ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

昭和天皇9~国民の飢えを救う

2008-04-30 13:25:47 | 皇室
 敗戦の年、昭和20年、戦後の混乱のなかで、国民の塗炭(とたん)の苦しみを味わっていました。食糧難は深刻でした。この年、成人に必要なカロリーは、配給ではわずか半分しか摂取できず、残りはヤミで補うという状況でした。人々は、金になるものは何でも売って食いつなぐ、いわゆる「たけのこ生活」を強いられていました。

 加えて、この年は、明治43年(1910)以来最悪の不作の年となりました。天候不順、戦争による労働力不足、粗末な農機具、そして肥料や農薬生産の減少により、米の収穫が例年より40パーセント近くも減少したのです。しかも、敗戦により国家機能が低下していたため、農民は収穫した穀物を政府に供出せずに、闇のルートに横流ししました。その結果、ついに政府からの配給米が底をつく事態となりました。大蔵大臣はUP通信社に対して「食糧がすぐに輸入されなければ、1千万人の日本人が餓死するであろう」と述べました。国民は迫りくる飢餓の恐怖におののいていました。

 このようななか、国民の食糧事情に最も胸を痛めていたのが、昭和天皇でした。戦後、農地改革や日中友好に活躍した政治家・松村謙三は、当時を次のように回想しています。
 昭和20年12月、宮中からお召しがあり、天皇からお言葉がありました。
 「戦争で苦しんだ国民に、さらに餓死者を出すことは堪(た)え難い。皇室の御物(ぎょぶつ)の中には国際的価値のあるものもあると聞く。その目録を作製させたから、米国と話してこれを食糧に替えたい」とのお言葉でした。
 さっそく幣原喜重郎首相が、マッカーサーに面会してこれを伝えると、感動したマッカーサーは「自分としても、米国としても、その面目にかけても御物を取り上げることはできない。断じて国民に餓死者を出すことはさせないから、ご安心されるよう申し上げて下さい」と答えたといいます。

 食糧を求める国民の声は、ますます高まっていました。昭和21年5月19日には、「食糧メーデー」が行われました。参加者は25万人といわれ、坂下門から皇居内にも群集が押し入りました。教科書にも載っている「国体は護持されたぞ。朕はたらふく食っているぞ。汝、臣民飢えて死ね。御名御璽」というプラカードはこの時のものです。プラカードを持った者は、不敬罪に問われました。プラカードの表現は、共産党によるものでした。
 皇居前広場では、トラックを3台並べ、その上にテーブルをのせて演壇がつくられました。演説が続き、最後に、共産党の指導者・徳田球一が演壇に立ちました。徳田はおもむろに皇居を指さし、「オレたちは餓えている。しかるに彼らはどうだ」と叫んで、群集をアジりました。
 翌20日、マッカーサーは、「規律なき分子がいま開始している暴力の行使は、今後継続を許さない」と警告し、「食糧メーデー」はGHQ(連合国軍総司令部)の命令で収拾されます。そして、21日、マッカーサーは吉田茂をGHQに招き、「自分が最高司令官であるかぎり、日本国民は一人も餓死させない」と約束しました。
 その約束通り、GHQは6~7月にかけて20万トンの輸入食糧を放出しました。8~9月には、それぞれ20万トンの食糧が放出されました。これによって、日本国民は、大量餓死という最悪の危機を乗り越えることができたのです。

 大戦後の数年間、世界の食糧事情は悪化しました。中国・インドでは飢餓が起こり、ヨーロッパでさえ飢餓が囁(ささや)かれたほどです。敗戦国の日本など、懲罰として飢餓を強いられても不思議ではない状況でした。それにもかかわらず、国民が餓死から救われたのは、昭和天皇の役割が大きかったのです。
 昭和天皇は、餓えに苦しむ国民を思い、皇室財産を差し出して食糧に替え、国民を餓死から救いたいと申し出ました。その無私仁愛の心が、マッカーサーの心を揺り動かし、GHQによる食糧放出が行われたのです。当時の国民はこのことを知る由もありませんでした。今日も多くの国民は、ただ米軍が食糧を供給してくれたと思っているようです。実はその陰には、国民の身の上を思う天皇の存在があったのです。
 こういう真実をこそ、私たちは語り継いでいかなければならないでしょう。(次回に続く)

参考資料
・岡崎久彦著『百年の遺産――日本近代外交史(65)』(産経新聞平成14年6月17日号掲載)
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昭和天皇8~マッカーサーが感動

2008-04-29 08:45:05 | 皇室
 敗戦の約1ヵ月後。昭和20年9月27日、昭和天皇はGHQのマッカーサー元帥を訪問しました。場所は東京都港区にある現在のアメリカ大使館。その時、天皇は45歳でした。
 「マッカーサー回想録」によると、昭和天皇は「国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした」と述べたといいます。
 わが国の外務省は、この会見から57年たった平成14年10月17日、会見の公式記録を公開しました。そこには天皇が直接「戦争責任」に触れた部分はありませんでした。しかし、そのことをもって、天皇が責任を負うと言わなかったと見るのは、早計です。外務省側が連合国による裁判を想定して、あえて記録に残さなかった可能性があるからです。

 マッカーサーとの会見は、昭和天皇自らの意思によるものでした。当初、天皇が自分を訪問希望だと聞いたとき、マッカーサーは非常に厳しい顔をしたといいます。どうせ命乞いか亡命の嘆願に来るのだろう、と。それが敗戦国の元首の常だからです。
 それゆえマッカーサーは最初、昭和天皇をぞんざいに迎えました。しかし、30分後には、自ら天皇を丁重に送っているマッカーサーがいました。その姿は、周りにもわかるほど感動していたといいます。通訳をしたファウビオン・バワーズは、次のような手記を、読売新聞に寄せています。
 「我々が玄関ホールに戻った時、元帥ははた目で見てもわかるほど感動していた。私は、彼が怒り以外の感情を外に出したのを見たことがなかった。その彼が、今ほとんど劇的ともいえる様子で感動していた。……ついこの間まで『日本人の罪をどんなに処罰してやろうか』とばかり話していた人物なのに。天皇陛下が戦争犯罪人たちの身代わりになると申し出られたことに驚いたと、元帥は後に私に語った。『戦争は私の名前で行われた。私には責任がある』と陛下は説明されたというのだ。元帥はそのような考えを受け入れようとは思わなかったろう。天皇の存在なしでは占領は失敗するのだ」

