●宗教改革の先駆者は弾圧された
イタリア・ルネサンスは、文化の再生・復興の動きだったが、その時代は、人間再発見の光の下で、人間の心の闇の部分が広がる時代でもあった。
枢機卿ロドリーゴ・ボルジアは貴族の出で、愛人に産ませた子供が数人いた。教皇選挙で他の枢機卿を買収して、教皇アレクサンデル6世となった。アレクサンデル6世には、チェザーレ・ボルジアという息子がいた。政治思想家マキャベリは、『君主論』で、国家の君主は、平和を招来し維持するため、狐の策略と獅子の勇気を以て権力を行使すべきである、と説いたが、マキャベリが理想の君主のモデルとしたのが、チェザーレ・ボルジアである。教皇とチェザーレは、ともに権謀術数を駆使して、権力の増大と教皇領の拡大を図った。そのため、二人によって殺害された者は数知れないと見られる。二人の野望は、父の死と息子の病によって潰えたが、権力の増大と教皇領の拡大は、後の教皇たちに引き継がれた。教皇レオ10世は、大銀行家メディチ家の出だった。イタリア・ルネサンスが最盛期に達していた時、カトリック教会は、腐敗・堕落の極に達していた。
カトリック教会は、既に14世紀に入ったころには、教皇を始め枢機卿、司教等の高位聖職者が富と権力に浸りきっていた。司教の叙任は大土地所有者の利益のままに行われた。修道院長は修道士による修道士の選挙ではなく、教皇が収益所得制度によって修道会員以外の者を任命した。それによって、修道院の財産と司教の財産が兼併された。高位聖職者は、売官を行った。大金を出す者を重要な僧職に任命するのである。金融業と結託して蓄財をしてもいた。
14世紀後半から、こうした状態に憤慨して改革を進めようとした者が現れた。14世紀後半のイギリスのジョン・ウィクリフと、15世紀前半のボヘミアのヤン・フスである。彼らは、ルターやカルヴァンによる宗教改革の先駆者だった。
ウィクリフは、オックスフォード大学で教鞭をとっていた。聖書こそが神の律法であり、信仰の基礎であるとした。聖書は各人が自由に読むべきものとし、ラテン語訳聖書を英訳した。聖書への自国語の翻訳は、13世紀初めに異端とされたワルドー派の前例がある。ウィクリフの活動は、ペスト流行の真っ最中だった。この疫病に対し、キリスト教は無力だった。ウィクリフは、堕落した教会の権威は無効であるとし、ローマ教会への貢納を禁止し、教会の財産を没収せよと主張した。ウィクリフの死後、彼の追従者は血なまぐさい迫害を受けた。ウィクリフは死後に異端者宣言がされ、墓をあばかれ、遺骨が焼き捨てられた。これは、シナの話ではない。イギリスの話である。
15世紀前半、フスはウィクリフの思想をボヘミアで実行しようとした。フスはプラハ大学学長だった。同校はオックスフォード大学とつながりがあり、ウィクリフの思想がボヘミアに伝わった。フスは、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な主張をした。聖書だけを信仰の根拠とし、教会の頭はキリストであって教皇ではないと訴えた。カトリック教会はフスを破門した。コンスタンツ公会議で、フスは有罪とされ、1415年に火刑に処された。だが、フスの思想は絶えることなく、チェコ兄弟団が結成されて修道院と異なる新しい生活形態が始まり、各地に広まった。
フスを有罪としたコンスタンツ公会議は、皇帝ジギスムントが招集したものであり、この会議で教会分裂が解消された。それとともに教会の抜本的な改革の実施が宣言されたが、会議後、何ら改革は進まず、約100年が経過した。16世紀初頭、メディチ家出身の教皇レオ10世は、サン・ピエトロ大聖堂を建築するための資金集めを始めた。国王が徴税権を握っている地域には、なかなか食い込めない。そこで、神聖ローマ帝国に目を付けた。皇帝は権力基盤が弱く、帝国内が分裂し、教会が入り込みやすかったからである。教皇は、同帝国で資金を集めることとして、贖宥状(しょくゆうじょう)、いわゆる免罪符を売って集金した。贖宥状と引き換えにお金を寄付すると、魂が救われると説いたのである。これに対し、激しく抗議したのが、マルティン・ルターである。
