ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

日本の心161~『国家の品格』と武士道精神:藤原正彦2

2022-08-22 08:06:51 | 日本精神
●武士道の歴史と変遷を、どうとらえるか

 武士道精神の復活を唱える藤原正彦氏は、武士道の歴史と変遷をどのようにとらえているのだろうか。もとより氏は、歴史家や思想家ではないのだが、そのとらえ方には傾聴すべきものがある。
 「武士道はもともと、鎌倉武士の『戦いの掟』でした。いわば、戦闘の現場におけるフェアプレイ精神をうたったものと言えます。しかし、260年の平和な江戸時代に、武士道は武士道精神へと洗練され、物語、浄瑠璃、歌舞伎、講談などを通して。町人や農民にまで行き渡ります。武士階級の行動規範だった武士道は、日本人全体の行動規範となっていきました」(『品格』)
 「明治維新のころ海外留学した多くの下級武士の子弟たちは、外国人の尊敬を集めて帰ってきた」「武士道精神が品格を与えていたのである」(『けじめ』)
 明治維新によって、身分としての武士は消滅した。その後の武士道精神の変遷を、武士道精神の中核を「惻隠の情」と理解する視点から、藤原氏は次のように述べている。
 「かつて我が国は惻隠の国であった。武士道精神の衰退とともにこれは低下していったが、日露戦争のころまではそのまま残っていた」(『けじめ』)。
 その実例として、氏は、水師営での会見で、乃木将軍が敗将ステッセルに帯剣を許したこと。日本軍は各地にロシア将校の慰霊碑や墓を立てたこと。松山収容所では、ロシア人捕虜を暖かく厚遇したことなどを挙げている。
 「日本人の惻隠は大正末期にはまだ残っていたようである」(『けじめ』)。
 その実例として、氏は、第1次大戦後、ポーランド人の援助要請に応え、日本人が極東に残されたポーランド人孤児765名を救済したことを挙げる。
 確かに、私たちの先祖であり先輩である明治・大正の日本人は、異国の人々の身の上を、わがことのように思いやり、親切このうえなく心を尽くした。まだほとんど外国人と接する機会のなかった時代であるのに、国際親善・国際交流の鑑のような行動を、人情の自然な発露として行っている。
 こうした日本人の精神を、藤原氏は、武士道に重点を置いて、武士道精神と呼ぶわけである。
 大東亜戦争の敗戦後、武士道精神は大きく低下した。しかし、氏は、これは戦後、突然起こった現象ではないと見ている。
 「武士道精神は戦後、急激に廃れてしまいましたが、実はすでに昭和の初期の頃から少しづつ失われつつありました。それも要因となり、日本は盧溝橋以降の中国侵略という卑怯な行為に走るようになってしまったのです。『わが闘争』を著したヒトラーと同盟を結ぶという愚行を犯したのも、武士道精神の衰退によるものです」(『品格』)
 「当時の中国に侵略していくというのは、まったく無意味な『弱い者いじめ』でした。武士道精神に照らし合わせれば、これはもっとも恥ずかしい、卑怯なことです」(『品格』)
 「日露戦争に比べ、日中戦争や大東亜戦争での捕虜の扱いはかなり違う。日本軍は捕虜を労働力と見るようになり、酷使、虐待を平気でするようになった。昭和の初めごろより惻隠が少しずつだが衰えていったのである。明治が遠くなったこともある。野卑な外国を見習ってしまったこともある」(『けじめ』)
 ヒトラーと同盟を結んだのは、武士道精神の衰退によるという見方は、私も同感である。私は、三国同盟締結は日本精神に外れた行いだったことを、別に書いてもいる。ただし、藤原氏が、日本の大陸進出を「まったく無意味な『弱い者いじめ』」「もっとも恥ずかしい、卑怯なこと」とのみ書いているのは、歴史認識の視野の狭さ、底の浅さを露呈したものと思う。
 20世紀前半の日中関係には、国際市場のブロック化、共産主義の策謀、シナの排日運動・協定違反・日本人虐殺等、複雑な要素が重なり合っていた。氏は「盧溝橋事件以降の中国侵略」と安易に筆を走らせているのではないか。盧溝橋事件は日本側の攻撃によるものではない。また、事件後、第2次上海事件によって本格的な戦争になってしまうまで、わが国は戦争回避のため慎重な対応に努力した。
 ところが、日本を大陸深く誘い込み、戦争を勃発・拡大させて、共産革命を実現しようとするコミンテルンや中国共産党の工作が行われていた。わが国は、まんまと大陸での泥沼の戦争に引き釣り込まれたという面があったのである。
 次に、捕虜の扱いについて、氏がどういう事例を思い浮かべているのか分からないが、国家総力戦段階に突入した世界における戦争の悲惨さを抜きにして、日本人の精神面の変化だけでは論じられないものがあると思う。
 こうした藤原氏の現代史に関する認識は、よく注意して読む必要があるだろう。
 日露戦争について水師営の会見、大正時代についてポーランド人孤児の救援などを挙げるのであれば、大東亜戦争についてもインドやインドネシアの独立への支援などを挙げるのでなければ、昭和戦前期の日本人に対して否定的すぎると思う。
 いずれにしても藤原氏は、武士道は「昭和のはじめごろから少しづつ衰退し始め、戦後はさらに衰退が加速された」(『けじめ』)というとらえ方をしている。武士道精神が悪いから「侵略」「虐待」をしたのではなく、反対に武士道精神が衰退・喪失し始めたから、そういう行動が出てきたのだという理解である。
 私はおおむねこれに同意する。日本精神が悪いから戦争を起こしたのではなく、日本の指導層が日本精神から外れたために、三国同盟を結び、米英戦争に突入し、大敗を喫したのである。

