ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

現代の眺望と人類の課題71

2008-11-30 08:47:09 | 歴史
●CFR会員で親中反日派のリーダー格、ラティモア

 ジョンズ・ホプキンズ大学の教授で、著名なシナ史学者だったオーウェン・ラティモアも、CFRの会員だった。彼の親中反日的な姿勢が、ルーズベルトの政策判断に大きな影響を与えた。
 戦前のアメリカで、国務省内などに対日非難の世論を形作る中心的役割を果たしたものに、「太平洋問題調査会」(IPR:Institute of Pacific Relations)がある。ラティモアは、そのIPRの有力メンバーで、機関誌「太平洋評論」の編集長をしていた。
 IPRは1925年(大正14年)、太平洋地域の政治・経済・社会問題の調査及び地域諸国民の相互理解を図ることを目的として設立された民間団体である。戦前から終戦直後の時期まで、太平洋地或に関して権威のある国際的な研究団体だった。イギリス、アメリカ、日本など、12カ国が加盟した。各国の学者・研究者・財界人・ジャーナリストらが会員となっていた。資金の約半分は、ロックフェラー財団とカーネギー財団が提供していた。

 IPRは、わが国が32年(昭和8年)に国際連盟を脱退した後、唯一の国際的な窓口となっていた。しかし、IPRは国際協調のための団体ではなく、英米を中心とした国際秩序を維持・発展させるための団体だった。イギリスの王立国際問題研究会(RIIA)の下部組織として創設され、RIIAとCFRの連携が背骨となっていた。
 IPRの中心的存在だったのが、ジェローム・D・グリーンである。先に書いたように、グリーンは円卓会議のメンバーであり、CFR創設期からの会員である。グリーンは、26年にIPRの規約を起草し、IPRのアメリカ評議会、国際評議会の要職を務めた。このことは、IPRには円卓会議の意思が反映していたことを示唆する。

 アメリカのIPRは、アジア・太平洋戦争において、積極的に政府の政策立案に協力した。その提言は、総じて親中反日的だった。メンバーの中には、シナでの共産革命に理解を示す学者が多かった。なかでも、親中反日派のリーダー的存在だったのが、ラティモアである。彼はIPR機関誌の編集長として、シナを侵略する国として日本を追及する論陣を張っていた。こうしたラティモアの立場・活動が、グリーンと対立するものであったとは考えられない。円卓会議ーCRFーグリーンーラティモアを一本の線で結ぶことができ、そこに共通した意思が存在していただろうと私は推測する。

●ソ連の対米工作、CFRの容共親ソ体質

 1930~40年代、アメリカは東アジアの覇権をめざした。そして、日本と対峙するために柱となった政策が、中華民国の蒋介石を支援する「援蒋政策」だった。アメリカは中立国の立場でありながら、援蒋政策によって国際法に反した種々の軍事援助を進めており、事実上、対日戦争に参戦していた。そのなかで、ラティモアは、蒋介石政権の顧問として、蒋介石に中国共産党との連携を勧めていた。
 ラティモアを蒋介石政権の顧問に推薦し、ルーズベルト政権との直接のつながりを作ったのが、ロークリン・カリーである。カリーは、時代を代表するエコノミストであり、ニューディール政策を立案・推進したニューディーラーの一人だった。ニューディール第2期に、左派色の強い経済政策を企画した「ケインズ革命」の立役者が、カリーだった。
 カリーは、ルーズベルトのアジア問題担当大統領補佐官となった。中国通としてルーズベルトや蒋介石に影響力を発揮した。そのカリーがルーズベルトと蒋介石を結ぶパイプとしてラティモアを推薦した。カリーは、ソ連のスパイだったことが明らかになっている。
 近年、アメリカの公文書が公開され、アメリカは、日本が真珠湾攻撃を行う前の1941年(昭和16年)9月に、日本爆撃計画を策定していたことが判明した。真珠湾攻撃は、卑劣な「スニーク・アタック(奇襲攻撃)」と批判されているが、アメリカの方が先に先制攻撃を計画していた。この計画を推進したのが、カリーだった。ソ連のスパイとしてこの計画を推進したのは、日米を戦わせてソ連が漁夫の利を得るという構想によるものだろう。

 ラティモアは戦後、日本占領政策の実行において、非常に強硬な姿勢を示し、厳しい政策を提案した。さらに、わが国の皇室制度の廃止を主張し、天皇と皇位継承の資格のあるすべての男子をシナに流して抑留し、国連の監視下に置くべきだと主張した。反日・反皇室の急先鋒である。こういう人物がCFRの会員であり、またIPRの有力メンバーだったのである。
 そうしたラティモアが「虎の巻」(片岡鉄哉氏)としていたのが、歴史学者E・H・ノーマンの著作だった。ノーマンは、カナダ共産党の党員であり、その歴史観は、わが国の講座派の歴史理論に依拠していた。講座派は日本共産党の理論であり、日本共産党はコミンテルンの日本支部として設立された。それゆえ、ノーマンの歴史観はソ連共産党の理論に基にしたものだった。それがラティモアに影響を与えていたのである。
 アメリカのIPRは、中国共産革命に理解を示す学者が多かったため、国内で激しい批判の対象となり、1961年(昭和36年)に解散に追いこまれた。グループの中で、特に厳しく追及されたのが、ラティモアだった。IPRがコミンテルンの宣伝機関となっていたことは、アメリカ上院司法委員会の調査報告で明らかになった。ラティモアの背後にコミンテルンがいたことは確実である。しかし、結局、ラティモアがスパイだという証拠は、上がらなかった。

 アルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト、オーウェン・ラティモアーーCFRの会員であって、ソ連のスパイやエージェント、または協力者だった者ないしその可能性が高い者について書いてきた。どうして、CFRが、ソ連や共産主義に入り込まれたのか。
 ひとつの側面は、ソ連がCFRに注目し、工作を行ったからである。アメリカ外交に強い影響力を持つCFRに工作員を送り込み、同調者や協力者、さらにスパイを作り出す。直接政府部内にも工作を行って、ルーズベルトの側近や頭脳にまで、同調者や協力者、さらにスパイを作り出す。共産主義はこうした謀略に巧みであり、CFRはソ連の格好の工作対象となったのだろう。
 もうひとつの側面は、CFR自体に容共親ソの傾向・体質があったことである。CFRはイギリス円卓会議の下部組織として設立され、巨大国際金融資本が人材・資金を提供していた。いわば資本主義の牙城ともいうべき存在である。ところが、巨大国際金融資本は共産主義者を支援し、ソ連との契約で莫大な利益を上げていた。思想・イデオロギーに関係なく、利益の得られるところに入り込む。こうした巨大国際金融資本が支配しているCFRは、容共親ソの政策を多く提言した。巨大国際金融資本は、国家の利益より資本の利益、国家の論理より資本の論理を追求する。CFRの活動の多くは、資金提供者の意思を政策的に推進するものとなったのである。
 これらの二つの側面、ソ連側とCFR側の両方が合わさったところに生まれたのが、ヒスでありホワイトでありラティモアらであったと言えるだろう。
 
