ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

キリスト教154~教皇ピウス11世、12世がナチスに協力

2019-01-31 10:13:15 | 心と宗教
●教皇ピウス11世、12世がナチスに協力

 1933年1月、ドイツで国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首アドルフ・ヒトラーが政権を取ると、ローマ教皇ピウス11世は、「ドイツ政府元首ヒトラーが共産主義ならびに虚無主義とあくまで戦う決意の人であることを認め、喜びにたえない」と述べた。以後、ヴァチカンはヒトラーと結びついた。そして、ナチスによるユダヤ人迫害を黙認した。
 カトリック教会は、最初からナチスを支持していたのではなかった。
 ドイツ中央党は、1880年代から1910年代はじめにかけて、帝国議会で不動の第1党だった。第1次世界大戦の敗戦で帝政が倒れ、ヴァイマル共和国が樹立された後は、社会民主党と並んで最も多くの首相を輩出した。ヒトラーが政権を取るまで、歴代政権において主導的な役割を果たした。
 ドイツ・カトリック司教団の司教たちは、中央党の役職に就いていた。司教たちは、信徒に対して、選挙では中央党を選ぶように薦めた。ドイツ・カトリック司教団は、まだ新興の少数党だったナチスの党員には、秘蹟を授けてはならないとするなど、反ナチス的な姿勢を取っていた。
 しかし、1931年にピウス11世が出した回勅「クワドラジェシモ・アンノ」がドイツの司教に大きな影響を与えた。回勅は、行きすぎた個人主義による自由放任経済とマルクス主義による統制経済の双方を批判し、職能身分が織りなす有機体的社会への再編を構想したものだった。この回勅に感銘を受けたのは、中央党党首のフランツ・フォン・パーペンだった。パーペンは、1932年6月にパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の任命を受けて首相に就任した。
 これを機に、カトリック勢力とナチスは接近した。1933年1月にヒトラー内閣が成立した背後には、パーペンの助力があったとされる。パーペン自身、ヒトラーのもとで副首相になった。
 その2ヶ月後の3月に、教皇ピウス11世は、枢機卿会議でヒトラー政権を認める見解を表明した。同日、ドイツ中央党は授権法法案に賛成し、ヒトラーが率いる政府に、ワイマール憲法に拘束されない無制限の立法権を授けた。これによって、ワイマール憲法は空無化した。その数日後、ドイツ・カトリック司教団は、それまでカトリック教徒にナチスの党員になることを禁止していた指示を撤回した。これによって、ナチスは、人口の約3分の1を占めるカトリック教徒という最大の支持層を獲得した。そして、33年の5月から7月にかけて、一気に労働組合の禁止、社会民主党の活動禁止、ナチスを除く全政党の解散新政党の禁止を強行し、一党独裁を完成させた。
 カトリック教会は、こうしたナチスとの間で、33年7月20日に、政教条約(コンコルダート)を結んだ。協定により、ナチスは国内のカトリック教徒を弾圧しないことを保証し、カトリック教会は聖職者と宗教を政治と分離することに同意した。そして教皇ピウス11世は、ヒトラー政権をドイツのために祝福するとともに、聖職者たちに同政権に忠誠を誓うことを命じた。カトリックの総本山であるヴァチカン市国は、国際社会の中でナチ政権を公認した最初の国家となった。ヴァチカンとの間で政教条約を結んだことによって、ヒトラーは国際的にナチスの評価を高めることに成功した。
 条約成立の2日後、ヒトラーはナチ党宛の書簡に、次のように書いた。「ヴァチカンが新しいドイツ条約を結んだことは、カトリック教会による国家社会主義国家の承認を意味する。この条約によって、ナチズムが反宗教的であるという主張がまさに偽りであることが全世界の前に明らかになった」と。ローマ教皇庁は、ナチスを信用して、政教条約を結んだ。だが、ヒトラーは条約を守らなかった。条約締結の3年後、36年にはカトリック教会の青年運動・労働運動を禁止し、ナチ党外務局のトップであるアルフレート・ローゼンベルクの指揮のもとに、本格的なカトリック教徒狩りを開始した。
 こうした条約違反の動きに対して、かつてナチスを称賛したピウス11世は、態度を改めた。1937年に「ミット・ブレンダー・ゾルゲ」と題した回勅を出し、ドイツにおけるカトリック教会の悲惨な状況を述べ、ナチスを新しい異教として非難した。人種・民族・国家の神聖化は最もひどい異端への退行であるとし、ゲルマン民族主義的、ドイツ風キリスト教の信仰表象はすべてが野蛮な邪説であると断定した。これに対し、ナチスは国内の弾圧を強めた。回勅を印刷した印刷所を没収し、聖職者・修道士を次々に裁判にかけ、高位の聖職者を強制収容所に送った。
 1939年2月、ピウス11世が死去し、翌月、新しい教皇が就任した。新教皇ピウス12世は、かつて教皇庁の外交担当としてコンコルダートの締結を主導した人物だった。
 同年9月、ヒトラーはポーランドに電撃的に侵攻し、それによって第2次世界大戦が繰り広げられた。この時、ポーランドは、ナチス・ドイツとともに、無神論的共産主義のソ連によっても、国土を略奪された。大戦の途中から、アウシュビッツ等に強制収容所が設けられ、ユダヤ人迫害の舞台ともなった。ポーランドは、10世紀の建国以来キリスト教を受容し、西欧カトリック文化圏に属してきた。中世には、カトリック国家の東の雄として、ヨーロッパ有数の大国となった。その繁栄を支えたラテン・アルファベットや石造建築、ルネッサンス文化などは、すべてカトリック信仰とともに伝わったものだった。近代に入ってからも、上流貴族は好んでラテン語やフランス語を話し、子弟をフランスに留学させるなど、西欧カトリック諸国との文化交流が盛んだった。そうした国が、ナチス・ドイツに蹂躙されていることに対して、カトリックの総本山、ヴァチカンはヒトラーを非難しなかった。
 ナチス・ドイツの勢いは猛烈で、そのほかの周辺国も次々に征服された。40年6月には、パリが占領され、カトリック大国のフランスの北半分がナチスの支配下に置かれた。
 こうした中で、41年6月、ナチス・ドイツがソ連に侵攻すると、ピウス12世はこの侵攻を全面的には支持しないが、「キリスト教文化の基盤をまもる高潔で勇気ある行為」と評価した。その後も、その前も、ピウス12世は、ナチスのユダヤ人迫害を非難する声明を出すことがなかった。ドイツのユダヤ人問題に関与し、ユダヤ人の生命を救おうという姿勢は、一切示されなかった。教皇庁の黙認のなかで、ナチスによるユダヤ人虐殺は、大戦前から行われ、大戦中はさらに激化していった。ドイツ人のカトリック教徒で、ユダヤ人迫害を行った者が多数いた。教皇庁が迫害をしてはならないと信徒に教え諭すことはないのだから、ナチス政権の命令に従うことに良心の呵責は起きなかったと言っても過言ではないだろう。
 もっともドイツのカトリック教徒全員がナチスに無批判だったわけではない。ユダヤ人を救助したカトリック聖職者もおり、彼らの必死の救助活動のおかげで助かったユダヤ人もいたと伝えられる。ただし、救助救助活動をしたのは下級聖職者で、又その活動は個人的な物だった。上級聖職者は沈黙を守り続けた。それは、教皇の態度に従ったものである。

 次回に続く。
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キリスト教153~カトリックへの弾圧:ビスマルクの文化闘争

