ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

今年の十大ニュース

2008-12-31 10:32:29 | 時事
 今年も最後の一日となった。いろいろなことがあった一年だった。私にとっては、「100年に1度の大津波」といわれる世界経済危機が最大の出来事。ちょうど「西欧発の文明と人類の歴史」「現代の眺望と人類の課題」を書き続けている最中に生じた出来事だった。この大津波は100年のスパンではとらえられない。少なくとも過去500年を視野に入れて見るべき現象である。
 近代西洋文明が生み出した現代の世界システムは、根本的に転換されるべき段階に入っている。しかし、世界はまだ新たな指導原理を見出していない。とりわけわが国・日本は、灯台下暗し。自らが胚胎している指導原理を見失い、陣痛の中で迷妄の海をさまよっている。
 この危機を乗り越えるには、日本人が日本精神を取り戻し、一致協力するしかない。来年は、日本人が精神的な再生に向かう年としたいものである。積小為大という。小生もささやかながら、努力精進したい。
 以下は、今年の国内・海外十大ニュースのクリップ。

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●産経新聞 平成20年12月31日号

■国内10大ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081231-00000512-san-soci

〔1〕福田首相の問責可決、政権投げだし。後継の麻生首相も支持率低迷

 福田康夫首相への問責決議が6月11日の参院本会議で可決。福田首相は8月1日に内閣改造を断行したものの、反転攻勢のきっかけはつかめず、1カ月後の9月1日、緊急会見を開き辞任を表明。22日の自民党総裁選で麻生太郎氏が4度目の挑戦でようやく首相の座をものにしたが、支持率は低迷を続けた。

〔2〕景気後退入り。米国発金融危機で株価暴落、円は高騰

 金融危機を受け、日本も不況のトンネルに突入した。内閣府は11月17日、国内総生産(GDP)が2四半期連続で減少したと発表、景気後退局面入りを認めた。さらにリーマン・ショックで、日経平均株価は10月28日に一時6000円台にまで暴落。一方で円相場は12月に80円台後半まで上昇、企業活動を圧迫した。

〔3〕日本人学者4人に物理学、化学分野でノーベル賞

 今年のノーベル賞は南部陽一郎、小林誠、益川敏英の3氏が素粒子理論で物理学賞、下村脩氏がオワンクラゲに含まれる発光タンパク質の発見で化学賞に輝いた。日本の受賞者は6年ぶりで、一挙に4人は初の快挙。独創性あふれる先駆的な業績で日本の存在感を示す一方、ユニークな「益川節」も話題になった。

〔4〕中国製冷凍餃子で食中毒。輸入食品への不信高まる

 千葉県市川市で1月、中国製冷凍ギョーザを食べた一家5人が食中毒症状を訴えて入院。具などから有機リン系薬物「メタミドホス」や「ジクロルボス」が検出され、全国で異臭や体調不良の訴えが相次ぐなどパニックとなった。混入経路などは不明のままで、消費者の中国製食品離れにもつながった。

〔5〕後期高齢者医療制度スタート。天引きに苦情殺到

 75歳以上が対象の後期高齢者医療制度が4月からスタートしたが、高齢者から「姥捨て山だ」との批判が続出。年金から保険料を天引きしたことで高齢者の怒りは頂点に達した。麻生政権は制度の抜本見直しを打ち出しているが、舛添要一厚生労働相が独自に私案を発表するなど、政府・与党内の足並みは乱れている。

〔6〕秋葉原、茨城JR駅など「誰でもよかった」殺人多発

 「誰でもよかった」。列島を震撼(しんかん)させる無差別殺人が相次いだ。3月に茨城県土浦市で男が駅にいた8人を殺傷し、2日後には岡山市で少年が駅のホームから男性を突き落として死亡させた。6月に起きた東京・秋葉原の通り魔事件では17人が死傷。殺傷能力の高い刃物の所持が規制されるきっかけともなった。

〔7〕元厚生次官ら連続殺傷事件

 埼玉と東京で11月、元厚生事務次官宅が宅配便業者を装った男に相次いで襲撃され、元次官と妻が死亡、もう1人の元次官も重傷を負った。年金を巡る連続テロともうわさされたが、出頭した男が語った動機は「保健所に殺された愛犬のあだ討ち」。省庁の職員名簿が図書館で閲覧禁止になるなど影響が広がった。

〔8〕北京五輪で北島康介が2大会連続2冠達成。女子ソフトも金

 北京五輪の競泳男子平泳ぎで北島康介(日本コカ・コーラ)が2大会連続の2冠を達成。次回ロンドン五輪で五輪種目から外れるソフトボールでは、日本がエース上野由岐子(ルネサス高崎)の4連投で悲願の金メダルを獲得、悲壮感漂う熱投に日本中が熱狂した。「上野の413球」は流行語大賞特別賞にも選ばれた。

〔9〕ガソリン価格の狂乱続く。暫定税率、衆院再可決で復活

 原油価格高騰に伴って国内のガソリン価格はうなぎ上り。4月にガソリン税などの暫定税率が失効すると、ガソリンスタンドに長蛇の列ができた。8月にはレギュラーガソリンの全国平均店頭価格が1リットル当たり185・1円の史上最高値を更新したが、その後は景気減速や自動車離れによる需要減少で下落を続けた。

〔10〕ウナギ産地、汚染米転売など食品偽装相次ぎ発覚

 食品偽装問題がクローズアップされた。中国産ウナギや飛騨牛で産地や等級の偽装表示が次々と発覚。9月には、大阪市の「三笠フーズ」などが工業用の事故米を食用として販売していたことも判明した。この問題では、ずさんな検査で不正転売を見抜けなかったとして、農水省の幹部25人が処分された。

■海外10大ニュース■
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081230-00000512-san-int

〔1〕【危機】米国発の金融危機。米欧日が戦後初のマイナス成長に。G20初開催

 9月、米証券リーマン・ブラザーズ破綻(はたん)を機に米国発の金融危機が欧州や新興国に波及した。信用収縮で世界の需要は冷え込み、米欧日は来年、戦後初のマイナス成長となる見通し。11月の20カ国・地域(G20)首脳会合(金融サミット)では、国際協調の強化を確認。米国は12月、史上初のゼロ金利政策に踏み切った。

〔2〕【変革】米大統領選で民主党オバマ候補が圧勝。初のアフリカ系

 11月4日投票の米大統領選で、民主党のオバマ候補が、共和党のマケイン上院議員に圧勝。米国の独立以来、黒人として初めて大統領の座を射止めた。「変革」をキャッチフレーズに長い選挙戦を制したが、政権を支える閣僚ポストには超党派のベテランを起用し、手堅い布陣で景気後退などの難局に立ち向かう。

〔3〕【混乱】波乱の北京五輪開催。チベット騒乱に始まり、聖火リレーも混乱

 北京五輪を控え、チベット動乱49周年の3月14日、チベット自治区ラサでチベット人僧侶らが中国の「抑圧」に抗議して大規模暴動が発生、多数の死傷者が出た。欧州では五輪開会式ボイコットの動きが浮上。世界各地で聖火リレーも妨害されるなど混乱したが、中国は8月、五輪を開催、「民族融和」をアピールした。

