ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

キリスト教150~キリスト教的実存主義と無神論的実存主義

2019-01-22 09:30:30 | 心と宗教
●キリスト教的実存主義と無神論的実存主義

 ティリッヒの項目に、彼がその哲学的神学の中に実存主義を摂取したと書いた。実存主義は、ジャン=ポール・サルトルが提唱した思想である。フランス人だが、ドイツの実存哲学との関係でここに補足として書く。
 サルトルは、1905年にフランスに生まれ、哲学者としてとともに小説家・劇作家としても活躍した。1930年代にドイツに留学し、フッサールに現象学を、ハイデガーに存在論を学んだ。そして、1943年(昭和18年)に刊行した『存在と無』で、自らの現象学的存在論を体系的に叙述した。
 サルトルは、本書で、ユダヤ=キリスト教的な世界観に対して、それを否定する無神論的世界観を提示した。もし無から万物を創造した神が存在するならば、神は自ら創造するものが何であるか(本質)を分かっているから、すべてのものは現実に存在する前に、神によって本質を決定されていることになる。この場合は、本質が実存に先立つ。しかし、逆に神が存在しないとすれば、すべてのものはその本質を決定されることなく、現実に存在することになる。この場合は、実存が本質に先立つことになる。サルトルは、後者の世界認識を打ち出した。
 サルトルは、1946年(昭和21年)刊行の『実存主義はヒューマニズムである』で、実存主義を宣言した。実存主義は、人間の本来的なあり方を主体的な実存に求める立場である。サルトルによると、事物はただ在るに過ぎない即自存在(être-en-soi)だが、人間的実存は自己を意識する対自存在(être-pour-soi)である。対自存在は存在と呼ばれてもそれ自身は無である。人間は、あらかじめ本質を持っていない。人間とは、自分が自ら創りあげるものに他ならない。人間は自分の本質を創る自由を持っている。それゆえに、その責任はすべて自分に返ってくる。「人間は自由という刑に処せられている」とサルトルは言う。
 人間はだれしも自分の置かれた状況に条件づけられ、拘束されている。人間を条件づけているのは、政治・社会・歴史など世界の全体である。人間は世界に働きかけて、選択の可能性を広げ、自己をますます解放しなければならない。このように説くサルトルは、アンガージュマン(政治参加・社会参加)の必要性を訴えた。核時代に入り、米ソ両大国の冷戦が続く状況において、世界を変えるために行動を呼びかけるものだった。その主張は、戦後の虚無感に苛まれていたフランスの青年層に強い共感を与え、さらに世界的に影響を広げた。1950年代から60年代にかけて、実存主義は、マルクス主義と並ぶ二大思潮となった。
 キリスト教と実存主義の関係について述べると、サルトルは、実存主義をキリスト教的実存主義と無神論的実存主義に分類した。キリスト教的実存主義者には、キルケゴール、ヤスパース、マルセルらが挙げられる。これに対し、無神論的実存主義者には、ニーチェやサルトル自身が挙げられる。
 実存に関する哲学を説くことと、実存主義とは必ずしも一致しない。サルトルはハイデガーを無神論的実存主義者としたが、ハイデガーは自らを実存主義者とは区別した。彼は、形而上学の始源以前に遡って、存在に関する思考を行っており、サルトルが言うような実存主義者ではない。また、キリスト教を否定しているわけではなく、キリスト教を否定するという意味での無神論者でもない。彼とよく対照されるヤスパースはキリスト教の枠組みを出ており、キリスト教的というより有神論的と言うべきである。また、サルトル流の実存主義者というより、実存哲学者である。サルトルは、ティリッヒに言及していないようだが、ティリッヒはキリスト教的実存主義者と位置づけることが可能だろう。
 サルトルの影響を受けて実存主義の範囲を広く取る者は、パスカル、シェリング、ベルジャーエフらを含めたり、文学におけるドストエフスキー、カミュ、カフカらや美術におけるジャコメッティ、ビュッフェらにも広げたりする。そのように広げるほど、実存の規定が曖昧になり、本質と実存という対概念の対比による論理的な思考から離れていく。実存は、人間存在の不安やおののき、孤独、虚無感といった心理を象徴的に表す言葉になる。
 こうした心理は、キリスト教的な神を信じる、信じない、疑う、疑わないという考え方の違いに関わらず、近代人・現代人の心に生じるものである。また、時代や宗教、思想の違いに関わらず、人間が人間である限り、心に抱くものともいえる。
 今日、キリスト教がこうした人間の不安やおののき等を解決し、心の救いや安らぎ、希望を人々に与え得るかどうか、それが問われている。キリスト教は、人間の在り方を原罪または堕落という観念で説明する。神学者や哲学者は、神話的な表現を避けて、疎外の概念で説明する。だが、そうした観念や概念を以て考え方を変えるだけでは、不安やおののき等は根本的には解決しない。先の問いの答えを提示できるかどうかは、病気や事故・災難、出産に伴う危険、死に伴う恐怖や苦痛、人間関係や能力・運命等の悩みを、具体的にまた実際的に解決する力があるかどうかによる。突き詰めれば、真理の現れとしての救いの実証があるかどうかによるのである。

 次回に続く。
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韓国駆逐艦レーダー照射問題~軍事専門家の見方2

2019-01-21 12:39:35 | 国際関係
 軍事専門家の見方の続きです。

●元防衛省情報分析官・西村金一氏
 「韓国が救助作戦中と主張する北朝鮮船について、「線が引っ張られている。これはAMモールス通信アンテナ。モールス通信をやるのは長距離で連絡する必要がある。北朝鮮の特殊部隊か工作員が乗っていた。韓国は燃料を与えていた」
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キリスト教149~ティリッヒ:「神を越えた神」の神学を説く