 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「日本を操る赤い糸~田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion07b.htm
 第9章 ヤルタ会談でもソ連スパイが暗躍
 第10章 ニューディーラーが日本を改悪

現代の眺望と人類の課題70

2008-11-28 09:59:55 | 歴史
●CFR会員でソ連の大物スパイ、ヒス

 1995年(平成7年)7月、アメリカ政府は、それまで非公開としてきたソ連の暗号電報を公開した。暗号の解読は、1943年(昭和18年)から陸軍の特殊部隊によって行われていた。最高機密活動で「ヴェノナ作戦」(Venona project)と呼ばれた。その資料公開によって、1940年代から50年代にかけて、アメリカ政府内部に、100人以上ものソ連のスパイが潜入していたことが確認された。彼らは、ホワイトハウス・国務省・財務省・司法省や、CIAの前進である戦略情報局(OSS)、陸軍省等で暗躍していた。CFR会員のアルジャー・ヒスこそ、そのうち最大級の大物スパイだった。
 ヒスは、国務省の高官として、ルーズベルト政権に仕えた。ヤルタ会談の際には、ルーズベルトに随行し、国務省を代表して会談に出席して、重病のルーズベルトを補佐した。ヤルタ協定の草案は、ヒスが作成したものだった。ルーズベルトは、ソ連の参戦と引き換えに、東欧と日本の領土の一部をソ連に渡すことにした。密約には、ソ連の主張は日本の降伏後、異論なく完全に達成されることで合意した、と定めている。ルーズベルトは、会談の約2ヵ月後に死亡しており、会談当時、体調が健全な判断力を持っていたとは考えにくい。スターリンの意思を受けたヒスがルーズベルトの判断に強い影響を与えたと考えられる。

 ヒスはヤルタ会談後、「国連=連合国」の機関としての立ち上げに活躍し、国連設立のためのサンフランシスコ会議の事務局長を務め、国連憲章の起草にも参加した。国連が発行していたパンフレット「国連を知ろう」の第1~2項に、「ヤルタでスターリンが、第2次大戦での援助と引換えに平和のための国連設立をルーズベルトに求め、ルーズベルトはアルジャー・ヒスが用意していた案を受け入れた」との記述がある。
 この説明に基づけば、国連とは、スターリンがソ連の国益の追求と世界の共産化という野望の下で、ルーズベルトに設立を要求したものと考えられる。しかも、ソ連のスパイだったヒスが枠組みを考案して、ルーズベルトに受け入れさせたことになろう。
 戦後、マッカーシー上院議員の活動により、ルーズベルト政権下で暗躍したソ連のスパイや共産主義者が告発された。ヒスは、偽証の有罪判決を下され、5年の懲役が宣告された。しかし、スパイ行為に関しては、出訴期限が尽きたために訴追は受けなかった。

●ハル・ノートを起草したホワイトもCFR会員

 CFR会員で、ソ連のエージェントだった疑いがある大物が、ハリー・デクスター・ホワイトである。ホワイトはソ連の諜報組織と関係を持ち、ソ連の指示に従ってハル・ノートの原案を起草した可能性がある。
 戦前、ホワイトは財務省のエリートだった。ルーズベルト大統領に強い影響力を持つ財界の大物・財務長官モーゲンソーの右腕であり、頭脳だった。ホワイトの書いたものは、そのままモーゲンソーが署名し、モーゲンソーの文書として大統領に提案されたという。
 アメリカ連邦捜査局(FBI)は、ホワイトがソ連と通じていることをつかんでいた。しかし、政府はホワイトを要職に任命し続けた。
 戦後、ホワイトはブレトンウッズ協定を立案し、イギリス代表のケインズと渡り合い、アメリカ主導による戦後の世界通貨金融システムを構築した。その後、自らIMFの理事長となったホワイトに、1948年(昭和23年)7月、疑惑が起こった。
 共産党の女性スパイであることを告白したエリザベス・ベントレイが、下院の非米活動委員会で、「ホワイトはワシントンの共産党エリート分子の一人だ」と証言したのである。ホワイトは、自ら同委員会に出席し、委員の質問に逐一答え、自分は共産党員だったことはないし、いかなる反米活動に従事したこともないと誓った。ところが、それから2週間もたたずに、ホワイトは自分の農場で死亡した。死因は心臓発作とされている。当時、スパイの容疑をかけられた者たちが、次々に自殺したり、亡命したりしたので、ホワイトの死は謎を残した。

 彼の死後も疑惑は続き、以前に共産党員だったウイタカー・チェンバースが、ホワイトは、戦争中ソ連のスパイ網の一員であったと証言した。しかし、ベントレイやチェンバースの証言以外に、ホワイトを安全保障違反に問える証拠は何も出なかった。
 死後50年近くたって、元ソ連NKVD(内務人民委員部、KGBの前身)工作員であるビタリー・グリゴリエッチ・パブロフが、ホワイトに関する証言を行った。彼は、ホワイトに接触し、ホワイトがハル・ノートの母体となる文書を書くに当たって参考にするようメモを見せたといいう。ホワイトを利用した作戦は、彼の名にちなんで「雪」作戦と呼ばれたという。

 次回に続く。


現代の眺望と人類の課題69

2008-11-27 10:33:01 | 歴史
●第2次大戦の最中からCFRは政策提言

 CFRの設立後、共和党と民主党の2大政党は、CFRに人的資源を依存するようになっていった。一つの組織が、両方の政党に人材を送り出す。支配集団は、両党のどちらが政権をとっても、人材的・資金的にコントロールできるという仕組みが出来たわけである。さらにCFRは、さまざまな政策を提言して、アメリカ政府の政策決定に大きな影響を与えるようになった。そうした動きは、1939年9月の第2次世界大戦の勃発後に始まった。
 ルーズベルト政権の国務長官ステッティニアスは、「CFRの提案にしたがって戦後問題処理委員会が1939年末以前に設置された。委員は国務省の高級官僚から選抜された」と公式報告書で報告している。委員会が設置されたのは39年末。アメリカが大戦に参戦する2年前である。アメリカは、早くから大戦への対応や戦後の国際秩序を検討していたのである。この委員会の委員に選ばれた国務省の官僚は、一人を除いて全員がCFRの会員だった。