 昭和天皇はこの会見の内容について、一言も語りませんでした。それが元帥との約束だったのです。ところが、天皇の態度に感動したマッカーサーが、会見の様子を、来訪する日本人に語ったことにより、わが国に知られるようになりました。そして、マッカーサーは、昭和天皇との会見のことを自ら『回想録』に記しています。
 「私は大きい感動に揺すぶられた。死を伴うほどの責任、しかも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない戦争責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」
 会見後、マッカーサーが「はた目で見てもわかるほど感動していた」とバワーズが、伝えているとおり、彼は「大きい感動に揺すぶられた」のです。
 昭和天皇は、食糧不足のため餓えに苦しむ国民を思い、自分の身を投げ出して、国民を餓死から救いたいと願ったのです。その姿勢が、マッカーサーを感動させたのです。

 当時、アメリカでは、天皇の裁判や処刑を求める意見が高まっていました。これを受けて上院は「天皇を戦争犯罪人として裁判にかけることをアメリカ合衆国の政策とする」ことを全員一致で決議しました。しかし、マッカーサーは、昭和天皇に直接会って以来、天皇に対する考えが一変していました。また、彼のもとには、天皇の助命を願う日本国民から、千通を超える直訴状が送られてきていました。国民は天皇を恨んでいるどころではありません。自分の命に代えても、天皇を助けて欲しいと懇願する国民が多数いるのです。天皇の存在の重大さを痛感したマッカーサーは、昭和21年1月25日、ワシントンに電報を送りました。
 「…天皇告発は日本人に大きな衝撃を与え、その効果は測り知れないものがある。天皇は日本国民統合の象徴であり、彼を破壊すれば日本国は瓦解するであろう。事実すべての日本人は天皇を国家元首として崇拝しており、正否は別としてポツダム宣言は天皇を存続させることを企図していると信じている。だからもし連合国が天皇を裁けば日本人はこの行為を史上最大の裏切りと受け取り、長期間、連合国に対して、怒りと憎悪を抱き続けるだろう。その結果、数世紀にわたる相互復讐の連鎖反応が起こるであろう…」
 この電報が、米国政府の決定を覆しました。アメリカは、天皇の存在と地位を保つ方向に急転回したのです。

 東洋には「身を殺して仁をなす」という言葉があります。仁とは愛の形です。仁愛は、親が自分はどうなっても、と自己犠牲的な行為によって、子供を救おうとする。そこに極まるでしょう。昭和天皇は「民の父母」として、まさに身を捨てて「仁」をなしたと言えましょう。
 昭和天皇のこうした姿勢がマッカーサーの心を動かし、それによって日本の国民は救われ、日本という国もまた守られたのです。(次回に続く)
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昭和天皇7~終戦の詔書

2008-04-27 10:54:55 | 皇室
 昭和天皇の「終戦の詔書」は、玉音放送として知られています。その内容は、天皇が大東亜戦争の終結を決めた事情を国民に伝えるとともに、敗戦から我が国が再出発するにあたって国民に指針を示したものでした。戦後日本のありようを反省し、日本の再建を進めるために、折に触れて再確認すべき原点であると思います。
 以下、原文とともに、語句解釈と現代文訳を掲載します。

●原文
 朕深ク 世界ノ大勢ト 帝國ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ 時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ 忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ 帝國政府ヲシテ 米英支蘇 四國ニ對シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨 通告セシメタリ
 抑々 帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ 萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遣範ニシテ 朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二國ニ宣戦セル所 以モ亦 實ニ帝國ノ自存ト 東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ侵カス如キハ 固ヨリ朕カ志ニアラス
 然ルニ 交戰巳ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海将兵ノ勇戰 朕カ百僚有司ノ勵精 朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ盡セルニ拘ラス 戰局必スシモ好轉セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之 敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル 而モ 尚交戰ヲ繼續セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
 斯ノ如クムハ 朕何ヲ以テカ 億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ 是レ 朕カ帝國政府ヲシテ 共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ 朕ハ 帝國ト共ニ 終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
 帝國臣民ニシテ 戰陣ニ死シ 職域ニ殉シ 非命ニ斃レタル者 及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内為ニ裂ク 且 戰傷ヲ負ヒ 災禍ヲ蒙リ 家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ
 惟フニ 今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ 固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情モ 朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ 時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ為ニ 太平ヲ開カムト欲ス
 朕ハ茲ニ 國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若シ夫レ 情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排儕 互ニ時局ヲ亂リ 為ニ 大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム
 宣シク 擧國一家子孫相傳ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ 志操ヲ鞏クシ 誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ 爾臣民 其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
 裕仁

●読み下し
 朕(ちん)深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる爾(なんじ)臣民に告ぐ。
 朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。
 そもそも帝国臣民の康寧を図り、万邦共栄の楽をともにするは、皇祖皇宗の遺範にして、朕の拳々措(お)かざる所、先に米英二国に宣戦せるゆえんも、また実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに出て、他国の主権を排し領土を侵すか如きは、固(もと)より朕が志にあらず。
 然るに交戦すでに四歳(しさい)を閲(えっ)し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司(ひゃくりょうゆうし)の励精、朕が一億衆庶の奉公、各ゝ最善を尽せるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず。
 しかのみならず敵は新に残虐なる爆弾を使用して、しきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。而も尚、交戦を継続せんか終(つい)に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。
 斯(かく)の如くんば朕何をもってか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れるゆえんなり。朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し職域に殉し非命に斃(たお)れたる者及びその遺族に想を致せば、五内(ごだい)為に裂く。且つ戦傷を負い災禍を蒙(こうむ)り家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。
 おもうに今後帝国の受くべき苦難は、固(もと)より尋常にあらず。爾臣民の衷情(ちゅうじょう)も朕よくこれを知る。然れども朕は時運の趨(おもむ)く所、堪ヘ難きを堪ヘ、忍び難きを忍び、もって万世の為に太平を開かんと欲す。
朕はここに国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常に爾臣民と共に在り。若(も)し夫(そ)れ情の激する所、濫に事端を滋(しげ)くし或は同胞排擠(はいせい)互に時局を乱(みだ)り、為に大道を誤り信義を世界に失うが如きは、朕最もこれを戒(いまし)む。
宜(よろ)しく擧国一家子孫相伝ヘ確(たしけ)く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし志操(しそう)を鞏(かた)し、誓て国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。爾臣民それ克(よ)く朕が意を体せよ。
裕仁(ひろひと)

●語句解釈
 朕(ちん)=天皇の自称。ここでは昭和天皇のこと。
共同宣言=ポツダム宣言。
拳々措(お)かざる=常に慎み願ってやまない
庶幾=一途にこい願うこと。
百僚有司=多くの官僚、官吏。
億兆の赤子=我が子のように思う多数の国民
無辜(むこ)=罪のない民間人
五内(ごだい)=5つの内蔵(心臓、肝臓、肺臓、腎臓、脾臓)
軫念(しんねん)=天皇が深く心を痛めること。心配すること。
赤誠=少しも嘘偽りのない誠の心。
信倚(しんい)=信じ頼ること。
事端を滋(しげ)くし=事を多く起こし
同胞排擠(はいせい)=他を押しのけたり、陥れたりすること。
志操=堅く守って変えない志。
裕仁=昭和天皇の名前。

