●大戦後イランの政治的変遷とイラン革命
中東に関して、次にイランとイラクの間の問題を見て行こう。
イランは、中東イスラム諸国の中では、異色の存在である。イランは、古代にはペルシャ文明が栄えた地であり、イラン国民の多くは、アラブ民族ではなく、ペルシャ民族である。また最大の特徴は、アラブ諸国にはイスラムの多数派であるスンニ派が多いが、イランには少数派のシーア派が多い。
イランでは、第2次世界大戦において、パフラビー朝の国王モハンマド・レザー・シャーがナチス政権と提携した。戦後、レザー・シャーは南北から進駐してきた英ソ両軍により退位させられて亡命した。シャー・パーレビが後を継いだ。
イランの石油利権は、イギリスのアングロ・イラニアン石油会社が独占していた。しかし、同社は契約改定交渉で譲歩しなかった。これに対する不満が強まるなか、急進民族派が政権を握り、議会は石油国有化法案を可決した。1951年に首相となったモザデクは、世論を背景にアングロ・イラニアン石油会社を国有化した。これに対し、イギリスはタンカーの航路を封鎖し、国際石油資本は石油の買い付けを拒否した。そのため、イラン経済は大打撃を受けた。
1953年(昭和28年)8月、アメリカの支援を受けた国王パーレビ2世が、クーデタによりモザデクを倒し、政権に復帰した。翌54年には8大石油資本(米・英・蘭・仏系)の合弁会社イラニアン・コンソーシアムが設立され、国有化された石油会社の運営に当たることになった。こうして、イランにおけるイギリスの石油利権独占体制は打ち破られた。
パーレビ2世は、ソ連やアラブ急進派との関係悪化を承知の上で親米路線を貫き、CIAの援助で秘密警察(SAVAK)を設置し、反対派を弾圧して独裁体制を築いた。63年(38年)から白色革命と呼ばれる一連の近代化政策を強力に推進した。膨大な石油収入を背景に軍や首都の近代化、農地改革、国営企業の払い下げ、識字運動など、政府主導の近代化が進められた。しかし、他方で貧富の差が拡大し、国家情報治安局(サヴァク)による監視、弾圧が続いた。75年以降になると復興党(ラクターヒーズ)の一党独裁が強化された。この時期、イランはアメリカの中東における拠点としての役割を果たした。21世紀の今日とは大違いである。
こうした「近代化=西洋化」の改革に対し、イスラーム・シーア派の法学者たちが強く反発して抗議集会を開いた。国王は容赦のない弾圧を加え、最高指導者のホメイニを国外に追放した。
1978年(昭和53年)、イランで国王の圧政に反対するデモが起こり、首都テヘランでは数千人の死者が出た。さらに12月には200万人の大デモが起こり、もはや鎮圧できなかった。79年1月にパーレビ2世は亡命した。2月ホメイニがフランスから帰国して革命政府の樹立を宣言した。パフラビー朝は崩壊し、3月国民投票でイスラムを国家原理とするイラン・イスラム共和国が発足した。
ホメイニは、イスラム的な社会規律の回復など宗教色、民族色の強い政策を追求した。石油を国有化し、一方で産油量を激減させた。オイル・メジャーによるイラニアン・コンソーシアムは利権を失い、石油は1バレルが23ドルへと高騰した。エネルギー・コストの上昇による不況が世界を襲った。そのあおりを受けて中南米では経済に壊滅的な打撃を受けた。これを第2次石油危機という。以後、開発途上国も資源を持つ国と持たない国に分かれ、次第に格差が広がることになった。なお、第1次石油危機は、1973年(昭和48年)の第4次中東戦争の時に起こった危機をいう。
ホメイニのもと、イランは反米色を強め、中央条約機構(CENTO)から脱退した。これによって、中東におけるアメリカの拠点は失われた。同じ1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、イランは反ソ色も強め、独自の姿勢を示した。
●イラン・イラク戦争