 続いて、CFRは国務省の依頼を受け、「戦争と平和」研究計画と題された長期研究プロジェクトを立ち上げた。戦争の展開、及び戦後秩序に関する調査・研究をし、報告・提案を行った。このプロジェクトには、ロックフェラー財団が多額の寄付を行った。
 1941年12月、ルーズベルトは、日本軍が真珠湾を攻撃することを事前に暗号解読により把握していた。前もって知っていながら日本に先制攻撃をさせ、怒った国民が報復を求めるのを参戦に利用した。イギリスはドイツの攻撃で窮地に立っており、チャーチルはアメリカの参戦を熱望していた。
 CFRに関して最も詳しい書である「権力の影~外交評議会〔CFR〕とアメリカの衰退」(徳間書店)の著書ジェームズ・パーロフは、アメリカ国民はチャーチルとルーズベルトの共謀により戦争に引きずりこまれた。ルーズベルトが参戦に踏み切ったのは、CFRの計画に乗ったからだという。FDRは、日本に対する通商停止、日本の在米資産の凍結、パナマ運河の日本船通行禁止等を実施し、日本を開戦へと追い込んでいた。これは、CFRの提言を受けたものだった。そして、先に手を出させるように挑発し、日本が手を出したら、日本は汚いことをしたとして、アメリカの参戦を正当化した。

 これは私見だが、日米の決戦はスターリンが望むことでもあった。CFRや国務省には、ソ連のスパイやエージェントが多くいた。スターリンは背後から彼らを通じて、日米を開戦へと誘導していた。FDRは、共産主義の危険性を理解せず、むしろ共感・応援してさえいた。
 この点は、欧米の国際金融資本が、共産主義やソ連を支援していたことと共通性がある。中国についても、CFRの会員や国務省の官僚には、共産化を防止するより容認する動きをした者たちがいる。これも不可解な行動だが、先のことと関係がある。後日主題的に検討したいと思う。

●戦後の国際秩序形成にも広く関与

 CFRは、戦時中から第2次世界大戦後の日独の復興計画、国際連合の設立、国際通貨基金(IMF)や世界銀行(IBRD)の設立などを立案し、アメリカ政府に報告・提案していた。
 CFRの計画の一つの大きな成果が、国際連合の設立である。国際連合は、連合国が常設の国際機関に発展したものである。正しくは、連合国と和訳すべきものである。国際連合は、ウィルソンが構想した世界政府をめざす国際組織の新たな形態であり、CFRの研究グループが素案を練った。セシル=ローズ、ハウスらによる英米主導の世界秩序を実現する構想が、CFRに受け継がれ、第2次世界大戦の後に、国際社会に浮上したのである。

 1945年のサンフランシスコ講和会議では、アメリカ代表団の中に、少なくとも74名のCFR会員がいた。その中には、アルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト、オーウェン・ラティモア、ジョン・J・マックロイ、ネルソン・ロックフェラー、ジョン・フォスター・ダレス、ディーン・アチソンらが含まれる。スクーセンは、「彼らと他のCFRメンバーが、国連創設を目指すサンフランシスコ会議における米国代表団の意思決定権を握っていたといえよう」と書いている。
 上記のCFR会員の中には、反共反ソの者と容共親ソの者が混在している。異なった思想・立場の者が、ともにアメリカ政府の代表団員として講和会議に参加した。
 一方には戦後、反共反ソの戦士として冷戦を戦った者がいる。トルーマン政権の国務長官アチソン、同じくJ・F・ダレスらがそうである。彼らは冷戦初期の対ソ政策を方向付けた。ただし、アチソンはアジアでは、中国の共産化を容認するような不可解な行動をしている。
 他方、戦後、1950年から共産党員弾劾のマッカーシー旋風が吹き荒れた時に、弾劾された者もいる。アルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト、オーウェン・ラティモアらである。彼らはCFRの会員でありながら、共産主義やソ連を利する行動をした。その点について、次に書きたい。

 次回に続く。


現代の眺望と人類の課題68

2008-11-25 09:26:54 | 歴史
●CFRの資金提供者

 次にCFRの資金援助者を見ておきたい。
 これまで見たように、CFRは、英米の円卓会議のもとに作られた。CFRの初期の会員として知られるのは、エドワード・マンデル・ハウス、ウォルター・リップマン、ジョン・フォスター・ダレス、アレン・ダレス、トーマス・W・ラモント、ジョージ・ルイス・ビアらである。彼らのうち、ハウス、リップマン、ビアは円卓会議のメンバーでもあった。
 初期のCFRは、金融王J・P・モルガン、石油王ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー1世、その息子のジョン・D・ロックフェラー2世、ジェイコブ・シフ、ポール・ウォーバーグ、バーナード・バルーク、アヴェレル・ハリマンなどの財閥が後援していた。CFR本部ビルはロックフェラー家から寄贈された。
 当時のCFRは、モルガン商会の関係者によって仕切られていた。たとえば、1928年の時点で、会長の座にあったジョン・W・デイヴィスは、J・P・モーガンの個人弁護士であり、副会長のポール・クラヴァスもそうであった。有力会員のラモントやビアもモルガン商会の関係者だった。J・P・モルガンは1899年にローズの結社に入っている。以後、円卓会議の意思をアメリカに浸透する役目を果たしたと考えられる。モルガン家の実態は、ロスチャイルド家の代理人だったので、初期CFRは、ロスチャイルド=モルガン・グループが主導的だったと考えられる。

 しかし、その後、ロックフェラー家が影響力を増し、第2次世界大戦中からロックフェラー家が主導的立場に立った。石油王の孫で、ジョン・D・ロックフェラー2世の5男に当たるデヴィッド・ロックフェラーは、1949年からCFRの理事となり、70年に理事長に就任。以後、85年まで理事長の座にあった。現在は、名誉理事長である。デヴィッドは、長年、巨大銀行チェイス・マンハッタン(J・P・モルガン・チェイス銀行)の頭取を務め、シティ・グループの大株主でもある。20世紀後半から21世紀の現在まで、国際政治・国際経済におけるデヴィッド・ロックフェラーの存在は、巨大である。アメリカ歴代政権を動かし、国際機関や国際組織を通じて、所有者としての意思を実現している。彼の活動の基盤の一つが、CFRだった。
 現在CFRの資金提供者は、ロックフェラーとモルガン連合のJ・P・モルガン・チェイス銀行、ロックフェラーのスタンダード石油をはじめ、ゼロックス、GM、テキサコ、フォード財団、メロン財団等が挙げられる。大企業、有力財団などに結びつくCFRは、政界だけでなく広範な分野に影響力を持っている。

●CFRの歴史に画期をなすルーズベルト政権

 CFRの歴史は、アメリカの外交史でもあり、また歴代政権の歴史でもある。次に、CFR設立後の歴代政権との関係、及びCFRの政策提言の展開を見てみたい。
 CFRは、1921年ウィルソン政権の時代に作られた。設立の中心となったハウスは、ウィルソンの分身として、ホワイトハウスを取り仕切っていた。人事も実質的に決めていた。ウィルソンの後、共和党のハーディング、クーリッジが続き、ハーバート・フーヴァーが大統領となる。フーヴァーはCFR会員の大統領第1号となった。CFR会員のヘンリー・スティムソンを国務長官にした。フーヴァーは共和党だが、政界に入る前からハウスに協力していた。1929年、世界恐慌が起こり、フーヴァーは対応に失敗。民主党のフランクリン・D・ルーズベルトに代わった。
 1933年に大統領になったFDRは、同じ民主党のウィルソンの政策、つまりハウスが立案した政策を踏襲した。ハウスはFDRに助言し、閣僚・高官にCFRの会員を任命するように働きかけた。FDRは、国務長官にコーデル・ハルなどCFRの会員を多く起用した。ハルの後継にはエドワード・ステティニアス、陸軍参謀総長にはヘンリー・スティムソンなど、会員を重用した。ハウスとルーズベルトは家が近く、ルーズベルト家はCFR本部ビルの隣でもあった。
 アメリカ合衆国では大統領は2期8年という定めがあるが、FDRは1945年の死まで、異例にも連続4期12年間大統領を務めた。その間、FDRがCFR会員を多く要職に指名し続けたことにより、今日のCFRの隆盛の基礎ができた。

