ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

人権111~信教の自由を求める運動

2014-08-31 08:46:58 | 人権
●信教の自由を求める運動

 主権・民権・人権の歴史を市民革命の時代から各国別にたどってきた。ここで、この過程を横断的にも見るために、各国共通の要素として、信教の自由を求める運動、課税に反発する戦い、権利・権力の移動、ユダヤ人の自由と権利の拡大、家族的価値観の違いの影響の5点について補足したい。
 西欧では、16世紀初めの宗教改革が起こり、17世紀半ばに主権国家が誕生し、絶対王政への反発から市民革命が起こった。この過程で人権の観念が発達した。この間の抵抗や変革のエネルギーは、主に信教の自由の希求と富の所有権の保守に発している。いわば精神的価値と経済的価値の追求である。まずこの点について記す。
 信教の強制や制約は、人間の内面への介入である。宗教改革後、ドイツでは、16世紀半ばアウグスブルグの宗教和議がなされたが、皇帝がこれを軽視してカトリック教会と結び、皇帝権の強化を図ろうとした。これがきっかけとなって、ドイツ30年戦争が起こった。その結果、新教が全面的に公認された。フランスでは、ユグノーの虐殺への反発からユグノー戦争が起こり、ナントの王令で新教が公認された。イギリスでは、国王がカトリックとピューリタンの両方を弾圧したり、国教会を強制しようとしたりした。信教の自由の希求が、ピューリタン革命につながった。
 主権と民権と人権の歴史において、1648年のウェストファリア条約と1640~60年のピューリタン革命は、重要なメルクマールである。これらはともに西方キリスト教改革なくして考えられないものである。
 宗教改革に始まる西欧の大変化は、ローマ=カトリック教会の精神的・政治的支配からの解放=自由の希求が生み出したものである。信教の自由の希求が、社会に巨大な変革を引き起こした。人権の核心には自由がある。自由な状態への権利が、人権と呼ばれる諸権利の中核になる。そして、近代西欧的な自由は、まず信教の自由として求められたのである。
 西欧における人権の発達に関する限り、宗教改革はルネサンス、地理上の発見、近代西欧科学や資本主義の発達よりも、重要な出来事だった。宗教改革は、個人の内面の自由の確立をもたらした。教会やその秘儀に依存しない個人が、聖書を手に自ら神と向き合う。この信仰態度は、キリスト教の信仰の純化となる一方、個人の意識の発達、理性的な判断によるキリスト教の相対化、さらにはキリスト教の否定への可能性を開くものだった。
 17世紀後半、ヨーロッパで最も宗教に関する自由が拡大されていたのは、オランダだった。オランダでは16世紀最大のヒューマニストといわれたエラスムスが、「信仰に自由を」と主張した。またアルミニウス等の自由主義派も信教の自由を主張した。イギリスでは、これらの人々から影響を受けたロックが、キリスト教の中で正統と異端の区別をなくすだけでなく、ユダヤ教やイスラムなどの異教徒も、信教の自由を保障されるべきだと主張した。ロックの「寛容についての書簡」は1689年にオランダ、イギリスで出版され、同年イギリスではロックの主張に沿って宗教寛容法が制定された。これは非国教徒に対する差別を残し、カトリックやユダヤ教徒、無神論者、三位一体説を否定する者等には、信教の自由を認めないという限定的なものだったが、信教の自由の保障が一部実現した。宗教的寛容はイギリス以外にも広がっていった。
 人権は、キリスト教的な神から人間に生まれた時点で付与されている権利として観念された。しかし、それはまた、西欧人のキリスト教からの自由の確保・拡大に伴って発達した。キリスト教の中で発生し、キリスト教から脱して発達したのが、人権の観念である。信教の自由の希求は、思想・信条の自由の希求として、より広い精神的な自由の拡大を求めるものとなった。この延長上に、守るべき自由とは個人の選好である、という現代のリベラリズムの思想が現れる。
 なお、信教の自由を求める運動としては、啓蒙主義、理論論、フリーメイソンの活動が重要である。この点は、第9章で市民革命から20世紀初めまでの時代に現れた思想について述べる際に書く。

