5回くらいの見通しで書き出したが、既に7回になっている。全10回くらいになると思う。
●昭和天皇の松岡への見方
次に『昭和天皇独白録』を見てみたい。本書は、昭和天皇の通訳官をしていた寺崎英成氏が、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道男侍従次長、稲田周一内記部長と共に、昭和21年の3月から4月にかけて、4日間計5回にわたって昭和天皇から直接うかがったことを、まとめたものという。
政府の要職にある複数の人間が聴取し、慎重に記録したもので、富田メモのような一人の人間だけが聴いて私的に書き留めたものとは違う。英訳されてGHQに提出され、昭和天皇の訴追の可否を検討する際に重要な資料とされたようである。史料としての価値は極めて高く、昭和天皇のお言葉として歴史書に引用されることが多い。
『昭和天皇独白録』には、いわゆる「A級戦犯」とされた個人についてのお言葉が掲載されている。それによると、昭和天皇は、松岡洋右には、非常に厳しい見方をされている。
「松岡は二月の末にドイツに向かい四月に帰ってきたが、それからは別人の様に非常なドイツびいきになった、恐らくは『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思はれる」。
「現に帰国した時に私に対して、初めて王侯のような歓待を受けましたと云って喜んでいた。一体松岡のやることは不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計画には常に反対する、又条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」
「松岡はドイツから帰朝の途ソ連と中立条約を結んだ。これは独伊ソを日本の味方として対米発言権を強める肝に過ぎない、それ故シベリア鉄道を東行してイルクーツクを通過する頃には早や沿線の兵備を視察して他日の戦争を夢想していたし又露都でスタインハート米大使と懇談した事が日米交渉の端緒となったと思って得意になっていた頃にはこの交渉にも乗気でいたが、帰朝后、この交渉が重臣方面の手で開かれたと聞くや急に横車を押す様になった」
「五月(正しくは六月。ドイツのソ連侵攻直後)松岡はソ連との中立条約を破る事に付いて私の処に云って来た。これは明らかに国際信義を無視するもので、こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷める様云ったが、近衛は松岡の単独罷免を承知せず、七月に内閣閣僚刷新を名として総辞職した」
「日米交渉はまとまり得る機会は前後三回あった。第1回は16年4月、野村大使の案に基づいて米国から申し出て来たときである。先方の条件は日本にとり大変好都合のもので陸軍も海軍も近衛も賛成であったが、松岡只一人自分の立てた案でないものだから、反対して折角のものを挫折せしめた。
第2回は近衛ルーズベルト会談で之で何とか話し合いがつくかと思ったが、之は先方から断ってきた。第3回は第1回と比べると日本にとり余程不利な案だが、この案を日本から提出したのに対し、例の11月26日のハルの最後通牒が来たので遂に交渉の望を絶って終った」
●日独伊三国同盟に対する天皇のご見解
富田メモには、「松岡」とともに「白取」として、白鳥敏夫らしき名が出てくる。松岡は外務大臣、白鳥は外務官僚として、日独伊三国同盟の締結を推進した。背後には、陸軍の親独的な勢力があった。
昭和天皇は、ドイツ駐在の大嶋大使、イタリア駐在の白鳥大使が、天皇の意志と関係なく、独伊が第3国と戦う場合に、日本が参戦する意を表したことをお怒りになった。そして、天皇は、両大使を支援するかのような態度を取った板垣征四郎陸軍大臣と衝突をされた。
『昭和天皇独白録』には、次のお言葉が掲載されている。
「私は板垣に、同盟論は撤回せよと云った処、彼はそれでは辞表を出しますと云ふ、彼がいなくなると益々陸軍の統制がとれなくなるので遂にそのままとなった」
昭和天皇が松岡だけでなく、白鳥に対しても厳しい見方をされていただろうことがうかがえよう。なお、板垣陸相は東京裁判で「A級戦犯」の一人として絞首刑にされた。靖国神社に関する運動で知られる板垣正元参議院議員の父親である。
三国同盟が締結された当時、昭和天皇は、時の首相近衛文麿に対して、天皇は、次のように問い掛けておられた。
「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」
