ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

現代世界史7~イラン革命とイライラ戦争

2014-07-31 10:35:02 | 現代世界史
●大戦後イランの政治的変遷とイラン革命

 中東に関して、次にイランとイラクの間の問題を見て行こう。
 イランは、中東イスラム諸国の中では、異色の存在である。イランは、古代にはペルシャ文明が栄えた地であり、イラン国民の多くは、アラブ民族ではなく、ペルシャ民族である。また最大の特徴は、アラブ諸国にはイスラムの多数派であるスンニ派が多いが、イランには少数派のシーア派が多い。
イランでは、第2次世界大戦において、パフラビー朝の国王モハンマド・レザー・シャーがナチス政権と提携した。戦後、レザー・シャーは南北から進駐してきた英ソ両軍により退位させられて亡命した。シャー・パーレビが後を継いだ。
 イランの石油利権は、イギリスのアングロ・イラニアン石油会社が独占していた。しかし、同社は契約改定交渉で譲歩しなかった。これに対する不満が強まるなか、急進民族派が政権を握り、議会は石油国有化法案を可決した。1951年に首相となったモザデクは、世論を背景にアングロ・イラニアン石油会社を国有化した。これに対し、イギリスはタンカーの航路を封鎖し、国際石油資本は石油の買い付けを拒否した。そのため、イラン経済は大打撃を受けた。

 1953年(昭和28年)8月、アメリカの支援を受けた国王パーレビ2世が、クーデタによりモザデクを倒し、政権に復帰した。翌54年には8大石油資本(米・英・蘭・仏系)の合弁会社イラニアン・コンソーシアムが設立され、国有化された石油会社の運営に当たることになった。こうして、イランにおけるイギリスの石油利権独占体制は打ち破られた。
 パーレビ2世は、ソ連やアラブ急進派との関係悪化を承知の上で親米路線を貫き、CIAの援助で秘密警察(SAVAK)を設置し、反対派を弾圧して独裁体制を築いた。63年(38年)から白色革命と呼ばれる一連の近代化政策を強力に推進した。膨大な石油収入を背景に軍や首都の近代化、農地改革、国営企業の払い下げ、識字運動など、政府主導の近代化が進められた。しかし、他方で貧富の差が拡大し、国家情報治安局(サヴァク)による監視、弾圧が続いた。75年以降になると復興党(ラクターヒーズ)の一党独裁が強化された。この時期、イランはアメリカの中東における拠点としての役割を果たした。21世紀の今日とは大違いである。
 こうした「近代化=西洋化」の改革に対し、イスラーム・シーア派の法学者たちが強く反発して抗議集会を開いた。国王は容赦のない弾圧を加え、最高指導者のホメイニを国外に追放した。

 1978年(昭和53年)、イランで国王の圧政に反対するデモが起こり、首都テヘランでは数千人の死者が出た。さらに12月には200万人の大デモが起こり、もはや鎮圧できなかった。79年1月にパーレビ2世は亡命した。2月ホメイニがフランスから帰国して革命政府の樹立を宣言した。パフラビー朝は崩壊し、3月国民投票でイスラムを国家原理とするイラン・イスラム共和国が発足した。
 ホメイニは、イスラム的な社会規律の回復など宗教色、民族色の強い政策を追求した。石油を国有化し、一方で産油量を激減させた。オイル・メジャーによるイラニアン・コンソーシアムは利権を失い、石油は1バレルが23ドルへと高騰した。エネルギー・コストの上昇による不況が世界を襲った。そのあおりを受けて中南米では経済に壊滅的な打撃を受けた。これを第2次石油危機という。以後、開発途上国も資源を持つ国と持たない国に分かれ、次第に格差が広がることになった。なお、第1次石油危機は、1973年(昭和48年)の第4次中東戦争の時に起こった危機をいう。
 ホメイニのもと、イランは反米色を強め、中央条約機構(CENTO)から脱退した。これによって、中東におけるアメリカの拠点は失われた。同じ1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、イランは反ソ色も強め、独自の姿勢を示した。

●イラン・イラク戦争

 1979年(昭和54年)にイラン革命が起きると、アメリカとともにアラブ諸国は、革命の波が石油を産出するサウジアラビア、クウェートなどの君主国に及ぶことを恐れた。そして、イラクを「イラン革命の防波堤」と見なして期待をかけた。
 イラクでは、68年(昭和43年)にバース党がクーデターで政権を奪取し、その政権が続いた。79年にサダム・フセインが大統領の地位に就いた。バース党は社会主義とアラブ民族主義を掲げるが、イラクの社会主義は、一党独裁によって軍人・官僚が膨大な石油収入を私益化するものとなり、アラブ民族主義も最初の理想を失い、アラブ至上主義、領土拡張主義に堕してしまうことになった。
 サダム・フセインは、イラン革命当時の国際情勢、革命によるイランの軍事的弱体化などの状況を読んで、領土拡張を図った。イラクとイランの間には、シャトルアラブ川下流の国境を巡る対立がある。フセインは、領土紛争を口実にイランとの戦争を始めた。これがイラン=イラク戦争である。

 イランはシーア派が多数を占める国家だが、イラクの南部にはシーア派が居住し、また人口の約60%を占める。フセインは、イラクでは少数派のスンニ派を母体とし、国内のシーア派を冷遇していた。
 フセインはイラクに侵攻したが、イランはイラクの3倍の人口を持ち、イスラム革命を唱えるイラン軍の士気も高かった。イラク軍は1982年に追い出され、逆にイラン軍がイラクに攻め込んだ。しかし、イラク軍はアメリカから潤沢な援助を受け、アメリカ製武器による近代装備を誇っていた。これをイランの人海戦術で打ち破ることは不可能だった。戦局は膠着化し、イライラ戦争と呼ばれる長期戦が続いた。
 1988年(昭和63年)、ようやく両国は国連の停戦決議を受け入れて停戦した。イラン・イラク戦争で、イランは500億ドル、イラクは900億ドルの戦費を使い、両国とも財政の悪化に苦しむことになった。それが、後の湾岸戦争の背景となっていく。

 次回に続く。

現代世界史6~石油危機後の各国の対応

2014-07-30 06:41:33 | 現代世界史
●石油危機後の日本の対応

 石油危機の発生に際し、アメリカは自国での石油生産量が多く、南米からの石油の輸入もあるので、それほど大きな影響はなかった。これに比べ、中東の石油に大きく依存する日本と西欧は、深刻な影響を受けた。
 日本の原油輸入価格は、1972年度から74年度の間に4倍以上に値上がりした。石油は燃料であるだけではない。プラスチック、ビニール等の石油化学製品の原料でもある。また戦後の日本では、農業も石油に大きく依存している。すなわち、石油を燃料とする農業機械で耕作や収穫をし、石油を原料とする化学肥料を多量に使用し、石油を暖房用燃料とするビニールハウスで促成栽培をしたりしている。石油の値上げは、農業生産にも波及することになった。
 自国に石油資源がなく、ほとんど輸入に頼らなければやっていけない日本は、官民上げて石油危機と取り組んだ。省エネ技術の開発が進められ、石油の消費量を削減しつつ、質の良い工業製品を生産することで、日本は国際的な競争力を強めた。とりわけ小型で燃費の良い日本車はアメリカの消費者の心をつかみ、日本の自動車産業は対米輸出を中心に大きく発展することになった。
 石油危機は、日本に中東外交の方針転換を迫まるものでもあった。現行憲法と日米安保条約のもと、従米的な外交を余儀なくされているが、さすがのわが国もイスラエル支持からアラブ寄りの姿勢にスタンスを変えた。欧州共同体(EC)の諸国も高い原油価格で窮地に陥り、アラブ寄りの方針を明らかにした。開発途上国の多くも、イスラエル批判に転じたので、イスラエルは孤立した。だが、イスラエルは、外交力・諜報力を駆使して、巻き返しを図った。バックには、ロスチャイルド家を盟主とするユダヤ系巨大国際金融資本が存在する。

