ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

現代の眺望と人類の課題50

2008-10-31 08:56:57 | 歴史
●第4次中東戦争と世界を襲った石油危機

 エジプトでは1970年(昭和45年)、ナセルが死に、副大統領のサダトが大統領となった。サダトは、イスラエルに占領されていたシナイ半島、ゴラン高原などの奪回を目指して軍事行動を起こした。エジプト・シリア両軍は、73年(48年)10月6日、イスラエルに対して奇襲攻撃を行い、第4次中東戦争が始まった。
 不意を衝かれたイスラエル軍は苦戦したが、やがて劣勢を挽回してシリアに攻め込み、スエズ運河を渡ってエジプトに侵入した。これに対し、最初から軍事的劣勢を自覚していたアラブ側が産油国の強みを活かした強力な策を打った。それが石油戦略である。
 10月17日、石油輸出国機構(OPEC)に加盟するペルシャ湾岸6カ国が、原油価格の21%引き上げを発表した。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)に加盟する10カ国は、前月の産油量を基準に、イスラエルを支持する国向けの生産量を毎月5%ずつ削減する。逆に、アラブ諸国を支持する国、イスラエルに占領地からの撤退を求める国には、従来通りの量を供給すると発表した。そのうえ、アメリカ・オランダなどのイスラエル支援国には、石油の全面禁輸措置が取られた。こうしたアラブの石油戦略の発動は、先進国の経済に深刻な影響を与えた。これを第1次石油危機という。

 アラブの石油戦略は、石油を使ってアラブ諸国への支持を広げ、イスラエルを孤立させることを狙ったものだった。アラブの産油国は、石油を武器にすれば、国際社会で強い影響力を持てることに気づいたのだ。それまで親米路線をとり、石油戦略の発動に慎重だったサウジアラビアも強硬路線に転じた。
 石油の全面禁輸をちらつかせるアラブ側の前に、日本や西欧諸国は次々と対イスラエル政策の見直しを声明した。これを切り崩そうとするアメリカに対し、サウジも強硬姿勢を示し、アメリカの軍事介入を防いだ。こうして、アラブ側は、日本や西欧諸国に中東政策の見直しを迫ることに成功した。

 1930年代以降、オイル・メジャーと呼ばれる巨大な国際石油企業が、世界の石油を支配していた。これらの企業は、アメリカ、イギリス、オランダ系の7社だったので、セブン・シスターズ(七人姉妹)とも呼ばれた。この7社が生産と価格に関するカルテルを結んで、莫大な利益を上げていた。
 これに対し、産油国は1960年(昭和35年)9月、OPECを作った。さらにアラブの産油国は、独自に68年(43年)1月にOAPECを結成し、メジャーの寡占体制に異議を唱えるようになった。
 産油国のこうした行動は、西洋文明に対する非西洋文明の応戦であり、また近代世界システムにおける周辺部の中枢部への反抗でもある。また国家単位で見れば、旧植民地の旧宗主国への逆襲であり、また資源ナショナリズムの高揚でもある。
 なかでもアラブ産油国の主体意識は、強まった。1970年代に入ると、世界の石油生産量の36%を中東が占めるようになっていた。先進国諸国は中東への石油依存度を高めており、産油国は発言力を増した。こうした事情を踏まえて、アラブの産油国は、石油戦略を発動したのである。
 第4次中東戦争は11月に停戦となり、痛みわけに終わった。OPECは、12月には石油の削減の中止と増産を決めた。石油危機はひとまず終わった。しかし、アラブ側がこの戦いで取った新戦術が、その後も世界を大きく左右していく。

 アラブの石油戦略は、欧米のオイル・メジャーから、石油の価格と生産量の決定権を取り返すものだった。石油のような地下資源は、いつかは枯渇する。産油国が協調すれば、供給を制限したり、価格を引き上げたりすることができる。そうして得た資金を経済基盤の整備に当てれば、石油が枯渇した後も繁栄を維持できるようになる。石油戦略には、こうした長期的な構想があったと見られる。
 石油の決済は、ドル建てである。アラブの産油国に流れ込んだ大量のドルは、価値の増殖を求めて、世界の金融市場を左右するすようになる。

 次回に続く。
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現代の眺望と人類の課題49

2008-10-30 08:54:19 | 歴史
●1960年代後半~70年前後はいかに大きな危機だったか

 今日の日本人、また人類の多くはまだ、1960年代後半から70年前後、日本及び世界がいかに重大な危機に直面していたかを、よく理解していない。
 大塚寛一先生は、1960年代はじめ、もし世界核戦争となれば、人類の大半が滅亡し、文化は一度に破壊される。さらにもし極度に原水爆が地球の半面で連鎖爆発すれば、人口衛星が飛び出すように、地球が天体の軌道から外れ、消滅するかもしれない、と強く警告された。(3号P44)
 そして、世界がいよいよ重大危機の只中にあった1969年(昭和44年)半ば、大塚先生は、大意次のように説いて、警告された。
 もし70年(45年)6月に日米安保条約が破棄され、アメリカが日本から引き揚げたら、日本に侵攻する外国軍を阻止することは、日本にはできない。日本をソ連が占領すれば、ソ連は世界を征服することができ、共産中国が占領すれば、中国がソ連を押えることができるようになる。日本の工業力とそれを生み出した日本人の知能を手にした国は、世界を風靡することができる。だからソ連も中国も、もし日本が他国に奪われたなら非常に不利になるから、日本を奪い合うようになる。その中ソの前哨戦が、中ソ国境紛争である。
 もしアメリカが社会党・共産党等の反米運動に捨てばちになり、日本から引き揚げると、中国・ソ連・北朝鮮等の軍隊が、日本に襲いかかってくる。そして、日本が共産化すれば、アメリカはアジアから手を引かざるを得ず、共産主義が全世界をおおうようになる。だからアメリカも、砂糖に群がったアリのように、中国軍・ソ連軍が日本に満ち、互いに奪い合っているところに、原水爆を日本に撃ち込む。これと同時に、世界は大混乱に陥り、第3次世界大戦が勃発する、と。