●武士道精神喪失の根本理由

 藤原正彦氏は、武士道は「昭和のはじめごろから少しづつ衰退し始め」、大東亜戦争の戦後は「さらに衰退が加速された」という。アメリカは占領期間、日本弱体化のためにさまざまな政策を行なった。「たった数年間の洗脳期間だったが、秘匿でなされたこともあり、有能で適応力の高い日本人には有効だった。歴史を否定され愛国心を否定された日本人は魂を失い、現在に至るも祖国への誇りや自信をもてないでいる」(『けじめ』)
 「戦後は崖から転げ落ちるように、武士道精神はなくなってしまいました。しかし、まだ多少は息づいています。いまのうちに武士道精神を、日本人の形として取り戻さなければなりません」(『品格』)
 基本的には、私は同感である。ただし、藤原氏の所論には重要なことを補う必要がある。戦後、武士道精神が失われてきた根本的な理由である。
 日本は、GHQから押し付けられた憲法により、独立主権国家として不可欠な国防を大きく制限された。憲法上、国民には、国防の義務がない。「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ」という文言のある教育勅語は、教科書から取り除かれた。国家が物理的に武装解除されただけでなく、日本人は精神的にも武装解除された。その結果、日本人は自ら国を守るという国防の意識さえ失った。
 武士道とは、本来、武士の生き方や道徳・美意識をいうものである。武士とは、武を担う人間である。武を抜きにして、武士道は存立しない。自衛のための武さえ制限され、自己の存立を他国に依存する状態を続けている日本人が、急速に武士道精神を失ってきたのは当然である。
 根本的な原因は、憲法にある。日本国憲法が、日本人から武士道精神を奪っているのである。この問題を抜きにして、武士道精神の衰退は論じられない。
 藤原氏は、武士道精神の中核は「惻隠の情」だとし、「弱い者いじめ」に見て見ぬふりをせず、卑怯を憎む心を強調する。氏のいうような武士道精神に照らすなら、例えば北朝鮮による同胞の拉致に対し、日本人及び日本国は、どのように行動すべきか。中国のチベット侵攻や台湾への強圧に対し、どのように考えるべきか。
 これらの問題は、単なる道徳論では論じられない。日本という国の現状、自分たち日本人のあり様を、国際社会の現実を踏まえて論じる必要があるだろう。やはり、「この国の形」を決める憲法に帰結する事柄である。
 さて、藤原氏は、戦後、衰退してきた武士道精神が、バブルの崩壊によって、一層、顕著に衰退してきたという見解を表している。
 「歴史を否定され愛国心を否定された日本人は魂を失い、現在に至るも祖国への誇りや自信をもてないでいる。だから、たかがバブルがはじけたくらいで狼狽し、世界でもっとも優れた日本型資本主義を捨て、市場原理を軸とするアメリカ型を安直に取り入れてしまった。その結果、日本経済は通常の不況とは根本的に異なる、抜き差しならない状況に追い込まれている」(『けじめ』)
 「バブル崩壊にともなう市場原理主義は、武士道精神を崖からまっさかさまに突き落としつつある。日本人の道徳基準であっただけに今後が心配である。とりわけ新渡戸稲造が武士道の中核とした惻隠の情が急激に失われつつあることは、我が国の将来に払拭できない暗雲としてたれこめている」(『けじめ』)
 市場原理主義について、次のように藤原氏は述べている。
 「市場原理に発生する『勝ち馬に乗れ』や金銭至上主義は、信念を貫くことの尊さを粉砕し卑怯を憎む精神や惻隠の情などを吹き飛ばしつつある。人間の価値基準や行動基準までも変えつつある。人類の築いてきた、文化、伝統、道徳、倫理なども毀損しつつある。人々が穏やかな気持ちで生活することを困難にしている。市場原理主義は経済的誤りというのをはるかに越え、人類を不幸にするという点で歴史的誤りでもある。苦難の歴史を経て曲がりなりにも成長してきた人類への挑戦でもある。これに制動をかけることは焦眉の急である」(『けじめ』)  
 市場原理主義は、資本主義発生期の経済的自由主義の現代版である。この古典的自由主義は、修正的自由主義が「リベラリズム」を標榜するのに対し、「リバータリアニズム(徹底的自由主義)」ともいう。英米ではこの国権抑制・自由競争の思想が、伝統的な「保守」である。一般的にはアダム=スミスに始まるとされ、ハイエク、フリードマンらがこの系統である。ブッシュ政権に集合した「ネオコン」と呼ばれる新保守主義者は、その新種である。
 国防に致命的な欠陥を持つわが国は、1980年代にアメリカを主人とする金融奴隷になったような構造に組み込まれた。バブルの崩壊後は、その構造のもとで、アメリカ主導の市場原理主義に押し捲られている。そして、米国政府に成り代わって、市場原理主義を積極的にわが国で推進しているのが、小泉=竹中政権である。
 現在の自民党は、私が「経済優先的保守」や「リベラル」と呼ぶ人たちが主流派となり、「伝統尊重的保守」は駆逐されてきた。日本政府が行なっている改革は、アメリカの「年次改革要望書」に応える改革にすぎない。2000年代から、自由競争と個人主義が徹底的に推進されてきたことにより、「格差社会」が生まれ、若者を中心に「下流」が増大している。経済中心、金銭中心、個人中心の国策によって、日本人の精神性は劣化している。
 『国家の品格』が大ベストセラーになったのは、こうしたわが国のあり方を批判する藤原氏の言説が、多くの国民に共感を呼ぶからだろう。
 既に引いた文章と多少重複するが、藤原氏の主張を再度、引用したい。
 「バブル崩壊後、日本では政府ばかりか国民までもが『経済を回復させるためなら何をしてもいい』と考えるようになった。アメリカからの要求に従うような改革が次々断行され、貧しい者や弱者、地方が泣かされるという、非情な格差社会が生まれた。(略) この勢いは経済の領域を超え、社会全体が拝金主義や「勝ち馬に乗れ」といった風潮を蔓延させつつある。(略) さらに、日本人の繊細な感性を育んでいた日本の美しい自然や田園も、開発という名の破壊を受けて見るかげなく、子供達の教育も混乱を極めている。(略)
 私は、こうした様々な現象の元凶は、アメリカ流の経済至上主義や市場原理主義だと思っている。市場原理とは、できるだけ規制をなくし競争原理を働かせるものだが、結果は勝者と敗者ばかりの世界になる。規制とは弱者を守るためのものだからだ。世の中は、勝者でも敗者でもないふつうの人々が大半を占めなければ安定しない。市場原理で代表されるアングロサクソンの『論理と合理』を許し続けたら、日本だけでなく世界全体もめちゃくちゃになってしまう。
 こんな世界の中で、日本はどうすべきか。私は、経済的豊かさをある程度犠牲にしてでも『品格ある国家』を目指すべきだと考えている。そのためにも新渡戸稲造の『武士道』の精神を復活させることが大切だ。」(『何か?』)
 私は、氏の所論に強い共感を覚える。ただし、これを単なる道徳論に終わらせないためには、先に書いたように、日本人は憲法を論じなければならない。今日の日本で武士道精神の復活を実現するには、「精神の形」だけでなく、「この国の形」を論じる必要があるのだ。
 「国としての形」をなしていない国に、「国家の品性」は備わりえない。それが道理である。そのことを『国家の品性』を読んだ人々に、ともに考えていただきたいと思う。

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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日本の心160~『国家の品格』と武士道精神:藤原正彦1

2022-08-20 11:39:34 | 日本精神
 藤原正彦氏の『国家の品格』(新潮新書)は、平成17年(2005年)に刊行された名著である。国際的数学者として知られる藤原氏は、いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことだと説いている。藤原氏が武士道に関して述べた意見に焦点を合わせて、21世紀に求められる武士道精神についてまとめてみたい。

●日本は「国家の品格」を失っている

 藤原氏が書名にした「国家の品格」とは何か。「品格」とは、「しながら」であり、「品位、気品」をいう。「品位」とは、「人に自然にそなわっている人格的価値」、「気品」とは「どことなく感じられる上品さ。けだかい品位」をいう。(「広辞苑」)
 これらはいずれも人間についていう言葉であって、国家には普通は使わない。それゆえ、「国家の品格」とは、その国の人間つまり国民の品格をいうものである。国民の品格とは、国民一人一人の品格である。国民一人一人に品格があってこそ、国民全体に品格が備わり、それがその国家に品格をもたらす。
 藤原氏の著書『国家の品格』を読んだ多くの人は、これはわが国の品格を説いた本だと理解しただろう。しかし、本書で、国家といい、日本というのは、日本人のことなのであり、その一員としての一人一人の品格が問われているのである。
 このように品格を問われているのは、国家としての日本であり、その一員としての自分自身であると押さえた上で、本稿の主題である藤原氏の武士道論に移りたいと思う。
 『国家の品格』の「はじめに」において、藤原氏は、「論理」に対比して「情緒と形」を置く。「情緒」とは、単なる喜怒哀楽ではない。「懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの」だという。また「形」とは、「主に、武士道精神からくる行動基準」だという。そして、藤原氏は、これらをともに「日本人を特徴づけるもので、国柄とも言うべきもの」だとする。
 藤原氏は、主な用語の定義がゆるやかで、その用語の使い方が、個性的である。「懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの」をいうのであれば、多くの人は「情緒」ではなく、情操とか感性というだろう。「主に、武士道精神からくる行動基準」なら、「形」ではなく、規範とか道徳というだろう。これらは、最も「形」に表しにくいものである。
 また、「国柄」であれば、「情緒と形」ではなく、国家の体質とか国体というだろう。「お国柄」なら国民性や民族文化をいうが、国家の統治機構や、政治社会の基本構造を抜きに「国柄」を説くことはできない。
 こうした独特の用語の定義や使い方が、藤原氏の特徴でもあり、また弱点でもある。それはそれとして、氏のいわんとするところに耳を傾けてみよう。
 藤原氏は、さきほどと同じ「はじめに」において、氏の言うところの「情緒と形」は「昭和の初めごろから少しづつ失われてきました」という歴史認識を示す。
 それらは「終戦で手酷く傷つけられ、バブルの崩壊後は、崖から突き落とされるように捨てられてしまいました」という。「戦後、祖国への誇りや自信を失うように教育され、すっかり足腰の弱っていた日本人は、世界に誇るべき我が国古来の『情緒と形』をあっさり忘れ、市場経済に代表される、欧米の『論理と合理』に身を売ってしまったのです」とも書いている。
 その理由を「なかなか克服できない不況に狼狽した日本人は、正気を失い、改革イコール改善と勘違いしたまま、それまでの美風をかなぐり捨て、闇雲に改革へ走ったためです」とする。
 そして、氏は「日本はこうして国柄を失いました。『国家の品格』をなくしてしまったのです」と述べる。
 ここで氏は「国家の品格」という用語を、「国柄」という用語と、ほぼ重なり合う意味で使っている。その内包は、「情緒と形」である。すなわち「懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの」や「主に、武士道精神からくる行動基準」が、昭和の初めから少しづつ失われていた。終戦後、日本人は、それらをあっさり忘れ、バブルの崩壊後、不況克服のための改革に走ったことによって、さらに失ってきているというわけだろう。

