ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

蓮舫氏が民進党代表、稲田氏が防衛大臣を辞任

2017-07-31 09:20:50 | 時事
 民進党の蓮舫代表が、7月27日午後3時からの記者会見で辞任を表明しました。テレビの中継放送を視聴しましたが、蓮舫氏は本日昼の臨時執行役員会で了承されたと報告しました。自身は「一議員」になって「ゼロからのスタート」をしたいと語りました。安倍政権批判の「攻め」はよかったが「受け」が弱かった、「遠心力」を生んでしまったとして、今後、自分の辞任後、民進党がより強くなることを期待する言葉を述べました。
 蓮舫氏が「遠心力」を生んだ最大の原因は、二重国籍疑惑です。蓮舫氏は戸籍等の開示を拒み続け、ようやく示した台湾の国籍離脱証明書は、外国の公文書偽造を疑われるものでした。二重どころか多重国籍の疑惑も出てきています。この問題をあいまいにしたまま、蓮舫氏は代表辞任後も「一議員」としてやっていきたいということですが、意図的な重国籍は議員辞職に値します。徹底的に追求しましょう。蓮舫氏個人だけでなく、相当数いると推測される重国籍議員を国会から追放しましょう。これは差別主義でも排外主義でもありません。独立主権国家としての本来の秩序の回復を求める行動です。
 次の代表選挙は、保守系の前原誠司氏と左翼・リベラル系の枝野幸男氏の一騎打ちとなる見込みです。どちらが代表になったとしても、もはや民進党の再建は無理でしょう。もともと政党としての求心力となる理念のない寄せ集め政党です。泥船から逃げ出す離党者が続き、泡沫政党としての末路をたどると思われます。

 蓮舫氏の民進党代表辞任の翌日、稲田朋美防衛大臣が南スーダン国連平和維持活動の日報問題の責任を取り、辞意を表明しました。日報問題に関する特別防衛監察の結果の公表と合わせての辞任でした。安倍晋三首相は、稲田防相が監督責任を取って辞任したことについて、任命責任を認め、「国民のみなさまに心からおわびを申し上げたい」と謝罪しました。
 私は、稲田氏について、民進党・辻元清美議員に、昨年8月15日南スーダンの視察に行って靖国神社に参拝しなかったことを追求されて涙を流した姿を見て、防衛大臣は不適格と判断しました。国防を担うには、性格が弱すぎます。また自分を責める倫理意識が強すぎます。また、同時に精神的に不安定なものを感じます。都議選の自民党候補に対する応援演説で「防衛省・自衛隊としてもお願いしたい」という発言は、防相として絶対口にしてはならない失言です。理性と感情のバランスが健常に保たれていれば、ありえない、最悪の失言でした。
 安倍首相は、優秀な人材の登用に秀でていますが、同時に自分と姿勢や思想の近い政治家を大事にしすぎてしまう傾向があります。そこに「お友達内閣」とか「えこひいき」という批判を受ける隙を生じています。首相自ら、憲法の改正をめざし、その焦点となる自衛隊の明記という重大課題を打ち出している中で、関係閣僚となる防衛大臣がアキレスけんになってしまったことは、人事の判断に甘さがあったものと思います。来る内閣改造においては、これまでの経験を踏まえて、憲法改正、国防強化という重大課題を実行するために適切な人事が行われるよう希望します。
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ユダヤ82~“死の商人”バーナード・バルーク(続き)

2017-07-30 08:47:39 | ユダヤ的価値観
●世界大戦と核の時代の“死の商人”バーナード・バルーク(続き)