 ルーズベルトは、ロックフェラー家と親しく、ロックフェラー財団の強力な支援を受けた。ニューディール政策遂行の中心となったハリー・ホプキンズ商務長官、フランシス・パーキング労働長官の二人は、ロックフェラー財団の出身だった。そのホプキンズの後押しで、ロックフェラー家の御曹司ネルソン・ロックフェラーが国務次官補に任命された。ルーズベルト時代に、ロックフェラー家は政権への影響力を増し、CFRでも主導的になっていく。
 別稿で詳しく述べるが、ルーズベルトの先祖はユダヤ系であり、彼自身、全米のユダヤ系市民から「モーゼの再来」と仰がれた。ルーズベルトは、ブレーン・トラストと呼ばれる頭脳集団を私的に持っていた。多くは、政界・財界・学界・法曹界で活躍するユダヤ人だった。中でもユダヤ人大富豪家バーナード・バルークは、二度の大戦を通じて巨額の利益を得た「死の商人」だった。第1次大戦参戦後は戦時産業調整委員会長として権力を振るい、同時にウィルソン再選の資金調達責任者を務めた。第2次大戦では軍需工業院総裁となり、国内の軍需工場のすべてを掌握した。原爆の開発・製造の推進もした。軍産複合体の誕生は、バルークなしには考えられない。
 ルーズベルトは、閣僚にもユダヤ人を起用している。財務長官のヘンリー・モーゲンソーは、ドイツ系ユダヤ人で、戦後処理をめぐって対独強硬案を出した最もユダヤ的なユダヤ人だった。労働長官のパーキンス女史は、ロシア系ユダヤ人だった。ルーズベルト政権の12年間一貫してその職を務めたほど、大統領の信任が篤かった。
 1939年、第2次世界大戦が勃発すると、大戦への対応、戦後体制の構想等の立案を、CFRと国務省が共同で推進するようになった。それにより、CFRの会員が国務省に多く入った。1940年代以降、大統領候補のほとんどがCFRの会員であり、歴代政権の閣僚・高官の多くがCFRの会員となっている。
 なおルーズベルト政権は、政府高官にソ連のスパイやエージェントが多数いた。その背後には、欧米の巨大国際金融資本による共産主義への資金提供や武器販売があった。この点は、話が複雑になるので、ここでは省く。後日改めて書くことにする。

 次回に続く。

現代の眺望と人類の課題67

2008-11-24 08:49:50 | 歴史
●覇権のための英米パートナーシップ

 円卓会議の側から見れば、CFRはグループの前線組織RIIAのニューヨーク支部の開設となる。国際問題を調査・研究する機関の姉妹組織を表向きの姿として、円卓会議グループがアメリカでの活動を強化し、旧植民地アメリカをイギリスの管理下に置いて、イギリス帝国の覇権を維持・拡大しようというのが狙いだろう。
 一方、アメリカ側にも意思がある。ニューヨークには、1918年に設立された実業家、国際弁護士らによる「外交問題評議会(現在のCFRと同名)」というサロンが存在していた。CFRは、このサロンと、ハウスが主宰した「大調査」グループが合併して出来たものなのである。新生CFRは、総勢75名で発足した。初代会長には、旧CFRの会長だった元国務長官エリフ・ルートが就いた。ルートは、モルガン商会とクーン・ローブ商会の弁護士をしていた。モルガン家の実態はロスチャイルド家の代理人であり、クーン・ローブ商会もロスチャイルド家との関係が深いから、ルートはロスチャイルド=モルガン・グループの一員と考えられる。
 ただし、CFRは、RIIAの完全な支部ではなく、一定の自立性を持った組織としてスタートした。合併の際、旧CFRのメンバーから、会員は「米国市民に限るべき」という意見が出た。そのため、現在もCFRRは、会員を合衆国市民と永住権獲得者に限っている。
 アメリカ人は、イギリス側の意思にただ従順に従ったのではない。英米の関係は主従的ではなく共同的である。互いの自主性を保ちながら連携するパートナーシップで結ばれている。設立時点では、イギリス円卓会議・ロスチャイルド家の意向が強かっただろうが、設立以後、アメリカ側の主体的な傾向が強くなっていったと考えられる。

●所有者集団はCFRを通じて政治を左右

 私は、アメリカにおける連邦準備制度の実現からCFRの設立への展開は、アメリカという国家の重要な変化であり、またそれが以後の世界に大きな影響を及ぼしてきたと考える。
 欧米の所有者集団は、アメリカで連邦準備制度を作って、通貨発行権を獲得した。この通貨発行権を用いて、莫大な富を得た。その富を用いて、主要なマスメディアを支配下に置いた。所有者集団は、当時の大新聞、ニューヨーク・タイムズ、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン、クリスチャンサイエンス・モニター、ワシントンポスト等を通じて、多大な影響力を発揮した。20世紀は、大衆の時代である。メディアを支配する者は、大衆の意識を操作することができる。所有者集団は、マスメディアを道具として、選挙や政治に自分たちの意思を反省させることが出来るようになった。
 所有者集団は、さらに政府に対して、直接強く彼らの意思を伝え、その意思を実現できるようにした。通貨政策だけでなく、外交・防衛・通商等の政策にも広く意思を及ぼし、より大きな利益を上げるためである。CFRの設立によって、政府の要職に彼らの意思を体得した優秀で忠実な経営者を送り込むことができるようになった。
 所有者集団は、次代の経営者を育成する大学をも管理下に置いていった。わが国と違って、アメリカの大学は、すべて私立である。大学の莫大な寄付金の決済には、財政専門家たちの協議が欠かせない。1930年代には、アイビーリーグ等の有名大学の経営を財閥が支配するようになった。例えば、ハーバード、コロンビア、エール大学の運営権は、モルガン商会が握った。こうした大学の学長や教授は、所有者集団の意思を理解し、学生を有能な経営者に育成する。その中から、特に優秀な者は、CFRの会員に抜擢されていく。こういう仕組みが出来上がったものと思う。