●武士道精神を復活すべき

 藤原正彦氏が武士道精神を持つようになったのは、氏の受けた家庭教育による。
 「私にとって幸運だったのは、ことあるごとにこの「武士道精神」をたたき込んでくれた父がいたことでした」と氏は『国家の品格』(新潮新書、以下『品格』)に書いている。
 父とは、小説家の新田次郎氏である。
 「私の父・新田次郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった」「幼少の父は祖父の命で裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を上諏訪の町まで油を買いに行かされたりした」という。(『この国のけじめ』文芸春秋、以下『けじめ』) 
 こうした教育を受けた父親が、藤原氏に武士道の精神を教え込んだのである。
 「父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、『弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ』『暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ』と繰り返し言った。問答無用に私に押し付けた。義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう」(『けじめ』)
 氏は、特に卑怯を憎むことを、心に深く刻まれたようだ。
 「父は『弱い者がいじめられているのを見てみぬふりをするのは卑怯だ』と言うのです。私にとって『卑怯だ』と言われることは『お前は生きている価値がない』というのと同じです。だから、弱い者いじめを見たら、当然身を躍らせて助けに行きました」と書いている。(『品格』)
 こうして家庭において父親から武士道の精神を植え付けられた藤原氏は、その後、今日にいたるまで、武士道精神を自分の心の背骨としている。その氏の武士道に対する理解は、その多くを新渡戸稲造の名著『武士道』に負っている。
 「武士道には、慈愛、誠実、正義や勇気、名誉や卑怯を憎む心などが盛り込まれているが、中核をなすのは『惻隠の情』だ。つまり、弱者、敗者、虐げられた者への思いやりであり、共感と涙である」(『国家の品格とは何か?』朝日新聞平成18年4月5日号、以下『何か?』)
 「惻隠こそ武士道精神の中軸」であり、これを「他人の不幸への敏感さ」とも言っている。(『品格』)   
 「惻隠の情」は、シナの儒教の賢者・孟子による。他人のことをいたましく思って同情する心である。孟子は「惻隠の心は仁の端なり」と言う。孟子は、性善説に立ち、人間の心のなかには、もともと人に同情するような気持ちが自然に備わっていると考えた。そして、その自然に従うことによって、やがては人の最高の徳である「仁」に近づくことができると考えた。「仁」とは、慈しみであり、思いやりである。
 藤原氏は、このように、武士道は「惻隠の情」がその中核をなす、ととらえている。しかも、その同情や共感は、身を挺してでも他者を助ける行動に表すべきものと理解されよう。単なる惻隠にとどまれば、卑怯というそしりを受けるだろうからである。
 さて、藤原氏は、論理だけでは世の中はうまくいかない、論理よりもむしろ「情緒」を育むことが必要だという。また、それとともに、人間には、一定の「精神の形」が必要だという。
 氏は、次のように書く。「論理というのは、数学でいうと大きさと方向だけ決まるベクトルのようなものですから、座標軸がないと、どこにいるのか分からなくなります。人間にとっての座標軸とは、行動基準、判断基準となる精神の形、すなわち道徳です。私は、こうした情緒を含む精神の形として『武士道精神』を復活すべき、と20年以上前から考えています」と。(『品格』)
 国際的な数学者である藤原氏が、このように言うところに、驚きと同時に強い説得力を覚え、多くの読者が啓発されているに違いない。
 藤原氏は、武士道精神は、わが国に「国家の品格」を与えてきた重要な要素であり、主に武士道精神が失われてきた結果、わが国は「国家の品格」を失ってきたと考えている。だから、日本人は、武士道精神を復活すべきと説くのである。
 それだけではない。この「惻隠の情」を中核とする武士道精神について、「このような日本人の深い知恵を世界に向けて発信することこそ、荒廃した世界が最も望んでいるのではないか」(『何か?』)と言う。「私は『武士道精神こそ世界を救う』と考えています」(『品格』)とさえ言う。
 このように、藤原氏は、現代の日本そして世界にとって、武士道精神がきわめて重要な意味を持つものと説いている。

 次回に続く。

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日本の心159~現代に求められる武士道の精神

2022-08-18 12:13:52 | 日本精神
 今回から、平成期・令和期に入ります。

 武士道は、かつて日本精神の精華と称えられました。しかし、明治以降、徐々にその伝統は衰え、今日ではほとんど消え去ったかに見えます。
 こうした現代において、日本には武士道の復活が必要だという意見が、根強く存在します。
 俳優で武道家としても名高い藤岡弘氏は、あるインタビューで、若者に向けて、次のように語っています。
 「いまの日本人、とりわけ若者たちになにが欠けているのかと考えると、先達が残してくれた偉大なる精神文化・武士道こそが欠けているのではないかと思います。『武士道』とは、己を自己管理するための精神的・肉体的修行です。自己を管理するためにはまず、自己発見の旅に出る必要があります。それは、自分の目の前にあるどんな些細な出来事にも、ひとつひとつ真摯に取り組んでいく姿勢です。マニュアルなど存在しません。他力本願。そんな逃げ道も皆無です。
 やがてその修行は、自己分析の旅ヘとひろがっていきます。己の足りないところ、弱いところが見えてきます。『武士道』は、己の心身を強化し、我慢を重ね、調和をはかり、そして弱いものを守るための修行なのです」
 経済ジャーナリストで「第二海援隊構想」を推進している浅井隆氏は、次のように書いています。
 「武士道とは何か。私なりに解釈すると、それは自分を律するための『道』である。そのために死生観とか美学があった。そのような精神性が、いまの日本人にはいちばん欠けている」
 「現在に、まったく武士道が残っていないかというと、……阪神大震災などを見ても明らかなように、感情的にはならず、冷静に整然と秩序を守ってことにあたる精神がある。公徳心もまだ大分残っている。あれがアメリカだったら、大変な暴動に発展し、さまざまな事件が起きていたはずだ。やはり武士道は細々とではあるがまだ日本に生きているのである」
 「本当の意味の精神性の高揚がいまほど求められている時期はない。それこそ、武士道の復活に他ならない」
 東日本ハウス元会長の中村功氏は、次のように述べています。
 「(新渡戸稲造の)『武士道』に書いてあることは、大きく分けて二つあります。一つは克己を教えています。…欲望を抑え、辛いこと、苦しいことに耐え、自分を磨くこと…名誉を重んじ…勇気をもって悪と戦うこと…。二つ目は『公』のために生きることは立派なことだと教えています。…第3者のために役立つということ…明治の公は国家に尽くすということでした。…
 こう考えてみますと、なぜ明治時代に世界が日本を尊敬したのか、当然のごとく分かります。この二つを持っている人は世界中の人から尊敬されるのです。『克己』『公』のために尽くす人は、世界の人の目から見ても、立派な人なのです。この二つを日本人が完全に失ってしまったために、世界が今の日本を尊敬しなくなったのです。明治の人のように立派な人間、立派な日本人になろうということが今の時代に求められています…」
 最後に、作家で元・東京都知事の石原慎太郎氏は、世の父親や男性に向けて、次のように訴えています。
 「日本固有の文化があるようでなくなってしまった本質的混乱が到来しようとしている今の日本で、家庭を立て直し社会を立て直し、国家を立て直していこうという時にわれわれは、宗教などを超えて、われわれのごく近い先祖が尊崇し、評価し、憧れた武士道というものの本髄がなんであったということをもう一度考え直してみるべきではないだろうか。
 武士というのはやはり何よりも男だったわけですから、その武士の末裔の男として、自分の家庭の繁栄なり確立のために、武士道をいま改めて自分にどう取り込むかということをそれぞれの父親たちは素直に考えてみるべき時期に来ているのではないか」
 かつての日本人は高い精神をもっていました。その精神のよき表れが武士道でした。武士道を見直すことを通して、現代の日本人が忘れている、日本の精神文化を取り戻すことができるでしょう。

参考資料
・浅井隆著『大世紀末シンドローム』(総合法令)
・経営者「漁火会」の機関紙『漁火』平成11年12月1日号
・石原慎太郎著『父なくして国立たず』(光文社)

 次回に続く。

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日本の心158~木のいのち、人の心:西岡常一

2022-08-16 10:08:15 | 日本精神
 日本の文化は木の文化であり、欧州の文化は石の文化であるといわれます。欧州人が石の建物に住むのに対し、日本人は木の家に住んできました。木にはいのちがあり、日本人はその木のいのちに包まれて、生活してきました。そこには、自然との深い融合がありました。今日の日本人は、そういう伝統の中にある心を忘れているのではないでしょうか。
 西岡常一氏ほどそのことを強く感じさせてくれる人は居ません。氏は、法隆寺の近くの宮大工の家に生まれました。昭和9年(1934)から始まった「昭和の大修理」で、氏は、現存する世界最古の木造建築である法隆寺の金堂や五重塔の解体修理を手がけました。平成7年、86歳で亡くなっています。
 西岡氏には、宮大工棟梁としての経験から語った数冊の著書があります。法隆寺は1300年もの間、立ち続けてきましたが、その材木について、氏は次のように語っています。
 「……ただ建っているといふんやないんでっせ。五重塔の軒を見られたらわかりますけど、きちんと天に向って一直線になっていますのや。千三百年たってもその姿に乱れがないんです。おんぼろになって建っているというんやないですからな。
 しかもこれらの千年を過ぎた木がまだ生きているんです。塔の瓦をはずして下の土を除きますと、しだいに屋根の反りが戻ってきますし、鉋(かんな)をかければ今でも品のいい檜の香りがしますのや。これが檜の命の長さです」
 「こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。(樹齢が)千年の木やったら、(用材として)少なくとも千年生きるやうにせな、木に申し訳がたちませんわ」
 樹齢千年の桧(ひのき)なら千年以上もつ建造物ができる、と西岡氏は述べています。氏によると、千年ももつ建物を建てるためには、使う木の生育状況を見て、適材適所の使い方をしなければなりません。木は人間と同じで一本ずつみな違い、それぞれの木の癖を見抜いて、それに合った使い方をする必要があります。日の当たる場所に立つ木、当たらない場所に立つ木など、場所によって様々な木があるためです。そこで、宮大工は木を買うのではなく「山を買え」と言います。切り倒した後の木ではなく、山ごと買うことによって、一本一本の木の特性を見極めなければならないからです。また、一本の木についても日向側と日陰側によって用途が違ってきます。だから、木について知り抜いていなければ、宮大工は、まともな仕事はできないと西岡氏はいいます。
 西岡氏によると、昔の日本の大工は、ただ木を材料と見、道具として使っていたのではありませんでした。木の持ついのちにふれ、そのいのちに心を通わして、木を用いてきたのです。
 「木は物やありません。生きものです。人間もまた生きものですな。木も人も自然の分身ですがな。この物いわぬ木とよう話し合って、生命ある建物にかえてやるのが大工の仕事ですわ。木のいのちと人間のいのちの合作が本当の建築でっせ」
 そして、氏は、続いて建築の際に行う伝統的な儀式のこころを語ります。
 「わたしたちはお堂やお宮を建てるとき、『祝詞(のりと)』を天地の神々に申し上げます。その中で、『土に生え育った樹々のいのちをいただいて、ここに運んでまいりました。これからは、この樹々たちの新しいいのちが、この建物に芽生え育って、これまで以上に生き続けることを祈りあげます』という意味のことを、神々に申し上げるのが、わたしたちのならわしです」
 太古の昔から木を用いてきた日本人が、代々受け継いできた経験と知恵を、西岡氏は語ってくれます。その言葉には、自然に学び、自然と共に生きてきた日本人の精神を感じ取ることができるでしょう。