 次回に続く。

現代世界史30~日本の経済

2014-08-30 08:53:09 | 現代世界史
●日本の混迷と再建~経済

 次に経済面から、日本の混迷と再建について述べる。日本は、敗戦のドン底から立ち上がり、奇跡の復興と高度経済成長を成し遂げた。プラザ合意の後にバブルが発生し、1980年代末から90年代初めにかけてバブルが崩壊した。そして、ようやく経済が持ち直した時に、1997年(平成9年)橋本龍太郎内閣が構造改革の名のもとに、緊縮財政を行った。財政健全化のため、消費税を3%から5%に増税する等の増税を行った結果、翌年の98年(平成10年)からデフレに突入した。日本は、政府の経済政策の誤りによって、戦後先進国で唯一、デフレに陥った。高度経済成長によって、東アジア諸国をけん引してきた日本は、世界最大の債権国とまでなりながら、政策の誤りによって自ら凋落の軌道にはまった。
 以後、約15年間にわたって、デフレが続いた。デフレは、物価が継続的に下がる現象である。これによって所得が下がり、企業収益も下がると、所得税・法人税の税収が減るから、税収が減る。それによって、財政は悪化する。橋本内閣に続く小渕恵三内閣は景気振興策を打ったので、日本経済は顕著に回復したが、これと全く逆行することをしたのが、2001年(平成13年)からの小泉純一郎政権である。再び緊縮財政が行われ、構造改革だとして、さらに規制緩和と不良債権処理を強行した。その結果、デフレは一層深刻化し、財政赤字は急激に拡大した。以後の自民党政権は、橋本=小泉構造改革を継承する経済政策を行った。
 敗戦後、一時の期間を除いて長く政権を維持してきた自民党は、腐敗堕落を続け、国民の信頼を失った。そのような状況で、2008年(平成20年)9月、リーマン・ショックの大波が日本を襲った。米国のドル大量増刷政策により、円高が進んだ。
 自民党は、2009年(平成21年)9月の衆議院総選挙で敗れ、民主党が政権に就いた。民主党は、旧日本社会党の後継者となる政党であり、バラマキに象徴される社会民主主義的な経済政策を行った。そのため、デフレからの脱却はできず、日本経済は停滞が続いた。
 約15年に及ぶデフレによって失った潜在的な富は計り知れない。「需要不足に起因する生産能力の余裕」をデフレ・ギャップという。単なる需要と供給の差ではなく、「潜在実質GDPと実質GDPの差」つまりGDPギャップが、デフレ・ギャップである。平成10年から24年までの間、毎年の潜在実質GDPと実際のGDPの差は、仮にごく低めに平均100兆円としても、15年間で1500兆円に上る。それだけの富の生産ができなかったということは、それだけの富を失ってきたことと同じことを意味する。当然雇用に影響し、若者は就職できず、将来に希望が持てず、結婚や出産に消極的になる。企業の経営不振や倒産によって働き盛りの年代の男性が多数自殺するという末期的な様相を呈していた。デフレになってから1年間に毎年3万人以上の自殺者が続いた。こんな国は先進国でほかにないというところまで日本は低下した。
 このような状況で、平成23年(2011)3月11日に東日本大震災が発生した。東日本大震災は死者15,882人、行方不明者2,668人(2014年3月11日現在)という多大な犠牲者をもたらした。日本経済への影響は甚大であり、損失は100兆円とも見られる。まさに戦後日本最大の惨事であり、また日本が直面した国難である。
 民主党政権は大震災に際し、適切な対応が出来ぬのみか、かえって混乱を拡大し、被害を増大させる醜態をさらし、国民から厳しい批判を受けた。2012年(平成24年)12月の衆議院選挙で再び政権交代が起こり、自民党が政権に復帰した。新たな首班となった安倍晋三は、大震災からの復興を進めるとともに、デフレ・超円高の危機からの脱却と経済成長をめざし、アベノミクスと呼ばれる総合的な経済政策を打ち出した。長い、長い混迷の後、日本の再建のため、ようやくまともな経済政策が実行されるに至った。日本は巨大な潜在的成長力を秘めている。政治の強いリーダーシップで大胆な政策を断行すれば、必ず日本は復興できる。だが、安倍内閣は2014年(26年)4月に消費税を5%から8%に上げる増税を行った。デフレから脱却しきれていない状態での増税は、景気を悪化させる要因となりうる。今後、さらに10%への増税が計画されており、慎重な政策判断が望まれる。増税は財務省が省益を守るために進めるものであり、これに協力する内閣府によるデータは官僚に都合よく作成されている。政治家は官僚主導の政治から脱しないと、適切な政策を計画・実行することはできない。
 デフレ脱却・経済成長のための政策の成功いかんは、先に書いた国家安全保障政策の成否に直結する。デフレ脱却・経済成長の政策をしっかり軌道に乗せ、厳しい国際環境で平和と安全を確保するための体制整備を確実に進めなければならない。そして、日本人自ら手で憲法を制定し、真の独立主権国家としてのあり方を確立することが急務である。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「経世済民のエコノミスト~菊池英博氏」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion13i-2.htm
・拙稿「デフレ脱却の経済学~岩田規久男氏」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion13s.htm
・拙稿「東日本大震災からの日本復興構想」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion13l.htm