 次回に続く。


現代の眺望と人類の課題66

2008-11-22 08:37:24 | 歴史
●国際連盟構想の失敗からCFRが

 ウィルソンがパリ講和会議で提案したことの一つに、国際連盟の設立があった。根本には、恒久平和のために、各国が主権の一部を委譲して世界政府を作るという構想があった。その構想は、ロスチャイルド家等の国際金融資本が望むものでもあった。講和会議にはエドモン・ド・ロスチャイルド男爵が参加し、会議の展開を方向付けようとした。もしウィルソンの構想どおり実現すれば、英米のアングロ=サクソン・ユダヤ連合が中心となって、国際秩序を管理する組織が、ここに誕生したかもしれない。
 しかし、アメリカは、国際連盟に加盟しなかった。アメリカ国民の間では、伝統的な孤立主義が根強かった。議会はウィルソンの提案を退け、ヴェルサイユ条約の批准も、国際連盟の加盟も否決した。このため、国際連盟構想は失敗した。当時、アメリカは、世界随一の存在になっていた。アメリカを欠く国際組織は、基盤が脆弱だった。
 大統領が国際会議で提案し、諸外国は賛同した。それなのに肝心の自国の議会が、加盟を認めない。原因は、議会対策が出来ていなかったのである。アメリカの政界で多数派工作をしないと、英米主導の統治機構は実現できない。そこから、外交問題評議会(CFR)の設立につながる発想が出てきたと考えられる。G・エドワード・グリフィンは「外交関係評議会は、第1次世界大戦終結時に世界の指導者が国際連盟を真の世界政府にしようとして失敗したために生まれた組織だった」と書いている。
 ここで活躍したのも、エドワード・マンデル・ハウスだった。

●英米の円卓会議を結ぶ

 CFRの会員だったジョゼフ・クラフトは、CFRを公式に創設した功労者は、ハウスだったと言う。ハウスは、ウィルソンに同行してパリ講和会議に参加した。その際、ハウスと「コンビを組んで活動した」のが、ジェローム・D・グリーンだったとクラフトは言う。ハウスとグリーンは、ともにアメリカ円卓会議のメンバーだった。
 キグリーによると、グリーンは、1918年からロンドンに駐在した際、「イギリスの円卓会議グループと接触する機会を得て、1919年にパリ講和会議で賠償担当責任者を務めるとさらに接触が頻繁になった。帰国するころ、彼は外交問題評議会首脳の創設期メンバーの一人となった」という。グリーンは、1910年にロックフェラー研究所の総支配人となり、その後、39年まで同研究所やロックフェラー財団等の理事を歴任した。1925年に太平洋問題調査会(IPR)が設立された際、グリーンは規約を起草し、以後、IPRの中心的存在として活動した。
 講和会議に臨む際、ハウスは、補佐役としてウォルター・リップマン、ジョン・フォスター・ダレス、アレン・ダレス、クリスチャン・ハーターを連れて行った。また講和会議の代表団には、トマス・ラモント、ジョージ・ルイス・ビアらもいた。リップマンは、アメリカ円卓会議のメンバーだった。後に名著「世論」を著す逸材である。ドイツ系のユダヤ人だった。彼とダレス兄弟はロックフェラー家との関係が深かった。後年ジョンとC・ハーターは国務長官に、アレンはCIA長官になった。ラモントとビアは、モルガン家の代理人だった。ビアは、アメリカ円卓会議のメンバーでもあった。
 このように講和会議のアメリカ代表団には、円卓会議のメンバーやモルガン家、ロックフェラー家と深い関係を持つ者がいた。そして 講和会議の期間、「ハウスは英米両国の円卓会議グループのホストを務めた」とグリフィンは書いている。

●英米両グループの合意

 1919年5月19日に、パリのマジェスティック・ホテルで、英米の代表団の一部が集まって会合が開かれた。CFRの1932年版便覧によると、アメリカ側はハウス、ホイットニー・シェパードソンら5名、イギリス側はライオネル・カーティス、セシル卿ら4名を記している。ハウスは先に書いたメンバーを連れ、カーティスは同じミルナー幼稚園のフィリップ・カー、ロバート・ブランドらを連れていたともいわれる。
 彼らは講和会議の結果に、一様に失望していた。そこで「国際問題の科学的研究を促す」ため、イギリスとアメリカに支部を持つ組織を創設することで合意した。その合意のもとに、1919年カーティスが中心となってロンドンに創られたのが王立国際問題研究所(RIIA)であり、21年ハウスが中心となってニューヨークに創られたのが、外交問題評議会(CFR)である。
 ハウスが支え、操ったウィルソンは1921年、2期8年の大統領職を勤め上げて離職した。それとともにハウスも政権を離れたが、ハウスは、その後も政界に隠然たる影響力を振るった。ウィルソンとハウスについては、ロシア革命に関し、欧米の金融資本家とともに、レーニン、トロツキーを援助し、ソ連を支援するという一見理解しがたい行動を取った。欧米所有者集団と共産主義の関係は、現代の眺望における重要な主題の一つなので、後日改めて書く。

 次回に続く。


現代の眺望と人類の課題65

2008-11-21 10:37:22 | 歴史
●ハウスは連邦準備制度を推進

 ハウスは、連邦準備制度の実現においても、アメリカ政府の中心となって、欧米の国際金融資本家を中継し、実現を推進した。
イングランド銀行やドイツ銀行等、ヨーロッパの中央銀行は、民間銀行である。しかし、アメリカでは、国民の抵抗を避けるため、国家機関を思わせるような「連邦(Federal)」という言葉を使い、「連邦準備制度」という名称がひねり出された。
 ウィルソンは、新しい銀行制度について、よく理解できていなかった。「銀行問題に関する限り、ハウス大佐が合衆国大統領であり、関係者は全員それを承知していた」とグリフィンは書いている。
 「ハウス大佐の真実」の編者チャールズ・シーモア教授は、ハウスが連邦準備銀行法の「陰の守護天使」だったと言う。伝記作家ジョージ・ヴィエレックは、「シフ家、ウォーバーグ家、カーン家、ロックフェラー家、モルガン家は、ハウスに信を置いていた」と言う。
 連邦準備銀行法が最終段階に入った時、ハウスは、ホワイトハウスと金融資本家の仲介役を務めた。彼の事務所が、ジキル島に集まったグループの司令室になっていた。特にポール・ウォーバーグとは、連絡を絶やさなかった。

 1913年12月22日、クリスマス休暇を前に、議員たちの多くが気もそぞろとなっている時、法案が提出され、下院・上院とも賛成多数で可決した。ウィルソンは、この法案に署名し、連邦準備制度が発足した。
 この新制度では、アメリカの連邦政府は、連銀から借りる紙幣の利子を支払うことになる。そこで巨大国際金融資本は、国民の税金を支払いに当てることを同時に制度化しようとした。その目的で導入されたのが、個人の連邦所得税である。当時、最高裁は、連邦所得税は合衆国憲法に違反するという判決を出していた。それにもかかわらず、連邦所得税が導入された。その徴税を担う役所が国税庁(IRS)であり、連銀と同じ1913年に設立された。以後、連邦所得税は、連銀への利子の支払いに当てられている。
 こうしてハウスは、ウィルソン大統領を動かして、連邦準備制度を発足させることに成功した。欧米の巨大国際金融資本の積年の願いがかなった。金融によってアメリカという国家を支配する体制が出来上がった。

