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ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

戦略論46~潜水艦、航空母艦、化学兵器、生物兵器

2022-08-21 11:27:21 | 戦略論
●技術の発達と戦争の進歩(続き)

◆潜水艦

 水面下を潜航し行動できる軍艦を潜水艦という。潜水型の艦艇が初めて戦闘に使われたのは、アメリカ独立戦争でイギリス軍艦を攻撃した「タートル」である。1880年代から魚雷、水中航行の推進方式、潜望鏡等の技術の開発が促進された。第1次世界大戦の前に、実戦用の兵器として一応完成し、各国が導入した。その後の技術開発はドイツがリードした。第1次大戦では、ディーゼル機関を採用したUボートは、魚雷攻撃により通商を破壊するなどして多大の戦果を上げた。第2次大戦では、ドイツは国家の総力を挙げて潜水艦の大規模建造を行い、通商破壊戦で合国に多大の被害を与えた。また大戦後期には、半永久的な潜航が可能なシュノーケル装置を実現した。これに対し、連合国軍はレーダー、ソナーの開発や対潜水艦戦術の研究を進め、ドイツの潜水艦を制圧し、大戦を勝利に導いた。
 大戦後、潜水艦は電池の改良等により水中の航続性・高速性が向上した。またミサイルを搭載したものが登場し、艦船や陸上重要地攻撃に威力を増した。1955年に世界最初の原子力潜水艦「ノーチラス」が登場すると、原潜は航空母艦と並んで海戦の主力の地位を占めるに至った。今や核弾頭付き弾道ミサイルを搭載し海中から発射する原潜は、戦略核兵器体系の重要な柱となっている。

◆航空母艦

 航空母艦(空母)は、飛行機を発着艦させ,格納および補給整備などができるように建造された軍艦である。1910年に米国が巡洋艦の甲板上から飛行機を離艦させることに成功した。英国は第1次世界大戦中に、初の本格的空母「アーガス」を完成させた。第2次世界大戦前は、空母は戦艦部隊の支援・補助兵力とみなされていた。だが、日本の空母機動部隊が艦載機で真珠湾攻撃に成功して以来、戦艦に代わって海軍の主役となった。
 大戦後は搭載機がジェット機になり、それに応じてカタパルトの発進装置の開発、甲板の強度増加、発着・指揮等のための電子機器の完備等がされた。1960年、米国は最初の原子力空母「エンタープライズ」を就役させた。
 空母は現在のあらゆる軍艦のなかで最も大型で、弾道ミサイル搭載の原子力潜水艦に次ぐ威力を持つ。空母を保有するかどうかで、その国の戦力の程度が測られる。特に原子力空母を中心とした空母機動部隊は、強力な攻撃力・防御力を併せ持ち、艦船及び陸上の攻撃目標に対して核・非核両攻撃が可能であり、一国の戦力に匹敵するほどである。

◆化学兵器

 化学兵器は、狭義には毒ガスをさす。広義には化学反応を利用する兵器で、発煙剤、焼夷剤等を含む。狭義の化学兵器は、ABC兵器のうち核兵器(A:atomic weapon)、生物兵器(B:biological weapon)に対し、C(chemical weapon)と呼ばれる。これらは大量殺戮兵器として、通常兵器と区別されている。
 第1次世界大戦で、1914年にフランスが催涙物質を使用したのに対し、翌年ドイツが塩素ガスを使用し、大量の死傷者を出した。以後、ホスゲン、青酸、マスタードガス等の毒ガスが開発された。これらの効果の残虐性から、1925年に毒ガスの使用を禁止するジュネーブ議定書が締結された。ただし、使用を禁止しただけで、開発・製造は放置していた。1936年にはドイツで神経ガスのサリンが製造され、54年にはイギリスで同じくVXが合成された。
 1991年湾岸戦争の後、イラクが化学兵器を生産していることが判明し、化学兵器の拡散が新たな脅威になった。翌年ジュネーブ軍縮会議で、化学兵器の開発・製造・取得・貯蔵・使用のすべてを禁止する化学兵器禁止条約が採択され、97年4月に65か国の批准を得て発効した。しかし、2017年にシリアのサダト大統領がサリンを使って住民多数を殺害した疑いがある。また同年、北朝鮮は金正恩の異母兄・金正男の暗殺にVXガスを使った。

◆生物兵器

 生物兵器は、人間・動植物に有害な細菌・ウイルス等を使用して作られる兵器である。使用の方法には、砲弾、爆弾、ミサイルなどに装入、航空機から散布、飲食物に混入、郵便物に付着させて配布等がある。
 第1次世界大戦で毒ガスが実戦に用いられて悲惨な結果をもたらした経験から、1925年にジュネーブ議定書が作成された際、大量殺人兵器として禁止の対象となった。しかし、米国、英国をはじめとする各国は1945年前後から生物兵器の研究を進めた。その後、国連の主導で生物毒素兵器禁止条約が1972年に調印され、73年に発効した。
 2001年アメリカ同時多発テロ事件の直後に炭疽菌を使った事件が起こり、生物兵器によるテロ(バイオテロ)の可能性が指摘された。2019年から世界的に感染が広がった新型コロナウイルスは、共産中国で生物兵器として開発されたものではないかという疑いがある。また、他に生物兵器テロに使われる可能性が高いものとして、ボツリヌス菌、ペスト菌、チフス菌、天然痘等がある。