2019-01-29 13:03:33 | 心と宗教
●カトリックへの弾圧~ビスマルクの文化闘争

 ドイツもまたイタリアと同じく近代化の後進地域にあって、統一を目指した。ローマ教皇ピウス9世は、イタリア統一の際にはヴァチカンに幽閉され、イタリア王国と断交状態になったが、ドイツに関してはビスマルクの文化闘争に対抗してドイツ帝国内の勢力を保った。
 ドイツ統一を主導したのは、プロイセン王国だった。1862年に同国の首相となったオットー・フォン・ビスマルクは、オーストリアを除く統一を目指して鉄血政策を進めた。鉄血政策とは、鉄つまり鉄製の武器と、血つまり兵士の血による軍備増強をもって、ドイツ統一を進めるものてある。
1870年プロイセンの強大化を恐れたフランスのナポレオン3世が、普仏戦争を起こした。しかし、プロイセン王国を盟主とするドイツ諸邦はフランスを打ち破り、これをきっかけに連邦国家、ドイツ帝国を樹立した。プロイセン首相に加えてドイツ帝国首相となったビスマルクは、工業化による経済成長を図って近代化改革を行った。その一環としてカトリックを弾圧する文化闘争を行った。その詳細は、後に述べる。
 ビスマルクは、社会主義者に対しては、社会主義者鎮圧法によって厳しい弾圧を加えた。その一方、労働者が社会主義政党に流れるのを防ぐため、世界初の全国民強制加入の社会保険制度を創出した。
 しかし、88年に若いヴィルヘルム2世がドイツ皇帝兼プロイセン国王に即位すると、ビスマルクは外交・内政で皇帝と意見が衝突し、90年に首相を解任された。その後、98年に死去した。
ビスマルクが行った政策のうち、カトリック教会に対する文化闘争について概要を記す。
 カトリック教徒は、ドイツの南部・西南部、東方のポーランドに多く、反プロイセン的な分邦主義ないし分離主義と結びつきやすかった。またカトリックの多いオーストリアやフランスと結びつく恐れもあった。
 ビスマルクは、1871年から78年にかけて、カトリック教会の政治的・社会的影響力をそぐための政策を行った。このカトリック弾圧政策を文化闘争という。
 1870年に教皇ピウス9世は、第1ヴァチカン公会議を通じて教皇不可謬性を教義として発布した。その直後にイタリア王国軍によってヴァチカンに幽閉されたが、教皇は巻き返しを図った。
1871年に新教国プロイセンが主導するドイツ帝国が樹立されると、カトリック勢力はこれに不満を持ち、1871年にドイツ中央党を設立して、帝国議会で第2党となり、中央政府と対立した。
 これに対し、ビスマルクは71年に、聖職者が説教において政治を論じた場合に2年間の禁固刑を課す説教壇条項を刑法に付加した。72年にイエズス会を国外追放処分にした。また同年ヴァチカンと断交した。73~74年には五月法と呼ばれる一連の政教分離法令を公布して、聖職者への管理を強めた。しかし、ピウス9世の支援を受けた中央党の抵抗に遭い、ビスマルクの弾圧政策は効果が上がらなかった。74年の帝国議会選挙では、逆に中央党の議席が倍増する有様だった。ビスマルクは社会主義勢力の台頭や自由主義左派の反発に対抗するため、中央党との関係改善へと方針を転換した。
 78年に教皇ピウス9世が死去し、ドイツと対話する意思のあるレオ13世が即位すると、教皇とビスマルクの和解が成った。それによって、文化闘争は終了し、1887年までには大半のカトリック弾圧法令が廃止された。
 ビスマルクの文化闘争は、失敗に終わった。逆に言えば、カトリック勢力はビスマルクの弾圧政策に耐え、逆に勢力を伸ばした。
 ドイツ帝国は、神聖ローマ帝国に対して第2帝国と称した。第2帝国で勢力を保ったカトリック勢力は、その後に登場したナチスに協力し、ナチス・ドイツによる第3帝国の発展を支えることになった。

 次回に続く。
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性急な対露交渉は後世に禍根を残す~袴田茂樹氏

2019-01-28 07:09:15 | 国際関係
 1月22日にモスクワで日露首脳会談が行われましたが、領土交渉には何の進展も見られませんでした。私にとっては、残念ながら予想通りです。昨年9月12日、プーチン大統領が日本側に「年末までに前提条件なしで平和条約を締結しよう」と提案したのを受けて、わが国のメディアの多くは、安倍首相は2島返還論に舵を切ったと観測し、今回の首脳会談での成果を国民に期待させる報道をしました。しかし、プーチンのその後の発言や最近のラブロフ外相の発言等を冷静に理解すれば、このような報道は、あまりに甘いと言わざるを得ませんでした。
 昨年9月17日、新潟県立大学教授の袴田茂樹氏は、産経新聞の記事に大略次のように書きました。
 「ロシアのフォーラムでプーチン大統領から、一切の条件なしで年内に平和条約を締結し、領土問題などはその後討議との提案があった」。この提案は「四島の帰属問題を解決して平和条約を締結」という、プーチン氏自身がかつて認め、日本が今も忠実に守ろうとしている日露両国の合意を真っ向から否定するものだ。この合意は、彼が署名した2001年の「イルクーツク声明」、03年の「日露行動計画」に明記された東京宣言の基本命題だ」。「今回のプーチン氏の提案は、四島の帰属問題解決という平和条約締結の前提条件を、ひいては過去の条約交渉を全否定するもので、現実には領土問題解決の意思はない、と言ったに等しい」。「これまで日露が平和条約というときは、北方領土問題を意味していた」。「しかし今回はあえて「一切の条件なしで」と述べて、平和条約の意味を全く変えた。結局、領土問題解決の意思はない、という意味ではプーチン氏の態度は一貫している」「彼の本音をしっかり理解し、幻想を捨ててほしい」と。
 私は、当時袴田氏の見方が妥当だと考え、10月16日私見を交えて、ブログで紹介しました。
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/c4c8160098dfecce206bd6fda675f565

 ところが、11月14日安倍首相は、プーチン大統領と会談し、昭和31年(1956年)の日ソ共同宣言を基礎に今後3年以内の平和条約締結を目指すことで合意しました。これは、東京宣言を外して、日ソ共同宣言のみを基礎として交渉することにしたものです。この合意について、私は昨年12月21日のブログで取り上げ、「56年宣言」を基礎とする交渉は危うい、四島返還の原則を変えてはいけないという観点から次のように書きました。
 「首脳会談後、プーチン大統領は、ロシアでの記者会見で、共同宣言で旧ソ連が引き渡すとした歯舞群島と色丹島について、引き渡し後の主権は協議の対象だと発言しました。これは、詭弁です。ロシアは北方四島を不法占拠しているのであって、もともと主権は日本にあります。引き渡しが行われれば、従来保有している主権を確認することになるのであって、協議の余地はありません。あたかもロシアが所有者で、ロシアが所有権を保ったまま、日本が借地するような状態になったならば、それを領土の返還とは言いません。
 次に、北方四島のうち、歯舞・色丹は領土の7%にすぎません。2島返還といっても、その時点で93%はロシアに占拠されているわけですから、4分の2が戻るのではありません。領海については、2島返還によって20%が戻ることになりますが、80%の海はロシアに占拠されている状態となります。ただし、もし2島の引き渡しはするが、主権は別問題だという詭弁に乗せられて、逆に事実上ロシアが主権を確保するような状態になれば、領土は引き渡されても、領海は戻ってこないことになります。世界三大漁場の一つといわれるこの海域における漁業権や資源に関する権利等は、戻ってこないことになります。領土とともに領海に関する主権の確認が欠かせません」と。
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/1b096473284608912f29f4cde1c33774

