ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

松岡と三国同盟~富田メモ7

2006-07-31 11:50:15 | 靖国問題
 5回くらいの見通しで書き出したが、既に7回になっている。全10回くらいになると思う。

●昭和天皇の松岡への見方

 次に『昭和天皇独白録』を見てみたい。本書は、昭和天皇の通訳官をしていた寺崎英成氏が、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道男侍従次長、稲田周一内記部長と共に、昭和21年の3月から4月にかけて、4日間計5回にわたって昭和天皇から直接うかがったことを、まとめたものという。
 政府の要職にある複数の人間が聴取し、慎重に記録したもので、富田メモのような一人の人間だけが聴いて私的に書き留めたものとは違う。英訳されてGHQに提出され、昭和天皇の訴追の可否を検討する際に重要な資料とされたようである。史料としての価値は極めて高く、昭和天皇のお言葉として歴史書に引用されることが多い。

 『昭和天皇独白録』には、いわゆる「A級戦犯」とされた個人についてのお言葉が掲載されている。それによると、昭和天皇は、松岡洋右には、非常に厳しい見方をされている。

 「松岡は二月の末にドイツに向かい四月に帰ってきたが、それからは別人の様に非常なドイツびいきになった、恐らくは『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思はれる」。
 「現に帰国した時に私に対して、初めて王侯のような歓待を受けましたと云って喜んでいた。一体松岡のやることは不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計画には常に反対する、又条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」
 「松岡はドイツから帰朝の途ソ連と中立条約を結んだ。これは独伊ソを日本の味方として対米発言権を強める肝に過ぎない、それ故シベリア鉄道を東行してイルクーツクを通過する頃には早や沿線の兵備を視察して他日の戦争を夢想していたし又露都でスタインハート米大使と懇談した事が日米交渉の端緒となったと思って得意になっていた頃にはこの交渉にも乗気でいたが、帰朝后、この交渉が重臣方面の手で開かれたと聞くや急に横車を押す様になった」
 「五月(正しくは六月。ドイツのソ連侵攻直後)松岡はソ連との中立条約を破る事に付いて私の処に云って来た。これは明らかに国際信義を無視するもので、こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷める様云ったが、近衛は松岡の単独罷免を承知せず、七月に内閣閣僚刷新を名として総辞職した」
 「日米交渉はまとまり得る機会は前後三回あった。第1回は16年4月、野村大使の案に基づいて米国から申し出て来たときである。先方の条件は日本にとり大変好都合のもので陸軍も海軍も近衛も賛成であったが、松岡只一人自分の立てた案でないものだから、反対して折角のものを挫折せしめた。
 第2回は近衛ルーズベルト会談で之で何とか話し合いがつくかと思ったが、之は先方から断ってきた。第3回は第1回と比べると日本にとり余程不利な案だが、この案を日本から提出したのに対し、例の11月26日のハルの最後通牒が来たので遂に交渉の望を絶って終った」

●日独伊三国同盟に対する天皇のご見解

 富田メモには、「松岡」とともに「白取」として、白鳥敏夫らしき名が出てくる。松岡は外務大臣、白鳥は外務官僚として、日独伊三国同盟の締結を推進した。背後には、陸軍の親独的な勢力があった。
 昭和天皇は、ドイツ駐在の大嶋大使、イタリア駐在の白鳥大使が、天皇の意志と関係なく、独伊が第3国と戦う場合に、日本が参戦する意を表したことをお怒りになった。そして、天皇は、両大使を支援するかのような態度を取った板垣征四郎陸軍大臣と衝突をされた。

 『昭和天皇独白録』には、次のお言葉が掲載されている。
 「私は板垣に、同盟論は撤回せよと云った処、彼はそれでは辞表を出しますと云ふ、彼がいなくなると益々陸軍の統制がとれなくなるので遂にそのままとなった」
 昭和天皇が松岡だけでなく、白鳥に対しても厳しい見方をされていただろうことがうかがえよう。なお、板垣陸相は東京裁判で「A級戦犯」の一人として絞首刑にされた。靖国神社に関する運動で知られる板垣正元参議院議員の父親である。

 三国同盟が締結された当時、昭和天皇は、時の首相近衛文麿に対して、天皇は、次のように問い掛けておられた。
 「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」
 天皇は、独伊のようなファシスト国家と結ぶことは、米英両国を敵に回すことになり、わが国にとって甚だ危険なものだと見抜いておられた。また、近衛首相に対して、次のようにも言っておられた。
 「この条約のために、アメリカは日本に対して、すぐにも石油やくず鉄の輸出を停止してくるかもしれない。そうなったら日本はどうなるか。この後、長年月にわたって、大変な苦境と暗黒のうちに置かれるかもしれない」と。

 実際、日独伊三国同盟の締結で、アメリカの対日姿勢は強硬となり、石油等の輸出が止められ、窮地に立った日本は戦争へ追い込まれていった。同盟が引き起こす結果について、昭和天皇は実に明晰(めいせき)に予測されていたことがわかる。
 この天皇の予見は不幸にして的中してしまった。当時の指導層が、もっと天皇の意向に沿う努力をしていたなら、日本の進路は変わっていただろう。
 
 それゆえ、昭和天皇は日独伊三国同盟の締結を推進した松岡・白鳥のような人間に対して厳しい見方をされていただろうことがわかる。この点は、富田メモが「松岡」「白取」を挙げていることと符合する。メモを昭和天皇のご発言だと見る人は、この点を根拠のひとつとして挙げる。

 ここで十分注意しなければならないのは、昭和天皇はあくまで日本の立場に立って、三国同盟の締結を失策だと見ておられることである。対米交渉についても、日本の立場からアメリカとの関係を見ておられる。
 戦後世代の多くの日本人は、無意識にアメリカの側に立って独伊と組んで対抗してきた日本という国の指導者を断罪するような心理が働く。倒錯である。これは、「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争犯罪周知宣伝計画)」によるマインドコントロールの結果である。
 昭和天皇は、透徹した目で、しかし深い愛情をもって、わが国の歴史の明暗や、国家指導者の功罪を見ておられる。それは、日本国の君主としてのお立場の観点である。このことに十分注意しないと、知らぬ間に倒錯した心裡に陥る。

 昭和天皇は、元「A級戦犯」全員に対して、松岡らに対するような評価をしていたわけではない。その点は、最重要人物である東条英機に対する評価を合わせて見なければならない。

 次回に続く。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

他の資料との比較~富田メモ6

2006-07-30 11:08:18 | 靖国問題
●昭和天皇のお言葉の他の記録との対照

 マスメディアが報じた富田メモの最重要部分は、次の文言である。
 「私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている」

