●CFR会員で親中反日派のリーダー格、ラティモア
ジョンズ・ホプキンズ大学の教授で、著名なシナ史学者だったオーウェン・ラティモアも、CFRの会員だった。彼の親中反日的な姿勢が、ルーズベルトの政策判断に大きな影響を与えた。
戦前のアメリカで、国務省内などに対日非難の世論を形作る中心的役割を果たしたものに、「太平洋問題調査会」(IPR:Institute of Pacific Relations)がある。ラティモアは、そのIPRの有力メンバーで、機関誌「太平洋評論」の編集長をしていた。
IPRは1925年(大正14年)、太平洋地域の政治・経済・社会問題の調査及び地域諸国民の相互理解を図ることを目的として設立された民間団体である。戦前から終戦直後の時期まで、太平洋地或に関して権威のある国際的な研究団体だった。イギリス、アメリカ、日本など、12カ国が加盟した。各国の学者・研究者・財界人・ジャーナリストらが会員となっていた。資金の約半分は、ロックフェラー財団とカーネギー財団が提供していた。
IPRは、わが国が32年(昭和8年)に国際連盟を脱退した後、唯一の国際的な窓口となっていた。しかし、IPRは国際協調のための団体ではなく、英米を中心とした国際秩序を維持・発展させるための団体だった。イギリスの王立国際問題研究会(RIIA)の下部組織として創設され、RIIAとCFRの連携が背骨となっていた。
IPRの中心的存在だったのが、ジェローム・D・グリーンである。先に書いたように、グリーンは円卓会議のメンバーであり、CFR創設期からの会員である。グリーンは、26年にIPRの規約を起草し、IPRのアメリカ評議会、国際評議会の要職を務めた。このことは、IPRには円卓会議の意思が反映していたことを示唆する。
アメリカのIPRは、アジア・太平洋戦争において、積極的に政府の政策立案に協力した。その提言は、総じて親中反日的だった。メンバーの中には、シナでの共産革命に理解を示す学者が多かった。なかでも、親中反日派のリーダー的存在だったのが、ラティモアである。彼はIPR機関誌の編集長として、シナを侵略する国として日本を追及する論陣を張っていた。こうしたラティモアの立場・活動が、グリーンと対立するものであったとは考えられない。円卓会議ーCRFーグリーンーラティモアを一本の線で結ぶことができ、そこに共通した意思が存在していただろうと私は推測する。
●ソ連の対米工作、CFRの容共親ソ体質
1930~40年代、アメリカは東アジアの覇権をめざした。そして、日本と対峙するために柱となった政策が、中華民国の蒋介石を支援する「援蒋政策」だった。アメリカは中立国の立場でありながら、援蒋政策によって国際法に反した種々の軍事援助を進めており、事実上、対日戦争に参戦していた。そのなかで、ラティモアは、蒋介石政権の顧問として、蒋介石に中国共産党との連携を勧めていた。
ラティモアを蒋介石政権の顧問に推薦し、ルーズベルト政権との直接のつながりを作ったのが、ロークリン・カリーである。カリーは、時代を代表するエコノミストであり、ニューディール政策を立案・推進したニューディーラーの一人だった。ニューディール第2期に、左派色の強い経済政策を企画した「ケインズ革命」の立役者が、カリーだった。
カリーは、ルーズベルトのアジア問題担当大統領補佐官となった。中国通としてルーズベルトや蒋介石に影響力を発揮した。そのカリーがルーズベルトと蒋介石を結ぶパイプとしてラティモアを推薦した。カリーは、ソ連のスパイだったことが明らかになっている。
近年、アメリカの公文書が公開され、アメリカは、日本が真珠湾攻撃を行う前の1941年(昭和16年)9月に、日本爆撃計画を策定していたことが判明した。真珠湾攻撃は、卑劣な「スニーク・アタック(奇襲攻撃)」と批判されているが、アメリカの方が先に先制攻撃を計画していた。この計画を推進したのが、カリーだった。ソ連のスパイとしてこの計画を推進したのは、日米を戦わせてソ連が漁夫の利を得るという構想によるものだろう。
ラティモアは戦後、日本占領政策の実行において、非常に強硬な姿勢を示し、厳しい政策を提案した。さらに、わが国の皇室制度の廃止を主張し、天皇と皇位継承の資格のあるすべての男子をシナに流して抑留し、国連の監視下に置くべきだと主張した。反日・反皇室の急先鋒である。こういう人物がCFRの会員であり、またIPRの有力メンバーだったのである。
そうしたラティモアが「虎の巻」(片岡鉄哉氏)としていたのが、歴史学者E・H・ノーマンの著作だった。ノーマンは、カナダ共産党の党員であり、その歴史観は、わが国の講座派の歴史理論に依拠していた。講座派は日本共産党の理論であり、日本共産党はコミンテルンの日本支部として設立された。それゆえ、ノーマンの歴史観はソ連共産党の理論に基にしたものだった。それがラティモアに影響を与えていたのである。
