、自身のメールマガジンに次のように書いている。「私は政治家と秘書は同罪と考えます。政治家は金銭に絡む疑惑事件が発生すると、しばしば『あれは秘書のやった こと』と嘯いて、自らの責任を逃れようとしますが、とんでもないことです。政治家は基本的に金銭に関わる部分は秘書に任せており(そうでない政治家も いるようですが)、秘書が犯した罪は政治家が罰を受けるべきなのです」と。
 鳩山氏のこの言葉と、今回の虚偽記載での氏の発言は、まったく矛盾している。私は、鳩山氏がうそを言っていると疑わざるを得ない。弟から公然と「黒い鳩」と指弾されても厚顔を保つ鳩山氏は、国内外に友愛を説き続けている。「うそつきは泥棒のはじまり」ということわざがあるが、もし「友愛はうそつきのはじまり」ということになったら、友愛は道徳の理念ではなく、不道徳の隠れ蓑になるだろう。

 次回に続く。

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トッドの人口学・国際論20

2009-11-28 08:51:08 | 時事
●ユダヤ人の脱宗教化は可能か

 トッドは、イスラムについては「俗世間の非宗教化と信仰の消滅」に至り得ることを予想する。一方、ユダヤ教については、言及がないようである。トッドの理論を敷衍すれば、シオニズムが鎮静化するには、ユダヤ人の脱ユダヤ教化が必要である。ユダヤ人の脱ユダヤ教化は、予測できるか。こういう問いを立てねばならない。
 トッドは、識字率の向上が脱宗教化を引き起こすという。しかし、ユダヤ民族は、私の見るところ、識字率に関して、世界人類の中の例外である。ユダヤ教では、聖書を読む能力が不可欠である。だから、ユダヤ民族は、近代以前から、識字率が極めて高い。西欧の近代化の過程で、ユダヤ民族は、経済的・文化的に重要な役割を果たしたが、もともと読み書き計算のできるユダヤ人は、西欧の近代化を先導し、促進できる条件を備えていた。
 近代西欧のユダヤ人の中には、脱ユダヤ教化し、キリスト教に改宗した者や合理主義的な思想を唱導した者もいる。しかし、大多数のユダヤ人は、祖先伝来の信仰を保った。その信仰の中から、祖先の地に自分たちの国家を建設したいというシオニズムの運動が起こった。彼らが聖地に戻り、国家を建設したのが、宗教国家イスラエルである。イスラエルの国民は、最初から識字率が高く、文化的近代化が進んでいた。それゆえ、イスラエルのユダヤ人には、識字率と脱宗教化は関連付けられないと私は考える。
 政治的には、イスラエルは、中東で唯一の民主主義国と言われる。デモクラシーとユダヤ教の信仰が両立している。ゆるやかな宗教的民主制である。同時に強力な軍事国家でもあり、自主的に核武装を行なっている。
 女性の識字化による出生率の低下という一般的傾向も、イスラエルには、当てはまらない。周辺国との抗争の中で国力を維持するため、人口増加政策が行われており、西欧諸国との比較はできない。
 イスラエルでは、ユダヤ教の中に、正統派、保守派、改革派、再建派等のグループがある。政党には、リクード、わが家イスラエル、労働党など異なった政治思想を持つ政党がある。スファラディとアシュケナジーという異なる文化集団がある。一枚岩ではなく、多様性を持つ。国民には、アラブ人もムスリムもいる。
 こうしたイスラエル・ユダヤ人が、トッドがイスラムについて言うような脱ユダヤ教化し得るかどうかは、少なくとも近い将来に予想できることではないだろう。

●ユダヤ教・キリスト教・イスラムの共存調和がポイント

 それでは、アメリカ合衆国のユダヤ人はどうか。アメリカ国民であるユダヤ人は、主にユダヤ教徒である。それ以外にキリスト教徒や脱宗教化したユダヤ人がいる。しかし、そうした宗教的信条の違いはあれども、イスラエルへの支持は、大多数のアメリカ・ユダヤ人に共通している。国境を越えて、民族的なつながりは固い。ユダヤ文明は、アメリカとイスラエルという二つの地域を中心に広がっている。
 課題は、そのイスラエル支持が、偏狭で排外的・闘争的な姿勢ではなく、他宗教・異民族と共存調和する姿勢に替わり得るかどうかだろう。アメリカ=イスラエル連合は、ユダヤ教徒とキリスト教徒の連合である。キリスト教的シオニストについては、脱シオニズム化が期待される。脱ユダヤ=キリスト教化ではなく、むしろキリスト教の隣人愛の教えが復活することがポイントとなるだろう。
 私は、平和のために必要なのは、諸文明の脱宗教化ではなく、諸宗教の共存調和だと思う。宗教同士が互いを理解し、協調を図ることである。「文明の接近」は、脱宗教化による「接近」ではなく、相互理解・相互協調による「接近」という道も可能だろう。
 そして、ユダヤ文明とイスラム文明の「接近」が起こるとき、初めて西洋文明とイスラム文明の「接近」が起こると私は予想する。中東和平の実現、ユダヤ教・キリスト教・イスラムの共存調和がポイントとなるのである。
 これらの宗教は、私がセム系一神教と呼んでいるように、由来をともにする宗教群である。それぞれの宗教が、その教えの根源、生命の本源、人間存在の根拠でもある超越的存在への信仰を掘り下げ、対話と相互理解を重ねることが期待される。その努力がされなければ、人類は、一神教の宗教同士の戦いに、拝金教徒と唯物論者が加わって、地上から宇宙空間へと争いを拡大し、自滅への道を突き進むだろう。