2019-01-19 08:51:29 | 心と宗教
●ティリッヒ~「神を越えた神」の神学を説く

 パウル・ティリッヒは、1886年にルター派教会の牧師の息子としてドイツに生れた。大学で哲学と神学を学び、シェリングに関する学位論文を書いた。一時社会主義思想に共鳴し、フランクフルト学派の成立に寄与した。1933年、ヒトラー政権の誕生によって大学教授の職を追われると、アメリカに移住し、プロテスタント系のユニオン神学校の教授となった。
 ティリッヒはキリスト教の神学者でありながら、プラトン、ドイツ観念論、実存主義、深層心理学等を摂取し、神学と哲学の統合を図った。そのため、彼の神学は、哲学的神学と呼ばれる。キリスト教は古来、異教による非難・攻撃に対してキリスト教の真理を弁明・擁護する弁証論を展開した。ティリッヒの神学はこの系譜に属する。
 ティリッヒは、存在論的形而上学の伝統に則り、存在論的な神学を説いた。彼の神学は、本質的な存在を探究するものであると同時に、現実的な存在を探究するものでもある。現実的な存在とは、可能的な本質が現実化したものであり、これを実存という。実存とは、時間的・空間的に有限な個物的存在である。特に自己の存在を意識する人間的実存をいう。ティリッヒの神学が20世紀及び現代の神学であるのは、死、運命、無意味さという不安によって脅かされる人間的実存の生き方を説いている点である。そこには、ハイデガーやサルトルの影響が見られる。
 1952年に刊行された『生きる勇気』(The Courage to Be)において、ティリッヒは、大意次のように説いた。存在は、それ自体の中に無を包摂する。万物の根底は、生ける創造性であり、無を永遠に征服しつつ、創造的にそれ自体を肯定する。そのようなものとして存在の根底は、あらゆる有限な存在における自己肯定の原型であり、生きる勇気の源泉である。生きる勇気は、生命力の一つの機能である。生命力の減退は、勇気の減退を引き起こす。生命力を強化することは、生きる勇気を強化することを意味する。
 神とは、「存在それ自体(being-itself)」である。存在を最もよく表現するためには、「存在の力(power of being)」という比喩を用いざるを得ない。力とは、一つの存在が、他のさまざまな諸存在の対抗に打ち勝って、自己自身を実現するべくもっているところの可能性である。
 信仰とは存在それ自体の力によってとらえられている状態であり、存在の力の経験である。そしてこの存在の力が、存在者に生きる勇気を与える。絶対的信仰の内容は、有神論的な神観念を超えた「神を越える神」(God above God)である。生きる勇気の究極的源泉は「神を越える神」にある、と。
 ティリッヒは『生きる勇気』で上記のように神と実存の探究を進めたが、彼の神学は、決してキリスト教の神観念を抜け出るものではない。1951年から63年にかけて刊行された主著『組織神学』で、ティリッヒは、存在それ自体としての神を「三位一体の神」としてとらえる立場から、組織的・体系的な神学を展開している。本書は、父と子と聖霊の三位一体説に立ち、各位格に対応して「存在と神」「実存とキリスト」「生と聖霊」の3部で構成され、序章として「理性と啓示」、終章として「歴史と神の国」が付加されている。
 キリスト教は、人間は天の父である神の似像として創造されたが堕落し、神の愛によってイエス=キリストを通じて救済されるという教えである。ティリッヒは、この教えの構造を、<本質→実存→本質化><同一性→分離→再結合>という弁証法的な運動によって表現する。この運動は、根源的同一性である神が外化して、再び自己に還帰する歴史である。人間における本質から実存への展開は疎外であり、疎外された状態にあることが、実存的不安である。
 こうした弁証法的な歴史理解は、ヘーゲルの哲学に基づいている。ヘーゲルにおいて、弁証法的とは、神の原初的同一性が疎外(外化)され、これが止揚されてより高い同一性に還帰するという過程的な構造をいう。ヘーゲルの弁証法は、基本的に本質と存在の一致に基づく本質主義の哲学である。これを批判し、人間的実存の立場に立つ実存主義の哲学を説いたのが、キルケゴールであった。ティリッヒは、実存主義を継承しつつ、これを本質主義と総合することを試みている。そこで、彼が依拠するのは、父と子と聖霊の三位一体である聖書の神である。
 ティリッヒはキリスト教の主流が教義としている三位一体の神を神とするが、同時にティリッヒは、神を「無制約なもの」「存在の根底」「存在の根拠」などとし、真の神は「神を超えた神」であると説いている。これは、神を、宇宙をその外から、また無から創造した超越神であると同時に、宇宙全体、一切万有そのものとしての宇宙神でもあるというとらえ方である。このとらえ方は、正統的な超越神論とシェリング、ヘーゲル等の汎神論の総合を試みたものになる。西田幾多郎の概念で言えば、超越的即内在的な神を説く万有在神論の一形態といえよう。だが、決してキリスト教の枠組みを抜け出るものではない。存在論的かつ汎神論的な議論を展開しつつも、常にその焦点は、聖書の神、そしてイエス=キリストにある。
 『組織神学』の終章「歴史と神の国」において、ティリッヒは、現実の世界で歴史的に生きる実存の課題の解決を試みながら、その課題に答えられず、神の国の到来を待望する。その終末論的な思想はイエス=キリストの再臨を想定するものであり、ティリッヒの神学は、遂にキリスト教の内にとどまるものに終わった。
 ティリッヒは、1965年に死去した。その神学は、キリスト教が他の宗教を包摂する理論とはなり得ず、また、古代から幾度も分裂を続けてきたキリスト教を再統合し得るものとさえなっていない。

 次回に続く。
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韓国駆逐艦レーダー照射問題~軍事専門家の見方

2019-01-18 13:42:23 | 国際関係
 韓国駆逐艦レーダー照射問題は、日韓の話し合いで平行線が続いています。素人でも、日本側には非がなく、韓国側は自らの非を認めようとしていないことが明らかにわかります。
 1月14日シンガポールで行われた日韓実務者協議で、日本側は証拠となるレーダー情報の交換を提起しましたが、韓国側はこれに応じず、協議は平行線に終わったとのことです。韓国国防省報道官は15日の記者会見で、日本の提案について「受け入れ困難で非常に無礼な要求」などと批判しました。
 これに対し、自衛隊トップの河野克俊統合幕僚長は、17日の記者会見で、韓国側がレーダー情報の相互開示を求めた日本を「無礼」としたことについて、「主権国家であるわが国に対し、責任ある韓国の人間が『無礼』などと言ったことは極めて不適切であり遺憾だ」と述べ、「われわれの要求はまったく合理的なもので、韓国の非難は当たらない」と主張しました。また、「われわれは(レーダー照射の)確固たる証拠を持っている。韓国側は真摯(しんし)に受け止め、事実を認めて再発防止に努めてほしい」と強調しました。
https://www.sankei.com/politics/news/190117/plt1901170017-n1.html