 今回の首脳会談の結果は、袴田氏や私などが見てきたことが、残念ながらあたっていたことを示しています。袴田氏は1月25日の産経の記事にて、「今の官邸の対露政策は、露ペースに巻き込まれ過ぎている」と指摘しました。そして「日ソ共同宣言のみを基礎にして平和条約交渉を加速させるという露との合意」は「これまでの日本政府の長年の血の滲(にじ)むような対露交渉の成果を自ら否定するものではないか」と述べています。そして、次のような見解を明らかにしています。
 「ある新聞は「首相、実質2島に絞り交渉」との見出しも付けた。私は2島返還さえもプーチン政権下では極めて可能性が小さいと判断している。したがって「2島プラスα」論とか「2島プラス継続協議」論でさえも、これまでのプーチン発言から考えると、現実性はないと考えている」。「私は、2島にのみ焦点を当てた「成果」は、主権国家としての日本歴史の将来に禍根を残すと懸念している」。「日本が国際的に、主権侵害問題に真剣に対応する国と見なされるか否かが、国際政治的にはきわめて重要なのである」。「日ソ共同宣言だけ認める人の多くは、国後、択捉の返還は全く現実性がないからだと述べる。私もプーチン政権下では現実性はないと考える。しかしそれは現状を基礎とした発想だ。激動する国際情勢の中において20年、50年、100年先もこの問題に関する情勢が変化しないと誰が言い得るのか。国家主権の問題とは、まさにそのように長期の対応を必要とする問題なのである。「せいては事を仕損じる」を忘れるべきでない」と。

 私見を述べると「20年、50年、100年先も」という年数の予想の適否は別として、激動する国際情勢において、今後、北方領土をめぐる情勢が変化する可能性があることを踏まえて、長期的に対応する必要があるという氏の見解に同意します。安倍首相が、今回ロシアとの平和条約の早期締結を目指しているのは、米・中・韓・朝の関係が深刻化し、今後、わが国が現在以上に厳しい安全保障上の環境におかれる可能性があり、中国とロシアの提携が強化されることは何とか避けたいという思いがあるものと推測されます。しかし、仮にわが国がロシアと「引き分け」のような形で領土交渉に一定の決着をつけ、経済協力を拡大したところで、プーチン政権のしたたかな外交・軍事戦略は変わらないと見るべきだと思います。むしろ、ロシアとの領土交渉で安易な妥協をすることは、日本が国家主権に対して消極的だと見られて、韓国との竹島問題に重大な影響を与え、さらに尖閣諸島を「核心的利益」と主張する中国への対応においても大きなマイナスになると思います。ロシアとの拙速な交渉は中韓にますます日本を侮らせ、後世に禍根を残すと懸念します。
 以下は、袴田氏の記事の全文。

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●産経新聞 平成31年1月25日

https://special.sankei.com/f/seiron/article/20190125/0001.html
性急な対露交渉は禍根を残す 新潟県立大学教授・袴田茂樹
2019.1.25

 1月22日にモスクワで日露首脳会談が行われ、領土交渉の行方に関心が集まった。深夜にテレビ放送された共同記者発表の様子を見ただけで、拍子抜けするほど成果らしきものは感じられなかった。
 安倍晋三首相の発言や表情からは、困難な交渉で確実に成果をあげたという満足感や高揚感、喜びの感情はくみ取れなかった。またプーチン大統領からも、一応首脳会談は行いましたよ、といった雰囲気しか感じなかった。首相や大統領の共同記者発表文や野上浩太郎官房副長官のブリーフを熟読しても、この印象は変わらない。

≪「成果」なしは却って良かった≫
 ただ私は率直に言うと、今の両国の交渉状況の下では、変な「成果」をあげるよりも、成果らしきものが何もなかったことは、却(かえ)って良かったとさえ思っている。その理由は、安倍首相の平和条約締結に対する、歴代のどの首相よりも強い熱意には大いに敬意を払うものの、今の官邸の対露政策は、露ペースに巻き込まれ過ぎていると懸念するからだ。
 露ペースとは、これまでは日露(日ソ)で合意していた日ソ共同宣言と東京宣言を基礎にした領土交渉を-そのことを明記した2001年のイルクーツク声明と03年の日露行動計画にプーチン大統領も署名している-昨年11月の首脳会談で、東京宣言を外して、日ソ共同宣言のみを基礎として交渉すると合意したことを指す。
 現在の露指導部は、「4島の帰属問題を解決して平和条約を締結する」と両国首脳が合意した東京宣言を、対日政策における最大の失敗だと悔やんでいる。換言すれば、日本の長年の平和条約交渉の最大の成果の一つでもある。
 その理由は、東京宣言は4島の帰属先を明記していないという点で中立的だが-つまり日本にとってもリスクがある-4島が未解決の領土問題であることを両国がはっきりと認めているからだ。プーチン氏は05年9月に初めて「第二次世界大戦の結果南クリール(北方四島)はロシア領となり国際法的にも認められている」と主張し始めた。これは明らかに東京宣言を否定する歴史の強引な修正だ。

≪血の滲む努力を否定するのか≫
 ちなみに、1998年11月の日露のモスクワ宣言のときもエリツィン大統領と小渕恵三首相は「国境画定委員会」を設立した。また、プーチン政権下の2002年3月にイワノフ外相は下院で、日露間には国際法的に認められた国境が存在しないことを認めていた。これらも、領土問題が未解決であることを露側が認めていたことを示す。プーチン氏はこれら日露両国がともに認めていた事実を、05年に否定した。
 1月14日の河野太郎外相とラブロフ外相の会談で後者が「第二次大戦の結果、南クリール諸島は露領になったことを日本が認めない限り、領土交渉の進展は期待できない」との強硬発言をした。これはプーチン氏による歴史の修正を忠実になぞるものである。ラブロフ氏が柔軟なプーチン路線に反して、対日強硬路線を遂行しているというのは明らかに誤解である。
 私が露ペースと呼んだ事態、つまり日ソ共同宣言のみを基礎にして平和条約交渉を加速させるという露との合意に首相官邸は合意したが、これはこれまでの日本政府の長年の血の滲(にじ)むような対露交渉の成果を自ら否定するものではないか。私が、成果らしきものが何もなかったのは却って良かったとさえ思っている、と述べた意味も読者にはご理解頂けると思う。

≪主権問題は長期の対応が必要≫
 ある新聞は「首相、実質2島に絞り交渉」との見出しも付けた。私は2島返還さえもプーチン政権下では極めて可能性が小さいと判断している。したがって「2島プラスα」論とか「2島プラス継続協議」論でさえも、これまでのプーチン発言から考えると、現実性はないと考えている。
 となると、東京宣言を無視して「日ソ共同宣言を基礎」にする限り、「成果」を得たというとすれば何か玉虫色の、つまり両国が自国に都合よく解釈できる曖昧な合意か「2島マイナスα」、あるいは単に日本の協力を引き出すためだけの日ソ共同宣言を基礎とした「交渉継続の合意」になる可能性が高い。
 私は、2島にのみ焦点を当てた「成果」は、主権国家としての日本歴史の将来に禍根を残すと懸念している。本音を言えば、交渉となる島の数は問題ではない。日本が国際的に、主権侵害問題に真剣に対応する国と見なされるか否かが、国際政治的にはきわめて重要なのである。
 日ソ共同宣言だけ認める人の多くは、国後、択捉の返還は全く現実性がないからだと述べる。私もプーチン政権下では現実性はないと考える。しかしそれは現状を基礎とした発想だ。激動する国際情勢の中において20年、50年、100年先もこの問題に関する情勢が変化しないと誰が言い得るのか。国家主権の問題とは、まさにそのように長期の対応を必要とする問題なのである。「せいては事を仕損じる」を忘れるべきでない。(新潟県立大学教授・袴田茂樹 はかまだ しげき)
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キリスト教152~イタリアの統一と教皇の幽閉

