●信教の自由を求める運動
主権・民権・人権の歴史を市民革命の時代から各国別にたどってきた。ここで、この過程を横断的にも見るために、各国共通の要素として、信教の自由を求める運動、課税に反発する戦い、権利・権力の移動、ユダヤ人の自由と権利の拡大、家族的価値観の違いの影響の5点について補足したい。
西欧では、16世紀初めの宗教改革が起こり、17世紀半ばに主権国家が誕生し、絶対王政への反発から市民革命が起こった。この過程で人権の観念が発達した。この間の抵抗や変革のエネルギーは、主に信教の自由の希求と富の所有権の保守に発している。いわば精神的価値と経済的価値の追求である。まずこの点について記す。
信教の強制や制約は、人間の内面への介入である。宗教改革後、ドイツでは、16世紀半ばアウグスブルグの宗教和議がなされたが、皇帝がこれを軽視してカトリック教会と結び、皇帝権の強化を図ろうとした。これがきっかけとなって、ドイツ30年戦争が起こった。その結果、新教が全面的に公認された。フランスでは、ユグノーの虐殺への反発からユグノー戦争が起こり、ナントの王令で新教が公認された。イギリスでは、国王がカトリックとピューリタンの両方を弾圧したり、国教会を強制しようとしたりした。信教の自由の希求が、ピューリタン革命につながった。
主権と民権と人権の歴史において、1648年のウェストファリア条約と1640~60年のピューリタン革命は、重要なメルクマールである。これらはともに西方キリスト教改革なくして考えられないものである。
宗教改革に始まる西欧の大変化は、ローマ=カトリック教会の精神的・政治的支配からの解放=自由の希求が生み出したものである。信教の自由の希求が、社会に巨大な変革を引き起こした。人権の核心には自由がある。自由な状態への権利が、人権と呼ばれる諸権利の中核になる。そして、近代西欧的な自由は、まず信教の自由として求められたのである。
西欧における人権の発達に関する限り、宗教改革はルネサンス、地理上の発見、近代西欧科学や資本主義の発達よりも、重要な出来事だった。宗教改革は、個人の内面の自由の確立をもたらした。教会やその秘儀に依存しない個人が、聖書を手に自ら神と向き合う。この信仰態度は、キリスト教の信仰の純化となる一方、個人の意識の発達、理性的な判断によるキリスト教の相対化、さらにはキリスト教の否定への可能性を開くものだった。
17世紀後半、ヨーロッパで最も宗教に関する自由が拡大されていたのは、オランダだった。オランダでは16世紀最大のヒューマニストといわれたエラスムスが、「信仰に自由を」と主張した。またアルミニウス等の自由主義派も信教の自由を主張した。イギリスでは、これらの人々から影響を受けたロックが、キリスト教の中で正統と異端の区別をなくすだけでなく、ユダヤ教やイスラムなどの異教徒も、信教の自由を保障されるべきだと主張した。ロックの「寛容についての書簡」は1689年にオランダ、イギリスで出版され、同年イギリスではロックの主張に沿って宗教寛容法が制定された。これは非国教徒に対する差別を残し、カトリックやユダヤ教徒、無神論者、三位一体説を否定する者等には、信教の自由を認めないという限定的なものだったが、信教の自由の保障が一部実現した。宗教的寛容はイギリス以外にも広がっていった。
人権は、キリスト教的な神から人間に生まれた時点で付与されている権利として観念された。しかし、それはまた、西欧人のキリスト教からの自由の確保・拡大に伴って発達した。キリスト教の中で発生し、キリスト教から脱して発達したのが、人権の観念である。信教の自由の希求は、思想・信条の自由の希求として、より広い精神的な自由の拡大を求めるものとなった。この延長上に、守るべき自由とは個人の選好である、という現代のリベラリズムの思想が現れる。
なお、信教の自由を求める運動としては、啓蒙主義、理論論、フリーメイソンの活動が重要である。この点は、第9章で市民革命から20世紀初めまでの時代に現れた思想について述べる際に書く。