 次回に続く。
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友愛を捨てて、日本に返れ16

2009-11-27 08:52:31 | 時事
●ナチズムと共産主義を考察し、道徳を説いたフロム
 
 自由が不自由に、平等が不平等になる逆説は、人間の心理の深層に関わる問題で、今日なお心理学者たちも原因の解明に至っていない。そうした中で、世界的に知られる研究のひとつが、エーリッヒ・フロムのものである。
 ユダヤ人としてナチスの弾圧を経験したフロムは、『自由からの逃走』で、ドイツにおけるナチズムの心理的なメカニズムを考究し、権威主義的性格について分析した。権威主義とは、自我の独立性を捨てて、自己を自分の外部にある力、他の人々、制度等と融合させることである。言い換えると、親と子、共同体等の一次的な絆の代わりに、指導者等との二次的な絆を求めることである。このメカニズムは、支配と服従、サディズムとマゾヒズムという形で表れる。そしてフロムは、サドーマゾヒズム的傾向が優勢な性格を、権威主義的性格と呼ぶ。
 トッドを借りれば、直系家族が支配的なドイツでは、親子関係が権威主義的で、兄弟関係が不平等的である。トッドは、こうした直系家族の価値が民族主義のイデオロギーに現れたものが、ナチズムだとする。フロムは直系家族の価値が性格になった典型を権威主義的性格と呼んだわけである。
 フロムは、『正気の社会』において、マルクスは人間疎外の原因を追求するために経済学的分析を行ったが、彼は人間性には独自の法則があり、経済条件と相互作用の関係にあることを十分認識していなかった、と批判した。
 フロムによると、マルクスは人間の心理学的洞察に欠け、人間の内部にある非合理的な権力欲、破壊欲を認識しなかった。そのため、3つの誤りを犯している。第一は、人間における道徳的要素を無視しているので、新しい社会体制になったとき、新しい道徳が必要となることに注意を払わなかった。第二は、革命によって「よい社会」が直ちに来ると考え、権威主義や野蛮性が現われる可能性を軽く考えていた。第三は、生産手段の社会的所有を必要十分条件と考えてしまったことである。こうしたフロムの主張は、共産主義が見失っていた心の問題を明らかにし、人間性の回復に寄与した。
 フロムは、ナチズムと共産主義を考察し、近代西洋人が失っている愛や幸福を人々に説き、道徳的な価値の大切さを再認識させた。

●道徳の基礎に自己実現の欲求を発見したマズロー

 現代における道徳という点で、教育や経営等に広く影響を与えているのが、アブラハム・マズローである。マズローは、健康で豊かな精神生活を送っている多数の人々に会って研究した。そこで彼が発見したのは、精神的に健康な人は、例外なく自分の職業や義務に打ち込んでおり、その中で創造の喜びや他人に奉仕する喜びを感じていることだった。こうした画期的な研究をもとに、マズローは健康と成長のための理論をめざした。そして、人間の欲求は、次の5つに大別されるという説を唱えている。

1.生理的欲求: 動物的本能による欲求(食欲、性欲など)
2.安全の欲求: 身の安全を求める欲求
3.所属と愛の欲求: 社会や集団に帰属し、愛で結ばれた他人との一体感を求める欲求
4.承認の欲求: 他人から評価され、尊敬されたいという欲求(出世欲、名誉欲など)
5.自己実現の欲求: 個人の才能、能力、潜在性などを充分に開発、利用したいという欲求。さらに、人間がなれる可能性のある最高の存在になりたいという願望

 マズローは、人間の欲求がこのような階層的な発展性を持っていることを明らかにした。生理的な欲求や安全性の欲求が満たされると、愛されたいという欲求や自己を評価されたいという欲求を抱くようになり、それも満たされると自己実現の欲求が芽生えてくるという。自己実現こそ人生の最高の目的であり、最高の価値である、人間が最も人間的である所以とは、自己実現を求める願望にあると説く。富や権力への欲求はこれに比べ、低い階層の欲求であり、自己実現を求める欲求に、道徳の心理学的な基礎を見出したのが、マズローである。
 私は、自由と平等に対し、道徳的な理念を打ち出したカレルギーを評価するが、カレルギーはフランス革命の友愛にこだわって、反キリスト教とキリスト教という矛盾に陥り、また友愛を自然や宇宙に広げる観念論哲学に陥った。鳩山由紀夫氏は、カレルギーの友愛を、哲学や心理学の知見に学んで自ら深めることなく、「自立と共生の原理」と言い換えただけである。それでは日本の国民も、諸外国の国民も、導くことはできない。
 現代に求められている道徳は、友愛ではなく、それを超えたもっと人間性の深い部分に基づいた道徳でなければならない。自由と平等の逆説を超えるのは、自己実現を協同的・相助的に促す社会の建設であり、人間の徳性・霊性の発揮、新しい精神文化の興隆である。私は、わが国においては、日本人に伝わる伝統的な精神の中に、それを実現する可能性を感じている。

 次回に続く。

関連掲示
・マイサイトの「心と健康」のページ
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion11.htm
 03 「フロイトとマルクスをともに批判~フロム」
 04 「人間には自己実現・自己超越の欲求がある~マズローとトランスパーソナル学」

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友愛を捨てて、日本に返れ15

2009-11-25 09:33:44 | 時事
●家族的価値と家族愛の関係

 トッドは、ヨーロッパにおける家族構造に基づく価値として、権威と自由、平等と不平等を二項対立に挙げ、それらのイデオロギーへの反映を解明した。そこに「友愛」は登場しない。それは、トッドが、家族型における価値を、財産の相続の決定の仕方や結婚後の同居・別居という経済社会的な点からのみ見ているからである。家族愛は、価値と位置づけられていない。鳩山氏の説く「友愛」の原義は兄弟愛だが、兄弟の間の愛を含む親子・夫婦・祖孫等の間の家族愛については、トッドは家族的な価値とみなしていない。
 しかし、人間は家族的生命的な関係において、生きて存在するものである。家族型の違い以前に、親子・夫婦・兄弟・祖孫のいのちのつながりがあり、家族的な価値の以前に、家族の愛がある。そこに生まれる親子愛・夫婦愛・兄弟愛・祖孫愛が近代化の中で、どのように維持または変化し、近代化に対応する思想に表れたかということは、見逃せない問題である。トッドのヨーロッパ研究は、この点において不足があると私は思っている。
 私の観察では、家族愛は、近代ヨーロッパにおいて、神と人間の関係を強調する宗教や、個人や国家、階級や民族を強調するイデオロギーに隠れて、思想の次元には現れなかった。むしろ、家族愛のひずみは病気として現れ、精神医学者の研究と治療の対象となった。そこにフロイト及びフロイディズムの重要性がある。後に触れるフロムは、精神医学の領域から、家族愛に基づく道徳の復活を説くことになった。
 これに対して、わが国では、明治維新後の近代化の中で、家族愛は教育勅語に徳目として表現された。それによって、家庭道徳は社会道徳・国民道徳の基礎として位置づけられた。わが国は、直系家族が支配的な社会である。共同体家族が支配的なシナで生まれた儒教を輸入し、これを土着化し、日本人に合うものに変えた。こうした家族構造と日本的な儒教が、教育勅語には反映している。教育勅語は、日本人を近代国家の国民として教育するための方針を示したものであり、伝統的な道徳と近代的な道徳を総合し、国民に教育すべき規範としている。
 教育勅語は、近代化の中で家族愛を保持し、家族愛を基礎に近代的社会における社会道徳、国民道徳を示したものである。ヨーロッパでは、教育勅語のように伝統的な道徳を集約しつつ創造的に近代化し、これをもって国民教育を実践するという公的な規範は、生まれることがなかった。そのヨーロッパで、カレルギーは友愛を説いた。しかし、友愛は、人間を生命的にとらえておらず、また兄弟愛は家族愛の部分でしかなく、一般的な道徳の原理となりうるものではない。その友愛を鳩山一郎が輸入し、孫の由紀夫氏が国民に説いている。わが国において近代化の中で家族愛を保持してきた教育勅語に対して無関心または否定的な鳩山祖孫の姿勢は、私には日本人としての自覚の弱さを感じさせるのである。