2019-01-26 09:35:05 | 心と宗教
●イタリアの統一と教皇の幽閉

 イタリアは、16世紀以降、地理上の発見に続く商業革命によって大きな影響を受けた。経済が沈降し、他国の干渉を受けた。そのため、近代国家としての統一が遅れた。
 イタリア統一運動の指導者、ガリバルディは、1860年に赤シャツ隊を組織し、両シチリア王国を征服して、サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上した。それによって、61年イタリアの国家統一を実現した。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、イタリア王国の初代国王となった。
 イタリア統一(リソルジメント)でも、フリーメイソンが活躍した。メイソンは1738年にカトリック教会から破門に処されたが、アメリカ独立革命やフランス市民革命で活躍した。その組織はイタリア半島にも広がった。イタリア統一の英雄ガリバルディは、フリーメイソンだった。彼は1872年にこう述べている。「われわれの最終目的は、カトリック信仰の絶滅だ。ユダヤ人がメシアを待望するように、この最終目的に同意する一人のメイソンの教皇を待ち望むのだ」と。
 教皇ピウス9世は、1869年12月に第1ヴァチカン公会議を召集し、教皇権の強化を図った。そして、70年7月18日に教皇首位説、教皇不可謬説を教義として発布した。ところが、その翌日普仏戦争が勃発した。それまでイタリア半島のローマを中心に残された教皇領は、フランスの援助を受けていた。そのフランスが9月1日プロイセンに敗北し、フランス軍が撤退した。この機を逃さず、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、無防備となったローマを占領した。71年、イタリア王国政府は、国土中央部に広がっていた教皇領をローマ市周辺に限定した。これによって中世以来存続したローマ教皇領は消滅した。また、ローマを正式にイタリア王国の首都とした。イタリアの歴史と地理の中心を占めるローマを併合することは、イタリア統一の悲願だった。ローマ併合で、イタリア統一は完成した。
 これに対し、ピウス9世は、自分は「ヴァチカンの囚人」であると宣言し、国王をはじめとするイタリア政府関係者を破門に処した。また様々な対抗措置を講じ、イタリア王国政府とヴァチカンは断交状態に陥った。こうした状態のまま、ピウス9世は78年に死去した。絶縁状態は、その後も半世紀以上、続いた。これをローマ問題という。

●カトリックがファシストとラテラノ協定

 イタリアは、第1次世界大戦では、途中から連合国側で参戦した。その点では戦勝国なのだが、戦後のイタリアは、インフレ、失業が蔓延し、共産主義運動が活発に行われていた。連合国間で約束していた領土の獲得はかなわず、それを不満とする群小の極右団体が結成された。そのうちの一つが、ベニート・ムッソリーニによるファシスト党である。
 ムッソリーニは、1922年にイタリア全土から4万人を動員して、ローマに進軍した。軍事的圧力によって内閣を倒したムッソリーニは、国王から首相に指名された。ファシスト政権は一党独裁体制を確立し、言論・裁判・労働組合を監督下に置き、総力戦を効果的に行うための総動員体制を日常化した。
 ムッソリーニは、最初イタリア社会党左派に属していた。社会主義から学んだものを、ナショナリズムに取り入れたのが、ファシズムである。ムッソリーニによって、民族社会主義ないし国家社会主義と呼ばれる思想・運動が始まり、「持たざる国」であるドイツや日本に影響を与えた。
 ファシスト政権は、1929年イタリア王国建国以来、絶縁状態にあったローマ教皇庁とラテラノ条約を結んで和解した。教皇ピウス11世が、ファシズムと共存する道を取ったのである。
 ラテラノ協定は、ローマ・カトリック教会をイタリアの唯一の国教とし、世界最小の独立国ヴァチカン市国を承認した。また、教会に属する権限と国家に属する権限との関係を規定した。この協定により、ローマ問題は解消された。協定の内容は、1947年のイタリア共和国憲法に基づき有効とされた。1985年以降は、政教条約(コンコルダート)方式に替わった。ローマ・カトリック教会は、イタリアのファシストと共存する道を取ったが、ドイツのナチスに対しても融和的な態度を取った。

 次回に続く。
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英国はEUから「合意なき離脱」の可能性高まる

2019-01-25 12:39:22 | 国際関係
 1月15日イギリス議会下院が、メイ首相のEU離脱協定案を否決しました。反対が7割近くという大差での歴史的敗北でした。しかも与党の議員が多数造反しました。英国内は意見が四分五裂し、一つにまとまる兆しが見えません。メイ首相が苦渋の修正案を出してかろうじて議会で賛同を得られたとしても、EU側に英国の主張を容れて譲歩する意思はありません。対立と混乱が深まるなか、「合意なき離脱(Hard Brexit)」となる可能性が高まっています。
 EUという超国家的組織、ユーロという共通通貨、宗教も文化も異なる外国人の大量受け入れ等、ヨーロッパ諸国が過去数十年間、行ってきた政策が生み出した現実です。国家と国民共同体を軽視し、観念的な理想と経済的な利益の追及を続けてきたことの結果でもあります。
 英国がEUから「合意なき離脱」に至った場合、英国が深刻な混迷に陥ることは必定です。わが国は英国に手を差し伸べ、経済面だけでなく、安全保障の面でも関係を深め、日英関係をインド太平洋の安全と繁栄に生かすとよいと思います。一方、英国の離脱によってEUの方も大きな損害を受けます。そこに中国がこれまで以上に深く食い込んでいくことを、わが国や米国は警戒しなけれならないと思います。
 もう一つ、英国のEU離脱問題の混乱について、私が想うのは、これまでヨーロッパ統合の根本的な推進力となってきたであろうロスチャイルド家の衰退です。イギリス、フランス、ドイツ、オランダ等を国家の枠を超えて結びつけてきたロスチャイルド家には、英国をEUに留まらせる力がなくなっており、ロスチャイルド家の本拠地である英国が国民投票によってEUから離脱するという道筋に入ってしまったということだと思います。そして、ロスチャイルド家は、もはやこの大衆の多数決による選択を巨大な富と情報と人脈の力を以てしても逆転できなくなっているのだと思います。
 以下は、報道のクリップ。

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●BBCニュース 平成31年1月16日
https://www.bbc.com/japanese/46886527?fbclid=IwAR1DlWu8VkvohRpIOM_uEDN6e0qJKahISngG1yTQ8cBQS2Ycn8ZVWsO2wsA

英下院、ブレグジット協定を歴史的大差で否決 内閣不信任案の採決へ
2019年01月16日

 英議会下院(定数650)は15日夜、イギリスの欧州連合(EU)離脱について英政府がEUとまとめた離脱条件の協定の承認採決を行い、432対202の大差でこれを否決した。
230票差での政府案否決は、英現代政治史において政府にとって最悪。2年以上にわたりブレグジット(イギリスのEU離脱)交渉を行い、協定を取りまとめてきたテリーザ・メイ首相にとっては、大きな敗北となった。(略)
 メイ首相の離脱協定では、イギリスは今年3月29日にEUを離脱し、その後21カ月間の移行期間で通商協定などを交渉する計画だった。
 イギリスはなお3月29日にEUを離脱する予定だが、協定が否決された今、離脱の方法や時期についての先行きはますます不透明になった。(略)
 首相は先週から再開した協定審議で支持を訴えてきたが、協定の内容に反対する議員、2度目の国民投票でEU離脱の是非を問うべきだとする議員、合意なしブレグジットを強行したい議員、そしてEU離脱そのものを取りやめるべきだとする議員などが一丸となり、否決に持ち込んだ。
採決では、与党・保守党から118人の議員が造反した。一方、労働党議員でメイ首相の協定を支持したのはたった3人だった。(略)
 メイ首相は「議会が発言した、政府は傾聴する」と述べ、16日の不信任投票を勝ち残った場合には、超党派の協議でブレグジットを進める意向を示した。続投が決まれば、離脱協定の代替案を21日に下院に提出すると述べた。
 首相はさらに、政府の目標はあくまでも秩序ある離脱で、政府の批判勢力が懸念するような、3月29日の離脱期限まで時間切れを目指すことなどあり得ないと強調した。(略)
 2度目の国民投票を支持している自由民主党の党首サー・ヴィンス・ケーブルは、メイ首相の大敗は「ブレグジット中止の始まり」だと述べた一方、コービン氏(註 野党・労働党党首)の支持がない限り国民投票は実現しないだろうとの見解を示している。
 スコットランド自治政府のニコラ・スタージョン首相は、メイ首相は「歴史的な大敗」を喫したと発言。2度目の国民投票を実施するため、離脱手続きを発動させたリスボン条約50条を一時停止すべきだと、あらためて訴えた。
 「これ以上、物事を前に進めるなど、まったく不見識だという段階に達している」
 これに対し保守党のローリー・スチュワート法務担当閣外相は、2度目の国民投票を含め、保守党の過半数が支持するブレグジット案はひとつもないと話した。
 欧州委員会のジャン=クロード・ユンケル委員長は、離脱協定が否決されたことで、イギリスが混乱の中でEU離脱を迎える可能性が高まったと指摘した。
 ユンケル委員長は、否決された離脱協定は「秩序ある離脱を保証する唯一の方法」だったと発言。自分も欧州理事会のドナルド・トゥスク常任議長(大統領に相当)も、英下院に安心してもらえるよう、「好意から」協定内容をあらためて説明したのだと述べた。
 「イギリスには、自分たちがどうしたいのか、早急に意図を明確にしてもらいたい。そろそろ時間切れだ」と委員長は呼びかけた。(略)