 私は、この文言は、昭和天皇のご発言を直接または間接に書き留めたものである可能性があると思う。その場合、先に書いたように、この部分の前には、中曽根・藤尾・奥野への言及があり、そこからの全体の流れを踏まえて理解を試みるべきだと思う。
 仮に昭和天皇のご発言を反映したものだとすれば、天皇は戦前・戦後のわが国の歴史、周辺諸国との関係、わが国の国としてのあり方について、強い関心をお持ちだった。その中で、靖国問題を考えておられた、と推察することが出来ると思う。そのような試みをしないと、真意を表面的にしかとらえられず、場合によっては誤解してしまうおそれがあると思う。

 上記の引用については、徳川元侍従長の発言である可能性も排除できない。また、もし昭和天皇のご発言を間接的に書き留めたのであれば、徳川元侍従長を通じてだろう。この場合は、昭和天皇のご意思をどこまで正確に反映したものかの検証が必要である。徳川の個人的な意見が強くにじみ出ている可能性もある。
 これらについては、公開されていない富田の日記・手帳・貼付部分の前後等を検証しないと、確かな判断が出来ないと思う。

 そこで、富田メモをどうとらえるかの補助として、昭和天皇のお言葉の他の記録と対照して精査する必要があると思う。

●『木戸幸一日記』が伝えるもの

 富田メモは、一人の人間が私的にメモしたものである。公開されている部分に関する限り、簡略な覚書を、そのまま日記に貼り付けたものである。書き留めた言葉の整理や清書もされていない。文中の「私」が誰かが明記されていない。複数の人間の発言を記録したようであるが、「私」以外が誰なのかも明記されていない。
 これに比べ、『木戸幸一日記』(東京大学出版会)や『昭和天皇独白録』(文春文庫)は、まさに第一級の史料である。史料としての評価が定着している。これらと富田メモを比較して検討することは、有益だと思う。

 『木戸幸一日記』は、戦前の内大臣・木戸幸一が残した日記である。木戸は大東亜戦争の以前から戦争の終結まで、最も近い側近として昭和天皇を輔佐した。敗戦後「A級戦犯」として東京裁判で終身禁錮の判決を受けたが、昭和30年に仮釈放され、ついで自由の身となった。富田朝彦より、はるかに重要な歴史上の人物である。『木戸幸一日記』は、昭和史を研究する際の重要文献として、多くの歴史書に引用されている。

 富田メモには、「A級」「松岡」「白取」等と書かれているが、いわゆる「A級戦犯」に関して、『木戸幸一日記』は、次のように書いている。
 昭和20年8月29日、昭和天皇は「戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか」と語られた。また同年12月10日には、 「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」と発言されたとしている。
 これらの記載から、昭和天皇が東京裁判で起訴された戦争責任者を「犯罪人」とは見ていなかったことがわかる。これは、非常に重要な情報である。

 富田メモには「私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」とあるが、もし「A級」の語が発言者の言葉を富田がそのままメモしたのだとすれば、こうした言葉遣いを、昭和天皇がなさるとは考えにくい。また、仮に元「A級戦犯」の合祀について、昭和天皇が「不快感」を持っておられたとしても、それが元「A級戦犯」全員に対してのものとは、考えにくい。

 次回に続く。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

侍従長説は難点も~富田メモ5

2006-07-29 08:44:12 | 靖国問題
●天皇と侍従長

 昭和天皇は昭和63年4月25日の記者会見において、徳川前侍従長について、質問にお答えになっている。(読売新聞による)

 ご質問:先日、五十年以上にわたり陛下にお仕えした徳川義寛侍従長が退任しましたが。
 お答え:「徳川侍従長に対しては、思い出も深いのでありますが、特に終戦の時に玉音盤をよく守ってくれたこと、戦後、全国を巡遊した時に岐阜の付近で歓迎の人波にもまれてロッ骨を折ったことがあります。裏方の勤務に精励してくれたことを感謝しています。また、ヨーロッパやアメリカの親善訪問の準備をよくしてくれたので、訪問はだいたい成功したように思われます。年齢のためにこのたび辞めることになりましたが、非常に残念に思います」
 
 徳川は退官後、侍従職参与となり、昭和64年1月の天皇崩御まで側近として仕えたという。退官後も富田とは近い関係にあったわけである。天皇記者会見について、後日、富田が徳川に意見や感想を聴く機会があっても不思議はない。この場合、メモの記録は、大部分が徳川自身の発言だという可能性と、なんらかの形で昭和天皇のご意思が反映した言葉という可能性がある。
 後者の場合であっても、それは徳川が理解した内容であり、天皇のお言葉そのものとは、いえない。徳川自身の意見や感情が交じっていれば、正確には天皇の真意は伝わらない。もし記録に残すほど重要なことであれば、徳川自身が記録するのではないか。
 この辺の検討は、昭和63年4月28日の昭和天皇のご公務の記録、富田と徳川の勤務日誌や日記等を確認するとよいと思う。天皇にお会いしたのは誰なのか、また28日には誰と誰が会ったのか、そこでメモのような内容の会話がなされたのか等を精査していく必要があると思う。28日に、元侍従長としての徳川の記者会見がなかったかどうかの確認も必要である。

●すべて徳川の発言とする説の難点

 富田メモをすべて徳川の発言だとする説の難点の一つは、メモの公開部分の前のページに以下の文言があることである。
 「昨年は 高松薨去間もないときで 心も重かった
  (2) メモで返答したのでつくしていたと思う
  (3) 4.29に吐瀉したが その前で やはり体調が充分でなかった それで長官に今年はの記者
  印象があったのであろう
   =(2)については記者も申しておりました」
 
 この部分は、「昨年」つまり昭和62年にも、63年と同じような記者会見が行なわれたことを示す。昭和天皇は毎年、天皇誕生日の前に記者会見をされていた。62年には4月21日に行われた。この年の2月3日に高松宮宣仁殿下が薨去されている。上記の引用は、この時のことを富田が直接、昭和天皇から聞いたか、あるいは徳川から聞いたかのどちらかになる。

 また、発言者はそのころ体調が悪く、会見後の4月29日に「吐瀉」(嘔吐と下痢)したという。
 この日、昭和天皇が吐瀉された事実はある。『週刊朝日 緊急増刊 昭和逝く』(1989年1月25日号)のP24に「皇居の宮殿「豊明殿」で午後零時五十分から開かれた天皇誕生日を祝う宴席で、朝食に食べたものを吐き戻された。美智子、華子両妃殿下に支えられながら、予定より十五分早い一時十五分に退席され、車いすで別室へ」とある。(註)
 その後、昭和天皇は昭和62年の8月の末頃から、食べたものを戻されるなどの異常を訴えられ、9月22日に、宮内庁病院で手術をお受けになった。富田メモが記す昭和63年4月25日の記者会見は、大病をされた後の昭和天皇のご会見だった。