●現代文訳
 私は世界の大勢と我が国の現状を深く考え、非常の措置をもって現下の情勢を収拾しようと思い、忠実で善良なるあなた方国民にお知らせする。
 私は、米国・英国・中国・ソ連の4国に対して、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れることを、日本国政府に通告させた。
 そもそも、わが国民の平穏安寧を図り、世界各国が共に繁栄する楽しみをともにすることは、皇室の祖先が残した規範であり、私が常に慎み願ってやまないことであって、以前に米英の2国に宣戦した理由も、真に我が国の自存と東アジアの安定とを一途に望んでいたからであり、他国の主権を排除したり、領土を侵略したりするようなことは、もとより私の思いではない。
 ところが戦争を始めて4年の歳月が経過し、私の陸海軍将兵の勇戦、私の官僚の精励、私の国民の奉公、おのおのが最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は好転しないばかりか、世界の大勢もまた我が国には不利な状況である。
 それだけではなく、敵は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使用して、しきりに罪もない民間人を殺傷し、惨害の及ぶ状況は、じつに測りきれないほどである。
 しかもこのまま交戦を続けたとしたら、ついには日本民族の滅亡という事態を招くだけではなく、ひいては人類の文明も破壊され尽くすことになる。
 そのようなことになれば、私はどのようにして我が国民を守り、皇室の祖先の霊に謝罪すればよいのだろうか。
 このような思いによって、私は日本国政府に共同宣言に応じさせることにしたわけである。
 私は我が国とともに、終始東アジアの解放に協力してくれた各国に対して、遺憾の意を表さなければならない。
 わが国民のうち、戦死したり、殉職したり、不慮の災難に倒れた者たち、そしてその遺族のことを思うと、はらわたが引き裂かれんばかりの思いである。かつ、戦傷を負い、戦災をこうむり、家業を失った者たちの健康や生活について、私は深く心を痛めている。
 思うに、今後の日本が受ける苦難は、言うまでもなく尋常なものではない。あなた方国民の心のうちは、私はよくわかっている。しかし私は時運の赴くところ、堪え難いことにも堪え、忍び難いことをも忍んで、将来のために太平の世を開こうと思う。
 私はここに、国体を護持することができて、忠実で善良なるあなた方国民の誠の心を信頼し、常にあなた方国民と共にあるものである。
 もしあなた方が、激しい感情によって、むやみに事を起こしたり、あるいは国民同士で陥れ合い、互いに情勢を乱れさせ、そのために国家として進むべき道を誤って、世界に対して信義を失うようなことは、私が最も戒めたいことである。
 どうか、国を挙げ、一家みなで、子孫にまで、この私の思いを伝えて欲しい。また神国日本の不滅をかたく信じ、責任は重く道は遠いと思うが、総力を将来の建設に傾け、道義を篤く行い、志を堅く持ち、誓って我が国体の美しい特色を発揮して、進歩発展する世界に遅れを取るまいという決意を持って欲しい。
 あなた方国民は、どうか私の真意を理解・体得して欲しい。

(次回に続く)
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昭和天皇6~民を救った御聖断

2008-04-26 11:14:15 | 皇室
 大東亜戦争末期の昭和20年8月9日、昭和天皇は、御前会議において、終戦の御聖断を下しました。

 『昭和天皇独白録』で、天皇は次のように述べています。
 「開戦の際、東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下における立憲君主としてやむを得ぬ事である。若(も)し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之(これ)は専制君主と何等異なる所はない。終戦の際は、然(しか)し乍(なが)ら、之とは事情を異にし。廟議(ちょうぎ)がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のままその裁断を私に求めたのである。そこで私は、国家、民族のために私が是なりと信じる所に依(よっ)て、事を裁いたのである」(1)
当時、侍従長だった藤田尚徳(ひさのり)海軍大将は、天皇がその時の心中を次のように語ったと伝えています。
 「…その時には終戦か、戦争継続か、両論に分かれて対立し、議論が果てしもないので、鈴木(貫太郎、当時の首相)が最高戦争指導会議で、どちらに決すべきかと私に聞いた。ここに私は、誰の責任にも触れず、権限をも侵さないで、自由に私の意見を述べる機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予(かね)て考えていた所信を述べて、戦争をやめるようにさせたのである。……この場合に私が裁決しなければ、事の結末はつかない。それで私は、この上、戦争を継続することの無理と、無理な戦争を強行することは皇国の滅亡を招くとの見地から、胸の張り裂ける想いをしつつも裁断を下した。これで戦争は終わった。…」(2)

 もしこの時、天皇が御聖断を下さなかったら、わが国はどうなっていたでしょうか。
 8月6日、広島に人類史上初めて、原子爆弾が投下されました。さらに9日には、長崎に2発目の原爆が投下されました。沖縄を既に手中に収めていた連合国軍は、9月の末か10月の初めには南九州に上陸する計画でした。ついで10月か11月には関東地方に上陸を敢行する計画も立てられていました。また、9日未明には、日ソ不可侵条約を一方的に破って、ソ連軍が雪崩のごとく満州や樺太に侵入してきました。終戦を急がなければ、ソ連軍は、北海道に侵攻し占領していたでしょう。やがては本州にも上陸したに違いありません。

 当時、軍部は徹底抗戦を主張していました。それゆえ、もし天皇がここで終戦を決断しなければ、軍部は本土決戦に臨んだでしょう。国民は「一億玉砕」という軍部とマスコミの扇動に操られていました。その戦いは、数十万、数百万の犠牲者を生んだに違いありません。さらに、国土は徹底的な破壊を受けたことでしょう。また恐らく日本は四分五裂の状態となり、連合国軍によって分割占領されて、南北朝鮮や東西ドイツのような分裂国家の悲惨を味わうことになったでしょう。最悪の場合には、日本という国自体が消滅していたかも知れません。
 そのような悲劇を避けえたのは、ひとえに昭和天皇の御聖断によっているのです。「民の父母」である天皇以外に、この戦いを納められる人間は、他にいなかったのです。
 