●産経新聞 平成31年1月16日
https://www.sankei.com/world/news/190116/wor1901160016-n1.html

★「EU離脱案の承認は実現不可能」細谷雄一・慶応大教授
2019.1.16 16:58|国際|欧州・ロシア

 史上最大の大差で離脱協定案が否決されたのは、予想通りの結果だったといえる。与党・保守党内が強硬離脱派と残留派に分裂した「内紛状態」に陥っており、2つの派閥が納得する離脱案を提示するのは実現不可能なミッションだった。否決されたことで、合意なき離脱に陥る可能性は50%以上に跳ね上がった。
 英国の主権回復を優先する強硬離脱派と、経済重視の残留派は価値観がまるで異なる。メイ首相は双方の派閥の溝の深さを過小評価していたに違いない。また、きまじめに離脱案の正当性を訴えるメイ首相の姿は、ロボットと組み合わせた「メイボット」と一部の議員から呼ばれていた。議員から理解を得るための根回しなど柔軟な政治活動が不足していたと思われる。
 合意なき離脱になれば、海外からの直接投資や国内総生産(GDP)は大幅に縮小し、経済回復には数十年かかる。どの国家も戦争を除いて、これほどの混乱を経験したことはないだろう。英国は外交や安全保障政策などより離脱後の対応に追われることになり、国家としてのプレゼンスは落ちると予想される。ただし、国民には離脱派が根強く残る中、今後、2度目の国民投票を実施しても、残留の結果になるとはかぎらない。
 一方で、英国が合意なき離脱により世界から孤立すれば日英関係はより強固になる。もともと、英国は米中やロシアとの関係は良好ではなく、英国は経済面などで日本を頼る局面が増えそうだ。(聞き手 板東和正)

★EU崩壊につながらない 渡邊啓貴・東京外国語大教授

 英国のEU離脱に対するEU側の基本路線は、①英国に離脱を思いとどまらせる②もし離脱するなら「第二の英国」を出さないためにメイ首相とEUが合意した離脱協定案の修正には応じないーーというものだ。EUは、3月末に迫った「合意なき離脱」の期限の延長交渉に応じるなど、硬軟織り交ぜた対応をしていくのではないか。
 英国はEU第3位の大国で予算面でも政治面でも存在感が大きい。離脱案の否決後、EUのトゥスク大統領は「唯一建設的な解決策を誰かが勇気を持って口に出さないのか」と述べた。英国残留へのEU側の期待は今後も消えないだろう。
 仮に英国が合意なき離脱に突き進んだ場合、欧州が被る損害は大きい。例えば英国で金融業の免許を取得すればEU域内で営業できる「単一パスポート」が失効し、欧州だけでなく世界の金融機関が集まるロンドン・シティーの取引に支障をきたす可能性が指摘されている。
 また、英国がEUを通じて世界各国と結んでいた関税や通商など多岐にわたる取り決めを2国間ないし多国間の枠組みで交渉し直すことになり、動揺と混乱は相当長引くと予想される。
 EUに懐疑的なポピュリズム(大衆迎合主義)政党が台頭するイタリアなどでは、離脱論が盛り上がるだろう。ただ実際に離脱するかは離脱後の英国を見極めてからになるはずだ。英国の離脱が、EU崩壊につながる可能性は低いとみている。(聞き手 平田雄介)

●産経新聞 平成31年1月16日

https://www.sankei.com/world/news/190116/wor1901160023-n1.html
英EU離脱交渉の最難問、アイルランド国境問題
2019.1.16 22:35|国際|欧州・ロシア

 英国議会で欧州連合(EU)離脱協定案が否決された大きな原因の一つは、英国とアイルランドの国境問題への対応だ。離脱案は英国全体が事実上、EUの関税同盟に残り続ける可能性があるため、議会で与野党から強い反発を招いた。
 英領北アイルランドとアイルランド間は離脱によって英国がEU側と陸で唯一、接する国境となる。北アイルランドでは英国統治の継続を求める人々と、アイルランドとの併合を望む人々が紛争を繰り返してきた。紛争を防ぐため「開かれた国境」を重視してきた場所に検問所や通関など物理的な分断を示すものができれば、再び情勢が不安定になる恐れがある。そこで、英EUは検問所などを設けず、人やモノが自由に往来する現状を維持する方針で一致した。
 英EUが合意した離脱案に盛り込まれた安全策では、英国全体が事実上、関税同盟に残り、北アイルランドはEU単一市場の一部ルールがさらに適用される。この措置は「一時的」とされたが、具体的な期限は明記されておらず、終了時期は英EU双方で決めることになっている。
 英与党保守党内の強硬離脱派はこの安全策を「EUへの隷属」と批判。期限の明記や英側が一方的に終了時期を決められる仕組みを求める声が強い。(ベルリン 宮下日出男)
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キリスト教151~近代におけるカトリック教会の守旧と宣教

2019-01-24 09:47:44 | 心と宗教
●近代におけるカトリック教会の守旧と宣教

 カトリック教会は、16世紀にルター、カルヴァンらの批判を受け、対抗宗教改革を実施して、組織の引き締めを図った。ヨーロッパにおける近代化の進行の中で、カトリック教会は近代化に対抗する守旧勢力だった。近代西欧科学の成果に対して否定的な態度を取り、中世的な価値観を保持し続けた。また、政治的な勢力としては、依然として巨大な存在であり続けた。
 これに対し、イギリスでは、1534年にイングランド国教会がカトリック教会から分離し、その後、いくどかカトリックへの弾圧が行われた。アメリカ合衆国は、プロテスタント移民が建国した国ゆえ、カトリックは少数派だった。フランスでは、絶対王政下でカトリックが国教となっていたが、フランス市民革命で強い反発を受け、教会財産を没収されるなどした。しかし、教皇はナポレオンとコンコルダートを結び、フランス政府との関係を修復した。ドイツでは、ルター派の改革以後、カトリックはプロテスタントに圧され、西南部を中心とする少数派となったものの政治的な影響力を保持した。
 その一方、ローマ教皇庁のあるイタリア半島をはじめ、スぺイン、ポルトガル、フランス、ネーデルラントの南部、ドイツの西南部、オーストリア、ポーランド等で教勢を維持した。また、19世紀後半から、英米等でカトリック教徒に対する政治的差別条項が順次廃止されたことにより、英語圏諸国での布教活動が活発化した。そのうえ、アイルランド大飢饉が原因でカトリック教徒のアイルランド人が北米をはじめとする世界各地に大量に移民したことにより、カトリック教会の教勢は拡大に転じた。
 欧米の外に向かっては、カトリック教会は、地理上の発見以後、かつてない世界的な宣教活動を行った。中世を通じてカトリック教会は腐敗・堕落の度を強め、宗教改革者から非難を浴びた。だがそれで衰退したのではなく、15~16世紀にスペイン、ボルトガルが世界を二分した時は、それに乗じて世界各地に宣教した。南北アメリカ大陸やアジア、等に宣教し、植民地の人民を教化することで、征服支配者による収奪を容易にした。そしてカトリック教会は、腐敗堕落した体質のまま、より大きな富を獲得したのである。なかでもイエズス会は、アジア、アフリカ、アメリカ等に多くの宣教師を送ったことで知られる。こうした活発な海外布教活動によって、カトリック教会は信徒数、経済力等において、世界最大の宗教団体となっている。

