●「ウィーン宣言及び行動計画」の重要性
1993年、第2回世界人権会議がウィーンで開催され、「ウィーン宣言及び行動計画」が採択された。
ウィーン会議において、新国際秩序の創造へ果たす役割に期待のかかっていた国連のブトロス・ブトロス=ガリ事務総長(当時)は、人権は「究極の価値」であり、「われわれは、その価値を通して単一の共同体(コミュニティ)となる」と高らかに演説した。
「ウィーン宣言及び行動計画」は、人権の発達史で、国際人権規約以来のメルクマールとなるものだった。この文書は、人権の普遍性、人権にかかる国家の義務、人権侵害の停止を強調した。そうした文書で、「発展の権利」が人権の一部として重ねて、強く宣言されたのである。
ウィーン宣言は、「Ⅰ 人権問題に関する原則」の第5節に、「すべての人権は、普遍的、不可分、相互に依存し、関連している。国際社会は、同一の立場に基づき、かつ同様に重点を置いて、公平かつ平等な方法で、人権を全世界的に取り扱わねばならない。国、地域の特殊性及び種々の歴史的、文化的及び宗教的背景の重要性は考慮されねばならないが、すべての人権及び基本的自由の促進及び保護は、その政治的、経済的及び文化的制度の如何を問わず、国家の義務である」と記した。
また第28節に、次にように記した。「世界人権会議は、大規模な人権侵害、とりわけ難民及び強制移住者の大量流出を惹起す戦時下の虐殺、『民族純化』及び女性に対する集団強姦に失意を表明する。これら忌むべき行為を強く非難するとともに、その犯罪の加害者が処罰され、このような行為がただちに停止されることを繰り返し訴える」と。
「ウィーン宣言及び行動計画」が、このように人権の普遍性、不可分性、相互依存性、相互関連性を打ち出したことは、人権の思想の展開において重要な出来事である。この打ち出しは、自由権と社会権の一体性を示したものと理解されている。
それまでは、自由権と社会権は別のものであり、まず自由権が発達し、後に社会権が発達したと考えられてきた。欧米では、自由権のみが普遍的・生得的な「人間の権利」であり、社会権を人権とは認めないという考え方が、今も有力である。自由を最高の理念とし、平等への配慮は個人の自由を侵害しない範囲で最小限にとどめるべきという考え方に立てば、社会権の拡大は人権の侵害となる。だが、「ウィーン宣言及び行動計画」は、自由権と社会権の一体性を示すことにより、事実上こうした考え方の誤りを表明した。
自由権と社会権が一体のものであるとすれば、これらは根源的な権利から分化したものと考えられる。根源的な権利からまず自由権が展開し、次に社会権が展開した。さらにその後に、「発展の権利」を含む連帯の権利が展開したということになる。そうした根源的な権利は、権利を個人的なものではなく集団的なものと考えるときにのみ、理論的に成立する。他の集団に対して優位にある集団において、集団の権利から個人の権利が分化し、その後に個人間の権利の調整が行われるようになった。次に、その集団に対し劣位にあった集団が、集団として権利の回復を求めるようになった。それが「発展の権利」である。もとの優位集団はその「発展の権利」を行使し得ていたから、個人の権利の保障・拡大をなし得たのである。ここにおける優位の集団とは、歴史的には欧米諸国であり、劣位の集団とはアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの諸民族である。
人権の発達史における第1段階から第2段階への展開は、主に欧米諸国における階級間での権利の拡大だった。帝国の周辺部からの収奪の上に繁栄する中核部で、支配者集団から労働者や社会的弱者へと権利が拡大していったものである。それが第3段階では、欧米諸国民から非西洋文明の諸国民へと拡大された。第2段階から第3段階への移行は、民族間の拡大であり、中核部から周辺部への拡大である。こうした文明間・地域間・民族間の展開が最も明確な形を取ったのが、「ウィーン宣言及び行動計画」である。
「ウィーン宣言及び行動計画」は、自由権と社会権の一体性を示しただけでなく、国家の義務を定めた。国家の不介入ではなく、積極的な取り組み、しかも義務としての履行を求めている。実は政府のこの役割は、もともと西欧諸国の政府が担ってきたものである。政府が国防や治安維持、司法等を担って集団として持つ権利が確保されているから、その社会で個人の自由と権利の確保・拡大が可能になったのである。もし政府の統治権がしっかり行使されず、国家権力が機能していなかったなら、他国の侵攻・支配を受け、人民の権利は制限または剥奪されてしまう。または、国内の治安が乱れ、人民の権利は保障されなくなる。公権力によって裁判が行われず、処罰が課せられなくなると、暴力が蔓延し、私刑が横行する。政府の統治権がしっかり行使され、国家権力が機能していて初めて個人の権利が享受される。このことは、先に書いたように、集団の権利が個人の権利に先立ち、集団の権利から個人の権利が分化し、個人間そして集団間の権利の変動が起こってきたことと関連している。
国際人権規約から「発展の権利宣言」へ、さらに「ウィーン宣言及び行動計画」という展開は、人権の発達史の第3段階の進行だった。この進行そのものが、近代西欧で発達した人権の思想は、根本的に見直されるべきものであることを示しているのである。