現代世界史29~日本の国家安全保障

2014-08-29 10:53:40 | 現代世界史
●日本の混迷と再建~国家安全保障

 世界は冷戦終結後、アメリカ一極支配の体制から、多極化の方向へ変化しつつあるが、この中で、日本は長く混迷を続けており、国家の再建が焦眉の急となっている。この点について、国家安全保障及び経済の二つの面から述べ、その後に、日本再建のために実行すべき課題を示したい。
 まず国家安全保障の面から述べる。日本は第2次世界大戦の敗戦後、戦勝国による占領期間に日本弱体化政策を強行された。東京裁判で国家指導者が裁かれ、GHQ製の憲法を押し付けられた。1952年(昭和27年)4月28日に、吉田茂内閣のもとで、サンフランシスコ講和条約の発効を以て独立を回復した。しかし、占領政策の影響により、主権を完全には回復できていない状態で、国際社会に復帰したものだった。「国際連合=連合国」の一員となったが、国連憲章には敵国条項が規定されており、日本は現在もその対象国の一つである。日本国憲法は、日米安全保障条約と一対になっており、憲法によって国防に大きな規制がかかっている。独立回復後の保守政権は、憲法改正を課題とし、1950年代後半から~60年にかけて岸信介内閣等が改憲を目指したが、実現しなかった。岸首相は、左翼による安保反対運動に屈せず。1960年(昭和35年)日米安保の改定を実現したが、後継首相の池田隼人は、改憲の課題を棚上げし、高度経済成長路線を進め、安全保障は米国に依存する姿勢を強めた。そのうえ、1965年(昭和40年)佐藤栄作内閣以降、日本国政府は、集団的自衛権は権利としては保持するが憲法上行使できないという内閣法制局の解釈を踏襲してきた。そのため、独立主権国家としては、脆弱な国家安全保障体制であり続けている。
 こうした状態でありながらも、大戦後、独立を維持し得てきたのは、米ソの冷戦によって戦勝国による秩序が維持されてきたからである。だが、冷戦の終結によって、国際環境は大きく変わった。諸国家・諸民族・諸集団がそれぞれの権利を主張して起こる紛争が多くなっている。わが国は本来あるべき国家安全保障の確立を急ぐべきところだが、これが遅々としてよく進んでいない。
 ここであらためて浮かび上がってきたのが、領土問題である。日本は大東亜戦争の末期に、ソ連によって北方領土を不法占領された。ソ連はサンフランシス講和会議に参加しておらず、日本はまだソ連及びロシアと平和条約を締結していない。それにより、北方領土問題は未解決の問題である。また、占領期間末期の1952年(昭和27年)に韓国の李承晩大統領が李承晩ラインを引き、竹島の領有を主張するようになった。韓国は竹島の実効支配をするようになり、わが国はされるがままの状態となっている。さらに、1970年代から中国が尖閣諸島の領有を主張し出した。これは、尖閣諸島周辺地域に石油、天然ガス等の埋蔵資源が豊富にあることがわかったためである。尖閣諸島は北方領土、竹島と同じく日本の固有の領土であり、1972年(昭和47年)米国から沖縄諸島が返還された際に、沖縄の一部として日本に返還されたものである。
 韓国及び中国は、経済成長とともに軍事力を強化している。また国民を統合するために、特に1990年代から反日的な教育を行っている。日本に対して、歴史認識、戦後補償、南京事件、慰安婦等の問題を持ち出し、国家間関係を有利に進めようとしているものである。日本国内にはこれに同調し、反日的な主張・行動をする勢力があり、多くのマスメディアが偏向した報道をして国民を誤導している。
 とりわけ急激な軍拡を進め、覇権主義的な行動を取っている中国は、武力による尖閣諸島の奪取を計画している。尖閣の次は沖縄を狙い、さらに日本を支配下にしようと画策している。
 こうした状況において、わが国は憲法を改正し、国防力を充実させて、国家安全保障体制を強化することが急がれる。だが、現行憲法は、国会の3分の2以上の賛成で発議し、国民投票の過半数で決するという極めて厳しい改正要件を定めており、改正の実現は容易でない。そこで、まずは集団的自衛権に関する政府の憲法解釈を改め、行使を可能に戻す次善策が案出された。2014年(平成26年)7月、自民党と公明党の連立による安倍晋三内閣は憲法解釈を改め、集団的自衛権の限定的行使を容認することを閣議決定した。今後、行使を可能にするための法整備が進められる。
 中国は東シナ海のみならず南シナ海でも広範な領域を支配下に置こうとしており、米国、東南アジア諸国、オーストラリア等が警戒を強めている。またインド洋への進出を進めており、シーレーン(海洋交通路)の防衛が国際的な課題となっている。わが国は、米国、東南アジア諸国、オーストラリア、インドと提携し、アジア太平洋からインド洋に及ぶ海洋の安全保障を強化する必要がある。この国際的連携をより強固なものにするためには、イギリスとの21世紀型の日英同盟の構築も有効である。アジア太平洋地域及び世界の平和と安定のために、日本に積極的な国際貢献が期待されている。