 発言者を徳川とする場合、徳川が記者に「メモで返答した」り、62年の4月29日に彼自身も「吐瀉」することがあったのかの確認が必要である。そういう事実がなければ、この部分については、昭和天皇のご発言を直接または間接に伝えるものと見てよいだろう。
 徳川が昭和天皇からお聞きしたことを伝えている場合は、昭和62年4月の昭和天皇のご心境やご体調について、徳川が63年の4月28日に語ったことになる。富田一人に対してなのか、記者に対してなのかは、当日の徳川と富田の行動記録を調べる必要がある。

 次回に続く。


・一燈照隅氏に提供していただいた情報による。
http://blog.goo.ne.jp/misky730/e/0c52e5b9992d2f36eac651958d622bb3
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳川元侍従長か~富田メモ4

2006-07-28 11:13:03 | 靖国問題
●④のページと前のページ及び①②の関係

 前回、私は、マスメディアが強調して報道している部分は、その前のページと、この④のページの上段からの全体の流れを踏まえて理解しないとならないものだと考えると書いた。全体の流れを踏まえないと、マスメディアが、これを昭和天皇のご発言と断じ、天皇が「A級戦犯」合祀に「不快感」と報道した部分の含意が、変わってくるからである。
 ④のページは、右角に④と書いてあるが、前のページには丸文字がない。このページが③に当たるのか、それとも③が別にあるのか、不明である。また、①と②のページがあるものと思われるが、公表されていない。
 また、前のページには、[1][2]とあるが、④のページには[ ]の表記はない。④のページは[2]の続きの部分なのか、前のページとは別の内容または別の発言者の記録なのかも、わからない。
 富田メモには、さまざまな疑義が出ているが、このメモを公表した者は、これらの点に関して国民に事実を明らかにする責任がある。

●徳川元侍従長の発言である可能性

 さて、富田メモは、昭和天皇のご発言を記録したものだとする説に対し、徳川義寛元侍従長の発言を書き留めたものとする説が出されている。かなりの数のネット利用者がこれを主張または支持している。今の段階で私はその可能性を否定しない。一部徳川の意見と考えられる部分がある。しかし、全部徳川の発言とするには難点がある。

 徳川は昭和63年4月13日に侍従長を退官した。62年だという情報もあるが、私は63年と思う。63年4月25日の昭和天皇の記者会見での質疑において、徳川侍従長の退任が「先日」「このたび」と表現されているからである。
 富田メモは、63年4月28日の日付であり、「Pressとの会見」と書いてある。メモの内容から見て、この記者会見は、25日に行なわれた昭和天皇の記者会見と関係のあるものと考えられる。
 そこで、富田メモは、記者会見後、当日から28日の間に、天皇にご感想を、富田か徳川、または二人がうかがい、28日に富田が書きとめたものと考えられる。
 28日に元侍従長としての徳川に対する記者会見が行なわれていないかどうかの確認も必要である。もし行なわれていれば、昭和天皇のご発言と思われる内容であっても、徳川が間接的にお言葉を伝えたか、または自分の推察や意見を述べたものということになろう。

 富田メモの最も重要な部分は、次の文言である。
 「私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている」

 この内容に関わることを、徳川は『侍従長の遺言―昭和天皇との50年』(朝日新聞社)で述べている。本書は、朝日新聞編集委員だった岩井克己が、徳川から取材した内容をまとめたものである。刊行は、平成7年(1995)。侍従長もその後の参与職も辞めた後だ。徳川発言説は、主に本書の記述に依拠している。
 松岡について、徳川は本書で次のように語っている。

 「松岡洋右さんはエキセントリックな人でしたね。昭和15年の夏には、大使二人を除く外務省の幹部をほとんど替えちゃった。『外交官はいままでのようじゃだめだ』などと言ってね。(略)スターリンと条約を結んでから帰国した松岡さんはスターリンのことを『さん』づけで呼ぶんですから。ご陪食の後のお茶の席で、盛んに『スターリンさん』なんて呼んで、語り草になっていたものです」
 「私は、東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったんです」
 「でも当時、『そちらの勉強不足だ』みたいな感じで言われ、押し切られた。私は松岡さんの例を出して『おかしい』と言ったのだが、東条さんのことで答えられ、すり替えられたと感じた。靖国神社には軍人でなくても、消防など戦時下で働いていて亡くなった人は祀っている。しかし松岡さんはおかしい。松岡さんは病院で亡くなったんですから」

 松岡に対する評価と松岡の合祀への批判については、富田メモに通じるものがある。

 『侍従長の遺言』において、徳川は、元「A級戦犯」の合祀について、次のように語っている。
 「A級戦犯はその十年くらい前に厚生省から『戦争による公務死亡者』として名前が靖国神社に届き、神社では昭和46年6月30日の総代会で合祀する方針を一応決めたのですが、『合祀の時期は宮司に任せる』ということで、宮司の筑波藤麿さんがずっと延ばしてきていたのです。ところが宮司さんが筑波さんから松平永芳さんに代わって、間もなく実施に踏み切られることになった」。
 「筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったんですよ。それで中曽根首相が参拝して、ワッと言われたんです」。

 これらの徳川の発言は、富田メモの内容とよく似ている。繰り返しだが、再度引用する。
 「私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている」

 松岡に対する厳しい見方、筑波元宮司についての「慎重」という表現、松平元宮司が合祀を行なったことへの批判という三点が、富田メモと徳川の本とに共通している。そこで、富田メモは徳川元侍従長の発言を書き留めたものだという見方が成り立つわけである。
 これに対し、「私は」以後の部分は、徳川は長く昭和天皇に仕えていたから天皇のご意思をよく理解していた。だから、徳川が語った意見は昭和天皇のご意思を伝えるものであり、富田メモはそのことを明らかしているのだという見方も成り立つ。 逆に、あくまで徳川個人の意見であって、仮に昭和天皇のご意思が何らかの形で反映していたとしても、天皇の深い御心を正しく伝えるものとは言えないという反論も出るだろう。

 徳川発言説の場合、①富田メモの全部が徳川自身の意見とする見方、②富田メモの全部が昭和天皇からお聞きしたことを徳川が富田に伝えたという見方、③富田メモの一部は徳川が昭和天皇からお聞きしたこと、一部は徳川の意見という見方の三通りがあり得よう。
 昭和天皇ご発言説の場合も、徳川発言説の③の場合も、メモの前半部分までは、昭和天皇のご発言を直接または間接に書き留めたもの、「私は」以降の部分は、徳川の発言だという見方もできる。

 次回に続く。

※追記(8月2日)
 最初の項目は、不正確な点があったので、「●④のページと①②③との関係」と題しなおして、全体的に書き直した。
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中曽根らに言及~富田メモ3