 1968年(昭和43年)から72年(47年)にかけて大塚先生は、多数の講演をされ、その記録は膨大である。今後、1960年代後半から70年前後の危機の大きさが認識されるようになるにつれ、人類は大塚先生の偉大さを理解するようになっていくだろう。ちょうど、先生が1939年(昭和14年)9月から時の指導層に送付された「建白書」の警告が的確無比だったことを理解する人が、徐々に現れているように。
 大塚先生の理論と実証を知るには、著書「真の日本精神が世界を救う」(イースト・プレス)が最良の手引きとなるだろう。

●危機を乗り越えた人類の前進

 1960年代後半から70年前後の危機を乗り越えてから、日本人は、日本の伝統や文化を再認識するようになった。共産主義だけでなく、近代西洋文明の根底が問われ、東洋や自然に回帰する生き方が見直された。
 大塚先生は、戦前から既に、世界は西洋物質文明の時代から東洋精神文明の時代に大転換すると説いてこられた。そして、1970年(昭和45年)前後から世界は、一日にたとえれば、夜から昼に変わるような大変化の時代に入ると説かれた。また、この時代においては、東洋・アジア、特に日本人に重大な使命があると強調された。

 15世紀以来発展を続けた欧米は、今世紀から衰退期に入った。西欧は二度の大戦で大きく後退した。アメリカもピークを過ぎ、覇権の維持に汲々としている。
 1972年(昭和47年)、アメリカは中国と結んで、ソ連に圧力をかけた。冷戦は終わり、1991年(平成3年)にはソ連が解体された。東欧諸国でも共産政権が次々に崩壊した。20世紀を席巻した共産主義は、西洋物質文明を極度に進めたものだった。その共産主義が矛盾を暴露し、大きく後退した。共産主義が後退した国々では、大衆は精神文化に心の渇きを癒している。先進国では、共産主義に理想を描いていた多くの人々が、幻想から覚め、共存調和の生き方を求めている。
 アメリカでは、1960年代から東洋の宗教や瞑想を評価する文化運動が起こり、西洋文明・物質文明の相対化が進んだ。原子物理学者は「老子」「易経」や仏典に表わされている宇宙の姿と、相対性理論や量子力学が描く世界像とが近似していることを発見した。東洋の神秘と想われていたものの背後に、深遠な認識や知恵があることが、欧米の知識層に理解されるようになっていった。

 その一方、アジアは活動発展期を迎え、大きく動き出した。日本が1960年代に高度経済成長を遂げたのに続き、70年代には韓国、台湾、香港、シンガポールなど、NIES(新興工業経済地域)と呼ばれた国々が急速に発展。80年代にはタイ、マレーシア、インド等も工業化政策を進めて経済開発に成功した。80年代後半以降は、日本の海外投資により東アジアの経済成長はさらに加速し、「東アジアの奇跡」「世界の成長センター」などと称されるまでになった。90年代からは、市場経済を導入した中国も経済成長の軌道に乗った。
 21世紀の今日、アジアは、まさに世界の経済的中心地域となっている。人口、生産力、発展可能性等で他の地域を大きく上回っている。アジアが経済的に発展するとともに、アジア諸文明の精神文化の再評価がされ、日本、シナ、インド等の精神的伝統が、人類に新たな精神文化の創造を促している。
 
 こうしたここ半世紀ほどの世界の変化を見るにつけ、大塚寛一先生の慧眼は、他に比類なきものであることが感じられる。21世紀は、西洋物質文明の欠陥を是正するため、東洋に精神文明の興隆が期待されている。とりわけ日本の精神的伝統のもつ潜在力が大きく開花する時を迎えているのである。

関連掲示
・マイサイトの「基調」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/keynote.htm
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現代の眺望と人類の課題48

2008-10-29 09:35:17 | 歴史
●70年安保前後~日本と世界の最大危機

 第2次世界大戦後、人類は幾度か第3次世界大戦の危機に直面してきた。ベルリン危機、朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争、中ソ対立、70年安保前後の日本危機、1980年代半ばのソ連最盛期等が、それである。
 こうした危機の中で私が、日本と世界にとって過去最大の危機だったと理解しているのが、70年安保前後の日本危機である。

 1965年(昭和40年)の年頭、大塚寛一先生は、次のようなご警告を発した。
 「いまや世界は、一大転換期に直面しており、早ければ3年のうち、遅くとも5年以内には、全世界人類が、滅亡の岐路に立つような重大な時期に遭遇しよう」と。
 この警告後、間もなく世界は、激動の時代に入った。先生がご警告を発した翌月65年(40年)2月、アメリカはベトナムへの北爆を開始し、ベトナム戦争が本格化した。翌年の66年(41年)11月、共産中国で文化大革命が始まり、激しい権力闘争が繰り広げられた。さらにその翌年の67年(42年)6月、イスラエルがアラブ諸国に侵攻し、第3次中東戦争が勃発した。69年(44年)には毛沢東の個人崇拝で加熱する中国と、これを押さえ込みたいソ連との間で中ソ国境紛争が起こり、中ソ激突の可能性が高まった。
 この間、先進諸国では、共産主義運動や反戦・人権運動が嵐のように高揚した。アメリカのベトナム反戦運動、西ドイツ、イタリア等の学生運動が各国に広がった。こうした運動は、フランスでは高度資本主義の管理体制を批判する社会変革闘争へと急進化し、68年(43年)に五月革命が起こり、ド・ゴール政権が退陣した。

 わが国でも、同年同月に日本大学で日大全共闘が結成され、続いて東京大学等の各大学に全共闘運動が広がった。最初は大学改革を求める学生運動だったが、やがて共産主義運動へと性格が変わり、新左翼各派を中心とした暴力革命闘争へと過激化した。
 大塚先生は1965年(昭和40年)にご警告を発した後、66年(41年)9月に、人類救済の百ガン撲滅運動を開始された。68年(43年)6月には、日本精神復興促進会を結成し、各界有力者に協力を呼びかけ、「真の日本精神」を伝える運動を展開された。同年夏より、大塚先生は全国の人口30万以上の都市で講演を行い、一大啓発活動を推進された。
 各地の講演会で大塚先生は、世界をおおう危機は、世界の大転換に伴う現象であることを明らかにされた。そして、この危機を乗り越えるためには、日本人が日本精神を取り戻し、一致団結しなければならないことを説かれた。
 当時は、多くの人々が、物質科学文明に幻惑され、また共産主義の幻想に取りつかれていた時代である。そうしたなかで、大塚先生は、西洋物質文明の限界と共産主義の矛盾を看破し、日本人が進むべき道、そして人類が進むべき道を示されたのである。