次回に続く。
1993年、第2回世界人権会議がウィーンで開催され、「ウィーン宣言及び行動計画」が採択された。
ウィーン会議において、新国際秩序の創造へ果たす役割に期待のかかっていた国連のブトロス・ブトロス=ガリ事務総長(当時)は、人権は「究極の価値」であり、「われわれは、その価値を通して単一の共同体(コミュニティ)となる」と高らかに演説した。
「ウィーン宣言及び行動計画」は、人権の発達史で、国際人権規約以来のメルクマールとなるものだった。この文書は、人権の普遍性、人権にかかる国家の義務、人権侵害の停止を強調した。そうした文書で、「発展の権利」が人権の一部として重ねて、強く宣言されたのである。
ウィーン宣言は、「Ⅰ 人権問題に関する原則」の第5節に、「すべての人権は、普遍的、不可分、相互に依存し、関連している。国際社会は、同一の立場に基づき、かつ同様に重点を置いて、公平かつ平等な方法で、人権を全世界的に取り扱わねばならない。国、地域の特殊性及び種々の歴史的、文化的及び宗教的背景の重要性は考慮されねばならないが、すべての人権及び基本的自由の促進及び保護は、その政治的、経済的及び文化的制度の如何を問わず、国家の義務である」と記した。
また第28節に、次にように記した。「世界人権会議は、大規模な人権侵害、とりわけ難民及び強制移住者の大量流出を惹起す戦時下の虐殺、『民族純化』及び女性に対する集団強姦に失意を表明する。これら忌むべき行為を強く非難するとともに、その犯罪の加害者が処罰され、このような行為がただちに停止されることを繰り返し訴える」と。
「ウィーン宣言及び行動計画」が、このように人権の普遍性、不可分性、相互依存性、相互関連性を打ち出したことは、人権の思想の展開において重要な出来事である。この打ち出しは、自由権と社会権の一体性を示したものと理解されている。
それまでは、自由権と社会権は別のものであり、まず自由権が発達し、後に社会権が発達したと考えられてきた。欧米では、自由権のみが普遍的・生得的な「人間の権利」であり、社会権を人権とは認めないという考え方が、今も有力である。自由を最高の理念とし、平等への配慮は個人の自由を侵害しない範囲で最小限にとどめるべきという考え方に立てば、社会権の拡大は人権の侵害となる。だが、「ウィーン宣言及び行動計画」は、自由権と社会権の一体性を示すことにより、事実上こうした考え方の誤りを表明した。
自由権と社会権が一体のものであるとすれば、これらは根源的な権利から分化したものと考えられる。根源的な権利からまず自由権が展開し、次に社会権が展開した。さらにその後に、「発展の権利」を含む連帯の権利が展開したということになる。そうした根源的な権利は、権利を個人的なものではなく集団的なものと考えるときにのみ、理論的に成立する。他の集団に対して優位にある集団において、集団の権利から個人の権利が分化し、その後に個人間の権利の調整が行われるようになった。次に、その集団に対し劣位にあった集団が、集団として権利の回復を求めるようになった。それが「発展の権利」である。もとの優位集団はその「発展の権利」を行使し得ていたから、個人の権利の保障・拡大をなし得たのである。ここにおける優位の集団とは、歴史的には欧米諸国であり、劣位の集団とはアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの諸民族である。
人権の発達史における第1段階から第2段階への展開は、主に欧米諸国における階級間での権利の拡大だった。帝国の周辺部からの収奪の上に繁栄する中核部で、支配者集団から労働者や社会的弱者へと権利が拡大していったものである。それが第3段階では、欧米諸国民から非西洋文明の諸国民へと拡大された。第2段階から第3段階への移行は、民族間の拡大であり、中核部から周辺部への拡大である。こうした文明間・地域間・民族間の展開が最も明確な形を取ったのが、「ウィーン宣言及び行動計画」である。
「ウィーン宣言及び行動計画」は、自由権と社会権の一体性を示しただけでなく、国家の義務を定めた。国家の不介入ではなく、積極的な取り組み、しかも義務としての履行を求めている。実は政府のこの役割は、もともと西欧諸国の政府が担ってきたものである。政府が国防や治安維持、司法等を担って集団として持つ権利が確保されているから、その社会で個人の自由と権利の確保・拡大が可能になったのである。もし政府の統治権がしっかり行使されず、国家権力が機能していなかったなら、他国の侵攻・支配を受け、人民の権利は制限または剥奪されてしまう。または、国内の治安が乱れ、人民の権利は保障されなくなる。公権力によって裁判が行われず、処罰が課せられなくなると、暴力が蔓延し、私刑が横行する。政府の統治権がしっかり行使され、国家権力が機能していて初めて個人の権利が享受される。このことは、先に書いたように、集団の権利が個人の権利に先立ち、集団の権利から個人の権利が分化し、個人間そして集団間の権利の変動が起こってきたことと関連している。
国際人権規約から「発展の権利宣言」へ、さらに「ウィーン宣言及び行動計画」という展開は、人権の発達史の第3段階の進行だった。この進行そのものが、近代西欧で発達した人権の思想は、根本的に見直されるべきものであることを示しているのである。
次回に続く。