●教皇の不可謬性を教義に

 さて、話をヨーロッパの地域内に戻すと、19世紀後半、近代化の後進地域だったイタリアとドイツで、近代化政策が進められたことによって、カトリック教会は中世以来の権益を大きく損なわれた。これに対応するため、カトリック教会は、守旧的な姿勢を強固にした。教皇ピウス9世は、1864年に啓蒙主義や自由主義、共産主義を排斥するため、教皇から全世界のカトリック教会の司教へ宛てた文書である回勅とともに「誤謬表(シラバス・エロラム)」を公布した。また、教皇庁は、進化論を否定するなど近代科学の理論や思想に敵対的な態度を取った。教義に反する書物を読むことを信者に禁じ、禁書目録をたびたび発行した。
 さらにピウス9世は、対抗宗教改革の開始となったトリエント公会議以来、約300年ぶりとなる公会議を召集して、教皇権の強化を図った。1869年12月から70年10月にかけて行われた第1回ヴァチカン公会議である。
 この公会議において、 2つの憲章が採決された。重要なのは、1870年7月18日に採択された「パストル・エテルヌス」と題された憲章である。この憲章は、教皇首位説および教皇不可謬説に関する教義憲章だった。教皇の不可謬性に関する教義は、古代よりこの時まで発表されたことがなかった。その意味では、教皇権は絶頂を極めたともいえる。
 教義憲章は、万物の創造主なる神の教義から始まる。人間は生まれながらに持つ理性の光により、神を認めることができる。神の啓示は、神についての生まれつきの知識を覆うものであるという。これは、トマス・アクィナスの思想が教義とされたものである。
 次に、教皇と教皇の卓越性についての教義が、次のように示されている。第1章では、ペトロは、主から全教会における司法権を授けられたとする。第2章では、ローマ教皇はペトロの後継者であるとする。第3章では、次のように定める。1439年フィレンツェ公会議の宣言によれば、キリストの代理者である教皇は、教会の至高者である。全教会において最高の司法権を有しており、単に信仰と道徳に関する問題だけでなく、教会管理についても絶対の権威者である、と。第4章では、次のように定める。もしローマ教皇がエクス・カテドラ(聖座宣言)を発するならば、すなわち、全キリスト信者の牧者であり、教師である職務を遂行し、使徒的権威に基づいて信仰と信仰生活に関する教えを全教会が受け入れるべきであるとの教書を発布するならば、その時、ペトロに約束された神の加護により、教皇は、信仰と信仰生活の教義の絶対的決定について贖い主なる神が教会に備えた無謬性を発揮する。それゆえ、ローマ教皇聖座の決定は、それ自体、不変性を持ち、教会の承認によるのではない、と。
 こうした教義は、カトリック教会の根本教義に基づき、論理的・整合的に構成されている。しかし、それゆえに、歴史的現実とは全くかけ離れた主張となっている。実際のカトリック教会の歴史においては、教会はしばしば過ちを犯し、教皇も罪を犯してきた。宗教改革者たちは、終始一貫して教会の無謬性の思想に反対して戦った。ルターは、1519年のライプッチ論争で、教皇庁側と論戦した際、公会議の権威を否定し、また教皇権は聖書にもとづくものでないとしてその権威を否定した。このように宗教改革者の厳しい批判を受けたカトリック教会が、あえて1870年7月18日に、教皇の不可謬性に関する教義を発布したのである。
 ところが、教義憲章が発布された約2か月後、イタリア王国軍がローマを占領し、ピウス9世はヴァチカンに幽閉される事態となった。教皇の不可謬性を教義として発布した教皇が幽囚の身に置かれたのだから、このうえなく無様な展開となった。
 ピウス9世は、1878年に死去した。葬儀の際、一部の民衆は教皇への憤りを表し、棺が川に投げ込まれそうになったと伝えられる。
 後任のレオ13世は、守旧化したカトリック教会の教義の支柱となったトマス・アクイナスを教会の最高博士に叙任した。これによって、中世のトマスの思想に基づくトミズムが、近代のカトリックの教義を補強することになった。

●カトリック内の反対勢力

 第1ヴァチカン公会議による教皇権の強化に対しては、カトリック教会内の一部から強い反発が起こった。教義憲章に賛同しない司教・司祭は、カトリック教会から離脱した。それによって生まれた教会を、英語でオールド・カトリック・チャーチといい、復古カトリック教会または古カトリック教会と訳す。
 教皇不可謬説に反対し続けていたドイツの神学者ヨハン・イグナツ・フォン・デリンガーは、ローマ・カトリック教会から1871年に破門された。彼は、同じように教皇の不可謬性を否定する聖職者・信徒の運動に加わり、その指導者となった。
 1873年、復古カトリック教会が、ローマ・カトリック教会とは別の独立組織として、南ドイツのコンスタンツで設立された。この教派は、教義に関しては、聖書と聖伝を信仰の規範とする点ではローマ・カトリック教会と同じだが、教皇首位説と教皇不可謬説を認めない。教皇ピウス9世は73年に回勅で、「教会の基礎を破壊する滅びの子たちである」と非難した。だが、復古カトリック主義の信念は固く、ドイツ、オーストリア、スイス、オランダなどに信者が分布するほか、アメリカなどにも教会がある。同教会は、第1ヴァチカン公会議以前のカトリック教会を肯定する点で、プロテスタントとは違う。また「復古」といっても、第1ヴァチカン公会議の前に戻すというものである。
 ところで、1880年、ロシアからカトリック教会に向けて痛烈な批判の矢が放たれた。ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章がそれである。この問題作については、後の項目に記す。

 次回に続く。
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キリスト教150~キリスト教的実存主義と無神論的実存主義