2006-07-27 07:21:11 | 靖国問題
 前回の続き。

●中曽根・藤尾・奥野への言及

 富田メモは、奥野元国土庁長官の件に続いて、次の言葉を記していた。

 「前にあったね どうしたのだろう  中曽根の靖国参拝もあったか 藤尾(文相)の発言。
 =奧野は藤尾と違うと思うが バランス感覚のことと思う 単純な復古ではないとも」

 私はこの部分に注目する。まず「中曽根の靖国参拝」とは、昭和60年8月15日に中曽根首相が靖国神社に公式参拝したことに対し、中国政府が抗議し、中曽根がその後、参拝を取りやめたことを指すものだろう。
 次に「藤尾(文相)の発言」とは、昭和61年7月から秋にかけての藤尾正行文部大臣の発言を指すものだろう。藤尾発言のきっかけは、「日本を守る国民会議」(現・日本会議)が編集した高校日本史教科書『新編日本史』の内容を、韓国政府が批判したことにある。この時、藤尾文相は、南京虐殺はなかったとし、日本の韓国併合は韓国の合意のもとに行われたものであり「韓国側にもやはり幾らかの責任なり、考えるべき点がある」等と発言した。これに対して周辺諸国の再批判が高まるなかで、中曽根首相は藤尾を罷免した。

 『新編日本史』は一旦、文部省の検定に合格していたにもかかわらず、追加修正をさせられた。これは、昭和57年の教科書誤報事件以後、「近隣諸国条項」によって、はじめてわが国の教科書に外国の内政干渉を許した事件である。この事件は、近隣諸国に関する近現代史の記述について、外国からの圧力によって教科書が変更されるという前例を作った。
 中曽根は、周辺諸国の抗議に屈し、首相の靖国公式参拝を中止しただけでなく、わが国の歴史教科書の内容に外国の内政干渉を許し、以後、これが定着するという屈辱的な失政をした。

 富田メモに話を戻すと、「藤尾(文相)の発言。」という言葉に続いて、「=奧野は藤尾と違うと思うが バランス感覚のことと思う 単純な復古ではないとも」と記されている。
 メモの前のページには、「=(2)については記者も申しておりました」という言葉があり、これはどう見ても天皇のお言葉とは考えられない。そこで「=」ではじまる部分は、天皇とは別の人間の発言と考えられる。それが徳川元侍従長なのか、富田元宮内庁長官なのかは、わからない。
 いずれにせよ、昭和63年の奥野の発言を、61年の藤尾の発言と比較して、「バランス感覚」とか「単純な復古ではない」などと論評しているわけである。

●全体の流れを踏まえた理解

 前回私は、富田メモの奥野発言に関する部分について、天皇は、大東亜戦争を侵略戦争だとする見方や、英霊の祀られている靖国神社について中国の指導者が批判的に言うことについて、「嫌な気持」を持っておられた、と理解することができると書いた。そのことと、藤尾発言の部分とを対照してみると、興味深いことが浮かび上がってくる。

 昭和天皇は側近との間では、中国政府や韓国政府のわが国に対する批判や干渉を、快く思っておられないことをお述べになったり、側近がそのように申し上げることを肯定的に聞いておられた可能性があるということである。

 マスメディアは、富田メモを報道するに当たり、前のページを公表せず、報道されたページの上の部分を重視していない。その理由について、私は次のように推測する。
 富田メモは、奥野発言、藤尾発言、靖国参拝や歴史認識、教科書問題等に絡んだ重要な内容を含んでいる。だから、国民や周辺諸国に対して、その部分は伏せたいのである。その部分を伏せて、靖国神社の元「A級戦犯」の合祀の問題だけに国民を誘導し、天皇のお考えがこうだから、分祀や別施設等がよいのだと意識操作をしようとしたのだろう。

 私は、昭和天皇が靖国ご親拝を中止されていたのは、昭和50年の三木首相の私人参拝表明によって、天皇の靖国ご親拝が憲法問題になったことが決定的原因だと見る。53年秋の元「A級戦犯」の合祀も関係があったとしても、それが決定的なものではないと考えている。
 その観点から見ると、富田メモが、昭和60年の中曽根首相の靖国公式参拝、61年の藤尾発言、63年の奥野発言に言及していることは、重要な意味を持つ。
 これらの事件に共通しているものはなにか。わが国の歴史の評価と、それに関する周辺諸国の批判である。すなわち、靖国参拝、歴史教科書、日韓併合・南京事件・大東亜戦争等に関する認識と、周辺諸国、特に中国・韓国による批判、それに対するわが国の政府の内政干渉を許すような対応。これらが、富田メモの文言を貫くテーマなのである。

 それゆえ私は、マスメディアが強調して報道している部分は、その前のページと、このページの上段の部分からの全体の流れを踏まえて理解しないとならないものだと考える。
 そして、全体の流れを踏まえるならば、昭和天皇は、戦前・戦後のわが国の歴史、周辺諸国との関係、わが国の国としてのあり方について、強い関心をお持ちだった。その中で、靖国問題を考えておられた、と推察することが出来ると思う。

 すべて富田メモが昭和天皇のご発言を伝えるものだとするならば、という仮定の話である。その上で言うのだが、戦前・戦後のわが国の歴史、周辺諸国との関係、わが国の国としてのあり方について強い関心を持っておられた昭和天皇が、一体、元「A級戦犯」の合祀だけをもって、靖国ご親拝の可否をお考えになるものだろうか。
 天皇の御心は深い。国民を思い、遺族をいたわり、戦前からの歴史を見すえ、諸外国にも目を配っておられる。部分のみを取り出して引用し、これが天皇の「心」だと断定的に報じるのは、重大な誤りだと思う。

 次回は、徳川発言説を検討する。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和天皇のお言葉か~富田メモ2

2006-07-26 11:18:54 | 靖国問題
●内容についての私見

 富田メモの内容について述べるに当たり、最初に現時点での私の意見を述べる。
 富田メモは昭和天皇のご発言を直接または間接に記録したものという可能性はあるが、全部的または部分的に徳川元侍従長の発言を記録したものという可能性もあり、どちらとも断定できる決定的なものがない。
 そのようなメモを昭和天皇のご発言だとして報道したマスメディア及び有識者の責任は重い。また富田メモを昭和天皇のご発言として政治的に利用することは断じて許されない。
 富田メモについては、今後、専門家の精査・検証を待つべきである。またこの機会に、日本人は、わが国における国家と慰霊、天皇と国民の関係について認識を深めたい、というのが、現時点での私の意見である。
 なぜこのように考えるかについて、以下述べたい。