 このレーダー照射問題について、我が国の軍事の専門家は、これまで次のような見解を述べています。

●香田洋二元海将
 「韓国側が公開した映像はへ理屈に満ちていて、説得力のある材料は何一つ無かった。映像は、韓国側の人道的な活動を海上自衛隊のP-1哨戒機が妨害したという趣旨の主張を繰り返しているが、これは論点のすり替えだ。韓国側は『火器管制レーダー』の照射等を一切否定しているが、それを証明する客観的な証拠は何も示していない。
 韓国側は、P-1の低空飛行や通信環境が微弱だったこと等を主張している。これも後付けの屁理屈だという印象が強い。そもそも、もし本当にその様な危険な状態なら、駆逐艦からP-1に対し『飛行の意図』を確認する呼びかけがあってしかるべきだ。軍隊としての基本動作が全く出来ていない事を、韓国は自ら吐露している。
 映像は客観性を著しく欠いていて、公開の目的が判然としない。ゲスの勘ぐりかもしれないが、最近の慰安婦問題や所謂『徴用工』問題等も相俟って、日本の悪い印象を世界に発信したかっただけではないか。ともあれ、私の様な軍事関係者にとって目を見張る情報は何もなかった」。
(産経ニュース:2019/01/04 18:32 JSTより)

●織田邦男元空将
 「韓国側の反論映像を見たが、全くつまらない代物だった。まず韓国側の映像で海自P-1が米粒の様に映っているが、私の経験上、高度は1,000~2,000ftの間だろう。航空法では艦艇と500ftの距離を保っていれば、何の問題も無い。韓国側は防衛省が公開した資料も使い、駆逐艦とP-1の距離の近さを強調しているが、これも1,000ftは離れている。脅威でもなんでもない。
韓国は駆逐艦の直上をP-1が低空飛行したと主張しているが、これも在り得ない。P-1は写真や映像を撮るために、駆逐艦の周囲を旋回飛行していた。直上を通過する様な飛行では写真や映像は撮れない。
韓国側の映像は、P-1が国際法に則り、極めて常識的な哨戒任務に当たっていた事を裏付けている。これは諸外国の軍事関係者にも容易に分かる筈だ。韓国側は寧ろ墓穴を掘った。韓国がこれ以上の強弁を重ねるのなら、照射されたFC(火器管制)レーダーの周波数の公開も検討すべきだ。《秘》を明かされて困るのは韓国側だ」
(産経ニュース:2019/01/04 18:32 JSTより)

●軍事アナリストの小川和久氏
 「火器管制レーダーの照射は艦長の指示、承認がなければできないので、駆逐艦の艦長は強い反日感情を抱いている人物か、艦長として不適格な愚か者だろう。日本政府としては、動かぬ証拠を突きつける中で艦長の処罰を要求し、それ以上の対応、例えば国防部長の更迭などは要求しない方が望ましい。そして、文在寅政権が人気とり的に煽っている反日感情を沈静化させるよう、外交カードとして活用すべきだろう」
(FBポスト、2018.12.28より)
 「日本側としては、1)排他的経済水域を哨戒していたP-1哨戒機の側に何ら落ち度はないことを明確にし、2)P-1が接近した意図について無線で問い合わせなかったという初歩的ミス、3)韓国側が主張するように光学装置(望遠鏡)を使う目的だったにせよ、火器管制レーダーのアンテナをP-1に向けた国際常識の欠如、4)P-1からの複数の周波数を使っての呼びかけに応答しなかった非常識さ、を指摘しなければならない。
 特に2)3)については、韓国海軍の参謀総長が「激励」名目で訪問した第1艦隊司令部で事実上の「叱責」をしており、韓国側も自覚している。
 しかし、問題の指摘についてはプライドを傷つけないところから始めるのが、高度な外交のテクニックだ。相手の立場に理解を示しつつ、「お互いに、こういうことがないようにしょうね」という形で着地するのが望ましい。
 韓国が相手の場合、気をつけなければならないのは、日本側が決着したと思っていた問題についても、いきなり後ろから斬りつけてくるようなメンタリティがあるという点だ。
 仮に「お互いに気をつけよう」という形の決着であっても、韓国海軍の参謀総長が厳しく部隊に申し渡した、国際法の厳守、友好国の航空機や艦艇への対処、国防省が取りかかるとしている「マニュアルの作成」に言及した文書を取り交わし、公表すべきだろう。
 事務レベル協議を通じて日本側が確認すべきは、駆逐艦「広開土大王」の対水上レーダーがAN/SPS-55であり、火器管制レーダーとは別に恒常的にXバンドを出していた可能性だ。それが確認された場合、日本側としても友好国・韓国の艦艇についての情報の在り方について、整理すべきだろう」
(FBポスト、2019.1.14より)

 ところで、野党第一党の立憲民主党は、本件に関して、日本の政党として完全に失格であることをあらためて露呈しました。百田尚樹氏はツイートで次のように書いています。

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百田尚樹‏ @hyakutanaoki ·6時間前

 立憲民主党が韓国のレーダー照射に対して、何の抗議も非難もしないということで、彼らの本質が明らかになった。立憲民主党は日本人の皮をかぶった韓国の政党である。
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 「立憲」民主党というより、「立韓」民主党でしょうか。このような政党が国会で相当数の議席を保持している状態が変わらなければ、わが国は、独立主権国家として毅然たる外交ができません。
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キリスト教148~ブルトマン:聖書の非神話化と実存論的解釈を提唱

