ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

キリスト教193~昭和戦前期のキリスト教

2019-04-30 12:47:04 | 心と宗教
●昭和戦前期のキリスト教

 昭和戦前期は、わが国がかつて体験したことのない激動の時代だった。世界恐慌の大波が押し寄せ、活路を求めた大陸で起こったシナ事変は泥沼化し、追い詰められて米英と開戦するや未曾有の大敗を喫した。経済危機と戦争の時代においては、どの国も生存のために統制を強化し、国民に協力・団結を呼びかける。米国・英国のような自由主義の国家でも同様である。そうした協力・団結の呼びかけには、国民を統合する理念や象徴が用いられる。
 戦前のわが国は、天皇を統治権の総攬者とする国家であり、国民には天皇を中心とする民族的な一体感が強調された。皇室は神道の祭祀を行い、国民は皇祖神を祖先神とし、地域の共同体は氏神や社稷の神を祀る祭儀をともにしてきた。それゆえ、政府が国民の統合において神道を重要視したのは自然なことだった。
 一般に誤解が多いが、明治維新以降、神社参拝が法的に国民個人に強制された事実はなかった。大正期には、小学校における参拝などをめぐって「神社問題」が発生した。この時、政府は国民に崇敬は奨励するが参拝は強制せず、小学校では神社崇敬の訓練として行うが、上級学校では神社参拝を実施しないとの抑制的な立場だった。
 しかし、昭和初期に軍部が台頭すると、明治以来、政府管理下に置かれた神社神道を、国策遂行のために利用するようになった。そうした神道のあり方が、敗戦後、国家神道と呼ばれるようになった。また、神道以外の宗教団体、特に特にキリスト教への圧力が強まった。1931年満州事変が起こり、32年に満州国建国、33年に国際連盟脱退と、わが国が国際的孤立化の道を進むに従い、政府・軍部による国民統合が強化されていった。
 そうした中で、1932年(昭和7年)に上智大学靖国神社事件が起こった。カトリック系の上智大学で、学校教練のために配属されていた陸軍将校が、学生を引率して靖国神社を参拝した際、カトリック信者の学生が参拝を拒否した。陸軍は、同大学への将校の配属を拒否した。これに対し、カトリック教会は、神社参拝を非宗教行為だとし、「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との公式見解を出し、以後戦争については沈黙した。この事件以後、従来小学校までだった神社参拝が上級学校へと拡大された。昭和10年代に入ると、参拝拒否は事実上不可能になっていった。
 1940年(昭和15年)には、宗教への統制を強化する宗教団体法が施行された。この施行に際して、神社参拝を拒否する宗教団体は認可しないとの方針が打ち出された。ただし、それでも戦前のわが国において、法的に神社参拝が国民個人に強制されることはなく、参拝拒否に対する罰則はなかった。
 宗教団体法のもとで、キリスト教的社会運動はすべて抑えられた。またキリスト教の多くの団体が政府に協力した。41年にはキリスト教会の合同が命ぜられ、それに従わない団体は教会活動が不可能になった。カトリック教会は、ローマ教皇直属の各司教区と国内にある修道会をすべて統合して日本天主公教教団を設立した。またプロテスタント32教派は自発的に統合し、日本基督教団を結成した。その一方、戦争反対を表明した一部の教会や神社参拝を拒否した団体は徹底した弾圧を受け、解散に追い込まれた。
 この時代は、キリスト教徒だけでなく、政府・軍部を批判する者は、神道家や自由主義者など、宗教・信条にかかわらず、言論統制の対象となった。最も厳しい監視・弾圧を受けたのは、ソ連のコミンテルンと通じた共産主義者である。日本は、皇室を廃絶する共産革命を最も恐れたからである。
 日本のロシア正教会が、ソ連の共産主義政権とのつながりを疑われたのは当然だった。本国の正教会の意思・決定に忠実なセルギイ・チホミロフ府主教に対し、亡命ロシア人や日本人信徒の反発が強まった。そのような状況で、我が国の政府が圧力をかけた結果、1940年にセルギイは引退を余儀なくされ、邦人主教が選出された。その後も当局の監視は続いた。45年にセルギイは特別高等警察に逮捕され、拷問を受け、釈放された後に死亡した。
 第2次世界大戦の最中、リトアニアで「命のビザ」を発行した外交官・杉原千畝は、ロシア正教徒だった。1920年代から30年代、満州に赴任していた時代に、洗礼を受けた。以後、生涯その信仰を保った。
 1939年9月、ヒトラーに率いられたドイツは、ポーランドに侵攻した。それによって、第2次世界大戦がはじまった。キリスト教国はまたも大戦争を繰り広げた。この戦争は、白人種同士が戦っただけではない。戦いは彼らが植民地や利権を持っていたアジア太平洋にも広がった。大東亜戦争において、日本は、主にキリスト教国の米国・英国・オランダ等と戦った。それによって、15世紀以来、白人種に支配されてきた有色人種が白人種に抗するという戦いがアジア各地に広がった。大東亜戦争は、一面において西洋白人種対アジア有色人種の戦いであり、宗教的にはキリスト教対東洋諸宗教の戦いだった。西洋文明と日本文明の激突であり、西洋文明中心の時代から、東洋・アジアの文明が発展する時代への転換期に起こった戦争である。
 この戦いの終盤において、米国は、東京・大阪等への空襲を行い、無辜の一般市民を多数焼き殺した。その国際法に違反する攻撃の頂点として、1945年(昭和20年)8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾を投下した。長崎は、歴史的にキリスト教徒が多い都市である。米国はそれを承知の上で原爆攻撃の対象とした。原爆は浦上天主堂のある地区に投下され、キリスト教の神を祀る天主堂が原子力によって破壊された。キリスト教国の指導者が、原爆の開発・製造・使用を決定した。その罪は限りなく深い。 また、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破って、8月9日満州・樺太等に侵攻し、暴虐の限りを尽くした。ソ連軍は、武装解除して投降した日本兵をシベリア等へ抑留し、酷寒の地で強制労働をさせ、数十万の日本人が犠牲になった。こうした不法行為に関わったソ連国民の中には、ロシア正教を信じる者もいたと推測される。
 日本は大敗を喫した。しかし、大東亜戦争を通じて、4百年以上もの間、虐げられてきたアジア、アフリカ諸民族は独立を勝ち取ることができた。
 敗戦国となった日本には、戦勝国による過酷な報復が行われた。占領期間中、戦勝国は日本を弱体化する政策を強行した。GHQは占領政策の総仕上げとして秘密裏に起草した英文の憲法案を日本に押し付けた。それが日本国憲法のもとになっている。現行憲法によって、第20条に信教の自由が保障された。それによって、キリスト教は活動の自由を広げ、宣教・教育・福祉活動等を通じて信者を増加した。GHQは、戦前の日本における政府と神道の関係を断ち、天皇の権威を引き下げた。日本をキリスト教国にするという目標を持っていたと見られる。しかし、様々な教育・文化政策が行われたにもかかわらず、日本国民の多くはキリスト教に改宗しなかった。国民の大多数は、依然として神道ないし仏教を信仰しており、キリスト教は依然として少数派にとどまっている。現在の日本において、キリスト教の信者は、カトリック・プロテスタント・正教会を合計しても約100万人、人口の1%程度に過ぎない。