 昭和天皇は、終戦を決断した時の心境を、次の歌に詠んでいます。

 爆撃に たふれゆく民の うへをおもひ
    いくさとめけり 身はいかならむとも
 
 身はいかに なるともいくさ とどめけり
    ただたふれゆく 民を思ひて

 自分の身はどうなっても、国民を救わなければならないーーこのような天皇の必死の思いによって、終戦の御聖断は下されたのです。

 御聖断に従って、わが国は8月10日にポツダム宣言の受諾を連合国に通告し、12日に回答が届きました。そこには「日本政府の形態は、日本国民の自由意思により決定されるべき」という一文がありました。天皇は14日に閣僚全員を召集し、御前会議が開かれました。
 陸軍大臣、参謀総長、軍令部総長らは、連合国の回答の主旨に疑いを持ちました。もし国体の護持、即ち天皇の地位の安泰という条件が受け入れられなければ、受諾できないと訴えました。ところが天皇は、静かに口を開くと、「国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えない。要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思う。そのまま、受諾してよいと考える」と述べました。この天皇の意思に従って、ポツダム宣言の受諾が決定されました。

 終戦について、天皇は自ら全国民に呼びかけたいと望み、マイクの前に立ちました。8月15日、玉音放送で、終戦の詔勅が全国に放送されました。直接国民に呼びかける天皇の言葉に、全国の国民は泣き崩れました。一部には、なお抵抗を主張する人もありました。しかし、御聖断の主旨は、国内はもちろん、海外の戦地にいた軍人においても、守られました。天皇の呼びかけに従って、日本軍は静かに降伏し、国民が整然と行動しました。その姿は、世界の人々を驚かせました。

 昭和天皇は「国民全体の信念と覚悟」を信じていました。こうした天皇の下で、国民は敗戦という事実を受け容れ、苦難を乗り越え再起を図ることを誓ったのです。


(1)『昭和天皇独白録』(文春文庫)
(2)藤田尚徳著『侍従長の回想』(中公文庫)
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昭和天皇5~終戦の御聖断

2008-04-25 09:25:21 | 皇室
 大東亜戦争は、昭和天皇の決断によって終結しました。時の首相は鈴木貫太郎海軍大将、内閣書記官長(現在の内閣官房長官)は、迫水久常(さこみず・ひさつね)でした。迫水は、戦後参議院議員となり、郵政大臣、経済企画庁長官などを歴任した人物です。
 迫水は、岡田啓介元首相の女婿でした。迫水は、岡田の指示を受けながら、東条政権打倒に尽力しました。鈴木内閣では、書記官長として、終戦のための手続きや段取りのすべてを取りしまっていました。(1)

 迫水は、昭和天皇が終戦の決断をした昭和20年8月9日の御前会議のことを、次のように回想しています。
 「その日の真夜中、宮中の防空壕の中、天皇陛下の御前で戦争を終結させるか否かに関する、最後の御前会議が開かれました。…そのとき、私は一番末席を占めさせていただいておりました。
 会議の席上、戦争を終結させるか否かについて、いろいろな論議がございました。が、最後に鈴木総理大臣が立って、天皇陛下に『陛下の思召しをうかがわせて下さいませ』とお願い申し上げたのでございます。
 天皇陛下は『それでは自分の意見を述べるが、みなの者は自分の意見に賛成してほしい』と仰せられました。時に昭和20年8月10日午前2時ごろのことでした。
 陛下は、体を少し前にお乗り出しになられまして『自分の考えは、先ほどの東郷外務大臣の意見と同様に、この戦争を無条件に終結することに賛成である』と仰せられたのであります。
 その瞬間、私は胸が締めつけられるようになって、両方の目から涙がほとばしり出て、机の上に置いた書類が雨のような跡を残したことを今でも覚えております。部屋は、たちまちのうちに号泣する声に満ちました。私も声をあげて泣いたのでございます。
 しかし、私は会議の進行係でございましたので、もし天皇陛下のお言葉がそれで終わるならば、会議を次の段階に移さなければならないと考えまして、ひそかに涙に曇った目をもって天皇陛下の方を拝しますと、陛下はじっと斜め上の方を、お見つめになっていらっしゃいました。そして白い手袋をおはめになった御手の親指を、眼鏡の裏にお入れになって、何回となく眼鏡の曇りをおぬぐいあそばされておられました。やがて白い手袋をおはめになった御手で、両頬をおぬぐいになりました。
 陛下御自身お泣き遊ばされていることを拝しました参列者一同、身も世もあらぬ気持でその時ひれ伏し泣くほかなかったのでございます。
 陛下は思いがけなくも『念のために理由を言っておく』とお言葉を続けられました。『自分の務めは、先祖から受けついで来た日本という国を、子孫に伝えることである。もし本土で戦争が始まって、本土決戦ということになったならば、日本国民はほとんど全部、死んでしまうだろう。そうすればこの日本の国を子孫に伝える方法はなくなってしまう。それゆえ、まことに耐えがたいことであり、忍びがたいことであるが、この戦争を止めようと思う。ここにいる皆のものは、その場合、自分がどうなるであろうと心配してくれるであろうが、自分はいかようになっても、ひとつもかまわない。この戦争を止めて、国民を一人でも多く救いたいという自分の意見に賛成してほしい』という主旨のことを、たどたどしく、途切れ途切れに、ほんとうに胸からしぼり出すようにして陛下は述べられたのであります。
 かくして、大東亜戦争は終わりました。…すなわち大東亜戦争が終わったのは、天皇陛下が御自身の身命をお犠牲になさいまして、日本の国民を救い、日本国をお救いになられたのであります」(2)

 終戦の御聖断は、憲法に定められた立憲君主の立場を超えたものでした。それは「民の父母」として、国民を救いたいという願いからの決断でした。もしこの時、天皇が終戦を決断しなければ、戦争はさらに悲惨な展開を遂げ、わが国は回復不可能な結果に陥ったでしょう。
 今日、私たち日本人があるのは、国民を思って終戦を決めた昭和天皇の御聖断によっていることを、忘れてはならないのです。


(1)マイサイトの08「東条英機と対決~岡田啓介」、09「終戦・和平に献身的活躍~迫水久常」をご参照下さい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/j-mind06.htm
(2)迫水久常の講演記録(昭和44年1月7日、東京・日比谷公会堂、
日本精神復興促進会発行『明けゆく世界 第6集』より)
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昭和天皇4~開戦回避を願う

2008-04-24 16:44:51 | 皇室
 昭和天皇は、三国同盟に反対し、米英との戦争を憂慮するなど、的確な洞察を示していました。それにもかかわらず、どうして天皇は開戦を止められなかったのでしょうか。