●石油危機後の先進国の対応

 石油危機によって先進国はエネルギー資源の急激な価格高騰で大打撃を受けた。そのうえ、スタグフレーションに見舞われた。スタグフレーションとは、スタグネーションつまり停滞とインフレーションつまり継続的な物価上昇・貨幣価値下落とを合わせた造語で、不況の中でインフレが進む現象をいう。石油による資源インフレによるもので、それまでの経済理論ではあり得ない現象だった。これにより、各国は低成長の時代に入った。
 世界的に不況が深刻になるとともに、貿易をめぐる国際摩擦も起きた。これを乗り越えるために、先進国は協力し合うことが必要となった。そこでフランスのジスカール・デスタン大統領の呼びかけで、先進国首脳会議(サミット)が開始された。第1回サミットは1975年(昭和50年)、フランスのランブイエで開催された。2度の世界大戦は、一面では資源をめぐる戦争だったが、先進諸国はその戦争で得た教訓を生かし、対話と協調の道を歩み出した。

 最初のサミットはフランス、アメリカ、イギリス、西ドイツ、イタリア、日本の6ヶ国で行われた。その後、サミットは毎年開かれるようになり、カナダ、EC(後にEUに発展)が加わった。
 1989年(平成元年)の米ソ冷戦の終結後は、1997年(平成9年)から、サミットに旧ソ連のロシアも参加している。ただし、ロシアは先進国とはいえないので、この時から主要国首脳会議という名称となった。
 こうした首脳会議に加えて、閣僚クラスの国際会議も行われるようになった。参加国数によって、G7、G8などという。各国の中央銀行総裁と経済担当大臣の集まりである。
 サミットもGXも、国際連合=連合国の会議体ではない。常設の国際機関でもない。しかし、これらは、今日の世界で国際社会を動かす重要な会議となっている。現在では発展途上国のうちの有力国が加わり、G20が影響力を増している。

●「持てる国」と「持たざる国」の格差の拡大

 第4次中東戦争において発動した石油戦略により、アラブ産油国には膨大な資金が流れ込むようになった。その資金の流れが、世界経済に大きな影響を与えるようになった。
 産油国のオイル・マネーは、米英の巨大銀行に預けられる。銀行は、その余剰資金をメキシコやブラジル等の発展途上国に貸し付ける。これらの国々は、借りた金を、値上がりした石油代金を支払うために使う。そのため、国際収支の赤字が増えていく。一方、銀行はOPECの預金を非OPEC諸国に貸し付けるだけで、金利収入を得る。主にこのオイル・ダラーの還流に当たったのが、ロックフェラー系の銀行、チェイス(当時)やシティ・バンクだった。
 アラブ産油国の富裕層は、豊かな資金で国際投資をし、富を増やそうともした。オイル・マネーが世界の市場を飛び回るようになり、国際的な投機がますます活発になった。アラブ産油国は、オイル・マネーで武器を大量に買いもした。軍備の近代化・強大化が図られ、中東の軍拡競争に拍車がかかった。
 また産油国の国内では、豊富な資金を当てた急速な開発ブームが起きた。その結果、貧富の差が広がり、社会にひずみが大きくなり、国民の不満がたまった。開発は、近代化であり、西洋文明の摂取ともなる。国民にはイスラムが多い。イスラム文明から見ると、こうした社会的矛盾は、キリスト教文明、とりわけアメリカ文化の流入に原因があると理解される。そうした状況において、イスラムの基本原理に返ろうと呼びかける運動が活発になった。イスラム原理主義である。こうした展開が起こった典型的な国が、後に触れるイランである。

 石油危機が最も深刻な影響をもたらしたのは、石油資源を持たない国である。先進国が集中する地球の北部と、開発途上国の多い地球南部との間の問題を南北問題というが、南部の諸国のうち、産油国と非産油国の間の格差が広がった。アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの諸国の中で、石油を「持てる国」と「待たざる国」の違いが顕著になっていった。
 「持たざる国」が多く分布するのは、地球南部だけではない。東欧諸国の多くも石油資源に恵まれていない。そのため、石油危機は、東欧諸国の経済にも大きな打撃を与えた。
 石油危機以前、東欧諸国は、ソ連から極めて安価で原油を購入することが出来ていた。ところが、石油危機後、国際的な原油価格の上昇に合わせて、ソ連も東欧諸国への売り渡し価格を上げた。これが経済不振の続く東欧諸国には深刻な打撃となった。石油危機は1980年代の社会主義諸国の経済破綻の一要因となり、それが、社会主義体制の崩壊につながった。アラブの石油戦略は、共産主義の崩壊をもたらすことにもなったのである。

 石油危機後、石油に替わるエネルギーへの転換や新たな技術の開発が始まった。最も発達したのは、原子力の利用である。各国で原子力発電所の建設が進んだ。ここでも巨大国際金融資本の間の利権争いが行われている。すなわち石油利権を握るロックフェラー家中心の勢力と、ウラン資源を抑えているロスチャイルド家中心の勢力の争いである。しかし、原子力の平和利用には、重大な危険性が伴う。より安全に利用する技術が確立されないと、環境破壊・健康被害を拡大するおそれがある。こうした中で、自然のエネルギーを利用する代替エネルギーの研究が求められ、太陽光、地熱、風力、潮力等の利用が模索されるようになった。

 次回に続く。

現代世界史5~第4次中東戦争と石油危機

2014-07-29 08:49:28 | 現代世界史
●第4次中東戦争と世界を襲った石油危機

 ここで中東に目を転じよう。1970年(昭和45年)エジプトでナセルが死に、副大統領のサダトが大統領となった。サダトは、イスラエルに占領されていたシナイ半島、ゴラン高原などの奪回を目指して軍事行動を起こした。エジプト・シリア両軍は、73年(48年)10月6日、イスラエルに対して奇襲攻撃を行い、第4次中東戦争が始まった。
 不意を衝かれたイスラエル軍は苦戦したが、やがて劣勢を挽回してシリアに攻め込み、スエズ運河を渡ってエジプトに侵入した。これに対し、最初から軍事的劣勢を自覚していたアラブ側が産油国の強みを活かした強力な策を打った。それが石油戦略である。
 同年10月17日、石油輸出国機構(OPEC)に加盟するペルシャ湾岸6カ国が、原油価格の21%引き上げを発表した。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)に加盟する10カ国は、前月の産油量を基準に、イスラエルを支持する国向けの生産量を毎月5%ずつ削減する。逆に、アラブ諸国を支持する国、イスラエルに占領地からの撤退を求める国には、従来通りの量を供給すると発表した。そのうえ、アメリカ・オランダなどのイスラエル支援国には、石油の全面禁輸措置が取られた。こうしたアラブの石油戦略の発動は、先進国の経済に深刻な影響を与えた。これを第1次石油危機という。