1979年(昭和54年)にイラン革命が起きると、アメリカとともにアラブ諸国は、革命の波が石油を産出するサウジアラビア、クウェートなどの君主国に及ぶことを恐れた。そして、イラクを「イラン革命の防波堤」と見なして期待をかけた。
イラクでは、68年(昭和43年)にバース党がクーデターで政権を奪取し、その政権が続いた。79年にサダム・フセインが大統領の地位に就いた。バース党は社会主義とアラブ民族主義を掲げるが、イラクの社会主義は、一党独裁によって軍人・官僚が膨大な石油収入を私益化するものとなり、アラブ民族主義も最初の理想を失い、アラブ至上主義、領土拡張主義に堕してしまうことになった。
サダム・フセインは、イラン革命当時の国際情勢、革命によるイランの軍事的弱体化などの状況を読んで、領土拡張を図った。イラクとイランの間には、シャトルアラブ川下流の国境を巡る対立がある。フセインは、領土紛争を口実にイランとの戦争を始めた。これがイラン=イラク戦争である。
イランはシーア派が多数を占める国家だが、イラクの南部にはシーア派が居住し、また人口の約60%を占める。フセインは、イラクでは少数派のスンニ派を母体とし、国内のシーア派を冷遇していた。
フセインはイラクに侵攻したが、イランはイラクの3倍の人口を持ち、イスラム革命を唱えるイラン軍の士気も高かった。イラク軍は1982年に追い出され、逆にイラン軍がイラクに攻め込んだ。しかし、イラク軍はアメリカから潤沢な援助を受け、アメリカ製武器による近代装備を誇っていた。これをイランの人海戦術で打ち破ることは不可能だった。戦局は膠着化し、イライラ戦争と呼ばれる長期戦が続いた。
1988年(昭和63年)、ようやく両国は国連の停戦決議を受け入れて停戦した。イラン・イラク戦争で、イランは500億ドル、イラクは900億ドルの戦費を使い、両国とも財政の悪化に苦しむことになった。それが、後の湾岸戦争の背景となっていく。
次回に続く。
中東に関して、次にイランとイラクの間の問題を見て行こう。
イランは、中東イスラム諸国の中では、異色の存在である。イランは、古代にはペルシャ文明が栄えた地であり、イラン国民の多くは、アラブ民族ではなく、ペルシャ民族である。また最大の特徴は、アラブ諸国にはイスラムの多数派であるスンニ派が多いが、イランには少数派のシーア派が多い。
イランでは、第2次世界大戦において、パフラビー朝の国王モハンマド・レザー・シャーがナチス政権と提携した。戦後、レザー・シャーは南北から進駐してきた英ソ両軍により退位させられて亡命した。シャー・パーレビが後を継いだ。
イランの石油利権は、イギリスのアングロ・イラニアン石油会社が独占していた。しかし、同社は契約改定交渉で譲歩しなかった。これに対する不満が強まるなか、急進民族派が政権を握り、議会は石油国有化法案を可決した。1951年に首相となったモザデクは、世論を背景にアングロ・イラニアン石油会社を国有化した。これに対し、イギリスはタンカーの航路を封鎖し、国際石油資本は石油の買い付けを拒否した。そのため、イラン経済は大打撃を受けた。
1953年(昭和28年)8月、アメリカの支援を受けた国王パーレビ2世が、クーデタによりモザデクを倒し、政権に復帰した。翌54年には8大石油資本(米・英・蘭・仏系)の合弁会社イラニアン・コンソーシアムが設立され、国有化された石油会社の運営に当たることになった。こうして、イランにおけるイギリスの石油利権独占体制は打ち破られた。
パーレビ2世は、ソ連やアラブ急進派との関係悪化を承知の上で親米路線を貫き、CIAの援助で秘密警察(SAVAK)を設置し、反対派を弾圧して独裁体制を築いた。63年(38年)から白色革命と呼ばれる一連の近代化政策を強力に推進した。膨大な石油収入を背景に軍や首都の近代化、農地改革、国営企業の払い下げ、識字運動など、政府主導の近代化が進められた。しかし、他方で貧富の差が拡大し、国家情報治安局(サヴァク)による監視、弾圧が続いた。75年以降になると復興党(ラクターヒーズ)の一党独裁が強化された。この時期、イランはアメリカの中東における拠点としての役割を果たした。21世紀の今日とは大違いである。