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『細川一彦著作集(CD)』(細川一彦事務所)

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戦略論45~武器の開発:機関銃、戦車、飛行機

2022-08-19 12:46:46 | 戦略論
●技術の発達と戦争の進歩

 ここで19世紀中葉以降、新しい技術が発達したことによって、戦争の技術が変化したことをあらためて見ておきたい。武器の開発に注目し、機関銃、戦車、飛行機、潜水艦、航空母艦、化学兵器、生物兵器、ミサイル、核兵器の順に述べる。叙述の関係上、21世紀の今日までの発達を書く。

◆機関銃

 機関銃は、引き金を引き続ければ連続して自動的に弾丸を発射できる火器である。17世紀頃から連発銃をつくる試みが始まり、最初は銃身を数本たばねて手動で順次に発火することが行われた。1810年代に米国で雷管が発明されると、1850年代から、ガトリング機関銃をはじめとする多くの手動式機関銃が考案された。南北戦争で機関銃の威力が示され、ヨーロッパにも普及した。
 1885年頃にイギリスで無煙火薬が発明され、機関銃に画期的な進歩をもたらした。1887年に無煙火薬による火薬ガスを利用して自動的に連発するマクシム機関銃が作られた。これが最初の本格的な機関銃といわれる。機関銃が登場したことで、銃による殺傷力・破壊力は格段と増した。
 第1次世界大戦前から歩兵の持つ銃は機関銃に置き換えられていった。また、戦車・軍艦・飛行機等に機関銃が搭載されるようになり、戦闘は機械の威力の争いになっていった。

◆戦車

 戦車の起源は、古代から馬を戦闘に使用する戦闘用の馬車である。これをチャリオットという。古代オリエント地域では、紀元前2000年頃から、シュメール、ヒッタイト、アッシリア、エジプト、ローマ、ペルシア、シナ、インド等で使用された。
 現代的な戦車は、第1次世界大戦後期の1916年にイギリス軍が使用したものに始まる。機関銃が普及すると、兵士が塹壕に身を伏せ、戦闘が長期化し、膠着状態となった。戦車は、この均衡を破るため、敵の機関銃弾によく耐え、壕を突破できる奇襲兵器として考えられた。以後、火砲の発達、装甲板の改良、強力軽量の機関の出現等で性能が向上し、また無線通信機の装備により集団的戦闘指揮が可能となった。
 ドイツは、第2次世界大戦初頭に戦車を衝撃力とする電撃戦で、周辺国を圧倒した。それによって、戦車は地上戦闘の主力の地位を確立した。以後、打撃力、防御力、機動力を併せ持つ攻撃的兵器となっている。現在の戦車は、高度な電子通信機器を装備して正確・迅速な射撃が可能であり、またミサイルを搭載するものが増加している化の傾向にある。シュノーケル(潜水艦給排気装置)を使って潜水して川を渡ったり、放射能汚染下では密閉戦闘を行ったりできるようになっている。

◆飛行機

 1903年12月、アメリカのライト兄弟は、人類待望の動力飛行に成功した。すると、すぐ飛行機の軍事利用が研究された。1914年に第1次世界大戦が始まると、最初は偵察に使われた。間もなく偵察機、爆撃機、戦闘機等の用途別の機種が誕生した。4年間大戦が続く間に、飛行機は、時速、航続距離、高度等で飛躍的な進歩を見せた。
 第2次世界大戦では、飛行機が各種の用途で活躍し、航空戦力の優劣で勝敗が決したと言える。それまでの戦争にはなかった制空権の掌握が、戦争の展開を大きく左右するようになった。米国・ドイツ・英国等によって、敵国の軍事施設や都市への空爆が常態化した。米国は各国に先駆けて核兵器の開発に成功し、爆撃機が核兵器を積んで日本の広島・長崎に投下するという作戦を実施した。
 飛行機は、大戦中に、プロペラ機からジェット機へと飛躍した。ドイツは1939年に、ジェット・エンジンの飛行に成功した。大戦末期の1944年には、メッサーシュミット等のジェット戦闘機が出現した。大戦後はジェット化が進み、1953年頃にはジェット戦闘機が超音速で飛ぶようになった。現代では、戦闘機はもちろん、偵察機、爆撃機などの軍用機も超音速が普通になった。
 核兵器の保有国が増え、また核兵器の増産が進むと、大量報復のために戦略爆撃機が導入された。戦略爆撃機とは、敵の中心地を核兵器で攻撃できる爆撃機である。

 次回に続く。

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戦略論44~海戦・航空戦の変化、核戦争の時代へ

2022-08-17 12:14:53 | 戦略論
●戦争のあり方に大きな変化が(続き)