 アラブ諸国の石油戦略は、石油を使ってアラブ諸国への支持を広げ、イスラエルを孤立させることを狙ったものだった。アラブの産油国は、石油を武器にすれば、国際社会で強い影響力を持てることに気づいたのである。それまで親米路線をとり、石油戦略の発動に慎重だったサウジアラビアも強硬路線に転じた。
 石油の全面禁輸をちらつかせるアラブ側の前に、日本や西欧諸国は次々と対イスラエル政策の見直しを声明した。これを切り崩そうとするアメリカに対し、サウジも強硬姿勢を示し、アメリカの軍事介入を防いだ。こうして、アラブ側は、日本や西欧諸国に中東政策の見直しを迫ることに成功した。

 1930年代以降、オイル・メジャーと呼ばれる巨大な国際石油企業が、世界の石油を支配していた。これらの企業は、アメリカ、イギリス、オランダ系の7社だったので、セブン・シスターズ(七人姉妹)とも呼ばれた。この7社が生産と価格に関するカルテルを結んで、莫大な利益を上げていた。
 これに対し、産油国は1960年(昭和35年)9月、OPECを作った。さらにアラブの産油国は、独自に68年(43年)1月にOAPECを結成し、メジャーの寡占体制に異議を唱えるようになった。
 産油国のこうした行動は、西洋文明に対する非西洋文明の応戦であり、また近代世界システムにおける周辺部の中核部への反抗でもある。また国家単位で見れば、旧植民地の旧宗主国への逆襲であり、また資源ナショナリズムの高揚でもある。画期的な出来事だった。
 アラブ産油国の主体意識は、強まった。1970年代に入ると、世界の石油生産量の36%を中東が占めるようになっていた。先進諸国は中東への石油依存度を高めており、産油国は発言力を増した。こうした事情を踏まえて、アラブの産油国は、石油戦略を発動したのである。
 第4次中東戦争は1973年(昭和48年)11月に停戦となり、痛みわけに終わった。OPECは、同年12月には石油の削減の中止と増産を決めた。石油危機はひとまず終わった。しかし、アラブ側がこの戦いで取った新戦術が、その後も世界を大きく左右していく。

 アラブの石油戦略は、欧米のオイル・メジャーから、石油の価格と生産量の決定権を取り返すものだった。石油のような地下資源は、いつかは枯渇する。産油国が協調すれば、供給を制限したり、価格を引き上げたりすることができる。そうして得た資金を経済基盤の整備に当てれば、石油が枯渇した後も繁栄を維持できるようになる。石油戦略には、こうした長期的な構想があったと見られる。
 石油の決済は、ドル建てである。アラブの産油国に流れ込んだ大量のドルは、価値の増殖を求めて、世界の金融市場を動きまわるようになった。

●エジプトとイスラエルの和平

 第4次中東戦争後、アラブ諸国の内部に大きな変化が現れた。4度にわたる中東戦争で最も人的・物的損害を被ったエジプトが、イスラエルとの共存の道を模索し始めたのである。
 サダトは、ナセルを継いだ後、最初は社会主義的経済政策を継承していたが、第4次中東戦争後の1974年(昭和49年)から政策を転換した。外資の導入、輸入の自由化、公共部門の民営化等の自由主義的な政策の採用である。サダトは、これによってアメリカへの接近を図った。そして、アメリカを通じてイスラエルに圧力をかけることで、失地の平和的回復を目指したのである。
 サダトはイスラエルとの間に兵力引き離し協定を結び、77年(52年)11月19日にイスラエルを訪問した。これを機会に、エジプトとイスラエルの和平交渉が開始された。
 当時、米国は、カーター政権だった。カーター政権は、ニクソン=フォード両政権におけるキッシンジャーの現実主義的な外交からの転換を図り、アメリカ的価値観を掲げた理想主義的な人権外交を打ち出した。78年(53年)9月、カーター大統領の仲介で、サダトとイスラエルのベギン首相が米国のキャンプ・デイヴィッドで会見し和平合意に達した。翌79年(昭和54年)3月、エジプト・イスラエルの抗争を収拾するための「中東和平会議」が開催された。カーターはみずから中東を訪問し、交渉に当たった。もし決裂すれば、第3次世界大戦へと発展しかねない危険な状況であった。和平交渉は暗礁に乗り上げ、3月10日、11日、12日と難航を続けたが、13日交渉は奇跡的といえる成立を見た。そして26日、エジプト・イスラエル間で平和条約が調印された。歴史的和解と賞賛された。
 キャンプ・デイヴィッド合意を仲介して、平和条約を締結させたのは、カーターの歴史に残る功績である。しかし、その反面、1980年(昭和55年)イラン=イラク戦争においては、イランの首都テヘランでアメリカ大使館を占拠され、2度の救出作戦に失敗し、国民の批判を浴びた。

 中東の国際関係が難しいのは、すべての人民が平和を望んでいるのではないことである。サダトはイスラエルとの融和路線に反対する者によって、81年(56年)に暗殺されてしまう。だがエジプトは、サダトの後を継いだムバラク大統領の下で、念願だったシナイ半島の回復を果たした。領土問題は一応の決着に達した。
 イスラエルとアラブ諸国、ユダヤ人とパレスチナ住民は、4度の戦争を経て、ようやく和平への道を歩みだしたかに見えた。しかし、なおその道は遠く、軍による攻撃とテロの応酬が今日も日常的に繰り返されている。

 次回に続く。

現代世界史4~アジアの中のベトナム戦争

2014-07-28 09:25:04 | 現代世界史
●アジアの中のベトナム戦争

 1973年(昭和48年)以降、米軍はベトナムから撤退した。アメリカは、直接介入するのではなく、南ベトナムを軍事的に支援する方針に切り替えた。ベトナム人同士で戦うこととなった。これを「戦争のベトナム化」という。
 内戦は続いた。それから2年余り南ベトナムは持ちこたえたが、劣勢は明らかだった。75年(50年)、NLFはホー・チミン作戦という大攻勢を展開し、首都サイゴン(現ホー・チミン)が陥落した。その結果、ベトナム戦争はようやく終結した。翌76年南北統一の総選挙が行われ、ベトナム社会主義共和国が建国された。世界最大の強国アメリカは敗れ、アジアの弱小民族が統一を勝ち取った。

 ベトナム戦争で、アメリカ側は5万8000人が戦死した。ベトナム側は、3000万人のうち360万人が死亡したという。この戦争は、米ソ冷戦期最大の紛争だった。イデオロギー・体制間の戦いであり、資本主義・自由主義と共産主義・統制主義が激突した。それとともに、ベトナム戦争は、第2次大戦後最大の民族解放戦争だった。西洋白人種とアジア有色人種が戦い、西洋の文明とアジアの文明とが衝突した。私の見方では、20世紀の東アジアにおいて、シナ事変・大東亜戦争、朝鮮戦争に続く、第3次東アジア戦争に位置づけられる。

 こうした性格を持つベトナム戦争は、同時にアジア諸国も関与した戦争だった。ベトナム戦争において、米軍はわが国に存在する基地を使用した。アメリカ第7艦隊は、横須賀・佐世保・那覇を基地とした。北爆を行ったB52戦略爆撃機は、沖縄とグアムを基地とした。佐藤栄作政権は、最後まで南ベトナムに経済的援助を続けた。またベトナム戦争は、朝鮮戦争同様、戦争特需をもたらした。軍隊は多くの物資を消費する。その需要は未曾有の好景気を生み、「いざなぎ景気」と呼ばれた。それがわが国の高度経済成長の一要因となった。
 ベトナム戦争当時、戦争に反対する市民運動が広がった。「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)は市民運動の新たな形態となった。ある者は素朴に戦争に反対し、ある者はベトナムのナショナリズムに共感し、ある者は共産主義に理想を抱いた。反戦運動の一部は、大学紛争や全共闘運動と結びついて、暴力革命を目指す運動へと過激化した。