 次回に続く。
 
関連掲示
・拙稿「憲法第9条は改正すべし」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion08m.htm
・拙稿「集団的自衛権は行使すべし」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion08n.htm
・拙稿「慰安婦問題は、虚偽と誤解に満ちている」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion12f.htm
・拙稿「尖閣を守り、沖縄を、日本を守れ」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion12o.htm

慰安婦問題:自民党が政府に河野談話見直しを要請

2014-08-28 08:49:40 | 慰安婦
 自民党は8月21日、戦後70年となる来年に、河野談話に代わる新たな官房長官談話を出すよう政府に要請することを決めた。政府は河野談話の継承を表明しているが、新たな談話を出すことで事実上、河野談話の見直しを求めるものと報じられる。26日高市早苗政調会長が菅官房長官に要請書を提出した。高市氏は河野談話の検証結果を国際社会に積極的に発信することや、慰安婦に関する教科書の記述を正していくことも要請したという。
 自民党が党として新談話を出すよう要請をするのはそれはそれで結構だが、一政党の事情や都合を優先していては、この問題は解決できない。日本の名誉がかかっている。国会議員は河野洋平氏の参考人招致を要請し、国会で国民に対して事実を明らかにする責任がある。
 慰安婦問題の根本的対処は、河野談話の撤回である。河野談話は閣議決定なく、河野氏が勝手に出したものであり、河野氏は記者会見で根拠なく強制性を認める発言をした。このたび政府は、有識者の検討チームによる検証を行い、談話は事実上、日韓の合作であり、重要な文言は韓国の要望によって改変され、公式事実認定書さえ韓国が介入したものであったことを公式に報告した。政府はそのことを国際社会に積極的に発信し、閣議決定で河野談話を撤回して、政府として新たな談話を発表し、国際的な汚名をそそぐべきである。朝日新聞社が、強制連行を事実と報道し続けてきた吉田清治証言に関する記事を取り消したこの今こそ、絶好の好機である。
 国会は、河野談話については、河野洋平氏、元内閣外政審議室長の谷野作太郎氏、朝日新聞については、現社長の木村伊量氏、元記者の植村隆氏を参考人招致し、関係閣僚は審議の場で誠実に質疑応答すべきである。
 河野談話の撤回及び新談話の発表をを断行しない限り、旧日本軍の慰安婦に関する国際社会の誤解は解消し得ない。そして日本人は根拠なき事柄によって失った誇りを永遠に回復できない。安倍首相の決断が求められている。
 以下は報道の記事。