参考資料
・西岡常一著『木のいのち 木のこころ 天』(草思社)
・西岡常一・小原二郎共著『法隆寺を支えた木』(NHKブックス)

 次回に続く。

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日本の心157~生物の世界は共存共栄:今西錦司

2022-08-14 11:27:37 | 日本精神
 今西錦司は、日本の社会人類学、生態学の草分けです。霊長類研究の指導者としても有名です。今西は、ダーウィンの進化論に異議を唱え、独創的な「棲み分け理論」を展開しています。
 ダーウィンの進化理論は、自然淘汰説として知られています。彼は、『種の起源』に以下のように記しています。
 「もしもある生物にとって有用な変異が起こるとすれば、このような形質を持つ個体は確かに、生活のための闘争において保存される最良の機会を持つことになろう。そして、遺伝の強力な原理に基づき、それらは同等な形質を持つ子孫を生じる傾向を示すであろう。このような保存の原理を、簡単に言うため、私は『自然淘汰』と呼んだ」
 つまり、生存競争の結果、最適者だけが生き残るということです。
 ダーウィンの自然観察は、ガラパゴス諸島と、イギリスの自宅の庭先に限られていました。その狭い範囲での観察に基づいてこのような理論を提起したにすぎません。
 これに対し、今西は、人生の大半を世界各地の自然観察に費やし、その結果、自然はダーウィンの言うような生存競争の場ではないと論じたのです。
 今西によれば、生物の進化とは、少数の種の生物が、数百万の種に分化しながら、それぞれ多様な環境に適応して特殊化してきた歴史です。
「 すべての生物がこのようにして、それぞれ特殊な環境に適応し、その主人公になったならば、そこに成りたつ生物の世界は『棲み分け』によるすべての生物の平和共存の世界である」
 ここに今西の進化理論、「棲み分け理論」のエッセンスがあります。競争よりも共存だというのです。
 今西が、「棲み分け理論」を思いついたきっかけは、カゲロウの研究でした。京都・加茂川に棲むカゲロウの幼虫を観察するうちに、今西は異なった種が川の中で棲み分けている事実に気づきました。生物は、個体間の競争の結果、最適者のみが生存しているのではありません。むしろ地球上には数百万を超える様々な生物が「種」として存在し、それぞれ「棲み分け」をし合いながら共存共栄していると考えられます。そこで、今西は、ダーウィンが個体のレベルで進化の過程を考えたのに対し、種のレベルで進化をとらえることを提唱しました。
 進化論で未解決の問題に、キリンの首はなぜ長くなったのかという問いがあります。ダーウィン説は、首の長いほうが生存に適しているので、首が長くなる方向に進化したと説明します。ところが今日まで、中間的な長さの首を持つキリンの化石は、一つも発見されていません。それどころか、化石が示しているのは、ある時、突然のようにキリンの首が長くなったことです。キリンだけではありません。ほとんどの生物の場合、進化過程における中間段階の化石は、見つかっていないのです。それゆえ、進化における変化は、種の全体に突然のように起こったと考えられます。
 今西は、このことを次のように言い表します。「種は変わるべくして変わる」のだと。より理論的に表現すれば、「進化とは、種社会の棲み分けの密度化であり、個体から始まるのではなく、種社会を構成している種個体の全体が、変わるべき時が来たら、皆いっせいに変わるのである」ということになります。
 この発想は、自然とは「自(おの)ずから成るもの」という自然観を持つ日本人には、直感的に理解できるものでしょう。自然には、人間の知恵では理解し得ない、深遠な原理があり、それによって生態系の進化が起こっているのです。その原理を究めることはまだ人間にはできませんが、次のことは言えます。
 生物の社会は、個体間に弱肉強食の競争原理が支配しているようでいて、その奥には種の間の共存原理が働いているということです。ある種から新しい種が生まれても、強い種だけが生き残るのではなく、弱い種や古い種も一緒に共存していくのです。これは、最初は種の少なかった地球の生物社会に、魚類が登場し、両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類という風に、どんどん種が増え、それらが水中・地上・空中など様々な環境に棲み分けて、豊かな生命世界を創っていることを見れば明らかです。今西が「進化とは、種社会の棲み分けの密度化」であるという所以です。 
 このように考えると、ダーウィンの進化理論が競争原理という一面的な理論であるのに対し、今西の理論は共存原理によって、生物社会の全体像をとらえようとする、より高次の理論ということができます。「棲み分け」理論は、これまでの西洋的な発想による進化論に対し、有力な反論を提起したものであり、日本人による世界的な業績です。
 19世紀半ば以降、ダーウィンの理論の影響を受け、国家・民族・階級の関係をも競争原理によって見る見方が広がりました。今西の理論は、その見方の偏りを正し、人類社会を共存共栄へと転換する原理への示唆を与えるものともいえましょう。

参考資料
・今西錦司著『私の進化論』(思索社)、『生物社会の論理』(平凡社)、『主体性の進化論』(中公新書)

 次回に続く。

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 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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日本の心156~風土と文明と民族の心:和辻哲郎2

2022-08-12 11:24:38 | 日本精神
 和辻哲郎の名著に『風土』があります。この本は、単に地理学や比較文化論の本ではなく、和辻の倫理学の一環をなすものです。それとともに、この本は、倫理学に基づいて風土と文明の関係を考察した本でもあります。
 若き和辻はハイデッガーの著書『存在と時間』に衝撃を受けました。20世紀を代表する哲学者ハイデッガーは「存在とは何か」という問いのもとに、現存在つまり人間の存在を分析しました。その哲学は存在論とか実存哲学として有名です。
 人は漠然とではありますが、存在について理解を持っています。そして、自分に過去と未来があり、いつか死ぬことを知っています。ハイデッガーは、そうした現存在を時間との関わりにおいて論じ、さらに存在そのものの意味を時間に見出そうとしました。これに対し、和辻は異論を唱えます。人間存在は時間性だけではとらえられないからです。人が単に個人として生き、また死ぬのではありません。人は個人的とともに社会的な存在であり、他者とかかわり合う空間の中で、生の時間を生きています。それゆえ、人間の存在は、時間性とともに空間性からもとらえねばなりません。時間性とは歴史的、空間性とは風土的ということです。そこで、和辻は人間存在の考察のために、風土の研究を行いました。その成果が、昭和10年(1935)に刊行された『風土―人間学的考察』です。
 和辻がいう風土とは、客観的な自然環境のことではありません。風土は主体的な人間存在の表現であり、人間の自己了解の仕方です。例えば、寒気は、我々の外にあって、我々に迫ってくるのではなく、我々が寒さを感ずるのであり、そこに寒気を見出すのです。また、我々は、他者とともに同じ寒さを感じ、日常の挨拶に用います。寒さの感じ方自体が、間柄的で共同存在的です。「だから」と和辻は述べます。「寒さにおいて己れを見出すのは、根源的には間柄としての我々なのである」「すなわち我々は『風土』において我々自身を、間柄としての我々自身を、見出すのである」と。
 さて、「人間の存在は歴史的・風土的なる特殊構造を持っている。この特殊性は風土の有限性による風土的類型によって顕著に示される」と和辻は述べます。そして、海外を旅した自身の体験に基づいて、風土をモンスーン、沙漠、牧場の3類型に分けます。さらに、東アジア、南アジア、西アジア、ヨーロッパの風土的特性と民族・文化・社会の伝統的特質の関係について考察します。
 和辻は、日本の風土をモンスーンの特殊形態であるとします。モンスーン型は、インドから東アジア一帯に見られるもので、暑さを素直に受け入れる受容的な性格と、大雨による災害にもじっと耐える忍従的な性格を特徴とします。その中で、日本の風土は、規則的でありつつ、同時に変化にもまれています。日本はユーラシア大陸と太平洋の間にあり、極めて変化に富む季節風が吹き、夏は突発的で猛烈な台風が来て大雨をもたらし、冬は大雪をもたらします。言い換えると、日本の風土は、熱帯的とともに寒帯的であり、また季節的でありつつ突発的であるという二重の性格をもっています。こうした気候の影響により、日本人の国民性には、モンスーンの受容性・忍従性に、熱帯のあきらめ、寒帯の辛抱強さなどが加わっていると和辻は考えます。そして、次のように述べます。
 「日本の人間の特殊な存在の仕方は、豊かに流露する感情が、変化においてひそかに持久しつつ、その持久的変化の各瞬間に突発性を含むこと、及びこの活発なる感情が、反抗においてあきらめに沈み、突発的な昂揚の裏に俄然たるあきらめの静かさを蔵すること、において規定せられる。それは、“しめやかな激情”“戦闘的な恬淡”である。これが日本の国民的性格にほかならない」と。
 同じようにして、和辻は様々な民族について、風土的特性との関係を考察します。これは、風土と文明の関係を論じ、文明の中核である精神と風土の関係を明らかにしようとしたものともいえます。
 さて、和辻によれば、人間存在は時間的と同時に空間的存在であり、歴史的・風土的な特殊構造を持っています。それゆえ、地球上の地理的条件による風土の多様性が、諸文明の多様性の基礎となっています。これを抽象的な普遍思想によって一元化しようとするのは、無理があります。政治的には、「諸国民間の人倫的組織としての世界国家」をめざすとともに、文化的には多様なものの共存調和を図るべき所以の一つが、風土と文明の関係に求められるのです。
 和辻の名著『風土』は、人間学的生態学的な風土論の先駆として不朽の価値をもっています。また、日本学・日本人論に大きな影響を与えています。それと同時に、倫理学に基づいて、風土と文明の関係を考察した本ともいえるのです。