2019-01-17 09:32:29 | 心と宗教
●ブルトマン~聖書の非神話化と実存論的解釈を提唱

 ルドルフ・ブルトマンは、1884年にドイツに生まれたルター派の神学者、聖書学者である。ブルトマンは、1976年に死去した。同年、ハイデッガーも死去した。
 ブルトマンは、新約聖書の研究に様式史的方法を導入し、1921年に刊行した『共観福音書伝承史』において、その研究成果を著した。
 ブルトマンは、共観福音書を文体によって分類し、一つ一つの材料を歴史的・批判的に調べて、個々の語録が伝えられ方に一定の法則を設定した。そうした作業の上に福音書の成立過程を追求した。彼によると、福音書の最古の層は歴史的人物としてのイエスの言葉を伝えてはいるが、福音書家の関心はイエスを救い主と信じる集団の信仰告白にあった。原始キリスト教団は、宣教すべきこと(ケリュグマ)を、一定の型に当てはめた。そのため、福音書におけるイエスの言動・事績と彼らの信仰を区別することはできない。原始キリスト教団は、イエスを「神の子」「メシア」などと呼び、事績に復活と昇天を加えた。これらのことが実際に起ったかどうかは、知りえない。またそれを知ろうとすることも重要ではない。重要なのは、原始キリスト教団の宣教の内容なのだ、とブルトマンは説いた。
 第2次世界大戦中の1941年、ブルトマンは『新約聖書的宣教の非神話化の問題』と題する講演を行った。ここで、彼は、新約聖書の内容の正しい解釈と伝達のために非神話化が必要だと説いた。以後、非神話化はキリスト教神学における議論の焦点となった。
 ブルトマンによると、新約聖書は、世界を天界・大地・地獄の三層に分ける神話的な世界観を示し、人々は天界には神と天使がおり、地獄は苦悩の場所であり、その中間の大地に神・天使・サタン等が介入してくると考えている。このような神話的な世界観は、科学が発達する前の過去の時代のものであり、現代の人間がそのまま信じることはできない。イエス=キリストの処女降誕は、彼を崇拝する者がつくった神話的な物語であり、奇跡も復活も終末も同様である。これらをそのまま受容するように求めることは「知性の犠牲」を強いることである。
 そこで、新約聖書は神話的な世界観に依拠しない真理を持っているのかどうかが問題になる。もしそのような真理があるとすれば、キリスト教の宣教を非神話化することが神学の課題となる。現代人に宣教するためには、新約聖書の神話的な表現の奥にある真理を発見しなければならない。それはどのようにすれば可能になるか。「実存論的解釈」によって可能になる、とブルトマンは主張する。
 ブルトマンは言う。「われわれは電燈やラジオを使用すること、現代的方法や治療で養生することと同時に、新約聖書の精神と奇蹟の世界を信じることはもはやできない」「神話の本来の意味はこの世における客観的形象を表すことではなく、むしろそこに言い表されるものは、人間がこの世の中でみずからを理解する方法である。神話は宇宙論的方法ではなく、人間学的方法あるいはむしろ実存的に解釈されることを欲する」と。
 ブルトマンは、自由主義神学者が新約聖書の内容を分解して神話として捨て去ったテキストを再解釈する。それによって、聖書の根本的な使信を回復させようとする。新約聖書は人間の実存の意味を提示している。新約聖書から聞き取らねばならないのは、人間の実存の正しい理解である。ここで聖書の実存論的解釈のために、ブルトマンが依拠するのが、ハイデッガーの哲学である。ブルトマンは、『存在と時間』における現存在の実存論的解釈を以て、新約聖書に真理を見出そうとした。
 だが、ハイデッガーは『存在と時間』以後、大きく立場を転回した。転回後のハイデッガーは、「存在の家」である言葉の中に存在を探究した。ブルトマンは、ハイデッガー自身が乗り越えた前期思想に立ち止まり、その思想を借りて聖書を理解しようとするのである。
 このようなブルトマンの姿勢に共感する人が今日、どれくらいいるだろうか。ハイデッガーの前期思想は、1920~40年代のドイツでは一定の影響力を持ったが、今日それを自分の思想・信条としている人は、ごく少ない。また、ハイデッガーの哲学を深く理解する人は、彼の後期思想の問題意識を共有し、独自の思索を行うだろう。
 それゆえ、ブルトマンは、新約聖書の非神話化を行ったことによって、人々を実存的な自覚を持って新約聖書の真理の探究に向かわせたというより、むしろ人々のキリスト教離れを促すことになったという結果の方が大きいといえよう。
 ブルトマンは、新約聖書が記したようにすぐキリストの再臨は起らず、世界史がこれまで継続してきたことによって、再臨の待望は幻想にすぎないことが明らかになっており、神話的な終末論は終結している、と言う。新約聖書の将来についての表現は、非神話化されてこそ、今日の人間にとって実存的な意味を持つ、と説く。それゆえ、ブルトマンの神学には、終末論な将来はない。ただ、今ここにおける決断の時のみが存続している。死後や将来に救いは、想定されていない。
キリスト教を護教する弁証法神学者バルトは、ブルトマンの新約聖書の理解は実存的な自己理解の行為だという考えを批判した。バルトにとって、ブルトマンの態度は人間中心主義的であり、神学を人間学に変えるものである。また聖書の理解において、ハイデッガーの前期思想、その実存哲学に依拠する彼の姿勢を批判した。
 一方、次の項目に述べるティリッヒは、ブルトマンより遥かに広い哲学的知識を用いて、独自の神学を展開した。ティリッヒは、ブルトマンは神話の意味を知らない、神話は技術理性に基づく自律的学問が成立する以前の根源的世界を直接表現するものであり、自律的理性によって非神話化をすべきではない、と批判した。

 次回に続く。
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キリスト教147~バルト:「神の言葉の神学」を探究