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●産経新聞 平成26年8月21日

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140821/stt14082119160009-n1.htm
自民、河野談話見直し要請へ
2014.8.21 19:16

 自民党は21日、慰安婦問題を議題とした政調会議を党本部で開き、戦後70年となる来年に、慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話に代わる新たな官房長官談話を出すよう来週にも政府に要請することを決めた。政府は河野談話の継承を表明しているが、新たな談話を出すことで事実上、河野談話の見直しを求めるものだ。
 河野談話の作成過程に関する政府の有識者チームの検証により、作成過程で韓国側と内容をすりあわせ、強制性の有無の事実よりも政治決着を急いだ談話だったと証明されたことや、朝日新聞が慰安婦の国際問題化の契機となった記事の一部を誤報と認め、取り消したことを踏まえた。
 高市早苗政調会長は会議後、記者団に「河野談話は閣議決定されたものではなく、当時の官房長官が発した談話だ。新しく判明した事実に基づいた新たな談話を発出してもらいたい」と述べた。同時に「正しい史実に基づき、日本の名誉を回復したい。国際社会に正しい情報を積極的に発信すべきだ」と述べ、国内外の発信強化も併せて要請する考えを示した。
 要請書は高市氏が文案をまとめ、党内手続きを経て、来週にも菅義偉(すが・よしひで)官房長官に提出する。
 政調会議では、政府側が河野談話の作成過程の検証結果などを報告した。出席議員からは「朝日関係者を国会に招致すべきだ」との意見が出された。朝日関係者の国会招致について、政調幹部は「国対が判断する問題だ」として、積極的に要求する話ではないとの考えを示した。
 党が独自に河野氏や朝日関係者から事情を聴き、検証していくことについても、高市氏は記者団に「今後、必要があれば(同様の政調会議を)開きたい」と述べるにとどめた。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140827/stt14082710000005-n1.htm
高市氏「河野談話に代わる新たな談話を」要請 菅長官は「考えていない」
2014.8.27 10:00
 自民党の高市早苗政調会長は26日、首相官邸で菅義偉(すが・よしひで)官房長官と会談し戦後70年の節目を迎える来年に向け慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話に代わる新たな官房長官談話を出すよう文書で申し入れた。
 高市氏は、政府の有識者チームがまとめた河野談話の作成過程に関する検証結果を国際社会に積極的に発信することや、慰安婦に関する教科書の記述を正していくことも要請。菅氏は「予算も含め対外発信に力を入れていく」と応じたが、新談話については「考えていない」と述べた。

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慰安婦問題:国会で河野談話・朝日新聞の検証を

2014-08-27 08:40:38 | 慰安婦
 本年6月20日、政府は、慰安婦募集の強制性を認めた河野洋平官房長官の作成過程について、有識者による検討チームの報告書を公表した。報告書は、談話は、強制性の認定を求める韓国側への政治的配慮の産物であり、事実上、「日韓の合作」であったことが証明された。強制性を裏付ける証拠のないまま、韓国の修正要求を入れ作成された過程が政府の公式の検証で明らかにされた。
 続いて、この報告書の効果だろうが、8月5日に朝日新聞が吉田清治証言に関する記事を取り消した。吉田証言とは、吉田氏らが、昭和18年(1943)5月、韓国の済州島で「従軍慰安婦」として朝鮮人女性205人を強制連行したと述べたもの。朝日新聞は、この証言を事実として昭和57年(1982)9月以来、32年間にわたって16回も記事に書いた。この間、吉田証言は、「従軍慰安婦」に関する多くの書物に紹介され、韓国もこの書を基本的な文献として、日本に抗議してきた。平成8年(1996)4月の国連人権委員会でのクマラスワミ報告にも引用され、20万もの女性が強制連行されて「性奴隷」にされたという誤った認識が国際社会の定説になってしまった。また、平成18年に出された米国議会の慰安婦問題調査報告書も、吉田証言を基本資料とした。