●昭和天皇のご発言である可能性

 前回掲示した富田メモの未公開部分の解読から、メモにおける「Pressの会見」とは、昭和63年4月25日に行なわれた昭和天皇の記者会見とする説が出ている。
 この記者会見の内容はマスメディアで報道された。公表された富田メモの文言には、その際の天皇のご発言と似た表現がある。戦争の感想に関する部分がそれだ。同時に、会見でのご発言にはないことも書かれている。
 そこで、記者会見後の28日に、天皇が記者会見を振り返ってお述べになったことを、富田氏が直接または間接にメモしたものではないかと考えることが可能である。
 戦争に関する部分とは、以下の質疑である。

 ご質問:陛下が即位式(昭和三年十一月)をされてから六十年になりますが、第二次世界大戦について、改めてお考えをお聞かせ下さい。
 お答え:「何と言っても、大戦のことが、一番いやな思い出であります。戦後、国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後とも、そのことを国民が忘れずに、平和を守ってくれることを期待しています」

 このお答えは、日経が全文を公表していない、前のページにある、次のように読める言葉と内容が似ている。
 「(2)戦争の感想を問われ、嫌な気持と表現したがそれは后で云いたい そして戦后国民が努力して平和の確立につとめてくれたことを云いたかった
 ”嫌だ”と云ったのは奥野国土庁長の靖国発言中国への言及にひっかけて云った積りである」

 記者会見で昭和天皇が「大戦のことが、一番いやな思い出」と述べ、「戦後、国民が相協力して平和のために努めてくれたこと」をうれしく思うとお答えになったことと、富田メモには共通の言葉がある。「嫌な気持」「戦后国民が努力して平和の確立につとめてくれたこと」である。
 それゆえ、上記の引用部分は、記者会見の後で、天皇が側近に対し、会見の場でお答えになったことの主旨・含意を漏らされた内容と見ることができる。
 皮肉なことに、マスメディアが強調していない部分に、最も天皇のお言葉に近く思える文言がある。マスメディアがそこを強調しないのは、なぜか。

 戦争の思い出について、「悲しい」とか「つらい」ではない。「嫌な」というご表現。記者会見が報道された当時、私は、昭和天皇のお言葉としては、特異な印象を受けた。富田メモには、「”嫌だ”と云ったのは奥野国土庁長の靖国発言中国への言及にひっかけて云った積りである」とある。
 仮にこの文言が昭和天皇のお言葉だとすると、どうして、奥野の発言にひっかけて、あえて「嫌な」というご表現をされたのだろうか。

 「奥野国土庁長の靖国発言中国への言及」とは、奥野誠亮(せいすけ)国土庁長官のことに違いない。奥野は昭和63年つまり富田メモと同じ年、靖国神社公式参拝についての小平の発言を批判し、大東亜戦争について日本には侵略の意図がなかったと発言した。
 富田メモの4月28日の時点では、奥の発言が政治問題化していた。結局、奥野は同年5月13日に国土庁長官を辞任した。

 仮にこのメモを昭和天皇のご発言だとすると、天皇は、ここで戦争自体を嫌だと言われたのではない。奥野のような発言をする人間がいるのが嫌だと言われたのでもない。大東亜戦争を侵略戦争だとする見方や、英霊の祀られている靖国神社について中国の指導者が批判的に言うことについて、「嫌な気持」を持っておられた、それを奥野の発言にひっかけてご発言されたのだ、と理解することも可能だろう。
 ひとつの可能性としてこういう理解を立て、次の藤尾元文部大臣の発言との関係を考えたい。富田メモで赤線が引かれていた部分である。ここを考察しないと、例の合祀に関する部分の理解は、浅薄なものとなるだろう。

 次回に続く。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何が書いてあるか~富田メモ1

2006-07-25 13:08:23 | 靖国問題
 富田朝彦元宮内庁長官が残したというメモは、筆跡、用紙の状態、インクの色、貼付であることなど、メモの内容以前に、疑問が多く出されている。まずこれらの検証が必要だろう。報道人や歴史家には、そこから精査して欲しい。
 メモの真贋はその検証を待つとして、本稿では内容の検討をしたい。

●富田メモの関係部分

 富田メモは、マスメディアが報道した部分とそのページの上の部分及び前ページに、次のように読めることが書いてあるようだ。ネットで拾ったものである。解読された方のご努力に対し、この場でお礼を申し上げたい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆Pressの会見                            
[1]   昨年は
  (1) 高松薨去間もないときで
    心も重かった
  (2) メモで返答したのでつく
  していたと思う
  (3) 4.29に吐瀉したが その前で
   やはり体調が充分でなかった
  それで長官に今年はの記者
  印象があったのであろう
    =(2)については記者も申して
    おりました
 
[2]  戦争の感想を問われ
  嫌な気持を表現したが
  それは後で云いたい
  そして戦後国民が努力して
  平和の確立につとめてくれた
  ことを云いたかった
  "嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長
  の靖国発言中国への言及にひっかけて
  云った積りである


               4.28 ④
  前にあったね どうしたのだろう
  中曽根の靖国参拝もあったか
  藤尾(文相)の発言。
 =奧野は藤尾と違うと思うが
  バランス感覚のことと思う
  単純な復古ではないとも。

  私は 或る時に、A級が
  合祀され その上松岡、白取
  までもが、
   筑波は慎重に対処して
  くれたと聞いたが
                      
〇   松平の子の今の宮司がどう考
余そ えたのか 易々と
りう  松平は平和に強い考が
閣で あったと思うのに 親の心子知
僚す らずと思っている
もが だから 私あれ以来参拝
知か していない。それが私の心だ
ら多
すい
    関連質問 関係者もおり批判になるの意
―ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 最後の数行は、左の欄外に縦に「余り関係も知らず」「そうですがが多い」と書いてある。

 このメモをスクープした日本経済新聞7月20日号朝刊では1面に、④というページの「私は或る時に」から「私の心だ」までの部分を、写真で紹介している。記事の本文中には、前のページの[2]の一部「戦争の感想を問われ、嫌な気持を表現した」という文言のみ引用している。
 21日号朝刊では33面に、富田の日記・手帳を並べ、④のページの全体が見えるように展示した写真を載せている。前のページは、裏面が映っているので、そのままでは読めない。また、④のページの上段の内容については、記事で具体的に触れていない。
 もう一つ見逃せないことがある。④のページは、右角に④と書いてあるが、前のページには丸文字がない。このページが③に当たるのか、それとも③が別にあるのか、不明である。また、①と②のページがあるものと思われるが、公表されていない。はじめから欠損していたのか、破棄されたのか、あるいは第3者によって隠蔽されているのか。この点も今の段階ではわからない。
 また、前のページには、[1][2]とあるが、④のページには[ ]の表記はない。④のページは[2]の続きの部分なのか、前のページとは別の内容または別の発言者の記録なのかも、わからない。