 69年(44年)1月には、東大安田講堂事件が起こった。全共闘運動、共産革命運動は全国に広がり、多くの大学は占拠され、街頭では火炎瓶が飛び交い、国内は騒然とした状態となった。大塚先生は、「日本人は日本精神に帰れ」と訴え、一層活発に日本精神復興促進運動を展開された。この年3月、「百ガン撲滅の理論と実証」という本を刊行され、国民の啓発を進めた。
 同年12月の総選挙は、大きな山場だった。選挙前、日本社会党が躍進し、日米安保条約の破棄を唱える左翼政権の誕生が確実視されていた。議会活動と街頭闘争が連動すれば、安保破棄から社会主義革命へと突入する恐れがあった。しかし、選挙の結果は、社会党が約50議席を減らして大敗。保守勢力が政権を保ち、潮目が変わった。
 70年(45年)になると全共闘運動、共産革命運動は下火になり、6月日米安保は自動延長された。この年11月25日、作家の三島由紀夫は、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自衛隊に決起を促す演説をして受け入れられず、割腹自殺した。70年代には、新左翼党派間で内ゲバが頻発し、赤軍派によるよど号ハイジャック事件や、連合赤軍によるリンチ事件・浅間山荘事件などが起こり、共産主義運動は大衆の支持を失った。

 こうして1970年(昭和45年)を峠として、日本国内の嵐は収まり、平穏が戻った。これは、わが国だけのことではなく、世界全体が第3次世界大戦の最大危機を回避し、対話と協調の方向へと動き出したのである。

 次回に続く。
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現代の眺望と人類の課題47

2008-10-28 09:43:41 | 歴史
●ケネディの挑戦とそれへの反発

③ケネディは通貨の発行権を民間から政府に取り戻そうと考えたが、暗殺で頓挫した。

 アメリカでは通貨発行権は政府にはない。連邦準備制度(FRB)という民間銀行が通貨発行権を握っている。ケネディは、連邦準備制度に対抗し、財務省に銀行証券を発行するよう行政命令を出した。これは、通貨の発行権を政府に取り戻そうとする試みだろう。連邦準備制度に集う巨大国際金融資本にとっては、権益を侵す挑戦である。
 ケネディが発行させた銀行証券は、暗殺により頓挫した。発行した40億ドル分は、市場から回収された。以後、ケネディのような試みをする大統領は出ていない。

④ケネディはイスラエルの核保有への協力を拒否した。

 ケネディは、イスラエルが核開発をすることを認めなかった。イスラエルの初代首相ダビッド・ベングリオンは、こうしたケネディに激怒した。ベングリオンは、イスラエルの諜報機関モサドに大統領暗殺の陰謀に関与するよう指示したことを疑われている。
 ケネディが暗殺された後、アメリカはイスラエルの核保有を黙認するようになった。事件の4年後、1967年(昭和42年)に、アメリカはイスラエルへの主要武器供給国となった。また、1960年代から、イスラエルはアメリカの政界・議会へのロビー活動を活発に行い、アメリカ指導層をイスラエル支持に固めた。以後、アメリカの政府・議会は、アメリカの国益よりイスラエルの国益を優先するような判断・行動を多くしている。
 なおケネディの考えが改まらないことを悟ったベングリオンは、共産中国と組むことを決め、ひそかに共同取引を開始した。そしてイスラエルと中国は協力して核開発を進めた。中国は、その後、パキスタン、イラン等のイスラム諸国にも核技術を提供している。

⑤ケネディはマフィアを一掃しようとし、暗黒街の怒りを買った。

 ケネディは、マフィアを一掃しようとし、彼らに有罪を宣告しようとした。マフィアは怒った。ユダヤ系マフィアの大物マイヤー・ランスキーもその一人だった。オズワルドを殺害したジャック・ルビーは、ランスキーの手下だった。ルビーもユダヤ人だった。
 アメリカのマフィアといえば、イタリア系マフィアというイメージがあるが、これはユダヤ人が支配するハリウッド映画界によって作られたイメージである。実際はアメリカ最大のマフィアはユダヤ系である。そのユダヤ系マフィアとイスラエルとの間には、宗教的・民族的なつながり、共通の利害関係もあるだろう。

●JFK暗殺後のアメリカ

 ジョン・F・ケネディが暗殺された後、弟のロバートも暗殺された。ロバートは、ジョンが大統領だった時、司法長官として兄の指示を受けて、活動した。兄の死後は、大統領候補として人気があった。次の大統領選挙で大統領になる可能性が高かった。ロバートは、兄の遺志を継いでアメリカを変えようとしていた。
 しかし、彼までもが、1968年(昭和43年)夏、暗殺されてしまう。ジョンだけではなく、ロバートも暗殺されたということは、ケネディ兄弟が目指していたものを絶対に望まない勢力が、彼らの暗殺を首謀したことをうかがわせる事実である。
 アメリカは、自由とデモクラシーの国であることを標榜している。確かにアメリカには言論の自由、表現の自由、経済活動の自由等がある。しかし、その国家を実際に支配している支配層の中核にいるのは、巨大国際金融資本であり、その資本と結びついた軍産複合体だろうと私は思う。
 