〔4〕【倒壊】中国・四川省で大地震。死者・行方不明者8万7000人

 5月12日、中国四川省でマグニチュード(M)8・0の大地震が発生。死者6万9200人、行方不明者1万7900人を数える大惨事となった。最大の被害は校舎倒壊による児童・生徒で死者は6500人以上。被害拡大の要因として手抜き工事などが指摘されるが、当局は遺族の抗議の動きを押さえ込んでいる。

〔5〕【譲歩】米が北朝鮮のテロ支援国家指定を解除。拉致は進展なし

 米政府は10月11日、北朝鮮へのテロ支援国家指定解除を発表した。拉致事件で進展がない中で日本側からは慎重論も出たが、核施設の一部を爆破するなどした北朝鮮の要求をのんだ。だが、12月の6カ国協議では核申告の検証方法で決裂。金正日総書記の重病説も流れるなど、北朝鮮情勢の先行きは不透明だ。

〔6〕【高騰】原油価格が高騰。食糧に波及し、貧困国で暴動

 原油価格の国際指標、米国産標準油種(WTI)は年明け早々、1バレル=100ドルを突破。7月には147.27ドルの最高値をつけ、世界経済に大打撃を与えた。さらに自然災害などとともに食料価格高騰の要因となり、貧困国で暴動が発生、ハイチでは首相解任に発展した。その後、油価は金融危機の影響などで急落した。

〔7〕【強硬】グルジア紛争勃発。プーチン院政のロシアに脅威高まる

 8月8日、グルジアからの独立を求めていた親ロシアの南オセチア自治州をめぐり、ロシアとグルジアが交戦状態に突入した。グルジアの親欧米路線に歯止めをかけるのがロシア側の思惑。ロシアでは前大統領のプーチン首相が実権を握り続けており、武力行使も辞さない対外強硬路線に諸外国の懸念が高まっている。

〔8〕【不信】中国で粉ミルクのメラミン汚染。海外にも波及

 中国の大手乳製品メーカー産の粉ミルクに有害物質のメラミンが混入されたことが9月に報道され、それを飲んだ乳幼児が腎臓結石で入院していることが各地で次々と判明、中国製乳製品に対する不信が海外にも広がった。中国衛生省が12月に発表したまとめによると、計29万人が治療を受け、11人が死亡した。

〔9〕【緊張】インド・ムンバイで同時テロ。邦人を含む約160人死亡

 インド西部のムンバイで11月26日、武装集団がタージマハルホテルや病院などを襲う同時テロが発生。制圧されるまでの60時間で、三井丸紅液化ガスの津田尚志さん(38)を含む民間人と治安部隊の計163人が死亡。パキスタンに拠点を持つイスラム過激派ラシュカレトイバの犯行とされ、印パ間に緊張が走った。

〔10〕【人災】ミャンマーでサイクロン被害。軍政、人道支援を後回し

 大型サイクロンが5月、ミャンマーを直撃し、死者・行方不明者約14万人を出す被害をもたらした。軍事政権は国際社会に支援金を求める一方で、人権弾圧批判を強める欧米諸国からの支援要員受け入れを拒否。災害の傷跡が残る中、軍の権力維持を図る新憲法制定へ向けた国民投票を強行し、批判を浴びた。

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現代の眺望と人類の課題90

2008-12-29 09:36:31 | 歴史
●レーガンに対するCFRとロックフェラーの影響力

 1979年(昭和54年)に、ネルソン・ロックフェラーが死亡した。ロックフェラー一族で最も深く政権中枢に陣取っていた人物がこの世を去った。翌1980年(55年)の大統領選挙では、現職大統領のカーターが共和党のロナルド・レーガンに敗れた。カーターの協調路線とは打って変わり、反共タカ派の大統領が誕生した。
 レーガンは、CFRの会員ではなかった。しかし、政権にはやはりCFRの会員が多く参入した。カーター政権では284名だったが、レーガン政権も257名ものCFRの会員がスタッフになった。これらの両政権は、民主党の最も協調的な路線から共和党の最も強硬路線へと路線が大転換したように見えるが、ともにCFRの会員が政権に多数入っていることでは、一貫しているのである。政権には、TCの会員、またCFRとTCの両方のメンバーである者も含まれていた。
 主要閣僚には、CFRの会員が多く就いた。国務長官は、最初はアレクサンダー・ヘイグ、後にはTCのメンバーでもあるジョージ・プラット・シュルツ。国防長官は、最初は同じくTCのメンバーでもあるキャスパー・ワインバーガー、後にはフランク・カールッチ。二代目の財務長官ジェームズ・ベイカー、CIA長官ウィリアム・J・ケーシー、商務長官マルコム・ボールドリッジ、労働長官ウイリアム・ブロック、FRB議長アラン・グリーンスパンらが、やはりCFRの会員だった。政権途中で中華人民共和国駐在大使に任命したのは、CFR理事長のウィンストン・ロードだった。ロードは、キッシンジャーの元側近だった。

 大統領の後ろ盾にロックフェラー家がついていることも、変わらなかった。実は、ロックフェラー家は、大統領選挙の予備選挙の段階では、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(ブッシュ父)を擁立しようとした。一族は法で許される限りの最大の寄付をブッシュに行っていた。しかし、レーガンが優勢になると、ブッシュからレーガンに乗り換えた。
 1980年(55年)11月の大統領選挙の2ヶ月前、ヴァージニア州ミドルスバーグで、レーガンのためにパーティが開かれた。レーガンの右隣には、デヴィッド・ロックフェラーが立っていた。デヴィッド自身は民主党支持で知られるが、巨額の選挙資金をレーガンに提供した。これに応えて、レーガンは、ブッシュ父を副大統領候補に指名した。デヴィッドは、自分の意を体した政治家であるブッシュ父を副大統領候補につけることで、レーガンを管理・誘導しようと考えたのだろう。

●軍拡競争でソ連を崩壊に導く

 大統領になったレーガンは、ソ連を「悪の帝国」と呼び、共産主義との対決路線を打ち出した。とりわけ戦略防衛構想(SDI)の構想を発表したことによって、ソ連を軍拡競争に引き込み、ソ連を経済的に窮地に追い込んだ。
 レーガンは、国内経済の建て直しと軍備増強という課題を掲げ、大幅な減税と国防費の増額という相反する政策を同時に実行した。その結果、財政は悪化し、巨額の財政赤字と貿易赤字を抱えることになった。レーガンはこの「双子の赤字」を乗り越えるべく、レーガノミックスと呼ばれる自由主義経済政策を実行した。それにより失業率が低下し、景気は一時回復した。しかし、ドルの価値は低下を続け、1985年(昭和60年)に日欧とプラザ合意を結び、円高ドル安に誘導した。ドル安によって輸出は増大し貿易収支は改善したが、国内経済は再び悪化し、財政赤字は膨らんだ。
 ところが、アメリカ以上の財政赤字を抱えていたソ連の方が、多大な軍事費支出に耐え切れなくなり、経済危機に陥った。ソ連共産党の書記長にミハエル・ゴルバチョフが就くと、ペレストロイカと呼ばれる民主化政策が断行され、民主化の波が東欧諸国にも広がった。そして、ソ連・東欧の共産主義体制は、次々に崩壊した。
 レーガンは、85年から88年(60~63年)にかけてゴルバチョフと4度にわたる首脳会談を行った。この間、両国首脳は87年(62年)には、中距離核戦力全廃条約(INF条約)に調印した。こうしたレーガン政権の展開を受けて、レーガンの後継者ブッシュ父は、89年(平成元年)12月マルタ島でゴルバチョフと会談し、冷戦は終結した。