 1939年(昭和14年)9月、ドイツのポーランド侵攻によって、第2次世界大戦がはじまった。バルークは、第1次大戦に続いてアメリカを大戦に参加させようとした。戦争による膨大な利益を得るためである。対独戦に苦しむ英国の首相チャーチルも、米国の参戦を求めていた。チャーチルは、英国王室に対してとともに、一貫してロスチャイルド家に忠実だった。バルークはチャーチルと親友であり、英国を援けるため、ルーズベルトに助言し、アメリカを参戦に導いた。
 参戦の直接的なきっかけは、日本軍から真珠湾攻撃を受けたことである。日本は、先に手を出すようアメリカの罠にはめられた。
 アメリカは、真珠湾攻撃の数か月前、41年3月に武器貸与法を成立させた。当時中立国だったアメリカが連合国に軍需品の供給ができるように定めたものである。同法は、バルークの「ラファイエット・パーク」で立案された。成立すると、英・仏等だけでなく、共産国のソ連にも適用された。
 バルークは、ルーズベルトの大統領顧問として、米国の軍需生産全般に強い影響力を及ぼしていた。対日戦争が始まると、バルークは政府が全ての物流を支配し、大統領がその全権を掌握する強大な中央組織の創設を、ルーズベルトに建言した。この方針に沿って42年1月に設立されたのが、戦時生産委員会(WPB:War Production Board)である。バルークは、この政府機関を通じて、軍需で巨富を得た。
 バルークと関係の深いアヴェレル・ハリマンは、1943年にルーズベルトから在ソ連のアメリカ合衆国特命全権大使に任命された。ハリマンは、モスクワに向う船の中で「与え、与え、そして与える。一切の見返りを考えずに」と語った。ソ連は航空機1万機以上、戦車、軍需用燃料等をアメリカから貸与された。ソ連は戦後も貸付金を返さず、アメリカも強く要求しなかった。米国は何のためにソ連に武器を与えたか。軍事予算による利益が、バルークの取り仕切る米国の軍需産業に入るからである。バルークと通じるハリマン大使は、チャーチルやスターリンら連合国の首脳間の調整を行った。46年まで在職した。
 バルークは、原子爆弾の開発・製造の推進も行った。第2次世界大戦中に進められた原爆の研究は、「マンハッタン計画」と呼ばれた。国家最高機密事項であり、大統領やヘンリー・スティムソン陸軍長官など限られた関係者のみしか知らず、議会への報告などは一切行なわれなかった。大統領直轄の最優先プロジェクトとして、膨大な資金と人材が投入された。ユダヤの「死の商人」であるバルークにとって、原爆は巨大なビジネス・チャンスだった。マンハッタン計画は優秀なユダヤ人科学者が多数参加して、進められた。その点は、後の項目に詳しく書く。
 1945年4月にルーズベルトが急死し、副大統領のハリー・トルーマンが大統領に就任した。原爆が完成すると、バルークはトルーマンに原爆の対日使用を積極的に勧めた。彼は、京都への原爆投下を主張した。これに反対し、広島と長崎への投下を決定したのは、陸軍長官スティムソンだった。
 スティムソンは、アヴェレル・ハリマンの友人であり、彼もスカル・アンド・ボーンズのメンバーだった。もとはハリマン家の弁護士だったが、政界に進出して長く活躍した。ユダヤ人ではない。共和党ウィリアム・タフト大統領の下で1911年に民間人でありながら陸軍長官に任命され、また共和党フーヴァー政権では国務長官に起用された。バルークが民主党のルーズベルトを大統領に擁立すると、スティムソンは彼とともにルーズベルトを取り巻いて政策に影響を与え、大戦に参戦するため、日本に先に手を出せるように画策した。陸軍長官として戦争を指導し、マンハッタン計画の最高責任者を務め、日本への原爆投下を遂行した。
 スティムソンは、原爆使用に対する批判が起ると、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人の米国兵士の生命が救われた」と発言して、使用を正当化した。それが、今日も米国の世論の多数意見となっている。だが、それが理由であれば、広島に続いて長崎に投下する必要はなかった。広島にはウラン型原爆のリトル・ボーイ、長崎にはプルトニウム型原爆のファット・マンが投下された。これら2種の効果を実験するために投下されたのである。また、ソ連に対して核兵器の脅威を与え、大戦後の世界で優位を確保することが目的だったと見られる。
 原爆投下は、ハリー・トルーマン大統領が決定したというのが長く定説になっていた。だが実は大統領は決定を知らなかったことが明らかになった。また原爆使用の実際の理由は、膨大な開発費が投じられてきたことを正当化するためだったという説が有力になっている。
 スティムソンは、トルーマン政権でも大統領の信頼を得て戦争の指揮を執り続けた。多くの歴史書では、彼の長年にわたる活動の背後には、一貫してバルークがいたことが軽視されている。
 大戦終結後、バルークは、トルーマン政権下で国連原子力委員会のアメリカの主席代表となった。バルークは、すべての核技術を国際的な管理下に置くことを提案したが、それはアメリカの核独占によってソ連を牽制するものだった。そのことが明らかになったため、バルーク案による国際原子力管理協定のもくろみは破綻した。
 「冷戦(Cold war)」という言葉は、1947年(昭和22年)4月にバルークが初めて使用したものだった。冷戦下の1961年(昭和36年)1月、アイゼンハワー大統領は、辞任演説で軍産複合体の危険性を国民に語った。「この巨大な軍隊と軍需産業の複合体は、アメリカが経験したことのない新しいものである。(略)大変な不幸をもたらす見当違いな権力が増大していく可能性がある。軍産複合体が我々の自由と民主主義の体制を危険に陥れるのを、手をこまねいて待っていてはいけない」と。
 大戦によって成長した軍需産業の中から、戦争で利益を上げる大規模な企業集団が出現した。その企業集団と国防総省、軍、CIA等が結びつき、軍・産・官・学が連携する巨大な勢力となった。それが軍産複合体である。
 軍産複合体は、大戦中の核兵器の開発の中で形成された。軍需産業にとっては、通常兵器とは規模の違うビジネスが、核兵器の開発・生産だった。そこに軍産複合体が形成された。その形成は、バルークの存在なしには考えられないものだった。
 軍需産業にとって最も大きなビジネス・チャンスは、戦争である。戦争は、一大公共事業であり、武器・弾薬を始め、兵隊の食糧・生活物資等、膨大な需要を生む。恩恵を受ける企業は多くの分野に及ぶ。自国が戦場にならない戦争は、大いに儲かる。だから軍需産業は、新たな戦争を求める。そしていったん戦争が始まると、これを可能な限り長引かせようとする。戦争が長く続くほど軍需産業は潤う。アメリカに出現した軍産複合体は、自らの利益のため、政府に働きかけ、政策を左右するようになっていった。
 バルークは、ウィルソンをはじめ、ハーディング、クーリッジ、フーヴァー、ルーズベルト、トルーマンの6人の大統領から絶大な信頼を寄せられ、助言を与える立場にあり続けた。その期間は、30年以上に及ぶ。大統領の任期は1期4年で基本は2期まで、唯一の例外がFDRの3期だったことを考えると、バルークがいかに長く権力の中枢に関わったかがわかる。
 バルークは、1965年に95歳で死んだ。ドイツ30年戦争以後、「死の商人」として戦争で巨富を獲得したユダヤ人がいたが、2度の世界大戦と原爆の開発・増産の時代に軍需産業で活躍したバルークこそ、ユダヤの「死の商人」の典型である。また、国家間に積極的に戦争を起こさせ、多数の人命と国土の破壊を通じて、富を増大しようとする彼のビジネスは、ユダヤ的価値観の一つの究極の姿と言えるだろう。バルークの死後も、彼と同じように戦争ビジネスで巨富を追い求めている「死の商人」が国際社会で暗躍しているのである。

 次回に続く。
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一つの制作会社がテレビ局4社の16番組以上を制作

2017-07-29 08:52:58 | 時事
 多くのマスメディアの報道番組が偏向している理由の一つとして、社内・局内に在日や左翼が多いことは知られていたが、(株)泉放送制作という一つの制作会社が日テレ、フジ、TBS、テレ朝の16番組以上を制作していたことがわかった。驚きである。
 泉放送制作は、TBSの演出プロデューサーだった泉久次氏が1965年に設立したテレビ制作会社。この会社とともに注目されているのが、TBSのテレビ番組「サンデーモーニング」のプロデューサー、金富隆氏。金富氏は「筑紫哲也ニュース23」のディレクターを務めた人物である。「ニュース23」を制作していたのは、泉放送制作だった。金富氏が同社の社員ないし契約社員であるかかどうかは不明だが、「サンモニ」「ニュース23」を一緒に作っていることから、深い関係にあることは間違いないだろう。
 金富氏のプロフィールは明らかになっていないが、在日の可能性はある。TBSは採用に在日枠があり、それで入社した者が制作・編集に強い影響力を持つようになった、と元社員が伝えている。そのTBSの看板番組だった「筑紫哲也ニュース23」のディレクターが、金富隆氏だったということだから、可能性は大きいと思う。
 昭和40年代の半ばには、既に日本の新聞・テレビは三国人に支配されるような状況になっていたと見られる。それから約50年たった今、その支配体制が頂点に達しているということだろう。
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ユダヤ81~“死の商人”バーナード・バルーク