 私は、9・11、つまり2001年(平成13年)9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件にも、軍産複合体の関与があると見ている。
 たとえば、ハリバートン社は、9・11後のイラク戦争で軍需関連の仕事を多く受注し、多大な利益を上げるようになった。かつて同社のCEO(最高経営責任者)をしていたのが、チェイニー副大統領である。チェイニーがハリバートン社に仕事をもたらし、チェイニーも利益を得ただろうことは、想像にかたくない。
 またアメリカ最大の軍需関連企業カーライル投資グループと、ブッシュ(子)大統領の関係は深く、彼がテキサス州知事から大統領になるのを同社は後押ししている。またブッシュ父は、自分のスタッフだったジェームズ・ベイカー元国務長官とともに、公共事業をカーライル社に発注し、同社を巨大企業に育て上げた。現在のカールッチ社長は、9・11当時のラムズフェルド国防長官と大学が同窓で、関係が深い。
 今日に至るこうした政府と軍需産業の関係が確立されたのは、ケネディの暗殺後である。私はケネディ暗殺事件の真相究明なくして、アメリカ合衆国の深層構造は解明されないと思う。そして、その深層構造の中に、9・11とアフガン=イラク戦争の隠された原因もあるだろうと考えている。
 アメリカ合衆国では、軍産複合体、及びそれと深く結びついた巨大国際金融資本の権益を侵さない範囲であれば、政治や報道は自由に民主的に行われ、人権も擁護される。だが、その権益を犯す行為に対しては、あらゆる手段をもって徹底的な抑圧や排除が行われる。アメリカの国家社会には、そういう構造が出来ているのだろうと私は思う。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「9・11~欺かれた世界、日本の活路」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion12g.htm
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現代の眺望と人類の課題46

2008-10-26 11:55:48 | 歴史
●ケネディの挑戦と反発

 なぜケネディは暗殺されたのか。誰が何の目的で大統領を暗殺したのか。暗殺の首謀者にはいろいろな説があるが、事実はどうなのか。21世紀の今日も、はっきりしていない。
 犯行を計画したり、または関与したりしたという疑いが出ているのは、リンドン・ジョンソン副大統領、CIA、軍産複合体、大統領選でケネディに敗れたニクソン、ブッシュ(父)、イスラエルの諜報機関モサド、ギリシャの大富豪オナシス等である。彼らのうちの単独犯という説もあれば、複数による共謀説もある。

 事件の原因を考えるには、ケネディの行っていた政策と暗殺後のアメリカの変化を検討してみる必要があるだろう。
 最初に概略を述べると、ケネディは、軍産複合体の肥大・暴走を防ぎ、軍産複合体の諜報部のようになっているCIAを抑えようとした。ベトナム戦争では早期撤退を進めようとした。また彼は、軍産複合体と結合した巨大国際金融資本から通貨の発行権を政府に取り戻そうとした。イスラエルの核保有への協力を拒否した。マフィアを一掃し、彼らに有罪を宣告しようとした。これらを通じて、ケネディは、大統領の権限を強め、非政府集団からリベラル・デモクラシーを守ろうとした。ケネディの死後、こうした彼の試みは次々に覆され、政府が背後の非政府集団によって動かされる構造がアメリカ合衆国で出来上がっていったと私は考える。
 以下、この点を具体的に述べたい。

①ケネディは、肥大化し、独自の動きをするCIAを潰そうとし、反発を受けた。

 ケネディは、CIAの影響力を徹底的に弱めようとした。創立者で初代長官のアレン・ダレスを辞めさせ、CIAの犯罪を調査する委員会を設置したり、CIAの権限を制限しようとしたりした。
 ケネディに罷免されたダレスは、ウォーレン委員会の委員となった。事件の真相究明を封じることのできる立場にいたわけである。
 暗殺事件へのCIAの関与は、多くの研究者から疑われている。たとえば、ケネディの乗っていた車は、暗殺直前に防備が解除または手薄にされた。それができたのは、CIAしかないと考えられる。
 ケネディの死後、CIAは一層肥大化した。CIAが世界最大の麻薬取扱い組織であることは、公然の秘密である。ベトナム戦争が長期化した理由の一つには、麻薬の生産地である黄金の三角地帯をめぐる争いがあった。
 当時インドシナ半島には、「黄金の三角地帯(ゴールデン・トライアングル)」と呼ばれる地域があった。ラオス・ビルマ・タイにまたがるこの地域は、世界最大のアヘンの産地だった。1960年代の世界で、アヘンの70%を生産していたのである。ベトナム戦争によりこの地域の麻薬生産の支配権を手に入れることによって、CIAは世界最大の麻薬ディーラーになった。
 どうして麻薬なのか。麻薬は、CIAの重要な資金源なのである。世界的に諜報活動を展開するには、莫大な資金がいる。国家予算として公表される費用以外に、自由に使える資金が必要である。その秘密資金を生み出すのが、麻薬取引と見られる。ベトナム戦争で、CIAは三角地帯を支配し、そこから大量のヘロインをアメリカに運び、多額の利益を生んだ。兵士の遺体を移送するとき、体内に麻薬を詰めて、本国に運んだ。ベトナムで麻薬におぼれた兵士たちは、帰国してからも麻薬を続けた。アメリカは、ベトナム戦争によって麻薬が蔓延する社会となった。
 ちなみにブッシュ(父)は、大統領になる前、1970年代にCIAの長官をしていた。彼が大統領だった1989年(平成元年)、アメリカは、パナマのノリエガ長官を急襲・逮捕した。これは、CIAの麻薬の利権にかかわる事件だったことが、アメリカ議会で明らかにされている。