 わが国だけではなく、ベトナムに平和と独立を願った人々は、世界に多くいた。しかし、統一後のベトナムは、期待を裏切ることが続いた。
 自分たちの国家を築き、国家建設を進めているはずのベトナムから、毎年数万人もの人々が祖国から脱出した。粗末な船で海を渡る人々は、ボートピープルと呼ばれ、難民となった。
 ベトナムは超大国の介入を退け、撃滅して追い払ったはずだった。ところが、1975年から1977年にかけて、ベトナムは隣国カンボジアと軍事的な衝突を繰り返し、1978年12月にはカンボジアに全面的な侵攻を行い、覇権主義的な行動を取った。ベトナムはクメール・ルージュ(カンボジア共産党)のポル・ポト政権を打倒し、カンボジア国土の大半を占領した。これに対し、カンボジアを支援してきた中国が79年2月、ベトナムに侵攻した。91年のカンボジア和平協定の調印まで、中越の対立は続いた。このようにアジアにおいては、社会主義国同士が戦争をしたのである。こうした出来事の数々は、多くの市民運動家や共産主義者の理解を絶していたようである。だが、国際社会は、国家と国家、民族と民族がそれぞれの利益をかけて対立・抗争を繰り返しているのが、現実である。特に社会主義・共産主義を理想視はすると、大きな錯覚に陥ることを、歴史的事象を通じてよく確認する必要がある。

 ベトナム戦争に関して、もう一点、書いておきたいことがある。それは、韓国の参戦である。韓国はベトナム戦争で海外に軍隊を派遣した。アメリカ以外に5カ国が参戦したが、本格的な戦闘に参加したのは、韓国軍だけである。韓国はのべ約30万人の兵士を送り、ベトナム人と戦った。ベトナム側から見れば、侵略者である。韓国側は4400人以上が戦死した。韓国とすれば、北朝鮮と対抗するために、アジアにおける共産主義の伸張を防ぎたいという目的があっただろう。
 韓国は、今もわが国が統治していた時代について、わが国を批判している。その時代の虐待・虐殺や慰安婦などが強調される。しかし、2000年(平成12年)4月12日付の『ニューズウィーク』日本版は、ベトナム戦争で韓国軍は、8千人以上のベトナム民間人を虐殺したと報じた。また、ベトナム人女性が多く非管理売春婦にさせられ、韓国人との間に生まれた混血児ライダイハンが1万人以上いるという。こうした点も含め、物事は多角的に見て判断するべきだろう。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「韓国が認めないベトナムでの残虐非道」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion12t.htm

人権106~人権宣言の実態は国民の権利

2014-07-27 10:28:29 | 人権
●人権宣言における人間と市民

 人権宣言は「人間及び市民の権利宣言」であり、「人間」(homme)と「市民」(citoyen)を区別し、「人間の権利」と「市民の権利」を区別している。
 まず人権宣言にいう人間は、どういう人間か。1789年フランスの国民議会は、封建的な身分制を否定し、それまでの第三身分を「国民」とした。国民議会が宣言した人権宣言における人間は、身分制から解放された人間である。そうした人間が、人権の主体とされている。
 同時に、人権の主体とされたのは、身分的帰属から解放されただけでなく、フランスの過去の歴史、カトリック教会という伝統的な宗教、家族・親族・職能・地域等の共同体から離脱した人間が想定されている。そうした歴史的・社会的・文化的なつながりを束縛とし、それらから解放された人間が、人権宣言の想定する人間である。
 人権宣言は、そのような人間観をもって、どこの国でも通用するような理念を謳い、権利を宣言している。しかし、ここにおける人間は、観念的な存在であって、現実的な存在ではない。歴史的・社会的・文化的なつながりを捨象した仮想の空間に原子(アトム)的な個人を想定したものだからである。現実の人間は、歴史的・社会的・文化的なつながりの中で生活している。親子・夫婦・祖孫等の関係にあって、集団的に生命を共有し、伝統や慣習を世代から世代へと継承してきた。そして、国家とは、そうした人間が構成する集団である。原子的な個人が契約によって設立したものではない。
 次に、人権宣言における市民とは、何か。市民は、今日特定の都市の住民のことをいうが、西洋文明の歴史では今日とは違う意味で使われてきた。古代ギリシャやローマにおいては、市民は都市に住む支配階級であり、奴隷民を使用する自由民だった。中世西欧の都市は、封建制社会において、領主から特権を与えられた場所だった。そこには、商工業者が住み、一定の自治を行っていた。市民は貴族とも農奴とも区別される集団だった。古代ギリシャやローマ、中世西欧とも、市民と呼ばれる者は、自由民の身分にあり、何らかの政治的関与権を持つ集団の成員だった。これに対し、近代西欧の歴史において、市民は、中世の貴族・聖職者の支配する封建社会を倒し、市民革命や市民社会の担い手となったブルジョワジーや商工業者を指す。この意味の市民は、仏語ではcitoyen、英語ではcitizenである。
 ここでブルジョワジーは、生産手段を私有し賃金労働者を雇って利潤を得る資本家階級を意味する。言葉の由来を紐解くと、ドイツの中世自治都市は、ブルクburgといい、ブルクは城砦に囲まれた都市であり、商工業者等が居住し自衛していた。このブルクが仏語に取り入れられて、ブルジョワbourgeoisとなった。ブルジョワは本来、フランス中世自治都市の市民である有産階級を意味した。それが、近代的な資本家階級の意味に転じた。彼らは、第1身分の聖職者、第2身分の貴族と区別された第三身分として成長した。彼らはフランス市民革命において、シェイエスの理論により、第三身分のみが「国民(nation)」であるとして「国民」を自称し、国民主権を主張して政治権力を奪取した。
 次に、人権宣言における「人間の権利」と「市民の権利」はどう違うか。「人間の権利」は、人間として生まれながらに平等に持つ自然権とする。宣言は「人間の権利」を「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」とする。第2条に「あらゆる政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである」とし、これらの権利は「自由・所有権・安全及び圧制への抵抗」であるとする。一方、「市民の権利」は、国家という政治社会においてその権力の行使に参加する諸権利である。第6条に「すべての市民は、自身でまたはその代表者を通じて、その(法律の)作成に協力することができる」、「すべての市民は、法律の目からは平等であるから、その能力にしたがい、かつその徳性及び才能以外の差別を除いて平等にあらゆる公の位階、地位及び職務に就任することができる」と宣言は定めている。今日の概念では、「人間の権利」は概ね自由権、「市民の権利」は参政権と呼ぶことができる。前者はリベラリズムが追求してきた権利であり、後者はデモクラシーが追求してきた権利である。