2017-07-28 09:21:29 | ユダヤ的価値観
●世界大戦と核の時代の“死の商人”バーナード・バルーク

 第1次世界大戦・第2次世界大戦から核時代に及ぶまで、米国の政治・経済で重要な役割を果たしたユダヤ人に、バーナード・バルークがいる。バルークの名には、本稿で既に数度触れたが、ここでその人物について詳しく書く。
 バルーク家は、1700年代には、ロスチャイルド家、カーン家、シフ家とともに、ドイツ・フランクフルトのゲットーにいた。彼らはこのゲットーから出発し、経済的な富や政治的な権力を手にするようになっていった。そのうちバルーク家は、ラビを生み出す家系だった。
 バーナード・バルークは1870年、米国サウスキャロライナ州に生まれた。冷徹な投資で巨額の資産を作り、ウォール街の伝説の相場師となり、「ウォール街の無冠の帝王」と呼ばれた。また、軍需産業に進出し、「兵器産業の大立者」「戦争仕掛人」といわれた。ユダヤ人社会の大物であり、ユダヤ教正統派の政治団体である「アグダス・イスラエル」代表を務めた。経済力とユダヤ人社会をバックに、政界でも実力を発揮し、20世紀前半から半ばにかけて、アメリカのユダヤ人の中で最も深く国家権力の中枢に関わった。英国の改宗ユダヤ人首相になぞらえて「米国のディズレーリ」とも呼ばれた。
 バルークは、ロスチャイルドら巨大国際金融資本家が1916年にウッドロー・ウィルソンを大統領に擁立した際、選挙資金集めで大きな役割を担った。そして、ウィルソンの側近となって、エドワード・マンデル・ハウスとともに大統領に重要な影響を与えた。
 バルークは、アメリカが第1次大戦に参戦するように暗躍し、これに成功した。アメリカ政府が、1917年7月に戦時産業局(WIB: War Industries Board)を設立するとその長官となった。戦時産業局は、企業に対し大量生産技術の導入を促進し、製品の規格標準化、生産量や資源・原料の割り当てなどを指示した。バルークは、その地位を利用して、軍事予算から莫大な利益を得た。
 大戦前、バルークの資産は100万ドルだったが、大戦後、その資産は2億ドルにもなっていた。バルークは、ヴェルサイユ講和会議に参加し、賠償委員会の委員長を務めた。委員会の提案に基づき、講和会議はドイツに法外な賠償金の支払いを求めた。
 1921年にイギリスの円卓会議に連なる外交評議会(CFR)が設立された際には、バルークはその創設メンバーの一人となった。WASPが支配する当時のアメリカにおいて、彼以外にメンバーに加わったユダヤ人には、ポール・ウォーバーグ、ジェイコブ・シフ、ウォルター・リップマンらいた。ユダヤ系と考えられるハウスもメンバーだった。
 第1次大戦後、世界は戦後の復興と技術革新により、空前の好景気を迎えた。狂乱の投機熱は、世界恐慌の要因となった。1929年にニューヨーク発の世界恐慌が起こった際、バルークは、市場が暴落する前に売り抜けて財を築いたと噂された。バルークは、鉄道王エドワード・ハリマンの投機株を一手に引き受けていた。
 エドワード・ハリマンは、ロスチャイルド家の支援を受けて、ユニオン・パシフィック鉄道及びサザン・パシフィック鉄道の経営者として財を成した。1905年日露戦争後のポーツマス条約が締結されると来日して首相の桂太郎が会談し、南満州鉄道を日米で共同経営する覚書に合意した。しかし、講和会議から戻った外相の小村寿太郎が猛反発し、覚書は破棄された。ハリマンはこれに激怒し、これを機にアメリカが日本を将来の敵国と定め、大東亜戦争に至ったという見方がある。
 バルークは、エドワード・ハリマンの死後、息子のアヴェレルとも関係を続けた。アヴェレルは実業家としてだけでなく政界でも活躍した。イェール大学系の秘密結社スカル・アンド・ボーンズのメンバーであり、また、ロスチャイルド家とのつながりを父から継承していた。
 バルークは、ウィルソン擁立以降も歴代の大統領の誕生に関わり、彼らに助言を与える立場にあり続けた。大恐慌後、バルークは、共和党のハーバード・フーヴァーに代えて、民主党のフランクリン・デラノ・ルーズベルトを大統領にしようとした。FDRをニューヨーク州知事に擁立した主役はバルークだった。そして、彼はさらにFDRを大統領に押し上げた。
 ユダヤ人のバルークは、WASPの名門クラブには入れなかった。そこで、ユダヤ人経営者たちを誘って、秘密結社的なクラブを作った。ハウスが加入したほか、アヴェレル・ハリマン、FDRの叔父フレデリック・デラノも参加した。クラブは、ホワイトハウスから道を隔てた公園にあり、その所在地の名から「ラファイエット・パーク」と呼ばれた。
 「ラファイエット・パーク」は「第二のホワイトハウス」と呼ばれた。バルークとハウスは、ここでルーズベルトに数々の政策の実行を迫った。財務長官でユダヤ人のヘンリー・モーゲンソーも、「ラファイエット・パーク」でバルークやハウスと相談し、大統領にメモや書類を渡してアメリカの財政を動かした。彼らは、ロスチャイルド家の意向を受けていたと考えられる。

 次回に続く。
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台湾から日本精神を伝えた蔡焜燦氏

2017-07-27 09:44:45 | 日本精神

 台湾人として日本精神を伝えた蔡焜燦(さいこんさん)氏が、7月17日に亡くなった。



 17年前に書いたものだが、拙稿を再掲して、氏の功績をたたえたい。

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■台湾に生きる「日本精神(リップンチェンシン)」
2000.7.14