 昭和16年9月6日の御前会議で、「戦争第一、交渉第ニ」の方針が決まりましたが、天皇は戦争に反対の意思を暗示しました。天皇は会議の結果を白紙に還元し、交渉を第一として極力努力することを期待したのです。ところが近衛は政権を投げ出し、後任の東条は開戦の道を進んだため、天皇の願いは実現されませんでした。
 「問題の重点は石油だった」と『昭和天皇独白録』で、天皇は語っています。独伊と同盟を結んだことにより、米国は日本への石油等の輸出を禁止しました。石油を止められては、「日本は戦わず亡びる」と天皇は認識していました。天皇は次のように語っています。
 「日米戦争は油で始まり油で終わったようなものであるが、開戦前の日米交渉にもし日独同盟がなかったら、米国は安心して日本に石油をくれたかも知れぬが、同盟のあるために日本に送った油が、ドイツに回送されはせぬかという懸念のために、交渉がまとまらなかったともいえるのではないかと思う」
 「実に石油輸出禁止は日本を窮地に追い込んだものである。かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、戦ったほうが良いという考えが決定的になったのは自然の勢いといわねばならぬ。もしあの時、私が主戦論を抑えたならば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ちながら、むざむざ米国に屈服するというので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタが起こったであろう」と。

 昭和16年11月31日、天皇は高松宮に、開戦すれば「敗けはせぬかと思う」と語りました。高松宮が「それなら今止めてはどうか」とたずねるので、天皇は次のように語ったと言います。「私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ。もし認めなければ、東条は辞職し、大きなクーデタが起こり、かえって滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであろうと思い、戦争を止める事については、返事をしなかった」と。
 同じ趣旨のことを、天皇は繰り返し語っています。「陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時においてすら、降伏に対しクーデタ様のものが起こった位だから、もし開戦の閣議決定に対し私がベトー(拒否)を行ったとしたならば、一体どうなったであろうか。(略)私が若(も)し開戦の決定に対してベトーをしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私は信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それは良いとしても結局、強暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来かねる結末となり、日本は亡びる事になったであろうと思う」と。
 昭和16年12月1日、御前会議で遂に対米英戦争の開戦が決定されました。天皇は「その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も言わなかった」と、『独白録』で語っています。
 なぜ天皇は開戦を止め得なかったか、その答えを天皇自身は上記のように語っているのです。5・15事件、2・26事件では、首相らの重臣が殺傷されました。終戦時にも、玉音放送を阻止しようと一部の兵士が反乱を起こしました。天皇の懸念は切実なものだったことが分かります。

 では、開戦後、早い時期に戦争を終結させることは出来なかったのでしょうか。ここで再び三国同盟が拘わってきます。日本は12月8日、米英と開戦するや3日後の11日に、三国単独不講和確約を結びました。同盟関係にある日独伊は、自国が戦争でどのような状況にあっても、単独では連合国と講和を結ばないという約束です。ここでわが国は、ドイツ、イタリアとまさに一蓮托生(いちれんたくしょう)の道を選んだことになります。昭和天皇は、このことに関し、『独白録』で次のように述べています。
 「三国同盟は15年9月に成立したが、その後16年12月、日米開戦後できた三国単独不講和確約は、結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ」
 「この確約なくば、日本が有利な地歩を占めた機会に、和平の機運を掴(つか)むことがきたかも知れぬ」と。
 なんとわが国は、戦局が有利なうちに外交で講和を図るという手段を、自ら禁じていたのです。ヒトラーの謀略にだまされ、利用されるばかりの愚かな選択でした。ここでも天皇に仕える政治家や軍人が、大きな失策を積み重ね、国の進路を誤ったことが、歴然と浮かび上がってくるのです。

参考資料
・山本七平著『昭和天皇の研究』(祥伝社)

■追記

 昭和天皇に関して連載した拙稿は、下記に掲載しています。
 マイサイト「君と民」のページ
http://khosokawa.sakura.ne.jp/j-mind10.htm
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昭和天皇3~三国同盟に反対

2008-04-23 08:50:23 | 皇室
 昭和天皇が自ら歩んだ時代を語った書が、『昭和天皇独白録』(文春文庫)です。
 これは戦後、昭和21年3~4月に、昭和天皇が側近に語った言葉の記録です。それを読むと、昭和天皇が歴史の節目の多くの場合に、的確な判断をしていたことに、驚かされます。

 最も重要な事実は、天皇は米英に対する戦争に反対だったことです。しかし、本心は反対であっても、立憲君主である以上、政府の決定を拒否することができません。拒否することは、憲法を無視することになり、専制君主と変わらなくなってしまうからです。そこで、天皇は昭和16年9月6日の御前会議において、自分の意見を述べるのではなく、明治天皇の御製を読み上げたのでした。

 よもの海 みなはらからと 思ふ世に
       など波風の たちさわぐらむ
 
 これは対米英戦争の開始には反対である、戦争を回避するように、という昭和天皇の間接的な意思表示です。しかし、時の指導層は、この天皇の意思を黙殺して、無謀な戦争に突入したのです。結果は、大敗でした。

 戦後、天皇は『昭和天皇独白録』でこの戦争について、次のように述べています。戦争の原因は「第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している」と。「日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦(また)然(しか)りである」と天皇は、長期的な背景があったことを指摘します。
 昭和天皇はまた、わが国が大東亜戦争に敗れた原因について、自身の見解を明らかにしています。
 「敗戦の原因は四つあると思う。
 第一、兵法の研究が不充分であったこと、即ち孫子の『敵を知り己を知れば、百戦危からず』という根本原理を体得していなかったこと。
 第ニ、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
 第三、陸海軍の不一致。
 第四、常識ある首脳者の存在しなかった事。往年の山県(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛という様な大人物に欠け、政戦両略の不充分の点が多く、且(かつ)軍の首脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、所謂(いわゆる)下克上の状態を招いたこと」
 このように、天皇は敗因を分析しています。的を射ていることばかりです。

 昭和天皇と大東亜戦争との関わりを振り返ってみると、まず日独伊三国軍事同盟をめぐる問題があります。昭和15年9月に、この同盟を締結したことは、わが国が決定的に進路を誤った出来事でした。当時、昭和天皇はヒトラーやムッソリーニと同盟を結ぶことを憂慮し、何度も同盟反対の意向を示していたのでした。
 しかし、三国同盟は強硬に推し進められました。推進の中心には、外務大臣の松岡洋右がいました。松岡は、独ソ不可侵条約と三国同盟を結合することで、日独伊ソの四国協商が可能となり、それによって中国を支援する米英と対決する日本の立場を飛躍的に強めることができるだろう、という構想を持っていました。しかし、松岡の狙いは見事に外れました。これに対し、天皇は『独白録』で当時を振り返り、次のように語っています。
 「同盟論者の趣旨は、ソ連を抱きこんで、日独伊ソの同盟を以て英米に対抗し以て日本の対米発言権を有力ならしめんとするにあるが、一方独乙の方から云はすれば、以て米国の対独参戦を牽制防止せんとするにあったのである」と。
 天皇の方が、外交の専門家である松岡よりも、相手国の意図をよほど深く洞察していたことがわかります。