●宣言の権利の実態は国民の権利

 人権宣言における「人間の権利」と「市民の権利」は、まったく別の権利ではない。そのことは、第12条に示されている。第12条は、「人及び市民の権利の保障は、一の武力を必要とする。したがって、この武力は、すべての者の利益のため設けられるもので、それが委託される人々の特定の利益のため設けられるものではない」と定めている。ここで宣言は、「人間の権利」も「市民の権利」も、その保障のためには武力が必要だとする。そして、第13条は「武力を維持するため、及び行政の諸費用のため、共同の租税は、不可欠である。それはすべての市民の間でその能力に応じて平等に配分されなければいけない」と定める。これらの条文は、「人間の権利」とされる権利も「市民の権利」とされる権利も、ともに国民が共同で費用を負担して守るべき権利であるということを表している。
 このような権利は、「人間の権利」「市民の権利」ではなく「国民の権利」である。なぜならば、集団が権利を守るのは、集団内で秩序を乱す者と他の集団による侵攻からであり、集団内及び集団間の権力関係において、権利を守ろうとしているからである。一方の集団における成員の権利を実現しようとすれば、他方の集団の成員の権利が侵害される。そのような権利は、人間が生まれながらに平等に所有する権利とは言えない。その集団に所属する者のみが所有する権利であり、だからこそ、それへの攻撃から、協同で守ろうとするのである。
 「人間の権利」も「市民の権利」も、実定法で保障されなければ、権利としての有効性を持たない。憲法は各国が定めるものであり、国民を対象とし、国民が賛否を決める。それゆえ、「人間の権利」「市民と権利」と分けているが、「国民の権利」というのが実態である。

 次回に続く。

現代世界史3~ベトナム戦争とニクソン・ショック

2014-07-26 08:48:28 | 現代世界史
●ベトナム戦争の泥沼化とニクソン・ショック

 ここで米国の歴史を振り返ると、20世紀後半から21世紀前半にかけて、世界をけん引してきたのは米国である。米国では、1963年(昭和38年)、JFK暗殺事件の後、副大統領のリンドン・ジョンソンが大統領に昇格した。65年(40年)2月、ジョンソンはベトナム北爆を開始して、本格的にベトナム戦争に介入した。
 1965年(昭和40年)には地上軍を5万人派遣し、66年(41年)には54万人へと一挙に増員した。アメリカは、アジアのナショナリズムとコミュニズムに激突した。ベトナム戦争は、朝鮮戦争をはるかに上回る規模となり、長期化し泥沼化した。
 1968年(昭和43年)の大統領選挙は、共和党のリチャード・ニクソンが当選した。ニクソン政権は、ベトナム戦争終結への道筋を付けることを一つの使命とした。
アメリカは、核兵器以外のあらゆる最新科学兵器を使用した。特に森林を枯死させる枯葉剤は、生態系を破壊する兵器であり、含有された猛毒物資ダイオキシンの影響により、多くの奇形児・障害者が生まれた。だが、ベトナム民族の抵抗は強く、アメリカ軍はべトミンと南ベトナム解放民族戦線(NLF)を打ち破ることは出来なかった。ジャングルでの戦いに兵士は疲弊し、麻薬におぼれる者が多く出た。他方、NLFは民衆の支持を得て、北ベトナム、ソ連、中国などから武器の提供を受け、農村地帯を完全に支配下に置いた。69年(44年)には、南ベトナム臨時革命政府が樹立された。
 アメリカの国内では、戦争目的への疑い、多くの若者の戦死、帰国者の障害や麻薬中毒、社会道徳の低下等により、政府への批判が高まった。アメリカ社会の支えとなってきた理想や規範が損失した。道徳は低下し、治安は悪化し、人心は荒廃した。反戦運動は国外にも広がり、国際共産主義運動、人権運動と結びついて、アメリカへの反発が強まった。

 ニクソンが大統領に就任した時、アメリカ経済には大きな陰りが出ていた。第2次大戦後、圧倒的な経済力を誇った戦勝国アメリカは、強力な工業力を発揮し、1960年代には「黄金の60年代」といわれた。豊かで、明るく、幸せなアメリカは、憧れの国であり、世界の羨望を集めた。だが、日本と西欧諸国の復興によって国際競争力が低下し、貿易黒字が減少した。さらに、ベトナム戦争の巨額の軍事費支出、世界に張り巡らした軍事基地の維持、各国への軍事・経済援助の増加、大企業の多国籍企業化、本国の金準備を上回る対外投資等により、60年代末には、米国の経済的優位は急速に崩れていった。

 戦争は、軍産複合体や巨大国際金融資本には、巨大な利益をもたらすが、国家経済には大きな負担となる。ベトナム戦争の出費により、アメリカの貿易収支は、1971年(昭和46年)に、80数年来初めてという27億ドルの赤字となった。戦費拡大はドル不安をもたらした。また1970年のアメリカの金保有量は、1949年の246億ドルから111億ドルに減少してしまった。金準備の不足はアメリカ経済の大問題となった。そこで、71年(昭和46年)8月、ニクソンは金ドル交換停止を宣言した。金に対してドルを8パーセント切り下げた。切り下げにはアメリカの国際競争力を改善する狙いもあった。アメリカの措置は世界経済に衝撃を与えた。これをニクソン・ショックまたはドル・ショックという。
 ドルが金と交換されなくなったことで、各国は協調して国際決済手段としてドルを守る必要に迫られた。71年12月、10カ国の代表がワシントンのスミソニアン博物館に集まり、ドルの切り下げ、主要通貨の対ドル為替レートの切り上げなどを決定した。73年には、固定レート制から変動通貨制に移行した。金と交換できる通貨が地球上から姿を消し、変動通貨制に移行したことで、国際通貨体制は極めて不安定になった。こうして戦後の国際通貨制度を支えてきたブレトン=ウッズ体制は部分的に崩壊した。以後、ブレトン・ウッズ体制を変形した形で、現在の国際経済体制が維持されている。

●キッシンジャー外交の展開

 ニクソン政権は、ベトナム戦争の終結に向けて、米中国交の実現、米ソ貿易の拡大等、目覚ましい外交を行った。こうした外交は、ほとんどがヘンリー・キッシンジャーの忍者外交によるものだった。国際政治学者のキッシンジャーは、今日のアメリカの外交政策に最も強い影響を与えている人物の一人である。ニクソン政権で大統領補佐官を務め、のち国務長官を兼任した。この外交政策を計画・実行したのが、大統領補佐官のキッシンジャーである。キッシンジャーはユダヤ人であり、やはりユダヤ人の国際政治学者であるモーゲンソーの現実主義的外交を継承・実践した。キッシンジャーのバックには、ロックフェラー家があり、キッシンジャーはその意思を体した行動をしたとも見られる。

 1969年(昭和44年)、中ソは、共産主義の路線対立が高じて、国境紛争に至った。中国は、ソ連から自立して独自の核開発を進め、1964年(昭和39年)に核実験に成功した。70年(45年)4月には、人工衛星を打ち上げ、IRBM(中距離弾道ミサイル)が完成していることを世界に示した。ソ連は強大化する中国を押さえるため、核攻撃の共同作戦をアメリカに提案した。アメリカはこれを断り、逆に中ソの間に楔を打った。その結果、米中ソの三角関係と呼ばれる勢力均衡状態が生まれた。
 