◆海戦の変化

 海軍は、古代の帆船時代から第1次世界大戦まで、主力艦隊同士の砲撃による決戦や敵の港湾封鎖を主要な課題としていた。しかし、第1次世界大戦から潜水艦が本格的に使われるようになると、それまでの戦闘方式が変化した。主力艦の援護や対潜行動が比重を増し、また潜水艦による通商破壊戦とそれへの対抗策が重要になった。
 第1次大戦以降の潜水艦の技術開発はドイツがリードした。ディーゼル機関を採用したUボートは、魚雷攻撃により通商を破壊するなどして多大の戦果を上げた。第2次大戦でドイツは国家の総力を挙げて潜水艦の大規模建造を行い、通商破壊戦で合国に多大の被害を与えた。また大戦後期には、半永久的な潜航が可能なシュノーケル装置を実現した。これに対し、連合国軍はレーダー、ソナーの開発や対潜水艦戦術の研究を進め、ドイツの潜水艦を制圧し、大戦を勝利に導いた。
 次に海戦に変化をもたらしたのは、航空母艦である。航空母艦が戦艦に代わって海戦の主役なったのは、飛行機が各種の用途で活躍し、航空戦力の優劣で勝敗が決するようになったからである。飛行機については、詳しくは次の航空戦の項目に書くことにして、空母の話を続けると、1910年に米国が巡洋艦の甲板上から飛行機を離艦させることに成功した。それが空母の原型である。
 英国は第1次世界大戦中に、初の本格的空母「アーガス」を完成させた。第2次世界大戦前は、空母は戦艦部隊の支援・補助兵力とみなされていた。だが、日本の空母機動部隊が艦載機で真珠湾攻撃に成功して以来、戦艦に代わって海軍の主役となった。
 第2次大戦を通じて、飛行機の活躍によって、それまでの海軍の長距離砲と分厚い装甲を持つ主力艦と、それを援護する補助艦で組み立てられた作戦戦略は、役に立たなくなった。航空母艦と潜水艦の重要性が増した。他の艦船も対空戦闘・対潜戦闘を基本とし、船団護衛や上陸支援が主な任務になった。

◆航空戦の変化

 飛行機の実現は、1903年12月、アメリカのライト兄弟が人類待望の動力飛行に成功したことによる。その後、すぐ飛行機の軍事利用が研究され、1914年に第1次世界大戦が始まると、最初は偵察に使われた。次いで空軍の任務に空中戦・対地支援が加わり、やがて敵の陣地や都市への爆撃が加わった。大戦の間に飛行機の性能は、飛躍的な進歩を見せた。これによって、陸上戦力、海洋戦力に航空戦力が加わる時代が開かれた。
 第2次世界大戦では、航空攻撃の威力が陸上・海洋での戦闘にとって決定的な意義を持つようになった。それまでの戦争にはなかった制空権の掌握が、戦争の展開を大きく左右するようになった。また空爆によって敵国の軍事施設や都市を集中的に攻撃して相手の継戦能力を減耗させる作戦が重要になった。
 空爆の手段としてミサイルの話を加えると、ドイツは第2次大戦中に大型ロケット兵器のV1・V2を開発して、ロンドンを攻撃した。以後、陸戦・海戦でも使用されるようになった。

◆核戦争の時代への突入

 世界大戦の時代に現れた戦争の最大の変化は、核兵器の登場である。
 1938年ドイツの化学者ハーンとシュトラスマンが、ウランの原子核の核分裂の現象を発見し、核分裂の連鎖反応を起こすことができれば大量のエネルギーを取り出す可能性のあることがわかった。
 ドイツが先に核兵器を開発することが懸念されるなか、米国は1942年にマンハッタン計画を発足させ、1945年7月に世界初の核兵器の爆発実験に成功した。米国は各国に先駆けて核兵器の開発に成功し、爆撃機が核兵器を積んで日本の広島・長崎に投下するという作戦を実施した。
 核兵器の使用は、人類の歴史を画する重大事件だった。これによって、戦争は人類の存亡に関わるものに変わった。人類の自滅という結果を招きかねないものになったのである。

 次回に続く。

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戦略論43~世界大戦の時代の戦争(陸戦の変化)