※連載は年内はここまでとし、1月5日から再開の予定です。
 よいお年をお迎えください。


現代の眺望と人類の課題89

2008-12-27 09:37:32 | 歴史
●デヴィッド・ロックフェラーの庇護でカーターが大統領に

 フォードは、ウォーターゲイト事件でニクソンに大統領特赦を与え、事件の幕引きを行った。国民の不評を買ったフォードは、1976年(昭和51年)の大統領選で、民主党のジミー・カーターに敗れた。
 カーターは、ジョージア州知事をしていた。ジョージア州は、ロックフェラー一族の根拠地の一つである。カーターは、ロックフェラー家の庇護を受けており、国際的には無名に近かったカーターを大統領に押し上げたのは、デヴィッド・ロックフェラーだった。
 1973年(昭和48年)、州知事時代のカーターは、デヴィッド・ロックフェラーと、ニューヨーク州タリータウンの彼の邸宅で夕食を共にした。そこでカーターは、ブレジンスキーを紹介された。デヴィッドは、ビルダーバーグ・クラブで日本を取り込みことを提案したが拒否され、新たな国際組織として日米欧三極委員会(TC)を立ち上げようとしていた。ブレジンスキーは、デヴィッドを助けてこの組織の有望候補者を選考しているところだった。

 カーターに会ったブレジンスキーは、「カーターが、ブリュッセルと東京にジョージア州のため取引事務所を開いていたことに感銘を受けた。それは日米欧三極協力概念にぴったり当てはまるように思えた」と語っている。
 ブリュッセルはベルギーの首都であると同時に、北大西洋条約機構(NATO)と欧州委員会の本部が置かれている欧州有数の政治都市である。ブレジンスキーは、南部の農業中心の州にありながら、アジアの東京、欧州のブリュッセルに海外事務所を置いているカーターの目の付け所に、感心した。カーターはTCの創立メンバーとなるとともに、デヴィッドの強力な後押しを受けた。3年後の76年の大統領選挙に出馬すると、瞬く間に民主党の候補として指名を獲得した。
 ロックフェラー一族に批判的なバリー・ゴールドウォーター上院議員は、「ロックフェラーとブレジンスキーは、カーターが彼らの理想的な候補者だと知った。彼らはカーターが指名を獲得し大統領に当選するのを助けた」と述べている。そして、カーターを大統領にする「銀行家たちの金力、学会の知的影響力、CFRとTCのメンバーに選ばれている報道機関関係支配者たちを動員した」とゴールドウォーターは言う。
 「ワシントンポスト」1976年5月8日号によると、カーターは、ロンドンで二人の人物と面会し、大統領当選へのゴーサインを受け取った。その二人とは、ジェイコブ・ロスチャイルド卿とデヴィッド・ロックフェラーだった。ジェイコブは、イギリス・ロスチャイルド家の当主である。デヴィッドがロスチャイルド家にカーターを紹介し、これら欧米の両財閥の了解のもと、カーターはホワイトハウスへの道を進んだのだろう。

 カーターは、外交に関しては経験不足だった。彼を大統領にすべく国際政治を教えたのは、ブレジンスキーだった。カーターが大統領になると、ブレジンスキーは外交・安保政策担当の補佐官となり、自ら政権に参加した。ブレジンスキーとデヴィッド・ロックフェラーの関係は、キッシンジャーとネルソン・ロックフェラーの関係と対照的である。

●CFR・TC会員で固めた実質的なロックフェラー政権

 カーターはCFRの会員であり、TCの会員だった。カーターは、CFRから70名以上、TCから20名以上のメンバーを政権スタッフに起用した。
 CFRとTCの双方の会員だったのは、ブレジンスキーを始め、副大統領ウォルター・モンデール、国務長官サイラス・ヴァンス、国防長官ハロルド・ブラウン、FRB議長ポール・ヴォルカーらであり、国務副長官、国務次官、国務次官補、財務次官、エネルギー副長官、大統領特別補佐官等もそうだった。財務長官マイケル・ブルーメンソール、CIA長官スタンズフィールド・ターナー等はCFRのみの会員だった。
 ロックフェラー家との関係では、国務長官のヴァンスは就任以前、ロックフェラー財団の理事長を務めていた。ケネディ政権のディーン・ラスクもそうだが、ロックフェラー家の金庫番だった人間が政権に入ると、国家を代表する外務大臣に就くというのが、アメリカという国家である。その上、デヴィッド・ロックフェラーは、CFRの議長で、TCの議長でもあるから、カーター政権は、カーターを冠にし、CFR・TCの会員で固めた実質的なロックフェラー政権と見ることが出来よう。

 カーター政権は、現実主義的なキッシンジャー外交からの転換を図り、アメリカ的価値観を掲げた人権外交を打ち出した。キャンプデーヴィッド合意を仲介して、エジプト・イスライェール間の和平交渉を成功させたのは、歴史に残る功績である。しかし、その反面、イランの首都テヘランでアメリカ大使館を占拠され、2度の救出作戦に失敗し、国民の批判を浴びた。カーター政権の時代、1979年(昭和54年)にソ連がアフガニスタンに侵攻した。このソ連のアフガン侵攻を画策したのが、ブレジンスキーだった。ソ連にアフガンを攻めさせて、泥沼化する。彼の狙い通りアフガニスタンは、ソ連にとってのベトナムとなった。この間、CIAは、アフガンの反ソ連ゲリラを育成・支援した。私は、ブレジンスキーは学者としてだけでなく、参謀として天才的な資質を持つと見ている。
 ブレジンスキーについては先に書いたが、カーター政権以降のことをここで補足しておきたい。国家安全保障担当補佐官となったブレジンスキーは、民主党内では最も強硬派である。イランのアメリカ大使館人質事件の対応をめぐって、ヴァンス国務長官と対立し、ヴァンスは80年(55年)に辞任した。後任の国務長官には、ブレジンスキーが同じポーランド出身のエドマンド・マスキーを取り立てた。
 ブレジンスキーは、祖国ポーランドの独立自主管理労働組合「連帯」を積極的に支持した。ソ連・東欧諸国の共産政権の瓦解は、ポーランドに始まった。ブレジンスキーは、ポーランド出身のローマ法王ヨハネ・パウロ2世と密接に連絡を取っていた。ポーランドの民主化は、カトリック教会の宗教的な力と、西側諸国の経済的な力があいまって成し遂げられた。そのため、ブレジンスキーは、東欧民主化の黒幕といわれる。
 ブレジンスキーは、地政学を国際戦略の理論的支柱にしている。ユーラシア大陸の大陸国家(ランドパワー)を強大化させないよう、ソ連を崩壊に導き、ソ連崩壊後は旧ソ連諸国の民主化を画策して、アメリカの覇権の維持・拡大を進めている。
 ブレジンスキーは、ネオコンの元祖のように見られているが、9・11以後、彼は、アフガニスタン、イラクに侵攻したブッシュ政権を厳しく批判している。視野狭窄で武力偏重のネオコンと違い、ブレジンスキーは長期的な展望のもとに、グローバル時代のアメリカの覇権維持と、アメリカを基盤とした世界政府の樹立を志向している。次期大統領バラク・オバマの最高顧問であるといわれ、オバマ政権の外交に指導力を発揮するものと思われる。