次回に続く。
主権・民権・人権の歴史を市民革命の時代から各国別にたどってきた。ここで、この過程を横断的にも見るために、各国共通の要素として、信教の自由を求める運動、課税に反発する戦い、権利・権力の移動、ユダヤ人の自由と権利の拡大、家族的価値観の違いの影響の5点について補足したい。
西欧では、16世紀初めの宗教改革が起こり、17世紀半ばに主権国家が誕生し、絶対王政への反発から市民革命が起こった。この過程で人権の観念が発達した。この間の抵抗や変革のエネルギーは、主に信教の自由の希求と富の所有権の保守に発している。いわば精神的価値と経済的価値の追求である。まずこの点について記す。
信教の強制や制約は、人間の内面への介入である。宗教改革後、ドイツでは、16世紀半ばアウグスブルグの宗教和議がなされたが、皇帝がこれを軽視してカトリック教会と結び、皇帝権の強化を図ろうとした。これがきっかけとなって、ドイツ30年戦争が起こった。その結果、新教が全面的に公認された。フランスでは、ユグノーの虐殺への反発からユグノー戦争が起こり、ナントの王令で新教が公認された。イギリスでは、国王がカトリックとピューリタンの両方を弾圧したり、国教会を強制しようとしたりした。信教の自由の希求が、ピューリタン革命につながった。
主権と民権と人権の歴史において、1648年のウェストファリア条約と1640~60年のピューリタン革命は、重要なメルクマールである。これらはともに西方キリスト教改革なくして考えられないものである。
宗教改革に始まる西欧の大変化は、ローマ=カトリック教会の精神的・政治的支配からの解放=自由の希求が生み出したものである。信教の自由の希求が、社会に巨大な変革を引き起こした。人権の核心には自由がある。自由な状態への権利が、人権と呼ばれる諸権利の中核になる。そして、近代西欧的な自由は、まず信教の自由として求められたのである。
西欧における人権の発達に関する限り、宗教改革はルネサンス、地理上の発見、近代西欧科学や資本主義の発達よりも、重要な出来事だった。宗教改革は、個人の内面の自由の確立をもたらした。教会やその秘儀に依存しない個人が、聖書を手に自ら神と向き合う。この信仰態度は、キリスト教の信仰の純化となる一方、個人の意識の発達、理性的な判断によるキリスト教の相対化、さらにはキリスト教の否定への可能性を開くものだった。
17世紀後半、ヨーロッパで最も宗教に関する自由が拡大されていたのは、オランダだった。オランダでは16世紀最大のヒューマニストといわれたエラスムスが、「信仰に自由を」と主張した。またアルミニウス等の自由主義派も信教の自由を主張した。イギリスでは、これらの人々から影響を受けたロックが、キリスト教の中で正統と異端の区別をなくすだけでなく、ユダヤ教やイスラムなどの異教徒も、信教の自由を保障されるべきだと主張した。ロックの「寛容についての書簡」は1689年にオランダ、イギリスで出版され、同年イギリスではロックの主張に沿って宗教寛容法が制定された。これは非国教徒に対する差別を残し、カトリックやユダヤ教徒、無神論者、三位一体説を否定する者等には、信教の自由を認めないという限定的なものだったが、信教の自由の保障が一部実現した。宗教的寛容はイギリス以外にも広がっていった。
人権は、キリスト教的な神から人間に生まれた時点で付与されている権利として観念された。しかし、それはまた、西欧人のキリスト教からの自由の確保・拡大に伴って発達した。キリスト教の中で発生し、キリスト教から脱して発達したのが、人権の観念である。信教の自由の希求は、思想・信条の自由の希求として、より広い精神的な自由の拡大を求めるものとなった。この延長上に、守るべき自由とは個人の選好である、という現代のリベラリズムの思想が現れる。
なお、信教の自由を求める運動としては、啓蒙主義、理論論、フリーメイソンの活動が重要である。この点は、第9章で市民革命から20世紀初めまでの時代に現れた思想について述べる際に書く。
次回に続く。