●自由が不自由を、平等が不平等を生む逆説

 フランス革命は、王政の打倒による人民主権を樹立した。国王から主権を奪って国民が主権を獲得した。自由とは、国家権力が個人の活動に介入することを斥けた状態であり、平等とは王族・貴族の封建的身分を否定し、法の下に権利が平等となった状態である。ところが、自由の追求は新たな不自由を生み出し、平等の追求が新たな不自由を生み出した。すなわち、ロベスピエールという独裁者が出現し、独裁に反対する者は自由を抑圧され、平等から除外され、生命さえも奪われた。この逆説は、フランス革命に限らない。ロシア革命は、レーニンとスターリンという独裁者を生み、新たな特権階級が形成され、秘密警察と強制収容所が政治の道具となった。
 カレルギーは、「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」と言う。そして、友愛は、自由と平等のゆきすぎを是正するものとして掲げられる。ここで注意したいのは、自由と平等は権利に関する概念だが、友愛は道徳に関する概念であることである。
 自由と平等を求める社会は、権利の争いの社会である。カレルギーは、そうした社会に、友愛という道徳が必要だと考えたのだろう。権利は力によって獲得され、法によって規定される。しかし、道徳は愛によって育まれ、良心によって保持される。ヨーロッパでは、政治権力は個人の内面に干渉しないとする思想・信条の自由に始まり、政治的・経済的自由が擁護・確立されていった。しかし、法は最低の道徳である。道徳があってこそ、法の秩序が保たれる。道徳なき指導者が権力を振るえば、放恣や暴政が横行する。ロベスピエールやスターリン、ヒトラーがそれである。
 それゆえ、私は、カレルギーが自由と平等だけでなく、道徳が必要だと打ち出したことを評価する。しかし、カレルギーは自由が不自由を生み、平等が不平等を生むという逆説には気づいていない。自由主義の背後にある権力と富への欲望、全体主義の背後にある権威への服従と融合には、解明の手を伸ばしていない。そして鳩山由紀夫氏は、カレルギーの友愛を自ら考察することなく、「自立と共生の原理」に置き換えただけなのである。

 次回に続く。
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友愛を捨てて、日本に返れ14

2009-11-23 08:43:06 | 時事
●利己でも利他でもなく共存共栄

 人間の存在は、単に「ある」ということではない。人間は、生きて存在する。存在論的には共同存在的であり、かつ共有生命的である。共同存在的・共有生命的な人間には、利己的な面がある。それは、自己の保存のために必要な機能である。しかし、人間には同時に利他的な面がある。それは集団の維持・繁栄のために必要な機能である。利己的になりすぎると、他者否定・他者犠牲となる。利他的になりすぎると自己否定・自己犠牲となる。利己的・利他的のどちらに偏りすぎても、自他のどちらかが成り立たない。
 人は、家族において、親子・夫婦・兄弟・祖孫が共に生き、共に栄える関係にある。その関係は、利己・利他の一致による共存共栄の関係である。この関係が、人間の社会的関係の原型である。自他一如の共存共栄の道こそ、人間の共同存在的・共有生命的な本質を実現するものである。
 鳩山氏は「自らの運命を自ら決定する権利をもち、またその選択の結果に責任を負う義務があるという『個の自立』の原理と同時に、そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働するという『他との共生』の原理を重視したい」と述べる。
 私は、こうした鳩山氏のいう「自立と共生の原理」は、アトム的原子的な個人の間では成り立たず、親子・夫婦・兄弟・祖孫の家族的生命的な関係でこそ成り立つ原理だと考える。近代西洋の思想は、その関係から個人を切り離して抽象し、抽象的な個人の集合として社会をとらえるという二重の誤りを犯している。そうした誤った人間観から生まれたのが「友愛」という理念である。それゆえ、「友愛」は、人間の生命的な本質から外れた個人主義的な思想である。
 「自立」とは、自立していない状態から「自立」することを言う。いかなる個人も、はじめから「自立」した存在として、存在するのではない。誰しも誰かの子として、その生命を分かち与えられて、この世に生まれる。そして、生命の源であり分身のもとである親に育ててもらって、成長し、自我の意識にめざめ、親から自立する。「自立」の原型は、親子関係における子どもの親からの自立にある。
 しかし、個人は、男であれ、女であれ、自己だけでは、生命の機能が完結しない。異性と出会い、愛し合い、子どもを生み育てることによってのみ、超個体的に生命を維持・発展させることができる。両性の生命が交接し、合体して初めて、新しい生命が生まれ、種の生命が維持される。また父母が調和・協力して子どもを守り育てるところに、生命と文化が世代を通じて継承される。個人がみな「自立」しているだけでは、その集団は滅ぶ。そこに「共生」の必要性がある。「共生」とは、共に生きることである。生命を共有し、協同的に生活すること、すなわち、共同存在的・共有生命的に生活することである。その「共生」の原型は、夫婦関係における男女の共生にある。
 鳩山氏の「友愛」という理念は、個人を抽象的・原子的にとらえているために、生きた人間の家族的・生命的な関係における「自立と共生」を把握することができていない。この根本のところの把握ができていないから、社会一般ないし国際社会における「自立と共生」についても、観念的な理解しかできないのである。