 次回に続く。

現代の眺望と人類の課題88

2008-12-26 12:18:23 | 歴史
●TC設立後の日本の再従属化

 ゲイリー・アレンは、三極委員会(TC)について、「日本をアジア太平洋連合の一員として中国近代化のために使おうとしている彼らは、渡辺武アジア開発銀行元総裁を当初の日本側委員長にした。その他の日本側委員としては、宮沢喜一、大来佐武郎、牛場信彦、佐伯喜一、土光敏夫、藤野忠次郎、永野重雄、岩佐凱美、盛田昭夫らがおり、このうち何人かは日米賢人会議のメンバーを兼ねている」という。
 そして、アレンは、TCの「日本側委員の中には一人もビルダーバーガーはいない。このことは日本人がCFRやTCの背後にある超国家的な秘密組織から完全に締め出され、知らない間に彼らの道具にとして使われていることを意味している」と述べている。
 TCの日本側委員を見ると、TC設立当時、宮沢・大来は元外相、牛場は元駐米大使、佐伯は野村総研会長、土光は経団連前会長、藤野は三菱商事前会長、永野は日本商工会議所前会頭、岩佐は富士銀行前頭取、盛田はソニー会長だった。
 このうち私が最も注目するのは、宮沢喜一である。宮沢はTCメンバーの中で最も大物であり、日本側の委員長も務めた。TC設立後、翌1974年(昭和49年)外相、77年経企庁長官、80年官房長官、86年蔵相、87年副総理兼蔵相を歴任し、91年(平成3年)に首相となり、93年(5年)にかけて日本のトップの座にあった。首相退任後も98年(10年)小渕内閣で蔵相。2000年(12年)森内閣でも蔵相/財務相を務めた。首相になっただけでなく、これだけ繰り返し、経済担当大臣を務めた政治家は、稀である。
 宮沢が活躍した時代、TCが設立されて以後の日米関係は、一層アメリカ主導になったと思う。1985年(昭和60年)のプラザ合意、89年(平成元年)ブッシュ父大統領の提案による日米構造協議に続き、93年(5年)宮沢首相・クリントン大統領間で日米包括経済協議が開始された。宮沢喜一とビル・クリントンは、ともにTCのメンバーだった。私はこの首脳会談は、TCの日本への影響を象徴していると思う。
 宮沢・クリントン会談の翌年、94年(6年)から、アメリカによる年次改革要望書が毎年提出されるようになった。2000年(平成12年)日本長期信用銀行の外資への売却、02年(14年)事実上の日本破産処理案である「ネバダ・レポート」の発表、07年(19年)小泉政権下の郵政民営化の実現等、畳み込むように、アメリカは対日外交を進めてきた。
 この過程は、日本のアメリカへの再従属化である。私は、アメリカによる日本再従属化は、単に政府間の外交によって進められたのではなく、双方の政府に影響を与える民間組織があればこそ、強力に推進されてきたものと思う。私は、そこにCFRとTCが存在し、大きな推進力を発揮してきたのではないかと思っている。
   
●CFR、BC、TCに参加する国際的な権力者たち

 私見では、イギリスの王立国際問題研究所(RIIA)は、20世紀初頭に持っていた力が弱まり、今日では外交問題評議会(CFR)、ビルダーバーグ・クラブ(BC)、三極委員会(TC)の影響力が勝っていると思う。イギリス女王を頂点とした円卓会議を上回る国際組織が存在するという説もあるが、そうした何かが存在するにせよ、しないにせよ、CFR、BC、TCの三つの組織を主催またはそこに参加している所有者及び経営者の集団が、今日の世界で実質的に国際的な権力を発揮していると考えられる。
 これら三つの組織のすべてに関わっているのは、アメリカの支配集団であり、西欧の支配集団はビルダーバーグ・クラブとTC、日本の支配集団はTCにのみ参加している。わが国は、米欧主導の世界で、相対的に低い地位にある。
 現在の世界で、CFR、BC、TCという三つの輪のどれかに所属している者か、または所属していた者は、4千人以上になる。その逆に、過去から現在までを通しても、三つすべてに参加する者は、少ない。三つの輪が重なり合った領域にいるのは、デヴィッド・ロックフェラー、ヘンリー・キッシンジャー、ズビグニュー・ブレジンスキー、そしてサイラス・ヴァンス(カーター政権の国務長官)、マックジョージ・バンディ(ケネディ・ジョンソン両大統領特別顧問、フォード財団理事長)、トーマス・ヒューズ(カーネギー財団理事長)らである。彼らのうちの最高実力者はデヴィッド・ロックフェラーである。彼を支えてきた頭脳としてのキッシンジャーとブレジンスキーの存在は、私には際立って見える。
 デヴィッド・ロックフェラーは、1915年(大正4年)生まれ。今年93歳である。ロックフェラー一族の中心は、彼の甥であるジョン・デイヴィソン "ジェイ" ロックフェラー4世の世代に移りつつある。

 ところで、本年(2008年、平成20年)5月10日の産経新聞は、「日米欧の『三極委員会』に中印が参加へ」と題した記事を掲載した。それによると、三極委員会は、早ければ来年(2009年、21年)の東京会合から、中国、インドの参加を認める方針を決めたという。
 「同委員会が中印両国に門戸を開くかどうかは、ここ数年懸案だった。関係者によると、冷戦終結後の国際情勢の変化の中で、両国が参加しないままでの会合は意味がなくなりつつあるといった議論や、同委を解散すべきだといった意見も出ていた。4月末に米ワシントンで行われた今年度の会合で、両国を加えて継続することを最終的に決めた」と記事は報じている。
 三極委員会は、日米欧の三極を結ぶ組織としてスタートしたが、日本だけでなくアジアの国々も参加するようになっていた。そこに本格的に中国・インドを加えるということは、21世紀に日米欧に匹敵するほどの大国となると予測されているこれら2国を取り込んで、多極化する世界でバランスを取りながら、米欧の繁栄を出来るだけ有利に維持していこうという狙いだろう。
 三極委員会を牛耳ってきたデヴィッド・ロックフェラーは、年齢的に数年のうちに退場するだろう。その後、誰がデヴィッドのやってきたような指導性を発揮するのか。J・D "ジェイ" ロックフェラー4世が引き継ぐのか、それとも巨大国際金融資本家集団のうちの誰かが引き継ぐのか。注目されるところである。