 当時の共産中国では、共産党の実質的な一党独裁体制のもと、毛沢東の個人崇拝が熱病のように高揚していた。その価値観は、自由、デモクラシー、人権等のアメリカの理想とは、相容れない。しかし、キッシンジャーは1971年(昭和46年)、極秘で共産中国を2度訪問し、米中和解の道筋を付けた。
 1972年(昭和47年)2月、ニクソン大統領は、共産中国を訪問した。それまで対立関係にあった中国と接近した。これは、ベトナムに背後にいる中国とソ連が、当時中ソ対立で緊迫化している状況を捉えて、中ソ分断を狙うものだった。ニクソン訪中で、米中両国は、国交実現に合意した。米国はその一方、それまで反共の友好国だった中華民国台湾との国交を断絶した。共産中国は、台湾に代わって国連安保理の常任理事国となった。
 キッシンジャーは、米中とソ連の対決という構図に進めるのではなく、ソ連との間では第1次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結した。さらに第2次交渉を進めるなど、緊張緩和(デタント)政策を推進した。こうして米中、米ソの勢力均衡を組み直しながら、ベトナム戦争終結の条件を整えていった。
 ベトナム和平交渉においてキッシンジャーは、極秘にパリに何度も飛び、そこでベトナムの共産主義者と交渉を重ねた。この間、ニクソン政権は、ニクソン・ショックでドルを守る体制をつくり、また米中国交実現で中ソを分断した。キッシンジャーの交渉は3年半かかって、ようやく終結の道筋がつき、1973年(昭和48年)、パリ和平協定が調印された。協定により米軍は撤退した。

 ニクソン大統領はウォーターゲイト事件によって失脚した。1972年(昭和47年)、ニクソンの選挙運動員が、ウォーターゲイト・ホテルにある民主党本部に、盗聴器を設置しようとしたことが発覚したのである。事件の全容は、なお解明されていないが、盗聴器を仕掛けた運動員の行動がなんとも間抜けだった。最初から盗聴が暴露されて、ニクソンが窮地に陥るように仕組んだ事件だと疑われている。録音されたニクソンの音声には、JFK暗殺事件に関与していたことを疑わせる発言があった。
 ニクソンの失脚後、74年(49年)、副大統領のフォードが大統領に昇格した。フォードは、JFK暗殺事件後、ウォーレン委員会の委員として、暗殺事件の真相を不明のままにすることに貢献した。大統領になると、今度はウォーターゲイト事件の真相解明を切り上げた。もし事件の真相究明を続けたならば、政府中枢での画策が明るみに出て、政権は危機に瀕し、米国の統治の正統性まで揺らいだだろう。
 フォードは、ウォーターゲイト事件でニクソンに大統領特赦を与え、事件の幕引きを行った。そのため、国民の不評を買い、1976年(昭和51年)の大統領選で、民主党のジミー・カーターに敗れた。

 キッシンジャーは、フォード政権でも国務長官として外交を取り仕切った。キッシンジャーはユダヤ人であり、シオニストである。一貫してシオニズム及びイスラエルの利益のために行動した。ケネディは、イスラエルが核開発をすることを認めなかったが、彼が暗殺されて後、アメリカはイスラエルの核保有を黙認するようになった。1960年代から、イスラエルはアメリカの政界・議会へのロビー活動を活発に行い、アメリカ指導層をイスラエル支持に固めていった。
 今日、アメリカでは、イスラエル・ロビーが最大のロビー団体となり、アメリカの外交政策に強い影響を与えている。イスラエル・ロビーは政府・議会・政治家に積極的に働きかけ、アメリカの政策をイスラエルに有利なものに誘導している。合衆国政府は、アメリカの国益よりもイスラエルの国益を優先しているという批判が出ている。
 こうしたアメリカ=イスラエル関係は、キッシンジャーが強化・深化したものである。ユダヤ人シオニストのキッシンジャーが、アメリカ外交を取り仕切った時代があったからこそ、イスラエル・ロビーはアメリカ=イスラエル連合を絶ち難いまでに確固たるものに出来たのだと私は考える。

 次回に続く。

■追記

 本項を含む拙稿「現代の眺望と人類の課題」は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09f.htm


現代世界史2~危機を乗り越えた人類の前進

2014-07-25 08:44:26 | 現代世界史
●1960年代後半~70年前後はいかに大きな危機だったか

 今日の日本人、また人類の多くはまだ、1960年代後半から70年前後、日本及び世界がいかに重大な危機に直面していたかを、よく理解していない。
 大塚寛一先生は、1960年代はじめ、もし世界核戦争となれば、人類の大半が滅亡し、文化は一度に破壊される。さらにもし極度に原水爆が地球の半面で連鎖爆発すれば、人口衛星が飛び出すように、地球が天体の軌道から外れ、消滅するかもしれない、と強く警告された。
 そして、世界がいよいよ重大危機の只中にあった1969年(昭和44年)半ば、大塚先生は、大意次のように説いて、警告された。
 もし70年(45年)6月に日米安保条約が破棄され、アメリカが日本から引き揚げたら、日本に侵攻する外国軍を阻止することは、日本にはできない。日本をソ連が占領すれば、ソ連は世界を征服することができ、共産中国が占領すれば、中国がソ連を押えることができるようになる。日本の工業力とそれを生み出した日本人の知能を手にした国は、世界を風靡することができる。だからソ連も中国も、もし日本が他国に奪われたなら非常に不利になるから、日本を奪い合うようになる。その中ソの前哨戦が、中ソ国境紛争である。
 もしアメリカが社会党・共産党等の反米運動に捨てばちになり、日本から引き揚げると、中国・ソ連・北朝鮮等の軍隊が、日本に襲いかかってくる。そして、日本が共産化すれば、アメリカはアジアから手を引かざるを得ず、共産主義が全世界をおおうようになる。だからアメリカも、砂糖に群がったアリのように、中国軍・ソ連軍が日本に満ち、互いに奪い合っているところに、原水爆を日本に撃ち込む。これと同時に、世界は大混乱に陥り、第3次世界大戦が勃発する、と。

 1968年(昭和43年)から72年(47年)にかけて大塚先生は、多数の講演をされた。その記録は膨大な量となっている。今後、1960年代後半から70年前後の危機の大きさが認識されるようになるにつれ、人類は大塚先生の偉大さを理解するようになっていくだろう。ちょうど、先生が1939年(昭和14年)9月から時の指導層に送付された「建白書」の警告が的確無比だったことを理解する人が、徐々に現れているように。
 大塚先生の理論と実証を知るには、著書『真の日本精神が世界を救う』(イースト・プレス)が最良の手引きとなるだろう。

●危機を乗り越えた人類の前進

 1960年代後半から70年前後の危機を乗り越えてから、日本人は、日本の伝統や文化を再認識するようになった。共産主義だけでなく、近代西洋文明の根底が問われ、東洋や自然に回帰する生き方が見直された。
 大塚先生は、戦前から既に、世界は西洋物質文明の時代から東洋精神文明の時代に大転換すると説いてこられた。そして、1970年(昭和45年)前後から世界は、一日にたとえれば、夜から昼に変わるような大変化の時代に入ると説かれた。また、この時代においては、東洋・アジア、特に日本人に重大な使命があると強調された。

 15世紀以来発展を続けた欧米は、今世紀から衰退期に入った。西欧は二度の大戦で大きく後退した。アメリカもピークを過ぎ、覇権の維持に汲々としている。
 1972年(昭和47年)、アメリカは中国と結んで、ソ連に圧力をかけた。それは奏を功して冷戦は終結に至り、1991年(平成3年)にはソ連が解体された。東欧諸国でも共産政権が次々に崩壊した。20世紀を席巻した共産主義は、西洋物質文明を極度に進めたものだったが、その共産主義が矛盾を暴露し、大きく後退した。共産主義が後退した国々では、大衆は精神文化に心の渇きを癒している。先進国では、共産主義に理想を描いていた多くの人々が幻想から覚め、共存調和の生き方を求めている。
 アメリカでは、1960年代から東洋の宗教や瞑想を評価する文化運動が起こり、西洋文明・物質文明の相対化が進んだ。原子物理学者は「老子」「易経」や仏典に表わされている宇宙の姿と、相対性理論や量子力学が描く世界像とが近似していることを発見した。東洋の神秘と想われていたものの背後に、深遠な認識や知恵があることが、欧米の知識層に理解されるようになってきた。