●家族構造が生み出す価値と「友愛」

 私は、先に書いたように、人間を家族的生命的な関係において、生きて存在するものととらえる。このような観点から、近代的社会の下部構造は、生産関係ではなく、家族であることを明らかにしたエマニュエル・トッドの所論に注目している。トッドは、ヨーロッパの社会に人類学的基底と彼が呼ぶものを見出した。その基底とは、家族である。
 トッドによれば、ヨーロッパの家族には、主に四つの型がある。絶対核家族、平等主義核家族、直系家族、共同体家族である。これらの家族型はそれぞれ親子・兄弟の関係が違う。財産の相続の決定の仕方や結婚後の同居・別居、外婚・内婚というあり方が違うのである。そこから親子関係における権威と自由、兄弟関係における平等と不平等という二項対立の価値観が出てくる。識字化と脱宗教化による近代化が進む中で、宗教の代替物として発達したイデオロギーにも、こうした家族構造に基づく価値が表現されている。ヨーロッパは一律ではなく、家族構造の多様性に基づく文化の多様性を持っており、ヨーロッパの統合はかえってその文化的な違いが明らかになって、うまくいかないだろう。大まかに言うと、こういうことをトッドは説いており、大著「新ヨーロッパ大全」(藤原書店)で詳細に論述している。
 トッドによれば、家族構造に基づく価値の中に、自由と平等がある。自由と平等は、近代になって初めて現れたのではなく、もともと絶対核家族では自由が、平等主義家族では自由と平等が価値となっていた。それらの価値が近代化の中で、自由主義や平等主義として表現されたものである。トッドの国・フランスでは、北フランス、パリ盆地が平等主義核家族が支配的な地域である。ここではもともと自由と平等が家族構造から来る価値だった。それらの価値が追求されたのが、フランス革命だった。
 このように、人間がいのちのつながりによって結ばれている家族という集団は、親子・兄弟の関係のあり方によって、異なる価値観を生み出し、その価値観が近代的社会においてもイデオロギーの多様性として現れている。鳩山氏は、ヨーロッパの思想からフランス革命とカレルギーを結ぶ「友愛」という理念を取り出しているが、「友愛」もまた家族構造に基づく諸価値との関係の中で、理解する必要があるのである。

 次回に続く。

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トッドの人口学・国際論19

2009-11-21 06:29:13 | 文明
●シオニズム抜きでは論じられない

 イスラエル=ユダヤ論については、もう一つ重要な点がある。それは、シオニズムの克服とユダヤ文明の脱宗教化の可能性である。その点について、次に書く。
 トッドは、「日本の選択」の刊行の翌年、「帝国以後」続編となる「文明の接近」を出した。本書でトッドがイスラエルについて述べているのは、一箇所のみである。イスラエルの人口増加政策とパレスチナ住民の人口増加政策に触れている。紛争の続くなか、多くの戦死者・犠牲者が出ている。双方の指導層は、生存のために、子供を多く生み育てるよう人民に奨励している。ここでトッドは、イスラエルに対して批判的ではあるが、シオニズム自体を論じてはいない。
 シオニズムは、西欧のナショナリズムの影響を受けたユダヤ人による宗教的なナショナリズムである。ユダヤ教に基づく聖地回帰・国家建設の運動である。シオニズムに基づくイスラエルの建国が、パレスチナ問題を生み出した。シオニズムという問題を抜きに、文明の「衝突」も、また「接近」も論じられない。シオニズム抜きでは、アメリカやイスラム文明を論じることができない、というのが私の見解である。
 まずアメリカについて、私見を述べると、トッドのアメリカ批判は鋭いが、デモクラシーへの脅威、世界の撹乱要因となっているのは、アメリカそのものというよりブッシュ子政権だったのであり、イスラエル・ロビー、ネオコン、その背後にいるロスチャイルド家やロックフェラー家等だった。そして、彼らを結びつけている思想が、シオニズムなのである。
 またイスラム文明について、トッドは、イスラム原理主義は、移行期危機の表現であり、やがて沈静化すると予想する。しかし、イスラム原理主義は、単なる国内の改革運動ではない。イスラム諸国は、アメリカとイスラエルに反発している。原因には、パレスチナ問題がある。イスラム原理主義は、ムスリムによるシオニズムへの対抗であり、シオニズムと結合したアメリカニズムへの拒否である。それゆえ、私は、シオニズム抜きで、アメリカやイスラム文明を論じることはできず、文明の「衝突」も「接近」も論じられないと考える。

●シオニズムが沈静化するには

 ハンチントンは、西洋文明とイスラム文明の「衝突」を予測した。トッドはそれを「妄想」だと批判し、文明は「接近」すると反論する。私に言わせると、二人とも事態の核心を避けた発言をしている。20世紀半ば以後、西洋文明とイスラム文明の関係の核心には、ユダヤ文明とイスラム文明の「衝突」があるからである。
 そもそも中東の近現代史は、文明の衝突の歴史である。第1次世界大戦は、イスラム文明の中核国家だったオスマン・トルコ帝国と、西洋文明諸国の戦いが拡大したものだった。瀕死のトルコを見て、イギリスとフランスは中東を分割した。イギリスは、三枚舌外交で、アラブ諸国に告げずに、イスラエルの建国をユダヤ人に約束した。イスラエルの出現は、中東にユダヤ文明とイスラム文明の衝突を加えた。以後、半世紀以上にわたって、ユダヤ文明とイスラム文明は対立と抗争を続けている。
 米ソ冷戦期には、ユダヤ文明とイスラム文明の対立に、二大超大国が関与した。中東は、米ソがイデオロギーと実力を競う闘技場となった。冷戦下に四度の中東戦争が勃発している。冷戦終結後、最初の地域戦争となった湾岸戦争では、アメリカがイラクに勝利し、ペルシャ湾に軍隊を常駐させた。ソ連の崩壊後、唯一の超大国となったアメリカは、イスラエルとの同盟関係を強化した。私の見方では、イスラエルが自国の生存のために、アメリカを中東に深く引き込み、シオニズムをキリスト教徒の間に浸透することに成功したのである。とりわけ9・11とアメリカによるアフガン=イラク戦争は、アメリカ=イスラエル連合とイスラム・アラブ諸国の対立を先鋭化した。
 この関係を修復するには、トッドの言うように、イスラムの暴力の鎮静化やアメリカの脱帝国化が必要である。だが、それらだけでなく、シオニズムの沈静化が必要である。
 シオニズムが沈静化するためには、アメリカのユダヤ人がシオニズムの危険性を認識し、脱シオニズム化することが必要である。イスラエルという国家の存続は、その権利が保障されねばならない。しかし、同時にパレスチナの住民にも政治的権利が保障されねばならない。アメリカがイスラエルと一体化したような関係を改め、中東の和平、共存に積極的に取り組むことが望ましい。