 三国同盟が締結された当時、天皇は、時の首相近衛文麿に対して、次のように問い掛けていました。
 「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」
 天皇は、独伊のようなファシスト国家と結ぶことは、米英両国を敵に回すことになり、わが国にとって甚だ危険なものだと見抜いていたのです。また、近衛首相に対して、次のようにも言っていたのでした。
 「この条約のために、アメリカは日本に対して、すぐにも石油やくず鉄の輸出を停止してくるかもしれない。そうなったら日本はどうなるか。この後、長年月にわたって、大変な苦境と暗黒のうちに置かれるかもしれない」と。
 実際、日独伊三国同盟の締結で、アメリカの対日姿勢は強硬となり、石油等の輸出が止められ、窮地に立った日本は戦争へ追い込まれていきました。同盟が引き起こす結果について、昭和天皇は実に明晰(めいせき)に予測していたことがわかります。この天皇の予見は不幸にして的中してしまったのです。当時の指導層が、もっと天皇の意向に沿う努力をしていたなら、日本の進路は変わっていたでしょう。
 『昭和天皇独白録』は、その他の事柄に関しても、天皇自身による貴重な証言に満ちています。(次回に続く)

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昭和天皇2~「民の父母」

2008-04-22 12:20:05 | 皇室
 わが国には、天皇と国民が親子のような家族的な感情で結ばれてきたという伝統があります。国民は天皇を親のように慕い、天皇は国民を我が子のように慈しむ。天皇は、国民を「大御宝(おおみたから)」と呼んで大切にし、「民の父母」たらんとして国民に仁愛を注ぐ。こうした伝統を最も良く体現していたのが、昭和天皇でした。
 昭和は、日本が戦争と平和、困苦と繁栄を体験した、空前の一時代でした。天皇の在位も63年間という記録的な長さに及びました。その間、昭和天皇は、国民と苦しみと喜びを共にしました。国の中心・象徴として、いやそれ以上に「民の父母」たらんとして。

 昭和天皇は、祖父である明治天皇が発した「五箇条の御誓文」と帝国憲法を、自らの規範としました。そして、そこに示された、近代的な立憲君主としての役割を、頑ななほど誠実に果たそうとしました。しかし、その根底には、伝統的な「民の父母」としての役割を担おうとする強い意志がありました。一人の青年天皇が、1億の国民に対し、親のような心を持とうと努めたのです。

 昭和の初めの日本は、世界的な経済危機、国際関係の緊張、共産主義の脅威にさらされていました。常に平和を希求していた天皇は、軍部の独断専横を戒め、とりわけ日独伊三国同盟の締結には、反対でした。しかし、立憲君主として、憲法を超えて自己の意思を表すわけにはいきません。天皇は最後まで戦争を望みませんでしたが、わが国と米英との関係は悪化を続け、わが国は遂に未曾有の戦争に突入しました。それはわが国にとってかつてない苦難の体験でした。
 昭和20年8月、敗色が濃くなるなか、御前会議で、天皇は終戦を決断しました。その「御聖断」は、帝国憲法に定められた立憲君主としての役割を逸脱する行為でした。しかし、国家存亡の危機にあって、天皇は、国民の生命を救済しようとしたのでした。それは「民の父母」として責任を果たそうとする天皇の決断でした。

 8月10日、日本はポツダム宣言の受諾を連合国に通告しました。12日に米国から回答が届きました。そこには、「日本政府の形態は、日本国民の自由意思により決定されるべき」という一文がありました。軍部は天皇制を廃止し、共和制に誘導しようという狙いがあると強く反対しました。しかし天皇は次のように言いました。
 「それで少しも差し支えないではないか。たとい連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意思によって決めてもらって少しも差し支えないと思う」(「木戸幸一関係文書ーー日記に関する覚書」)
 連合国が日本を占領・統治すると、昭和天皇は、マッカーサーに自ら会見し、国民の救済を懇請しました。「自分はどうなってもかまわないから、国民を救ってもらいたい」と述べて、元帥を感動させました。また側近の反対を押して、全国を巡幸しました。天皇の訪問、その姿と言葉は、敗戦に打ちひしがれた国民に生きる希望をもたらしました。こうした天皇の行動は、「民の父母」としての自覚にもとづくものでした。  
 昭和天皇は、昭和21年1月、一般に「人間宣言」と称される「新日本建設に関する詔書」を発しました。昭和52年8月23日、天皇は、その詔書の真意について記者団に述べました。
 「民主主義を採用したのは、明治大帝が思召しである。しかも神に誓われた。そうして『五箇条御誓文』を発して、それがもとになって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないことを示す必要が大いにあったと思います」
 ここにいう「民主主義」とは、民を大切にする、民の幸福を政治の根本におくという意味でしょう。これは、神武天皇が国民を「大御宝」と呼び、その後の天皇が国民に「仁愛」を注いできた伝統に根ざすものです。明治天皇は、近代日本の創始にあたり、こうした伝統に基づいて、「民主主義」(デモクラシー)を採用したのです。そして、昭和天皇は、「御誓文」における明治天皇の考えを継承・実行しようとしたのでした。
 天皇と国民の間の親子のような結びつきこそ、わが国の国柄の基礎にあるものであり、日本的デモクラシーはそうした国柄の上に花開いたものだったのです。

 昭和天皇は、国際的にも日本の象徴として敬われ、アメリカ・イギリスなど多くの国を歴訪し、歓迎を受けました。昭和64年1月7日、天皇が崩御すると、ご大葬には、世界約160国の代表が参列し、哀悼と敬意を捧げました。
 昭和天皇は、日本の心を伝える存在として、内外の多くの人々の敬愛を集めたのです。そして、それは、天皇の心底に、「民の父母」たらんとする意志があればこそのことだったでしょう。(次回に続く)

関連掲示
・拙稿「日本における道と徳~日本人の美徳を取り戻すために」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion04c.htm
・拙稿「世界に誇れる日本の国柄とその心」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion04d.htm
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昭和天皇1~「仁」の伝統

2008-04-21 10:01:37 | 皇室
 来る4月29日は、二回目の「昭和の日」である。今年は、平成20年。昭和という時代が過ぎ去って、20年になる。昭和は、激動の時代だった。恐慌、戦争、大敗、復興、そして繁栄。その時代を象徴する存在が、昭和天皇である。昭和時代、4月29日は、天皇誕生日だった。その日が形を変えて復活したのが、「昭和の日」である。