2019-01-15 12:43:09 | 心と宗教
●バルト~「神の言葉の神学」を探究

 1886年に生まれたカール・バルトは、神学生時代に、聖書の歴史的・批評的研究や自由主義神学、カント、シュライエルマハー等を学び、大学卒業後は、改革派教会の牧師を務めた。
 1919年に発表した『ローマ書講解』の第1版で、バルトは、シュライエルマハーに発しトレルチで頂点に達した自由主義神学を激しく批判した。自由主義神学では神学の主題が人間学に解消されているとして、神学の本来の主題を回復しようとし、「ことばにおける神の啓示」を主張した。その後、第1版に対する評価・批判に基づいて書き改めた第2版を、21年に出した。この間、キェルケゴール、ニーチェ、ドストエフキーを読んで実存の深淵について考察したことを反映させた。
バルトは、パウロのローマの信徒に宛てた手紙を、今生きているわれわれに宛てて書かれたものとしで読んで理解して本書を書いた。彼は、パウロの手紙の中に書かれている一つのことに注目する。「神は神であり、人間は人間である」。そして、神と人間の間には無限の質的差異がある、ということである。バルトは、この一つのことを徹底して繰り返した。
 19世紀の神学は、体験を重視するにせよ、価値判断を重視するにせよ、人間から神へという方向、下から上へ目指すものだった。そこには、人間中心の考え方があった。だが、バルトは「神の言葉」を強調する。その「神の言葉」は、神から人へ、上から下へ与えられる。ここには、近代の人間中心主義を乗り超えようとする姿勢が見られる。その姿勢は、神と人間の無限の質的差異を説く姿勢から出て来るものである。
 弁証法神学の機関誌『時の間』が刊行されたのは、その翌年である。新しい神学運動の旗手となったバルトは、同年から大学で教職に就いた。その後、アンセルムスの研究を通じて、神の本質から神の存在を導き出すスコラ神学的な神の存在論的証明に対して、神の啓示の出来事から神の存在と神の本質の両者を導き出す独自の神学的な立場を確立した。この立場から書いた著作を、1932年から出版し始めた。これが主著『教会教義学』である。
 バルトは、象牙の塔に閉じこもった神学者ではなかった。1934年には独裁者ヒトラーへの忠誠宣誓の署名を拒否したことにより、翌年大学を退職処分となった。同年、ナチスの政策に従うドイツ福音主義教会に対抗して結成された告白教会の理論的指導者となり、バルメン宣言を起草した。その宣言が、ドイツ教会闘争の神学的な支えとなった。ドイツのキリスト教徒は、ほとんどがヒトラーに服従し、ナチスの尖兵ともなった。その中で、バルトの勇気ある行動は、少数とはいえ、良心的なキリスト教徒の反ナチス運動を鼓舞するものとなった。だが、バルト自身はドイツに居られなくなり、35年にスイスのバーゼル大学に移った。39年には、ナチスを神学的に批判した。第2次大戦終結後も、ドイツを訪れてドイツ人の復興を支援したり、東西ドイツの和解について発言するなど、社会的な活動を行った。
 この間、『教会教義学』は30年以上書き続けられたが、未完に終わった。バルトは、自らの神学を「神の言葉の神学」と呼び、本書を「神の言葉についての教説」から書き起こした。彼のいう「神の言葉」は、第一に受肉した言葉、すなわちイエス=キリストを意味する。また第二に聖書、第三に説教において語られる言葉、第四に啓示された言葉を意味する。
 「神の言葉は、啓示された言葉である」とバルトが言う時、それは、一つの出来事を指し示している。すなわち、聖書が神の言葉の「証言」として読まれ、神が今ここで人に語りかけられたとき、まことに聖書は「神の言葉」となるというのである。宗教改革者やその後継者たちにとって、聖書が神の言葉であることは、当然の前提だった。だが、バルトは、聖書を主体的に読むその時に、聖書は初めて「神の言葉」となるという理解へと逆転している。
 本書の第1巻で、バルトはキリスト論に集中した。イエス=キリストによって実現された神の予定すなわち受肉と十字架上の死と復活、再臨を、バルトは過去・現在・将来の時の流れによる歴史を支えている「根源的歴史」と呼んだ。「根源的歴史」は、またイエスによって救済された人間が神の呼びかけに応答することによって展開する救済史としての歴史でもある。こうしたイエスの具体的な歴史的事実と、その事実によって変わった人間の生き方を合わせて、「キリストの出来事」という。
 バルト神学は、歴史の中に生起した「キリストの出来事」に基づく神学であり、その点で、聖書のみと説いた宗教改革者の神学を継承したものである。アリストテレスの形而上学に基づくスコラ神学とは対照的であり、カトリック教会における自然神学を徹底的に否定した。
 バルトは、「キリストの出来事」にのみ神の臨在を認める。その神は、キリスト教の主流が信奉する三位一体の神である。バルトの神学は、伝統的な三位一体論の中心にキリスト論を置くものである。ただし、『教会教義学』の第3巻では聖霊に注目しており、思想的な変化が指摘されている。
 バルトは、1968年に亡くなった。前年の67年には、ローマに招待され、教皇パウロ6世らと語り合った。だが、神学上の対立は何ら融和に向かうことがなかった。
 彼はプロテスタント神学においては、ブルトマン、ティリッヒと並ぶ20世紀を代表する神学者と位置づけられている。彼らのうちバルトの神学は、聖書に基づくプロテスタンティズムを徹底するものであり、キリスト教の教義を「神の言葉」に純化しようと試みたものである。それゆえ、キリスト教と他宗教との対話を可能にする神学ではなく、キリスト教がより高度なものへと発展する方向への道は絶たれている。

 次回に続く。
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日本政府は、韓国にレーダー照射問題を問い質せ

2019-01-14 08:48:51 | 国際関係
 韓国駆逐艦レーダー照射問題について、ジャーナリストでノンフィクション作家の門田隆将氏は、日本政府は韓国政府に次の質問をすべしと提言しています。