 次回に続く。

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友愛を捨てて、日本に返れ13

2009-11-20 08:47:43 | 時事
●友愛は近代西洋的人間観に基づく

 私は、鳩山氏が唱える友愛に、日本の伝統・文化・国柄に根を持たない外来の思想に頼る安易さを感じる。鳩山氏は友愛を独自に「自立と共生の原理」と定義しているが、友愛の由来はフランス革命のスローガンであり、ヨーロッパ統合の思想である。友愛の政治は、フランス革命の思想に基づいて日本の民主化を徹底し、ヨーロッパ統合の事例に基づいて日本を地域統合に進める政治となるだろう。私は、友愛政治は日本の伝統・文化・国柄を損ない、日本を脱日本化する政治であると批判するものである。
 「友愛」は、教育勅語の「博愛」とは違い、ヨーロッパの理念であり、近代西洋的な人間観に基づく。「自由」「平等」も同様である。近代西洋的人間観は、「われ思う。故に我あり」と認識したデカルトに始まる。デカルト以後、近代西洋では、要素還元主義的な発想によるアトム的・原子的な個人を想定した思想が支配的になった。
 エマニュエル・トッドによると、絶対核家族が支配的なイギリス(イングランド等の中心地域)では、「自由」を価値とする。絶対核家族は、親子関係はトッドの言う意味で自由主義的であり、兄弟関係は不平等主義的である。「自由」を価値とするが、社会的な平等は追求しない。
 私見を述べると、こうしたイギリスで、アトム的・原子的な「個人」を原理とする個人主義が発達した。またその個人の権利の擁護・拡大を図る政治学的な意味での自由主義、個人の政治参加を実現するデモクラシーが発達した。
 トッドによれば、この「自由」という価値を共有するのが、北フランス、パリ盆地等である。この地域では、平等主義核家族が支配的である。平等主義核家族は、親子関係は自由主義的で兄弟関係は平等主義的である。「自由」だけでなく「平等」をも価値とする。イギリスは不平等主義的ゆえ君主制や身分制が維持され、フランスは平等主義的ゆえ共和制を実現しようとする革命が起こった。
 私見では、「自由」とともに「平等」もまたアトム的・原子的な「個人」の価値である。英仏では、「個人」の「自由」ないし「平等」が価値として追求された。またアトム的・原子的な個人の集合として社会をとらえ、そこから国家の発生を想定する社会契約説が発達した。ロックの社会契約説は、ルソーによって急進化した。フランス革命は、社会契約説を革命の理論とし、契約による国家を実現しようとした革命だった。
 わが国の日本国憲法は、GHQが極秘に作った英文がもとになっており、社会契約説の国家観に基づく憲法である。わが国の国柄とは全く違う国家観による憲法が、戦後の日本を変えてきている。またわが国は、直系家族が支配的な社会だが、都市化と農村共同体の解体、及び戦後アメリカの占領政策による民法の改正によって、平等主義的核家族が増加しつつある。それによって、直系家族的集団主義的な価値観が弱まり、核家族的個人主義的な価値観が強まる傾向となっている。
 なお、ヨーロッパには、直系家族や共同体家族が支配的な地域もあり、そこでは異なる価値観、異なる思想が発達した。本稿は「友愛」を論じるものゆえ、ヨーロッパの多様性は括弧に入れて、以下、論を続ける。

●「友愛=兄弟愛」は家族愛の一部に過ぎない

 さて、鳩山由紀夫氏は、祖父・一郎に習い、近代ヨーロッパの思想を模範として摂取している。フランス革命とカレルギーから友愛という理念を輸入し、それを日本で実現しようと図る。
 鳩山氏は「自らの運命を自ら決定する権利をもち、またその選択の結果に責任を負う義務があるという『個の自立』の原理と同時に、そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働するという『他との共生』の原理を重視したい」と述べる。
 ここに見られる「個」とは、近代西洋的人間観による個人主義から出てくる概念である。鳩山氏が信奉する友愛もまたそのような「個」の間の友愛である。
 それゆえ、友愛を説く政治は、個人主義を徹底し、「個の自立」を促して「自立した個」の「共生」を目指すことが政治目標となる。選択的夫婦別姓の導入や扶養控除・配偶者控除の廃止等の政策は、家庭における「個の自立」を追及する政策であり、夫婦や親子の関係を「個」の関係に還元する政策である。
 わが国の伝統的な人間観は、親子・夫婦・祖孫のいのちのつながりの中で個人をとらえてきた。これに対し、鳩山氏の友愛は、近代西洋的な人間観によるもので、日本独自の自生の思想ではない。私は、近代西洋的な人間観は人間の本質を正しく把握したものではないと考える。人間は、アトム的原子的な個人ではない。人は男女が結びついて夫婦となり、親があって子が生まれる。親の前には、先祖があり、子供も後には子孫が続く。こうした家族の関係は、人間の生命に基づくものであり、人間はこうした生命的家族的な関係においてのみ、個人として存在する。
 人間は集団的な動物であり、その基本的集団は家族である。家族は、生命を集団的に共有する共有生命的な単位集団である。家族という単位集団は、時間的には先祖や子孫へと、生命的に連なり、空間的には親族や地域共同体へと、社会的に広がる。その時間的・空間的かつ生命的・社会的な関係の中に、各個人が生きて存在する。個人は、こうした関係の中に、親を通じて生まれてきた。
 その親を共にする者が、兄弟である。兄弟は、父母から生まれた子供たちである。鳩山氏の友愛は、その兄弟の間の兄弟愛をもとにする。だが、兄弟愛の前には、親子の愛や夫婦の愛がある。また祖先と子孫の間の愛もある。兄弟愛は、こうした生命のつながりに基づく家族愛の一部である。人間の愛の原理とはいえない。