参考資料
・和辻哲郎著『風土――人間学的考察』(岩波文庫)

 次回に続く。

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日本の心155~日本的倫理は世界的人倫実現の鍵:和辻哲郎1

2022-08-10 09:49:35 | 日本精神
●人は独りでなく間柄的存在

 現代文明は行き詰まっており、人類は生存の危機にあります。そうした中で、私たちの生き方が根本から問われています。
 今日、大抵の人は、自分というものがなによりも大切だと感じ、個人の自由や権利を守り、自分らしく生きることが目標だと考えます。実はこうした個人を中心に考える考え方は、人間の歴史から見ると、とても新しい考え方です。わずか300~400年程前、西欧に始まった考えです。近代西欧から広がったこの思想は、個人や自我が独立して存在するものと考えます。これに対し、根本的な反論を述べたのが、和辻哲郎です。
 和辻は、漢語の「人間」という言葉は本来、人と人の間すなわち「よのなか」「世間」を意味し、「俗に誤って人の意となった」と指摘します。これを踏まえて、和辻は、「人間」とは「世の中自身であるとともにまた世の中における人である」と述べます。言い換えると、人間には「個人性と社会性の二重性格がある」というわけです。性格といっても文字通りの意味ではなく、個人性と社会性の両面があると理解すればよいでしょう。
 和辻は『人間の学としての倫理学』(昭和9年刊)で、自論を展開します。彼によると、「倫理」の「倫」という言葉は、元来「なかま」を意味し、人と人の「間柄(あいだがら)」や「行為的連関」(係わり合い)の仕方や秩序をも意味します。一方、「倫理」の「理」は、ことわり、すじ道を意味します。それゆえ「倫理」とは「人々の間柄の道であり秩序であって、それあるがゆえに間柄そのものが可能にせられる」ものです。そして、和辻は、倫理学とは「人間関係、従って人間の共同態の根底たる秩序・道理を明らかにしようとする学問」であると定義します。彼によって、個人ではなく間柄を基本においた、新しい倫理学が誕生しました。
 西欧近代に生まれた個人主義的な人間観は仮構にすぎないと、和辻は説きます。個人主義的な人間観の元祖といえるのは、デカルトです。彼は、すべてのものを疑ったすえに、それを疑っている自己の存在だけは自明であるとし、そこから「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」という認識に到達しました。しかし、和辻はデカルトを次のように批判します。
 「この問いの立場は、実践的行為的連関としての世間から離脱し、すべてをただ観照する、という態度を取ることにほかならぬ。従ってそれは直接的に与えられた立場ではなくして人工的抽象的に作り出される立場である。言い換えれば人間関係から己れを切り放すことによって自我を独立させる立場である」。
 すなわち、現実の社会における人間関係から自分を切り離し、ただ世界をながめているだけの自分という、作りものの立場だというのです。
 「疑う我が確実となる前に、他人との間の愛や憎が現実的であり確実であればこそ、世間の煩いがあるのである。言い換えれば観照の立場に先立ってすでに実践的連関の立場がある。デカルトは後者の中から前者を引き出しながら、その根を断ち切ってしまった」。
 和辻はこのように、デカルトの仮構をあばきます。ある面では、常識的な発想による批判です。しかし、西欧近代では、こうした常識的な考え方が、どこかへ行ってしまい、極めて抽象的な人間観に陥ったのです。デカルトの影響を受けたホッブスやロックは、原子(アトム)のようにそれ自体で存在する個人を想定し、そこから出発して社会の成り立ちや国家の由来を考えました。社会契約説がそれです。現代の日本国憲法や人権思想も、基本的にはこうした考えに基づいています。その根本には、デカルトのコギトがあります。彼の影響は20世紀にまでも続き、フッサールやハイデッガーにも、デカルト以来の個人主義の色彩が残っていることを、和辻は見破り、その仮構を暴露しました。
 本来、人間は、決して単なる個人ではありません。人は誰でも自分ひとりで生きているのではありません。親や先祖があるから自分が生まれてきたのです。妻や夫、兄弟や友人、子どもや孫、社会や国家があって、自分はその関係の中にいるのです。この至極当たり前のことを、西欧近代の思想は軽視しています。そこから抽象的で個人主義的な考え方が出ています。しかし、人は、親子、夫婦、兄弟、友人など、様々な間柄の中で生きているのです。これは古今東西変わらない事実です。和辻の言い方によれば、人間とは様々な間柄においてある「間柄的存在」です。こうした生きた関係性において人間を考察することによってこそ、人間の倫理を解き明かすことができると、和辻は主張したのです。
 和辻は、間柄の考察を、「家族」や「親族」、「地縁共同体」や「経済的組織」、「文化共同体」や「国家」へと広げていきます。また、間柄がおいてある空間としての「風土」の研究も行いました。その到達点が、主著『倫理学』全3巻(昭和12年~24年刊行)です。これは、西欧近代思想に対抗して打ち立てられた東洋的・日本的な倫理学です。また同時に、近代思想を超える新時代の倫理学の試みでもあります。
 個人主義的な考えが多くの弊害をもたらしている今日、和辻の「間柄的存在」という考えは、私たちに大きなヒントを与えてくれています。

●「公と私」の体系

 人間は、個人個人が独立して存在しているのではありません。人間とは、様々な間柄のなかで生活している間柄的存在です。言い換えると、人間は共同体という「人倫的組織」の中で生きているのだ、と和辻哲郎は言います。
 和辻は、人倫的組織を、「家族」「親族」「地縁共同体」「経済的組織」「文化共同体」「国家」の6つに分けて考察します。そして、「公と私」という問題を解き明かしていきます。人倫組織は、これらの諸段階を経て、私的なものから、公的なものへと高められるというのが、和辻の主張です。
 私たちにとって最も身近な私的存在は、男女二人の関係です。男女は心身の全体をもって互いにかかわり合い、二人の間では「私」が消滅します。このプライベートな関係が世間に公認されるのが、婚姻です。これによって、男女関係は夫婦関係となります。婚姻は、男女関係という私的なものを、公的なものに変えるのです。次に夫婦という二人の共同体に子供が誕生すると、親子の関係となり、三人の共同体となります。さらに子供が生まれると、兄弟姉妹の間には同胞共同体が生まれます。
 夫婦・親子・兄弟等による「家族」は、さらに「親族」という、より公的な人倫組織の一部に含まれます。親族の間では、それぞれの家族の事情は「私」的なものとなるわけです。次に親族は「地縁共同体」へ、「地縁共同体」から「経済的組織」へ、「経済的組織」から「文化共同体」へと、より高次の段階に包摂されます。どの組織も、前の段階の組織が持つ「私」を超えることによって実現されます。そして、より「公」的で開放的な性格を持ちます。しかし、同時に、後の段階に対しては、より「私」的で閉鎖的な性格を持っています。このように「公と私」は、階層的で入れ子的な構造をもっていることを、和辻は明らかにしていきます。
 そして、和辻は、「私」をことごとく超克して、徹頭徹尾「公」であり、「公」そのものである人倫的組織が「国家」である、と説きます。そして次のように述べます。「国家は家族より文化共同体に至るまでのそれぞれの共同体におのおのの所を与えつつ、さらにそれらの間の段階的秩序、すなわちそれら諸段階を通ずる人倫的組織の発展的連関を自覚し確保する。国家はかかる自覚的総合的な人倫的組織なのである」。国家は、さまざまの段階の人倫的組織をすべて「己れの内に保持し、そうしてその保持せるものにおのおのその所を与えることによって、それらの間の発展的連関を組織化しているのである。その点において国家は、人倫的組織の人倫的組織であるということができる」と。
 以上のような和辻の社会観・国家観は、西洋近代思想とは大きく異なっています。デカルトが考えたような、間柄的存在に先立って存在するという個人を、和辻は否定します。そうしたアトム的(原子的)な個人が契約によって社会をつくったという、ホッブスやロックの社会契約論も否定します。また、国家を個人の利益の擁護を目的とする一つの特殊社会ないし打算社会とする契約的国家論をも斥けます。そのような西洋近代思想は、人間の本質を認識するものではないことを、和辻は明らかにしました。
 さて、その一方、和辻が高く評価したものがあります。それは、教育勅語です。教育勅語は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」という家族的道徳に始まり、「朋友相信シ」「進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ」という社会的道徳に進み、「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という国民的道徳に至ります。和辻は教育勅語を、人倫的組織の各段階の道徳を示し、また諸人倫を包摂する国家の構成員の道徳を示すものとして、高く評価します。そして、教育勅語は、「私」的なものから、より「公」的なものに進み、「私」を超えて「公」に貢献する倫理を体系的に説いていることを、解き明かします。同時に、和辻は、教育勅語には、西洋近代思想を超える、人類普遍的な倫理があることを明示しているのです。