2022-08-15 12:24:06 | 戦略論
(4)世界大戦の時代の戦争

●戦争のあり方に大きな変化が

 19世紀末から第1次世界大戦、第2次世界大戦の時代には戦争のあり方に大きな変化が起こった。それを陸戦、海戦、航空戦、核戦争の順に見ていきたい。

◆陸戦の変化

 19世紀の陸戦の作戦戦略は、ナポレオンの戦争を模範とし、円滑かつ迅速な機動で主力を決勝点に集め、歩兵・騎兵・砲兵の協力決戦を挑み、敵の野戦軍を撃滅することを目標にしていた。しかし、19世紀中葉以降、銃砲が前装から後装に変わるという技術の進歩が起こった。前装とは、弾薬を銃砲の筒先から装填することである。後装とは、銃の遊底または銃の閉鎖機を開閉して弾薬を装填することである。この転換によって、射撃の速度と精度が上がった。
 次に大きな変化が起こったのは、機関銃(machine gun)の登場である。1810年代に米国で雷管が発明されると、1850年代から、ガトリング機関銃をはじめとする多くの手動式機関銃が考案された。南北戦争で機関銃の威力が示され、ヨーロッパにも普及した。1885年頃にイギリスで無煙火薬が発明され、87年に火薬ガスを利用して自動的に連発するマクシム機関銃が作られた。これが最初の本格的な機関銃といわれる。機関銃が登場したことで、格段と殺傷力・破壊力が増した。
 それとともに、技術の発達による鉄道や道路網の整備、通信技術の進歩は、兵力の分散・機動・集中や統一的な指揮を容易にした。また将校への教育が体系化され、指揮の技術が向上した。
 だが、防衛する側も、火力の増大、塹壕・鉄条網の利用、交通・通信網の拡充などによって、防御力が増した。そのため、20世紀に入ると、短期的な決戦での決着は困難となった。第1次世界大戦では、綿密に組織された塹壕網が作られ、拠点火力に対する大量砲撃と何波にも分かれた人海戦術との衝突が繰り返された。西部戦線では、強固な陣地に基づく長期にわたる消耗戦が行われた。また陣地突破用の新兵器として毒ガスや戦車が登場した。
 1914年にフランスが催涙物質を使用したのに対し、翌年ドイツが塩素ガスを使用し、大量の死傷者を出した。以後、ホスゲン、青酸、マスタードガス等の毒ガスが開発された。これらの効果の残虐性から、1925年に毒ガスの使用を禁止するジュネーブ議定書が締結された。毒ガスが実戦に用いられて悲惨な結果をもたらした経験から、ジュネーブ議定書が作成された際、人間・動植物に有害な細菌・ウイルス等を使用して作られる生物兵器も大量殺人兵器として禁止の対象となった。
 戦車は、第1次大戦後期の1916年にイギリス軍が使用したものに始まる。機関銃が普及すると、兵士が塹壕に身を伏せ、戦闘が長期化し、膠着状態となった。戦車は、この均衡を破るため、敵の機関銃弾によく耐え、壕を突破できる奇襲兵器として考えられた。以後、火砲の発達、装甲板の改良、強力軽量の機関の出現等で性能が向上し、また無線通信機の装備により集団的戦闘指揮が可能となった。
 第1次大戦後、フランスはマジノ線による固定防御に重点を置いた。だが、それ以外の各国陸軍は、戦闘を再び機動的にすることに力を入れた。第2次大戦では、戦車の活用の他に、歩兵・砲兵の自動車での移動等を組み合わせた機動戦が復活した。特にドイツは、大戦初頭に戦車を衝撃力とする電撃戦で、周辺国を圧倒した。それによって、戦車は地上戦闘の主力の地位を確立した。また、この大戦において本格的に使用された航空機による対地攻撃は、効果が大きく、制空権の確保や対空戦闘が重要となった。

 次回に続く。

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戦略論42~マハンとコーベットの比較

2022-08-13 09:58:59 | 戦略論
●コーベット(続き)

◆思想(続き)

#戦争の目的を限定した制限戦争
 マハンとコーベットの思想の違いは、第3に戦争の目的についての考え方に見られる。マハンは、海軍の理想的な目標を敵海軍の殲滅だとした。コーベットは、それを理想としては否定しないが、もっと柔軟に考える。
 クラウゼヴィッツは、敵を完全に打倒するまで戦う戦争を絶対的戦争と呼ぶ一方、戦争の目的は政治目的に従属するものであるとし、絶対的戦争に対比されるものとして「現実的戦争」という概念を用いた。コーベットは、この考え方を継承し、戦争計画は政治的な条件に従ってその程度を縮小しなければならないとし、「彼我の論争の程度から戦争の性格を決定しなければならない」と論じた。そして、目的が無制限の戦争ではなく、目的を制限した「制限戦争」を主張した。
 コーベットによると、英国のように島国だったり大国から海によって隔てられ、なおかつ制海権を保持している国家は、自国が欲するように戦争を拡大したり縮小したりすることが可能である。そういう国家は、政治的な目的に応じて、戦争の目的を制限した戦争を行うことができるとした。ただし、制限をかけた戦争を行うことができるのは、英国のような地政学的な特徴を持つ海洋強国に限られるという見解であることに注意しなければならない。

#軍事と外交の総合を目指す
 マハンとコーベットの思想の違いは、第4に軍事と外交についての考え方に見られる。マハンは軍人であり、海軍戦略家だった。海軍中心に物事を考え、国家政策も、すべて海軍戦略をもとに考えた。これに対し、コーベットは、クラウゼヴィッツの戦争は政治の継続という思想を継承し、軍事と外交と結びつける総合的な戦略思想を発展させた。英国が世界覇権国として繁栄した歴史を、軍事力と外交力を総合的に発揮する政策を行ってきたことに見出した。また、その歴史を踏まえて、政治・外交の目的と海軍の活動を一致させることを主張した。