こうした「近代化=西洋化」の改革に対し、イスラーム・シーア派の法学者たちが強く反発して抗議集会を開いた。国王は容赦のない弾圧を加え、最高指導者のホメイニを国外に追放した。
1978年(昭和53年)、イランで国王の圧政に反対するデモが起こり、首都テヘランでは数千人の死者が出た。さらに12月には200万人の大デモが起こり、もはや鎮圧できなかった。79年1月にパーレビ2世は亡命した。2月ホメイニがフランスから帰国して革命政府の樹立を宣言した。パフラビー朝は崩壊し、3月国民投票でイスラムを国家原理とするイラン・イスラム共和国が発足した。
ホメイニは、イスラム的な社会規律の回復など宗教色、民族色の強い政策を追求した。石油を国有化し、一方で産油量を激減させた。オイル・メジャーによるイラニアン・コンソーシアムは利権を失い、石油は1バレルが23ドルへと高騰した。エネルギー・コストの上昇による不況が世界を襲った。そのあおりを受けて中南米では経済に壊滅的な打撃を受けた。これを第2次石油危機という。以後、開発途上国も資源を持つ国と持たない国に分かれ、次第に格差が広がることになった。なお、第1次石油危機は、1973年(昭和48年)の第4次中東戦争の時に起こった危機をいう。
ホメイニのもと、イランは反米色を強め、中央条約機構(CENTO)から脱退した。これによって、中東におけるアメリカの拠点は失われた。同じ1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、イランは反ソ色も強め、独自の姿勢を示した。
●イラン・イラク戦争
1979年(昭和54年)にイラン革命が起きると、アメリカとともにアラブ諸国は、革命の波が石油を産出するサウジアラビア、クウェートなどの君主国に及ぶことを恐れた。そして、イラクを「イラン革命の防波堤」と見なして期待をかけた。
イラクでは、68年(昭和43年)にバース党がクーデターで政権を奪取し、その政権が続いた。79年にサダム・フセインが大統領の地位に就いた。バース党は社会主義とアラブ民族主義を掲げるが、イラクの社会主義は、一党独裁によって軍人・官僚が膨大な石油収入を私益化するものとなり、アラブ民族主義も最初の理想を失い、アラブ至上主義、領土拡張主義に堕してしまうことになった。
サダム・フセインは、イラン革命当時の国際情勢、革命によるイランの軍事的弱体化などの状況を読んで、領土拡張を図った。イラクとイランの間には、シャトルアラブ川下流の国境を巡る対立がある。フセインは、領土紛争を口実にイランとの戦争を始めた。これがイラン=イラク戦争である。
イランはシーア派が多数を占める国家だが、イラクの南部にはシーア派が居住し、また人口の約60%を占める。フセインは、イラクでは少数派のスンニ派を母体とし、国内のシーア派を冷遇していた。
フセインはイラクに侵攻したが、イランはイラクの3倍の人口を持ち、イスラム革命を唱えるイラン軍の士気も高かった。イラク軍は1982年に追い出され、逆にイラン軍がイラクに攻め込んだ。しかし、イラク軍はアメリカから潤沢な援助を受け、アメリカ製武器による近代装備を誇っていた。これをイランの人海戦術で打ち破ることは不可能だった。戦局は膠着化し、イライラ戦争と呼ばれる長期戦が続いた。
1988年(昭和63年)、ようやく両国は国連の停戦決議を受け入れて停戦した。イラン・イラク戦争で、イランは500億ドル、イラクは900億ドルの戦費を使い、両国とも財政の悪化に苦しむことになった。それが、後の湾岸戦争の背景となっていく。
次回に続く。