 台湾は、戦前50年間にわたり、日本の領土でした。当時、台湾で日本人から教育を受けた人に、蔡焜燦(さいこんさん)氏がいます。蔡氏は現在、ハイテク企業等、数社を経営する台湾財界の著名人です。氏は、次のように語っています。
 「私の経営理念の根底には、日本統治時代の教育精神がありました。日本人の教師たちは、われわれ台湾人に『愛』をもって接し、『公』という観念を教えてくれました。
 私は、会社経営にあたっては、常にこの『日本精神』で臨み、『大和魂』で艱難辛苦を乗り越えてきました。それは、きっとこれからの台湾の国づくりにも不可欠の精神だと思います。
 日本の台湾への最大の贈り物は、この精神を残してくれたことです。公の意識とそれに殉ずる精神、武士道の心です。今、私たちはこのサムライ精神で大陸と対峙し、台湾人のための台湾づくりに向っているのです。
 『日本精神』は台湾語で『リップンチェンシン』と発音し、これはすべて良いものという意味の普通名詞となっています」 (『日本の息吹』平成12年6月号)
蔡氏と同じく台湾人の金美齢氏は、「日本精神」とは、次のようなものだと言います。
 「台湾における『日本精神』は、勤勉、向学心、滅私奉公、真面目、約束事を守る、時間を守るといった諸々の価値を包括している。それはたとえば『この人は〝日本精神″で店を経営している』と言われる商店主は、大いに信用できるということなのである」(月刊『日本』 平成10年5月号)
 蔡焜燦氏には『台湾人と日本精神~日本人よ胸を張りなさい』(小学館)という著書があります。この本は、戦前の台湾で、日本人がいかに立派なことを行ったかを、台湾人の立場で記しています。そして、台湾の人々が、日本統治時代に日本人から教育された「日本精神」を、今日も大切に持ち続けていることを伝えています。
 蔡氏は本書で、次のように書いています。
 「かつての祖国・日本の若者たちよ、あなた方の先人たちは実に立派であり、いまも台湾の地で『日本精神』が崇敬されている事実の語るところを君たちの後世に伝えられよ。そして、自国の歴史を正当に評価し、自信と誇りを持って堂々と胸を張って未来に雄雄しく羽ばたいてほしい。『日本人よ、目覚めよ、そして自分の国を愛しなさい!』 これは"元日本人"からあなた方に送る激励のメッセージである」
 日本精神で経営を行ってきたという元日本人・蔡焜燦氏が、日本精神を説く言葉には、確かな重みがあります。近年、破綻に陥った雪印やそごう等の企業の経営者に欠けていたもの、そして混迷する日本の社会を変えるために必要なもの、それは、私たちの先祖・先輩が持っていた「日本精神」なのではないでしょうか。
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 次に、蔡焜燦氏をよく知る前拓殖大学総長の渡辺利夫氏が、本日の産経新聞「正論」に追悼の言葉を寄せている。併せて掲載する。

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●産経新聞 平成29年7月27日

2017.7.27 08:00更新
【正論】
「日本精神」を体現した蔡焜燦氏逝く 「大和魂」でセイコー電子台湾邦人をグローバル企業に育て上げた氏の精神に学べ 拓殖大学学事顧問・渡辺利夫

≪われわれが衛るべきものとは≫
 平成27年9月、集団的自衛権の行使を容認する平和安全法制が成立した。きわめて限定的な行使容認だが、半歩の前進ではあろう。
 しかし、成立にいたるまでのジャーナリズムを巻き込んだ激しい論戦を眺めていて、私はひどくむなしい思いを拭うことができなかった。集団的自衛権を行使して一体われわれは何を衛(まも)ろうというのか、この肝心要の一点が議論の対象となることがまるでなかったからである。
 「何を衛るか」を論じず「いかに衛るのか」のみを、あれほどまでに激しく論じ合う姿は異常である。当事者に問えば、衛るものは国民の生命と財産だと答えるに決まっている。しかし、国民の生命と財産を衛るというのは国家存立の最低限の条件であって、これでは答えにならない。
 われわれが衛るべき日本とは何か、少なくとも知識人といわれる者がこの議論をもって自衛権論争に加わったことを私は寡聞にして知らない。何と著しい思想の劣化か。
 平和安全法制成立の1年後の8月8日、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」のビデオメッセージが発せられた。一系の天子が世を継いで連綿とつづくこと、この事実こそが日本民族の永世の象徴なのである。
 「国体」のことを深く思い見よという天の声が、天皇陛下のメッセージを伝える部屋の向こうの方から響いているように感じられた。
 政府は陛下の生前退位に関する有識者会議なるものを組織し、はやくも平成29年6月16日に「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」を公布した。死せる者の心の声に耳を傾けることもなく、現世にたまたま生きて在る者のみによる、拙速というべき特別立法であった。日本はいつからこんな「その日暮らし」の国になってしまったのか。

≪統治時代に育まれた精神を体現≫
 7月17日、台湾歌壇代表の蔡焜燦氏が逝去された。享年90。縁あって蔡氏と長らく交誼を得てきた私は、日本人の「原型」をいつも蔡氏の言説や立ち居振る舞いの中にみてきた。「日本精神(リップンチェンシン)」とは、日本の統治時代に始まり現在の台湾になお残る言葉である。勤勉で正直に生き約束は守る、といった語調であろうか。日本の統治時代に育まれたこの精神を体現した丈夫(ますらお)が蔡氏である。
 「日本語のすでに滅びし国に住み短歌(うた)詠み継げる人や幾人(いくたり)」
 「万葉の流れこの地に留めむと命の限り短歌詠み行かむ」
 蔡氏は台湾歌壇の創始者・呉建堂氏のこの歌こそ、台湾の日本語世代の真情だと説く。東日本大震災時の蔡氏の和歌はこうである。
 「国難の地震(なゐ)と津波に襲はるる祖国護れと若人励ます」
 この祖国は日本か台湾か、若人は日本人か台湾人か。蔡氏はいずれをも暗示しているのであろう。
 蔡氏は日本統治時代の台湾に生まれ育った。昭和17年陸軍特別志願兵制度が施行され台湾人にも軍人への門戸が開かれるや、これに応募、少年航空兵に合格、昭和20年には岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に入隊。終戦後、帰国した蔡氏をまっていたのは国民党の圧政に苦しむ台湾であった。
 白色テロが横行し、3万とも5万ともいわれる無辜(むこ)の台湾人が国民党軍によって逮捕、処刑された。蔡氏は難を逃れたが実弟は10年の懲役刑を科された。日本統治時代の痕跡を悉(ことごと)く抹消し、日本人を「東洋鬼」「小日本」と蔑称する反日宣伝・教育の時代でもあった。蔡氏は苦難の時代にありながらもビジネスに活路を求め、セイコー電子台湾法人の董事長、次いで半導体のデザイン会社を創設、経営理念を「日本精神」「大和魂」におき、幾多の艱難(かんなん)を乗り越えて同社をグローバル企業に育てあげた立志伝中の人物である。
 蔡氏に接していると、日本人が日本人であることを証す精神の方位、戦後の日本人が忘れてきた気概の在処(ありか)に気づかされて、はっとさせられることがしばしばある。