②ケネディはベトナム戦争では早期撤退を進めようとして、軍産複合体の不利益を招いた。

 アメリカは、ベトナムの共産化を防ぐため、南ベトナムの反共政権を支援していた。しかし、ケネディは、ベトナムには直接軍隊を派遣せず、またベトナムから軍隊を早期に撤退させ、戦争マシンを止めると誓った。CIAの縮小とともにこうした政策は、軍産複合体にとっては、不利益だった。
 ケネディ暗殺後、副大統領から大統領に就任したジョンソンは、軍産複合体の意思を体現した人物だった。彼は、トンキン湾事件を捏造し、1965年(昭和40年)、北爆開始により、戦争を拡大した。アメリカは以後、73年(48年)に撤退し、戦争終結が宣言されるまで、泥沼のような戦争を続けた。その間、戦争特需により、軍産複合体は、さらなる成長を続けた。
 今日アメリカでは軍産複合体が一層強大化し、巨大国際金融資本ともども、アメリカ政府を動かすようになっている。ペンタゴン、CIAと軍需産業が一つのグループをなし、相互に人事交流している。軍需産業から政府首脳となり、ペンタゴンから民間企業に天下ったりする。アメリカの歴代首脳の多くが、軍需産業の幹部を歴任している。
 軍産複合体と巨大国際金融資本は、ビジネスで結びついている。1967年(昭和42年)、ジョンソンは、ベトナム戦争の最中に、ソ連に対する経済封鎖の解除を行った。北ベトナムとべトミンの背後にはソ連がいるのだから、経済封鎖の解除は、ソ連の軍需物資の入手を手助けするようなものである。しかもソ連が軍需工場を設立したり、ベトナムに送る軍需物資の購入を行う資金は、当時ロックフェラー財閥が支配していたチェイス銀行(現JPモルガン・チェイス銀行)が融資していた。

 次回に続く。

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現代の眺望と人類の課題45

2008-10-25 10:17:58 | 歴史
●ケネディ暗殺のなぞ

 ジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件には、なぞが多い。その主なものを挙げる。

①ウォーレン委員会の報告書は、ケネディの乗った車が、オズワルドが隠れていたビルの前を通り過ぎた後に、狙撃がされたと明記している。
 しかし、暗殺現場を撮影したザプルータ・フィルムによると、ケネディは前方からの銃撃によって前頭部を撃たれ、脳の一部が後方に飛んでいる。また頭が後ろにのけぞるほどの衝撃だった。
 このことは、後方のビルにいたオズワルドの単独犯行説では説明できない。

②オズワルドがいたと教科書ビルの窓からは、木の葉が邪魔して狙撃しにくい。単独犯なら確実に狙撃できる場所を選ぶはずである。

③オズワルドは「射撃の名手」とされるが、海兵隊時代の記録からは名手とは言えない。なにより、オズワルドには銃を撃った後に検出される硝煙反応が検出されなかった。

④大統領を討った1発目の銃弾はそれたが、2発目は首、3発目は頭部に当たり、ケネディは民衆の前で倒れた。
 報告書は、犯人は5秒程度で3発発射したとしている。しかし、オズワルドが使用したボルトアクション方式のカルカノ銃では、5秒程度の間に3発発射し、うち2発を命中させるのは至難である。

⑤大統領に致命傷を与えた最も正確な射撃は3発目とされる。しかし、通常は1発、2発、3発と撃つごとに照準に狂いを生じる。

⑥大統領と同乗者の他の被弾箇所は、5箇所ある。報告書は1発の銃弾というが、それでは、ほぼ説明不可能である。多方向から撃たれていると考えられ、複数犯である可能性が高い。

⑦報告書は、ケネディ大統領の頭蓋骨に銃弾が命中したとしている。銃弾は骨に当たると少なからず変形する。しかし、公表された銃弾には、変形がなく、新品のようだった。

⑧オズワルドは「やったのは俺じゃない。俺は身代わりにされた。そう、はめられたのだ」と述べた。その後、彼は取調べの始まらないうちに殺害された。場所は、こともあろうにダラス警察署内だった。通常警察署内に武器は持ち込めない。警察が殺人を容認していた可能性がある。

⑧オズワルド殺害の犯人ジャック・ルビーは、ユダヤ系マフィアの大物マイヤー・ランスキーの手下だった。ルビーもユダヤ人だった。ウォーレン委員会でウォーレン委員長は、ルビーに証言させないことを決定した。真相解明のためには、ルビーの証言は不可欠なのにである。

⑨大統領の車が通るルートは、突然変更になった。通常、シークレット・サービスなどによりあらかじめ通る場所が綿密に選定され、緊急事態などの状況以外にはルートを突発的に変更する可能性は低い。

⑩2006年(平成18年)3月、暗殺直前の現場を撮影した動画がネットに掲示された。ケネディの乗ったオープンカーの動きを後ろから取った映像である。大統領の乗った車の後ろから警護する車の中で、背広姿の男が立ち上がる。その男が合図をすると、ケネディの車のすぐ脇にいたシークレット・サービスが車の側から離れる。指示をされた警護員は、手を広げてどうしてだというポーズを取る。大統領の乗った車は、無防備な状態でパレードを続け、銃弾を浴びた。

⑪事件の目撃者、関係者は21人いた。その全員が事件後4年以内に亡くなっている。死因は変死、交通事故などとされている。21人もの目撃者、関係者が全員4年以内に亡くなることは、確率的に極めて低く、特異な現象である。

 以上、事件の不可解な点のうち、主なものを挙げた。
 事件直後、何者かが真相を隠そうとしているという疑いが広がった。しかし、マスコミは、報告書の矛盾を暴露し、異議を申し立てることをしなかった。事件は、うやむやになっていった。
 現職の大統領が白昼公然と暗殺されるという重大事件だというのに、事件の真相は、21世紀の今日もなお解明されていない。証拠物件は、政府によって、2039年まで公開されないことになっているからである。なぜそうしなければならないのか。極めて不自然であり、私は真相を隠蔽する意図を感じる。

 次回に続く。
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現代の眺望と人類の課題44

2008-10-24 09:56:07 | 歴史
●アメリカを動かす軍産複合体

 第2次世界大戦を通じて、アメリカでは軍需産業が大いに繁栄した。その中から軍産複合体が出現する。軍産複合体は、その後のアメリカの政治に大きな影響を与え、政府の政策を左右するようになる。
 軍需産業は、産業資本である。産業資本と金融資本は、共通利益で結ばれている。産業資本が金融資本を潤し、金融資本は産業資本を支える。これらの資本にとって、最大のビジネスチャンスは戦争である。戦争は、一大公共事業であり、多大な需要を生み出す。また雇用も生み出す。ケインズは、完全雇用は戦争以外では実現できないことを認識していた。ニューディール政策は、戦争によって初めて限界を破り、戦争によってアメリカは未曾有の好景気に入った。
 大戦後のアメリカは、軍事的にも経済的にも世界最大の強国となった。戦争で成長した軍需産業の中から、戦争で利益を上げる大規模な企業集団が出現した。その企業集団と国防総省、軍、CIA等が結びつき、巨大な勢力となった。それが軍産複合体である。