次回に続く。
イタリア・ルネサンスは、文化の再生・復興の動きだったが、その時代は、人間再発見の光の下で、人間の心の闇の部分が広がる時代でもあった。
枢機卿ロドリーゴ・ボルジアは貴族の出で、愛人に産ませた子供が数人いた。教皇選挙で他の枢機卿を買収して、教皇アレクサンデル6世となった。アレクサンデル6世には、チェザーレ・ボルジアという息子がいた。政治思想家マキャベリは、『君主論』で、国家の君主は、平和を招来し維持するため、狐の策略と獅子の勇気を以て権力を行使すべきである、と説いたが、マキャベリが理想の君主のモデルとしたのが、チェザーレ・ボルジアである。教皇とチェザーレは、ともに権謀術数を駆使して、権力の増大と教皇領の拡大を図った。そのため、二人によって殺害された者は数知れないと見られる。二人の野望は、父の死と息子の病によって潰えたが、権力の増大と教皇領の拡大は、後の教皇たちに引き継がれた。教皇レオ10世は、大銀行家メディチ家の出だった。イタリア・ルネサンスが最盛期に達していた時、カトリック教会は、腐敗・堕落の極に達していた。
カトリック教会は、既に14世紀に入ったころには、教皇を始め枢機卿、司教等の高位聖職者が富と権力に浸りきっていた。司教の叙任は大土地所有者の利益のままに行われた。修道院長は修道士による修道士の選挙ではなく、教皇が収益所得制度によって修道会員以外の者を任命した。それによって、修道院の財産と司教の財産が兼併された。高位聖職者は、売官を行った。大金を出す者を重要な僧職に任命するのである。金融業と結託して蓄財をしてもいた。
14世紀後半から、こうした状態に憤慨して改革を進めようとした者が現れた。14世紀後半のイギリスのジョン・ウィクリフと、15世紀前半のボヘミアのヤン・フスである。彼らは、ルターやカルヴァンによる宗教改革の先駆者だった。
ウィクリフは、オックスフォード大学で教鞭をとっていた。聖書こそが神の律法であり、信仰の基礎であるとした。聖書は各人が自由に読むべきものとし、ラテン語訳聖書を英訳した。聖書への自国語の翻訳は、13世紀初めに異端とされたワルドー派の前例がある。ウィクリフの活動は、ペスト流行の真っ最中だった。この疫病に対し、キリスト教は無力だった。ウィクリフは、堕落した教会の権威は無効であるとし、ローマ教会への貢納を禁止し、教会の財産を没収せよと主張した。ウィクリフの死後、彼の追従者は血なまぐさい迫害を受けた。ウィクリフは死後に異端者宣言がされ、墓をあばかれ、遺骨が焼き捨てられた。これは、シナの話ではない。イギリスの話である。
15世紀前半、フスはウィクリフの思想をボヘミアで実行しようとした。フスはプラハ大学学長だった。同校はオックスフォード大学とつながりがあり、ウィクリフの思想がボヘミアに伝わった。フスは、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な主張をした。聖書だけを信仰の根拠とし、教会の頭はキリストであって教皇ではないと訴えた。カトリック教会はフスを破門した。コンスタンツ公会議で、フスは有罪とされ、1415年に火刑に処された。だが、フスの思想は絶えることなく、チェコ兄弟団が結成されて修道院と異なる新しい生活形態が始まり、各地に広まった。
フスを有罪としたコンスタンツ公会議は、皇帝ジギスムントが招集したものであり、この会議で教会分裂が解消された。それとともに教会の抜本的な改革の実施が宣言されたが、会議後、何ら改革は進まず、約100年が経過した。16世紀初頭、メディチ家出身の教皇レオ10世は、サン・ピエトロ大聖堂を建築するための資金集めを始めた。国王が徴税権を握っている地域には、なかなか食い込めない。そこで、神聖ローマ帝国に目を付けた。皇帝は権力基盤が弱く、帝国内が分裂し、教会が入り込みやすかったからである。教皇は、同帝国で資金を集めることとして、贖宥状(しょくゆうじょう)、いわゆる免罪符を売って集金した。贖宥状と引き換えにお金を寄付すると、魂が救われると説いたのである。これに対し、激しく抗議したのが、マルティン・ルターである。
次回に続く。