 「日本は、火器管制レーダー照射の証拠をさらに突きつけた上で、以下の問題を韓国に問い質さなければならない。

① なぜ日本のEEZ(排他的経済水域)内で救難信号を出してもいない北の漁船を韓国の駆逐艦が救助しているのか。
② 韓国の艦船は、なぜ国旗も海軍旗も出さずに日本のEEZ内で活動しているのか。
③ 当初、「すべてのレーダーを起動したら、たまたま哨戒機に当たった」としていたのに、なぜ途中から「照射していない」と主張事実を変えたのか。
④ 近くに北朝鮮の船がいて救助中なのに、「捜索のためのレーダー」がなぜ必要だったのか。
⑤ 説明が、時間が経過するごとに二転三転している理由は何か。
⑥ 2014年に合意された「海上衝突回避規範(CUES)」には韓国を含む21か国が参加している。その中で絶対にやってはならないと確認している火器管制レーダー照射がおこなわれた理由は何か。
⑦ 哨戒機の飛行に脅威を感じたなら、「海上衝突回避規範」で確認されている「無線」での連絡・警告をなぜおこなわなかったのか。
⑧ 聴き取れなかったと主張する自衛隊からの無線連絡は、韓国側が公表した映像でもはっきり聴き取れる。これに応答しなかった理由は何か。
⑨ 日本と韓国は、北朝鮮への国連の経済制裁によって“瀬取り”を監視しなければならない立場である。今回の韓国の行為は、それに合致したものなのか。」
https://blogos.com/article/349278/

 どれも問い質すべき点であり、特に⑨が重要と思います。日本国政府は、国家の威信をかけて、しっかり対応してください。
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キリスト教146~危機の時代に弁証法的神学が登場

2019-01-13 08:44:28 | 心と宗教
●危機の時代に弁証法的神学が登場

 第1次世界大戦は、ヨーロッパのキリスト教徒が抱いていた希望に満ちた確信を打ち砕いた。たとえば、自由主義神学のハルナックは、神の国は神自身がキリストにおいて建設するものではなく、人間の誠実な努力によってもたらされると楽観的な主張をしていたが、人々は、もはやこうした主張を信じられなくなった。
 ドイツの宗教哲学者、ルドルフ・オットーは、大戦中の1917に『聖なるもの』を刊行した。オットーは、神の観念の中心にある「聖なるもの」という言葉を徹底して追求した。そして「聖」の語は、神を示す語としては不十分であるとして、「ヌミノーゼ」という言葉を使用した。ヌミノーゼは、ラテソ語で神性を表すヌーメンに基づく造語である。ヌミノーゼは、人間の理性や概念では理解のできない存在を示唆する。恐るべきもの、超越したもの、神秘であり、しかも、魅せられるものである。オットーによれば、神の合理的な認識はあり得ない。人は、聖なるものを魂の深奥において直観し、感じ取るのみである。
 第1次世界大戦の後、ドイツのキリスト教プロテスタンティズムに新たな神学が登場した。それが弁証法神学である。弁証法神学は、ハイデッガーやヤスパースが近代西洋文明の危機を感じ取って思索を進めていた時に現れた危機の時代の神学である。
 その神学的な内容に入る前に、弁証法神学が現れるまでの歴史を簡単に振り返ると、18世紀の啓蒙主義の時代には、キリスト教の問題は、理性と信仰の対立だった。カントは、純粋理性と実践理性を区別して、神は純粋理性によって認識することはできず、実践理性の「要請」であると主張した。これによって科学的認識を根拠づけるとともに、信仰の領域を確保した。この一種の二元論に不満を抱く者たちは、18世紀末から19世紀の初めにかけて、カントの批判哲学を超える一元論を生み出そうとした。その一つが、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらによるドイツ観念論であり、もう一つが、ノバーリス、ヘルダーリンらによるロマン主義だった。
 ドイツ観念論はヘーゲルで頂点に達したが、その体系哲学への批判の中から、フォイエルバッハはキリスト教を批判し、唯物論に転じた。マルクスは、フォイエルバッハの説を受けて史的唯物論を説き、キリスト教を含む宗教を否定した。これとは別に、キルケゴールは、ヘーゲルの哲学を批判し、人間的実存の哲学を説いた。
 一方、ロマン主義とは、二元論の哲学に対し、二元的なものが現れる以前の根源的なものへの憧憬を表す思想・運動である。そこには、有限なものを超えた永遠への思慕、到達不可能なものへの憧れが見られる。神学におけるロマン主義の代表者が、フリードリヒ・シュライエルマハーである。へーゲルとほぼ同時代を生きたシュライエルマハーは、宗教の本質は神に対する直観と感情であると説いた。自己と対象との対抗関係が統一され合一されるものに対する「絶対的な依存感情」が信仰であると説いた。神との神秘的な結合を強調し、神と人間の直接的な関係を主張した。プロテスタンティズムでは、近代神学の祖とされる。
 シュライエルマッハーの神学は、直観と感情を基本とし、体験と価値判断を重視する。彼以後、彼における理性より体験を重んじる側面を継承するか、主観的な価値判断を重んじる側面を継承するかによって、異なる神学の系統が続いた。
 体験重視の側面を継承したのが、保守主義の神学である。これには正統主義と敬虔主義が含まれる。保守主義には、ルター、カルヴァン以来の堅固な聖書主義から、歴史的・批評的な立場をある程度受け入れるものまでの幅があった。一方、価値判断重視の側面を継承したのが、自由主義の神学である。シュトラウスによる聖書の批評的研究、リッチェルによる道徳的宗教論、トレルチによる宗教史研究に基づくキリスト教の相対化などが現れた。
 20世紀初めのドイツでは、大多数のキリスト者が、宗教改革の教義を保守する正統主義神学の教義を信じていた。ルター、カルヴァンを継承する正統主義神学は、人間の罪を強調し、人間の善を行う自由意思を否定する。これに対し、自由主義神学は、発達を続ける科学の影響を受け、人間の理性を信頼し、自由意志を肯定し、神と人間の質的差異を否定した。また聖書を批評的に分析し、聖書は神から霊感を受けて書かれた書物ではなく、一般の古典と異なるものではないと主張した。そのため、正統主義神学と自由主義神学は、鋭く対立するようになっていた。
 こうしたなか1920年代初め、自由主義神学とも正統主義神学とも異なる新しい神学として出現したのが、弁証法神学である。
 第1次世界大戦後、敗戦国として混乱の中にあったドイツで、1922年に若手の神学者たちが『時の間』という機関誌を刊行した。カール・バルト、ルドルフ・ブルンナーらが活発に言論活動を行った。ティリヒやブルトマンもその近くにいた。バルトらは、人間の理性への信頼に基づく自由主義神学を批判し、聖書に語られ、宗教改革者が理解したままの「神の言葉の神学」を樹立することを目標とした。神の超越性、人間の罪、神の恵みのみによる救いなどを、従来の正統主義神学とは違って、啓蒙主義以降の近代的視点から捉え直そうとした。
 彼らの神学が弁証法神学と呼ばれるようになった。弁証法と言ってもヘーゲル、マルクスの系統の弁証法ではない。神と人間の絶対的な質的差異を強調したキルケゴールの質的弁証法を継承したものである。バルトらは、キルケゴールを再発見し、その実存哲学に啓発を受け、彼らの神学運動の基礎に置いていた。弁証法神学と呼ばれるほか、危機神学・新正統主義神学とも呼ばれる。危機神学とは、大戦後のヨーロッパの危機意識の中から生れたからであり、新正統主義神学とは、宗教改革の神学を忠実に受け継ぐと主張して、既成の正統主義神学を批判したからである。