◆比較・考察
 
 19世紀後半から20世紀半ばまでの欧州諸国の勢力争いには、世界的な覇権国家である英国に、新興国のドイツが挑戦するという構図で展開された。地政学的に言えば、英国はシーパワーであり、ドイツはランドパワーである。この英国対ドイツの対立に、大西洋を挟んで北米大陸から絡んだのが、米国である。
 マハンは、新興国・米国をして、海軍力の増強によって、英国に匹敵する海洋強国にしようとした。それが彼の海軍戦略である。これに対し、コーベットは、英国にあって、世界的な覇権国家としての地位を維持するための海洋戦略を構想した。
 マハンにとって英国は到達すべき目標だったのに対し、コーベットにとってマハンの理論は英国が今更模倣してはならないものだった。新興国の国家政策と覇権国家の国家政策が異なるのは当然である。
 ドイツが英国に挑戦し続けたのに対して、米国は英国を凌駕しようとはしなかった。米国は英国に次ぐシーパワーとなることで、英国をドイツの攻撃から守り、衰えゆく英国を支え、助けることになった。ここが英国と米国の関係の特殊なところである。英米は、根本的にアングロ=サクソン・ユダヤ文化でつながっている。また、米国は、金融的には、20世紀初頭からロンドン・シティを中心とする巨大国際金融資本によって支配されている。それによって特殊な同盟関係にある。

註 この項目は、次のサイトに多くを負っている。
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 次回に続く。

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戦略論41~コーベットの概要と思想

2022-08-11 10:29:25 | 戦略論
●コーベット

◆生涯

 ジュリアン・コーベットは、イギリスの海軍史家、海洋戦略家である。1854年生まれで、1922年の没である。マハンは1840年に誕生し、1914年に死去したから、二人は約60年間、同じ時代を生きたことになる。
 コーベットは、19世紀末から海軍史の著作を執筆し始め、英海軍大学校で海軍史を講義した。第1次世界大戦においては、海軍の嘱託として勤務した。海軍記録協会のために史料編纂を行い、日露戦争および第1次世界大戦の公式海戦史を執筆した。

◆著書

 コーベットは、1911年にマハンの影響のもとで独自の海洋戦略を打ち出した『海洋戦略の諸原則』を出版した。
 本書でコーベットは、海軍史の研究をもとに、マハンの海軍戦略(naval strategy)より包括的な海洋戦略(Maritime Strategy)を提示した。その戦略は、クラウゼヴィッツの「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続である」という思想を継承し、軍事と外交と結びつける総合的な戦略思想となっている。
 本書の構成は、序論に続いて、第1部「戦争の理論」、第2部「海の戦いの理論」、第3部「海の戦いの遂行」となっている。

◆思想

 コーベットの思想を明らかにするために、主に『海洋戦略の諸原則』に基づいて、マハンの思想との違いを述べる。制海権、海軍の役割、戦争の目的、軍事と外交の4点を挙げたい。

#制海権の確保は海上交通の管制のため
 マハンとコーベットの思想の違いは、第1に制海権についての考え方に見られる。マハンは制海権の確保を主張し、制海権を永続的かつ全体的に拡張することが可能だと考えた。これに対し、コーベットは、絶対的な制海権の確保は意義ある目標ではあるが、達成不可能なものかもしれないという懐疑的な見方を持っていた。
 海では、一方の国が制海権を失うと、即座に制海権が他の国に移ることにはならず、どちら側も制海権を保持していない状況が普通である。人間は、陸を占領するようには海を占領することはできない。味方以外の勢力を完全に排除し、なおかつそこに我が方が居住することはできない。それゆえ、海戦の目的は、海上交通の管制であり、海上交通路(シーレーン)の確保であって、陸戦のような領土の占領ではないとコーベットは主張した。
海戦では海上において通商交通の管制を強いる手段が必要である。それは敵側の船舶の海上での捕獲または輸送財産の破壊によって実施できる」。これをコーベットは、通商破壊ではなく通商防止と呼んだ。

#海軍と陸軍による統合作戦が必要
 マハンとコーベットの思想の違いは、第2に海軍の役割についての考え方に見られる。マハンは海軍を中心に物事を考え、「海軍戦略(naval strategy)」という言葉を多く使った。これに対し、コーベットは、「海洋戦略(maritime strategy)」という言葉を使った。海洋戦略は海軍戦略より広い概念であり、海軍力は海洋戦略の一要素である。
 人々が生活を営んでいる陸上こそが人類にとって最も大切な場所である。海軍力だけで戦争に勝利することは望めないし、また海戦だけではなく陸戦での勝利が求められる。そこでコーベットは、海軍戦略の焦点は、戦争において陸軍・海軍の相補的な役割を決めるものであると主張する。
 コーベットは、ナポレオン戦争で英国がトラファルガーの海戦で勝利したにもかかわらず、その後も戦争が10年間続いたことに注目した。そこから、海軍力による戦闘は防御的な戦いであり、強大な大陸国家を打ち破るには海軍と陸軍による統合作戦が必要であると主張した。海軍力と陸軍力は補完し合う関係にあるという考え方である。コーベットは、また海軍力は上陸戦においても必要であり、陸軍・海軍の統合作戦によって海上からの奇襲が可能になるとも主張した。
 この考え方は、マハンが海軍万能主義・海洋至上主義と批判されるのとは対照的である。

 次回に続く。

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戦略論40~マハンの思想・影響・地政学

2022-08-09 11:40:14 | 戦略論
●マハン(続き)