 ところが、吉田証言は、平成4年(1992)3月、歴史家の秦郁彦氏が済州島に現地調査し、虚構らしいことを確認した。200人以上が、力づくでさらわれっていったというのに、誰もそんなことを知らないというのである。秦氏の反論に対して、吉田氏から反論はなかった。吉田氏は、その後、行方をくらました。また秦氏の調査以前に、平成元年(1989)8月14日付の済州新聞が、やはり現地調査により、吉田証言は虚偽だと報道していた。吉田証言はつくり話だったのである。
 朝日新聞は、ようやく今回記事で取り消しを行ったが、記事に謝罪の言葉はなかった。吉田証言を国際社会に浸透させて、日本の名誉を貶めた罪は極めて重い。本来社長が出て謝罪会見をすべきであり、また社長は引責辞任ものである。また安倍政権は河野談話の見直しはしないといっているが、河野談話は、吉田証言の虚構が明らかになった後に出されたものである。政府が河野談話を継承していることは重大な誤りである。安倍首相は、この点に関し、姿勢を改めるべきである。また国会は、河野洋平氏及び朝日新聞の責任者及び関係者を参考人招致して検証を行うべきである。国民に対して、事実と責任を明らかにする必要がある。
 慰安婦問題に関し、朝日新聞の記事取り消しと河野談話について、自民党内で独自の検証を行う動きが本格化してきた。主体は「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(会長・古屋圭司国家公安委員長)。8月15日に行われた会合で、櫻井よしこ氏が講演。櫻井氏は、朝日に対して社長・編集局長等の謝罪と世界への発信、自民党に対して河野洋平氏への聞き取りとその国民への情報公開を求めた。全く同感である。実現させよう。

 以下は関連の記事。

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●産経新聞 平成26年8月15日

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140815/stt14081519550014-n1.htm
朝日新聞の慰安婦報道取り消し、自民が独自調査へ 河野氏から聴取も
2014.8.15 19:55

 自民党有志でつくる議員連盟「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(会長・古屋圭司国家公安委員長)は15日、党本部で会合を開き、朝日新聞が慰安婦報道の一部を「虚偽」と認めて取り消したことを受け、党独自の検証を行うべきだとの方針を確認した。慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話が朝日報道の影響を受けたかどうかを河野氏本人から事情を聴くよう党に求めることでも一致、対応を高市早苗政調会長に一任した。
 会合に出席した高市氏は「党としてもこの問題はきちんと調査し、事実確認していきたい」と答えた。
 会合後に記者会見した萩生田光一総裁特別補佐(議連幹事長代理)も「党として責任を果たさないといけない」と述べ、安倍晋三首相(党総裁)直属の検証機関の設置も視野に、年内に一定の結論を得たい意向を示した。
 会合ではジャーナリストの櫻井よしこ氏が講演した。櫻井氏は「日韓関係をこのような形にした大きな原因の一つは朝日の虚偽報道だ。朝日はなぜ釈明し、謝罪しないのか。自民党は河野氏からどう考えているのかを聞き、情報公開する責任がある」と訴えた。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140815/stt14081520040015-n1.htm
櫻井よしこ氏「朝日新聞は謝罪すべき」 議員連盟での講演要旨
2014.8.15 20:04