 以上で、キリスト教の歴史の章を終え、次回から現代の諸課題の章に入る。
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「令和」「桜」「温泉」・・・中国で空前の日本ブーム~石平氏

2019-04-29 08:53:14 | 時事
 シナ系日本人評論家の石平氏が、中国では元号や桜などをめぐって、日本ブームが起こっていると伝えている。新元号が報じられると、中国の失われた伝統は日本に現存することに対する称賛と羨望の声が数多く聞こえる。また、桜、美しい自然風景、もてなし等が多くの中国人の心を捉えて空前の日本観光ブームを引き起こしているという。
 「江沢民政権時代からの「反日教育」が30年近くにわたって行われてきたこともむなしく、日本の伝統、日本の文化、日本の美しさがおのずと多くの中国人を魅了していることは実に興味深い」と石氏は書いている。
 以下は、石氏の記事の全文。

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●産経新聞 平成31年4月18日

https://www.sankei.com/column/news/190418/clm1904180003-n1.html
【石平のChina Watch】「日本ブーム」が意味するもの
2019.4.18 11:30|コラム|その他

 平成最後のこの4月、隣の中国ではちょっとした「日本ブーム」が起きている。
 ことの始まりは新元号の発表である。1日の11時41分頃に「令和」が発表された直後、中国国営の新華社通信や、中国の代表的なポータルサイトの『新浪』『網易』、人民日報傘下の環球時報ウェブ版などはまるで日本のメディアと競合しているかのように速報を出した。そしてそれを受け、ネット上では日本の新元号に対するコメントが殺到し、このテーマひとつで中国のネット空間は大いに盛り上がった。
 それからほぼ1週間、新元号はホットな話題であり続けた。前述の環球時報はもちろんのこと、大都会の上海では発行部数が最も多い『新民晩報』や、全国紙の『文匯報』などが論評を掲載したり、専門家を招いて座談会を開いたりして、新元号の話題を盛り上げた。
 その中で、「中華文明から発祥した元号をそこまでに大切にし、現代生活に密着させている日本人の知恵には敬服の念を禁じ得ない」と絶賛する論評もあれば、「令和」の出典は元をたどれば中国古典にあることを殊更に強調し、「日本は中国の痕跡を消すことができない」というコメントもあった。
 ネット上では、中国の失われた伝統は日本に現存することに対する称賛と羨望の声が数多く聞こえる一方、中国語で「令」と「零」の発音が同じことから、「令和の意味はすなわち“平和の思いがゼロ”だ」と、こじつけて日本の新元号をおとしめるような書き込みも見られた。
 しかしいずれにしても、改元するのは日本であるのに、中国のメディアとネットがそれほど熱をあげて大騒ぎしている光景はまさしく不可思議である。背後にあるのは、中国自身の喪失した伝統を今でも生かしているこの日本に対する中国人たちの、羨望と嫉妬を交えた屈折した思いではないのかと思う。
 4月といえば日本では桜の季節である。実は数年前から、「日本で花見するブーム」が中国で起きている。
 伊豆半島の河津町や東京の千鳥ケ淵、京都や奈良の花見の名所で中国人観光客があふれている光景が報じられており、写真が趣味で多くの花見スポットを訪れた筆者自身も、あちこちで、桜の花に見ほれる、かつての同胞たちの姿を数多く見た。日本の自然美の象徴である桜はこうして、多くの中国人を魅了して彼らの心をひきつけているのである。
 中国人が魅力を感じているのはもちろん桜だけではない。日本の四季折々の美しい自然風景、風情の漂う温泉旅館や日本庭園、中国自身の古き良き時代を思い起こさせる古寺や古い町並み、そして心に届く日本の温かいもてなし、それらのすべては多くの中国人の心を捉えて空前の日本観光ブームを引き起こしているのである。
 江沢民政権時代からの「反日教育」が30年近くにわたって行われてきたこともむなしく、日本の伝統、日本の文化、日本の美しさがおのずと多くの中国人を魅了していることは実に興味深い。日本はこれだけ、魅力のあふれる良い国だからであろう。
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キリスト教192~日露戦争・大正デモクラシー期のキリスト教