 こうした報道の仕方において、以下の部分が多くのマスメディアによって、昭和天皇の御言葉として報道されている。
 「私は 或る時に、A級が合祀され その上松岡、白取までもが、
  筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
  松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
  松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
  だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」

 産経新聞などは、「昭和天皇が~発言されていたとするメモ」というように、断定を避けた表現で報道している。

●ずさんなメモの取り方

 まずメモの性格について述べたい。文中の「私」とは、誰であるのか、富田メモには明記されていない。
 仮にこれは富田が昭和天皇のご発言を書き留めたものだとしよう。メモには、全部が天皇のお言葉とは考えられない部分がある。「=(2)については記者も申しておりました」は、天皇のお言葉ではあり得ない。左欄外の2行も、そうではないか。
 どの文言が天皇のお言葉であり、どの文言が他の人間の言葉であり、または筆者富田の意見であるのか。それを区別できるのは、書いた本人以外にはいないだろう。
 こういうメモは、「第一級」(秦郁彦氏・半藤一利氏等)の史料とはいえないと思う。

 私も貴人・要人の言葉をメモした経験があるが、こういうずさんな記録はしたことがない。仮にとりあえずキーワードを書き留めた場合でも、後で記憶をもとに話者の主旨を構成する。また、重要な内容の場合は、清書しておく。その場に、複数の話者がいた場合は、誰の発言か記録する。また自分の意見も書き留めておく場合は、この部分は自分の発言または感想だとわかるように記録する。
 そうしておかないと、少し時間がたつと、記憶があいまいになり、自分が聴いた主旨がわからなくなったり、誰の発言だったかさえ混同したりするからだ。

 富田氏は、天皇に仕える宮内庁長官という要職にあって、私的とはいえ、天皇のご発言を記録するという重要なことをしていたわけだが、このメモに関する限り、私の感覚で言うと、姿勢や方法がずさんである。
 万が一、自分の死後、この記録が天皇のお言葉として、世人の目に触れるかもしれないと意識すれば、いい加減なメモの残し方はできないはずである。
 富田氏は、戦前は海軍主計大尉、戦後警視庁に入り、宮内庁長官になる前は、警視庁警備局長だった。経歴を見る限り、相当優秀な官僚だし、危機管理のプロといってよい。そうした人物が、このようにずさんな記録の残し方をするものだろうか。
 日記の全体を見る機会がないと判断できないが、私は疑問を感じる。

 内容の検討は、次回から行う。

※追記(8月2日)
 「●富田メモの関係部分」と題した項目は、一部不正確な点があったので、説明文全体を書き直した。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元「A級戦犯」合祀の経緯

2006-07-24 12:15:43 | 靖国問題
 いわゆる「A級戦犯」の合祀の経緯について補足し、合祀の問題について私見を述べたい。

 昭和28年8月から国会で、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(遺族援護法)および「恩給法」の改正が重ねられた。当時の国会は、「戦犯」とされた人々を国内法上での犯罪者とはみなさないことにした。「戦犯」とされた人々の遺族も一般戦没者の遺族と同様に扱うように法規を改正した。決定は全会一致だった。
 当時の国会が東京裁判で刑死した者を「法務死者」と見なしたことは、法的に正しい。敗戦後、昭和27年4月28日に独立を回復するまで、わが国は連合国と戦争状態にあった。戦闘は停止したが、国際法上にいう戦争は継続していた。
 東京裁判は戦争状態において行なわれた軍事裁判である。それゆえ、この裁判で処刑された者は、戦争状態において、連合国によって生命を奪われた者である。彼らの死を、戦争による公務死としたことは、主権独立国家として正当な決定である。「A級戦犯」も「B・C級」もこの点では変わらない。

 刑死した東条英機は戦場で戦死したのではないが、戦争状態における公務死者である。松岡洋右や白鳥敏夫は、武官ではなく文官だが、公務死に軍人か否かは関係ない。戦争では看護婦や電話交換手なども多数亡くなった。その死も、戦争による公務死である。
 白鳥は獄死、松岡は判決前に病死した。病死であっても、「A級戦犯容疑者」として拘留されている期間に病死したのだから、これも戦争による公務死とみなされる。
 それゆえ、厚生省の提出した名簿に、元「A級戦犯」が含まれていたこと、また東条や松岡・白鳥らが含まれていたことは、国会決議に基づく「戦争による公務死亡者」の基準によるものであって、妥当なのである。

 「戦犯」として処刑された者のうち、B・C級だった者は靖国神社に合祀してよいが、A級だった者はだめとする法的な根拠はない。また、元「A級戦犯」のうち刑死者は合祀してよいが病死者は除くという法的根拠もない。これは、東条・松岡・白鳥らの行いへの評価とは、全く別の問題である。
 私自身は、日独伊三国同盟に絶対反対、日米開戦に絶対反対という見解である。三国同盟を推進し、開戦を決めて戦争に突入した当時の指導者を厳しく批判している。万死に値すると思う。しかし、彼らの行為への批判と、彼らの合祀の問題は、厳密に別の事柄である。(註)
 ここを区別できていない人が多い。それは、無意識に東京裁判史観に呪縛されているからだと思う。

 次に、筑波宮司が、元「A級戦犯」である公務死亡者の合祀を先延ばしにしていたことは、どう考えるべきだろうか。
 厚生省が名簿を提出し、靖国神社の総代会が合祀する方針を決めた。総代会は「合祀の時期は宮司に任せる」とし、時期については宮司の裁量に任されたわけだ。国家機関の提出した名簿を踏まえて、総代会が機関決定したことを、一個人である宮司が、いつまでも実行しないのは、組織として問題があるだろう。

 厚生省の名簿提出から約12年、総代会の合祀決定から約7年、筑波宮司は合祀を実行しないまま死去した。この期間、靖国神社をめぐって重要な出来事があった。国家護持をめぐるものである。
 昭和27年4月28日にわが国が独立を回復した後、靖国神社に本来の公的性格を回復すべきだという議論が起こった。これが靖国神社国家護持運動である。
 この運動は昭和40年代には一段と活発になった。昭和45年(1970)には、わずか数ヶ月で2000万人もの国家護持要求の署名が集まった。国会では、自民党が中心となって靖国神社国家護持法案が6回も提出された。
 しかし、自民党自体がもう一つ法案成立に熱心ではなく、しばしば野党との交渉の道具にされた。結局、同法案は廃案となり、運動は挫折した。その後、昭和50年8月の三木首相の私人参拝の表明によって憲法問題が生じた。