●第1次世界大戦への参戦と戦後処理に活躍

 グリフィンは、ハウスは「第1次世界大戦の際には、アメリカ人の中で誰よりイギリス側に立ってアメリカの参戦に尽力し、それによってモルガン商会の英仏に対する巨額債権を救った」と書いている。
 ウィルソンは平和主義者として知られ、第1次大戦勃発時、「それはわれわれと何ら関係のない戦争であり、その原因もわれわれには関わりがない」と参戦しない方針を打ち出して、国民に支持されていた。そして、アメリカは中立国の立場を利用して交戦国双方と通商を行って大きな利益を上げていた。
 1915年、ドイツが無制限潜水艦作戦を宣言すると5月、ルシタニア号事件が起こった。イギリス籍の客船ルシタニア号がドイツの潜水艦Uボートに無警告で撃沈され、アメリカ人128人を含む1198人が犠牲になったのである。アメリカ国民はこれに憤り、対独世論が悪化した。後にこの事件は、英米首脳部が画策したものだったことがわかった。ルシタニア号は密かにイギリスへの火器弾薬を登載し、ドイツの警告を無視して、あえてUボートのいる海域に進入し、ドイツ潜水艦の攻撃を誘った。しかも、イギリスの駆逐艦隊は巡回を取りやめ、港に留まっていた。ルシタニア号は一種のおとりだった。しかし、アメリカは参戦しなかった。

 アメリカ参戦の大きなきっかけとなったのは、1917年1月のツインメルマン電報である。ドイツの外相ツインメルマンがメキシコ政府宛に出した秘密電報で、内容はメキシコがアメリカを背後から襲えば、その見返りとしてドイツはアメリカのテキサス、ニューメキシコ、アリゾナ州を、メキシコに割譲する、というものだった。英国海軍通信情報部がこれを傍受し、ウィルソンに伝えた。これを読んだウィルソンは憤激し、新聞にリークした。世論は沸騰した。2月、ルシタニア号事件以来、無制限潜水艦作戦を控えていたドイツが、戦局打開のため、作戦再開を宣言した。ウィルソンは、ドイツとの国交断絶を宣言し、4月ついに宣戦を布告した。
 アメリカは受動的で、やむをえず参戦したかに見える。しかし、実はそれ以前から、ウィルソン政権は参戦を計画していた。1916年、ウィルソンが2期目の当選を果たす10ヶ月前、ウィルソンの代理としてハウスが、アメリカが連合国側に味方して参戦する方向で英仏と秘密協定を結ぶ交渉を始めた。ウィルソンはその密約をもとに、参戦の機会をうかがっていたのである。
 グリフィンによると、「ハウスとウィルソンの最も強い絆は世界政府という共通の夢だった。どちらも、アメリカ人はよほどのことがない限り世界政府という考え方を受け入れるはずがないと承知していた。そこで、長期にわたる血なまぐさい戦争が起これば、そして戦争に永久的に終止符を打つためだということなら、国家主権が失われてもやむをえないとアメリカ人は納得するだろう、それしかないと考えた」と書いている。
 世界政府を実現するために、戦争を利用する。戦争が長引き、諸国民に厭戦気分が高まったところで、世界政府の構想を打ち出す。第1次大戦は、誰もの予想に反して長期化し、消耗の果てに終結した。その後、ウィルソンから国際連盟の構想が打ち出された。

 第1次大戦の戦後処理のために、パリ講和会議が行われた。ウィルソン大統領は、ハスウを中心とする代表団を連れて会議に臨んだ。ウィルソンは講和会議に議員を一人もつれず、代表団は彼の取り巻きや銀行家で占められていた。会議でウィルソンは、秘密外交の廃止や軍備縮小、民族自決、国際連盟の設立などを唱えた「14か条の平和原則」を提案した。14か条は、ハウスが中心となって策定したものだった。ハウスは、1917年から18年にかけて大戦後の国際秩序を検討するため、「大調査(Inquiry)」グループを主宰した。ニューヨークに約百人の有力者を招いて会議を行った。ウィルソンが講和会議に提出した14か条は、この会議で練られたものだった。
 講和会議でハウスは、英仏等の代表に14か条を受け入れさせるために行動した。しかし、英仏はドイツへの報復を主張し、平和原則は実現を阻まれた。採用されたのは、国際連盟の設立のみだった。

 次回に続く。

現代の眺望と人類の課題64

2008-11-19 10:14:11 | 歴史
●ウィルソン大統領の分身・ハウス大佐

 次に、外交問題評議会(CFR)の設立の過程について、具体的に述べたい。
 CFRの立ち上げには、アメリカ側でも動きがあった。その中心となったのが、エドワード・マンデル・ハウス大佐である。ハウスは軍歴はないのだが、大佐(コロネル)と呼ばれた。
 ハウスは、ウッドロー・ウィルソン大統領の側近として、連邦準備制度(FRS)の実現や第1次世界大戦へのアメリカの参戦を推進した。大戦後の国際秩序の考案や戦後処理にも重要な役割を担った。そうした活動の一環として、CFRの設立を推進した。
 FRSやCFRの重要性に鑑み、アメリカが現代の覇権国家へと成長し得る骨格づくりをした経営者の一人が、ハウスだと私は考えている。
 
 G・エドワード・グリフィン著「マネーを生み出す怪物」(草思社)によると、ハウスの父親トマス・ウイリアムス・ハウスは、アメリカの南部諸州で、「ロンドンの匿名の銀行家の在米代理人」として、財を成した。「その匿名の銀行家とはロスチャイルドではなかったかと言われている」とグリフィンは書いている。
 イギリスにつながる資産家の息子として生まれたハウスは、数年間イギリスで教育を受けた。この時、培った思想や人脈が、後にハウスが英米の支配集団を結んで活動する基盤になっただろう。
ハウスは、1912年に「行政官フィリップ・ドゥルー」という小説を書いた。主人公ドゥルーは、関税を撤廃し、社会保障法を制定し、北米の地域政府を設立し、国際協力体制を築き上げる。さらにハウスは、この小説で、後の国際連盟に至るような国際組織の設立を構想していた。
 1913年、ウィルソン大統領の側近となったハウスは、閣僚名簿を作成し、政権の最初の政策を立案し、経済政策・外交政策を実質的に決定するようになった。ウィルソンは、ハウスの指示や指針を頼りにしていると公言した。「ハウス氏は私の第二の人格である。彼はもう一人の私だ。彼の考えは私の考えだ」とまで、ウィルソンは書いている。
 ハウスは、まさにウィルソンの分身だった。そのハウスの最初の大仕事が、連邦準備制度の実現だった。