2019-01-22 09:30:30 | 心と宗教
●キリスト教的実存主義と無神論的実存主義

 ティリッヒの項目に、彼がその哲学的神学の中に実存主義を摂取したと書いた。実存主義は、ジャン=ポール・サルトルが提唱した思想である。フランス人だが、ドイツの実存哲学との関係でここに補足として書く。
 サルトルは、1905年にフランスに生まれ、哲学者としてとともに小説家・劇作家としても活躍した。1930年代にドイツに留学し、フッサールに現象学を、ハイデガーに存在論を学んだ。そして、1943年(昭和18年)に刊行した『存在と無』で、自らの現象学的存在論を体系的に叙述した。
 サルトルは、本書で、ユダヤ=キリスト教的な世界観に対して、それを否定する無神論的世界観を提示した。もし無から万物を創造した神が存在するならば、神は自ら創造するものが何であるか(本質)を分かっているから、すべてのものは現実に存在する前に、神によって本質を決定されていることになる。この場合は、本質が実存に先立つ。しかし、逆に神が存在しないとすれば、すべてのものはその本質を決定されることなく、現実に存在することになる。この場合は、実存が本質に先立つことになる。サルトルは、後者の世界認識を打ち出した。
 サルトルは、1946年(昭和21年)刊行の『実存主義はヒューマニズムである』で、実存主義を宣言した。実存主義は、人間の本来的なあり方を主体的な実存に求める立場である。サルトルによると、事物はただ在るに過ぎない即自存在(être-en-soi)だが、人間的実存は自己を意識する対自存在(être-pour-soi)である。対自存在は存在と呼ばれてもそれ自身は無である。人間は、あらかじめ本質を持っていない。人間とは、自分が自ら創りあげるものに他ならない。人間は自分の本質を創る自由を持っている。それゆえに、その責任はすべて自分に返ってくる。「人間は自由という刑に処せられている」とサルトルは言う。
 人間はだれしも自分の置かれた状況に条件づけられ、拘束されている。人間を条件づけているのは、政治・社会・歴史など世界の全体である。人間は世界に働きかけて、選択の可能性を広げ、自己をますます解放しなければならない。このように説くサルトルは、アンガージュマン(政治参加・社会参加)の必要性を訴えた。核時代に入り、米ソ両大国の冷戦が続く状況において、世界を変えるために行動を呼びかけるものだった。その主張は、戦後の虚無感に苛まれていたフランスの青年層に強い共感を与え、さらに世界的に影響を広げた。1950年代から60年代にかけて、実存主義は、マルクス主義と並ぶ二大思潮となった。
 キリスト教と実存主義の関係について述べると、サルトルは、実存主義をキリスト教的実存主義と無神論的実存主義に分類した。キリスト教的実存主義者には、キルケゴール、ヤスパース、マルセルらが挙げられる。これに対し、無神論的実存主義者には、ニーチェやサルトル自身が挙げられる。
 実存に関する哲学を説くことと、実存主義とは必ずしも一致しない。サルトルはハイデガーを無神論的実存主義者としたが、ハイデガーは自らを実存主義者とは区別した。彼は、形而上学の始源以前に遡って、存在に関する思考を行っており、サルトルが言うような実存主義者ではない。また、キリスト教を否定しているわけではなく、キリスト教を否定するという意味での無神論者でもない。彼とよく対照されるヤスパースはキリスト教の枠組みを出ており、キリスト教的というより有神論的と言うべきである。また、サルトル流の実存主義者というより、実存哲学者である。サルトルは、ティリッヒに言及していないようだが、ティリッヒはキリスト教的実存主義者と位置づけることが可能だろう。
 サルトルの影響を受けて実存主義の範囲を広く取る者は、パスカル、シェリング、ベルジャーエフらを含めたり、文学におけるドストエフスキー、カミュ、カフカらや美術におけるジャコメッティ、ビュッフェらにも広げたりする。そのように広げるほど、実存の規定が曖昧になり、本質と実存という対概念の対比による論理的な思考から離れていく。実存は、人間存在の不安やおののき、孤独、虚無感といった心理を象徴的に表す言葉になる。
 こうした心理は、キリスト教的な神を信じる、信じない、疑う、疑わないという考え方の違いに関わらず、近代人・現代人の心に生じるものである。また、時代や宗教、思想の違いに関わらず、人間が人間である限り、心に抱くものともいえる。
 今日、キリスト教がこうした人間の不安やおののき等を解決し、心の救いや安らぎ、希望を人々に与え得るかどうか、それが問われている。キリスト教は、人間の在り方を原罪または堕落という観念で説明する。神学者や哲学者は、神話的な表現を避けて、疎外の概念で説明する。だが、そうした観念や概念を以て考え方を変えるだけでは、不安やおののき等は根本的には解決しない。先の問いの答えを提示できるかどうかは、病気や事故・災難、出産に伴う危険、死に伴う恐怖や苦痛、人間関係や能力・運命等の悩みを、具体的にまた実際的に解決する力があるかどうかによる。突き詰めれば、真理の現れとしての救いの実証があるかどうかによるのである。

 次回に続く。
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韓国駆逐艦レーダー照射問題~軍事専門家の見方2

2019-01-21 12:39:35 | 国際関係
 軍事専門家の見方の続きです。

●元防衛省情報分析官・西村金一氏
 「韓国が救助作戦中と主張する北朝鮮船について、「線が引っ張られている。これはAMモールス通信アンテナ。モールス通信をやるのは長距離で連絡する必要がある。北朝鮮の特殊部隊か工作員が乗っていた。韓国は燃料を与えていた」
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キリスト教149~ティリッヒ:「神を越えた神」の神学を説く

2019-01-19 08:51:29 | 心と宗教
●ティリッヒ~「神を越えた神」の神学を説く

 パウル・ティリッヒは、1886年にルター派教会の牧師の息子としてドイツに生れた。大学で哲学と神学を学び、シェリングに関する学位論文を書いた。一時社会主義思想に共鳴し、フランクフルト学派の成立に寄与した。1933年、ヒトラー政権の誕生によって大学教授の職を追われると、アメリカに移住し、プロテスタント系のユニオン神学校の教授となった。
 ティリッヒはキリスト教の神学者でありながら、プラトン、ドイツ観念論、実存主義、深層心理学等を摂取し、神学と哲学の統合を図った。そのため、彼の神学は、哲学的神学と呼ばれる。キリスト教は古来、異教による非難・攻撃に対してキリスト教の真理を弁明・擁護する弁証論を展開した。ティリッヒの神学はこの系譜に属する。
 ティリッヒは、存在論的形而上学の伝統に則り、存在論的な神学を説いた。彼の神学は、本質的な存在を探究するものであると同時に、現実的な存在を探究するものでもある。現実的な存在とは、可能的な本質が現実化したものであり、これを実存という。実存とは、時間的・空間的に有限な個物的存在である。特に自己の存在を意識する人間的実存をいう。ティリッヒの神学が20世紀及び現代の神学であるのは、死、運命、無意味さという不安によって脅かされる人間的実存の生き方を説いている点である。そこには、ハイデガーやサルトルの影響が見られる。
 1952年に刊行された『生きる勇気』(The Courage to Be)において、ティリッヒは、大意次のように説いた。存在は、それ自体の中に無を包摂する。万物の根底は、生ける創造性であり、無を永遠に征服しつつ、創造的にそれ自体を肯定する。そのようなものとして存在の根底は、あらゆる有限な存在における自己肯定の原型であり、生きる勇気の源泉である。生きる勇気は、生命力の一つの機能である。生命力の減退は、勇気の減退を引き起こす。生命力を強化することは、生きる勇気を強化することを意味する。
 神とは、「存在それ自体(being-itself)」である。存在を最もよく表現するためには、「存在の力(power of being)」という比喩を用いざるを得ない。力とは、一つの存在が、他のさまざまな諸存在の対抗に打ち勝って、自己自身を実現するべくもっているところの可能性である。
 信仰とは存在それ自体の力によってとらえられている状態であり、存在の力の経験である。そしてこの存在の力が、存在者に生きる勇気を与える。絶対的信仰の内容は、有神論的な神観念を超えた「神を越える神」(God above God)である。生きる勇気の究極的源泉は「神を越える神」にある、と。
 ティリッヒは『生きる勇気』で上記のように神と実存の探究を進めたが、彼の神学は、決してキリスト教の神観念を抜け出るものではない。1951年から63年にかけて刊行された主著『組織神学』で、ティリッヒは、存在それ自体としての神を「三位一体の神」としてとらえる立場から、組織的・体系的な神学を展開している。本書は、父と子と聖霊の三位一体説に立ち、各位格に対応して「存在と神」「実存とキリスト」「生と聖霊」の3部で構成され、序章として「理性と啓示」、終章として「歴史と神の国」が付加されている。
 キリスト教は、人間は天の父である神の似像として創造されたが堕落し、神の愛によってイエス=キリストを通じて救済されるという教えである。ティリッヒは、この教えの構造を、<本質→実存→本質化><同一性→分離→再結合>という弁証法的な運動によって表現する。この運動は、根源的同一性である神が外化して、再び自己に還帰する歴史である。人間における本質から実存への展開は疎外であり、疎外された状態にあることが、実存的不安である。
 こうした弁証法的な歴史理解は、ヘーゲルの哲学に基づいている。ヘーゲルにおいて、弁証法的とは、神の原初的同一性が疎外(外化)され、これが止揚されてより高い同一性に還帰するという過程的な構造をいう。ヘーゲルの弁証法は、基本的に本質と存在の一致に基づく本質主義の哲学である。これを批判し、人間的実存の立場に立つ実存主義の哲学を説いたのが、キルケゴールであった。ティリッヒは、実存主義を継承しつつ、これを本質主義と総合することを試みている。そこで、彼が依拠するのは、父と子と聖霊の三位一体である聖書の神である。
 ティリッヒはキリスト教の主流が教義としている三位一体の神を神とするが、同時にティリッヒは、神を「無制約なもの」「存在の根底」「存在の根拠」などとし、真の神は「神を超えた神」であると説いている。これは、神を、宇宙をその外から、また無から創造した超越神であると同時に、宇宙全体、一切万有そのものとしての宇宙神でもあるというとらえ方である。このとらえ方は、正統的な超越神論とシェリング、ヘーゲル等の汎神論の総合を試みたものになる。西田幾多郎の概念で言えば、超越的即内在的な神を説く万有在神論の一形態といえよう。だが、決してキリスト教の枠組みを抜け出るものではない。存在論的かつ汎神論的な議論を展開しつつも、常にその焦点は、聖書の神、そしてイエス=キリストにある。
 『組織神学』の終章「歴史と神の国」において、ティリッヒは、現実の世界で歴史的に生きる実存の課題の解決を試みながら、その課題に答えられず、神の国の到来を待望する。その終末論的な思想はイエス=キリストの再臨を想定するものであり、ティリッヒの神学は、遂にキリスト教の内にとどまるものに終わった。
 ティリッヒは、1965年に死去した。その神学は、キリスト教が他の宗教を包摂する理論とはなり得ず、また、古代から幾度も分裂を続けてきたキリスト教を再統合し得るものとさえなっていない。