≪刻まれた強靱さを継承したい≫
 蔡氏はこう言う。今日の台湾の近代化の基盤となったものが日本統治時代の50年にあったことは、心ある台湾人なら全てが知っている。知らないのは戦後の偏狭な価値観に蝕(むしば)まれた日本人ではないのか。日本は台湾に謝罪する必要などない。謝罪すべきは親日・台湾を切り捨てた戦後日本の外交姿勢の一点のみにある。謝罪などではなく隣の巨大な覇権国家と恒常的に闘っている台湾を応援するというのが、日本人に固有な「侠」の精神ではないのか。
 戦後もすでに70年余、日本時代に人格形成期を送った人々が次々と世を去っていく。日本人は自らの国体に無関心である一方、かつての海外領土であった台湾の老体の中に日本の国体が強靱(きょうじん)にも脈を打っている。時代はあっけなく過ぎ去るものだが、蔡氏の胸に刻み込まれた時代精神だけは継承していきたい。蔡氏を哀悼しつつ台湾に向けて私は深く頭を垂れる。(拓殖大学学事顧問・渡辺利夫 わたなべとしお)
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 日本人が取り戻すべきもの。それは、日本精神である。日本精神の復興なくして、日本の再建はない。日本精神の復興を怠れば、日本は亡国に至る。日本精神の復興に、日本の国、そして我々一人一人の運命がかかっている。

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ユダヤ80~杉原千畝・樋口季一郎・安江仙弘

2017-07-26 09:24:38 | ユダヤ的価値観
●杉原千畝・樋口季一郎・安江仙弘

 ここで強調しておきたいのは、戦前のわが国は、日独伊三国軍事同盟によってドイツと同盟を結び、国家の針路を大きく誤ったものの、ナチスによるユダヤ人迫害には加担していないことである。逆に迫害を受けたユダヤ人を支援した日本人がいた。特筆すべき事例として、杉原千畝と樋口季一郎がある。
 1940年(昭和15年)夏、ドイツ占領下のポーランドから多数のユダヤ人がリトアニアに逃亡した。彼らは当地で各国の領事館・大使館からビザを取得しようとした。しかし、リトアニアはソ連に併合されており、ソ連政府は各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めた。そこでユダヤ難民はカウナスの日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。この時、彼らのために、ビザを発給したのが、杉原千畝である。
 第2次世界大戦の開始時、ヒトラーとスターリンには密約があった。杉原の行動は、その密約の下にドイツとソ連がポーランドを分割し、ソ連がバルト三国を併合するという状況におけるものだった。
 杉原の職を賭した勇気ある行動によってリトアニアを出ることのできたユダヤ難民は、シベリアを渡り、ウラジオストク経由で敦賀港に上陸した。うち約千人はアメリカやパレスチナに向かった。杉原によって救われたユダヤ人は、6千人にのぼると推計されている。1985年(昭和60年)、杉原は、イスラエル政府から日本人で唯一、「諸国民の中の正義の人」としてヤド・バシェム賞を受賞し、顕彰碑が建てられた。
 ところで、杉原の日本通過ビザ発給は、日本政府の命令に背いたものだったというのが通説だが、これは事実に反している。当時の日本外務省の杉原宛て訓令電報では、日本通過ビザ発給には最終目的地の入国ビザを持っていること、および最終地までの旅行中の生活を支え得る資金を保持していることの2点を条件とした。これらは通過ビザに必要な条件で、日本政府がビザ発給を拒否したわけではない。杉原がサインしても、日本政府が許可しなければ外国人は入国できない。だが、わが国は、ウラジオストクから敦賀に渡る船にユダヤ難民が乗ることを許可し、神戸で厚くもてなし、希望する外国に送り出している。これは杉原個人のできることではなく、日本国がユダヤ難民を救援したのである。
 また、杉原は訓令違反によって終戦直後、外務省を解雇されたという通説も、事実に反している。まず杉原は、ビザ発給後、即座に懲戒解雇されてなどいない。それどころか、カウナス領事館閉鎖の後、順調に昇進し、1944年(昭和19年)には日本政府から勲五等瑞宝章を授与されている。敗戦後は、占領下で外交事務が激減したため、多くの外交官が人員整理された。杉原はその一環で1947年(昭和22年)に退職したもので、退職金もその後の年金も支払われている。ビザ発給を理由に解雇されたのでは全くない。杉原個人を英雄化し、日本国を断罪する話に仕立てるのは、間違いである。
 時期的には杉原より前になるが、樋口季一郎陸軍少将もまた多数のユダヤ人を救出した。
 1938年(昭和13年)3月、約2万人のユダヤ人が、ソ満国境沿いのシベリア鉄道オトポール駅にいた。ナチスの迫害から逃れて亡命するためには、満州国を通過しなければならない。ソ連が入国を認めないので、零下数十度の中、野宿生活を余儀なくされた。彼らの惨状を見た樋口は、部下の安江仙弘大佐らとともに即日、ユダヤ人に食糧・衣類等を与え、医療を施し、出国、入植、上海租界への移動の斡旋を行った。
 樋口は、1943年アッツ島玉砕を指揮し、キスカ島撤退作戦では救援艦隊の木村昌福少将の要請を容れ、大本営の決裁を仰がずに在留軍に武器の海中投棄を指示し、乗船時間を短縮して無血撤退の成功に貢献した。その後、樋口は札幌に司令部を置く北部軍司令官に就任した。
 1945年8月9日、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、満州・樺太・千島に侵攻した。この時、樋口は占守島に侵攻したソ連軍に対して自衛の戦いを行うことを決断して善戦し、ソ連軍の北海道占領を阻止した。スターリンはその樋口を戦犯に指名した。これに対し、世界ユダヤ協会は、各国のユダヤ人組織を通じて樋口の救援活動を展開し、欧米のユダヤ人資本家はロビー活動を行った。その結果、マッカーサーはソ連による樋口引き渡し要求を拒否し、身柄を保護した。樋口は、安江とともに、イスラエル建国功労者と称えられ、その名が「黄金の碑」に「偉大なる人道主義者」として刻印され、功績が顕彰されている。
 ユダヤ人を迫害したナチス・ドイツと誤った提携をしたわが国ではあったが、こうした人道的な行為をして感謝されている日本人がいることは、わが国の誇りとすべきである。
 ところで、樋口の功績には、隠された事実がある。オトポール事件の時、ユダヤ難民が助かったのは、樋口個人の功績ではない。彼らが満州国に入国できたのは、関東軍の東條英機参謀長がユダヤ難民の受け入れを許可し、満州国通過ビザを発給したからだった。また、満鉄総裁の松岡洋右がハルビンや上海へ移動する特別救援列車を手配した。それによって、ユダヤ難民は生き延びることができた。
 この措置に対し、ドイツ政府は日本政府に抗議してきた。だが、1938年(昭和13年)12月、近衛内閣の五相会議で、板垣征四郎陸相は、日本・満州・シナ大陸における猶太人対策要綱を決定した。五相会議は、内閣総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣・外務大臣による国策決定会議である。わが国は、日独伊三国防共協定を結んでいたドイツの要請を断って、八紘一宇の精神に則り、特定の民族を差別することはできないとして、ユダヤ人を救援した。
 日本は、この後、独伊と三国軍事同盟を結んでしまい、米英に敵対視されることになった。無謀な開戦によって、わが国は大敗を喫した。東條は、戦勝国による東京裁判でA級戦犯として処刑された。彼の弁護において、オトポール事件でのユダヤ難民救援について触れなかったのは、落ち度だった。また、政府決定でユダヤ人を差別しないと定めた国は当時、他になかった。日本は、東京裁判でこのことを主張しなかった。板垣もまた一方的に戦犯と断じられ、処刑された。東京裁判は、ナチスの指導者を裁くためのニュルンベルク裁判を下敷きにした。ニュルンベルク裁判は、ユダヤ人虐殺の責任者を裁いた。だが、東京裁判は、ユダヤ人を助けた日本の指導者を絞首刑にした。東京裁判は、この点においても、大きな間違いを犯したのである。