 次回に続く。

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友愛を捨てて、日本に返れ12

2009-11-18 09:31:02 | 時事
●「博愛」を使わず、「友愛」と訳した事情

 鳩山一郎は、カレルギーの著書「全体主義国家対人間」を翻訳する際、fraternite(フラテルニテ)を「博愛」ではなく、「友愛」と訳した。「博愛」は、戦前わが国の学校で教えられ、誰もが知っている言葉だった。それは、教育勅語に「博愛衆に及ぼし」という一節があるからである。私は、鳩山一郎は、教育勅語の「博愛」との違いを明瞭にするために「友愛」を使ったのだろうと考える。
 教育勅語は、戦前のわが国では、教育と道徳の指針となっていた。教育勅語は、父母への孝、夫婦の和、兄弟の友という家族愛に始まり、朋友の信を説いて、「博愛衆に及ぼし」と続く。博愛は、儒教の経典である「孝経」にある言葉で、「広く平等に愛すること」をいう。
 明治42年(1909)、日本国政府は教育勅語を外国語に訳して、各国政府に配布した。「博愛衆に及ぼし」の一節は、英訳では “extend your benevolence to all”、仏訳では “extendez votre bienveillance a tous”と訳された。博愛の訳語である benevolenceとbienveillanceは、ともに同じラテン語からきており、「善意、慈悲心」を意味する。
 鳩山氏が「友愛」と訳した「フラテルニテ」は、兄弟愛・同胞愛を意味する。教育勅語には兄弟愛に関係する「兄弟に友に」という一節もある。その一節は、英訳では“affectionate to your brothers and sisiters”、仏語では“freres affectionnes”とされた。affectionate と affectionne は、やはり元は同じ言葉から来ている。
 教育勅語の「博愛」は、戦前のわが国では、教科書に実話を揚げて教えられていた。教育によって「博愛」は日本人の精神の一部となっていた。日本人の間だけでなく、外国人にも仁愛を及ぼすべきことが、教えられていた。
 産経新聞の記者が鳩山由紀夫氏に首相へのぶらさがりインタビューで、「友愛」について質問した。そのやりとりが阿比留瑠比記者のブログ(平成21年6月2日)に掲載されている。

Q 鳩山氏は「友愛」を掲げているが、それを別の言葉で言うと「同志愛」と「博愛」、どちらの意味が近いか。友愛は本来、同志愛の意味が近いと思われるが
A まあ、博愛というほうが近いかもしれませんね。同志という言葉が今、必ずしも、適切な言葉ではないような気がしますが。まあ私は、フラタニティという意味も大好きではありますし、また博愛という意味も、大変大事な言葉だと。そのように思っておりますから、その両方を、ある意味でもっと国民のみなさんに広く知っていただくように努力したいと思います。

 この回答を見ると、鳩山氏は「フラテルニテ」や「友愛」「博愛」に関して、哲学的な考察をまったく行なっていないようである。「友愛」と「博愛」は、どちらのほうが「近いかも」とか、「両方を」とかいえるような類義語ではない。鳩山氏は、フランス革命の「友愛」もカレルギーの「友愛」も、自分の頭で検討せず、「友愛」も「博愛」も「愛」である、という程度の考えで使っているのではないか。また氏は、「博愛」は charite や bienveillance の訳語ではなく、儒教の伝統的な言葉であり、明治天皇が教育勅語に用いられた言葉であることも、よく認識していないのだろう。

●教育勅語の「博愛」ではなく、ヨーロッパの思想を導入

 戦前の尋常小学校の「修身」の教科書には、「博愛」という表題がつく単元が3種類あった。
 第一は、第3学年向け。幕末に紀伊の水夫虎吉が漂流してアメリカの捕鯨船に救助され、保護を受けて3年後に帰国できたという話。その話の後に、「知っている人も知らない人も博く愛するのが人間の道であります。いろいろ災難にあって困っている者を救うのはもちろん、たとい敵でも、負傷したり、病気になっりして苦しんでいる者を助けるのは、博愛の道です」(八木秀次監修「精選尋常小学修身書」の現代文訳、以下の引用も同じ)と書いてある。
 第二は、第4学年向け。イギリスの看護婦ナイチンゲールが、クリミヤ戦争に従軍し、傷病兵の看護に尽力した話。その話の後に、「日本人は昔から博愛の心の深い国民であります。」とあり、日露戦争の時、上村艦隊がウラジオストック艦隊と戦い、敵艦が沈没した際、溺れかかった約600名を救い上げた話が書かれている。
 第三は、第5学年向け。明治6年(1873)年、宮古島沖で座礁したドイツ商船の船員を島民が救助し、本国に帰してやったところ、これを喜んだドイツ皇帝ウィルヘルム1世が軍艦で同島に記念碑を運ばせて建立させた話。「その記念碑は、今もこの島に立っていて、人々の美しい心をたたえています」と書いている。
 戦前のわが国では、こうした「博愛」の単元を教える際、教育勅語の「博愛衆に及ぼし」を基に教えるべきことを、文部省は教師用指導書で指示している。「博愛」は、わが国の国民だけでなく、他国の国民にも及ぼすべきものということが、幼い子どもたちにしっかり教育されたのである。
 戦後、日本を占領したGHQは、教育勅語を教育から除去するように仕向けた。わが国の国会は、連合国軍の銃砲の下で、教育勅語の排除・失効を決議した。そういう時代に鳩山一郎は、カレルギーの掲げる「フラテルニテ」を「博愛」ではなく「友愛」と訳した。確かに「友愛」の方が原義の兄弟愛に近いのだが、「博愛」と訳すと、教育勅語の「博愛」と混同されることを避けようとしたのではないか。私は、鳩山一郎が、日本の伝統的な道徳、自生の理念ではなく、ヨーロッパ産の思想をもって、戦後の日本を変えようとしたと理解する。
 もし鳩山由紀夫氏が、「友愛」を普遍的な兄弟愛、人類愛の意味を込めて使っているなら、戦前の教科書に掲載された「博愛」の話を広め、その元にある教育勅語を顕彰すべきところなのである。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「教育勅語を復権しよう」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion02c.htm
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友愛を捨てて、日本に返れ11