 筑波宮司の在任中は、国家護持運動の高揚、国会での法案審議と廃案、首相の参拝の公私問題の生起という時期だった。筑波宮司は、「B・C級よりA級は後だ」「自分の在任中は合祀しない」という考えを子息に語っていたと伝えられる。
 しかし、厚生省の提出名簿は、国会の決議に基づく「戦争による公務死亡者」の基準によるものである。昭和28年の国会決議は、国民の総意の表れだった。そのことをよく理解すれば、合祀の実行は、個人の心情や政治的・社会的配慮で先延ばしされるべきことではない。粛々と実行すべきであったと私は思う。
 靖国神社を国家護持とするかどうかは、政治の問題であり、祭神の合祀は宗教の問題である。宗教上のことは、自律的な判断をすべきものである。それゆえ、私は、筑波宮司が事を先延ばししたことが、問題をややこしくすることになったのではないかと思う。

 松平宮司は、就任するとすぐ昭和53年秋に元「A級戦犯」の合祀を実行した。役職上、当然の行為であろう。翌年4月に合祀されたことが報道された。国民の間にいろいろな意見はあったが、大きな問題にはならなかった。大平首相・鈴木首相は参拝を続けた。
 大きな問題になったのは、三木以来生じた憲法上の問題を解決しようとした中曽根首相が、昭和60年に公式参拝をしたことに対し、中国政府が抗議したことによる。中国は、合祀報道からこの時まで、約6年間何も言っていなかった。

 中曽根は、中国の抗議に態度を翻し、公式参拝をやめた。一国の最高指導者が、外国の内政干渉に屈したのである。首相が公式参拝をしないという状態となるや、天皇のご親拝は、ますます遠のいた。靖国ご親拝に関する憲法問題が、真に決定的な原因となった時期は、この時だと思う。
 富田メモの政治利用は、このことを覆い隠すものともなる。

 中曽根が首相として公式参拝を継続していれば、憲法上の問題は一応の解決に至り、天皇のご親拝はやがて再開されただろう。外国の内政干渉を許さなければ、すべての「戦争による公務死者」の合祀は国民に定着していっただろうと私は思う。それは、死者に鞭打つことをしない日本人の心情にかなっているからである。

 国家における慰霊という厳粛な行為に、これ以上、外国による内政干渉を許してはならない。外国の内政干渉に、天皇のご発言だとするメモを悪用させてはならない。


・日独伊三国同盟・日米開戦に絶対反対については、以下の拙稿05-15をご参照のこと。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind06.htm
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

靖国問題は国家根幹の問題2

2006-07-23 11:35:33 | 靖国問題
 前回の続き。

 さて、いわゆる「A級戦犯」が靖国神社に合祀されたのは、首相の参拝、さらには天皇のご親拝が憲法問題となった昭和50年より3年後の昭和53年(1978)のことである。松平永芳宮司が実行した。翌年4月にこれが報道されたが、その時には大きな問題にならなかった。
 憲法問題を解決しようとした中曽根康弘首相が、昭和60年(1985)に公式参拝をしたのに対し、中国が抗議した。ここで初めて大きな問題となった。それから、「Å級戦犯分祀論」が出てきた。中曽根自身が提唱している。しかし、「分祀論」は、合祀にいたる経緯を無視する意見だ。

 昭和28年に国会において、「A級」だけでなく「B・C級」の「戦犯」もみな「法務死」とみなし、遺族に年金等を支払うことが全会一致で採決された。その結果、東京裁判において処刑された「A級戦犯」は、戦争犯罪人ではなく「法務死者」となったのである。
 これに加えて、サンフランシスコ講和条約第11条第2項には、東京裁判を行った国の過半数の同意を得た場合は「戦犯」を赦免できることになっていた。わが国はこの規定に基づき、国会で「戦犯」の免責を決議し、関係各国に働きかけた。「A級戦犯」は昭和31年(1956)3月末までに、「B・C級戦犯」は昭和33年(1958)5月末までに、全員赦免・釈放を勝ち取った。この釈放により、刑死した者の遺族にも恩給が支給されることになった。

 こうした経緯を経て、元「戦犯」は靖国神社に合祀されたのである。昭和34年(1959)に最初の合祀が行われた。まずBC級からだった。元「A級戦犯」であった14人については、昭和53年に合祀された。
 靖国神社の祭神は、国から送られてくる名簿に基づいて合祀される。所轄は厚生省(現・厚生労働省)だ。厚生省は、昭和41年に、いわゆる「A級戦犯」の氏名を記載した「戦争による公務死亡者」の名簿を靖国神社に提出した。「御祭神名票」とも呼ばれる。
 これを受けて靖国神社では、昭和46年6月30日の総代会で合祀する方針を決めた。ただし「合祀の時期は宮司に任せる」とされた。その後、筑波藤麿宮司は、合祀を延ばしていた。筑波宮司から松平永芳宮司に代わると、松平宮司は、すぐ昭和53年秋に合祀を実施した。

 合祀は、厚生省が提出した名簿に基づくものであり、厚生省の名簿は、国会の決議や諸外国の承認を踏まえ、法的な基準に基づいて作成されたものである。だから、靖国神社が元「A級戦犯」を「戦争による公務死亡者」として合祀したことは、国家の意思を受けて実行したものである。靖国神社側が批判を受ける立場にない。
 元「A級戦犯」の合祀を不適当と言う者は、厚生省の名簿、さらにその元になっている国会決議を批判すべきであろう。そこまでしないで分祀・新施設等をいう政治家は、国民を欺くものである。

 私は、根本的な問題は、「戦争による公務死者」の合祀を進めていた時点でのわが国のあり方にあると思う。すなわち、自主憲法の制定はなされておらず、東京裁判についても検証がされないまま、合祀が行なわれた。
 本来は、憲法の改正、東京裁判の見直しが先になされなければならない課題である。そこに、天皇の靖国ご親拝が政治問題化してしまう事態が生じたのである。そのため、天皇は、慰霊の誠を捧げるために、心静かに靖国に参られないお立場に置かれたのである。

 ここで仮に富田メモが、昭和天皇のご意思を直接または間接に伝えるものだとしよう。検証が不十分な段階ゆえ、仮の話として述べる。
 もし昭和天皇が靖国ご親拝をされなくなった原因に、「Å級戦犯」の合祀、特に松岡・白鳥の合祀や、松平宮司による合祀の進め方が関係していたとしても、それらはご親拝中止の決定的な原因にはなり得ない。
 昭和天皇が「A級戦犯」・松岡・白鳥の合祀について何か述べられたことがあったとしても、それは私的な感慨を漏らされたものにすぎない。
 天皇は個人的な感情によって、靖国神社に参拝するしないを決めるお立場にない。天皇のご親拝は、宮内庁が事務を執る。そこに官僚の意思がかかわる。

 合祀後も毎年、昭和天皇は、靖国神社の春秋の例大祭には、勅使を差し遣された。元「Å級戦犯」が合祀されている社に、奉幣を行われていた。現在も続けられている。それは、政治的に問題化していないからだろう。
 だから、天皇のご親拝が中止されている決定的な原因は、政治の問題であり、その核心は憲法の問題なのである。