 次回に続く。
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安倍政権の支持率低下は、マスメディアの偏向報道による

2017-07-25 07:08:44 | 時事
 各種世論調査で安倍政権への支持率低下が続いています。そうしたなか、24日加計学園問題等を巡る衆院予算員会で、安倍首相が答弁。誠実に説明責任を果たす姿勢を示すとし、低姿勢に徹しましたが、事実関係の明確化が弱く、マスメディアの多くに誘導されて漠然とした疑いを抱いている国民の意識を変えるには、説得力に欠けていたのではないでしょうか。
 ここ数か月の日本の状況は、極左・在日・反日・外国勢力と結託したマスメディアの偏向報道に、国民の多数が意識操作をされていることで生まれたものです。いかに日本の国民がメディアによる誘導に弱いか、それがかつてないほど露呈しています。

 今朝の産経新聞の記事より。保守系の産経・FNNが7月22~23日に行った合同世論調査の結果。

・安倍晋三内閣の支持率は34・7%、不支持率は56・1%。前回調査(6月17、18両日)と比べて支持は12・9ポイントも下落、不支持は逆に13・2ポイント上昇。第2次安倍内閣発足後、支持は最低、不支持は最高をそれぞれ記録。
・首相を「信頼している」との回答が29・6%、「信頼していない」は63・8%。
・「いま首相にふさわしい人物」の1位は、自民党の石破茂前地方創生担当相で20.4%。安倍晋三首相は19.7%で2位。

 こうした数字が極左・在日・反日・外国勢力と結託したマスメディアの報道による結果となっていることは、次の設問の答えによく現れていると思います。
 加計学園の獣医学部新設計画をめぐり、政権を批判する前川喜平前文部科学事務次官と、政権を評価する加戸守行前愛媛県知事の「どちらが説得力があるか」との設問。回答は、前川氏が52・2%、加戸氏は23・5%。
 この数字は、テレビのニュース番組やワイドショー番組が、加戸氏の発言をほとんど報道していないことによるでしょう。国民の多くは、事実関係をほとんど知ることなく、メディアによって”疑い”という毒を心に注ぎ込まれた状態で、物事を感情・感覚で判断していると思われます。

 果たして、今回の予算委員会を通じて、安倍首相は、国民の理解を得て、奪われた信頼を回復できるかどうか。憲法改正の実現、そして日本の再建の実現は、極左・在日・反日・外国勢力と結託したマスメディアとの戦いにかかっています。
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ユダヤ79~日本の参戦と敗戦