2009-11-16 09:37:36 | 時事
●「友愛」は社会の構成原理になりえない

 クーデンホーフ=カレルギーは、邦題「自由と人生」の第12章「友愛革命」に、次のように書いている。「友愛主義の政治的必須条件は連邦組織であって、それは実に、個人から国家をつくり上げる有機的方法なのである。人間から宇宙に至る道は同心円を通じて導かれる。すなわち人間が家族をつくり、家族が自治体(コミューン)をつくり、自治体が郡(カントン)をつくり、郡が州(ステイト)をつくり、州が大陸をつくり、大陸が地球をつくり、地球が太陽系をつくり、太陽系が宇宙をつくり出すのである」と。
 カレルギーは、ここで「友愛」を、個人が家族を作り、家族が自治体・郡・州を、さらに大陸・地球・太陽系・宇宙をつくる有機的な原理に関係付けている。「友愛」は兄弟愛・同胞愛である。兄弟愛を家族・社会の構成の原理とする発想は、唯一神ヤーウェが人間を創造したとするキリスト教の創造説と、近代西洋における原子的アトム的で抽象的な個人の観念によるものだろう。
 だが、キリスト教においても、神が直接創造したのはアダムとイブのみであって、その後の人間はみな両親の生命から生まれきた。夫婦の愛があって子どもが生まれ、親子の愛があって子どもが育つ。兄弟から子どもは生まれない。子どもはただ両親からのみ生まれる。兄弟愛の前に、夫婦・親子の愛があるわけである。兄弟愛は、家族愛の一部に過ぎず、親子・夫婦・祖孫の愛を包含するものではない。そうした部分的な要素を拡大して、家族や社会の構成原理とすることには、無理がある。
 仮に兄弟愛を人間界の構成原理にしたとしても、友愛は人間のあいだの愛であって、大陸や地球・太陽系・宇宙には敷衍できない。もし愛を人間界以外の自然界にまで拡張するならば、その思想はロマン主義の思想となるだろう。
 鳩山氏は、こうしたカレルギーの「友愛」を批判的に考察していない。ただ祖父から家訓のように受け継ぎ、それを自分では「自立と共生の原理」と再定義している。そして、この原理を日本社会の人間関係、日本と世界の関係、人間と自然の関係にも当てはめるというのだが、もともと「友愛」が持っている限界を検討せずに、「自立と共生の原理」に置き換えて使い回しているのである。
 また、カレルギーは上記の引用で、「友愛主義の政治的必須条件は連邦組織」と言っているが、この考え方は、世界連邦の構想によるものである。彼にとって、ヨーロッパの統合は世界連邦を構成する5つのブロックのうちの一つを作ることだった。鳩山氏はそのことに触れない。もし「自立と共生の原理」を人類世界の構成原理として掲げるのであれば、世界連邦はその具体的形態とでも言えそうだが、鳩山氏はそのことにも触れない。

●「友愛」より「調和」こそ、根本理念にふさわしい。

 鳩山氏は自由が放恣になり、平等が悪平等になるという問題の解決のために、「友愛」を掲げる。私はそれらについてであれば、ヨーロッパの思想によらなくとも、取り組みができると思う。私は、カレルギーが人間界から自然界までを貫く原理のように考えた「友愛」は、「調和」という理念に置き換えられると考える。
 調和は、日本の文化が産み出した理念である。縄文時代から日本に自生した考え方で、聖徳太子によって「和をもって尊しとなす」という言葉に定着された。「和」は、わが国の国名として「大和(やまと)」として使われもする。「和風」と言えば、日本風を意味する。
 調和の理念は、日本文明史を通じてさらに発達し、江戸時代に熟成して、近代日本に受け継がれた。教育勅語では「夫婦相和し」と夫婦の間の徳目に「和」が挙げられたが、「和」は、家族・地域・企業・団体・社会等、広く人と人の調和を表す。また人と自然の関係にも、調和はあるべき状態を表す。このように、人と人、人と自然を貫く理念として、「調和」を理解することができる。
 私の見るところ、鳩山氏はわが国の固有の文化・伝統・国柄を、あまり深く理解してはいない。氏が依拠するのはフランス革命のスローガンであり、カレルギーの思想である。氏の「友愛」は、日本の文化・伝統・国柄に根を持たない。鳩山氏はわが国固有の価値を把握・体得していないから、価値を外来の思想に求めるのだろう。
 鳩山氏は「友愛」を「自立と共生の原理」と定義し、日本社会の人間関係、日本と世界の関係、人間と自然の関係にも当てはめようとする。しかし、元が「友愛」なのだから、人間界には適用できても、人間と自然の関係にまで広げるのは、無理がある。私は、「自立と共生の原理」は「調和」の理法に包摂されると考える。個と個、個と全の調和、部分と部分、部分と全体の調和である。こうした調和の実現された状態が「大和」であり、近代のわが国では共存共栄とも呼んできた。兄弟愛・同胞愛という限定的な原義を持つ「友愛」より、「調和」は、心身から家庭・社会・国家・文明、さらには自然にまで一貫した根本理念としてふさわしい。この点については、本稿では立ち入らない。関心のある方は、関連掲示をご参照願いたい。
 
 次回に続く。
 
関連掲示
・マイサイトの「和の精神」のページ
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind01.htm

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オバマ東京演説に注目する

2009-11-15 15:34:20 | 時事
 11月12日天皇陛下御即位20年をお祝いする奉祝行事が行なわれた。その翌日、オバマ米大統領が来日した。14日天皇、皇后両陛下は大統領を皇居・御所に招いて、ご昼餐(昼食会)を催された。大統領は両陛下に「お会いできてうれしいです。大変光栄です」と述べて何度もおじぎをしたという。握手をしながら深々と礼をする大統領の所作は、西洋式ではない。日本人の所作に見習ったのだろうか。私は単なる儀礼以上のもの、心を感じている。
 オバマ氏は平成21年1月の大統領就任以来、中国重視の姿勢を示してきた。日米同盟の重要性を口にしながらも、実際は中国優先の対応が目立つ。もともと日本への関心が薄く、政権の枢要部には親中派の政治家・財界人が多い。一方、わが国では9月に鳩山由紀夫政権が成立した。鳩山首相は日米地位協定の改定や米軍再編、在日米軍基地のあり方の見直しを打ち出し、また氏の論文がアメリカで反発と疑問を引き起こすなど、日米に隙間が生じた。いまや普天間基地の移設問題が、日米間の重大な懸案となっている。
 そうしたなか、オバマ大統領は13日鳩山首相と会談して、共同声明を発表した。続いて14日午前、都内のサントリーホールで演説を行なった。私は演説の内容に驚きを覚えた。大統領は「日米同盟が発展し未来に適応していく中で、対等かつ相互理解のパートナーシップの精神を維持するよう常に努力していく」として日米同盟の重要性を述べ、「米軍が世界で二つの戦争に従事している中にあっても、日本とアジアの安全保障へのわれわれの肩入れは揺るぎない」として日本とアジアの安全保障への取り組みに変わりはないことを強調した。
 その上で特に注目したいのは、オバマ氏が「私はハワイで生まれ、少年期をインドネシアで暮らした米国の大統領だ。環太平洋地域は私の世界観を形成してくれた」「私は米国初の『太平洋大統領』として、この太平洋国家が世界で極めて重要なこの地域においてわれわれの指導力を強化し持続させていくことを約束する」と述べたことである。オバマ大統領は、自分がアジア太平洋地域で生まれ育ったことを強調し、合衆国を「太平洋国家」と呼び、「太平洋大統領」と自称して、アジア太平洋地域に積極的に関与することを明言したのである。
 これは、稀代の演説の名手による日本とアジアに向けた巧みなリップサービスだろうか。それとも、オバマ政権のアジア太平洋地域に関する認識に変化が起こっているのだろうか。その点、私にはまだわからないが、ここで鳩山首相に望みたいことは、日米関係の重要性を真に理解し、日米関係を主軸としたアジア太平洋地域という構想に転換することである。東アジア共同体というアメリカ軽視の構想ではなく、アメリカを含むアジア太平洋地域の国際体制の整備への転換である。鳩山政権がそうした転換をせず、従来の反米媚中的な姿勢を続けていたら、アメリカが態度を硬化し、日米関係に亀裂が入る恐れがある。オバマ大統領の東京演説は、英知ある転換への貴重なチャンスとすべきメッセージだと思う。