 軍産複合体は、核兵器の開発の中で形成された。アメリカは、世界に先駆けて原子爆弾の開発を進め、これに成功した。原爆の開発には、最先端の科学が応用され、大規模な新施設や多くの人員が必要である。開発費も莫大である。軍需産業にとっては、通常兵器とは規模の違うビジネスが、核兵器の開発・生産だった。そこに軍産複合体が形成された。
 いったん肥大化した軍需産業は、利益を維持するため、需要の継続を求める。戦後のアメリカには、ソ連による世界の共産化を防ぎ、自由とデモクラシーを守る使命があった。そのため、軍事力を増強し、世界各地に広く軍隊を派遣した。アメリカ軍が世界各地に駐屯することにより、アメリカの軍需産業は政府から多くの受注を受けた。
 しかし、軍需産業にとって最も大きなビジネスチャンスは、戦争である。戦争は、武器・弾薬を始め、兵隊の食糧・生活物資等、膨大な需要を生む。恩恵を受ける企業は多くの分野に及ぶ。自国が戦場にならない戦争は、大いに儲かる。だから軍需産業は、新たな戦争を求める。そしていったん戦争が始まると、これを可能な限り長引かせようとする。戦争が長く続くほど軍需産業は潤う。アメリカに出現した軍産複合体は、自らの利益のため、政府に働きかけ、政策を左右するようになっていった。

●アイゼンハワーの警告とケネディの暗殺

 大戦終結から5年を経た1961年(昭和36年)の1月、アイゼンハワー大統領は、全米に中継放送された辞任演説で、軍産複合体の危険性を国民に語った。「この巨大な軍隊と軍需産業の複合体は、アメリカが経験したことのない新しいものである。(略)大変な不幸をもたらす見当違いな権力が増大していく可能性がある。軍産複合体が我々の自由と民主主義の体制を危険に陥れるのを、手をこまねいて待っていてはいけない」と。
 アイゼンハワーは、第2次世界大戦で連合国軍総司令官としてノルマンジー作戦を成功させた英雄である。その軍人上がりの大統領が、軍産複合体が政治に介入し、政府を動かそうとしていることを国民に警告した。当時、巨大化した兵器工業界、軍事技術開発機関、軍事関係議員、軍事ロビイスト等が連携し、それぞれの利益のために軍拡路線を推進しようとしていたのである。

 アイゼンハワーの後任は、ジョン・F・ケネディだった。ケネディは、アイクの警告をよく理解し、積極的な対応を試みた。
 しかし、ケネディは1963年(昭和38年)11月22日、テキサス州ダラスでパレード中に暗殺された。テレビで生中継されている間の衝撃的な出来事だった。自由とデモクラシーの国・アメリカで、現職の大統領が白昼、大衆の注視の中で暗殺されたのである。
 政府はすぐ、連邦最高裁長官のウォーレンを委員長とする真相究明委員会を設置した。委員会は、事件の約10ヵ月後、オズワルドの単独犯行だとする最終報告書を出した。報告書には矛盾が多く、この事件には不可解な点が多い。今日もなお証拠が公開されておらず、真相は不明なままである。そして、ケネディの死後、軍産複合体は一層強大化し、アメリカのみならず世界の動向に重大な影響を及ぼしている。
 私は、ケネディ暗殺事件の真相が解明されなければ、アメリカ合衆国の重大部分を把握することができないと思う。またアメリカという覇権国家の深部が明らかにならなければ、現代世界の諸問題を根底からとらえることには難しい点があると思う。そういう意味で、封印されたケネディ暗殺事件の真相解明は、人類にとって重要な課題の一つだと私は思っている。

 次回に続く。

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現代の眺望と人類の課題43

2008-10-23 09:34:39 | 歴史
●ベトナム戦争へのわが国の関与

 ベトナム戦争で、アメリカ側は5万8000人が戦死した。ベトナム側は、3000万のうち360万人が死亡したという。この戦争は、米ソ冷戦期最大の紛争だった。イデオロギー・体制間の戦いであり、資本主義・自由主義と共産主義・統制主義が激突した。それとともに、ベトナム戦争は、第2次大戦後最大の民族解放戦争だった。西洋白人種とアジア有色人種が戦い、西洋の文明とアジアの文明とが衝突した。私の見方では、20世紀の東アジアにおいて、シナ事変・大東亜戦争、朝鮮戦争に続く、第3次東アジア戦争に位置づけられる。

 こうした性格を持つベトナム戦争に、わが国は関与した。アメリカ第7艦隊は、横須賀・佐世保・那覇を基地とした。北爆を行ったB52戦略爆撃機は、沖縄とグアムを基地とした。佐藤栄作政権は、最後まで南ベトナムに経済的援助を続けた。またベトナム戦争は、朝鮮戦争同様、戦争特需をもたらした。軍隊は多くの物資を消費する。その需要は未曾有の好景気を生み、「いざなぎ景気」と呼ばれた。それがわが国の高度経済成長の一要因となった。
 ベトナム戦争当時、戦争に反対する市民運動が広がった。「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)は市民運動の新たな形態となった。ある者は素朴に戦争に反対し、ある者はベトナムのナショナリズムに共感し、ある者は共産主義に理想を抱いた。反戦運動の一部は、大学紛争や全共闘運動と結びついて、暴力革命を目指す運動へと過激化した。

 わが国だけではなく、ベトナムに平和と独立を願った人々は、世界に多くいた。しかし、統一後のベトナムは、期待を裏切ることが続いた。
 自分たちの国家を築き、国家建設を進めているはずのベトナムから、毎年数万人もの人々が祖国から脱出した。粗末な船で海を渡る人々は、ボートピープルと呼ばれ、難民となった。
 ベトナムは超大国の介入を退け、撃滅して追い払ったはずだった。ところが、そのベトナムが、隣国のカンボジアに侵攻し、覇権主義的な行動を取った。これに対し、カンボジアを支援してきた中国がベトナムに侵攻した。アジアにおいては、社会主義国同士が戦争をしたのである。こうした出来事の数々は、多くの市民運動家や共産主義者の理解を絶していた。