2017-07-23 08:48:23 | ユダヤ的価値観
日本の参戦と敗戦

 日本は、第2次大戦に参戦し、大敗北を喫した。敗戦は、ナチス・ドイツと連携した結果である。1930年代半ば当時のわが国の指導層は、世界の大局を把握できなかった。逆に陸軍を中心に、ドイツを友邦と頼む者が多くいた。そのため、わが国はヒトラーの計略にかかって、1940年に日独伊三国同盟を締結した。その結果、米英を敵に回してしまった。ヒトラーは、ユダヤ人を差別し、迫害を行って、国際的な批判を浴びていた。日本人に関しては、著書『わが闘争』において、想像力の欠如した劣等民族だが、ドイツの手先として使うなら小器用で小利口で役に立つ民族だと侮蔑していた。こうしたヒトラーと手を結び、行動を共にしようとしたことは、日本の国家指導層が、幕末・明治までの日本人が持っていた自己本来の精神、日本精神を半ば喪失し、誤った判断をしたためである。
 三国同盟を締結した日本は、米国から敵対視され、石油禁輸等の制裁を受け、厳しい状況に追い込まれた。
 米国のルーズベルトは、極秘に大戦参入のきっかけを求めていた。参戦はしないと選挙で公約していたので、自分から公約は破れない。しかし、ニューディール政策は、限界にぶつかっていた。財界には、ユダヤ人の「死の商人」ら戦争というビジネス・チャンスを待望する者たちがいた。日本を挑発し、先に手を出させる。そうすれば、正当防衛だとして正義の戦争を始められるからである。
 わが国は米国との関係改善を求めて外交努力を続けたが、ルーズベルトは1941年(昭和16年)11月7日に日本が提示した甲案を拒否、11月20日には乙案も拒否した。そして、国務長官コーデル・ハルが、いわゆるハル・ノートを突きつけてきた。ハル・ノートは、財務省高官のハリー・デクスター・ホワイトが起草した。ホワイトは両親がユダヤ人だった。
 スターリンは、自国の安全保障と将来の日本の共産化のため、日米開戦を画策していた。スターリンの指令を受けたソ連のスパイが、ホワイトに接触していた。ソ連はホワイトへの工作を彼の名にちなんで「雪(スノウ)作戦」と名づけた。ホワイトは、ソ連の指示に従って日本を挑発するために強硬な要求を書いたと考えられる。
 ホワイトはルーズベルトに強い影響力を持つ財界の大物で財務長官のヘンリー・モーゲンソーの右腕であり、頭脳だった。ホワイトの書いたものは、そのままモーゲンソーが署名し、モーゲンソーの文書として大統領に提案されたという。モーゲンソーもユダヤ人だった。
 わが国の指導層は、ハル・ノートが示した要求は到底呑めないと判断し、これを事実上の最後通牒と理解した。そして、対米決戦に突入した。1941年(昭和16年)12月8日、日本軍は真珠湾攻撃を行った。在米外交官の失態により、宣戦布告の通知が遅れた。ルーズベルトは、事前に日本外務省の打電内容を解読・承知していながら、ハワイのキンメル将軍に伝えなかった。そして、日本軍に攻撃をさせ、これを「だまし討ち」として、最大限宣伝に利用した。米国の世論は一気に対日報復戦争へと沸騰した。大統領が自国民をだましたのである。
 わが国は、開戦当初は破竹の勢いだったが、やがて劣勢に転じ、昭和20年には敗色が濃くなり、8月10日にポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ号の船上にて、降伏文書の調印が行われ、未曾有の大戦争となった第2次世界大戦は終結した。
 日米戦争のきっかけとなったハル・ノートを起草したホワイトには、戦後、ソ連の協力者という疑惑が持ち上がった。アメリカ連邦捜査局(FBI)は、ホワイトがソ連と通じていることをつかんでいた。しかし、米政府はホワイトを要職に任命し続けた。
 ホワイトは、ブレトン・ウッズ協定を立案し、イギリス代表のケインズと渡り合い、アメリカ主導による戦後の世界通貨金融システムを構築した。その後、自ら国際通貨基金(IMF)の理事長となった。
 この事実は、ホワイトは、米国政府中枢だけでなく、米国の巨大国際金融資本家たちの信任を受けており、彼ら所有者に仕える経営者として戦後世界でユダヤ的価値観を経済機構として実現する役目を与えられていたと考えられる。

 次回に続く。
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北朝鮮がICBMを完成か

2017-07-22 10:29:27 | 時事
 北朝鮮は7月4日午前9時半、日本海方向に向けて弾道ミサイル1発を発射した。約40分間飛行し、日本の排他的経済水域(EEZ)内に着水した。北朝鮮メディアは同日、「特別重大報道」を発表し、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射実験に成功したと伝えた。
 北朝鮮の発表によると、ミサイルは「火星14」型で、933キロ飛行し高度は2802キロに達した。北朝鮮は「核兵器とともに、世界のどの地域も打撃できる最強のICBMを保有した堂々たる核強国として米国の核戦争威嚇・恐喝を根源的に終息させる」と強調した。
 北朝鮮による弾道ミサイル発射は今年10回目だった。5月には中長距離と称する弾道ミサイル「火星12」や新型中距離ミサイル「北極星2」を相次ぎ発射した。その後、ICBM試射が迫っていると主張していた。日米等専門家の多くは、ICBMの完成は、早くて年内と見ていた。これほど急ピッチで北朝鮮が開発を進めていることを予測できていなかった。
 7月4日にICBMの発射実験を行ったのは、当日がアメリカ合衆国の独立記念日であることに合わせて、米国に向けて強力なメッセージを送ったものだろう。
 米国は当初、このミサイルを中距離弾道ミサイルと発表した。しかし、その後、日米韓の三国の政府がICBMだと認めた。ICBMとは、冷戦時代の米ソの合意によって、射程5500キロ以上の弾道ミサイルのことと定義されている。火星14型は、北朝鮮が5月に発射した液体燃料式の弾道ミサイル「火星12」を2段式に改良したものとみられる。今回の実験では、高度約2800キロに達する高角度で発射し、ロフテッド軌道で落下させた。通常角度で発射すれば、射程は6000~8000キロ超に達すると見られる。米国のアラスカ州は射程に入り、米太平洋軍司令部があるハワイも同様である。もし8100キロを超えれば、米国本土のシアトルにも届くものとなる。
 今回の実験で、ミサイルの弾頭部が大気圏に再突入する時に生じる数千度の高温に耐えられたかどうかは不明である。核兵器を搭載して敵地を攻撃するには、弾頭の大気圏再突入技術が確立されなければならない。ICBMに搭載する核弾頭の小型化については、相当の水準に達していると見られる。北朝鮮は、米国等の動きを見ながら、6回目の核実験を強行しようとするだろう。日米韓への脅威は格段と増しつつある。