 次回に続く。
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韓国駆逐艦レーダー照射は、北朝鮮の密漁漁船への支援隠しか

2019-01-12 08:51:26 | 国際関係
 昨年12月20日、能登半島沖で、海上自衛隊のP1哨戒機が韓国海軍の駆逐艦から火器管制レーダーを照射されました。日本側と韓国側の言い分が食い違い、しかも韓国側は言うことを二転三転させました。防衛省はようやく28日に、P1が撮影した関連動画を公開しました。
 そこに映っている韓国海軍の「広開土大王」は韓国旗を掲揚しておらず、軍艦旗も掲揚していません。国際法違反です。また、北朝鮮の漁船に横付けし、何かを行っている模様。韓国側は、北朝鮮の漁船を救助したといいますが、写真からは燃料を補給しているようにも見えます。あるいは、積み荷の受け渡し、いわゆる瀬取りをしていた可能性もあります。韓国側は、違法行為をやっている現場を目撃されたため、P1哨戒機を追い払うために火器管制レーダーを照射して威嚇したのではないかという疑いが上がっています。
 嘉悦大学教授の高橋洋一氏は、「現代ビジネス」の記事に次のように書いています。
 「(註 12月)28日の読売新聞で、興味深い記事があった。それは、韓国が日本海周辺で密漁していたと思われる北朝鮮の漁船を日常的に救助していたからというものだ(https://www.yomiuri.co.jp/politics/20181228-OYT1T50096.html? from=tw)。
 これは、確定的証拠はない仮説にすぎないが、確かに防衛省が公表した動画とも整合的である。
 現場の能登半島沖は、好漁場の「大和堆」の周辺で、北朝鮮漁船によるイカの密漁で問題になっているところだ。「大和堆」は、平均1750メートルと深い水深の日本海にあって、浅いところで、好漁場になっているが、ここは日本の許可なしでは漁ができない排他的経済水域内である。
しかし、この数年、大和堆の海域には中国や北朝鮮の漁船が大量に押し寄せ、密漁をしているのは周知の事実だ。水産庁の取締船や海上保安庁がそれらの漁船を追い出しているが、手が回らない状態だ。
 北朝鮮は、現在国連の経済制裁を受けているので、石油は手に入りにくいが、大和堆にやって来る漁船は、北朝鮮軍からの石油割当を受けているはずなので、軍の指揮下にあるとみていいだろう。
 その北朝鮮の密漁漁船を韓国軍が(日常的に)救助していたとすれば、国連の制裁決議を北朝鮮に課している国際社会は「韓国が北朝鮮の国連制裁決議の尻抜けを手助けしていた」というように見えるだろう。
 ひょっとしたら、韓国がひた隠しにしたいのはこのことなのかもしれない。日本の海上自衛隊に見られたくないものを見られたから、そのシラを切り続けるために、日本に強硬な態度をとり続けているのではないかと疑ってしまう。」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181231-00059258-gendaibiz-int&p=1&fbclid=IwAR10nwbbnEBlBxpBdqpmdFVnnwkf2soVZGWy7_4acIYwsAZpbuLMBcMIGIE

 政府は、能登半島至近海域を航行していた韓国駆逐艦が韓国旗も軍艦旗も掲げていなかったことをはじめ、不審な点を具体的に網羅して追求すべきと思います。
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キリスト教145~ヤスパース:キリスト教を超える包括者への信仰