 「昭和の日」は、昭和という時代を振り返る意義ある日である。それとともに昭和の残課題を確認し、その課題の遂行に心を新たにする日でありたい。
 私は、残課題の最大のものは、日本人が日本精神を取り戻すことであると考える。自己本来の精神を失った国民・民族は、21世紀の世界で存立・繁栄を保てない。
 まず日本精神を取り戻し、具体的には三つの課題を成し遂げる必要がある。それは、憲法の改正、教育の再生、皇室制度の復活・強化である。これら三課題を達成してこそ、経済・外交・安全保障・家庭・脱少子化等の分野でも改善が可能となる。
 また、世界全体で見れば、21世紀の人類の課題は、世界平和の実現と地球環境の保全である。わが国は、これらの地球的課題において、世界に貢献することを期待されている。その期待に応え、自らの役割を果すには、日本という国の特質を、歴史を通じて自覚する必要がある。その振り返るべき歴史の最も近い過去が、昭和である。

 昭和という時代を振り返るに当たり、その時代を象徴する昭和天皇の事績を確認することは、欠かせない。以下旧稿をもとにしたものではあるが、参考に供したい。

●天皇に伝わる「仁」の伝統

 わが国の天皇には、国民に「仁」の心を持つという伝統があります。日本書紀には、初代天皇とされる神武天皇が、「民」を「おおみたから」と呼んだことが記されています。神武天皇にとって、国民は皇祖・天照大神から託された大切な宝物だったのです。そして、神武天皇は、日本を建国するに当たり、国民を大切にすることを統治の根本としました。その後の天皇には、こういう思想が受け継がれています。

 最も有名なのは、第16代仁徳天皇です。仁徳天皇は即位されて4年目、高台にのぼって見渡されました。すると家々から炊事の煙がのぼっておらず、国民は貧しい生活をしているのだと気づかれました。そこで3年間年貢などを免除されました。そのため、天皇の着物や履物は破れてもそのままにし、宮殿が荒れ果ててもそのままにしていました。
 そうして3年、気候も順調で国民は豊かになり、高台に立つと、炊事の煙があちこちに上がっているのが見えました。国民の生活は見違えるように豊かになりました。それを見て、天皇は喜ばれ、「自分は、すでに富んだ」と言われました。
 それを耳にされた皇后は、「私たちの住んでいる皇居の垣はくずれ、雨もりもしているのに、どうして富んだといわれるのですか」と問われました。すると天皇は「昔の聖王は、国民の一人でも飢え寒がる者があるときは、自分を顧みて自分を責めた。今、国民が貧しいのは、自分も貧しいのだ。国民が富んでいるのは、自分も富んでいるのだ。未だかつて、人民が富んで、君主が貧しいということはあるまい」と答えられました。
 やがて、天皇に感謝した人々が、諸国から天皇にお願いしました。「3年も課役を免除されたために、宮殿はすっかり朽ち壊れています。それに較べて国民は豊かになりました。もう税金をとりたてていただきたいのです。宮殿も修理させてください。そうしなければ罰があたります」と。
 それでも天皇は、まだ我慢してお許しにならなりませんでした。3年後にやっと許されると、国民はまず新しい宮殿づくりから始めました。人々は命令もされないのに、老人を助け、子供を連れて、材料運びに精出し、昼夜兼行で競争して宮殿づくりに励みました。そのためまたたく間に宮殿ができあがりました。それ以来天皇を「聖帝(ひじりのみかど)」とあがめるようになりました。

 このような伝統は、現代の皇室にまで脈々と受け継がれています。そのことを示す逸話を、昭和天皇に見ることができます。
 昭和天皇は、戦時中の昭和19年の暮れから、防空施設として作られた御文庫に、居住しました。そこは、元侍従長の入江相政によると、屋根には砂が盛られ、湿っぽく、居住性の極めて悪い施設だったそうです。しかし、天皇は戦後もそこに住み続けました。何回か新しい御所を作ることを進言申し上げたのですが、天皇は、「国民はまだ住居がゆきわたっていないようだ」といって、断り続けました。そして、国民の生活水準が戦前をはるかに上回り、空前の神武景気も過ぎた昭和36年の11月、天皇はようやく現在の吹上御所に移りました。新宮殿が創建されたのは、それよりさらに遅れて昭和43年のことでした。

 この事実は、昭和天皇の中に、歴代天皇の心境が生きていたことを示すものでしょう。そのことは、昭和天皇の次の言葉からも、拝察できるのです。
 「もっとも大切なことは、天皇と国民の結びつきであり、それは社会が変わっていってもいきいきと保っていかなければならない」
 「昔から国民の信頼によって万世一系を保ってきたのであり、皇室もまた国民を我が子と考えられてきました。それが皇室の伝統であります」(『ニューヨーク・タイムス』、ザルツバーガー記者との単独会見、昭和47年)
 私たちは、こうした伝統をもった国に生まれているのです。そしてこうした伝統を知ることは、日本の文化と日本人のアイデンティティを確認することともなるのです。 (次回に続く)
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北京五輪へのわが国の対処10

2008-04-20 09:45:21 | 国際関係
 朝7時のNHKテレビで、中国人留学生約1000人がパリで抗議デモを行なったというニュースを見た。ベルリン等にも広がる勢いという。中国国内でも、北京、合肥、武漢、青島、昆明等の都市で反仏デモが行われたと報じられる。これらのデモは、チベット問題や北京五輪聖火リレーをめぐって欧米で広がる中国批判への反発であり、中国の愛国主義、排外的ナショナリズムの噴出である。
 その中で、フランスの大手スーパー「カルフール」が中国各地で抗議の対象となっている。これは、カルフールがチベット独立を主張する団体を支援しているなどとして、不買運動が起こり、街頭抗議行動に発展したものという。

 こうした中国人の抗議行動は、平成17年春、小泉首相の靖国神社参拝や日本の国連安保理常任理事国加入の動きに反発した反日デモを思い起こさせる。あのときは、一見、自然発生的なデモのようでいて、実際には共産党政府当局の指示・管理のもとでの集団行動だった。
 全体主義国家中国では、国民は、愛国主義の思想教育を受け、一方的な宣伝情報のみを吹き込まれている。また、自由主義国にように集会の自由、表現の自由は保障されていない。
 今回の反仏デモは、インターネット利用者による掲示板や携帯電話によるメッセージで不買運動や街頭行動が広がったという報道があるが、中国では、ネットでの情報も徹底的に管理されている。「金盾」といわれる鉄壁の電子情報統制システムが駆動している。だから、私は、今回の反仏デモも、共産党政府が大衆を使って行なっている対外的な示威行動だろうと思う。