2019-04-27 09:32:39 | 心と宗教
●日露戦争から大正デモクラシーの時期のキリスト教

 明治政府は、富国強兵・殖産興業を目指して資本主義を導入し、明治20年代には製糸・紡績などの軽工業を中心に産業革命が本格化し、30年代には軍需部門を中心に重工業が発達して、産業革命が達成された。わが国は、この資本主義的工業生産力をもって、近代国家としての発展を確固としたものにした。こうして日本は、非西洋社会ではじめて近代化に成功した。
 この間、日本が体験した日清戦争(1894~95年)、日露戦争(1904~05年)は、日本の国運を賭けた戦いだった。まずわが国は、日清戦争で大国シナを打ち破った。千年以上もの間、文明の源と仰いできたシナに優ったのである。その結果、東アジアにおける日本とシナの地位が逆転した。かつては遣隋使・遣唐使を送っていた日本に、シナから日本に留学生が来るようにもなった。日本文明のほうが、シナ文明に影響を与える関係になったのである。
 日清戦争の勝利は、強国ロシアとの戦いを余儀なくするものだった。幕末以来、北から迫ってくるロシアは、日本の独立を脅かす最大の脅威だった。日本が日露戦争に勝つと、世界は驚嘆した。15世紀以来の西洋白人種の優位を、初めて有色人種が打ち砕いたのである。日露戦争における日本の勝利は、被抑圧民族を奮い立たせ、独立への情熱を駆り立てた。近代西洋文明の世界支配体制は崩れ始めた。日本の近代化と日露戦争の勝利は、15世紀末以来の白人種の支配の時代から、有色人種の解放・発展の時代への転換の推進力となった。ここで白人種とは、白人キリスト教徒のことでもある。
 日露戦争は、日本の興亡盛衰を賭けた大戦争だった。国民の大多数は、天皇を中心に一致団結してロシアと戦った。この時、キリスト教側では、海老名弾正、植村正久、本多庸一らは主戦論を唱えた。しかし、内村鑑三らは非戦論を唱えた。またキリスト教社会主義者の安部磯雄、木下尚江、片山潜らは無抵抗主義の非戦論を唱えた。キリスト教徒の中には、後者のように、ロシアとの戦争に反対する者がいたのである。
 もしこの時、わが国が非戦論に従っていたら、朝鮮半島はロシアの支配下に入っただけでなく、わが国はロシアの反植民地と化していただろう。宗教的理想主義による非戦主義は、敵国を利し、祖国・国民を危うくするものである。また、日本がロシアに勝利を収めることができていなければ、有色人種は白人キリスト教徒の支配の重圧からの解放を目指すきっかけを得ることができなかっただろう。結局、明治日本のキリスト教徒の非戦論は、欧米のキリスト教植民地主義者を利するだけだったのである。
 ここでキリスト教社会主義について書くと、19世紀半ば英国国教会の広教会派からキリスト教社会主義運動が起こった。その運動がドイツ、アメリカ等に輸出され、19世紀末には、小崎弘道、安倍磯雄、片山潜らによって日本にも移入された。彼らキリスト教徒によって日本の労働運動、社会主義運動が始まった。そこには、明治政府の国家主義の弊害と、急速な産業化のもたらす害悪に取り組み、社会改良を進めようとする姿勢があった。安部磯雄、片山潜らは1901年に社会民主党を起こした。
 その後、1912年に社会運動家の鈴木文治は、東京のユニテリアン教会で友愛会を始めた。友愛会は日本労働総同盟へと発展した。日本基督教会の信徒・賀川豊彦と牧師の杉山元治郎は、1922年に日本農民組合を始めた。賀川が設立した消費組合は後の生活協同組合へと発展した。
 ところで、カトリック教会では、日露戦争終結後、1905年に教皇ピオ10世が、アメリカ人司教のW・H・オコンネルを親善使節とし、明治天皇宛ての親書を託して派遣した。これをきっかけに、パリ外国宣教会以外の団体が、スペイン、ドイツ、カナダ、イタリア等から来日した。ドミニコ会、イエズス会、フランシスコ会、等である。多様化したカトリック教会は、教育事業の取り組みを、従来の初等中等教育から高等教育へと広げた。イエズス会は、1913年に専門学校令による大学を開校した。これが上智大学である。
 明治時代末期から大正期にかけて、国粋尊重のナショナリズムが一時的に退潮すると、キリスト教への社会的な評価は上昇した。1912年(明治45年)、内務次官・床次竹二郎の提唱で神道、仏教、キリスト教の指導者を集めた三教会同が開催された。宗教者に国民道徳振興に協力を求めたもので、キリスト教側からはカトリック、プロテスタント諸派が参加した。内村鑑三らは賛同しなかった。会議では「我等は各其教義を発揮し、皇運を翼賛し国民道徳の振興を図らんことを期す」「我等は当局者が宗教を尊重し、政治宗教及教育の間を融和し、国運の伸長に資せられんことを望む」という決議がされた。この会議は、キリスト教が宗教界で神道・仏教と同等の地位を持つことを公に認められたものと考えられる。
 三教会同にロシア正教会は参加していない。ロシア正教会に関して、幕末から大正期までをここに書くと、1861年(文久1年)にロシア正教会司祭ニコライ・カサートキンが箱館(函館)駐在のロシア領事館付司祭として来日した。日本におけるロシア正教会の活動は、その時に始まった。ニコライは、新島襄から日本語や古事記等を学んだ。また、日本史、神道・儒教・仏教なども勉強した。1872年(明治5年)に上京し、布教とロシア文化の紹介に努めた。彼が設立した教会を日本ハリストス正教会というのは、キリストをギリシャ語に基づいてハリストスと呼ぶことによる。
 ニコライは、1891年に東京・神田にニコライ堂(東京復活大聖堂)を建てた。彼と親交のあったドストエフスキーも寄付金を出したという。91年、ロシア皇太子ニコライが襲撃された大津事件が起こると、司祭ニコライは日露友好に努力した。また1904~05年(明治37~38年)に日露戦争が勃発すると、ニコライは日本に留まることを宣言し、日本人正教徒に、日本人の務めとして、日本の勝利を祈るように勧めた。1912年に死去した際には、明治天皇をはじめ、日本朝野の人士が彼の死を悼んだ。
 ニコライの死後、セルギイ・チホミロフ主教が布教を続けたが、1917年(大正6年)、本国でロシア革命が起こり、ロシア正教会は共産主義政権によって、厳しい弾圧を受けた。日本の正教会への援助は途絶えた。日本の国民の間では、日露戦争等による反露感情が強かったが、これに反共産主義の思想が加わり、ロシア正教に対する見方は厳しさを増した。
 1910年代後半から20年代前半にかけて、日本では、民衆の政治参加の拡大を求める運動が、政治・社会・文化の各方面において沸き起こった。普通選挙制度、言論・集会・結社の自由、男女平等などを求めた大正デモクラシーである。この運動の指導者の一人が、吉野作造である。吉野は、日本基督教会牧師で東北学院長でもあった押川方義の講話を聴いて、キリスト教に関心を抱き、洗礼を受けた。大学時代には、海老名弾正の自由主義的な聖書解釈に惹かれ、彼を敬愛した。吉野は、キリスト教精神と政治学を結びつけ、神の意志に沿うように政治や社会を改革することに、自分の使命を見出した。そこから生み出されたのが、民本主義である。
 吉野の民本主義は、天皇が法律上、主権者とされた当時の体制のなかで、民衆が政治に参加し国民の福利が政治の目的となるような政治のあり方を確立しようとしたものである。そこには、天皇が国民を子のように愛し、国民が天皇を親のように敬うというわが国の国柄を踏まえたデモクラシーを実現しようとする意図が見られる。それゆえ、わが国の伝統を近代に生かそうとする「尊皇と愛民のデモクラシー」というべきものだった。そのような政治思想が、キリスト教徒の政治学者によって生み出されたのである。

 次回に続く。
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元号の意義、歴史、法制化と現在

2019-04-26 11:52:53 | 日本精神
 今上陛下の譲位に伴い、新たな元号「令和」が発表された。
 元号の意義と歴史について、国学院大学名誉教授の大原康男氏が、産経新聞平成31年4月19日付に、次のように書いている。
 「もともと元号は「地上の帝王は唯一至高の『天』から一般人民を教化育成せよとの命を受けて君臨する」とする漢民族の「天命思想」に基づいて、空間と時間という2つの統治の「元」(範疇(カテゴリー))のうち時元を指す。国語では「もと」あるいは「はじめ」と訓(よ)む。
 その起源は前漢の武帝即位の翌年(紀元前140)を「建元元年」と称したことにある。以後、辛亥革命(1911)まで2千年以上にわたって用いられ、中国の周辺諸国も採用するに至ったが(日本のほか朝鮮半島、モンゴル、チベット、インドシナなど)、今日ではわが国にしか残っていない。
 そのわが国では飛鳥時代に蘇我氏の専横を倒した政変に際し、孝徳天皇(36代)の元年(645)に「大化」の元号が建てられたのが嚆矢(こうし)で、次いで大化6年に「白雉(はくち)」と改めたのが改元の初例だ。
 その後しばらく途絶えたことがあったものの、文武天皇(42代)の5年(701)に「大宝」が建定されてからは断絶することなく、今日まで1300年以上も続いている。「大化」から数えて「令和」は248番目にあたる」と。