●欧米の財閥は連邦準備制度実現を画策

 20世紀の初頭、欧米の国際金融資本家たちは、アメリカにも中央銀行制度を作ろうと画策していた。当時、アメリカ金融界の第一位は、モルガン家だった。モルガン家は、ロスチャイルド家の融資や支援を受けて、のし上がった財閥である。その頭領ジョン・パイヤーポイント・モルガンと、ハウスは親しかった。ハウスはまたポール・ウォーバーグとも親しかった。ウォーバーグ家は、ドイツの財閥であり、フランクフルトのゲットーにいた時代からロスチャイルド家と縁の深いユダヤ家族である。
 ハウスがJ・P・モルガンやポール・ウォーバーグと親しかったということは、彼らの大元にいるロスチャイルド家とつながっていたことを示唆する。キグリーは、ハウスは、アメリカ円卓会議のメンバーと書いている。欧米各地の円卓会議のネットワークは、ロスチャイルド家、ロックフェラー家、モルガン商会、カーネギーなど、当時の財閥を結びつける役割を果たした。中でもハウスは、英米の円卓会議の連携の要となり、英米の財閥の連携の要ともなっていたと思われる。

 ポール・ウォーバーグは、1902年にドイツからアメリカに渡り、やはりユダヤ系のクーン・ローブ商会の共同経営者となった。アメリカ有数の金融資本家となったポールは、中央銀行制度実現のために全米を回った。彼はロスチャイルド家らのヨーロッパの金融資本家たちと、アメリカの新興資本家たちを結ぶ位置にあった。
 中央銀行制度の設立のため、ポール・ウォーバーグとともに活動したのが、ネルソン・オールドリッチ上院議員である。オールドリッチは、J・P・モルガン商会のワシントン代表だった。彼の娘は、J・D・ロックフェラー2世と結婚し、次男のネルソン・ロックフェラーや五男のデイビッド・ロックフェラーらを生んだ。オールドリッチは、モルガン家とロックフェラー家を結ぶ位置にあった。
 なお、J・P・モルガン商会、クーン・ローブ商会は、オーガスト・ベルモンドとともに、アメリカにおけるロスチャイルド商会の代理人をしていた。
 
 ウォーバーグとオールドリッチは、1910年、中央銀行制度の創設をめざして、ジョージア州のジキル島で秘密裏に会合を開いた。参加したのは、モルガン、ロックフェラーの代理人たちや財務省高官である。そのうちヨーロッパの銀行制度に詳しいのは、ウォーバーグだけだった。ウォーバーグが、制度の素案を提示した。もとになるのは、イングランド銀行やドイツ銀行の例だが、ヨーロッパ各国の中央銀行は、実質的にはロスチャイルド一族の銀行だから、中央銀行制度とはロスチャイルド式の銀行制度をアメリカに導入することを意味する、
 法案はオールドリッチが上院に提出したが、彼のモルガンとのつながりが反感を買い、廃案となった。金融資本家たちは、国民の批判をかわすため、民主党に政権を取らせ、民主党の議員から提案をさせ、議会を通そうとした。その際、誰を大統領にするかがポイントとなった。白羽の矢が立ったのは、ウッドロー・ウィルソンだった。
 政治学者のウィルソンはプリンストン大学の学長から政界に転じ、ニュージャージー州知事をしていた。彼を大統領候補とし、民主党大会で指名を獲得させたのが、ハウスだった。
 1913年ウィルソンは、第28代大統領になった。「ウィルソンの資金源たちは彼の側近に自分たちの代理人を送り込んだ」、その中の「最重要人物」がハウスだったと、スクーセンは書いている
 連邦準備制度について、ウィルソンが巨大国際金融資本の意向を知ったのも、ハウスを通じてだった。

 次回に続く。

現代の眺望と人類の課題63

2008-11-18 10:24:19 | 歴史
●アメリカの外交問題評議会

 外交問題評議会(CFR:Council on Foreign Relations)は、キャロル・キグリーによると、イギリスの円卓会議のもと、RIIAのニューヨーク支部として、1921年に設立された。円卓会議グループの前線組織の一つであり、円卓会議グループのアメリカ支部と一体の組織として創始された。
 CFRは、外交問題・世界情勢を分析・研究する非営利の会員制組織である。公式見解によると、その目的は「アメリカの政治、経済、金融問題の国際的局面に関して継続的に協議を行うこと」にあるという。しかし、元はイギリスがアメリカを管理下に置き、一大帝国連邦を築くことに目的にあった。

 設立後、CFRは、アメリカの政治、特に外交政策の決定に対し、著しい影響力を振るってきた。現在の会員は約3800人。政界、財界、官界、学界、マスコミ、法曹界、教育界等、広範な分野のトップ・クラスの人材が集まっている。外交問題に関し、全米最大のシンクタンクである。
 CFRは超党派の組織であり、共和党・民主党の違いに関わらず、歴代大統領の多くがその会員である。第31代フーヴァーに始まり第43代ブッシュ子までの13人中で、9人がそうである。すなわちフーヴァー、アイゼンハワー、ケネディ、ニクソン、フォード、カーター、クリントン、ブッシュ父、クリントン、ブッシュ子である。会員でないのは、F・D・ルーズベルト、トルーマン、ジョンソン、レーガンのみである。
 CFRは政府高官も多く輩出しており、政権が変わる度に連邦政府の要職にCFRの会員が多く就く。大統領が非会員であっても、閣僚の多数がCFR会員から指名されている。
 たとえば、わが国の外務大臣に当たる国務長官は、第47代のコーデル・ハル以来、第66代のコンドリーザ・ライスまで20人中19人がCFRの会員である。国防長官は17人中延べ14人、財務大臣に当たる財務長官は19人中15人という具合である。
 ニクソン政権に115名、カーター政権に284名、レーガン政権に257名。ブッシュ父政権に382名、CFRの会員が居たというから、政権中枢の大半がCFRから出ていると見てよい。

 設立以来、CFRは、アメリカ政府の最重要ポストに、多数の会員を送り込んできた。この組織に所属するエリートたちが、アメリカの支配集団の主要部分をなすと考えられる。
 CFRは、「議論においては特にメンバー間のコンセンサスを求めない」としている。会員には、保守・リベラル、強硬派・穏健派、親英派・孤立派等、多様な主張がある。ナチスや共産党のように一律一様ではない。そこに、リベラル・デモクラシーの伝統に基づく活力や状況適応性がある。
 今日のアメリカの外交政策に最も強い影響を与えているのは、ヘンリー・キッシンジャーとズビグニュー・ブレジンスキーである。キッシンジャーは共和党のニクソン政権で大統領補佐官を務めた。ブレジンスキーは民主党のカーター政権で補佐官だった。彼らは、ともにCFRの会員である。
 CFRは、外交誌「フォーリン・アフェアーズ」を通じて、世界中の知識人にアメリカ的価値観や米英主導の世界政策を広めている。また、外国人も含む非会員の有力な政治家・学者等を招待した講演会を度々開催している。
 こうしたCFRは、国家中枢を担う人材の交流や養成の場ともなっている。所有者集団は、CFRという組織を通じて、大統領候補となり得る逸材や、外交・内政を担い得る頭脳を集める。豊富な資金と人脈を提供することにより、優秀で忠実な経営者集団を確保する。また彼らを政権に送り出し、巨大国際金融資本の意思を政治に実現する。そのための格好の機関になっているのが、CFRだと言えるだろう。