アメリカのIPRは、中国共産革命に理解を示す学者が多かったため、国内で激しい批判の対象となり、1961年(昭和36年)に解散に追いこまれた。グループの中で、特に厳しく追及されたのが、ラティモアだった。IPRがコミンテルンの宣伝機関となっていたことは、アメリカ上院司法委員会の調査報告で明らかになった。ラティモアの背後にコミンテルンがいたことは確実である。しかし、結局、ラティモアがスパイだという証拠は、上がらなかった。
アルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト、オーウェン・ラティモアーーCFRの会員であって、ソ連のスパイやエージェント、または協力者だった者ないしその可能性が高い者について書いてきた。どうして、CFRが、ソ連や共産主義に入り込まれたのか。
ひとつの側面は、ソ連がCFRに注目し、工作を行ったからである。アメリカ外交に強い影響力を持つCFRに工作員を送り込み、同調者や協力者、さらにスパイを作り出す。直接政府部内にも工作を行って、ルーズベルトの側近や頭脳にまで、同調者や協力者、さらにスパイを作り出す。共産主義はこうした謀略に巧みであり、CFRはソ連の格好の工作対象となったのだろう。
もうひとつの側面は、CFR自体に容共親ソの傾向・体質があったことである。CFRはイギリス円卓会議の下部組織として設立され、巨大国際金融資本が人材・資金を提供していた。いわば資本主義の牙城ともいうべき存在である。ところが、巨大国際金融資本は共産主義者を支援し、ソ連との契約で莫大な利益を上げていた。思想・イデオロギーに関係なく、利益の得られるところに入り込む。こうした巨大国際金融資本が支配しているCFRは、容共親ソの政策を多く提言した。巨大国際金融資本は、国家の利益より資本の利益、国家の論理より資本の論理を追求する。CFRの活動の多くは、資金提供者の意思を政策的に推進するものとなったのである。
これらの二つの側面、ソ連側とCFR側の両方が合わさったところに生まれたのが、ヒスでありホワイトでありラティモアらであったと言えるだろう。
次回に続く。
関連掲示
・拙稿「日本を操る赤い糸~田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion07b.htm
第9章 ヤルタ会談でもソ連スパイが暗躍
第10章 ニューディーラーが日本を改悪
ジョンズ・ホプキンズ大学の教授で、著名なシナ史学者だったオーウェン・ラティモアも、CFRの会員だった。彼の親中反日的な姿勢が、ルーズベルトの政策判断に大きな影響を与えた。
戦前のアメリカで、国務省内などに対日非難の世論を形作る中心的役割を果たしたものに、「太平洋問題調査会」(IPR:Institute of Pacific Relations)がある。ラティモアは、そのIPRの有力メンバーで、機関誌「太平洋評論」の編集長をしていた。
IPRは1925年(大正14年)、太平洋地域の政治・経済・社会問題の調査及び地域諸国民の相互理解を図ることを目的として設立された民間団体である。戦前から終戦直後の時期まで、太平洋地或に関して権威のある国際的な研究団体だった。イギリス、アメリカ、日本など、12カ国が加盟した。各国の学者・研究者・財界人・ジャーナリストらが会員となっていた。資金の約半分は、ロックフェラー財団とカーネギー財団が提供していた。
IPRは、わが国が32年(昭和8年)に国際連盟を脱退した後、唯一の国際的な窓口となっていた。しかし、IPRは国際協調のための団体ではなく、英米を中心とした国際秩序を維持・発展させるための団体だった。イギリスの王立国際問題研究会(RIIA)の下部組織として創設され、RIIAとCFRの連携が背骨となっていた。
IPRの中心的存在だったのが、ジェローム・D・グリーンである。先に書いたように、グリーンは円卓会議のメンバーであり、CFR創設期からの会員である。グリーンは、26年にIPRの規約を起草し、IPRのアメリカ評議会、国際評議会の要職を務めた。このことは、IPRには円卓会議の意思が反映していたことを示唆する。
アメリカのIPRは、アジア・太平洋戦争において、積極的に政府の政策立案に協力した。その提言は、総じて親中反日的だった。メンバーの中には、シナでの共産革命に理解を示す学者が多かった。なかでも、親中反日派のリーダー的存在だったのが、ラティモアである。彼はIPR機関誌の編集長として、シナを侵略する国として日本を追及する論陣を張っていた。こうしたラティモアの立場・活動が、グリーンと対立するものであったとは考えられない。円卓会議ーCRFーグリーンーラティモアを一本の線で結ぶことができ、そこに共通した意思が存在していただろうと私は推測する。
●ソ連の対米工作、CFRの容共親ソ体質