2019-01-10 09:33:20 | 心と宗教
●ヤスパース~キリスト教を超える包括者への信仰

 カール・ヤスパースは、1883年にドイツに生まれた。「実存哲学」の哲学者として、ハイデッガーと並び称される。また、その哲学をもとに人類の歴史を把握し、人類の未来について多くの提言をした。
 ヤスパースは、最初は精神病理学者として活躍したが、哲学に転じ、1921年にハイデルベルク大学の哲学教授となった。この年、バルトが『ローマ書講解』第2版を出し、27年にはハイデッガーが『存在と時間』を出した。この二人はキルケゴールとニーチェの思想に触れ、近代西欧の危機を深く感じ取っていた。ヤスパースは1931年に『現代の精神的状況』を出して、機械文明と大衆社会の中に埋没して自己を喪失している現代人を批判し、32年に『哲学』で実存哲学を提示した。ヤスパースによると、人間には、自己の力ではどうすることもできない状況、人間を限界づけている普遍的状況として、死ぬこと、苦悩、争い、罪を犯すことがある。これを限界状況と呼ぶ。人間は限界状況に直面し、自己の有限性を知ったとき、超越者と出会い、実存へと目覚める機会が与えられる。
 実存は、伝統的なキリスト教の神学において、本質と対をなす概念である。本質(エッセンシア)とは、そのものが「何であるか」という定義によっていわれるものである。実存(エクステンシア)とは、現実的な存在を意味し、可能的な本質が現実化したものである。言い換えれば、本質とは、「あるものが何であるか」と問う時の「何」のことをいい、実存とは、「何かとして存在すること」をいう。これに対し、ヤスパースの実存は、人間存在を意味し、個としての自己に真に目覚めた人間のあり方をいう。ヤスパースは、実存を「決して客観となることのないもの」、「私がそれに基づいて思考し行動する根源」、「自己自身に関わり、かつ、そのことのうちで超越者に関わるもの」と規定している。そうした実存をヤスパースは、自己「暗黒の根拠」ともいう。しかし、実存は、それだけで自立的に存在する根拠ではない。実存はさらに「一なる超越者」によって支持されているとし、自らが超越者への帰依の関係にあることを真に自覚する時に、実存はいわば初めて実存するのだ、とヤスパースは説く。
 ここで実存が関わる超越者とは、キリスト教の超越神がまず連想されよう。だが、ヤスパースの超越者は、聖書に書かれた神と同一ではない。哲学的な思考によって認識された存在である。ヤスパースは、そうした超越者を包括者とも呼ぶ。包括者とは、主観・客観に分裂する前の超越的な全体性であり、われわれがそれを確認しようとすると主客に分裂し、「存在そのものである包括者」と「われわれがそれである包括者」になる、とヤスパースは言う。ここには、主観・客観の二項図式によって自己と世界を認識するデカルト以来の西洋近代思想への掘り下げが見られる。ヤスパースは包括者を神とは呼ばないが、これを神と呼ぶならば、彼の思想は一種の万有在神論である。
 ヤスパースは、こうした実存の哲学を、キルケゴールとニーチェの思想の研究を通じて構築した。その際、カントの批判哲学における理性の立場を継承している。著書『理性と実存』で、ヤスパースは次のように説く。「実存はただ理性によってのみ明るくなり、理性はただ実存によってのみ内実を得る」と。ヤスパースが説く理性とは、実存の自覚を組織化し、統合し、集約していく「統一への意志」であり、実存に無限の自省を促すものである。また「無限の公開性」であり、「総体的な交わりへの意志」であるとされる。彼における理性は、神の理性を分有したものでも、個人の自律的な認識能力でもなく、他者との交わりにおいてのみ発揮される意志である。そして、ヤスパースは、他者との交わりによってのみ真理が得られると説いている。このように、個としての自己に真に目覚めた人間のあり方とされる実存を、理性との関係、及び他者との交わりの中でとらえるところに、ヤスパースの哲学の一つの特徴がある。
 ヤスパースは、聖書に基づく啓示信仰に対し、自分の信仰を「哲学的信仰」と呼ぶ。彼によると、人間は今日、共通の信仰を内容とする伝統的な支えを失っている。それだけに、われわれは伝統によって与えられた信仰よりもいっそう深い信仰の根源、つまり歴史のうちに現われたあらゆる信仰がすべてそこから発している根源に、その気さえあればたちかえることができる。人間によって生み出された神の表象は、いずれも神そのものではない。だが、また、神性はそうした表象を介してのみ、われわれに意識される。神性は根源であり、目標であり、安らぎであって、ここに人間の庇護がある。人間が人間であることをやめない限り、こうした存在が人間から見失われるということは考えられない。人間への信仰は、むしろ人間の存在の根拠である神性への信仰を前提とする。また人間への信仰は、人間相互の真の交わりが可能であるという信仰であって、その場合、真の交わりとは、単なる接触や共感や利害の共通より以上のものである。
 このように考えるヤスパースの信仰は、聖書に基づく啓示信仰とは、一線を画する。特定の宗教やその教義に関わる信仰ではなく、宗教と無神論の間の立つ哲学的信仰である。それは、人間の心を常にあらゆる可能性に向かって開放し、その中で絶えず真理を求めていく生き方である。
 1930~40年代ナチスが支配するドイツにおいて、ヤスパ―スは、夫人がユダヤ人であることから、大学の職を追われた。苦難と試練の中で、彼はその思索を続けた。第2次世界大戦の終結後、ヤスパースは1949年に『歴史の起源と目標』を刊行し、世界史に基軸時代を想定する独自の歴史哲学を提示した。彼が想定した基軸時代は、イエス=キリストが出現する以前の紀元前800年と前200年の間であり、シナの老子・孔子、インドの釈迦、イランのゾロアスター、パレスチナのエリヤなどの預言者、ギリシャのプラトン等を輩出した時代である。ヤスパースによると、この時代には、シナ、インド、西洋の三つの世界に共通の体験として、「人間が、存在の全体と自己自身と自己の限界とを自覚するに至った」、また「私たちが今日まで物を考えるときの根本カテゴリー」が現れた。また「世界宗教の端緒が創り出され」「あらゆる意味において、普遍的なものへの歩みがなされた」。要するに、人類の「精神化」が起こったとする。
 ヤスパースにとって、現代は、世界史の「第一の基軸時代」と、来るべき「第二の基軸時代」の間にある時代である。この時代は、科学と技術に支配された時代であり、大衆化とニヒリズムが進行する時代である。こうした現代において、世界史の新しい基軸時代は、現れ得るのだろうか。ヤスパースに確固とした答えは見出せず、模索と課題の中で、呻吟している。その呻吟のなかから、「未来への問い」として、さまざまな意見を述べている。その意見の一つに「信仰と愛」についての意見がある。
 ヤスパースは「人間は信仰なしに生きることはない」と言う。そして、人間は、自己と、その「自己を贈り届けてくれた超越者」と、他者と、世界のなかの開かれた諸可能性とに対する、深い信頼と信念と確信を持つことなしには、この世を生き抜くことはできないのだ、と。そして、人間の「深い存在意識」は「愛」の心となって表れるだろうと説く。「愛」のうちから「存在の内実」が顕わとなり、「愛」の深みの中で「真理」も立ち現れるとヤスパースは述べている。こうした「信仰と愛」のうちからのみ、人類の未来は開かれると、ヤスパースはその信念を明らかにしている。これは、諸宗教の根源、生命の本源、人間存在の根拠でもある超越的存在への信仰と、人類の同胞愛を訴えるものと理解される。詳しくは、拙稿「ヤスパースの『新基軸時代』と日本の役割」をご参照願いたい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11b.htm
 ヤスパースは、こうした哲学と歴史観を以て、戦後ドイツのあり方や世界平和の実現に関して、積極的に発言を続け、1969年に亡くなった。キリスト教が現代世界で自らを向上・発展させようと意志するならば、彼の思想と提言には、深く傾聴すべきものがあるだろう。

 次回に続く。
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