●世界的人倫の実現を

 和辻哲郎は、「国家」とは、「私」を超克した「公」そのものである人倫的組織と考えました。しかし、国際社会という、より大きな「公」の場においては、国家は新たな公共性を担う存在でもあります。この点に関する所論を見てみましょう。
 和辻は、国家の根本的なあり方とは、すべての国民が「所を得る」ようにすることであるとします。そして、「家族」にはじまり、「親族」「地縁共同体」「経済的組織」「文化共同体」までのあらゆる人倫的組織の人倫がを実現することです。そのために、国家がなすべきことは、国民に「正義の保証」をすることであり、「仁政」つまり仁愛に基づく政治をすることだとします。そして、全国民が「所を得る」ようにするという国内における道義の実現は、「万邦をしておのおのその所を得せしめる」という国際的な道義の実現につらなっていきます。 
 和辻は戦前、国家を人倫の至上と考えていましたが、戦後はそれまでの自説を是正しました。戦後世界を見た和辻は、いまや国際社会は「世界的国家」の方向に向かって動こうとしていると考えたからです。そして、過去の世界史の場面は、諸国家・諸民族の対立と争闘の場でしたが、いまや人類は、民族や国家の別なく一つの共同体を形成すべきであるという展望ないし理念を、歴史的に生み出すに至ったという認識を明らかにします。「世界史の意義は世界的な人倫的組織への方向にある」と和辻は述べました。
 ここにおいて和辻は、それまでの国家的国民的な倫理学を、世界的人類的な倫理学へと発展させたのです。彼は次のように書いています。
 「いかなる民族も、家族を形成し地縁共同体を形成し、そうして言語、宗教、芸術、思想等の共同を実現せざるを得ない。(略)これらの民族におのおのその所を得せしめ、その特殊な形態においてそれぞれその固有の国家を形成せしめることは、正義即仁愛を世界的に実現するゆえんである」と。
 続いて和辻は、各国家・各国民はなにをなすべきか、を論じます。
 「一つの世界」という「課題の解決に参与し得るためには、いかなる国民もまず一つの国民としての人倫的組織の実現に努めなくてはならない」。次に、確固たる人倫体を形成した諸国民が組織を作り、「諸国民間の人倫的組織としての世界国家」を形成する、という順序となる、と。
 こうした和辻の考え方は、近年わが国で流行している、家族や民族や国家から自立した個人が地球市民として連合して地球社会をつくるという個人主義的な考え方とは、対照的な道を指し示しています。和辻は、人間の「個人性と社会性の二重性格」に基づいて、人間の本質をとらえ、家族や民族や国家を肯定するからです。そして、「一つの世界」をめざすためには、それぞれの国民が確固たる人倫組織を実現すべきであるとします。いわば、それぞれの国で、人々が人倫に基づいて家族・地域・組織を形成し、文化を育み、道義に基づいた立派な国づくりをする。そうした国家が寄り集まることによってこそ、「世界国家」が実現できると和辻は説くわけです。
 「世界国家」は、世界的なひとつの共同体であり、西欧近代の「個」の原理に基づく近代主権国家という卵の殻を破ってこそ、可能となるものです。和辻は、政治的には各国民国家は主権を放棄すべきとします。しかし、文化的には「諸国民の文化をそれぞれの独自の性格において発展せしめつつ、しかもそれらの異なった文化を互いに補充し合い交響し合うように」すべきだと主張します。各国民は互いに侵すべからざる尊厳と価値をもち、「いかなる国民も、他の国民を支配してはならないとともに、他の国民に支配されてはならない」と、国際社会の倫理的原則を述べます。各国による主権の放棄が、超大国や一部の組織による支配体制を生み出すのではいけない、文化的には多様なものの共存調和が実現されるべきだという考え方でしょう。
 それでは、わが日本国民は、どのようにしてこの課題に取り組むべきでしょうか。そのためには「教育勅語の本義に沿うことが肝心である」と和辻は説いています。「教育勅語の本義」とは、間柄的存在である人間が、家族的道徳、社会的道徳、国家的道徳の実践を通じて、万民が所を得る国家をつくり、さらにその道を押し広めて、万邦がその所を得る世界的な人倫組織を実現することにあるからです。一視同仁・四海同胞・共存共栄の理念ということもできます。
 和辻は、20世紀後半以降の世界において世界国家実現をめざすために、教育勅語の再評価を促したのです。
 教育勅語は、過去において、日本精神を最もよく表現したものといえます。また、和辻の倫理学は、教育勅語を踏まえつつ、日本精神を学術的に解き明かし、発展させようとした最良の試みのひとつといえるでしょう。和辻倫理学を一言で言えば、日本精神の倫理学です。しかも、国際化時代における日本精神の倫理学として、再評価すべきものです。
 今日、国際社会という「公」の場において、日本人がなすべきことを考える際、和辻哲郎の世界的人類的な倫理学には、大いに傾聴すべきものがあるといえるでしょう。

参考資料
・和辻哲郎著『人間の学としての倫理学』(岩波書店)、『倫理学』(岩波書店版『和辻哲郎全集』第10~11巻)