1930~40年代、アメリカは東アジアの覇権をめざした。そして、日本と対峙するために柱となった政策が、中華民国の蒋介石を支援する「援蒋政策」だった。アメリカは中立国の立場でありながら、援蒋政策によって国際法に反した種々の軍事援助を進めており、事実上、対日戦争に参戦していた。そのなかで、ラティモアは、蒋介石政権の顧問として、蒋介石に中国共産党との連携を勧めていた。
ラティモアを蒋介石政権の顧問に推薦し、ルーズベルト政権との直接のつながりを作ったのが、ロークリン・カリーである。カリーは、時代を代表するエコノミストであり、ニューディール政策を立案・推進したニューディーラーの一人だった。ニューディール第2期に、左派色の強い経済政策を企画した「ケインズ革命」の立役者が、カリーだった。
カリーは、ルーズベルトのアジア問題担当大統領補佐官となった。中国通としてルーズベルトや蒋介石に影響力を発揮した。そのカリーがルーズベルトと蒋介石を結ぶパイプとしてラティモアを推薦した。カリーは、ソ連のスパイだったことが明らかになっている。
近年、アメリカの公文書が公開され、アメリカは、日本が真珠湾攻撃を行う前の1941年(昭和16年)9月に、日本爆撃計画を策定していたことが判明した。真珠湾攻撃は、卑劣な「スニーク・アタック(奇襲攻撃)」と批判されているが、アメリカの方が先に先制攻撃を計画していた。この計画を推進したのが、カリーだった。ソ連のスパイとしてこの計画を推進したのは、日米を戦わせてソ連が漁夫の利を得るという構想によるものだろう。
ラティモアは戦後、日本占領政策の実行において、非常に強硬な姿勢を示し、厳しい政策を提案した。さらに、わが国の皇室制度の廃止を主張し、天皇と皇位継承の資格のあるすべての男子をシナに流して抑留し、国連の監視下に置くべきだと主張した。反日・反皇室の急先鋒である。こういう人物がCFRの会員であり、またIPRの有力メンバーだったのである。
そうしたラティモアが「虎の巻」(片岡鉄哉氏)としていたのが、歴史学者E・H・ノーマンの著作だった。ノーマンは、カナダ共産党の党員であり、その歴史観は、わが国の講座派の歴史理論に依拠していた。講座派は日本共産党の理論であり、日本共産党はコミンテルンの日本支部として設立された。それゆえ、ノーマンの歴史観はソ連共産党の理論に基にしたものだった。それがラティモアに影響を与えていたのである。
アメリカのIPRは、中国共産革命に理解を示す学者が多かったため、国内で激しい批判の対象となり、1961年(昭和36年)に解散に追いこまれた。グループの中で、特に厳しく追及されたのが、ラティモアだった。IPRがコミンテルンの宣伝機関となっていたことは、アメリカ上院司法委員会の調査報告で明らかになった。ラティモアの背後にコミンテルンがいたことは確実である。しかし、結局、ラティモアがスパイだという証拠は、上がらなかった。
アルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト、オーウェン・ラティモアーーCFRの会員であって、ソ連のスパイやエージェント、または協力者だった者ないしその可能性が高い者について書いてきた。どうして、CFRが、ソ連や共産主義に入り込まれたのか。
ひとつの側面は、ソ連がCFRに注目し、工作を行ったからである。アメリカ外交に強い影響力を持つCFRに工作員を送り込み、同調者や協力者、さらにスパイを作り出す。直接政府部内にも工作を行って、ルーズベルトの側近や頭脳にまで、同調者や協力者、さらにスパイを作り出す。共産主義はこうした謀略に巧みであり、CFRはソ連の格好の工作対象となったのだろう。
もうひとつの側面は、CFR自体に容共親ソの傾向・体質があったことである。CFRはイギリス円卓会議の下部組織として設立され、巨大国際金融資本が人材・資金を提供していた。いわば資本主義の牙城ともいうべき存在である。ところが、巨大国際金融資本は共産主義者を支援し、ソ連との契約で莫大な利益を上げていた。思想・イデオロギーに関係なく、利益の得られるところに入り込む。こうした巨大国際金融資本が支配しているCFRは、容共親ソの政策を多く提言した。巨大国際金融資本は、国家の利益より資本の利益、国家の論理より資本の論理を追求する。CFRの活動の多くは、資金提供者の意思を政策的に推進するものとなったのである。
これらの二つの側面、ソ連側とCFR側の両方が合わさったところに生まれたのが、ヒスでありホワイトでありラティモアらであったと言えるだろう。
次回に続く。
関連掲示
・拙稿「日本を操る赤い糸~田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion07b.htm
第9章 ヤルタ会談でもソ連スパイが暗躍
第10章 ニューディーラーが日本を改悪