天皇は、独伊のようなファシスト国家と結ぶことは、米英両国を敵に回すことになり、わが国にとって甚だ危険なものだと見抜いておられた。また、近衛首相に対して、次のようにも言っておられた。
「この条約のために、アメリカは日本に対して、すぐにも石油やくず鉄の輸出を停止してくるかもしれない。そうなったら日本はどうなるか。この後、長年月にわたって、大変な苦境と暗黒のうちに置かれるかもしれない」と。
実際、日独伊三国同盟の締結で、アメリカの対日姿勢は強硬となり、石油等の輸出が止められ、窮地に立った日本は戦争へ追い込まれていった。同盟が引き起こす結果について、昭和天皇は実に明晰(めいせき)に予測されていたことがわかる。
この天皇の予見は不幸にして的中してしまった。当時の指導層が、もっと天皇の意向に沿う努力をしていたなら、日本の進路は変わっていただろう。
それゆえ、昭和天皇は日独伊三国同盟の締結を推進した松岡・白鳥のような人間に対して厳しい見方をされていただろうことがわかる。この点は、富田メモが「松岡」「白取」を挙げていることと符合する。メモを昭和天皇のご発言だと見る人は、この点を根拠のひとつとして挙げる。
ここで十分注意しなければならないのは、昭和天皇はあくまで日本の立場に立って、三国同盟の締結を失策だと見ておられることである。対米交渉についても、日本の立場からアメリカとの関係を見ておられる。
戦後世代の多くの日本人は、無意識にアメリカの側に立って独伊と組んで対抗してきた日本という国の指導者を断罪するような心理が働く。倒錯である。これは、「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争犯罪周知宣伝計画)」によるマインドコントロールの結果である。
昭和天皇は、透徹した目で、しかし深い愛情をもって、わが国の歴史の明暗や、国家指導者の功罪を見ておられる。それは、日本国の君主としてのお立場の観点である。このことに十分注意しないと、知らぬ間に倒錯した心裡に陥る。
昭和天皇は、元「A級戦犯」全員に対して、松岡らに対するような評価をしていたわけではない。その点は、最重要人物である東条英機に対する評価を合わせて見なければならない。
次回に続く。
●昭和天皇の松岡への見方
次に『昭和天皇独白録』を見てみたい。本書は、昭和天皇の通訳官をしていた寺崎英成氏が、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道男侍従次長、稲田周一内記部長と共に、昭和21年の3月から4月にかけて、4日間計5回にわたって昭和天皇から直接うかがったことを、まとめたものという。
政府の要職にある複数の人間が聴取し、慎重に記録したもので、富田メモのような一人の人間だけが聴いて私的に書き留めたものとは違う。英訳されてGHQに提出され、昭和天皇の訴追の可否を検討する際に重要な資料とされたようである。史料としての価値は極めて高く、昭和天皇のお言葉として歴史書に引用されることが多い。
『昭和天皇独白録』には、いわゆる「A級戦犯」とされた個人についてのお言葉が掲載されている。それによると、昭和天皇は、松岡洋右には、非常に厳しい見方をされている。
「松岡は二月の末にドイツに向かい四月に帰ってきたが、それからは別人の様に非常なドイツびいきになった、恐らくは『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思はれる」。
「現に帰国した時に私に対して、初めて王侯のような歓待を受けましたと云って喜んでいた。一体松岡のやることは不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計画には常に反対する、又条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」
「松岡はドイツから帰朝の途ソ連と中立条約を結んだ。これは独伊ソを日本の味方として対米発言権を強める肝に過ぎない、それ故シベリア鉄道を東行してイルクーツクを通過する頃には早や沿線の兵備を視察して他日の戦争を夢想していたし又露都でスタインハート米大使と懇談した事が日米交渉の端緒となったと思って得意になっていた頃にはこの交渉にも乗気でいたが、帰朝后、この交渉が重臣方面の手で開かれたと聞くや急に横車を押す様になった」