 ただし、中国各地で、農村部等で年間多数の暴動が起こっており、当局がそれを認めて発表している。だから、こうした当局管理の抗議行動は、いつか統御しきれない動きに転じうる。日本のチームが参加したサッカーの試合の時がそうだった。中国国内及び欧米での街頭抗議行動がどこかで暴徒化すれば、北京五輪を前に国際社会の批判は強まる。それに対する中国側の反発も強まる。
 そうした中で、8月の北京五輪が開催されれば、期間中に、興奮した排外的な中国人大衆が、外国選手団や外国人観光客に暴言を浴びせたり、暴力を振るうという事態が起こりうる。そうなると、中国共産党は、オリンピックを自国で行なったことで、自国の実態を国際社会にさらけだし、国際社会での評判を落とすとい結果に帰着するだろう。
 さらに、排外的な愛国主義は、経済的格差の拡大、失業者の増加、食の安全の喪失、自然環境の破壊等への不満と結びつけば、闘争的なエネルギーが共産党政府に向くことになりかねない。

 私は、その大衆のエネルギーを共産党政府が吸収できるかどうかは、オリンピックの経済効果にかかっていると思う。大衆は、経済的な充足が得られれば、一時的な社会的興奮を忘れる。
 私の見るところ、北京五輪の経済効果は、高度経済成長の継続ではなく、バブルの崩壊に帰着する。そして、共産中国は、混乱の時代に入っていくだろうと予測する。それを避けることは、共産党政府の強権、ファッショ的な統制政策をもってしても、殆ど不可能である。わが国は、中国の繁栄は永遠ではなく、ほどなく破裂と混乱が始まると踏んで、日本のあり方をしっかり考え、備えをしておくことが必要である。

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●読売新聞 平成20年4月19日付

中国各地で反仏デモ…聖火リレー妨害に反発のネット利用者
(読売新聞 - 04月19日 19:23)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=465706&media_id=20

 【北京=佐伯聡士】北京五輪聖火リレーへの妨害に憤る中国のインターネット利用者の仏大手スーパー「カルフール」不買運動が、大衆の街頭抗議行動に発展してきた。
 安徽省や山東省のカルフール前で18日にデモ行進があったと報じられたほか、19日は北京のフランス大使館前や、中部・湖北省武漢市などでも反仏デモが起きた。
 胡錦濤政権は、2005年4月の反日デモのように、無秩序な破壊につながる大規模デモを全力で封じ込める構えだ。
 目撃者によると、19日午前、仏大使館前の道路で、「チベットは中国のもの」と中国語や仏語で書かれたステッカーを車体にはった車両約15台がクラクションを鳴らしながら走った。
 中国国旗を窓から振り、国歌を流した車両もあった。大使館には徒歩で抗議に訪れた大学生もいたという。
 大使館前では公安車両30台以上が警備にあたったほか、周辺の武装警察官も増強され、不測の事態に備えた。関係者によると、北京市内のカルフール数店舗でも小規模なデモが起きたという。中国のデモは許可制だが、一連のデモが許可されたかどうかは不明。平和的に行われたため、公安当局も黙認したとみられる。
 19日に湖北省武漢市内で抗議デモを計画していた男性によると、公安当局から18日、「愛国心は理解するが、安全上の理由から許可できない」と告げられ、携帯メールなどで中止通知を出した。
 だが、歯止めがかからず、AFP通信は19日、市中心部のカルフール前に数百人が集まり、抗議デモを行ったと伝えた。最後は1000人以上の規模に膨れあがったとの情報もある。香港報道では、広東省深セン市でもデモがあったという。(センは土ヘンに「川」)
 中国紙によると、18日には、山東省青島市や安徽省合肥市のカルフール前でも抗議デモが起きた。国営新華社通信は19日、北京など5都市でデモがあったと英文で伝えた。
 北京五輪を8月に控え、当局は無秩序な抗議デモの拡大を懸念している。最近の株暴落で人々の不満が渦巻いているほか、物価高が失業者や民工(出稼ぎ労働者)ら社会的弱者の生活を圧迫している。実際、05年の反日デモには民工も「愛国無罪」を叫んで参加、混乱が拡大した。中国筋は「反仏デモが反政府デモになりかねない」と警戒する。
 中国メディアが理性的な対応を求めたのに続き、駐中国フランス大使も18日、記者会見で不買運動の抑制を求めたが、抗議は簡単に収まりそうにない。

●産経新聞 平成20年4月19日付

http://sankei.jp.msn.com/world/china/080419/chn0804192043005-n1.htm
中国のフランスを標的にした抗議行動 諸刃の剣の「愛国主義」
2008.4.19 20:44

 【北京=野口東秀】フランスを主な“標的”に中国各地で発生した抗議行動は、当局が事実上、黙認した結果だといえる。国民の「愛国主義」が背景にあるためだ。しかし、靖国神社参拝問題などを背景にした2005年の反日デモのように抗議行動が暴徒化すれば、北京五輪を前に国際社会の批判が強まるだけではない。国民の不満は胡錦濤政権へ向けられかねない。「愛国主義」は諸刃の剣といえ、当局も「愛国主義の理性化」を呼びかけ始めた。
 武漢で発生した大規模な抗議行動を当局が許可したかどうか不明だ。しかし、当局は積極的に阻止する措置は取ってはいない。北京のフランス大使館に対する抗議行動では、大使館の前を周回した車両の後ろにはパトカーがついていた。
 こうした一連の対応からうかがわれるのは、「愛国主義」を掲げての抗議行動を「弾圧」することは基本的にできない、という姿勢だ。また、「国民の反フランス感情をガス抜きする」(消息筋)という側面もあったとみられる。
 チベット騒乱後、当局はメディアを通じ、五輪開会式欠席などの動きや、欧米メディアによる中国批判の報道を厳しく非難し、国民の憤りと愛国感情をあおっている。だが、その一方では抗議行動が過激化することは避けなくてはならない。五輪を前に封じ込めてきた土地、家屋の立ち退きや、貧富の格差などに対する不満が国民の間には鬱積(うっせき)しており、それらの連鎖を恐れているからだ。
 19日の共産党機関紙「人民日報」など各紙は「空前の愛国主義主義の熱情が起こっている」としたうえで、「感情は自然なものだが、理性的にあるべきだ。愛国の感情を社会の安定、国家の発展、民族振興のために注ぐことが『最大の愛国』だ」との評論を掲載した。抗議行動の熱を冷まそうとしたものだ。
 中国が「世界に大国としての団結と理性と知恵、抱擁と自信を見せる」(同紙)ことができるのか、今後の抗議行動の行方と当局の対応が注目される。
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