 さて、戦前のわが国では、大日本帝国憲法のもとに、旧皇室典範第12条に元号に関する規定が明記されていた。だが、敗戦後、GHQによって押し付けられた日本国憲法のもとに制定された現皇室典範では、元号に関する条文が消失し、法的根拠がなくなってしまった。そこで政府は元号を定める法案をつくったが、GHQがこれを拒否したため、元号は「事実たる慣習」になってしまった。そのままでは「昭和」を最後に元号の制度がなくなってしまうところだった。
 昭和43年(1968年)、わが国は明治百年を迎えた。これを機に、日本の伝統を取り戻そうという意識が高まった。政府は国旗・国歌とともに元号の法制化を進める検討を始めた。だが、和暦を止め、西暦一本にすべきという意見があり、法制化は容易ではなかった。民間では、日本の伝統を愛する人々が、昭和49年(1974年)に元号法制化の運動を開始した。昭和50年(1975年)、国会で、内閣法制局第一部長・角田礼次郎は、「元号は慣習で法的根拠はなく、陛下に万一のことがあれば空白の時代が始まる」と答弁した。世論は元号の存続を望む声が圧倒的だったが、当時は一大勢力だった日本社会党が、昭和52年(1977年)に「元号は昭和限り、以降は西暦」とする党見解を決定した。日本の伝統を軽視したり、破壊したりしようとする左翼や近代化主義者・キリスト教左派などの抵抗は強かった。これに対し、同年、日本青年協議会は元号法制化運動を本格化し、「地方から中央へ」を合言葉に地方議会議決運動を展開した。また、昭和53年(1978年)、日本を守る会(現・日本会議の前身団体の一つ)を中心に元号法制化実現国民会議が結成された。
 こうした保守・愛国的な国民運動の盛り上がりの中で、昭和54年(1979年)6月に元号法が国会で成立し、公布・施行となった。
 その10年後、昭和64年(1989年)1月7日に、昭和天皇が崩御された。元号に法的根拠が与えられていたので、すみやかに新たな元号が定められた。

 この度は、光格天皇以来202年ぶりの天皇の譲位に際し、新元号が前以って発表された。元号制度の1300年以上の歴史で初めて、国書である万葉集が典拠とされた。 
 「令」の文字が元号に用いられるのは、初めてという。この文字について、『漢字源』は、もとは「こうごうしい神のお告げのこと」とし、解字にて「『△印(おおいの下に集めることを示す)+人のひざまずく姿』で、人々を集めて、神や君主の宣告を伝えるさまをあらわす。清く美しいの意を含む」と説明している。こうした意味を持つ文字が、万葉集の梅の花の節にある「令月」という文言に用いられ、今回は新たな元号「令和」に使われたわけである。これもまた意義深いことと思う。

 以下は、大原氏の記事の全文。

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●産経新聞 平成31年4月19日

「令和」時代を前に元号を考える 国学院大学名誉教授・大原康男
2019.4.19

≪中国の「天命思想」から始まった≫
 4月1日、新しい元号「令和」が閣議決定され、直ちに公表された。前回は昭和天皇のご闘病と崩御の直後で、痛惜の思いが国を覆っていた中でのことであったが、今回は200年ぶりの譲位を前にしての公表だったので、何か新たな時代の到来を期待させるものがあったのか、予想外の“元号フィーバー”が巻き起こった。
 もともと元号は「地上の帝王は唯一至高の『天』から一般人民を教化育成せよとの命を受けて君臨する」とする漢民族の「天命思想」に基づいて、空間と時間という2つの統治の「元」(範疇(カテゴリー))のうち時元を指す。国語では「もと」あるいは「はじめ」と訓(よ)む。
 その起源は前漢の武帝即位の翌年(紀元前140)を「建元元年」と称したことにある。以後、辛亥革命(1911)まで2千年以上にわたって用いられ、中国の周辺諸国も採用するに至ったが(日本のほか朝鮮半島、モンゴル、チベット、インドシナなど)、今日ではわが国にしか残っていない。
 そのわが国では飛鳥時代に蘇我氏の専横を倒した政変に際し、孝徳天皇(36代)の元年(645)に「大化」の元号が建てられたのが嚆矢(こうし)で、次いで大化6年に「白雉(はくち)」と改めたのが改元の初例だ。
 その後しばらく途絶えたことがあったものの、文武天皇(42代)の5年(701)に「大宝」が建定されてからは断絶することなく、今日まで1300年以上も続いている。「大化」から数えて「令和」は248番目にあたる。

≪「昭和」のあとの存続の危機≫
 さて、改元はいかなる場合になされてきたのか。まず第1は改元の本義とされる「代始改元」(即位された新天皇の御代始めに行う)である。そのほかに▽「祥瑞改元」(国家にめでたいことが起こる予兆に因(ちな)んで行う)▽「災異改元」(地震、洪水、疾病など自然がもたらす災害を避けるために行う)▽「革命改元」(中国の運命予言論「讖緯(しんい)説」によって天命が革(あらた)まるとされた辛酉(しんゆう)の年の悪運を避けるために行う)▽「革令改元」(同じく政治上の変革があるとされた甲子(かっし)の年の凶運を避けるために行う)がある。
 「祥瑞改元」以下の改元によって、天皇ご一代に何度も改元されたことの煩瑣(はんさ)への批判から、江戸時代中期より中井竹山らの一代一元号の主張が高まり、ついに明治天皇(122代)の「即位改元の詔」(明治元)によって「一世一元の制」が確立したのである。
 すなわち「それ慶応四年を改めて明治元年と為(せ)よ。今より以後、旧制を革易し、一世一元、以(もっ)て永式と為(な)す」(原漢文)は、「皇室典範」(明治22)の第十二条「践祚(せんそ)ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」に明文で法制化された。
 ところが、現憲法の関連法規として制定された同名の「皇室典範」(昭和22)には元号に関する規定はない。それは当時の日本政府が連合国軍総司令部(GHQ)に配慮したからではない。実は旧典範時代に美濃部達吉博士が「元号を建てることは直接に国民の生活に関することであり、性質上純然たる国務に属し、もとより単純な皇室の内事ではない」と主張していたことを受けて、政府が別個の単行法として立案したところ、GHQが拒否したため、「昭和」は法的根拠を失って単なる「事実たる慣習」になってしまった。
 このまま放置すると、いずれの日にか「昭和」が終わった後は元号そのものがなくなってしまうとの危機感を抱いた有志国民の尽力によって、昭和54年に元号法が制定され、10年後の御代替わりに間に合ったという経緯である。

≪「御聴許」の明文化が必要だ≫
 最後に、元号選定の手続きに簡単に触れておきたい。
 平安中期から幕末までは大江、菅原など学識家系の人々を中心に選ばれた勘申(かんじん)者が出典を付した元号案を提出し、次いで特定の公卿(くぎょう)を召集して評議、それぞれ難(反対意見)と陳(賛成意見)を述べさせ(「難陳(なんちん)」)、その結果を上奏、勅裁を経て決定する。
 勘申の数が最も多かったのは「慶応」のときで41件(「平成」もその一つ)。また18回も勘申されて選ばれた「天保」のようなケースもある。「明治」は勘申者が選んだ5ないし6件の元号案を天皇自ら賢所で神籤(しんせん)を引き決定された前例のない方式だったという。
 「大正」「昭和」は皇室令の一つである登極令第二条「元号ハ枢密顧問ニ諮詢(しじゅん)シタル後之ヲ勅定ス」に基づき、天皇臨御の下に枢密院で評議し、裁可勅定された。
 元号法に拠(よ)り初めて制定された「平成」は、条文が「元号は、政令で定める」とあるだけなので、新天皇と無関係に閣議決定だけで決せられる危惧が潜在し、立法論としては疑義を払拭するために、事前に「御聴許」を得るという趣旨を明文で規定すべきであった。
 「令和」は新天皇が即位される前に決定されるという「平成」以上に異例の方式が取られたが、事前に天皇、皇太子に伝えられたとはいえ、「御聴許」の実は確保されたといえるのかどうか…。(国学院大学名誉教授・大原康男 おおはら・やすお)
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キリスト教190~陽明学からプロテスタンティズムへ