 次回に続く。

現代の眺望と人類の課題87

2008-12-25 09:30:21 | 歴史
●日本を取り込み、利用する意図か

 ブレジンスキーによる日米欧先進国共同体の創設という構想は、デヴィッド・ロックフェラーによって、日米欧三極委員会の設立に生かされた。米欧だけでなく、経済大国となった日本を取り込んで、先進国の共同作業で世界的な課題に取り組む組織として、TCは発足した。しかし、これは日本を対等な立場にある国家として処遇するということではない。
 わが国は、戦後、軍事的にアメリカに依存しながら経済発展をした。その日本の経済力は、アメリカの国家にとっても、資本にとっても目障りになってきたのだろう。日本は、安全保障だけでなく、食糧やエネルギー、各種資源もアメリカに依存している。TCの設立は、こうした日本を改めて金融・情報においてもアメリカに依存させ、日本を再度アメリカに従属化させることを狙いとしたものだろう。この日本の再従米化を推進する際のポイントは、日本の国家指導者の中に、アメリカ追随的な人間を増やし、そうした人間で政治・経済・社会の中枢を固めることにあっただろう、と私は考える。

 ゲイリー・アレンは、「ザ・ロックフェラー・ファイル」(1976年、邦題「ロックフェラー帝国の陰謀」自由国民社)に次のように書いている。
 「そもそもデヴィッド・ロックフェラーが日米欧三極委員会を作ったのは、日本の政財界、官界、アカデミズムの実力者を彼らの代理人として仕立て上げ、これらの人々の個人的な影響力をフルに生かして、日本の軌道修正を図ることであった。
 彼らは、日本をアジア太平洋連合におけるアメリカの良きパートナーとしておだて上げる一方で、対ソ包囲網の一環を強化するという口実で、共産中国の基盤強化に日本を駆り立て、将来の大合併に至る道を日本が絶対に踏み外さないよう監視しているのである。もし日本が彼らの警告を無視したり、彼らとは異なった世界政策を展開するなら、彼らはただちに日本の食糧やエネルギー、その他の資源供給をストップし、彼らの支配下にあるマスメディアを総動員して日本人を大混乱に陥れるだろう」と。
 ここにおける「将来の大合併」とは、世界政府の樹立を意味する。アレンは、TCは世界政府の樹立に向けて設立された組織と認識している。またアレンは、アメリカが共産中国を従米的に発展させるために日本を利用し、同時に日本を自立させないようにしていると見ている。

 TCの第1回会合は、1973年(昭和48年)10月東京で開催された。74年(49年)、TCは、組織の目的を織り込んだ六つの共同声明を発表した。ゲイリー・アレンは、この公文書を注意深く読むと、「世界の億万長者が我々に否応なく承認を求めている『四つの目標』を見出すことができる」と述べている。
 第一は、世界的なクレジット決済システムを整えること。第二は、「持たざる国」に対して「持てる国」がもっと経済技術援助をすること。第三は、共産圏との貿易をさらに積極的に推し進めること。第四は、石油危機や食糧危機を回避するため、より大きな国際機関の提言を受け入れること、だと分析する。そして、アレンは「読者は、これらの目標が『四つの近代化』をめざす共産中国の基盤強化を図り、エネルギーや食糧、金融その他の指標に対する彼らの支配を強化するために提出されたものであることがわかるだろう」と書いている。

 私は、1976年(昭和51年)という時点で、アメリカにこうした洞察力を持った論者がいたことに、日本人はもっと注目すべきだと思う。先に引いたアントニー・サットン、ジェームズ・パーロフ、エドワード・グリフィンらもそうであるが、情報の収集・分析、洞察・予測に優れた能力を発揮する人物は、学界やマスメディアの領域にばかりいるとは限らない。むしろ既成の価値観や商業主義を超えてこそ、社会の深層や時代の将来が見える視点が存在するのである。

 次回に続く。


現代の眺望と人類の課題86

2008-12-23 08:46:26 | 歴史
●三極委員会の理論的支柱ブレジンスキー

 デヴィッド・ロックフェラーがTCを設立する際、構想を具体化し、設立を補助したのが、国際政治学者のズビグニュー・ブレジンスキーである。
 ブレジンスキーは、政治学者としてもまた政治家としてもキッシンジャーと並び称されることが多い。もちろんCFRの会員である。カーター政権で国家安全保障担当大統領補佐官を務めた。21世紀の地球で超大国アメリカの覇権を維持し、アメリカ主導で世界秩序を構築する戦略を打ち出している屈指の戦略家である、と私は認識している。次期大統領であるバラク・オバマの外交問題顧問としてオバマに助言している。
 1928年(大正3年)ポーランド生まれのブレジンスキーは、外交官だった父親の関係で、幼少期をドイツのベルリンで過ごし、ナチスの台頭を目撃した。同じく1936~7年(昭和11~12年)にはソ連のモスクワでスターリンの恐怖政治を見聞した。カナダに在住していた39年(14年)、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、一家は祖国に戻れなくなった。戦後のポーランドは共産化されたため、帰国はかなわなかった。 
 こうした出身と経験をもとに、ブレジンスキーはハーバード大学で共産圏の政治・外交の研究をした。キッシンジャーやサミュエル・ハンチントンと同窓である。コロンビア大学の教授となったブレジンスキーは、ソ連・東欧の政治や歴史、アメリカのヨーロッパでの役割等について著書を発表し、確固たる評価を獲得した。70年(45年)には「テクネトロニック・エージ――21世紀の国際政治」(読売新聞社)、72年(47年)には「ひよわな花・日本――日本大国論批判」(サイマル出版会)を出版して、わが国でも注目を浴びた。
 73年(48年)にデヴィッド・ロックフェラーが日米欧三極委員会(TC)を設立した際、ブレジンスキーは、専門のソ連・東欧だけでなく、西欧・日本も含むまさに世界的な視野をもった戦略家として、デヴィッドに助力した。
 
●「最優先すべき中心的な政策課題」と提言

 ブレジンスキーは、1970年(昭和45年)にCFRの機関誌「フォーリン・アフェアーズ」に、次のように書いていた。
 「新しい広範な方策が必要であるーーたとえば人類が当面しているより大きな問題に効果的に取り組み得る先進国共同体の創設である。合衆国、西欧に加えて日本も含まねばならない。(略)何らかの小規模な常設機関とともに、各国政府首脳の定期的会合を織り込んだ合衆国、西欧、日本からなる委員会のようなもので出発するのがよいだろう」と。
 このブレジンスキーの「先進国共同体」という発想が、デヴィッドの欧米に日本を取り組む日米欧三極委員会の設立に生かされている。
 TC設立の時は、デヴィッドが議長、ブレジンスキーが北米支部委員長となった。ブレジンスキーは事務局長も務めた。ブレジンスキーの後は、キッシンジャーが継いだ。キシシンジャーの後は、ピーターソン国際経済研究所長のフレッド・バーグステン、カーター及びレーガン政権のFRB議長だったポール・ヴォルカーが事務局長を務めている。
 TCが設置されて間もない1973年(48年)7月号の「フォーリン・アフェアーズ」に、ブレジンスキーは寄稿をし、次のように書いた。
 「私は、世界が一つの共通のイデオロギー、一つの超政府を自発的に受け入れるとは考えていない。従って、この目標を実現するための唯一可能な実際的方法は、世界が生き残れるかどうかという共通の関心を掻き立て、世界にその解決策を受け入れさせることである。(略)大西洋共同体構想はたしかに冷戦時代の諸問題に対する創造的な答えであった。しかし、今日の状況下においてその枠組みは余りにも狭いものとなり、国際共同体の前に立ちはだかる数多くの挑戦を受け止め、その好機を生かすには不十分である。そこで私はかかる現実をすなおに認め、日本とアメリカ、ECの共同作業をさらに活発に進めることこそ、アメリカが現時点で最優先させなければならない中心的な政策課題であると提言したい」と。
 ここに言う「大西洋共同体構想」とは、RIIA、CFRが目指してきたものであり、ビルダーバーグ・クラブが固執しているものでもある。ブレジンスキーは、その構想では、余りにも枠組みが狭くなり、不十分だという。そして、日米欧の共同作業をさらに活発に進めることこそ、「アメリカが現時点で最優先させなければならない中心的な政策課題」だと提言する。これを具現化したものこそ、日米欧三極委員会に他ならない。