●統一後のベトナムの変遷

 統一後の社会主義国ベトナムは、経済がうまくいかなかった。戦争の爪あとは深く、環境破壊や毒物汚染の影響もある。しかし、根本原因は社会主義政策そのものにある。1986年(昭和61年)、ついにベトナム共産党は、ドイモイ(刷新)という改革路線を決定した。この路線は、ソ連のペレストロイカ(建て直し)や中国の改革開放路線に通じるもので、一定程度、自由主義的な政策を取り入れるものである。ベトナムは95年(平成3年)、東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟し、さらに敵国だったアメリカとの国交を回復した。
 こうした改革の結果、ベトナム経済は1990年代以降、急成長を行っている。ベトナムは、今やアジアの新興工業国の一つとして目覚しい発展を遂げつつある。

 統一後のベトナムの歩みをどう評価するか。ベトナムの独立戦争をアジアのナショナリズムの観点から支持した人々は、今日の発展を称賛するだろう。これに対し、コミュニズムの立場から支持した人々は、ベトナムの歩みをよしとするのか。それともベトナムに幻滅し、また共産主義そのものに幻滅したのか。左翼的知識人、文化人には見解を明らかにせず、ものを言ってもあいまいな人が多い。
 しかし、ベトナムは、ナショナリズムとコミュニズム、西洋文明とアジア諸文明、国家と民族等の問題において、無視できない存在である。米ソ冷戦期最大の紛争であり、第2次大戦後最大の民族解放戦争だったベトナム戦争は、現代の世界史の重要事件であり、統一ベトナムはその結果、生まれた国だからである。

 ベトナム戦争に関して、もう一点、書いておきたいことがある。それは、韓国の参戦である。韓国はベトナム戦争で海外に軍隊を派遣した。アメリカ以外に5カ国が参戦したが、本格的な戦闘に参加したのは、韓国軍だけである。韓国はのべ37万人の兵士を送り、ベトナム人と戦った。ベトナム側から見れば、侵略者である。韓国側は4400人以上が戦死した。韓国とすれば、北朝鮮と対抗するために、アジアにおける共産主義の伸張を防ぎたいという目的があっただろう。
 韓国は、今もわが国が統治していた時代について、わが国を批判している。その時代の虐待・虐殺や慰安婦などが強調される。しかし、2000年4月12日付の「ニューズウィーク」日本版は、ベトナム戦争で韓国軍は、8千人以上のベトナム民間人を虐殺したと報じた。また、ベトナム人女性が多く非管理売春婦にさせられ、韓国人との間に生まれた混血児が1万人以上いるという。こうした点も含め、物事は多角的に見て判断するべきだろう。

 次回に続く。

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現代の眺望と人類の課題42

2008-10-21 08:54:48 | 歴史
●金ドル交換停止のニクソン・ショック

 ベトナム戦争に本格的に参戦したアメリカは、1965年(昭和40年)には地上軍を5万人派遣した。しかし66年(41年)には54万人へと一挙に増員した。また、核兵器以外のあらゆる最新科学兵器を使用した。特に森林を枯死させる枯葉剤は、生態系を破壊する兵器であり、含有された猛毒物資ダイオキシンの影響により、多くの奇形児・障害者が生まれた。
 しかし、ベトナム民族の抵抗は強く、アメリカ軍はべトミンとNLFを打ち破ることは出来なかった。ジャングルでの戦いに兵士は疲弊し、麻薬におぼれる者が多く出た。他方、NLFは民衆の支持を得て、北ベトナム、ソ連、中国などから武器の提供を受け、農村地帯を完全に支配下に置いた。69年(44年)には、南ベトナム臨時革命政府が樹立された。

 アメリカは、アジアのナショナリズムとコミュニズムに激突した。ベトナム戦争は、朝鮮戦争をはるかに上回る規模となり、長期化し泥沼化した。アメリカの国内では、戦争目的への疑い、多くの若者の戦死、帰国者の障害や麻薬中毒、社会道徳の低下等により、政府への批判が高まった。アメリカ社会の支えとなってきた理想や規範が損失した。道徳は低下し、治安は悪化し、人心は荒廃した。反戦運動は国外にも広がり、国際共産主義運動、人権運動と結びついて、アメリカへの反発が強まった。

 戦争は、軍産複合体や巨大国際金融資本には、巨大な利益をもたらすが、国家経済には大きな負担となる。ベトナム戦争の出費により、アメリカの貿易収支は、1971年(昭和46年)に、80数年来初めてという27億ドルの赤字となった。第2次大戦後、圧倒的な経済力を誇ったアメリカは、1960年代には「黄金の60年代」といわれた。豊かで、明るく、幸せなアメリカは、憧れの国であり、世界の羨望を集めた。しかし、ベトナム戦争で、アメリカ社会に没落の兆しが表われた。
 戦費拡大はドル不安をもたらし、アメリカに経済的な危機が迫った。ドルを守るためニクソン大統領は、71年(46年)8月、金ドル交換停止を宣言し、世界にドル・ショックをもたらした。ニクソン・ショックともいう。金ドル交換停止は、大戦後の国際経済秩序を定めたブレトン・ウッズ体制の崩壊と一般に言われる。私は、全面的な崩壊ではなく、部分的崩壊というべきであり、ブレトン・ウッズ体制を変形した形で、現在の国際経済体制が維持されていると考える。

●アメリカが撤退、ベトナムは統一

 ニクソンは72年(47年)2月、共産中国を訪問した。それまで対立関係にあった中国と接近した。これは、ベトナムに背後にいる中国とソ連が、中ソ対立で緊迫化している状況を捉えて、中ソ分断を狙うものだった。
 この外交政策を計画・実行したのが、大統領補佐官のキッシンジャーである。キッシンジャーはユダヤ人であり、やはりユダヤ人の国際政治学者であるモーゲンソーの現実主義的外交を継承・実践した。キッシンジャーは、一貫してイスラエルを支持するシオニストでもある。