2019-04-23 09:53:05 | 心と宗教
●陽明学からプロテスタンティズムへ

 先に、武士や武士の子弟がキリスト教、またそのうちのプロテスタントに多く改宗・帰依した要因の第一に、陽明学の浸透を挙げた。この点について詳しく書く。
 徳川幕府は幕藩体制を維持するため、朱子学を公認教学とした。これに対し変革への行動を促す思想として、幕末・維新の志士に浸透していたのが、陽明学である。シナ南宋の朱熹が説いた朱子学は性即理とし、自然・人間の理性的な理解を説いた。シナ明代の王陽明が説いた陽明学は心即理とし、その理解を心情化したことで、より強く信仰的な性格を持った。陽明学は、心即理のほか、致良知、知行合一、万物一体の仁、事上磨錬を説く。基本的には儒教の一派であるから聖人を目指す学問なのだが、道を法とし、修行に座禅を取り入れれば仏教と習合し、天を神とし、聖人を神の子に置き換えれば、キリスト教に近似したものとなる。
 徳川家康のブレーンとなった儒学者・林羅山は、先に書いたハビアンと論争したことがある。朱子学の立場から陽明学を批判し、陽明学者・熊沢蕃山の思想を、「大底耶蘇(やそ)の変法也」「耶蘇の教ふる所と、以って異なるなきか」と批判した。
 蕃山の師は、中江藤樹である。藤樹は、近江聖人と呼ばれ、孝と仁愛に生きた人だった。同時に彼は、日本陽明学の祖とされる。王陽明の聖人思想に深く共感していた。藤樹は、天を上帝として人格的にとらえ、「世界のうちにあるすべての人々は、みな皇上帝・天神地祇の子孫である」(『翁問答』)と述べた。その思想における上帝と人間の関係は、キリスト教における人格神と、神の子としての人間の関係に通じるものがある。彼の弟子・蕃山の思想を「耶蘇の変法」と断じた林羅山の見方は、藤樹自身にも当てはまってくる。
 士族的プロテスタント、内村鑑三は、英文で書いた名著『代表的日本人』で、藤樹を代表的日本人の一人として挙げて、世界に紹介している。
 中江藤樹、熊沢蕃山以後、日本の陽明学は、大塩平八郎、佐藤一斎らに受け継がれた。そして、幕末にあっては、横井小楠、佐久間象山、吉田松陰、西郷隆盛らに強い影響を与えた。彼らこそ、維新の方向性を示し、その道を切り開いた指導者たちである。幕末に生を受けた武士や武士の子らの中には、彼らの書物や人物に触れて、陽明学の素養を身に着けた者がいた。
 幕末から明治初期にキリスト教が入ってきたとき、それに強い関心を示した日本人の中には、陽明学を学んでいた武士やその子らがいた。
 先に書いたように、日本のプロテスタントには、横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドという三つの流れがある。これらの団体に集ったのは、士族の若い知識人である。彼らは、儒教の天の概念を以てキリスト教の唯一神をとらえ、また、儒教的な倫理道徳を通じてプロテスタンティズムの禁欲・勤勉の倫理を理解した。特に陽明学の素養が、宗教的信仰としてキリスト教を受容する土壌となった。陽明学からプロテスタンティズムへという道筋があった。
 その具体例を、植村正久、海老名弾正、内村鑑三、新渡戸稲造の四人について見ていきたい。

 横浜バンド出身の植村正久は、長老派教会の牧師となって活動し、自由主義神学やキリスト教における日本主義の台頭に対して、福音主義の正統的な信仰の確立に努めた。
 植村は、1894年(明治27年)に「王陽明の立志」という評論を書いた。そこで大意次のように述べている。儒教は時代の経過とともに、すっかり堕落してしまった。だが、陽明学は、普通の儒学ではなく、「聖人学」である。王陽明は、人は誰もが心に中に聖人を生まれながらに持っていると説く。それを顕現できれば、誰もが聖人になることができる。これが、陽明が強調した立志である。植村は言う。「儒学は人をして地を離れしめず。しかれども陽明学は人をして天に至らしめんとす。儒学を知らんと欲する者は、朱子を措いて王陽明を繙くべし。山上垂訓の精神は、陽明洞の達人、すでに幾分その微光を観る」と。このように植村は、王陽明の思想の中に、イエスの山上の垂訓(マタイ書5章、ルカ書6章)に通じるものがあると説いている。
 このような植村の理解は、彼が陽明学の素養を以て、キリスト教を受容していたことを表している。
 海老名弾正ら熊本バンドの35人は、すべて陽明学を教養としていた。海老名は、中江藤樹は「基督の福音を聞かずして既に基督教会の長老」と断言している。また、蕃山からも強い影響を受け、蕃山は彼のキリスト教への改宗に跳躍台を提供したという。
 海老名は、自分が基督教へと向って難関を切り抜けたのは、「実学的見地」すなわち陽明学を胸に抱いていたからだという。朱子学は、親を三度諌めて聞かざれば泣いて従うと教えたが、陽明学は、良心を基本として天下国家を論じたから、天下国家のためには親に背いても進む活路を見出したという。また、熊本バンドと関係の深い横井小楠が、天を上帝に人格化し、天が我が心を見、天が我を保護すると説いたことが、海老名が天に向わせる指南となったという。それゆえ、海老名がキリスト教を知ったとき、儒教の上帝、旻天と、キリスト教の神は同じところに帰着すると思ったという。
 海老名弾正は、日本組合基督教会の指導者となった。自由主義神学の立場から、万人に普遍的な宗教意識を完成したものがキリスト教であるとし,キリスト教と神道や儒教の等質性を説き、正統派福音主義の植村正久と論争した。その思想は、神道的キリスト教と呼ばれる。海老名は愛国的な日本人であり、日露戦争や日韓併合をキリスト教精神の現れとして支持した。
 札幌バンド出身の内村鑑三は、無教会主義を唱えた。二つのJつまり日本(Japan)とイエス(Jesus)に仕えることを念願とした。
 内村は、『代表的日本人』で、西郷隆盛、上杉鷲山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5人を軍人、政治家、農民、教育者、宗教家を代表する日本人として書いた。そのうち、西郷と藤樹を陽明学派としている。
 西郷の章に大意、次のように述べている。「西郷は若くして王陽明の著書に心を引かれた。数あるシナの哲学者の中でも、王陽明は、良心に関する高遠な学説と、やさしい中にもきびしい天の法則を説いた点で、同じくアジアに起こった、かの尊厳きわまりない信仰であるキリスト教に最も近づいたものである。その後の西郷の書いたものには、王陽明の影響が、はっきり現れている。そこに流れるキリスト的な情操を見て、われわれは、それが王陽明の偉大で簡潔な思想から生じたものであり、また、王陽明の思想を自分の性格となるまで消化して、それを実行に移した西郷の偉大さを示すものであることを知るのである」と。
 このように書く内村は、キリスト教徒になる前は熱心な陽明学徒だった。そして、陽明学の素養がキリスト教への入信の土台になったのである。
 内村と同じく札幌バンド出身の新渡戸稲造も、キリスト教に入る前は熱心に陽明学を学んだ。キリスト教に改宗し、クェーカー教徒になった後も、陽明学を高く評価した。世界に武士道を知らしめた『武士道』において、王陽明を大意次のように紹介している。
 「西洋の読者は、王陽明の著述のなかに新約聖書との類似点が多いことを容易に見いだすだろう。特殊な用語の違いさえ認めれば、『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる』という言葉は、王陽明のほとんどどのページにも見い出される思想である。
 王陽明の『伝習録』は『人の胸中には個々の聖人がいる』と書いている。これはヨハネ書の『父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいる』(10章38節)やルカ書の「神の国はあなたがたの間にある』(17章21節)に通じる。またパウロの有名な『神が、私たちの内にあって生きる』というローマ書の言葉にも通じる」と。
 最後の引用に見られるように、新渡戸は王陽明の思想をイエスの言葉と対比して、その近似性を説いている。そのことはまた新渡戸が陽明学を通じてイエスの思想を理解したことを示している。
 以上、陽明学からプロテスタンティズムへとの道筋を進んだ士族の若い知識人の代表例を概術した。彼らにおいては陽明学の素養が、宗教的信仰としてキリスト教を受容する土壌となったのである。