 次回に続く。

現代の眺望と人類の課題85

2008-12-22 12:58:16 | 歴史
●日米欧を結ぶ三極委員会の設立

 ここでCFRとアメリカ歴代政権の話から離れて、日米欧三極委員会(TC:Trilateral Commission)について述べたい。TCは、1973年(昭和48年)ニクソン政権の時代に設立された。RIIA、CFR、ビルダーバーグ・クラブとともに、現代の国際社会で強い影響力を持つ国際組織である。とりわけわが国にとっては、重要である。

 TCは、日本・北米・ヨーロッパなどからの参加者が会談する私的組織であり、民間における非営利の政策協議グループである。目的は、先進国共通の国内・国際問題等について共同研究及び討議を行い、政府及び民間の指導者に政策提言を行うことである。当初は日本名を「日米欧三極委員会」と称したが、現在は「三極委員会」という。設立時点は、欧米以外からは日本のみが参加したが、現在はわが国以外のアジア諸国も参加しており、単に「三極委員会」と訳すことになったものである。
 TCは、アジア・太平洋、北米、ヨーロッパに設けられた三つの委員会によって、総会が運営される。参加国は委員会の規定では「先進工業民主主義国」とされている。経済問題が協議の中心を占めている。

 TCはニクソン政権時代の1973年、北米、西欧、日本の実業界、金融界、政界の指導者たちで構成された。
 TCの提唱者は、デヴィッド・ロックフェラーである。政治家の道を歩んだネルソンとは対照的にデヴィッド・ロックフェラーは、銀行家の道を歩み、チェース・マンハッタン銀行(当時)の会長となった。この銀行は、1955年(昭和30年)ロックフェラー系のチェース銀行と、クーン・ローブ商会のマンハッタン銀行が合併したものである。1970年代から80年代にかけてはデヴィッドが会長を務めた。その後、2000年(平成12年)にJPモルガン銀行と合併し、現在はJPモルガン・チェース銀行となっている。
 デヴィッドは70~80年代、チェース・マンハッタン銀行の会長として、CFRやビルダーバーグ・クラブで影響力を振るい、またTCを設立して、世界的に活躍した。
 デヴィッドはTC創設時の議長になった。創設に助力したブレジンスキーが北米支部の創立時委員長を務めた。北米支部のメンバーの大半はCFRメンバーでもあった。

●グローバリスト、デヴィッド・ロックフェラーの時代へ

 デヴィッドは、代表的なグローバリストである。すなわち、世界資本主義的な地球統一主義者である。巨大国際金融資本家の立場から、国連・IMF・世界銀行等の国際機関を高く評価しており、これらを資金的・人材的に支援してきた。また彼は1970年(昭和45年)からCFRの議長の座にあり、またビルダーバーグ・クラブは創立時からの常連である。
 1970年代に入り、国際社会で日本が台頭し、欧米だけでは世界を牛耳っていけない情勢になった。そこで、デヴィッドは、アメリカが主導してアジアを取り込み、先進国の共同体を作って世界の支配体制を維持・拡大しようと考えた。そして、ビルダーバーグ・クラブに、経済成長を遂げた日本も加えたらどうかと提案した。しかし、欧州側の一部メンバーから猛反発を受けた。それならば、と独自に設立したのが、TCである。

 当時、デヴィッド・ロックフェラーは、CFRの議長の座にあった。アメリカではCFRへの批判が高まった。それをかわしながらグローバリズムを推進するため、デヴィッドは、自ら新たな国際機関を設立した。それがTCである。欧米志向の排他クラブ的な組織であるビルダーバーグ・クラブに対して、日本を含むのが、TCの特徴である。TCは、欧米の連携だけでなく、日本さらにアジアを取り込み、アメリカ主導で新たな世界秩序を形成しようとするデヴィッドの構想の産物である。
 バリー・ゴールドウォーター上院議員は、著書“With No Apologies”のなかで、TCを「デヴィッド・ロックフェラーの最新の国際密謀団」と呼び、「それは合衆国の政治体制を牛耳ることで、商業及び銀行業一族の多国籍合同の手段にしようとする意図である」と言った。
 次にTCの主なメンバーを挙げておきたい。デヴィッド・ロックフェラー、ブレジンスキー以外には、エドモン・ド・ロスチャイルド、ヒース(英国元首相)、バー(フランス元首相)、キッシンジャー、カーター、ヴァンス、シュルツ、ブラウン等、米欧の有力政治家・銀行家・企業家・マスコミ人が並ぶ。国際政治学者のサミュエル・ハンチントンもTCのメンバーであり、文書編集者を務めた。日本側のメンバーについては、後に触れることにする。

 次回に続く。


天皇陛下御即位20年奉祝中央式典の報告

2008-12-21 08:46:11 | 皇室
 去る12月19日、天皇陛下御即位20年奉祝中央式典が開催された。場所は、東京・水道橋にある東京ドームシティ・JCBホール。麻生首相をはじめとする国会議員149名、100カ国の大使等代表者、各界各層また北は北海道、南は沖縄から約4千名が参加し、盛大に行われた。
 私は開会の1時間以上前に着いたのだが、既に会場には多数の人が詰めかけており、ようやく席を得たのは最上階の一番舞台寄りの一角だった。場内に入れない1500名ほどの人は、第2会場に案内され、大型スクリーンを見ながら式典に参加したと聞く。

 この度の奉祝中央式典は、来年1月7日に今上陛下が御即位20年を迎えられるにあたり、奉祝の機運を盛り上げようと開催された。主催は、天皇陛下御即位20年奉祝委員会、天皇陛下御即位20年奉祝国会議員連盟である。
 今上陛下は御即位以来、全国47都道府県をくまなく御訪問になり、地震などの被災者へのご激励、障害者や高齢者への福祉や医療のご支援、先の大戦での戦歿者への追悼などに心を砕かれ、世界に対しては日本の素晴らしさを発信してこられた。
 来年11月12日には、政府主催で記念式典を行う。それまでの日々、多くの国民がわが国に伝わる皇室の伝統を深く理解し、皇室に象徴される日本の国柄の素晴らしさに目覚め、国民こぞって記念式典を挙行すべく、啓発運動を津々浦々に広げていきたいと思う。
 以下、中央式典の次第と印象に残った話を掲載する。