 その一方、アジアは活動発展期を迎え、大きく動き出した。日本が1960年代に高度経済成長を遂げたのに続き、70年代には日本と関係の深い韓国、台湾、香港、シンガポールなど、NIES(新興工業経済地域)と呼ばれる国々が急速に発展した。四小龍とも称された。80年代にはタイ、マレーシア、インド等も工業化政策を進めて経済開発に成功した。80年代後半以降は、日本の海外投資により東アジアの経済成長はさらに加速し、「東アジアの奇跡」「世界の成長センター」などと称されるまでになった。90年代からは、市場経済を導入した中国も経済成長の軌道に乗った。
 21世紀に入ると、アジアは、まさに世界の経済的中心地域となってきている。人口、生産力、発展可能性等で他の地域を大きく上回っている。アジアが経済的に発展するとともに、アジア諸文明の精神文化の再評価がされ、日本、シナ、インド等の精神的伝統が、人類に新たな精神文化の創造を促している。
 こうしたここ半世紀ほどの世界の変化を見るにつけ、大塚寛一先生の慧眼は、他に比類なきものであることが感じられる。21世紀は、西洋物質文明の欠陥を是正するため、東洋に精神文明の興隆が期待されている。とりわけ日本の精神的伝統のもつ潜在力が大きく開花する時を迎えているのである。だが、まだほとんどの人々は、この大きな世界の大転換に気付いていない。日本人自身が自らの特徴や役割をよく認識していない。そのため、人類社会は対立・抗争が止まず、進むべき方向を見いだせずに動揺を続けている。

関連掲示
・マイサイトの「基調」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/keynote.htm

現代世界史1~70年安保前後の世界的危機

2014-07-24 08:44:11 | 現代世界史
●はじめに

 私は、5年ほど前、「現代の眺望と人類の課題」と題して現代の世界史を書き、マイサイトに掲載している。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion09f.htm
 このたび第8章以下、1970年代以降の部分を中心に大幅に加筆・修正し、また本年までの内容に更新することとした。30数回の予定で原稿をブログに集中的に連載する。

●70年安保前後に日本と世界の最大危機が

 第2次世界大戦後、人類は幾度か第3次世界大戦の危機に直面してきた。ベルリン危機、朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争、中ソ対立、70年安保前後の日本危機、1979年の中東危機、1980年代半ばのソ連最盛期等が、それである。
 こうした危機の中で私が、日本と世界にとって過去最大の危機だったと理解しているのが、70年安保前後の日本危機である。

 1965年(昭和40年)の年頭、我が生涯の師にして、神とも仰ぐ大塚寛一先生は、次のようなご警告を発した。
 「いまや世界は、一大転換期に直面しており、早ければ3年のうち、遅くとも5年以内には、全世界人類が、滅亡の岐路に立つような重大な時期に遭遇しよう」と。
 このご警告後、間もなく世界は、激動の時代に入った。先生がご警告を発した翌月65年(40年)2月、アメリカはベトナムへの北爆を開始し、ベトナム戦争が本格化した。翌年の66年(41年)11月、共産中国で文化大革命が始まり、激しい権力闘争が繰り広げられた。さらにその翌年の67年(42年)6月、イスラエルがアラブ諸国に侵攻し、第3次中東戦争が勃発した。69年(44年)には毛沢東の個人崇拝で加熱する中国と、これを押さえ込もうとするソ連との間で中ソ国境紛争が起こり、中ソ激突の可能性が高まった。
 この間、先進諸国では、共産主義運動や反戦・人権運動が嵐のように高揚した。アメリカのベトナム反戦運動、西ドイツ、イタリア等の学生運動が各国に広がった。こうした運動は、フランスでは高度資本主義の管理体制を批判する社会変革闘争へと急進化し、68年(43年)に五月革命が起こり、ド・ゴール政権が退陣した。

 わが国でも、同年同月に日本大学で日大全共闘が結成され、続いて東京大学等の各大学に全共闘運動が広がった。最初は大学改革を求める学生運動だったが、やがて共産主義運動へと性格が変わり、新左翼各派を中心とした暴力革命闘争へと過激化した。
 大塚先生は1965年(昭和40年)にご警告を発した後、66年(41年)9月に、人類救済の百ガン撲滅運動を開始された。68年(43年)6月には、日本精神復興促進会を結成し、各界有力者に協力を呼びかけ、「真の日本精神」を伝える運動を展開された。同年夏より、大塚先生は全国の人口30万以上の都市で講演を行い、一大啓発活動を推進された。
 各地の講演会で大塚先生は、世界をおおう危機は、世界の大転換に伴う現象であることを明らかにされた。そして、この危機を乗り越えるためには、日本人が日本精神を取り戻し、一致団結しなければならないことを説かれた。

 大塚寛一先生は、戦前から既に、世界は西洋物質文明の時代から東洋精神文明の時代に大転換すると説いてこられた。拙稿「西欧発の文明と人類の歴史」第7章に、第2次世界大戦期前後に示された先生の比類ない予見力について書いた。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion09e.htm
 先生は、大東亜戦争について、「大東亜戦争は戦う必要がなかったし、戦えば負けることは最初から決まっていた。それはちょうど弓を放つのでも、矢が弦を離れるときすでに、当るか当らないかは決定している」と説かれた。その理由は「すでに裏半球の欧米は、四季でたとえれば木枯が吹きはじめる季節であり、表半球のアジアの方は、春がおとずれ、発展期に遭遇する時である」からとし、「あの時、わしの言う通りに厳正中立を守っていれば、日本は一兵を失うこともなく、領土も縮めず、第三国からは敬われ、いまは米ソをしのぐほどの立派な国になっていたにちがいない」と述べておられる。
 大塚寛一先生は、大戦後も、一貫して世界の大転換を説かれた。1960年代から70年代にかけての時代は、多くの人々が、物質科学文明に幻惑され、また共産主義の幻想に取りつかれていた時代だった。そうしたなかで、大塚先生は、西洋物質文明の限界と共産主義の矛盾を看破し、日本人が進むべき道、そして人類が進むべき道を示しておられたのである。

 1969年(44年)1月、東大安田講堂事件が起こった。全共闘運動、共産革命運動は全国に広がり、多くの大学は占拠され、街頭では火炎瓶が飛び交い、国内は騒然とした状態となった。大塚先生は、「日本人は日本精神に帰れ」と訴え、一層活発に日本精神復興促進運動を展開された。この年3月、『百ガン撲滅の理論と実証』(改題後『真の日本精神が世界を救う』)という本を刊行され、国民の啓発を進めた。
 同年12月の総選挙は、大きな山場だった。選挙前、日本社会党が躍進し、日米安保条約の破棄を唱える左翼政権の誕生が確実視されていた。議会活動と街頭闘争が連動すれば、安保破棄から社会主義革命へと突入する恐れがあった。しかし、選挙の結果は、社会党が約50議席を減らして大敗。保守勢力が政権を保ち、潮目が変わった。
 70年(45年)になると全共闘運動、共産革命運動は下火になり、6月日米安保は自動延長された。この年11月25日、作家の三島由紀夫は、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自衛隊に決起を促す演説をして受け入れられず、割腹自殺した。70年代には、新左翼党派間で内ゲバが頻発し、赤軍派によるよど号ハイジャック事件や、連合赤軍によるリンチ事件・浅間山荘事件などが起こり、共産主義運動は大衆の支持を失った。