 こうしてニクソンは、ドルを守る体制をつくり、また中ソを分断した上で、73年(48年)パリ和平協定に調印し、ベトナムから撤退した。
 アメリカは、直接介入するのではなく、南ベトナムを軍事的に支援する方針に切り替えた。ベトナム人同士で戦うこととなった。これを「戦争のベトナム化」という。
 内戦は続いた。それから2年余り南ベトナムは持ちこたえたが、劣勢は明らかだった。75年(50年)、NLFはホー・チミン作戦という大攻勢を展開し、首都サイゴン(現ホー・チミン)が陥落した。その結果、ベトナム戦争はようやく終結した。翌76年南北統一の総選挙が行われ、ベトナム社会主義共和国が建国された。
 世界最大の強国アメリカは敗れ、アジアの弱小民族が統一を勝ち取った。

 次回に続く。
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現代の眺望と人類の課題41

2008-10-20 10:41:28 | 歴史
●ベトナムが東西対決の場に

 ベトナムは、19世紀以来、フランスの植民地だった。仏領インドシナの一部をなしていた。第2次世界大戦でフランスがナチス・ドイツに敗れ、親独のヴィシー政権が成立した。日本は、ヴィシー政権との合意の下に、1940年(昭和16年)9月、北部仏印に進出した。さらに41年(17年)3月には、南部仏印に進出した。
 以後日本はベトナムを占領することになるが、45年(20年)8月、大戦で敗北した。すると、ベトナム各地で蜂起がされた。共産主義者が組織したベトナム独立同盟(ベトミン)の指導による動きである。9月には、ベトナム共産党の指導者ホー・チミンが独立を宣言し、ベトナム民主共和国が成立した。独立を認めない旧宗主国フランスは、バオ・ダイを元首とするベトナム国を発足させた。そして、46年(21年)12月、アメリカの支援を受け、ベトナム民主共和国への攻撃を開始した。ホー・チミンは徹底抗戦を呼びかけ、ここに第1次インドシナ戦争が始まった。
 この戦争は、アジアにおける植民地からの民族独立戦争の一つだった。しかし、ベトミンをソ連が支援したことにより、ベトナムは東西陣営の「対決の場」となった。

 戦争は、8年間続いた。54年(29年)ディエンビエフーで、フランス軍がベトナム解放軍に包囲殲滅された。その結果、ジュネーブ協定が調印された。協定により、北緯17度線が暫定的な軍事境界線となった。また2年後に総選挙を行い、統一政府を樹立することが約束された。しかし、これではベトナムの共産化は必至と見たアメリカは、ジュネーブ協定に調印せず、南ベトナムにゴ・ディン・ジェムを大統領とするベトナム共和国を樹立した。
 第1次インドシナ戦争後、ベトナムでは、アメリカと中ソがそれぞれ支援する二つの政権が南北に並存することになった。48年の朝鮮、49年のドイツに続いて、54年ベトナムも分断国家が固定されたわけである。
 アメリカは、ベトナムが共産化すれば、その波がドミノ倒しのように東南アジア全体に及ぶことを警戒した。これを「ドミノ理論」という。東欧はソ連によって共産化・従属化された。中国が共産化し、北朝鮮もソ連の勢力圏に入った。その上、東南アジアが次々に共産化したら、アメリカの世界的優位は崩れる。アメリカは、アジアの反共に力を入れた。ソ連も北ベトナムを支援した。米ソは直接対決はしない。双方が支援する者が戦う。そのことにより、米ソの代理戦争といわれる。

●アメリカが本格的にベトナムに介入

 南ベトナムでは、ゴ・ディン・ジェムは統一選挙を実施せず、反対派や仏教徒を厳しく弾圧した。アメリカは、自由とデモクラシーを旗印とするが、国益のためには、理念より実利を優先する。圧政への反発が強まり、60年(35年)南ベトナム解放民族戦線(NLF)が結成された。NLFは、北ベトナム(ベトナム民主共和国)の支援を受けてゲリラ戦を開始した。背後には、ソ連がいる。これが第2次インドシナ戦争である。一般には、ベトナム戦争と呼ぶ。
 アメリカのジョン・F・ケネディ大統領は、軍事顧問団を送る形でベトナムに軍事介入した。ケネディは、直接軍隊は派遣せず、65年(40年)には撤退する方針だった。しかし、63年11月22日に暗殺され、副大統領のリンドン・ジョンソンが後任となった。
 この間、ゴ・ディン・ジェムは、63年6月に暗殺された。後任政権も民衆の支持を得られず、反政府・反米の運動が拡大した。

 ジョンソンは、64年(39年)8月に起こったトンキン湾事件をきっかけとして、地上部隊を派遣した。しかし、最新装備のアメリカ軍が思わぬ苦戦となった。そこでジョンソンは、ゲリラを支援する北ベトナムを叩くべく、65年2月北爆を開始した。これがアメリカの本格的な参戦となった。これに対抗して、この年から共産中国が参戦した。それにより、戦争は長期化する。
 北爆のきっかけになったトンキン湾事件とは、64年8月4日北ベトナム海軍の魚雷艇が公海上でアメリカ艦船を攻撃したとされる事件である。憤激したアメリカ議会は、大統領に戦争の指揮大権を白紙委任する「トンキン湾決議」を行った。ジョンソンは決議を受けて、戦争を拡大した。
 ところが、トンキン湾事件は、ジョンソン政権の捏造だった。そのことを、1971年(昭和46年)にニューヨークタイムズの記者がペンタゴンの機密文書を入手して暴露した。事件当時の国防長官だったマクナマラは、それが事実であると1995年(平成7年)になって公式に認めた。大体、当時北ベトナムは、魚雷艇を持っていなかった。
 ベトナム戦争に関するアメリカ側の展開については、後に項目を改めて書く。

 次回に続く。

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