◆思想

 マハンが『海上権力史論』を発表した時、当時の『ザ・タイムズ』誌は、マハンを「新しいコペルニクス」と報道した。海を制することは、それまで体系的に評価されたことも、説明されたこともない歴史的要素だと認識されたからである。
 マハンは、(1)海上貿易は大国の経済発展にとって必須である、(2)国家が自国の貿易を保護しつつ敵国のそれを遮断するための最も良い方法は、海上優勢(naval supremacy)を保持することを可能にするような戦艦で構成された艦隊を配備することである、(3)海軍によって海上優勢を確立した国家は、自国よりも軍事的に強い国でさえも打ち負かすことができるようになるーーという3点を主に強調した。
 その主張の核心にあるのは、制海権の確保である。マハンは、敵艦隊を見つけ出して打ち破り、それによって制海権を勝ち取ることを力説した。制海権とは、command of the sea の訳語である。commandとは、敵の支配下にある重要な海域を一掃、もしくは敵をほとんど逃亡者の如きにせしめる「傍若無人の権力(overbearing power)」である、とマハンは定義している。また、その制海権を永続的かつ全体的に拡張することが可能だと考えた。そこから、マハンは、海軍の理想的な目標を敵海軍の殲滅だとした。
 マハンは、こうした主張をもってシーパワーの概念を打ち出し、海洋に関わる戦略理論の基盤を構築した。その海軍戦略は、大海軍の建設、通商の拡張、制海権の掌握、海上封鎖の効果、海外基地・植民地の獲得等を包含し、強い海軍力を持つ国家の建設を目指すものである。
 マハンは、大英帝国の興隆に範を採って、海洋戦力が国家や歴史を動かす決定的要素の一つであると強調し、大海軍主義を唱道した。マハンは、当時北米の地域大国に過ぎなかった米国が海外に発展するために必要な国家目標を明確に示した。大英帝国に匹敵する強国となるための国家方針を打ち出した。
 マハンに対しては、海軍万能主義・海洋至上主義という批判がある。海軍と陸軍との連携、軍事と外交との総合という発想を欠き、海軍の強化に偏った思想だという批判である。だが、次に書くように彼の主張の影響には、非常に大きなものがある。

◆影響

 マハンの主張は、米国ではセオドア・ルーズベルト大統領などに海外に進出する「遠大な政策(large policy)」の理論と戦略を提供した。米国は、マハンの理論に基づいて、パナマ運河やハワイ、グアム、フィリピンなどを支配下に入れていった。米国が第1次世界大戦に勝利すると、マハンの理論は勝因として賞賛された。第2次世界大戦にも勝利した米国が超大国に成長し得た理由の一つは、米国がマハンの理論を採用して海軍強国となったことに求められる。今日もマハンの戦略思想における海軍戦略の基礎的原則は、アメリカ海軍の兵学思想の中核をなすものとして重視されている。
 マハンは、英国・ドイツなど帝国主義的な海外進出を進めていた国々にも、大きな影響を与えた。特にイギリスの帝国主義者の代表的存在であるセシル・ローズや軍事学者ジュリアン・コーベット、ドイツの皇帝ヴィルヘルム2世への影響が知られる。
 旧日本海軍の兵学思想は、マハンの影響を最も強く受けた。日本の海軍史や海軍戦略の研究を進め、「日本のマハン」と呼ばれた佐藤鉄太郎や、日露戦争における連合艦隊の作戦参謀だった秋山真之は、米国留学中にマハンに学びその影響を受けた。

◆地政学との関係

 第3部で地政学の基礎的研究を書くが、地政学の理論と歴史を書いたものの多くは、大陸国家系の地理学者・政治学者の系統を示したのちに、海洋国家系の系統を示す。マハンは、後者の系統のはじめとされるのが通例である。それゆえ、マハンは戦略論と地政学をつなぐ結節点になっている。
 マハンの主張のうち主に地政学に関することは、第3部に譲る。

 次回に続く。

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戦略論39~マハンの海軍戦略

2022-08-07 13:45:43 | 戦略論
●マハン

◆生涯

 産業革命で石炭を使った蒸気機関を艦船の動力に利用し、船舶の大型化・高速化が進んだ。搭載する大砲も威力を増した。列強は、海軍の増強に力を入れ、大西洋、インド洋、太平洋等の大洋を行きかう各国の艦船が、植民地の獲得を争った。
 1870年代から世界は帝国主義の時代に入った。イギリスに続いて、ドイツ、アメリカ、フランス等が資本主義の生産力に裏付けられた軍事力を用いて勢力を拡大する帝国主義政策を展開した。
 この時代に、海軍戦略(naval strategy)を発展させた軍事理論家の代表的存在が、アルフレッド・セイヤー・マハンである。
 マハンは、アメリカ海軍の軍人・海軍戦略家・歴史家だった。1840年生まれで、1914年の没である。海軍勤務の後、海軍大学校で戦史と戦略を教える教官、後に校長になった。退役後、海軍参謀部、ハーグ平和会議の代表などを歴任した。最終階級は海軍少将である。アメリカ史学協会会長も務めた。