 こうして1970年(昭和45年)を峠として、日本国内の嵐は収まり、平穏が戻った。これは、わが国だけのことではなく、世界全体が第3次世界大戦の最大危機を回避し、対話と協調の方向へと大きく動き出したのである。

 次回に続く。

中国不動産市場は氷山衝突寸前のタイタニック号~石平氏

2014-07-23 08:41:24 | 国際関係
 シナ系評論家の石平氏は、産経新聞の「China Watch」で、昨年後半から中国における不動産バブルの崩壊が現実となり、今年の2月ころから、バブルの崩壊が本格化しているとして、その進行状況について書き続けている。6月12日の記事では、例年「花の五一楼市(不動産市場)」といわれるほど不動産がよく売れる5月1日を中心とした期間が、惨憺たる結果だったことを伝えている。
 記事によると、全国54の大中都市における不動産販売件数は、昨年同時期と比べて32・5%減。首都の北京では前年同期比で約8割も減った。石氏は「まさに『不動産市場の5月厳冬』と呼ばれる大不況が到来したのである」と断じている。
 不動産価格も当然下落しており、重慶市最大の不動産開発プロジェクト「恒大山水城」は3割以上値下げ、杭州市ではある分譲物件を予定価格の3分の1程度に値下げ、広州市ではある業者が史上最高価格で取得した土地に作った大型不動産物件が3割程度の値下げをしたという。
 石氏は、中国有数の不動産開発大手「中国SOHO」トップの潘石屹氏が「中国の不動産市場は今、氷山に衝突するタイタニック号だ」との衝撃発言をしたと伝え、「この国の不動産市場は確かに『氷山』にぶつかって沈没する寸前である」と書いている。また香港に拠点の一つを持つスタンダードチャータード銀行「大中華区研究主管」の王志浩氏も最近、「今年中に中国一部都市の不動産価格は半分以上も暴落する」との不気味な予言を発している。」と書いている。
 不動産バブルの崩壊は加速しつつあるようである。不動産価格の暴落は、不動産の分野だけにとどまるものではない。石氏は、4月3日の記事で今後の展開を大意次のように予想しているた。今後広がる不動産開発企業の破産あるいは債務不履行は、そのまま信託投資の破綻を意味する。それはやがて、信託投資をコアとする「影の銀行」全体の破綻を招く。金融規模が中国の国内総生産の4割以上にも相当する「影の銀行」が破綻すれば、経済全体が破滅の道をたどる以外にない。「生きるか死ぬか、中国経済は今、文字通りの崖っぷちに立たされているのである」と。
 今回の不動産バブル崩壊の前、胡錦濤政権の末期においてすでに中国では全国で年間18万件を超える暴動・騒動事件が起こっている。習政権になってから、暴動は激化しているようである。そこに経済が本格的に悪化すると、社会不安は一層増大する。窮状打開のために、中国共産党指導部がファッショ的な軍事行動を行い、人民解放軍が周辺諸国に侵攻する危険性が高くなる。矛先は、東へ向くか、南へ向くか、西へ向くか、どちらかである。増勢した濁流は堤防の弱いところを乗り越え、押し崩す。わが国及び日本人は、十分に警戒し、しっかり防備をしておかなければならない。
 以下は、石氏の記事の全文。

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●産経新聞 平成26年6月12日

http://sankei.jp.msn.com/world/news/140612/chn14061215430004-n1.htm
【石平のChina Watch】
「氷山に衝突するタイタニック号」 始まった中国経済の「厳冬」
2014.6.12 15:43

 今、中国では本欄が一貫して警告してきた不動産市場の崩壊が着実に進んでいる。
 まずは不動産が徹底的に売れなくなったことだ。中国では、毎年5月1日のメーデーを中心に数日間の休みがあって、例年では不動産がよく売れる「花の五一楼市(不動産市場)」とされてきた。
 だが、今年は惨憺(さんたん)たるものである。中原地産研究センターが観察している全国54の大中都市で「五一楼市」で売れた不動産件数は9887件。昨年同時期と比べると32・5%減という。
 首都の北京では期間中の不動産販売件数が前年同期比で約8割も減った。地方都市の保定に至ると、期間中の不動産契約件数はわずか10件、まさに「不動産市場の5月厳冬」と呼ばれる大不況が到来したのである。
 不動産が売れなくなると、ついてくるのは価格の下落だ。全国における不動産価格の下落傾向は今年3月からすでに始まっているが、5月後半には一層加速化。
 中国経済新聞網が同30日、重慶市最大の不動産開発プロジェクト「恒大山水城」が3割以上値下げして売り出されたと報じれば、同じ日に放送された中央テレビ局の「経済30分」という人気番組は、杭州市にある分譲物件を予定価格の3分の1程度に値下げして売りさばいた事案を取り上げた。
 『毎日経済新聞』の報じたところによれば、「値下げラッシュ」が南方の大都会、広州にも広がり、ある業者が史上最高価格で取得した土地に作った「亜運城」という大型不動産物件も3割程度の値下げを余儀なくされたという。
 そして、同31日に中国指数研究院が発表した、全国100の都市での定期調査の結果、100都市の不動産平均価格が5月には前月比で0・32%の下落となったことが分かった。
 全国で広がる価格下落の実情を見ると、この下落幅が果たして真実を反映しているかどうかはかなり疑問だが、少なくとも、全国の不動産平均価格は2年ぶりに下落したのである。
 もちろん、そういう統計数字よりも、たとえば中国有数の不動産開発大手「中国SOHO」トップの潘石屹氏が発した「中国の不動産市場は今、氷山に衝突するタイタニック号だ」という衝撃発言の方が現在の危機的な状況を如実に反映しているだろう。
 この国の不動産市場は確かに「氷山」にぶつかって沈没する寸前である。香港に拠点の一つを持つスタンダードチャータード銀行「大中華区研究主管」の王志浩氏も最近、「今年中に中国一部都市の不動産価格は半分以上も暴落する」との不気味な予言を発している。
 不動産市場の崩壊がもたらす経済面の負の効果も大きい。たとえば不動産市場の不況を受け、今年1月から4月までの全国の不動産投資の着工面積は前年同期比で22・1%減となった。
 不動産投資がそれほど減ると、今後、鉄鋼やセメントなどの基幹産業から家具・内装などの民需産業まで不況が襲ってくるのは必至だ。対外輸出が4月までマイナス成長が続いた中で非常に苦しんでいる中国経済は今後、さらなる減速と衰退が避けられないであろう。
 まさにこのような経済衰退の惨憺たる未来を通して、著名経済学者の許小年氏は5月21日、多くの国内企業家に対して「中国経済の長い冬に備えよう」と語った。台湾出身の経済学者、郎咸平氏も同27日、「中国経済は既に長期的不況に入った」と喝破した。
 どうやら中国経済は5月からすでに不況の「厳冬」の時代に突入しているようだ。しかもこの厳冬の先に、「春」がやってくるようなこともないのではないか。
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