 次回に続く。
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米キリスト教保守派は中国共産党を敵視~松本佐保氏

2019-04-21 08:53:52 | 心と宗教
 名古屋市立大学人文社会学部教授の松本佐保氏は、国際政治史の専門家で、国際政治と宗教の関係を研究を行っている。著書に『バチカン近現代史』(中公新書)、『熱狂する「神の国」アメリカ』(文春新書)他がある。
 松本氏は、産経新聞平成31年2月19日付に、米国のキリスト教保守派の動向を書いた。記事には、キリスト教保守派の教派等の構成については言及がないが、トランプ大統領にとっての最も強力な支持母体である。これも言及はないが、イスラエル・ロビーとして、ユダヤ系団体と固く連携している。
 松本氏は、米国のキリスト教保守が宗教弾圧を行う中国共産党への敵意を強めていることを報告している。記事の要所を抜粋する。
 「中国国内でキリスト教徒が、集団で逮捕されたり、教会が焼き打ちにあったりするなど弾圧を受けていることに、キリスト教保守は非難の声をあげている。さらに中国内での「信仰の自由」を確保し、より厳しい貿易交渉を中国に迫るよう大統領に圧力をかけている。
 また中国共産党政権による宗教弾圧がキリスト教徒にとどまらず、イスラム教徒であるウイグル人に対しても組織的に行われていることも激しく非難している。
 このようにキリスト教保守は中国に対する敵意を強めており、それは「イスラム敵視」を凌ぐものになりつつある」
 「キリスト教保守にとっての敵は今やイスラムというより、中国共産党である。そして立ち向かうべき相手は、宗教を弾圧して「神になろうとする中国国家主席」だと明言している。こうしたキリスト教保守の圧力が、今後のトランプ政権の中国政策にどう影響を及ぼすか、動向が注目される」。

 以下は、松本氏の記事の全文。

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●産経新聞 平成31年2月19日

https://special.sankei.com/f/seiron/article/20190219/0001.html
米キリスト教保守は中国を敵視 名古屋市立大学教授・松本佐保
2019.2.19

≪大統領を動かす伝道師たち≫
 「神がトランプ氏を大統領にと望まれた」-サラ・サンダース報道官は1月30日、キリスト教系メディア、クリスチャン放送ネットワーク(CBN)のインタビューでこう発言した。メキシコ国境の「壁」建設費問題をめぐる野党・民主党との対立でまひした政府機能が、暫定予算案の可決でようやく回復したタイミングだった。
 米国にはキリスト教系メディアが多数あり、特に日曜にはテレビ伝道師が聖書を引用して「あなたの生きる道」などを説く。その政治的影響は決してあなどれない。
 CBNは1961年にカリスマ伝道師のパット・ロバートソン氏が設立し、2004年のブッシュ・ジュニア大統領再選前も「神がブッシュ氏を大統領にお望みだ」と“預言”して、見事に的中させた実績がある。
 サンダース報道官の父、マイク・ハッカビー氏もまた南部バプティスト福音派のカリスマ伝道師で、元アーカンソー州知事を務めた。08年に続き16年にも大統領選に出馬したが予備選で撤退。その後はトランプ氏を支持し、自らの選挙戦の政策担当だった娘のサラ氏をトランプ政権の報道官として送り込んだ。
 トランプ政権内には、支持団体であるキリスト教保守ロビーとの繋(つな)がりを維持するため、「キリスト教カリスマ伝道師2世」が数人存在する。サンダース報道官のほか、フランクリン・グラハム氏やジェリー・ファルエル・ジュニア氏などだ。
 ファルエル氏は、1980年の大統領選でレーガン氏当選に貢献した保守的宗教組織「モラル・マジョリティー」の指導者、ジェリー・ファルエル氏の息子で、2016年大統領選ではトランプ氏の暴言の火消し役を務めている。
 これらキリスト教系組織はメディアを通じて活動し、票集めを担当しており、レーガン大統領以降、ブッシュ・ジュニア、トランプ各大統領の当選に重要な役割を果たした。その3大キーワードが「中絶反対」「イスラエルの敵国を叩(たた)く」「信教の自由」だ。

≪ウイグル人弾圧を激しく非難≫
 トランプ大統領は2月5日の一般教書演説で、民主党の州議会での中絶規制緩和の動きを批判した。また「われわれは『米国に死を』を唱え、ユダヤ人に対して虐殺をちらつかせる政権から目をそらさない」と述べた。
 イスラエルを擁護する姿勢は、18年5月の米大使館のエルサレム移転や、17年1月に発布した大統領令(13769号)で「ユダヤ教徒の敵」イスラム教徒の米国への入国制限などにも見ることができる。大統領令では、イスラム教徒が多数を占める幾つかの国から米国への入国制限を課した。キリスト教保守はイスラム教徒を敵視しているからである。
 さらにトランプ大統領は、イスラム過激組織「イスラム国」(IS)が支配していたシリアとイラクのほぼ全域は、米軍や有志連合などによって奪還されたと誇らしげに宣言した。
 これに対し、中国との貿易戦争に対するキリスト教保守による影響は一見、見えにくい。しかし中国国内でキリスト教徒が、集団で逮捕されたり、教会が焼き打ちにあったりするなど弾圧を受けていることに、キリスト教保守は非難の声をあげている。さらに中国内での「信仰の自由」を確保し、より厳しい貿易交渉を中国に迫るよう大統領に圧力をかけている。
 また中国共産党政権による宗教弾圧がキリスト教徒にとどまらず、イスラム教徒であるウイグル人に対しても組織的に行われていることも激しく非難している。
 このようにキリスト教保守は中国に対する敵意を強めており、それは「イスラム敵視」を凌(しの)ぐものになりつつある。