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第1部 奉祝式典

司会 平野啓子 元NHKアナウンサー、語り部・かたりすと
一、開会の挨拶
・奉祝国会議員連盟実行委員長 平沼赳夫(元通産相)
一、主催者式辞
・奉祝国会議員連盟会長 森喜朗(元首相)
・奉祝委員会会長 岡村正(日本商工会議所会頭)
一、政府代表祝辞
・内閣総理大臣 麻生太郎
一、各界からの祝辞
・日本経済団体連合会会長 御手洗富士夫
・全国知事会会長 麻生渡(福岡県知事)
・日本身体障害者団体連合会会長 小川栄一
・沖縄県遺族連合会名誉会長 座嘉味和則
・元宮内庁式部官長 苅田吉夫
・北京オリンピック日本代表選手 上野由岐子(ソフトボール)、伊調馨(レスリング)、松永共広(レスリング)
一、聖寿万歳
・日本会議会長 三好達(元最高裁判所長官)
一、閉会

第2部 祝賀公演

一、語り舞台「日本神話への誘い」
・女優 浅野温子 

一、歌唱「旅立ちの日に」「御即位奉祝歌~平成の御代をたたえん」
・テノール歌手 秋川雅史
―――――――――――――――――――――――――――――――

■挨拶・式辞・祝辞より

(※印象に残った話を、会場で取ったメモによる大意で掲載。文責はほそかわ)

●奉祝国会議員連盟実行委員長 平沼赳夫(元通産相)
 「天皇陛下は御即位20年の間に、180回の地方ご巡幸、全国47都道府県、514市町村をご訪問された。全国47都道府県を巡られたのは、歴代天皇で初めて。平成7年阪神淡路大震災、平成16年新潟県中越地震等の災害に御心を砕かれ、国民を励ましてくださった。平成17年には広島・長崎・沖縄のご巡幸を実現された。また240万人の外地で亡くなられた人々を慰霊するため、サイパン等を行幸啓された。皇太子時代を含め、48カ国を公式訪問され、わが国の国際親善に尽くされた。平成という混迷の時代において、わが国をお支え下さっているのは、天皇陛下の御存在であることは言うまでもない。奉祝国会議員連盟は、民間の奉祝運動と手を携えて、奉祝の気運を盛り上げたい」

●内閣総理大臣 麻生太郎
 「今上陛下は来年1月7日、御即位20年をお迎えになる。まことに慶賀にたえない。政府は、来年11月12日に記念式典を開催することを決定した。「内平らかに、外成る」の思いで平成の御代は始まった。この20年間は、内外激動の20年間だった。自然災害、テロ、国際紛争が頻発する中、陛下は常に世界平和を祈念されてこられた。そのご心労はいかばかりかと拝察する。被災地のお見舞いをされ、人々の幸を願われる天皇皇后両陛下のお姿、お言葉、笑顔にどんなに励まされたことか。日本国と日本国民統合の象徴である天皇陛下の御即位20年を国民とともに、御奉祝申し上げたい」

●日本経済団体連合会会長 御手洗富士夫
 「経済界は未曾有の危機にある。信用収縮が起き、実体経済に影響が及び日米欧の成長率がマイナスに転じている。世界経済が同時不況に陥る可能性が高まっている。この難局を乗り越え、世界経済を安定的な軌道に乗せていかねばならない。日本経済も危機的な状況を乗り越えていくために、ビジョンを打ち出していく必要がある。民間企業が牽引となって、希望あふれる明るい国を築いていきたい。経済界に身を置く者として、陛下の御心を煩わせることのないように努力したい」

●日本身体障害者団体連合会会長 小川栄一
 「天皇皇后両陛下のお陰で、身障者に対する世の中の見方が大きく進んだ。昭和39年わが国で初めてパラリンピックが開催された。皇太子殿下時代の天皇陛下は、連日大会に参加され、選手をご訪問された。また東宮御所に選手をお招きになった。『日本の選手はほとんどが施設から参加している。外国は家庭から参加しており、リハビリが進んでいる』旨のお言葉があった。このお言葉がきっかけとなって、毎年身障者スポーツ大会が開かれるようになった。閉じこもりがちだった身障者がスポーツをするようになり、やればできるという勇気と自信を得た。家族もその姿に勇気を得て、励まされた。世の中の身障者への理解も深まった。陛下は身障者を園遊会にお招きいただき、お言葉をかけてくださる。皇室こそ、日本の素晴らしい国柄を代表されている」

●沖縄県遺族連合会名誉会長 座嘉味和則
 「沖縄に対し並々ならぬお気持ちを寄せてくださっている両陛下に感謝申し上げている。私は5回接見の機会を頂いているが、最も印象的だったのは、平成5年、御即位後初めて沖縄をご訪問された時のことである。両陛下は全国植樹祭に来られた。ご到着されると、真っ先に南部戦跡に行かれて、天皇陛下として初めて献花をされ、慰霊をされた。次に沖縄平和祈念堂で県内から集った150名に5分間原稿なしで、ゆっくりとお言葉を賜った。沖縄の犠牲者への心からの慰め、霊の供養になったと思う。天皇陛下は、皇太子時代に南部戦跡を訪ねられた時、八・八・八・六の琉歌を賜った。『ふさかいゆる木草めくる戦跡くり返し返し思ひかけて』。毎年追悼式前夜祭では、摩文仁(まぶに)と題されたこの琉歌を紹介している」

関連掲示
・マイサイト「国柄」の拙稿
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind02.htm
・マイサイト「君と民」の拙稿
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind10.htm

南京大虐殺記念館で一部写真を撤去

2008-12-20 09:25:07 | 南京事件
 中国・南京市にある南京大虐殺記念館から、これまで南京のものとして展示されていた写真3枚が撤去されていることがわかったという。
 南京大虐殺記念館は、旧日本軍の南京占領から70年に当たる昨年12月、面積を拡張して再オープンした。敷地面積をそれまでの3倍以上に拡大し、新館の展示面積は旧館の約11倍の約9000平方メートルになった。この面積拡大は、世界遺産に登録申請するための条件を満たすためだという。
 展示内容は、誇張と捏造の混じったもので、わが国の外務省は一部写真について、史実に反するなどとする日本の学問状況を非公式に中国に伝えていた。今回の3枚の写真の撤去は、こうした働きかけの成果だろう。
 亜細亜大学の東中野修道教授らの研究によって、従来南京大虐殺の証拠写真とされてきた写真は、どれも南京における大虐殺を撮影したものではないことが明らかになっている。
 これを機会に、政府は、「南京大虐殺」の虚構性を訴え、南京大虐殺記念館の全面的な見直しを求めていくべきである。また国内においては、わが国の学校教科書から、南京事件に関する根拠なき記述を削除し、誤った教育内容を是正しなければならない。
 以下は報道のクリップ。
 
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●産経新聞 平成20年12月17日号

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081217/acd0812172107008-n1.htm
南京大虐殺記念館、信憑性乏しい写真3枚を撤去
2008.12.17 21:04

 中国・南京市にある南京大虐殺記念館が、信憑(しんぴょう)性が乏しいと指摘されていた写真3枚の展示を取りやめたことが17日、政府関係者の話で明らかになった。「連行される慰安婦たち」「日本兵に惨殺された幼児たち」「置き去りにされ泣く赤ん坊」の3枚で、日本の研究者らは南京事件と無関係だと指摘していた。中国が同館の展示について“是正”に応じたのは初めて。ただ、30万人という犠牲者数の掲示や“百人斬(ぎ)り”など事実関係の疑わしい展示多数はそのままになっている。
 撤去された3枚の1枚は、南京攻略戦の前に撮られ、「アサヒグラフ」(1937年11月10日号)に掲載された写真で、農作業を終えたあと、兵士に守られて帰宅する女性や子供が写っている。これを中国側は旧日本軍が女性らを連行する場面と紹介し、「農村婦女は連れ去られ陵辱、輪姦、銃殺された」と説明していた。この写真は戦後、朝日新聞記者、本多勝一氏の著した『中国の日本軍』や中国系米国人作家のアイリス・チャン氏の著書『ザ・レイプ・オブ・南京』でも、残虐行為と関連づけて紹介されるなど、国内外で繰り返し誤用されてきたことで知られる。
 また、幼児たちの写真は、朝鮮現代史の学術書に掲載されたもので、匪賊(ひぞく)(盗賊集団)に殺された朝鮮の子供たちの遺体。赤ん坊の写真は米誌「ライフ」に掲載された報道写真で、撮影地は上海。いずれも南京の旧日本軍とは関係ないが、愛国主義教育の“模範基地”と指定される同館は「悲惨な史実」と紹介してきた。
 日本側は、事実無根だったと判明している“百人斬り”関係の展示品のほか、誤用や合成と指摘されている写真について、さまざまなルートを通じて撤去を求めてきたが、これまで同館は応じていなかった。
 85年に開館してからの同館の参観者の累計は1897万人。日本の修学旅行生らも訪問している。

●産経新聞 平成20年12月19日号

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081219/plc0812190333005-n1.htm
【主張】南京大虐殺記念館 問題写真撤去を第一歩に
2008.12.19 03:59

 中国・南京市の南京大虐殺記念館に展示されていた3枚の写真が撤去されていることが分かった。いずれも、南京事件とは無関係であることがはっきりと証明されている写真である。
 例えば、「連行される慰安婦たち」とされる写真は、南京戦の前に発売された「アサヒグラフ」に「兵士に守られて帰宅する女性や子供」として掲載されていたものだ。また「日本軍の空爆を受けて泣き叫ぶ赤ん坊」とされる写真は、中国側が反日宣伝のために演出して撮影し、米誌「ライフ」に載せた写真である。
 日本の外務省は同記念館が南京事件から70年にあたる昨年12月に再オープンして以降、この3枚を含む複数の写真について、史実に反するなどとする日本の学問状況を非公式に中国に伝えてきた。3枚の問題写真の撤去は、こうした外交努力の成果といえる。
 外務省が歴史問題で中国にこのような働きかけを行ったことは極めて異例だ。当然とはいえ、その努力を評価したい。
 だが、同記念館には、大虐殺の象徴的な事件として誤り伝えられている日本軍将校による“百人斬(ぎ)り”の記事など、事実関係の疑わしい展示が数多く残されている。“百人斬り”は戦意高揚のための作り話と判明している。「30万人虐殺」の掲示もそのままだ。
 このほか、中国には北京・盧溝橋の抗日戦争記念館など多くの戦争博物館があり、南京と同様、日本の修学旅行生らの見学コースになっている。
 外務省は引き続きこれらの疑わしい写真や記述にも目を配り、中国に是正を求めてほしい。
 今回、中国が3枚の写真を撤去したのは、明らかな誤りだけを認めたにすぎず、歴史問題で軟化したとみるのは早計である。
 「連行される慰安婦たち」とされる写真は、日本でも“大虐殺”派の学者の著書に使われたことがある。大阪市の「ピースおおさか」など日本の戦争博物館でも、南京事件の“残虐写真”などに疑問点が指摘され、誤用がはっきりしたものは撤去された。
 写真も歴史学習の重要な教材の一つである。時代の雰囲気や世相を視覚的に分かりやすく伝える効果がある。だが、使い方を誤ると、間違ったイメージを刷り込むことになる。歴史写真や戦争展示を子供の教材として使う場合は慎重な扱いが求められる。
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関連掲示
・拙稿「南京での『大虐殺』はあり得ない」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion06b.htm

麻生首相、教育再生に注力

2008-12-19 17:04:24 | 教育
17日の日記に、麻生首相は教育再生の重要性を深く認識し、教育再生を力強く進めてほしいと書いたが、程なく首相が教育を国家戦略の中心にすえ、教育再生懇談会を拡充するという報道があった。是非、短期的な視点で政局や世論にとらわれることなく、長期的な視点で国家の建て直しに力を入れてもらいたいものである。
 以下はその報道のクリップ。

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●産経新聞 平成20年12月19日号

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081219/plc0812190046000-n1.htm
首相「教育を国家戦略の中心に」 再生懇メンバーも拡充へ
2008.12.19 00:44

 麻生太郎首相は18日、内閣発足後初めて政府の教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾塾長)を開き、教育を国家戦略の中心に据える考えを示し、「公教育の充実」に向け、早急に具体策をまとめるように要請した。教育再生懇は、首相に教科書の充実など教育の「質の向上」に向けた具体策を提言した第2次報告を提出。首相はこの報告を早急に教育行政に反映させ、省庁の枠を超えて「教育立国」を目指す考えだ。
 教育再生懇は今後、公教育の充実に向けさらなる提言をまとめるとともに、スポーツ庁設置、科学技術の奨励、外国人の日本語教育支援-などに関するワーキングチームを複数設置し、来春までに新たな報告書をまとめる方針。首相補佐官は設置せず、河村建夫官房長官が陣頭指揮を執る。現在10人のメンバーも約15人に拡充する予定だ。
 会合で首相は「自然資源に恵まれない日本では人材が一番の資源になる。そのためには質の高い教育、信頼できる教育が大変に重要だ」などと述べた。
 第2次報告書は、改正教育基本法と、学習指導要領の改定を踏まえて作成された。国語、理科、英語の教科書はページ数を倍増し、練習問題などを充実させることを提言している。

 また、幅広い教養、豊かな情操と道徳心-などを教科書に反映させるよう明記。国語、音楽、美術では日本の伝統・文化に関する題材を、社会や家庭科では「地域社会やわが国に対する理解や愛情を深める」題材の充実を求めた。
 さらに、会合では、ワーキンググループがまとめた「小中学校への持ち込み原則禁止」を盛り込んだ携帯電話に関する報告案と、市町村教委の権限拡大を明記した教育委員会改革の報告案を了承した。携帯電話の規制については3年後に検証を行い、状況が悪化した場合、法的措置を政府側に要請することにした。

      ◇

 教育再生懇談会の第2次報告要旨は次の通り。

■教科書充実の方向性 教育基本法の改正、学習指導要領改定を踏まえ、新たな教科書観に立って質、量の両面で教科書を格段に充実▽自学自習にも適した丁寧な記述、練習問題や文章量を充実▽発展学習、補充学習に関する記述を充実、教科書観を転換▽実生活や実社会との関連など興味、意欲を高める記述を充実▽豊かな情操や道徳心の育成などに資する題材を充実。
■教科書充実の条件整備 教科書の中身の充実に見合うページ数が必要。国語、理科、英語は2倍増を目指すなど、充実のための条件整備を行う▽発展、補充学習の分量制限の撤廃など、検定の審査基準を見直す▽中身の充実に見合う教科書予算を充実▽教科書採択の在り方を見直す▽発行者、執筆者の意識改革▽研究体制を強化。
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