 次回に続く。

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日本の心154~恥の文化が忘れた「恥」:ベネディクト

2022-08-08 17:43:30 | 日本精神
 ルース・ベネディクトによる日本人論『菊と刀』は、戦後日本人に大きな影響を与えています。
 ベネディクトは、アメリカの文化人類学者です。彼女は『菊と刀』で、人類学的にみると、世界の社会には「恥を基調とする文化」と「罪を基調とする文化」があるとします。そして、日本は「恥の文化」つまり「罪の重大さよりも恥の重大さに重きを置く」文化に分類し、分析を行っています。
 ベネディクトは、日本人の行動規範は、恥にあるといいます。他人が自分の行動に対してどういう判断を下すか、その他人の判断を基準にして自分の方針を定める。したがって人目がなければ、行為の善悪は問題にならない。日本人は、実に矛盾に満ちた国民であるといいます。その矛盾の最たるものは、「美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす」と同時に「刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する」という「菊と刀」に象徴される二面性であるというのです。
 ベネディクトは、日米戦争の最中、昭和19年(1944)にアメリカ陸軍局の委嘱を受けて日本文化の研究を始めました。戦争終結を目前にしたアメリカは、欧米人と全く異なった考え方を持つ日本人の行動パターンを予測することが、戦後の占領政策策定のために必要としたのでした。ベネディクトは、この研究において、限られた文献を読んだ以外は、日本に一度も調査に来ることなく、敵国民として収容所に抑留された日系人から聞き取りをしたのみでした。
 彼女の研究は、『菊と刀――日本の文化の型』と題されて、終戦後の昭和21年(1946)に刊行されました。当時、類書が他になかったので、日本を占領したGHQにとって重要な参考文献となったようです。
 ベネディクトによると、罪を基調とする文化は、「道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みとする社会」であり、人は「内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行う」、また「自分の非行をだれ一人知る者がいなくても罪の意識に悩む」。これに対し、恥を基調とする文化は、「他人の批評、『世間』の評価に気を配る社会」であり、人は「外面的強制力にもとづいて善行を行う」、また「恥を感じるためには、実際にその場に他人が居合わせることが必要である」。罪の文化においては、恥は「道徳の基礎となる資格がない」と考えるが、恥の文化においては、恥は「すべての徳の基本」と考える。罪の文化と恥の文化は、このように対比されます。
 ベネディクトのいう罪の文化の典型は、言うまでもなくキリスト教ですから、キリスト教が日本文化より道徳的に優れているという文化的偏見が、彼女の見方の根底にあることは、否定できません。
 ここで注目したい点があります。ベネディクトが次のように書いていることです。
 「恥が主要な強制力となっている文化においても、人びとは、われわれならば当然だれでも罪を犯したと感じるだろうと思うような行為を行った場合には煩悶する。この煩悶は時には非常に強烈なことがある。しかもそれは、罪のように、懺悔や贖罪によって軽減することができない」と。
 日本人からこうした煩悶を引き出すことができれば、キリスト教徒以上に深い自責の念を日本人に植え付けることができるでしょう。
 日本占領直後から、GHQは日本人に「戦争犯罪」を知らしめる大キャンペーンを行いました。それが、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争犯罪周知宣伝計画)です。この計画は、勝者からの一方的な情報により、日本人に戦争の罪悪感を植えつけ、二度とアメリカに歯向かうことのないように弱体化させる心理作戦でした。この作戦は、彼らにとっては見事に成功しました。日本人は、自分たちに与えられている情報が、誇張や捏造されたものとは知らずに、深い自責の念に駆られるようになったからです。
 ベネディクトの本は、この計画の実施中に刊行されています。先に引用したような彼女の鋭い指摘は、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の効果を増強するものとなったことでしょう。
 『菊と刀』は、占領下の日本で翻訳され、昭和23年に出版されました。アメリカの占領政策の参考資料が、今度は日本人自身に読ませる本として公刊されたのです。東京裁判という虚構劇が日本人の良心を大きく揺さぶっていた時です。本書を読んだ日本人の多くは衝撃的な影響を受けました。そして、罪悪感を植え付けられた日本人は、本書によって日本文化の欠陥や劣性を感じ、自虐的なものの見方を強めていったのです。
 例えば、当時の代表的な社会学者である川島武宜は次のように書いています。
 「恐らく他のどの民族にもまして、自分の伝統や物の考え方だけを盲目的に承認し、これを中心として物事を判断するようにしか教育されていないわれわれ日本人は、本書から反省への無限の刺激を受けるはずである」
 そして、西洋化・近代化をよしとする我が国の近代化推進論者は、恥の文化は劣った文化であり、罪の文化は優れた文化である、日本人は前近代的な恥の文化を清算して、近代的な罪の文化に移行すべきであるという意識を植え付けました。
 その後、昭和30年代になると、戦後復興と高度成長による日本人の自信回復とともに、『菊と刀』に対する批判が噴出するようになりました。今日では多くの人々によって、本書の問題点が明らかにされています。一面的で偏った見方が多いのです。
 恥と罪の関係について、精神科医の内沼幸雄氏は、羞恥心は倫理観を基礎に、羞恥心⇒恥辱⇒罪、という順に移行すると述べています(『対人恐怖の心理』講談社学術文庫)。恥と罪には相関関係があり、日本人は恥の意識が、罪の意識へと発展し、内面的な意識に変わると考えられます。
 わが国において、罪の観念がなかったかというとそうではなく、神話には「国つ罪」「天つ罪」があります。罪けがれを祓い、清めることが、神道の儀式の中心となっています。仏教が入ると、罪業・罪障という考えが民衆に浸透し、前世の罪の影響が現世に現れ、現世の行いが来世に結果するという因果応報の観念が、日本人の倫理観の重要な要素となりました。
 精神医学者の木村敏氏は、西洋人の場合、罪の意識は神と自己の関係という垂直的な自己内関係に帰するのに対して、日本人は自己と他者つまり人と人との間の水平関係において罪の意識が見出されると言います(『人と人の間』弘文堂)。確かに恥の意識は「人の目」から見られる倫理であり、「神の目」から見られる倫理ではありません。しかし、恥を知る人は、世間に向ける顔がないと思うだけでなく、お天道様やご先祖様に顔向けができないとも考えます。この時、その人が意識しているのは、「人の目」だけでなく、「神の目」を意識しているとも言えるでしょう。日本人は太陽や先祖を神々として拝んできたからです。このような場合は、恥の意識は罪の意識に近いものとなっていると考えられます。
 日本には、キリスト教的一神教とは全く違う、独自の倫理観があるのです。
 こうした点に注意する必要はありますが、様々な問題点を括弧に入れて、『菊と刀』を読み直すならば、私たちは戦後日本が忘れているものを、改めて知ることができます。
 昔の日本人は、「恥」という意識によって行動の規範を持ち、厳しい公共道徳を持っていました。義理・人情・恩返しなどという価値観も、「恥」の意識を中心として形成されていたものでした。もともと一神教的な絶対的規範を持たない日本人には、その代わりに共同体における周囲の目や評価が強い道徳的強制力となっていたのです。しかし、戦後の経済・教育・文化等は、日本人の「恥の文化」を破壊し続けてきました。もちろんキリスト教的な罪の文化は、日本では根付きません。
 かつて西洋史学者の会田雄次氏は、次のように書いていました。「(戦後)日本人の心にヨーロッパ人的な罪の意識が生まれたということは、さらさらなかった。結果は、恥の意識が罵られ、小さくなり、消滅しかかっているというだけのことである」「日本人の恥の意識は、頼りないもので、一概に否定して良いものか」「日本人が恥の意識を失った時、どういう醜い事になるか」と。
 今日では、恥を知らない日本人がひどく増えています。上は政治家・官僚から、下は女子高校生・中学生まで、社会的規範を失った日本人は、簡単に犯罪や不道徳を行っています。私たちは、改めて「恥」という日本の伝統を振り返り、日本人としての道徳や義理人情を取り戻すべき時にあると思います。
 『菊と刀』は、今日、戦後日本人が忘れてきたものを再認識させてくれる一書と言えるでしょう。

参考資料
・ルース・ベネディクト著『菊と刀――日本の文化の型』(社会思想社)
・会田雄次著『日本人の意識構造』(講談社新書)

 次回に続く。

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日本の心153~ネルーは愛国者・頭山満に感謝した

2022-08-06 08:32:50 | 日本精神
 東京裁判においてインド側主席弁護人だったデサイ博士は、次のように発言しました。
 「インドはまもなく独立します。その切っ掛けを与えてくれたのは日本です。インドの独立は、日本のお陰で30年早まりました。これはインドのみならず、ビルマ、インドネシア、ベトナムをはじめとするアジア諸民族共通のことです。インド4億人の民は、これに深く感銘しています。インド国民は、日本の復興にあらゆる協力を惜しまないつもりです。その他の東南アジア諸民族も同じだと思います」
 戦後、インドの人々は、連合国が日本を裁いた東京裁判において、アジアの一員として、日本の立場を理解しました。独立インドの首相となったネルーは、東京裁判のインド代表判事にパール博士を任命しました。パール博士は、東京裁判の矛盾を突き、日本の戦犯全員の無罪を判決しました。
 インド政府のチョプラ教育相事務次官は「パール博士の判決は、当時も今もインド政府の立場を語っています。我々はパール博士の判決を支持しています」と語っています。
 今日、パール博士の所説は欧米の多くの国際法学者たちにも支持され、東京裁判の誤りが認められています。
 ネルー首相は戦後間もなく来日し、インドの独立に協力した日本人に感謝を表わしました。その一人が、頭山満(とおやま・みつる)でした。頭山は既に死去していたので、ネルーは代わりに黒竜会代表の葛生能久に謝意を表しました。
 頭山満こそ戦前の日本において、国家社会のために生きる在野の巨人として、広く国民的敬愛を受けた人物です。彼の名は玄洋社とともに記憶されていますが、明治以来、日本国民の名誉や自尊心にかかわる事件には、つねに彼の姿があったのでした。
 頭山をはじめとする人々は「大アジア主義者」と呼ばれ、明治時代からアジアの解放のために努力しました。 彼らは、中国、インド等のアジア諸国の独立運動家を、命懸けで支援した真の国際人でした。頭山は犬養毅(元首相)と親しく、両者は一心同体となって、日本とアジアのために尽くしました。
 頭山は、東京・赤坂霊南坂にあった家の隣家に、日本に亡命していた中国革命の父・孫文をかくまったことがあります。孫文は、その家で4年間ほどすごし、宋慶齢との結婚式も挙げました。その間の生活費も頭山が世話をしました。
 頭山は、またインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースらが英国政府から追われていたときには、官憲の手から身柄を守り、新宿の中村屋にかくまいました。ボースは中村屋の長女・相馬俊子と愛し合い、日本に帰化して頭山の媒酌で結婚し、祖国独立のために力を尽くしました。彼が伝えた中村屋のインド式カレーは有名ですが、その陰には、頭山という真に国際的な精神を持った愛国者がいたのです。ネルー首相は、こうしたインドに対する頭山の支援に感謝したのです。
 竜馬・海舟・西郷の息吹を受けた中江兆民は、頭山を大人物と認め、大いに期待し親交を結びました。
 その頭山は、維新の英雄・西郷隆盛を深く尊敬していました。頭山は「ただ一心の天に通ずるものあらば、布衣といへども決して王者に劣るものはない」と語ったと伝えられます。西郷に似て、地位や名誉や金銭を求めず、ひたすら日本とアジアのために尽くした彼らしい言葉です。
 「頭山翁の偉大なる人格の至極の根源は、実に翁の『天に通ずる心』に求めねばならぬ。……唯だ『一心天に通ずる』生涯が頭山翁の生涯であり、それは大西郷が常に『天を相手』に生きたのと同じく、真実の日本人に共通なる宗教的境地である」と、大川周明博士は、書いています。そして、頭山を「真個の日本人」と呼んでいます。
 インドが生んだ偉大な詩人タゴールは、大正13年(1924)に来日した際、頭山と会談しました。タゴールは、頭山について、「インド古代の聖者を目のあたりに見る感じである」と語っています。
 大東亜戦争は米国の挑発に乗る無謀な開戦の果てに、悲惨な敗戦に終わりました。 敗戦色濃き昭和19年の秋、90歳の頭山満翁は憂国の思いの中で死去しました。しかし、この大戦の後、アジア諸民族は白人種の支配から独立できました。アジアの解放は、それに協力した日本人がいたから実現できたのだと考える人々が、今日もアジアの国々には、いるのです。

参考資料
・葦津珍彦著『大アジア主義と頭山満』(日本教文社)
・杉森久英著『浪人の王者 頭山満』(河出文庫)

 次回に続く。

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日本の心152~パール博士は「日本人よ、日本に帰れ」と訴えた

2022-08-04 10:53:18 | 日本精神
 ラビダノード・パール博士は、インドが生んだ偉大な国際法学者です。戦後、インドの首相となったジャワーハルラール・ネルーは、東京裁判のインド代表判事にパール博士を任命しました。パール博士は、親友であるネルーの懇請と期待に応えてカルカッタ大学の副総長を辞任し、来日しました。
 東京に来たパール博士は、宿舎のホテルの周りが、一面焼け野原になっていることに呆然としました。博士は、アメリカが東京に空襲を行い、国際法に反して、多数の一般市民を虐殺した「東京大虐殺」の実態を目の当たりにしたのです。博士は、この戦争の真相を求めることに没頭しました。
 東京裁判は、検事も判事も全部が戦勝国側で占められ、日本にはまともな弁護もさせないという一方的で不公平な裁判でした。遅れて判事団に加わったパール博士は、起訴状の矛盾を見ぬき、東京裁判の不当性を徹底的に追及しました。そして、国際法の法理に基いた厳密な考証を行い、敢然として、日本のA級被告全員に無罪の判決を下しました。博士は、東京裁判について「法律にも正義にも基づかない裁判である」「法律的外観はまとっているが、本質的には執念深い報復の追跡である」と結論しました。
 博士の堂々とした論理と該博な知識は、国際法学会での博士の名声を高めました。その後、博士は、インドの最高栄誉であるPADHMA・RRI勲章を授与されたり、ジュネーブにある国連司法委員会の議長にも就任するなど、非常な尊敬を受けたのでした。
 わが国では、パール博士の判決はアジア人として民族的に偏向した極端な所説だといった見方が一部にありますが、博士は次のように明言しています。
 「私は日本の同情者として判決を下したのでもなく、またこれ裁いた欧米等の反対者として裁定を下したものでもない。真実を真実として認め、法の真理を適用したまでである」
 東京裁判の判事の中で、パールと共にもう一人重要な存在であるオランダのレーリンクは、パール判決に深い敬意を表しています。彼は、自分は裁判当時は「国際法については何も知らなかった」と語っており、判事中で国際法の専門家はパール博士のみだったと認めています。またレーリンクは、西洋白人中心の歴史観を反省し、植民地だったアジアの立場に深い理解を示し、日本がアジア解放に果たした世界史的役割を重視しています。
 東京裁判はマッカーサーの指令によって行われました。マッカーサーは、パール博士の判決書を裁判所で読み上げることを禁じました。
 パール博士は、その判決書を次の言葉で結んでいます。「時が熱狂と偏見をやわらげ、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、その時こそ、正義の女神はその秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」と。
 裁判の終了後の昭和26年、マッカーサーは、米国議会上院の軍事外交合同委員会で、「日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と答弁しました。これは日本が侵略戦争を行ったという東京裁判の判決を、自ら否定するものです。さらにマッカーサーは、ウェーキ島で、トルーマン大統領に「東京裁判は誤りだった」と告白したと伝えられます。
 今日、パール博士の所説は世界の多くの国際法学者たちにも支持されています。英国の元内閣官房長官・ハンキー卿は、著書『戦時裁判の錯誤』でパール博士を100%支持しました。その他、F・J・P・ピール氏、フリートマン教授、米最高裁のW・O・ダグラス判事など、パール支持を表明する学者・法律家は枚挙にいとまがありません。平成8年には、世界14カ国の有識者85人が東京裁判を批判した言葉を集めた本が、佐藤和男博士らによって刊行されました。今や、パール博士の説は、国際法学界の定説となっています。
 東京裁判を語る人は、まずパール博士の判決書を読み、博士の法理の是非を自分の頭で考えてみるべきでしょう。 
 さて、昭和27年4月28日、日本は主権を回復しました。6年8ヶ月ぶりのことでした。しかし、その主権は一定の制限を付せられたものでした。この年の秋、10月26日から11月28日まで、パール博士は二度目の来日をしました。11月4日に広島で開かれた世界連邦のアジア会議に出席するためです。
 羽田に降り立った博士は、開口一番次のように語りました。
 「この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は『法の真理』である。われわれはこの“法の真理”を奪い返さねばならぬ」
 また、次のように述べました。
 「たとえばいま朝鮮戦争で細菌戦がやかましい問題となり、中国はこれを提訴している。しかし東京裁判において法の真理を蹂躙してしまったために『中立裁判』は開けず、国際法違反であるこの細菌戦ひとつ裁くことさえできないではないか。捕虜送還問題しかり、戦犯釈放問題しかりである。幾十万人の人権と生命にかかわる重大問題が、国際法の正義と真理にのっとって裁くことができないとはどうしたことか」
 「戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、トルーマン、スターリン、李承晩、金日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でないというなら、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁いたのか。勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろう筈がない。われわれは何よりもまず、この失われた『法の真理』を奪い返さねばならぬ」 と。
 帝国ホテルで、博士の歓迎レセプションが行われました。席上、ある弁護士が「わが国に対するパール先生の御同情ある判決に対して、深甚なる感謝の意を表したいと」という意味の謝辞を述べました。
博士はすかさず立ち上がって、こう応えました。
 「私が日本に同情ある判決を下したというのは大きな誤解である。私は日本の同情者として判決を下したのでもなく、またこれ裁いた欧米等の反対者として裁定を下したものでもない。真実を真実として認め、法の真理を適用したまでである。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。誤解しないでいただきたい」と。
 また、次のように続けました。
 「日本の法曹界はじめマスコミも評論家も、なぜ東京裁判やアジア各地で執行された戦犯裁判の不法、不当性に対して沈黙しているのか。占領下にあってはやむを得ないとしても、主権を回復し独立した以上、この問題を俎上にのせてなぜ堂々と論争しないのか」
 「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるであろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない」
 博士は、「法の真理」を奪い返すために、東京裁判・戦犯裁判の不法・不当性を明らかにすべきだと訴えたのです。それは、単に日本一国の名誉の回復のためではありません。第2次大戦の勝者による軍事裁判によって、失われた正義と真理と信頼と平和を世界に回復するためです。
 博士はまた、日本人に対して、次のように訴えました。
 「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!と私は言いたい」
 広島で予定されていた特別講演を終えた博士は、原爆慰霊碑を訪れ、献花して黙祷を捧げました。碑文には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」と刻まれていました。通訳を通じて碑文の意味を知ると、博士は憤りを露わにしました。
 そして、次のように述べました。
 「この『過ちを繰り返しませぬ』という過ちは誰の行為を指しているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたしは疑う。ここに、祀ってあるのは原爆犠牲者であり、その原爆を落とした者は日本人でないことは明瞭である。落とした者が責任の所在を明らかにして、二度と再びこの過ちは犯さぬというならうなずける。
 この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のため蒔いたものであることも明らかだ。さらにアメリカは、ABCD包囲網をつくり、日本を経済的に封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハル・ノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である」
 そして、「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった」と博士は慨嘆しました。
 このことは新聞に大きく報じられ、碑文の責任者である広島市長との対談が行われました。
 原爆慰霊碑を訪れた翌日、博士は半日、瞑想をしました。戦死者のために祈り、大東亜戦争の意義に思いをめぐらせ、ベンガル語で詩を作りました。その詩は、現在、広島市の本照寺にある「大亜細亜悲願之碑」に刻まれています。
 詩は、原語と英語と日本語の三ヶ国語で記されています。日本語による訳詞は、次のようになっています。

  激動し変転する歴史の流れの中に
  道一筋につらなる幾多の人達が
  万斛(ばんこく)の思いを抱いて 死んでいった
  しかし
  天地深く打ち込まれた
  悲願は消えない
  抑圧されたアジアの解放のため
  その厳粛なる誓いに いのち捧げた
  魂の上に幸あれ
  ああ 真理よ
  あなたは我が心の中に在る
  その哲示に従って 我は進む
        1952年11月5日 ラビダノード・パール

 西洋人は、500年にわたり、世界を侵略・支配しました。この間、アジアの諸民族は白人の奴隷にされ、虐げられてきました。パール博士は、この詩で、解放を求めて死んでいった人々の悲願は、天地に深く打ち込まれて消えないと謳っています。そして、日本人を含め、アジアの解放のためにいのちを捧げた人々を称え、その冥福を祈っています。最後に、真理の示すところに従って進むことを誓っています。
 東京裁判では、戦勝国の罪は一切問われませんでした。一瞬にして24万人以上の広島市民の命を奪った原爆は、「悪魔の兵器」です。しかし、原爆を投下した者たちの罪は、問題にもされませんでした。博士は、こうした東京裁判の矛盾を徹底的に暴露し、真理を追求しました。
 ところが、戦後日本人の多くは、戦勝国のたくらみによって誇りを奪われ、先祖や先輩たちがアジア解放を目指した魂までも失ってしまったようです。そうした日本人に対し、「日本人よ、日本に帰れ」とパール博士は訴えています。
 パール博士が予言した東京裁判を見直すべき時は、来ています。東京裁判の見直しを進めましょう。それなくして、日本人が日本に帰ることはできないのです。それとともに、これは、単に日本一国の名誉の回復のためではないのです。第2次大戦の勝者による軍事裁判によって、失われた正義と真理と信頼と平和を世界に回復するためであり、世界人類にとっての課題でもあるのです。

参考資料
・『共同研究 パル判決書』(講談社学術文庫)
・田中正明著『パール博士の日本無罪論』(小学館文庫)
・佐藤和男編『世界がさばく東京裁判』(ジュピター出版)
・名越ニ荒之助著『戦後教科書の避けてきたもの』(日本工業新聞社)
・研究社現代英文テキスト17『日本弁護論 In Defense of Japan's Case』(Judge Radhabinod Palの判決書の原文の抜粋)
次回に続く。

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