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●産経新聞 平成21年11月14日

http://sankei.jp.msn.com/world/america/091114/amr0911142321018-n1.htm
オバマ演説を読む
2009.11.14 23:15

 オバマ米大統領が14日、東京・赤坂のサントリーホールで行った演説の要旨は次の通り。
  
日米同盟
 大統領就任直後から、われわれは結束の強化に努めてきた。2カ月後に日米同盟は50周年を迎える。アイゼンハワー大統領が日本の首相の隣に立ち、われわれは「対等と相互理解」に基づいた「不滅のパートナーシップ」を生み出していくと語った日だ。
 半世紀がたち、日米同盟は安全保障と繁栄の礎となってきた。日本は世界でより大きな役割を果たすようになり、イラク復興、「アフリカの角」(アフリカ東部)での海賊対策、アフガニスタンやパキスタンの国民への援助などに貢献してきた。日米同盟が発展し未来に適応していく中で、アイゼンハワー大統領がずっと前に述べた、対等かつ相互理解のパートナーシップの精神を維持するよう常に努力していく。
  
米国は大平洋国家
 大西洋沿いの港と町の連なりで米国は始まったかもしれないが、何世代にもわたって太平洋国家でもあった。アジアと米国はこの偉大なる大洋で切り離されているのではない。われわれはこの大洋で結びついているのだ。私はハワイで生まれ、少年期をインドネシアで暮らした米国の大統領だ。環太平洋地域は私の世界観を形成してくれた。
 これら(日米、米韓、米豪など)の同盟は、この地域の国々や諸国民が機会や繁栄を追求できるよう安全保障と安定の基盤を提供し続けている。米軍が世界で二つの戦争に従事している中にあっても、日本とアジアの安全保障へのわれわれの肩入れは揺るぎない。
  
対中関係
 米国が中国の台頭をどう見ているのか疑問を感じる人が多くいることを知っている。米国は中国の封じ込めを求めてはいないし、中国との関係の深化が(日米)二国間の同盟を弱めることも意味しない。それどころか、強力で繁栄した中国の台頭は、国際社会の力の源泉とも成り得る。だからこそ、われわれは戦略、経済対話を深めるよう努め、双方の軍の意思疎通も向上させる。

アジア地域
 アジア太平洋経済協力会議(APEC)は地域間の通商と繁栄を促進し続ける。東南アジア諸国連合(ASEAN)は東南アジア地域の対話、協調、安全保障の触媒であり続けるだろうし、ASEAN諸国の指導者10人全員と面会する初の米国大統領となるのを楽しみにしている。
  
経済・環境問題
 われわれは今、経済回復間近であり、その持続を可能にしなければならない。世界規模の景気後退に至らしめた、にわか景気と不況のサイクルに戻るわけにはいかない。均衡を失った発展へと導いた政策を継続することはできない。
 米国はこの10カ月間で、気候変動に関する取り組みを近来では例のないほど講じてきた。最新の科学を取り入れ、新たなエネルギーに投資し、エネルギー消費効率基準を定め、新たな協力関係を結び、国際的な環境の交渉に関与してきた。コペンハーゲン(気候変動枠組み条約第15回締結国会議)での成功が容易だという幻想は抱いていないが、前進への道のりは明らかだ。すべての国が責任を受け入れなければならない。
  
核なき世界
 (演説したチェコの)プラハでは、核兵器廃絶に向けた米国の取り組みを誓約し、この目標に到達するための包括的な課題を設定した。日本が(米国の)この試みに加わったことは喜ばしい。これらの兵器が何をもたらすかを地球上で最も良く知る両国だからだ。われわれはともに核兵器のない未来を追求しなければならない。
 これはわれわれ共通の安全の基礎であり、共通の人道的試練だ。こうした兵器が存在する限り、米国は韓国や日本を含む同盟国の防衛を保証する強力かつ効果的な核抑止力を維持する。しかし、この地域で核武装競争がエスカレートすれば、長年の発展と繁栄を損なうことになると認識しなければならない。

北朝鮮
 数十年にわたり、北朝鮮は核兵器の追求をはじめとする対立と挑発の道を選んできた。この道が導く先は明らかだ。われわれは平壌(北朝鮮政府)に対する制裁を強化した。
 大量破壊兵器に関する活動を制限するため、最も徹底した国連安全保障理事会決議を採択した。脅しには屈しないし、言葉だけではなく、行動を通じて明白なメッセージを発信していく。北朝鮮が国際的義務の履行を拒否すれば、その安全保障は弱まりこそすれ強まりはしない。
 北朝鮮が未来を実現する道は明白だ。6カ国協議に復帰、核拡散防止条約(NPT)への復帰を含む従来の誓約を順守し、完全かつ検証可能な朝鮮半島非核化を行うことだ。近隣諸国との関係正常化も、拉致被害者について日本の家族が完全な説明を受けて初めて可能になる。これらの措置はいずれも、北朝鮮政府が国民の生活向上と国際社会への参加に関心があるならば、取り得るものだ。
  
ミャンマー
 長年にわたる米国の制裁や他国の関与政策でも、ビルマ(ミャンマー)国民の生活向上には至らなかった。われわれは今、指導部と直接対話し、民主的な改革への具体的取り組みがない限り現在の制裁を続けるとはっきり伝えている。われわれは、統一され、平和で繁栄し、民主的なビルマを支持する。ビルマがこの方向に進めば、米国との関係改善も可能となる。
 取られるべき明確な対応として、アウン・サン・スー・チーさんを含む政治犯の無条件の釈放、少数民族との紛争終結、将来構想を分かち合う政府と野党、少数民族との対話がある。
  
米国の決意
 こうした手段を通じて、米国はアジア・太平洋地域での繁栄と安全、人間の尊厳を向上させていく。この地域での取り組みの中で最も重要となる日本との緊密な友好関係を通じ、(そして)太平洋国家として、この地域にも育まれた大統領によって、それを行う。
 私は米国初の「太平洋大統領」として、この太平洋国家が世界で極めて重要なこの地域においてわれわれの指導力を強化し持続させていくことを約束する。
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