「五月(正しくは六月。ドイツのソ連侵攻直後)松岡はソ連との中立条約を破る事に付いて私の処に云って来た。これは明らかに国際信義を無視するもので、こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷める様云ったが、近衛は松岡の単独罷免を承知せず、七月に内閣閣僚刷新を名として総辞職した」
「日米交渉はまとまり得る機会は前後三回あった。第1回は16年4月、野村大使の案に基づいて米国から申し出て来たときである。先方の条件は日本にとり大変好都合のもので陸軍も海軍も近衛も賛成であったが、松岡只一人自分の立てた案でないものだから、反対して折角のものを挫折せしめた。
第2回は近衛ルーズベルト会談で之で何とか話し合いがつくかと思ったが、之は先方から断ってきた。第3回は第1回と比べると日本にとり余程不利な案だが、この案を日本から提出したのに対し、例の11月26日のハルの最後通牒が来たので遂に交渉の望を絶って終った」
●日独伊三国同盟に対する天皇のご見解
富田メモには、「松岡」とともに「白取」として、白鳥敏夫らしき名が出てくる。松岡は外務大臣、白鳥は外務官僚として、日独伊三国同盟の締結を推進した。背後には、陸軍の親独的な勢力があった。
昭和天皇は、ドイツ駐在の大嶋大使、イタリア駐在の白鳥大使が、天皇の意志と関係なく、独伊が第3国と戦う場合に、日本が参戦する意を表したことをお怒りになった。そして、天皇は、両大使を支援するかのような態度を取った板垣征四郎陸軍大臣と衝突をされた。
『昭和天皇独白録』には、次のお言葉が掲載されている。
「私は板垣に、同盟論は撤回せよと云った処、彼はそれでは辞表を出しますと云ふ、彼がいなくなると益々陸軍の統制がとれなくなるので遂にそのままとなった」
昭和天皇が松岡だけでなく、白鳥に対しても厳しい見方をされていただろうことがうかがえよう。なお、板垣陸相は東京裁判で「A級戦犯」の一人として絞首刑にされた。靖国神社に関する運動で知られる板垣正元参議院議員の父親である。
三国同盟が締結された当時、昭和天皇は、時の首相近衛文麿に対して、天皇は、次のように問い掛けておられた。
「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」
天皇は、独伊のようなファシスト国家と結ぶことは、米英両国を敵に回すことになり、わが国にとって甚だ危険なものだと見抜いておられた。また、近衛首相に対して、次のようにも言っておられた。
「この条約のために、アメリカは日本に対して、すぐにも石油やくず鉄の輸出を停止してくるかもしれない。そうなったら日本はどうなるか。この後、長年月にわたって、大変な苦境と暗黒のうちに置かれるかもしれない」と。
実際、日独伊三国同盟の締結で、アメリカの対日姿勢は強硬となり、石油等の輸出が止められ、窮地に立った日本は戦争へ追い込まれていった。同盟が引き起こす結果について、昭和天皇は実に明晰(めいせき)に予測されていたことがわかる。
この天皇の予見は不幸にして的中してしまった。当時の指導層が、もっと天皇の意向に沿う努力をしていたなら、日本の進路は変わっていただろう。
それゆえ、昭和天皇は日独伊三国同盟の締結を推進した松岡・白鳥のような人間に対して厳しい見方をされていただろうことがわかる。この点は、富田メモが「松岡」「白取」を挙げていることと符合する。メモを昭和天皇のご発言だと見る人は、この点を根拠のひとつとして挙げる。
ここで十分注意しなければならないのは、昭和天皇はあくまで日本の立場に立って、三国同盟の締結を失策だと見ておられることである。対米交渉についても、日本の立場からアメリカとの関係を見ておられる。
戦後世代の多くの日本人は、無意識にアメリカの側に立って独伊と組んで対抗してきた日本という国の指導者を断罪するような心理が働く。倒錯である。これは、「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争犯罪周知宣伝計画)」によるマインドコントロールの結果である。
昭和天皇は、透徹した目で、しかし深い愛情をもって、わが国の歴史の明暗や、国家指導者の功罪を見ておられる。それは、日本国の君主としてのお立場の観点である。このことに十分注意しないと、知らぬ間に倒錯した心裡に陥る。
昭和天皇は、元「A級戦犯」全員に対して、松岡らに対するような評価をしていたわけではない。その点は、最重要人物である東条英機に対する評価を合わせて見なければならない。
次回に続く。