 次回に続く。
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韓国駆逐艦レーダー照射問題~軍事専門家の見方

2019-01-18 13:42:23 | 国際関係
 韓国駆逐艦レーダー照射問題は、日韓の話し合いで平行線が続いています。素人でも、日本側には非がなく、韓国側は自らの非を認めようとしていないことが明らかにわかります。
 1月14日シンガポールで行われた日韓実務者協議で、日本側は証拠となるレーダー情報の交換を提起しましたが、韓国側はこれに応じず、協議は平行線に終わったとのことです。韓国国防省報道官は15日の記者会見で、日本の提案について「受け入れ困難で非常に無礼な要求」などと批判しました。
 これに対し、自衛隊トップの河野克俊統合幕僚長は、17日の記者会見で、韓国側がレーダー情報の相互開示を求めた日本を「無礼」としたことについて、「主権国家であるわが国に対し、責任ある韓国の人間が『無礼』などと言ったことは極めて不適切であり遺憾だ」と述べ、「われわれの要求はまったく合理的なもので、韓国の非難は当たらない」と主張しました。また、「われわれは(レーダー照射の)確固たる証拠を持っている。韓国側は真摯(しんし)に受け止め、事実を認めて再発防止に努めてほしい」と強調しました。
https://www.sankei.com/politics/news/190117/plt1901170017-n1.html

 このレーダー照射問題について、我が国の軍事の専門家は、これまで次のような見解を述べています。

●香田洋二元海将
 「韓国側が公開した映像はへ理屈に満ちていて、説得力のある材料は何一つ無かった。映像は、韓国側の人道的な活動を海上自衛隊のP-1哨戒機が妨害したという趣旨の主張を繰り返しているが、これは論点のすり替えだ。韓国側は『火器管制レーダー』の照射等を一切否定しているが、それを証明する客観的な証拠は何も示していない。
 韓国側は、P-1の低空飛行や通信環境が微弱だったこと等を主張している。これも後付けの屁理屈だという印象が強い。そもそも、もし本当にその様な危険な状態なら、駆逐艦からP-1に対し『飛行の意図』を確認する呼びかけがあってしかるべきだ。軍隊としての基本動作が全く出来ていない事を、韓国は自ら吐露している。
 映像は客観性を著しく欠いていて、公開の目的が判然としない。ゲスの勘ぐりかもしれないが、最近の慰安婦問題や所謂『徴用工』問題等も相俟って、日本の悪い印象を世界に発信したかっただけではないか。ともあれ、私の様な軍事関係者にとって目を見張る情報は何もなかった」。
(産経ニュース:2019/01/04 18:32 JSTより)

●織田邦男元空将
 「韓国側の反論映像を見たが、全くつまらない代物だった。まず韓国側の映像で海自P-1が米粒の様に映っているが、私の経験上、高度は1,000~2,000ftの間だろう。航空法では艦艇と500ftの距離を保っていれば、何の問題も無い。韓国側は防衛省が公開した資料も使い、駆逐艦とP-1の距離の近さを強調しているが、これも1,000ftは離れている。脅威でもなんでもない。
韓国は駆逐艦の直上をP-1が低空飛行したと主張しているが、これも在り得ない。P-1は写真や映像を撮るために、駆逐艦の周囲を旋回飛行していた。直上を通過する様な飛行では写真や映像は撮れない。
韓国側の映像は、P-1が国際法に則り、極めて常識的な哨戒任務に当たっていた事を裏付けている。これは諸外国の軍事関係者にも容易に分かる筈だ。韓国側は寧ろ墓穴を掘った。韓国がこれ以上の強弁を重ねるのなら、照射されたFC(火器管制)レーダーの周波数の公開も検討すべきだ。《秘》を明かされて困るのは韓国側だ」
(産経ニュース:2019/01/04 18:32 JSTより)

●軍事アナリストの小川和久氏
 「火器管制レーダーの照射は艦長の指示、承認がなければできないので、駆逐艦の艦長は強い反日感情を抱いている人物か、艦長として不適格な愚か者だろう。日本政府としては、動かぬ証拠を突きつける中で艦長の処罰を要求し、それ以上の対応、例えば国防部長の更迭などは要求しない方が望ましい。そして、文在寅政権が人気とり的に煽っている反日感情を沈静化させるよう、外交カードとして活用すべきだろう」
(FBポスト、2018.12.28より)
 「日本側としては、1)排他的経済水域を哨戒していたP-1哨戒機の側に何ら落ち度はないことを明確にし、2)P-1が接近した意図について無線で問い合わせなかったという初歩的ミス、3)韓国側が主張するように光学装置(望遠鏡)を使う目的だったにせよ、火器管制レーダーのアンテナをP-1に向けた国際常識の欠如、4)P-1からの複数の周波数を使っての呼びかけに応答しなかった非常識さ、を指摘しなければならない。
 特に2)3)については、韓国海軍の参謀総長が「激励」名目で訪問した第1艦隊司令部で事実上の「叱責」をしており、韓国側も自覚している。
 しかし、問題の指摘についてはプライドを傷つけないところから始めるのが、高度な外交のテクニックだ。相手の立場に理解を示しつつ、「お互いに、こういうことがないようにしょうね」という形で着地するのが望ましい。
 韓国が相手の場合、気をつけなければならないのは、日本側が決着したと思っていた問題についても、いきなり後ろから斬りつけてくるようなメンタリティがあるという点だ。
 仮に「お互いに気をつけよう」という形の決着であっても、韓国海軍の参謀総長が厳しく部隊に申し渡した、国際法の厳守、友好国の航空機や艦艇への対処、国防省が取りかかるとしている「マニュアルの作成」に言及した文書を取り交わし、公表すべきだろう。
 事務レベル協議を通じて日本側が確認すべきは、駆逐艦「広開土大王」の対水上レーダーがAN/SPS-55であり、火器管制レーダーとは別に恒常的にXバンドを出していた可能性だ。それが確認された場合、日本側としても友好国・韓国の艦艇についての情報の在り方について、整理すべきだろう」
(FBポスト、2019.1.14より)

 ところで、野党第一党の立憲民主党は、本件に関して、日本の政党として完全に失格であることをあらためて露呈しました。百田尚樹氏はツイートで次のように書いています。

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百田尚樹‏ @hyakutanaoki ·6時間前

 立憲民主党が韓国のレーダー照射に対して、何の抗議も非難もしないということで、彼らの本質が明らかになった。立憲民主党は日本人の皮をかぶった韓国の政党である。
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 「立憲」民主党というより、「立韓」民主党でしょうか。このような政党が国会で相当数の議席を保持している状態が変わらなければ、わが国は、独立主権国家として毅然たる外交ができません。
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