◆マハン以前

 マハンの出現まで、近代西洋文明における戦略論は陸上戦力を中心に書かれた。19世紀末になって初めて海洋戦力の重要性を唱える海軍戦略の理論書を著わしたのが、マハンだった。
 しかし、古代からの世界の戦争史では、海戦は重要な位置を占めてきた。西洋文明を中心に振り返っても、古代のギリシャ対ペルシャのサラミスの海戦、ローマ対エジプトのアクティウムの海戦、16世紀のオスマン対スペインのプレヴェザの海戦、オスマン対ヨーロッパ連合のレパントの海戦、イギリス対スペインのアルマダの海戦、19世紀のナポレオン戦争におけるトラファルガーの海戦等、海戦の勝敗はしばしば国家の興亡、文明の盛衰の転機となった。だが、海戦は軍事の実務として行われてきたようで、海軍戦略の理論書は、古代から近代までどの文明でも現れなかった。これは軍事思想の発達で世界の歴史に冠たるシナ文明でも同様である。
 シナ文明は、15~16世紀の明の時代に、世界最大規模の海軍を持っていた。鄭和は、15世紀の前半に7回にわたって大艦隊を率いて南海諸国を巡航した。インド洋を渡ってアフリカ東岸にまで至った。インド洋への第1次航海の際の旗艦は、マストが9本あり、全長125メートルの巨大な木造帆船(ジャンク船)だったと言われる。15世紀末に大西洋を渡ったコロンブスのサンタマリア号は全長27メートル、喜望峰を回ったヴァスコ・ダ・ガマのサン・ガブリエル号は全長26メートルというから、鄭和の船は、その5倍近い長さだった。当時のシナ文明の海軍は世界史上最強の海軍だった。だが、シナ人は海軍戦略の理論書を残さなかった。
 マハンの登場によって、ようやく海軍戦略の重要性が理論的に提示されたのである。

◆著書

 マハンの著書としては、彼の講義録をまとめた『海上権力史論』(1890年)が有名である。海上権力は、シーパワー(sea power)の訳語である。パワーは「権力」の他に「強国」を意味するから、シーパワーは、強い海軍力を持つ国家を意味し、海洋国家、海軍強国等とも訳し得る。
 マハンは『海上権力史論』の他、『1793~1812年のフランス革命および同帝国に及ぼした海軍力の影響』『ネルソン伝』等を通じて、海軍力の歴史的役割とその支配的な影響力を明らかにした。彼の研究は、海軍兵学だけでなく近代の国際政治の上にも強い影響を与えた。

 次回に続く。

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戦略論38~大モルトケの生涯と思想

2022-08-05 07:45:22 | 戦略論
●ナポレオン戦争から第1次世界大戦までの時代

 ナポレオン戦争は、第1次ヨーロッパ大戦と言ってもよい戦争だった。ユーラシア大陸西端のヨーロッパの大陸部からロシアにまで、戦域が広がった広域的な大戦争だったからである。この見方をすれば、第1次世界大戦は、ヨーロッパにおいては第2次ヨーロッパ大戦、第2次世界大戦は第3次ヨーロッパ大戦ということができる。
 ナポレオン戦争から第1次世界大戦までの時代は、産業革命の本格化、機械工業及び重化学工業の発達が進んだ時代である。
 産業革命の進展によって、動力革命・エネルギー革命が起こり、機械工業が発達し、多くの技術革新が起こった。化石燃料の使用、蒸気機関の発明、鉄道の敷設、通信の迅速化等である。また新たな技術を利用した生産力の増大は、国家や社会に大きな変化をもたらした。以後の戦争は、こうした技術を活用し、また変化する国家・社会に対応するものとして実施された。
 この時代をけん引した軍事理論家が、陸のヘルムート・フォン・モルトケ。海のアルフレッド・セイヤー・マハン、ジュリアン・コーベットである。

●モルトケ(大モルトケ)

◆生涯

 ヘルムート・フォン・モルトケは、ナポレオン1世以降、最高の軍事的天才と言ってよい。プロイセン及びドイツの軍人で政治家、軍事学者で、近代ドイツ陸軍の父と呼ばれる。甥で第1次世界大戦当時のドイツ軍参謀総長モルトケ (小モルトケ) に対して、大モルトケと称される。
 モルトケは、1800年に生まれ、1891年に没した。1858年にプロシアの参謀総長となり、88年まで勤めた。産業革命以後に生まれた当時の最新技術である鉄道と電信を積極的に利用し、電信による迅速な命令伝達を行い、鉄道で大部隊を主戦場に輸送して、敵主力を包囲殲滅する戦略を確立した。こうした戦略を実施するための軍制改革を行い、近代的な陸軍を編成した。彼が参謀部に設けた総括的作戦指令の制度は、その後に近代化されたあらゆる国の軍隊の模範となった。鉄血宰相ビスマルクの下で、デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争を指導し、戦術家としても天才的手腕を振るって勝利をおさめ、ドイツの統一に大きく貢献した。
 モルトケは、従来の戦略にとらわれず、状況や時代の変化に対応する柔軟性を発揮した。モルトケの戦略は、分散進撃し、包囲して一斉攻撃することである。これは、ナポレオンの作戦を理論化したジョミニが内線作戦を戦いの原則としたのとは、正反対である。モルトケは過去の常識を覆し、鉄道と電信の発達によって分散進撃して攻撃時のみ集中させることが可能となっているから、外線作戦が有利であると主張した。この戦略は、武器の進歩、兵士の年齢構成の変化等も考慮して生みだしたもので、見事にその有効性を実戦で証明した。