≪立ち向かう相手は習近平主席≫
 2月5日、アラブ首長国連邦を訪問したローマ法王を、キリスト教保守はイスラムとの宗教間対話に取り組む素晴らしい努力だと絶賛した。プロテスタントである彼らが、カトリックの法王を賛美することは珍しい。
 翌6日にはキリスト教保守派団体が「宗教の自由、貿易交渉、中国」というテーマで、キリスト教NGO「チャイナ・エイド」の代表と、ウイグル企業家ネットワーク代表などを招待して、シンポジウムを開催した。
 参加者は中国から米国への亡命者たちで、「チャイナ・エイド」は02年以降、中国のキリスト教徒を庇護(ひご)する活動を行っており、当局によるキリスト教徒弾圧が増加していることを報告した。ウイグル人の代表は新疆ウイグルに設置された収容所が年々拡大し、多くの人々が死亡、彼らの臓器が売られているなどの実態を語った。
 キリスト教保守にとっての敵は今やイスラムというより、中国共産党である。そして立ち向かうべき相手は、宗教を弾圧して「神になろうとする中国国家主席」だと明言している。こうしたキリスト教保守の圧力が、今後のトランプ政権の中国政策にどう影響を及ぼすか、動向が注目される。(まつもと さほ)
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キリスト教189~士族のプロテスタンティズム

2019-04-20 08:47:44 | 心と宗教
●士族のプロテスタンティズム

 西洋諸国が進出したアジア、アフリカ、ラテン・アメリカでは、どの民族でも知識階層にあってキリスト教に入る者が現れた。基本的には日本でもそれが起こったわけだが、興味深いのは、なぜ武士や武士の子弟が、江戸時代から長く禁教とされたキリスト教、またそのうちのプロテスタントに多く改宗・帰依したのかという点である。
 私は、(1)陽明学の浸透、(2)平田神道の影響、(3)武士道の個人意識の三つを要因と考えている。

(1)陽明学の浸透
 シナの儒教は、ユーラシア大陸の遊牧民が抱いていた宇宙の主宰神としての天の信仰が発達したものである。天の信仰は、ユダヤ的な唯一神教ではない。主宰神以外に、多数の神格を認める。儒教は、日本ではほとんど非宗教化され、儒学と呼ばれる学問となった。天の信仰は合理化され、道理に基づく倫理道徳となった。また、科挙官僚の文人・士大夫ではなく、軍事と治政を担う武士の教養となった。幕府公認の朱子学は神道と融合し、神儒習合の神道の様々な宗派を生み出した。私は、こうした日本的儒教がキリスト教受容に関係したと考える。特に陽明学に注目する。
 王陽明の思想はキリスト教との類似性が指摘されている。明治初期の士族出身のプロテスタントは、自らへの陽明学の影響を語っている。この点は、重要なので項目をあらためて別途書く。

(2)平田神道の影響
 19世紀前半、国学による古学神道を体系づけて大成したのが、平田篤胤である。平田神道は古学神道がそのまま発展したものではなく、古学神道とキリスト教を習合したものだった。篤胤は、主宰神の観念と来世の思想を強調した。これはキリスト教の影響による。著書『本教外篇』の一部は、明末のシナにおけるキリスト教文献、耶蘇会士アレニや宣教師リッチ等の書を翻案したものである。
 篤胤は、主宰神としての天之御中主神を強調しながら、多くの神々の役割分担を認めている。それゆえ、平田神道は、キリスト教の影響を受けた多神教である。
 平田神道は尊王復古を主張し、国体の尊厳を称揚し、民族的自覚を喚起する教えだった。それゆえ、幕末・維新の志士に強い影響を与えた。こうした主宰神を強調する神道が志士の間に浸透していたことが、キリスト教の受容を可能にする一つの要因となったと考えられる。

(3)武士道の個人意識
 世界の諸社会で日本と西欧でのみ、封建制が発達した。封建制は家産制と違い、専制体制ではないので、財の分配が主として当事者間の社会的交換によって定まる。封建制の下、日本では武士道、西欧では騎士道が発達した。武士道は領主と武士が親子のような情で結び合い、騎士道は相互の意思の一致による契約関係であった。そこに違いがあるが、ともに個人を重視する気風が育った点では共通性がある。
 プロテスタントは、救霊予定説を強調する。これは、個人に厳しい倫理とその実行を求め、神と個人が直接対面する信仰である。士族がカトリックではなくプロテスタントに多く帰依したのは、プロテスタントにおける個人主義が、個の自立を重んじる武士道の個人意識に合致したためと考えられる。

 次回に続く。
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アイヌ新法論をアップ

2019-04-19 10:29:50 | 時事
 4月9日から本日にかけてブログとMIXIに連載したアイヌ新法論を編集し、マイサイトに掲示しました。通してお読みになりたい方は、下記へどうぞ。

■アイヌ新法は日本を分断し、亡国に導く
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13-04.htm

★補説

 平成31年(2019年)4月19日、上記の掲示をした数時間後、「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」、略称アイヌ新法が成立した。法律として初めてアイヌを「先住民族」と明記し、独自の文化の維持・振興に向けた交付金制度を創設すること等を定めた。同法のもと、政府はアイヌ政策推進本部を設置し、政府や自治体の責任で産業や観光の振興にも取り組み、アイヌ以外の国民との共生や経済格差の是正を図るとのことである。
 2007年の国連宣言で民族の権利とされた自決権や教育権などは盛り込まず、付帯決議で宣言を尊重するよう政府に求めるにとどめたとはいえ、「先住民族」と法律に規定したことによって、今後多大な影響が予想される。日本の新たな苦難が始まった。私は、慰安婦問題以上の問題に拡大していくだろうと予想する。
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キリスト教188~幕末から明治初期のキリスト教