 富田メモによって、首相の靖国参拝に反対したり、「Å級戦犯」の分祀、国立追悼施設の新設、千鳥ヶ淵霊園の拡張などを唱える者が勢いづいている。しかし、このメモをもって、首相は参拝すべきでないとか、分祀すべきだなどと主張するのは、天皇を政治的に利用しようとするものである。しかも彼らの動機は、中国をはじめとする周辺諸国への配慮である。言語道断である。

 小泉首相の方にも問題がある。首相は、富田メモについて記者の質問に対し、自身の靖国参拝への影響については、「ありません。それぞれ心の問題ですから。行ってもよし、行かなくてもよし。誰でも自由ですから」と答えた。この発言は、聞き流すべきでない。
 小泉首相靖国参拝訴訟において、国側は、首相の参拝を「私的参拝」だと主張した。首相の公式参拝の合憲性を理論的に明確に打ち出そうとしていないのである。首相の靖国参拝は、国民の代表である内閣総理大臣が、その資格において参拝するのでなければ、参拝の意味は薄い。
 単に小泉純一郎という個人が、自分の「心の問題」として参拝しているだけで、「誰でも自由」だから今後、首相が参拝してもしなくとも自由だという考えは、国家における慰霊の重要性を見失った考えである。

 最初に、私は、靖国問題は日本の国のあり方の根幹にかかわる問題だと書いた。新憲法を制定し、東京裁判の見直しを行なうことなくして、わが国は国家としてのあり方を回復し得ない。昭和天皇の御代にはそれをなし得なかった。そのため、先帝は靖国神社にご親拝をなされないままとなった。さらにそのことが、周辺諸国の内政干渉を許している。

 新憲法を制定し、東京裁判の見直しを行ない、主権独立国家としての要件を整えることが、日本人のなすべき課題である。
 また、この課題を実行することによって、天皇が、日本国の象徴にして日本国民統合の象徴として、靖国神社にご親拝を再開される環境がはじめて整うと思う。

参考資料
・靖国問題の基本的なことについては、拙稿「慰霊と靖国~日本人を結ぶ絆」をご参照のこと。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion08f.htm
コメント (13)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

靖国問題は国家根幹の問題1

2006-07-22 14:10:54 | 靖国問題
 今回の富田メモの報道の仕方は、センセーショナルだった。20日の日本経済新聞は、一面トップで大々的に報じた。まるで歴史的な大事件を伝えるかのごとき扱いである。秦郁彦氏・半藤一利氏などの著名な学者や作家が、このメモを信頼性の高いものとするコメントを載せた。
 しかし、富田メモには、いくつもの疑義が出されている。疑問は広範囲にわたっている。昭和天皇のご発言として報道したマスメディアは、疑義に答える責任がある。また、歴史や皇室の専門家には、今後、徹底的に検証して、事の真相を明らかにして欲しいと思う。

 私が今回改めて思ったのは、靖国問題は、日本の国のあり方の根幹にかかわる問題だということである。
 靖国参拝について議論になるのは、憲法の規定であり、いわゆる「A級戦犯」の合祀である。これらは、戦後の日本が独立主権国家としての要件を完全には回復できていないがための議論である。このたびの昭和天皇のご発言に基づくとされるメモは、そのことを改めて浮かび上がらせた。
 戦後は終わっておらず、昭和は終わっていないのである。

 まず憲法についてだが、現行憲法は、わが国が占領下で主権を失っていたときにつくられた。GHQが秘密裏に作成した原案をもとにしたもので、占領基本法・属国憲法としての性格をもっている。その憲法を改め、日本人自身の手で新しい憲法をつくるという課題を、戦後の日本人は実行してこなかった。
 現行憲法には、政教分離を定めた条項があるが、他の条項と同じく、日本人が自由に議論できる環境で規定したものではない。そのため、我が国の伝統や文化にそぐわない内容となっている。
 ところが、この条項を、国家と宗教の厳密な分離を定めたものと解釈する意見が有力になり、首相の靖国参拝が憲法問題として議論されるようになった。
 もとは、憲法に問題がある。わが国は、この憲法を放置したまま今日に至っている。

 次に、いわゆる「A級戦犯」とは、戦争を起こして、国民や他国民を苦しめた極悪犯罪人という意味ではない。東京裁判において、「A級」の「戦争犯罪人」として判決を受けた日本人のことである。
 容疑者の選定はずさんであり、軍人は陸軍軍人ばかりであり、海軍軍人はいない。石原莞爾のような重要人物が入っていない。昭和3年以降の歴代首相を全部選んでいるわけでもない。規準があいまいなのである。
 東京裁判は、国際法に根拠を持たないもので、戦勝国によるリンチ、見せしめのための儀式にすぎなかった。東京裁判は、マッカーサーに与えられた権限によって開廷されたが、当事者のマッカーサーは裁判後、東京裁判は誤りだったとトルーマン大統領に語ったと伝えられる。
 独立回復後、わが国は東京裁判を検証し、その不当性を明らかにすることを行なっていない。そのため、日本人自身による主体的な歴史観の回復ができていない。

 以上述べたことは、現在の日本に当てはまるのはもちろん、昭和天皇が靖国神社へのご親拝をされなくなった時期においても同じ状態だった。
 そうした状態のままで、昭和44年から49年まで、国会で靖国神社の国家護持が議論された。その後、昭和50年(1975)8月15日に三木武夫首相が「私人」としての参拝を表明した。
 三木の私人表明まで、靖国参拝と現行憲法・東京裁判の間にある問題は、明確には浮かび上がっていなかった。天皇も歴代首相も、当然のこととして靖国に参拝していた。

 同年11月21日、昭和天皇が靖国神社の秋の例大祭に参拝された。その前日、参議院内閣委員会で日本社会党がこれを問題にした。追及を受けた吉国一郎内閣法制局長官は、天皇のご親拝は、「憲法第20条第3項の重大な問題になるという考え方である」と答えた。この答弁によって、天皇のご親拝が憲法問題になってしまった。同項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めている。
 この条項の解釈の問題が解決しないと、天皇のご親拝は政治問題となる事態となった。それ以来、ご親拝は途絶えている。天皇がご親拝されなくなった決定的な原因が、この点にあることは明らかである。
 今回の富田メモがたとえいかなる性格のものであったとしても、これは変わらない。

 憲法問題に触れずに、いわゆる「Å級戦犯」の合祀に焦点を絞った報道は、全体を見失っていると思う。あるいは国民に全体像を見せずに、一定の方向に国民の意識を操作しようという意図があるのではないか、と私は見ている。

 次回に続く。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする