ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

三島由紀夫の自決から50年

2020-11-25 08:49:51 | 日本精神
 いわゆる70年安保をめぐる騒乱の中で、昭和45年(1970年)11月25日、作家・三島由紀夫は、自衛隊市谷駐屯地において、自衛隊員に憲法改正を目指す決起を呼びかけて失敗、割腹自殺しました。当時、私は高校2年生でした。大きな衝撃を受けたことを覚えています。
 その日から本日で50年となります。未だにわが国は憲法の改正を実現できておらず、また皇室は皇族男子の減少や秋篠宮眞子内親王殿下のご結婚問題で深刻な危機にあります。そうしたわが国に、この50年間に強大化した共産中国の触手が広く深く入り込んでいます。
 三島由紀夫の思想と行動について私が過去に書いたものをここにあらためて掲示して、彼の訴えを思い返し、日本再建の決意を新たにしたいと思います。

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■三島由紀夫の『文化防衛論』を評す
2002.4.18

 今日わが国は、大きな危機にあります。昭和40年代にも、わが国は存亡の危機に直面していました。左翼の革命運動が高揚して国内が騒然とし、これに呼応して共産主義国が侵略してくる恐れがあったのです。当時、日本を守るために行動した人々の一人が、自決した作家・三島由紀夫です。
 日本のあり方が根本的に問われる今日、三島がかつて、日本の「文化」を守れと唱えたことを振り返ってみたいと思います。

●前置きとして

 三島由紀夫は、いわゆる70年安保を目前にした昭和44年、『文化防衛論』を発表し、日本の「文化」を守ることを提唱しました。その主張の内容に入る前に、ひとつ考えておきたいことがあります。
 それは日本の何かを「守る」というときに、私たちは、何を守るべきであるかということです。
 まず「国土」や「国民の生命と財産」、あるいは「主権と独立」を守ることが考えられます。しかし、日本が共産主義国となっても、国土は国土であり、国民の生命や主権等を守ることは、変わりがありません。また、「自由・平等・民主・人権」などの価値を守ることは、どの民主主義国でも言っており、わが国では共産党までが言っています。
 つまり、これらを守るというだけでは、日本を守ることにはならないのです。
 日本を守るとは、その中に、わが国に古来伝わる独自の国柄を守るということがあることに思い至ります。これを伝統的な言葉でいえば、「国体」を守るということです。「国体」とは、簡単に言えば、日本の歴史・文化・伝統に基く、天皇を中心とした国柄だと言えましょう。そこには、自ずと「日本の心」が表れています。
 三島が日本の「文化」を守ると言う時には、日本の国柄に表れた精神文化という意味がありますので、前置きとさせていただきます。

●文化を守ることを提唱

 昭和40年代、世界は共産主義の嵐に見舞われていました。わが国もまた、共産主義の革命運動が高揚し、大きく揺れ動きました。三島由紀夫は、この危機において、共産主義に反対し、日本の国柄を守ることを提唱したのです。『文化防衛論』で彼は、次のように述べます。
 「なぜわれわれは共産主義に反対するのか? 第一にそれは、われわれの国体、すなわち文化・伝統と絶対に相容れず、論理的に天皇の御存在と相容れないからであり、しかも天皇はわれわれの歴史的連続性・文化的統一性・民族的同一性の、他にかけがえのない唯一の象徴だからである。…」(註 1)
 三島は、さらに独自の考察を進めます。同じ時期に出された書物から彼の言葉を引用します。
 「…どうしても最終的に守るものは何かというと、天皇の問題。それでもまだあぶない。カンボジアみたいに王制でだね、共産主義という国もあるんだからね。いまの共産党は『天皇制打倒』を引っ込めて十年経つが、ひょっとすると天皇制下の共産主義を考えているんじゃないかと思う。これでもまだまだだめだ。天皇を守ってもまだあぶない。そうすると何を守ればいいんだと。ぼくはね、結局文化だと思うんだ、本質的な問題は」(註 2)
 このような考察に基いて、三島は、わが国独自の国柄、つまり国体を守るために、日本の「文化」を守ることを提唱しました。私は、重要な着眼だと思います。
 国体とは、単に国家の通時的な構造をいうのではなく、文化の社会組織的な表現でもあります。文化とは心の表れですから、日本の文化とは、日本人の精神の表れです。それゆえ、「文化」を守るとは、日本の精神を守ることです。それは個々人にとっては自分の精神を、自分自身を守ることでもあります。つまり、これは日本人のアイデンティティに関わる根本課題です。
 三島は、こうした課題を自己の問題として取り組むことを、同時代、そして将来の日本人に呼びかけたものと、私は思います。

●「文化概念としての天皇」を希求

 「文化」を守れ、という三島の提唱は、一般的な伝統文化・民族文化の保存を説くものではなく、国体を守り、天皇を守ることを訴えるものです。これは、彼の個性的な天皇論・文化論による主張です。
 三島は著書『文化防衛論』で、「政治概念としての天皇」に対する「文化概念としての天皇」という天皇像を提起しました。彼は、天皇の本質とは、政治的な権力者ではなく、「文化共同体の象徴」「文化の全体性の統括者」であると考えました。そして三島は、明治国家が創り出した天皇像を、西欧近代の国家原理の影響を受けて政治権力と結びつけられたものとして、拒否します。そして、「歴史的な古い文化概念としての天皇」の復活を希求しました。
 「われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものであり、このような全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するような勢力に対しては、われわれの日本の文化伝統を賭けて闘わなければならないと信じている…」(註 3)
 こうした主張は、彼独自の文化論に則ったものです。彼は皇室を中心とした古代の王朝文化に、日本文化の最も重要な源を見ます。
 「日本の民衆文化は概ね『みやびのまねび』に発している。そして、時代時代の日本文化は、みやびを中心とした衛星的な美的原理、『幽玄』『花』『わび』『さび』などを成立せしめたが、この独創的な新生の文化を生む母胎こそ、高度で月並みな、みやびの文化であり、文化の反独創性の極、古典主義の極致の秘庫が天皇なのであった。…
 文化上のいかなる反逆もいかなる卑俗も、ついに『みやび』の中に包括され、そこに文化の全体性がのこりなく示現し、文化概念としての天皇が成立する、というのが、日本の文化史の大綱である」(註 4)
 そして、彼は次のように述べます。
 「天皇を否定すれば、我々の文化の全体性を映す鏡がなくなるだろう。天皇は最終的に破壊されれば、我々の文化のアイデンティティはなくなるだろう」(註 5)
 さわり程度の紹介ではありますが、三島はこのような天皇論・文化論を展開して、「文化」の防衛を訴えました。「文化」を守ることなくしては、国体、そして天皇を守ることはできず、日本を守ることはできないと考えたわけです。それは、昭和40年代、日本共産化の危機が迫る状況の中で、突き詰められていった考察でした。

●日本の将来を洞察

 いわゆる70年安保をめぐる騒乱の中で、昭和45年11月25日、三島は、自衛隊市谷駐屯地において、自衛隊員に憲法改正を目指す決起を呼びかけて失敗、割腹自殺しました。当時、私は高校2年生でした。
 自決事件の4ヶ月ほど前、三島は、次のような感懐を記しました。
 「私はこれからの日本に対して希望をつなぐことが出来ない。このまま行ったら日本はなくなってしまうのではないかという感を日増しに強くする。日本はなくなって、そのかわりに、無機的な、空っぽな、ニュートラルな、中間色な、富裕な、抜け目がない、ある経済的大国が極東の一角に残るであろう…」(註 6)
 また、前年10月の講演で、次のように語りました。
 「この安保問題が一応片がついたあとに初めて、日本とは何だ、君は日本を選ぶのか、選ばないのかという鋭い問いかけが出てくると思うんです。そのときはいわゆる国家超克という思想も出てくるでありましょうし、アナーキストも出てくるでありましょうし、われわれは日本人じゃないんだという人も出てくるでありましょう。……そのときに向かって私は自分の文学を用意し、あるいは行動を用意する。そういうことしか自分に出来ないんだ。これを覚悟にしたい、そう思っているわけであります」(註 7)
 これらの発言は、その後の日本について、予言的な響きがするほどに、深い洞察を示したものだと思います。

●どのように評価するか

 三島由紀夫の行動と死に対する評価は、さまざまです。私は、彼が昭和40年代の日本の危機において、いかにして日本を守るかを考え、発言・行動したことを評価します。しかし、彼が自衛隊にクーデターを呼びかけたこと、また自決したことは評価できません。(8)
 私は、もし彼が自らの美学へのとらわれを捨て、死への衝動に打ち克ち、国家社会のために生き抜き、尽くす道を選んだならば、もっと有意義な行動をなし得たに違いないと思います。その点は残念ですが、彼が「文化」を守ることを提唱した言葉の中には、日本人が避けることのできない重要な問題が多く語られていると思います。


(1)三島由紀夫著『文化防衛論』(新潮社、初版は昭和44年)
(2)同上『若きサムライのために』(文春文庫、初版は昭和44年)
(3)-(6)  (1)と同じ
(7)産経新聞 昭和45年7月7日号
(8)わが生涯の師にして神とも仰ぐ大塚寛一先生は、三島の自決事件の直後、次のような趣旨のことを語っておられる。「日本精神は、松の木のように岩をも貫く、生きる力だ。自殺は間違いである。死んでしまってはいけない。日本精神は死ぬことではなく、生きることだ。生きて、生きて、生き抜いて、国に尽くすのが日本精神だ」。

参考資料
・猪瀬直樹著『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文春文庫)
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「三種の神器」と知仁勇

2019-05-02 08:17:57 | 日本精神
 新帝陛下が即位されるにあたり、剣璽等承継の儀が行われ、先帝陛下から「三種の神器」の承継がされました。
 「三種の神器」とは、古代から天皇の位を象徴するものとして、歴代天皇に継承されてきたものです。

●「三種の神器」の由来

 記紀によると、皇室の祖先神とされる天照大神は、天孫ニニギノミコトを、葦原中国(あしはらのなかつくに)すなわちこの日本国に遣わす際、「三種の神器」を授けたとされます。つまり八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)の三種です。
 天照大神は、天孫降臨に当たってニニギノミコトに対し、八咫鏡について神勅を下されました。『古事記』には「此れの鏡はもはら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くがごとく、斎(いつ)き奉れ」とまた『日本書紀』には「吾が児(みこ)、此の宝鏡を視(み)まさむこと、まさに吾を視るがごとくすべし」と記されています。
 三種の神器のうち、鏡は伊勢神宮に、剣は熱田神宮に、それぞれ祀られています。八坂瓊曲玉だけは神璽(しんじ)として宮中に安置されてきました。
 また、分霊された鏡が宮中の天照大神を祀る賢所(かしこどころ)に奉安されています。剣の分身と曲玉は、天皇のお側近くに常に安置されていると伝えられます。
 これら三種の神器は、代々の天皇により皇位の証として継承されます。その際は、剣璽等承継の儀が行われ、剣と璽(曲玉)とともに国璽(国家の表象としてして用いる印章)・御璽(天皇の印章)が先帝陛下から新帝陛下に受け渡されます。天皇が一日以上の行事に出かけられる時は、剣璽御動座(けんじごどうざ)といって剣と曲玉が陛下と共に渡御(とぎょ)されます。お付きの者が剣と曲玉をそれぞれ奉持します。

●「知仁勇」の象徴

 我が国は、シナの孔子・孟子らの思想を消化吸収し、発展深化させてきました。その過程で「三種の神器」を「知仁勇」の象徴と解釈する試みが現れました。これを天皇の帝王学に生かしたのが、杉浦重剛(しげたけ)でした。
 杉浦は、「真の人格者」と尊敬された偉大な教育者でした。杉浦は、昭和天皇が皇太子の時代、数え16歳から21歳まで、天皇の倫理を説く重任にあたりました。その際、ご講義のために書いたのが、『倫理御進講草案』(三樹書房)です。(大正3年、1914)
 杉浦は『草案』の序文において、御進講の基本方針を掲げます。
 「今進講に就きて大体の方針を定め、左にこれを陳述せんとす。

 一、三種の神器に則り皇道を体し給ふべきこと。
 一、五條の御誓文を以て将来の標準と為し給ふべきこと。
 一、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給ふべきこと」
 杉浦は、この方針の第一について、次のように述べます。
 「三種の神器及び之と共に賜はりたる天壌無窮の神勅は我国家成立の根底にして国体の淵源また実に此に存す。是れ最も先づ覚知せられざるべからざる所なり。
 殊に神器に託して与えられたる知仁勇の教訓は、国を統べ民を治むるに一日も忘るべからざる所にして、真に万世不易の大道たり。故に我国歴代の天皇は、皆此の御遺訓を体して能く其の本に報い、始に反り、常に皇祖の威徳を顕彰せんことを勉めさせ給へり。是れ我が皇室の連綿として無窮に栄え給ふ所以、また皇恩の四海に洽(あま)ねき所以なり。左れば将来我国を統御し給ふべき皇儲殿下は先づ能く皇祖の御遺訓に従ひ皇道を体し給ふべきものと信ず」
 ここには「神器」を「知仁勇」の三徳をもって解釈する通説が述べられています。

●将来の天皇へのご講義

 昭和天皇が受けた最初の講義は、「三種の神器」についてでした。
 御進講の最初の項目、「三種の神器」は、次のように始まります。
 「…三種の神器即ち鏡、玉、剣は唯皇位の御証(みしるし)として授け給いたるのみにあらず、此を以て至大の聖訓を垂れ給ひたることは、遠くは北畠親房、やや降りては中江藤樹、山鹿素行、頼山陽などの皆一様に説きたる所にして、要するに知仁勇の三徳を示されたるものなり。
 例へば鏡は明らかにして曇り無く、万物を照して其の正邪曲直を分ち、之を人心に比すれば則ち知なり。知は鏡の物を照すが如く、善悪黒白を判断するものなり。玉は円満にして温潤、恰も慈悲深き温乎たる人物に比すべし。是れ仁の体にして、仁とは博愛の謂なり。又剣は勇気決断を示すものなることは殆ど説明するまでも無く、若し之を文武の道に比すれば、鏡は文、剣は武なり。
 詮じ来れば三種の神器は知仁勇の三徳を宝物に託して垂示せられたるものなること益々明瞭なりとすべし」と。
 「鏡・玉・剣」はそれぞれ、「知・仁・勇」の徳を示すという儒教的な解釈が述べられています。もっともただ「知仁勇」を説くのであれば、シナ思想の崇拝・模倣にとどまります。私は、「三種の神器」に込められた神意を体現するための道具として、儒教の概念が借用されたに過ぎないと考えます。

●東西に共通する根本道徳

 話を戻すと、続いて杉浦は、「知仁勇」の来歴をシナにさかのぼります。
 「之を支那に見るに、知仁勇三つの者は天下の達徳なりと、『中庸』に記されたるあり。世に人倫五常の道ありとも、三徳なくんば、之を完全に実行すること能はず。言を換ふれば君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の道も、知仁勇の徳によりて、始めて実行せらるべきものなりとす。支那の学者既にこれを解して、知は其の道を知り、仁は其の道を体し、勇は其の道を行ふものなりと云へり」
 杉浦は、「知仁勇」は四書の一つ『中庸』から来ていることを述べ、「人倫五常の道」は、「知仁勇」の「三徳」があって、初めて実行できる徳目であるとします。そして、人倫の「道」を「知る」のが「知」、「体する」のが「仁」、「行う」のが「勇」と説明しています。いわば、認識、体得、実行です。
 シナに続いて、杉浦は西洋について述べます。杉浦は、西洋における「知情意」は、シナの「知仁勇」と同じであるという解釈を示します。そして、「完全なる知情意」という「三種の神器」を「有する」のが「優秀なる人格」であると定義しています。
 このように杉浦は、「三種の神器」は「知仁勇」の徳を象徴するものと解釈するだけでなく、「知仁勇」は、シナにも西洋にも通じる普遍的な根本道徳であると説いています。説くところが世界大であるところに、浩然の気が感じられましょう。

●「実践躬行」

 『草案』の「三種の神器」と題された項目を結ぶにあたり、杉浦は、以下のように記しています。
 「支那にても西洋にても三徳を尊ぶこと一様なり。能くこれを修得せられたらんには、身を修め、人を治め、天下国家を平らかならしむるを得べきなり。皇祖天照大神が三種の神器に託して遺訓を垂れ給ひたるは、深遠宏大なる意義を有せらるるものなれば、宜しく此の義を覚らせ給ふべきなり。…
 凡そ倫理なるものは、唯口に之を談ずるのみにては何の功もなきものにて、貴ぶ所は実践躬行の四字にあり」と。
 このように、杉浦は、将来の天皇に対して、第一に「三種の神器」を説き、神器が象徴するものを「知仁勇」の三徳と解して、この徳を身につけられるように、申し上げたのです。そこで、最も強調されたのは、「実践躬行」でありました。「実践躬行」とは、口で言うだけでなく、自分で実際に行動することです。
 杉浦は、「帝王学とは」と聞かれ、「至誠の学問じゃ」と答えたと伝えられます。「至誠」については、『草案』では吉田松陰の一節に「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」という孟子の言葉が掲げられています。「至誠」とは、ただ「実践躬行」によってのみ、体得・感化できるものと申せましょう。杉浦が、「至誠」の人、吉田松陰を深く尊敬していたことは、言うまでもありません。

●忘れられた理想の想起

 倫理御進講とは、将来の天皇への御教育でした。天皇が自ら学び、実践すべき君主の倫理を明らかにしようとしたものでした。一方、国民には、明治天皇による「教育勅語」が、国民の倫理を示していました。
 この「勅語」は、天皇が国民に道徳的実践を命じたものではなく、天皇自らが実践するから、共に実践しようと、国民に親しく呼びかけるものでした。「教育勅語」の末尾の部分には、次のようにあります。
 「朕爾臣民と倶に挙挙服膺して咸(みな)其の徳を一にせんことを庶(こ)い幾(ねが)う」(私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを常に胸に抱いて、その徳を一つにすることを、心から念願します)と。
 天皇は、神意を体するために、神器が象徴すると解される「知仁勇」を「実践躬行」する。その天皇の呼びかけに応えて、国民は徳を養おうと努める。こうして君民が徳を一つにする道義国家を目指すところに、明治日本の理想があったと言えましょう。
 その忘れられた理想を想起すること。それによってわが国は、活力を取り戻し、より豊かな精神文化を生み出してゆくことができるだろうと、私は思うのです。
 以上、「三種の神器」について伝統的な解釈を紹介しましたが、「三種の神器」には、「知仁勇」というような道徳的な観念では、到底とらえられない、もっと深遠なものが象徴されています。その点を初めて解明されたのが、大塚寛一先生です。時が来れば、「三種の神器」に込められた真に深遠な意味が一般の多くの人に知られるようになることでしょう。
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元号の意義、歴史、法制化と現在

2019-04-26 11:52:53 | 日本精神
 今上陛下の譲位に伴い、新たな元号「令和」が発表された。
 元号の意義と歴史について、国学院大学名誉教授の大原康男氏が、産経新聞平成31年4月19日付に、次のように書いている。
 「もともと元号は「地上の帝王は唯一至高の『天』から一般人民を教化育成せよとの命を受けて君臨する」とする漢民族の「天命思想」に基づいて、空間と時間という2つの統治の「元」(範疇(カテゴリー))のうち時元を指す。国語では「もと」あるいは「はじめ」と訓(よ)む。
 その起源は前漢の武帝即位の翌年(紀元前140)を「建元元年」と称したことにある。以後、辛亥革命(1911)まで2千年以上にわたって用いられ、中国の周辺諸国も採用するに至ったが(日本のほか朝鮮半島、モンゴル、チベット、インドシナなど)、今日ではわが国にしか残っていない。
 そのわが国では飛鳥時代に蘇我氏の専横を倒した政変に際し、孝徳天皇(36代)の元年(645)に「大化」の元号が建てられたのが嚆矢(こうし)で、次いで大化6年に「白雉(はくち)」と改めたのが改元の初例だ。
 その後しばらく途絶えたことがあったものの、文武天皇(42代)の5年(701)に「大宝」が建定されてからは断絶することなく、今日まで1300年以上も続いている。「大化」から数えて「令和」は248番目にあたる」と。

 さて、戦前のわが国では、大日本帝国憲法のもとに、旧皇室典範第12条に元号に関する規定が明記されていた。だが、敗戦後、GHQによって押し付けられた日本国憲法のもとに制定された現皇室典範では、元号に関する条文が消失し、法的根拠がなくなってしまった。そこで政府は元号を定める法案をつくったが、GHQがこれを拒否したため、元号は「事実たる慣習」になってしまった。そのままでは「昭和」を最後に元号の制度がなくなってしまうところだった。
 昭和43年(1968年)、わが国は明治百年を迎えた。これを機に、日本の伝統を取り戻そうという意識が高まった。政府は国旗・国歌とともに元号の法制化を進める検討を始めた。だが、和暦を止め、西暦一本にすべきという意見があり、法制化は容易ではなかった。民間では、日本の伝統を愛する人々が、昭和49年(1974年)に元号法制化の運動を開始した。昭和50年(1975年)、国会で、内閣法制局第一部長・角田礼次郎は、「元号は慣習で法的根拠はなく、陛下に万一のことがあれば空白の時代が始まる」と答弁した。世論は元号の存続を望む声が圧倒的だったが、当時は一大勢力だった日本社会党が、昭和52年(1977年)に「元号は昭和限り、以降は西暦」とする党見解を決定した。日本の伝統を軽視したり、破壊したりしようとする左翼や近代化主義者・キリスト教左派などの抵抗は強かった。これに対し、同年、日本青年協議会は元号法制化運動を本格化し、「地方から中央へ」を合言葉に地方議会議決運動を展開した。また、昭和53年(1978年)、日本を守る会(現・日本会議の前身団体の一つ)を中心に元号法制化実現国民会議が結成された。
 こうした保守・愛国的な国民運動の盛り上がりの中で、昭和54年(1979年)6月に元号法が国会で成立し、公布・施行となった。
 その10年後、昭和64年(1989年)1月7日に、昭和天皇が崩御された。元号に法的根拠が与えられていたので、すみやかに新たな元号が定められた。

 この度は、光格天皇以来202年ぶりの天皇の譲位に際し、新元号が前以って発表された。元号制度の1300年以上の歴史で初めて、国書である万葉集が典拠とされた。 
 「令」の文字が元号に用いられるのは、初めてという。この文字について、『漢字源』は、もとは「こうごうしい神のお告げのこと」とし、解字にて「『△印(おおいの下に集めることを示す)+人のひざまずく姿』で、人々を集めて、神や君主の宣告を伝えるさまをあらわす。清く美しいの意を含む」と説明している。こうした意味を持つ文字が、万葉集の梅の花の節にある「令月」という文言に用いられ、今回は新たな元号「令和」に使われたわけである。これもまた意義深いことと思う。

 以下は、大原氏の記事の全文。

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●産経新聞 平成31年4月19日

「令和」時代を前に元号を考える 国学院大学名誉教授・大原康男
2019.4.19

≪中国の「天命思想」から始まった≫
 4月1日、新しい元号「令和」が閣議決定され、直ちに公表された。前回は昭和天皇のご闘病と崩御の直後で、痛惜の思いが国を覆っていた中でのことであったが、今回は200年ぶりの譲位を前にしての公表だったので、何か新たな時代の到来を期待させるものがあったのか、予想外の“元号フィーバー”が巻き起こった。
 もともと元号は「地上の帝王は唯一至高の『天』から一般人民を教化育成せよとの命を受けて君臨する」とする漢民族の「天命思想」に基づいて、空間と時間という2つの統治の「元」(範疇(カテゴリー))のうち時元を指す。国語では「もと」あるいは「はじめ」と訓(よ)む。
 その起源は前漢の武帝即位の翌年(紀元前140)を「建元元年」と称したことにある。以後、辛亥革命(1911)まで2千年以上にわたって用いられ、中国の周辺諸国も採用するに至ったが(日本のほか朝鮮半島、モンゴル、チベット、インドシナなど)、今日ではわが国にしか残っていない。
 そのわが国では飛鳥時代に蘇我氏の専横を倒した政変に際し、孝徳天皇(36代)の元年(645)に「大化」の元号が建てられたのが嚆矢(こうし)で、次いで大化6年に「白雉(はくち)」と改めたのが改元の初例だ。
 その後しばらく途絶えたことがあったものの、文武天皇(42代)の5年(701)に「大宝」が建定されてからは断絶することなく、今日まで1300年以上も続いている。「大化」から数えて「令和」は248番目にあたる。

≪「昭和」のあとの存続の危機≫
 さて、改元はいかなる場合になされてきたのか。まず第1は改元の本義とされる「代始改元」(即位された新天皇の御代始めに行う)である。そのほかに▽「祥瑞改元」(国家にめでたいことが起こる予兆に因(ちな)んで行う)▽「災異改元」(地震、洪水、疾病など自然がもたらす災害を避けるために行う)▽「革命改元」(中国の運命予言論「讖緯(しんい)説」によって天命が革(あらた)まるとされた辛酉(しんゆう)の年の悪運を避けるために行う)▽「革令改元」(同じく政治上の変革があるとされた甲子(かっし)の年の凶運を避けるために行う)がある。
 「祥瑞改元」以下の改元によって、天皇ご一代に何度も改元されたことの煩瑣(はんさ)への批判から、江戸時代中期より中井竹山らの一代一元号の主張が高まり、ついに明治天皇(122代)の「即位改元の詔」(明治元)によって「一世一元の制」が確立したのである。
 すなわち「それ慶応四年を改めて明治元年と為(せ)よ。今より以後、旧制を革易し、一世一元、以(もっ)て永式と為(な)す」(原漢文)は、「皇室典範」(明治22)の第十二条「践祚(せんそ)ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」に明文で法制化された。
 ところが、現憲法の関連法規として制定された同名の「皇室典範」(昭和22)には元号に関する規定はない。それは当時の日本政府が連合国軍総司令部(GHQ)に配慮したからではない。実は旧典範時代に美濃部達吉博士が「元号を建てることは直接に国民の生活に関することであり、性質上純然たる国務に属し、もとより単純な皇室の内事ではない」と主張していたことを受けて、政府が別個の単行法として立案したところ、GHQが拒否したため、「昭和」は法的根拠を失って単なる「事実たる慣習」になってしまった。
 このまま放置すると、いずれの日にか「昭和」が終わった後は元号そのものがなくなってしまうとの危機感を抱いた有志国民の尽力によって、昭和54年に元号法が制定され、10年後の御代替わりに間に合ったという経緯である。

≪「御聴許」の明文化が必要だ≫
 最後に、元号選定の手続きに簡単に触れておきたい。
 平安中期から幕末までは大江、菅原など学識家系の人々を中心に選ばれた勘申(かんじん)者が出典を付した元号案を提出し、次いで特定の公卿(くぎょう)を召集して評議、それぞれ難(反対意見)と陳(賛成意見)を述べさせ(「難陳(なんちん)」)、その結果を上奏、勅裁を経て決定する。
 勘申の数が最も多かったのは「慶応」のときで41件(「平成」もその一つ)。また18回も勘申されて選ばれた「天保」のようなケースもある。「明治」は勘申者が選んだ5ないし6件の元号案を天皇自ら賢所で神籤(しんせん)を引き決定された前例のない方式だったという。
 「大正」「昭和」は皇室令の一つである登極令第二条「元号ハ枢密顧問ニ諮詢(しじゅん)シタル後之ヲ勅定ス」に基づき、天皇臨御の下に枢密院で評議し、裁可勅定された。
 元号法に拠(よ)り初めて制定された「平成」は、条文が「元号は、政令で定める」とあるだけなので、新天皇と無関係に閣議決定だけで決せられる危惧が潜在し、立法論としては疑義を払拭するために、事前に「御聴許」を得るという趣旨を明文で規定すべきであった。
 「令和」は新天皇が即位される前に決定されるという「平成」以上に異例の方式が取られたが、事前に天皇、皇太子に伝えられたとはいえ、「御聴許」の実は確保されたといえるのかどうか…。(国学院大学名誉教授・大原康男 おおはら・やすお)
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御代替わりの年に当たって

2019-03-23 08:48:18 | 日本精神
 平成の御代が終わりに近づいています。4月初めには新しい元号が発表され、5月から日本は新しい時代に入ります。
 去る2月24日には、政府の主宰により、「天皇陛下御在位三十年記念式典」が行われました。両陛下は、4月10日にご結婚60年をお迎えになります。
 4月30日に、今上陛下は譲位されます。当日は「退位礼正殿(せいでん)の儀」が執り行われ、陛下は譲位を広く明らかにされ、譲位前に国民の代表にお会いになります。
 翌5月1日、皇太子殿下が新天皇に即位されます。この時、「剣璽(けんじ)等承継の儀」が執り行われ、 新帝陛下は三種の神器のうち剣と璽(勾玉)、国璽、御璽を引き継がれます。三種の神器は皇位を象徴するものです。
 5月1日、新帝陛下は「即位後朝見(ちょうけん)の儀」を執り行われ、即位後初めて三権の長らにお会いになり、即位を宣言されます。また、新しい元号が施行されます。

 秋には、10月22日に「即位礼正殿の儀」が執り行われ、新帝陛下が高御座(たかみくら)に立ち、国内外の賓客に即位を宣言されます。また「祝賀御列の儀」が催され、陛下はパレードで国民の祝福を受けられます。当日から31日にかけて、「饗宴の儀」が催され、国内外の賓客に即位を披露する祝宴が行われます。また26日には、一般参賀が行われ、新帝陛下は国民の祝福をお受けになります。
 御代替わりにおいて最も重要な儀式は、「大嘗祭(だいじょうさい)」です。11月14~15日に、大嘗祭の主要儀式である「大嘗宮の儀」が執り行われ、新帝陛下は神前に新穀を供え、国の安寧や五穀豊穣を感謝し、祈りをささげます。16、18日に「大饗の儀」が執り行われ、新帝陛下は参列者に白酒(しろき)、黒酒(くろき)、酒肴を賜る予定です。

 こうした一連の厳粛・盛大・華麗な儀式は、世界の人々から注目を集め、日本の国の伝統・文化・国柄のすばらしさが大きな感動を呼ぶことになるでしょう。こうした意義深き時に臨み、日本人は日本精神を取り戻し、またその真髄を学ぶ人が増えることが期待されます。
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2月11日は建国記念の日

2019-02-10 08:10:50 | 日本精神
 2月11日は現在、「建国記念の日」という祝日になっています。国民の祝日に関する法律(祝日法)では「建国をしのび、国を愛する心を養う」ことを趣旨としています。本年の「建国記念の日」は、平成最後の「建国記念の日」となります。しかし、学校教育や新聞、マスコミなどの情報の中で、この日の意義は、ほとんど伝えられていません。
 2月11日は明治時代から昭和23年(1948)までは紀元節と呼ばれていました。紀元節が設けられたのは、明治維新の後のことです。幕末の日本は、西欧列強の植民地にされるおそれがあり、その危機感の中で、日本人は、新しい国民結集の政治体制をつくろうとしました。その方向性を決定づけたのが、慶応3年(1867)12月に出された「王政復古の大号令」でした。その中には、「諸事神武創業のはじめにもとづき……」という文言があります。初代・神武天皇の建国をモデルにすることが謳われ、新国家建設が進められたのです。
 神武天皇は、建国にあたり「八紘(はっこう)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」つまり「天下に住むすべてのものが、一つ屋根の下に大家族のように仲良くくらせるようにする」という理念を掲げました。そして、奈良県の橿原の地で、天皇の御位におつきになったと『日本書紀』に記述されています。それは、「辛酉(かのととり)年春正月」の一日のことだといいます。この日を太陽暦に換算すると2月11日となります。そこで、明治6年(1873)に、2月11日が紀元節と定められたのです。「元」とは元始の義であり、また年号のことにも用います。そこで、日本の紀元の始まる日であるとして、紀元節と名づけたものでした。
 アメリカは独立後に独立記念日、フランスは革命後に革命記念日を設け、毎年、国を挙げて祝っています。これにならい、日本は明治維新後に紀元節が定められたのです。そこには、国の伝統、建国の理念を踏まえつつ、新しい近代国家を建設しようという志が込められています。
 こういう意義ある日ですので、明治憲法を発布する際にも、この日が選ばれました。帝国憲法は明治22年(1889)の2月11日に発布されたのです。国の初めの日に、新しい憲法を発布して、立派な国づくりをしようとしたわけです。
 戦前、紀元節は国民的な祝祭日として祝われ、「雲に聳(そび)ゆる高千穂の……」という『紀元節』の歌が小学校などで歌われました。
 ところが、大東亜戦争の敗戦後、わが国を占領したGHQは日本の伝統を破壊しようとしました。占領軍の資料『降伏後における米国の初期対日方針』には、「日本国が再び米国の脅威となり、または、世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にする」と、占領の目的が書かれています。すべて、この目的に沿って占領行政が行われました。
 独立国同士の関係にあって、未来永劫に決して脅威とならなくするためには、米国の属国状態に置かない限りあり得ないことです。GHQはまさにそれをめざしました。
 GHQは占領政策の一環として、昭和23年(1948)に祝祭日を変える方針を打ち出しました。これによって、紀元節はこの年をもって廃止されました。2月11日という日を否定することで、日本の神話、歴史、天皇と国民のつながりを破壊しようとしたのです。

 昭和26年(1951)、日本はサンフランシスコ講和条約を結びました。国の独立回復にあたり、わが国の伝統を保ちたいとする政府は、世論調査を実施しました。その結果、祝日に残したい日の第1位は正月、第2位は4月29日の昭和天皇誕生日でした。この日は当時、天長節と呼ばれていました。今は「昭和の日」と呼ばれています。そして、残してほしい祝日の第3位が2月11日でした。
 当時の吉田茂首相は、「紀元節の復活から手を付けていきたい」と国会で答弁しました。そして、昭和27年(1952)4月28日の主権回復以降、紀元節復活運動が行われました。法制化の努力が続けられた結果、昭和41年(1966)6月の国会で、ついに祝日法(国民の祝日に関する法律)の改正がなりました。この時、紀元節は、「建国記念の日」と名を変えて復活することになりました。昭和42年(1967)2月11日には、第1回の「建国記念の日」が祝われました。
 このように、建国記念の日は、敗戦後、日本人の努力で取り戻した日です。国民の努力によって、日本の歴史の原点を取り戻すことができたものです。
 戦後の日本は、6年8ヶ月に及ぶ占領が行われ、この間、日本弱体化政策が強行されました。昭和27年に主権を回復した後には、二つの動きがあります。一つは、占領軍の意志を引き継ぎ、日本の主権を制限されたままにし、固有の歴史観や国家観を否定しつづけようとする動きです。こちらは、「進歩的文化人」を代表とする近代化主義者や、社会主義者、共産主義者による動きです。これに対し、日本を再び独立自尊の国として立て直そうという動きもありました。その運動の代表的なものが、失われた2月11日を取り戻す努力、紀元節復活運動でした。担い手は、日本の伝統や文化を愛する人たちです。
 昭和42年に、「建国記念の日」が制定されて以降、昭和49年(1974)には元号法制化の運動が起こり、昭和53年(1978)に法制化がなりました。また、昭和50年(1975)には昭和天皇のご即位50年奉祝運動が行われました。昭和60年(1985)には同じくご即位60年奉祝運動が行われました。また、「日の丸」「君が代」の法制化運動も行われ、これは平成11年(1999)に国旗国歌法が制定に結実しました。このように、日本再建に向けての努力は、戦後ずっと続けられてきたのです。その努力のきっかけとなったのが、紀元節の復活運動であり、2月11日の意義を知ることは、日本の伝統と文化を理解することになるのです。

 さて、わが国の政府は一時、「建国記念の日」の建国記念式典を後援していたのですが、平成18年(2006)以降は記念式典そのものが行なわれていません。せっかく長年の努力によって回復した記念日が形骸化していることは、大変残念なことです。
 「建国記念の日」が制定された昭和41年(1966)以降、「建国記念の日奉祝会」という民間団体が建国記念式典を開催し、本来は首相出席の上、政府が記念式典を主催すべきことを訴えてきました。昭和53年(1978)に総理府の後援が実現し、以後、文部省・自治省も後援に加わったのです。ところが、昭和59年(1984)、中曽根康弘政権は、式典プログラムから「神武建国」を削除すること、及び「天皇陛下万歳」を「日本国万歳」に変更することを、首相出席の条件として提示しました。民間側はこの政府の要求を拒否したため、昭和63年(1988)からは政府後援の「『建国記念の日』を祝う国民式典」と、民間側の「建国記念の日奉祝中央式典」が別個に開催されるようになりました。
 民間主催の集会は、現在も一貫して「神武建国」「天皇陛下万歳」のある形で行われています。政府後援(主催ではない)の集会は「神武建国」「天皇陛下万歳」のない形で行われていましたが、平成17年(2005)に役員の高齢化を理由に式典が中止になり、翌18年(2006)には一切の行事が取り止めとなってしまいました。以後、記念式典そのものが行われていません。こうした現状を改善すべく国民運動が行われています。
 自民党は平成26年(2014)2月、建国記念の日や竹島の日などに合わせた政府主催式典の開催を目指し、党内に「歴史・伝統・文化に関する連絡協議会」を設置しました。祝日の由来や意義、文化的な位置づけ、祝日の改廃の経緯などに関する勉強会を開き、政府主催で式典を行う意義を広める活動を行う方針と当時伝えられました。だが、まだ広く国会議員に賛同を呼びかけ、国民を啓発する動きには至っていません。
 日本の建て直しは、日本建国の由来を知り、その伝統に誇りを持つことから始まります。政府が式典を主催するとともに、建国の由来を教科書に記載し、青少年に教育すべきであります。
 そして、祝日には、家庭や地域で国旗「日の丸」を掲揚しましょう。
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「白い共産主義」論をアップ

2018-11-17 08:50:15 | 日本精神
 11月13~15日、ブログに連載した「白い共産主義」に関する拙稿を編集してマイサイトに掲載しました。通してお読みになりたい方は、下記へどうぞ。

■文化革命型の「白い共産主義」の脅威
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion07d.htm
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文化革命型の「白い共産主義」の脅威3

2018-11-15 09:03:32 | 日本精神
●日本を蝕む共産主義

 戦前の日本では、共産主義は危険思想と見なされていた。日本の共産党は、ソ連共産党の日本支部として作られ、皇室の廃止、国家の転覆を目指していた。それゆえ、共産主義者の活動は厳しく監視され、取り締まられた。
 共産党が自由に活動できるようになったのは、わが国が大東亜戦争に敗れた後である。日本の占領政策を準備したOSSの影響のもと、GHQは獄中から共産党員を解放し、公然と活動できるようにした。日本国民の団結を弱めるため、思想的な分裂を画策したのである。
 GHQにはニューディーラーと呼ばれる左翼思想を抱いた者が多数いた。彼らは日本を弱体化するための占領政策を立案・実行した。その中にはOSSの出身者がいた。マッカーサーの指示で英文で憲法が起草され、その憲法がわが国に押し付けられた。現行憲法には、日本の国柄や伝統が書かれておらず、天皇の役割が縮小された。国民の権利の保障が厚い一方、義務は少なく、個人主義・利己主義に陥りやすい内容となっている。また、GHQは民法を変え、伝統的な家族制度を壊すために、イエ制度を廃止した。
 こうしたなかで、共産主義者は日本の各所で共産思想の浸透を図った。学界やマスメディアに浸透し、さらに教育界に入り込んで、日教組が左翼教育を行うようになった。
 戦後日本の左翼は、レーニン流の暴力革命戦術を取らずともよい。当面、現行憲法の下で、「民主」「平等」「人権」「平和」などの教育・普及をやっていけば、日本の共産化を実現できると考えた。そのために、学校やマスメディア等が利用されている。こうした動きにさらに加わったのが、文化革命型の「白い共産主義」である。
 共産主義者は、西洋でキリスト教道徳を破壊するように、わが国では我が国の伝統的な道徳を破壊する。日本人は、皇室を敬い、家族を大切にし、先祖に感謝し、子孫の繁栄を願い、ともに助け合う生き方をしてきた。そういう生き方そのものを、共産主義者は排除する。言い換えれば、日本人から日本人らしい精神をなくそうとしている。
 皇室を敬う心を損なう。個人中心の考え方を広める。親子、夫婦がバラバラになるようにする。先祖への感謝や尊敬の念を持たないようにする。資本家と労働者が対立・闘争するようにする。日本人が民族や国家という意識を持たないようにする。国旗を掲げたり、国歌を歌うことに反対する。―――こうした伝統的な道徳を破壊する動きを一層、強力なものにしているのが、ジェンダーフリー、過激な性教育、夫婦別姓の導入、戸籍制度の改悪等である。
 ジェンダーとは、生まれつきの男女の性別ではなく、社会的・文化的に作られた性差を意味する言葉である。そうした性差をなくそうとするのが、ジェンダーフリーである。簡単に言えば、男は男らしく、女は女らしくという考え方をなくそうという運動である。
 今学校では、過激な性教育が行われている。日教組は、小学生の子供に性の知識を教える教育に力を入れている。
 夫婦別姓を導入しようとする動きが続いている。結婚しても、夫婦が別々の姓を名乗ることができるようにし、個人主義を徹底するものである。
 戸籍制度が改悪され、戸籍に書く子供の続き柄の欄に「子」とのみ記されるようになった。この動きは、嫡出子と非嫡出子の差をなくし、さらに法律婚と事実婚の差をなくし、最後は結婚という制度の廃止を目指すものである。
 最近大きな話題になっているものに、LGBTがある。Lはレズ、女性の同性愛者、Gはゲイ、男性の同性愛者、Bはバイセクシュアル、両性愛者、Tはトランスジェンダー、性同一性障害の一種である。合わせてLGBTといい、こうした性的指向を持つ人々の権利を拡大しようとする動きがある。
 これは少数者の人権を擁護する動きと見られるが、それを利用するものとして、共産主義があることに注意しなければならない。
 今や人類が人間の自然な姿として大切にしてきた家族のあり方、男女のあり方、人間のあり方を変えていく文化の革命が、静かに進行しているのである。私たちは今日、知らずしらずに共産主義の浸透にさらされている。そのことに気づかねばならない。

●外からの脅威が迫っている

 日本はじわじわと共産主義によって中から侵されているが、それだけではない。外からは大きな脅威が迫っている。中国である。経済大国、軍事大国となった中国は、南シナ海、東シナ海で覇権主義的な行動を強めている。
 中国は、尖閣諸島を奪取しようとし、さらに沖縄を狙っている。北海道では森林・水資源・農地等が買収され、大きな問題になっている。また、日本全国で中国人の移民が急増し、日本国籍を取る中国人が激増している。日本に住む中国人は、150万人を超えている。このままいくと、日本は中国によって、呑み込まれてしまう恐れがある。政府は入管法を改正して、来年4月から外国人労働者を多く入れようとしているが、その政策を取るならば、流入する外国人の多くは中国人になるだろう。
 ここに中国で作られた2050年の東アジアの予想地図がある。朝鮮半島は朝鮮省となっており、日本は西半分が東海省、東半分は日本自治区と書かれている。
 もしわが国が中国に支配されたら、言論の自由、表現の自由は制限され、宗教は弾圧を受けるだろう。チベットやウイグルは中国の自治区だが、中国共産党はチベットやウイグルで、伝統文化の破壊、宗教への弾圧、民族の弱小化を進めている。日本も同じような目に合うことになる。

●日本精神を取り戻そう

 「白い共産主義」によって伝統的な文化が破壊されたところに、「赤い共産主義」が武力で襲いかかる。こうした危険から日本を守るには、日本人が日本精神を取り戻すことが必要である。そして、日本人が団結して、日本の再建を進めていかねばならない。
 日本を再建するには、国のあり方を立て直さねばならない。そのためには、日本人自身の手で、外国から押し付けられた憲法を改正することが不可欠である。現在、憲法改正の議論では、自衛隊の明記、緊急事態条項の新設等が課題に上がっている。さらに今後、憲法に日本の伝統・文化・国柄を盛り込み、本来日本人が持っていた団結力を回復していかねばならない。それが、21世紀の世界で日本の平和と繁栄を可能にする道である。
 大塚寛一先生の著書に『真の日本精神が世界を救う』がある。日本精神を取り戻し、さらに日本精神の真髄を学ぶために、ご一読をお勧めする。(了)

参考資料
・OSSについては、下記をご参照下さい。
 田中英道著「東京裁判とOSS『日本計画』」
http://hidemichitanaka.net/?page_id=321
関連掲示
・共産主義全般については、下記のページの拙稿をご参照下さい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion07.htm
・文化革命型の「白い共産主義」の展開と、ジェンダーフリー、フェミニズム等の関係について、詳しくは、下記をご参照下さい。
 拙稿「急進的なフェミニズムはウーマン・リブ的共産主義」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03d.htm
・大塚先生の説く真の日本精神については、マイサイトの「基調」をご参照下さい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/keynote.htm
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文化革命型の「白い共産主義」の脅威2

2018-11-14 09:32:51 | 日本精神
●「白い共産主義」の系譜

 ロシア革命後、ドイツ・ハンガリー等で革命運動は、すべて鎮圧された。労働者の大半は立ち上がらなかったのである。ヨーロッパの共産主義者は、労働者が蜂起しなかったのは、キリスト教の考え方が染み付き、真の「階級利益」に気づいていないからだ、と考えた。そして、キリスト教とそれに基づく文化を破壊しない限り、共産主義は浸透しないと考えた。
 キリスト教は、一夫一妻制である。ハンガリーのルカーチは、これを破壊するため、過激な性教育制度を実施した。ハンガリーの子供たちは学校で、自由恋愛思想、セックスの仕方を教わり、一夫一妻制は古臭く、宗教の理念は浅はかだと教えられた。女性も性道徳に反抗するよう呼びかけられた。
 1960年代の後半、ルカーチの思想は、アメリカで若者たちに熱烈に受け容れられた。アメリカで小学校から性教育を行うようになったのは、ルカーチの影響である。
 イタリアのグラムシは、西洋の共産化には、まずキリスト教を除くことが必要だと考えた。まず文化を変えよ、そうすれば熟した果実のごとく権力は自然と手中に落ちてくる、と主張した。芸術、映画、演劇、教育、新聞、雑誌、ラジオ等を、一つ一つ攻め落とし革命に組み込んでゆくことが肝要だ。そうすれば人々は徐々に革命を理解し、歓迎しさえするようになる、と説いた。こうしたグラムシの思想は、西欧諸国のユーロコミュニズムや、アメリカのカウンターカルチャー運動に影響を与えた。
 ドイツのフランクフルト学派は、キリスト教、家族、道徳、愛国心等を徹底的に批判した。彼らはユダヤ人が多く、ナチスの迫害を逃れて米国に亡命し、戦略情報局(OSS)で大衆操作の研究に参加した。彼らの最左派だったのが、マルクーゼである。「来るべき文化革命でプロレタリアートの役を演じるのは誰か」――マルクーゼが候補に挙げたのは、若者の過激派、黒人運動家、フェミニスト、同性愛者、社会的孤立者、第三世界の革命家などだった。労働者階級に代わって西洋文化を破壊するのは彼らだというのである。
 マルクーゼの思想にはまったアメリカの学生たちは、ベトナム戦争の反戦運動を行いながら、キリスト教の価値観や道徳に反抗し、セックスとドラッグに興じた。この「性革命」「ドラッグ革命」に続いて、黒人の公民権運動が高揚した。黒人が公民権を求めるのを見て、白人の女性たちも権利の拡大を要求し、ウーマン・リブの女性解放運動が起こった。
 この動向は、アメリカから西欧・日本に伝播した。マルクーゼの影響を象徴的に表わすことがある。昭和43年(1968年)、フランスのパリで5月革命が起った。この時に活動した学生・知識労働者の運動は、三M革命といわれる。三Mとは、「マルクス・マオ(毛沢東)・マルクーゼ」である。マルクス、毛沢東と並ぶほど、マルクーゼが強い影響を与えていたのである。
 こうした文化革命型の「白い共産主義」が、1960年代後半以降、ヨーロッパ・アメリカからわが国に入って日本人を深く蝕んでいる。

 次回に続く。

■追記

 本項を含む拙稿「文化革命型の『白い共産主義』の脅威」は、下記に全文を掲載しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion07d.htm
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文化革命型の「白い共産主義」の脅威1

2018-11-13 09:36:37 | 日本精神
 11月11日、私は東京・渋谷で行った講演で、文化革命型の「白い共産主義」の脅威に関して述べた。その概要を3回に分けて掲載する。

●共産主義とは

 今年は、明治維新から150年であり、平成の御世の最後の年でもある。来年5月、日本は新しい時代に入る。しかし、いま日本では、知らぬ間に伝統文化の破壊が進み、家庭・社会・国家の全般に深刻な問題が広がっている。その背後には、新たな共産主義の存在がある。
 平成3年(1991年)にソ連が崩壊した。その後、共産主義は世界的に退潮になっている。しかし、共産主義は死んではいない。
 共産主義の元祖は、マルクス、エンゲルスである。共産主義は、私有財産制を廃止し、生産手段を社会の共有にして、貧富の格差を解消することを目標とする。それによって階級支配がなく、自由な個人の結合による社会を目指すものである。そのために、共産主義者は、階級闘争を通して、革命を起こそうとする。
 革命は、1917年にロシアで初めて成功した。以後、多くの国が共産化され、一時は世界人口の3分の1が共産主義の勢力下に置かれた。
 ところが、ソ連は、革命の理想とは程遠く、共産党官僚が労働者・農民を支配する官僚支配の国家だった。自由と権利は抑圧され、生産性が低く、生活水準は上がらなかった。
 ついにソ連は革命の70年後に共産主義体制を放棄するにいたった。相前後して東欧諸国も共産主義を捨て、共産主義は世界的に大きく後退した。
 だが、東アジアでは現在も中国が共産党の支配下にある。そして、我が国では、今なお先進国で唯一、共産党を名乗る政党が存在し、堂々と政治活動を行っている。
 共産主義には、二つの種類がある。一つは、ロシア革命のように、武力によって革命を起こし、政権を奪取するものである。もう一つは、伝統的な文化を破壊し、人々の意識を変えることで、社会を共産化していくものである。前者は武力革命型、後者は文化革命型である。前者を「赤い共産主義」、後者を「白い共産主義」とも呼ぶ。
 ソ連の解体後、先進国では、武力による革命を目指す「赤い共産主義」は、大きく後退している。しかし、その一方、伝統文化の破壊による文化革命を目指す「白い共産主義」が、教育・マスコミ等に深く浸透し、知らずしらずに日本の家庭や社会が蝕まれている。

●恐るべき破壊の思想

 マルクス、エンゲルスは、社会の諸悪の根源を私有制と階級支配に見ていた。彼らは、その見方で家族をとらえた。彼らは、近代の家族は、ブルジョワ的私有に基礎づけられており、私有制を廃止すれば、家族は消滅する。女性の解放は、私有制の廃止によって、初めて実現すると考えた。そして、結婚という制度を廃止し、家族を解体することを図った。
 マルクス、エンゲルスは、家族を解体するための方法として、男性が婦人を共有することを打ち出した。彼らは『共産党宣言』で、次のように宣言した。「共産主義者は、公認の、公然たる婦人の共有を取り入れようとする」「共産主義者は自由、正義などの永遠の真理を廃棄する。道徳を廃棄する」と。
 これは、従来の性道徳や家庭道徳を真っ向から否定するものである。目指すのは、性の自由化がされたフリーセックスの社会である。家族が解体されると、すべての人間は、夫婦・親子の関係すらない個人としてバラバラに分解される。そうした個人を改めて集合した社会が、マルクス、エンゲルスの考えた共産主義社会なのである。
 レーニンは、ソ連でマルクス=エンゲルスの家族廃止論を実践し、発展させた。家族を解体するために、1927年に登録された結婚と未登録の結婚を同等とし、重婚さえも合法とした。また女性を家庭から出して労働者とし、育児の社会化を進めた。その結果、どうなったか。家庭が乱れ、少年犯罪や非行、離婚が激増し、社会に混乱が広がったのである。
 そこで、スターリンは、政策を根本的に見直し、逆に家族を「社会の柱」とする方針に切り替えた。憲法に家族尊重と母性保護を規定し、未登録結婚の制度を廃止して、嫡出子と庶子との差別を復活させ、子供の保育・教育における親の責任を重くした。レーニンの政策は、大失敗に終わったのである。ところが、この失敗を認めず、今も家族解体を進めようとしているのが、文化革命型の「白い共産主義」である。

 次回に続く。
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「昭和の日」に日本の課題と世界の将来を考える

2018-04-29 08:43:00 | 日本精神
 平成19年(2007年)より、4月29日は「みどりの日」から「昭和の日」に、5月4日は「国民の休日」から「みどりの日」に変わった。本年で12年目となる。
 「昭和の日」は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。」と祝日法に、規定されている。4月29日は、もともとは、昭和天皇のお誕生日だった。昭和という時代は、日本の歴史の中で最も濃厚な時代だった。
 昭和の日本は、昭和天皇の存在抜きに振り返ることができない。昭和天皇の事績を知り、それを語り継ぐことが、昭和という時代の日本を理解し、その時代の努力を今日に生かすことになると思う。昭和天皇については、マイサイトの「君と民」の項目18~27の拙稿を、ご参考に供したい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/j-mind10.htm

●昭和という時代を振り返る

 昭和という時代を振り返るに当たり、わが生涯の師にして神とも仰ぐ大塚寛一先生が、昭和の時代をどのように見ておられたかその大意を記したい。
http://www.nsfs.jp/sousai_sousai.htm

 明治時代の日本人は、日本精神を中心として一致団結していた。だから、6億のシナや3億のロシアに勝つことができた。ところが、日本人は、それ以後、段々、日本本来の特質を忘れ、一にも欧米、二にも欧米という考えにとらわれてしまった。大正の初めごろから、さかんに外来思想をとり入れ、それを中心に動いてきた。外来思想とは英米の資本主義、自由主義がそうだし、共産主義も入ってきた。その結果、本来の日本精神がないがしろにされ、政治家も日本の本質がわからなくなってしまった。
 日清・日露戦争に勝った後、アジアは安定し、自分から攻めて行かなければ他から攻撃されるような心配がなくなった。そうなると次第に、政治家が国のことよりも、自分の利益にとらわれて、腐敗・堕落していった。その政界の腐敗ぶりを見かねて、軍人が政治に口を出すようになった。明治天皇は、「軍人は政治に関与してはならない」という勅諭を出しておられるが、軍人がそのお言葉に背き、政治に介入するようになった。そして、青年将校などが、時の政府を倒せばなんとかなると考えて、5・15事件、2・26事件を起こした。また海外では、軍部が満州事変を起こし、支那事変にいたると、シナで泥沼のような戦いに引きずり込まれていった。
 当時、わが国では盛んに日本精神が唱えられていた。しかし、大塚先生は、当時の学者や文化人等が唱える日本精神は、本来の日本精神からはずれてきていると見ておられた。そして、昭和14年9月11日、「大日本精神」と題した建白書の送付を開始された。先生は、独伊と結ぶ三国同盟に反対し、対米英開戦に反対・警告された。奥様の国恵夫人が先生の書いたものを編集・印刷・発行された。毎回千余の建白書を、時の指導層に送り続けた。開戦すれば、日本は大敗を喫し、新型爆弾が投下され、大都市は焦土と化すと予言された。しかし、時の指導層はその建言を受け入れなかった。
 そして、ヒットラーやムッソリーニ等の覇道をまねた東条英機が、遂に英米と開戦した。そのため、日本は建国以来はじめての敗戦を喫してしまった。
 昭和天皇は、三国同盟に反対され、英米との開戦を避けるよう強く願われていた。当時の軍部は、明治天皇の遺勅に反し、昭和天皇の御心に背いて暴走した。
 戦後は、日本精神そのものが間違っているように教育している。しかし、大塚先生によれば、日本精神が悪いのではない。指導者が日本精神を踏み外したのである。

 戦後の日本は、上記のことを根本的に反省して、再出発すべきだった。しかし、その反省をせずに進んできていることに気づかねばならない。

●昭和の残課題を達成し、日本の役割を果たす

 「昭和の日」は、昭和という激動と復興の時代を振り返る意義ある日である。それとともに昭和の残課題を確認し、その課題の遂行に心を新たにする日でありたい。
 私は、残課題の最大のものは、日本人が日本精神を取り戻すことであると考える。自己本来の精神を失った国民・民族は、21世紀の世界で存立・繁栄を保てない。
 まず日本精神を取り戻し、具体的には三つの課題を成し遂げる必要がある。それは、憲法の改正、教育の再生、皇室制度の復活・強化である。これら三課題を達成してこそ、経済・外交・安全保障・家庭・脱少子化等の分野でも改善が可能となる。これらは、本来昭和の時代になすべきことだった。今、この平成の時代に早期になし終えるべき課題である。 平成31年(2019)4月30日に今上陛下の譲位、5月1日に新帝陛下の即位が行われ、元号が新たになる。平成の時代は、残り約1年である。この間に、まず憲法の改正を実現し、日本の根本的な立て直しを進めなければならない。

 世界全体で見れば、21世紀の人類の課題は、世界平和の実現と地球環境の保全である。わが国は、これらの地球的課題において、中核的な役割を担う立場にある。
 課題の成就には、時限が見えてきている。前者のタイムスケールは、米中対決であり、後者のタイムスケールは、地球温暖化である。
 米中対決は、2020年代半ばから30年代以降に現実的な可能性が高まる。中国は、この10年の間に、南シナ海で人口島の造成と軍事拠点化を進めてきた。また「一帯一路」戦略、AIIBの創設、宇宙兵器の増強等によって、米国の優位を揺るがす動きを続けている。今後、アジア・太平洋地域で米中の覇権をめうる戦いに、わが国は直面することになるだろう。これは、わが国の存立・興亡に関わる事態となる違いない。
 また、地球温暖化は、NASAゴッダード宇宙研究所のハンセン博士は、2007年当時、人類の努力によって地球温暖化を阻止するには、時間はあと10年しかないと警告していた。その10年が過ぎた。10年前、イギリス政府に気候変動が経済に及ぼす影響について報告したスターン博士も、温室効果ガスの削減対策を実行しないと、世界の平均気温が2度Cを超えるのは、2035年と予測した。その後、国際的な取り組みは前進してはいるが、地球環境に最も影響の大きい米中は依然消極的な姿勢であり、根本的な改善には向かっていない。
 これらの米中対決による世界核戦争の危機、地球温暖化による大洪水の危機を乗り越えて初めて、持続可能な人類社会、物心調和・共存共栄の新文明をこの地上に実現できるだろう。

 日本人は、日本精神を取り戻し、日本の再建を進め、世界平和の実現と地球環境保存に最善を尽くすべきである。その努力は、自国を生かし、また人類を善導するための努力となる。またこの努力を怠れば、日本はもとより世界全体が破滅に結果するおそれがある。「最悪の裏に最善あり」といい、また「人事を尽くして天命を待つ」という。日本の亡国、人類の自滅という最悪の可能性のある時代に、人事を尽くすことが求められている。
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