 アメリカの学者・知識人・報道人・金融家には、ユダヤ人が多い。キッシンジャーもその一人である。伝統的には、アメリカ合衆国は、WASP(ワスプ)すなわちホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタントが社会の主流を成してきた。上流階層の社交クラブでは、ユダヤ系アメリカ人の入会が認められない時代が続いた。しかし、CFRは、早くからユダヤ人にも門戸を開いてきた。
 現在アメリカには、ユダヤ人が約500万人いる。国民全体の中では4%程度と少数だが、知識人に占める割合は高く、アメリカの学者・研究者の50%以上がユダヤ系である。
 私は、CFR隆盛の一要因は、アングロ=サクソンとユダヤの人脈的・文化的・経済的結合にあると思われる。CFRの由来はイギリスの円卓会議にあり、円卓会議にはイギリス貴族とともに、その一員としてユダヤ人ロスチャイルドが列席した。そうした円卓会議が前線組織の支部を開いたのがCFRだとすれば、CFRがアングロ=サクソン・ユダヤ連合をアメリカに拡大する機関としても機能してきたのは、当然だろうと私は理解している。 
 CFRは、現代のアメリカ及び国際社会で非常に重要な存在である。そこで、続いて設立の過程、設立後の活動等について、見て行きたい。

 次回に続く。


現代の眺望と人類の課題62

2008-11-16 08:49:23 | 歴史
●イギリスの王立国際問題研究所

 王立国際問題研究所(RIIA)は、円卓会議の前線組織として作られたとキグリー教授は言う。RIIAは、1919年、ロンドンに設立された。所在地にちなんで、チャタム・ハウスともいう。諸大陸に植民地を所有する大英帝国における国際問題の調査・研究機関である。
 私見を述べると、資本は組織であり、国家も組織である。組織の維持・発展には、方針・目標・計画がいる。組織が他の組織と戦うには、戦略が要る。単に富と権力を持っているだけでは、目的を達することは出来ない。戦略の立案は、自他を知るところから始まる。そこで重要になるのが、情報である。情報の収集には調査活動が必要であり、また集めた情報を選択し、分析と総合を行わねばならない。そのように精錬して得た知識をもって、初めて戦略の策定が出来る。
 こうした調査・研究・企画には、豊富な資金と優秀な人材が必要である。セシル・ローズやアルフレッド・ミルナーが組織を作って進めてきたことは、イギリス王室の公認のもと、RIIAが設立されたことによって、国家規模で実現することになった。
 RIIAは、1923年以降、歴代の首相と植民地総督が名誉所長を務め、理事長は王族の一員であるケント公である。また、イギリス女王が後援会総裁の座にある。なお、RIIAのメンバーの多くは、大半がフリー・メイソン員だといわれる。しかし、RIIAは、秘密結社でも陰謀団ではない。世界に冠たるイギリス王室の設立による権威ある組織である。イギリスでは、フリー・メイソンは上流階級の社交クラブのようなものと化している。国王が代々フリー・メイソンの名誉会長となっているという。
 
 RIIAは、アーノルド・トインビーの名とともに知られる。20世紀最大の歴史家トインビーは、RIIAにおける国際問題の研究者でもあり、理事を務めもした。過去の文明の研究と現在の国際問題の調査は、切り離すことが出来ない。優れた文明学者は、同時に秀でた国際政治学者でもある。
 RIIAにおけるトインビーの部下には、「007シリーズ」の作者として有名なイアン・フレミングがいた。国際的な調査には、文献の研究だけでなく、諜報活動も必要である。真に価値ある情報は、外交や軍事の前線、貿易と金融の現場から得られる。国際問題の研究機関は、政府や軍の情報機関や国際企業とつながっている。自国の世論を形成するための機関や、外国への工作活動を行う機関とも、つながりを持つ。円卓会議のもとに作られたRIIAは、こうした広がりを持つ組織の一部と考えられる。

 今日、RIIAにはイギリスの大企業が法人会員として参加し、資金を提供している。たとえば、バークリーズ銀行、ブリティッシュ・ペトロリアム、ロイズ・オブ・ロンドン、N・M・ロスチャイルド・アンド・サンズ等である。さらに西欧諸国の法人も会員に名を連ねている。ロイヤル・ダッチ・シェル、クレディ・スイス、ドイツ銀行等である。
 こうした銀行や企業がRIIAの会員となり資金を提供するのは、有効な情報や有力な人脈を得られるからだろう。世界的な規模の調査・研究機関が提供する情報や人脈は、資本の活動に多大な利益をもたらすことだろう。

●英米の連携による覇権の維持

 RIIAの設立当時の目的は、イギリスの覇権を維持・拡大することにあった。大英帝国は、凋落しつつあった。帝国の利益を守るには、急成長するアメリカを管理下に置く必要があった。アメリカがイギリスから独立して以後、イギリスの支配集団は、アメリカへの影響力を回復・増強しようとした。イギリス財閥は、アメリカの新興資本家に出資し、製鉄・鉄道・石油等の基幹産業を育て、そこから利益を吸い上げた。アメリカ経済を発展させたヴァンダービルト、ピーボディ、モルガン、デュポン、アスター、グッケンハイム、シフ、ハリマン、カーネギー、ロックフェラー、ゴールドマン等の活動は、ロスチャイルド家を初めとする西欧の所有者階層とのつながりなしに考えられない。

 アメリカは、1890年代にはイギリスに勝る世界最大の工業国となった。近代世界システムの中核部に、イギリスに並ぶ有力国家が確立したことにより、近代西洋文明は、アングロ=サクソン文化、及びそこに深く浸透したユダヤ文化を主要な文化要素とする文明として、世界各地に伝播してきた。
 20世紀初頭において、イギリスの支配集団は、こうしたアメリカを管理下に置くために、様々な形で働きかけを行った。その中で私が最も重要だと考えるのは、中央銀行制度の実現である。1913年、欧米の所有者階層は、連邦準備制度(FRS)を作って、通貨発行権を獲得した。FRSについては先に書いたので、ここでは省略する。
 FRSの設立後、第1次世界大戦が勃発した。大戦において、アメリカは強力な工業力と軍事力を発揮して、英仏をドイツに勝利せしめた。大戦後、戦いで疲弊した西欧諸国は、アメリカの経済力に頼らざるを得なくなった。イギリスの支配集団は、こうしたアメリカを政治的・外交的にコントロールすることで、英米の連携による覇権の維持を画策した。アングロ=サクソン・ユダヤ連合による覇権の強化と言うことができるだろう。

 次回に続く。