2019-04-18 12:13:54 | 心と宗教
●幕末から明治初期のキリスト教

 鎖国下で日本文明は熟成期を過ごし、独自の文化を開花させた。宗教的には、神道と仏教・儒教の融合・発展が見られる。後二者の日本化が進んだ。
 1853年、アメリカのペリー提督率いる黒船が来航し、圧倒的な軍事力を誇示して、わが国に開港を迫った。この時から、激動が始まった。幕府は鎖国政策から転換し、西洋諸国に門戸を開いた。1858年に日米修好通商条約等の諸条約が列強との間で結ばれた。その後、外交使節や貿易商とともに多数のキリスト教宣教師たちが来日した。
 最初に来たのは、カトリックである。1858年に日仏修好通商条約が結ばれると、3人の司祭が日本に入国した。ローマ教皇庁がパリ外国宣教会に宣教師派遣を依頼したものである。彼ら宣教師のうち、P・S・ジラールは、横浜に拠点を構え現在の山手教会を建てた。
L・T・フューレが長崎に現在の大浦天主堂を建てると、その1か月後、婦人たちが教会を訪れ、自分たちは隠れキリシタンであることを告白した。これを長崎の信徒発見という。
 1859年、プロテスタントが初めて来日し、アメリカの長老派、オランダ改革派教会、バプテスト、メソディスト等の宣教師が活動を開始した。また、ロシア正教会は1861年に、司祭が箱館(函館)駐在のロシア領事館付司祭として来朝し、布教を行った。
 幕末の動乱を経て、1867年(慶応3年)、徳川慶喜は、約700年続いた武家政権から朝廷に大政奉還を行った。明治天皇は王政復古を宣言し、ここに明治維新が始まった。日本文明は発展期に入った。翌68年(慶応4年、明治元年)、新政府の政治方針として、五箇条の御誓文が公布された。御誓文は、新たな日本国及び日本文明を創造する根本方針を示したものである。この方針の下で、明治政府は、古代からの皇室中心の国柄を明確にしつつ、近代的な中央集権国家を建設するというユニークな国づくりを推進した。
 同じ年、明治政府は、五榜の掲示という高札を掲示してキリスト教禁教を継続する方針を明らかにした。キリスト教禁止と信徒への弾圧は、列強の激しい抗議と反発を招いた。不平等条約改正を目指す岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の解禁が条約改正の条件であると告げられた。そこで政府は、1873年にキリスト教禁止令を解除した。
 明治政府は、富国強兵・殖産興業・文明開化をスローガンとして、日本の近代化を図った。近代化は、同時に西洋化の過程でもある。進歩発展した欧米に追いつくために、総力をあげて、西洋の思想・文化・知識を採り入れた。西洋化政策が進められると、西洋文明の宗教的中核であるキリスト教への関心が高まった。上流階級にキリスト教に入信する者が多く出た。
 カトリック・パリ外国宣教会の宣教師は、教育事業と社会福祉事業に力を注ぎ、各地に修道院、孤児院、学校、療養所等を設立した。しかし、この時期に、それ以上に熱心活動したのは、プロテスタントである。
 幕末から明治初期に来たプロテスタントの宣教師の情熱の背景には、アメリカの大覚醒と呼ばれる数次にわたる信仰復興運動があった。アメリカの宣教師によって、日本に福音主義(エヴァンジェリカリズム)が伝えられた。「聖書のみ」「恩寵のみ」「信仰のみ」の立場である。
 近代以降の日本のプロテスタントには、三つの流れがある。横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドである。バンドとは「団体」の意味である。
 横浜バンドは、ヘボンと呼ばれた長老派の医師J・C・ヘップバーンによる。彼が1863年に開いた横浜英学所はバラ学校とも呼ばれ、押川方義らが洗礼を受けた。本多庸一、植村正久らもこの系統である。
 熊本バンドは、1871年、熊本洋学校に教師として招かれた元陸軍士官L・L・ジェーンズによる。彼は会衆派(組合派)の熱心な信徒だった。その教え子たちが入信した。このグループは、新島襄が1875年に開いた同志社英学校に加わった。その中に小崎弘道、海老名弾正、金森通倫らがいた。
 札幌バンドは、1876年札幌農学校で教壇に立ったW・S・クラークとメソディスト派宣教師メリマン・ハリスによる。彼らの指導を受けた教え子が入信した。内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吉らがいた。
 日本のプロテスタントはこれら三つのグループを中心として発展した。横浜バンドら日本基督教会が、熊本バンドから日本組合基督教会が生まれた。札幌バンドはメソディジスト派との関係を絶ち、新渡戸はクェーカー派の信徒になり、内村は無教会主義を創始した。
 ここで注目すべき人物が新島襄である。新島は、武家に生まれた。米国でキリスト教を学びたいと思い立って、1864年に米国への渡航を図った。箱館に潜伏中、ロシア領事館付司祭のニコライ・カサートキンと会った。ニコライは日本に初めてロシア正教を伝えた宣教師である。ニコライは新島から日本語を学ぶ一方、新島に自分の弟子になることを勧めた。しかし、新島の意思は変わらず、ニコライは新島の密航に協力した。
 渡米した新島は、神学校を卒業し、名門校アマースト大学を卒業した。日本人で初めて外国の学士(理学士)の学位取得だった。新島はこの大学で、W・S・クラークから化学の授業を受けた。クラークにとっては最初の日本人学生だった。この出会いがきっかけで、クラークは来日することとなった。正式な留学生と認められた新島は、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会い、木戸孝允付の通訳として欧州視察に加わった。その際、各国の教育制度・教育機関をよく観察した。帰国後は、同志社英学校や同志社女学校を開いた。
 新島もそうだが、日本の初期のプロテスタント指導者には、武士や武士の子弟が多い。元佐幕派の士族階層が中心だった。

 次回に続く。
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アイヌ新法5~政治的偏向、中国が利用

2019-04-17 09:33:30 | 時事
●アイヌ系団体の政治的な偏向

 公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構は、学習用副読本を作って、北海道の小中学生に配布している。その内容に「(日本)政府がアイヌの人達に断りも無く(北海道を)一方的に日本の一部とした」と書かれている。これは歴史的事実に反するだけではなく、北海道の子供達に自虐史観を植え付ける内容である。また「日本国民には倭人、アイヌ民族、ウィルタ(樺太で暮らしていた人々)、在日韓国朝鮮人、さらには世界各国に出自を持つ様々な民族が含まれている」とも書かれている。在日韓国人等は、日本国籍ではないから、事実に反することを教えている。
 このアイヌ財団の理事は、天皇陛下が北海道をご訪問された時に、「天皇制反対」の集会を開いた。そういう政治的な偏向は、アイヌ協会ではさらに目立っている。アイヌ協会の阿部一司副理事長は、北朝鮮のチュチェ思想、すなわち金日成の主体思想の信奉者である。また、アイヌ協会は部落団体・在日団体とのつながりが指摘されている。
 これらのことは、アイヌの関係団体は、いまやほとんど反日左翼団体になっていることを意味する。

●中国共産党が利用

 さらに大きな問題がある。背後で中国が絡んでいるのである。中国共産党は、早くからアイヌに目をつけてきた。昭和47年(1972年)の日中友好回復の前の年に、アイヌを中国に招いた。すると、アイヌは中国を素晴らしい国だと思うようになった。その後、中国共産党は何度もアイヌを呼んで洗脳したので、アイヌ協会は中国共産党と密接な関係がある。
 平成24年(2012年)4月、日中友好訪問団として唐家璇・元国務委員(外務大臣・副首相級)が、白老町に建設中の「国立民族共生公園」の予定地を訪問した。まだほとんど何もない状態だったのに、中国は早くも強い関心を向けていた。
 平成30年(2018年)5月に李克強首相が北海道を訪れた。高橋はるみ知事と会い、「中国と北海道の交流をさらに深めていきたい」と述べ、北海道の農産品を輸入する用意があることを伝えた。安倍首相が李克強首相に同行し、苫小牧市にあるトヨタ自動車の工場を訪問し、先端技術を見学した。李首相は、この時、札幌でアイヌ協会の会長と会合を持っている。
 私は、ブログや講演等で、中国資本が、北海道の各地で土地を買収していることを指摘し、対応を提案してきている。中国共産党は、北海道の水や農産物、鉱物資源等に目をつけ、北海道を支配しようと狙っている。そして、アイヌを北海道の支配に利用しようとしていると見られる。

 次回に続く。

■追記
 本稿を含む拙稿「アイヌ新法は日本を分断し、亡国に導く」は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13-04.htm
 また、これに続く拙稿「アイヌ施策推進法は改正すべし~その誤謬と大いなる危険性」を合わせてお読みください。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13-05.htm
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