 金正恩朝鮮労働党委員長は、今回のICBMは「米国への贈り物」だとし、「今後も大小の贈り物をしばしば送ってやろう」と述べて、挑発している。これまでトランプ米大統領は、北朝鮮がレッドラインを越えれば、軍事行動も辞さないことを述べてきている。具体的には、米本土が射程に入るミサイルの実験及び核実験である。だが、それが厳密には何を意味するのかについては、曖昧である。仮に今回のICBMの実験が米本土が射程に入るICBMの完成だとするならば、レッドラインを越えたことになり、米国は具体的な行動を起こさなければならなくなる。だから、曖昧な態度を取っていると見られる。
 7月8日トランプ米大統領と中国の習近平国家主席は、G20首脳会議が開かれていたドイツ・ハンブルクで会談した。両首脳は4月の初会談で中国が北朝鮮に対して圧力をかけることの重要性で一致した。しかし、その後も北朝鮮はICBMの発射などを続けており、ほとんど明確な効果が出ていない。トランプ大統領は、習主席に強い不満を述べ、中国が北朝鮮対策を積極的に実施するよう求めた。
 ティラーソン国務長官は、7日の記者会見で、中国は一時北朝鮮に対する圧力を強めたものの、「その後、動きを止めている」と不満を表明した。米国は6月末に北朝鮮問題に関連して中国の銀行を経済制裁の対象に加えたが、「北朝鮮と経済取引がある組織は、どこの国の組織でも追及することでさらに圧力をかける」との決意を示した。
 トランプ政権の中国に対する不満は強まっており、中国に対朝圧力をかけさせるための方策を実施していくだろう。
 朝鮮半島では、ICBM実験の翌5日朝、米韓両軍が韓国東海岸でミサイル発射合同訓練を実施した。韓国軍合同参謀本部の発表によると、この訓練で動員されたのは在韓米軍の地対地ミサイル「ATACMS」と韓国軍の「玄武2A」だった。標的が「敵の指導部」だと明らかにし、斬首作戦であることを明言した。北朝鮮の弾道ミサイル挑発に対して、米韓が弾道ミサイル訓練を行ったのは初めてだった。韓国軍消息筋は「北朝鮮ミサイルを先制攻撃する演習と考えて構わない」と述べている。
 米軍は、紛争地で敵の撹乱や戦意喪失を狙う情報戦を展開する。朝鮮半島の心理戦は「作戦計画5030」と呼ばれる。北朝鮮指導者の恐怖心を煽るデマを流し、金正恩氏への心理圧迫も狙うものとされる。
 複数の米報道機関によると、トランプ大統領は近くICBM発射に伴う対北措置を承認する予定であり、措置のなかには有事対応の戦力増援が含まれるという。これも中国の出方による部分が大きいだろうが、米国西海岸主要都市を十分射程に収めるようなさらなるICBMの射程の延長や、核兵器小型化のための実験を北朝鮮が続けていった場合、米国が何も行動しないことは考えにくい。わが国は、近い将来、米国と北朝鮮が激突する事態が起こりうることを想定して、防衛体制の整備を急がねばならない。最大の課題は、憲法の改正である。日本人自身の手で新たな憲法を作り、日本人が日本を守ることのできる体制を作り上げねばならない。
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ユダヤ78~第2次世界大戦とユダヤ人

2017-07-21 09:27:16 | ユダヤ的価値観
第2次世界大戦とユダヤ人

 1939年(昭和14年)9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した。同月3日英仏はドイツに宣戦を布告し、ここに第2次世界大戦が勃発した。
 緒戦で圧倒的な強さを見せたドイツは、1940年5月10日電撃的な作戦を開始した。デンマーク、ノルウェーを占領し、オランダ、ベルギーに侵攻したのである。6月18日フランスのパリが占領された。追い詰められた英仏連合軍は、ダンケルクから撤退し、22日、独仏休戦協定が成立した。市民革命によって自由・平等・友愛の理想を掲げたフランスが、全体主義の軍靴に踏みにじられるはめになった。ナチス・ドイツに支配されたフランスでは、傀儡のヴィシー政権のもとでユダヤ人は迫害された。
 ナチス・ドイツの侵攻に対し、フランスはどうしてあっけなく敗北したのか。ユダヤ人文芸評論家のアンドレ・モーロアは、亡命先のアメリカで、痛恨の反省を込めて祖国の敗因を書いた。その書『フランス敗れたり』は、今日の日本人が大いに学ぶべき本である。本書については、拙稿「『フランス敗れたり』に学ぶ~中国から日本を守るために」をご参照願いたい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08l.htm
 フランスを占領したヒトラーは、その勢いで40年9月からロンドンへの空襲を開始する。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は、不屈の意思をもって英国民を指導し、イギリスは粘り強く抗戦を続けた。短期決戦をもくろんでいたヒトラーの構想は、くじかれた。チャーチルは、一貫してロスチャイルド財閥に忠実だった。ヒトラーは、ユダヤ国際資本との戦いを企図していたが、そのユダヤ国際資本の元締めは、ロスチャイルド家である。強大な資金力と緻密な情報力を持つロスチャイルド=ユダヤ・ネットワークは、徐々に劣勢を跳ね返していった。
 大戦後、世界に広まったホロコースト説によると、ナチス・ドイツは、第2次大戦前から、ユダヤ人絶滅を計画し、組織的にユダヤ人を多数虐殺した。大戦がはじまると迫害が激化し、ナチスはドイツ本国や占領したポーランド等に多数の収容所を建設した。ガス室のある絶滅収容所がつくられ、強制労働をさせただけでなく、毒ガスを用いて600万人のユダヤ人が殺害されたとされている。この説については、後の項目で検証を行う。
 ヨーロッパで多数のユダヤ人が犠牲になる中で、優秀なユダヤ人はドイツから国外に亡命した。その多くは、アメリカに渡った。優れた自然科学者、社会科学者、芸術家等が移住したアメリカで、自由に能力を発揮した。そのことが、アメリカの発展に寄与することになった。原爆の開発も、ユダヤ人科学者なくしては、成功しなかっただろう。
 戦争の最中、米英は、戦争の終結と戦後体制の構築を検討していた。1945年(昭和20年)2月クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンによる首脳会談が行われた。スターリンはヤルタでの密約を背景に、ドイツに進軍した。アメリカ軍とソ連軍はエルベ川近くで合流し、追い詰められたヒトラーは自殺した。ドイツは正統な政府のない状態で、5月に無条件降伏した。
 第2次世界大戦は、日独伊の枢軸国と英仏ソ等の連合国の間の戦いだった。ドイツの前にイタリアが降伏しており、残るは日本だけとなった。

 次回に続く。
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