◆思想

・最初に考慮すべき事柄を比較検討せよ。それからリスクを冒せ。
・敵に遭遇すれば、計画は必ず変わる。
・戦争に時代や状況を飛び越えた一般原則は存在しない。
・戦史から勝利の公式を見つけることはできない。
・戦略とは、勝利が達成されるまで変化する戦況に臨機応変に対応することである。
・戦略は、知識以上であり、実際生活への応用であり、流動的な状況に従う創造的な思考の発展であり、困難な状況における行為の芸術である。
・戦争は、勝利しても自国民にとっては一種の不幸である。領土の獲得も賠償金の獲得も、人間の命を償い、遺族の悲しみを埋め合わせることはできない。
・永遠の平和など夢にすぎない。しかも決して美しくない夢である。戦争とは神の世界秩序の一環である。戦争においてこそ人間の最も高貴な美徳、勇気、自己否定、命をかける義務心や犠牲心が育まれる。もし戦争がなかったら世界は唯物主義の中で腐敗していくであろう。

 次回に続く。

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戦略論37~ジョミニの「戦いの原則」と軍事政策

2022-08-03 10:15:19 | 戦略論
●ジョミニ(続き)

◆思想(続き)

#戦いの原則
 ジョミニは、戦争に勝利するための不変の原理の探究に努めた。その過程で、戦場における幾何学的な戦力の相対的な配置と各々の戦力が持つ後方連絡線の意義について考察した。そして、優れた作戦を立案するに当たって、必ず準拠しなければならない「戦いの原則」があるとして、次の4点を掲げた。

(1)我の後方を掩護しながらも、その戦域の決定的地点または敵後方に対して、我の軍主力を戦略機動によって可能な限り継続的に指向すること。
(2)我の主力が敵の一部と交戦するように機動すること。
(3)戦場において敵を打破するために最も重要な決定的地点または前線の部分に対して主力を投じること。
(4)単に決定的地点に対して我の主力を投じるだけではなく、適当な時期に十分な戦力で交戦する準備を整えること。

 ジョミニの「戦いの原則」の要諦は、内線作戦にある。内戦作戦とは、軍隊が敵に包囲され、または挟撃されるような位置にあって、我が方の全力を以って決勝点に対して単刀直入に攻撃し、速戦即決により各個撃破する作戦である。これと逆の外線作戦は、軍隊が敵を包囲し、または挟撃するような位置にあって作戦することである。内線作戦の原則は、包囲される側が内線作戦で戦力を集中させて、包囲する側の外線部隊を各個撃破したナポレオンの作戦戦略を理論化したものである。
 ジョミニの「戦いの原則」は、その後、多くの軍事理論家によって研究され、20世紀初め、ジョン・フラーによって体系化された。(後に、フラーの項目に書く)

#軍事政策
 ジョミニは、単なる軍事の専門家ではなく、軍事と政治を結ぶ軍事政策について考察し、提案をしている。彼のいう軍事政策は、外交と戦略に含まれない一切を含むもので、国家総合戦略と軍事戦略を連携するものである。彼が望ましいと考えた軍事政策とは、次のようなものである。

(1)国家の指導者は政治と軍事の両方について学識が与えられていること。
(2)また、彼自身が軍を指揮しない場合、その能力に最も優れた将軍を見出すことができること。
(3)常備軍の規模は必要に応じて予備によって倍加できるようにしていること。
(4)戦争に必要な装備や物資を武器庫や補給処に十分に確保し、他国の技術開発の成果も積極的に活用すること。
(5)軍事学の研究を推奨、表彰し、その分野の研究団体に敬意を払わせることで、優秀な人材を確保すること。
(6)平時の幕僚はあらゆる事態に備えて平素から計画を立案し、関係する歴史、統計、地理、理論について研究させておくこと。
(7)攻撃または防御を行う相手国の軍事的能力を判断するための研究に、優秀な士官を充てて、成果があればこれを表彰すること。
(8)開戦となった際に作戦の全局にわたる計画を準備することは不可能であるが、我が作戦が成功するために不可欠な基地機能や物的準備を事前に整えていること。
(9)作戦の構想については彼我の戦争の目的、敵の特性、地域の状況、また作戦で使用し得る戦力、戦争に介入する恐れがある国家の能力などが考慮されること。
(10)国家の財政状況を戦争状態に適応させること。

 クラウゼヴィッツが戦争と政治の関係を述べたことは一般常識にまでなっているが、ジョミニが軍事と政策の関係を考察したことは、あまり知られていない。

◆影響

 ジョミニの軍事思想は、陸軍戦略だけでなく、海軍戦略にも大きな影響を与えた。例えば、アメリカの海軍戦略家アルフレッド・セイヤー・マハンは、内線の優越性等の幾何学的な原理は海戦術にも認められると主張した。

註 この項目は、次のサイトに多くを負っている。
https://militarywardiplomacy.blogspot.com/2016/11/blog-post_52.html

 次回に続く。

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