 朝日新聞の姿勢として極めておかしなことがある。何故に、日本国の過去と現在と未来に対してこんなひどい中傷や言われなきことを報道した責任について、社長自ら、もしくは編集局長自ら表に出てきて釈明し謝罪しないのか。
 5日の1面には、朝日があたかも被害者であるかのようなことを書いている。「言われなき中傷」を浴びたのは日本国だ。先人たちだ。私たちだ。未来の子供たちだ。朝日ではない。
 最初に吉田清治証言が出たのは32年前。朝日はこの32年間にどんな記事を書いてきたかを明らかにするのが先決であろう。それによって世論を動かしたのだから。テレビを動かしたのだから。韓国を動かし、世界を動かし、日本をおとしめたのだから。
 だが、自分たちがどんな報道をしたのか、ここには一行も書いていない。こんなメディアはメディアではない。プロパガンダ新聞というものだ。私は、朝日はまず1つ2つやるべきことをやった上で、廃刊にすべきだと考えている。
まず、世界に発信することだ。英文、ハングル、中国語、フランス語、スペイン語。世界中の人々が日本に対して非常に悪い印象を抱いた。そのもとをつくった責任者として、世界にさまざまな言語で自分たちの間違いを発信すべきだ。
 その上で、当時の社長、編集局長、記事を書いた記者は全員名乗り出るべきだ。日本国の土台を揺るがすような大きな問題だから、社長も含めて編集局全体で議論をしたはずだ。そこに名を連ねた人々は自分たちが展開してきた言説、報道を明らかにすべきだ。
 自民党にも大きな要求を突きつけたい。河野洋平官房長官談話には「強制連行」の文字はないが、強制連行を認めた談話であるという印象が世界中に広がっている。河野氏自身が発表後の記者会見で「強制連行と考えてよいか」との質問に、「おおむねその通り」という趣旨の答えをしたのが原因だ。
 1992(平成4)年4月、吉田証言はでたらめだということが産経新聞で大きく報道された。翌年8月に河野氏は談話を出し、記者会見に応じている。国民の多くはなぜこんなことになったのか、河野氏自身に釈明をしてほしいという強い思いを抱いている。
自民党は(河野氏を)党本部に呼び、(元)総裁としてどう考えているのか聞き、100%情報公開してほしい。それが当時政権与党だった自民党の責任ではないか。
 一日も早く教科書を書き換え、韓国の人々にも強制連行はなかったと伝えてほしい。申し訳ないという気持ちを、朝日も自民党も表明してほしい。正常にあり得た日韓関係をこのような形にした原因は、こちら側がつくったのかもしれない。その大きな原因の1つは朝日の虚偽報道だ。
 自民党は問題の深刻さをよく認識し、朝日には日本のメディアを代表すると自負してきたプライドと信頼にかけて、今申し上げたことを徹底してやっていただきたい。
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関連掲示
・拙稿「慰安婦問題は、虚偽と誤解に満ちている」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion12f.htm
・拙稿「河野談話の検証結果を受け、国会は河野洋平氏を招致すべし」
http://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc3bef1bd68b2e241e7ebbc1a71b2180

現代世界史28~ロシアのクリミア併合

2014-08-26 09:30:51 | 現代世界史
●ロシアのクリミア併合で冷戦時代に逆戻りか

 2014年(平成26年)3月、ロシアがウクライナのクリミア半島を併合するという大事件が起こった。冷戦終結後、初めての本格的な武力による現状変更の動きである。
 冷戦終結後、欧米勢力は旧ソ連圏の独立国家共同体(CIS)で影響力を強めてきた。その影響のもと、2003年(平成15年)グルジアでの「バラ革命」、04年ウクライナでの「オレンジ革命」、05年キルギスでの「チューリップ革命」等、民主化を求める政治運動が起こった。
 当時のアメリカは、共和党のブッシュ子政権の時代であり、ネオコンが政権を動かしていた。2003年(平成15年)のイラク戦争でサダム・フセイン政権を打倒したブッシュ子大統領は、中東民主化構想を提唱した。同時にCIS諸国の民主化勢力を支援した。その結果、グルジア、ウクライナ、キルギスで独裁政権が倒れて民主化が行われた。CIAが資金と情報を提供したと言われる。地政学的な戦略によるロシアへの対抗であり、また石油・天然ガスの確保の布石でもあるだろう。
 これに対し、ロシアは安価なエネルギーの提供や政治的な権謀術策を用いて、周辺諸国の民主化及びロシア離れを抑止しようとしている。なかでもウクライナは、ロシアにとって絶対勢力下に置くべき重要地域である。そのため、ロシアと欧米勢力との綱引きが続いている。冷戦終焉後、ウクライナの東部はロシアとの関係を深め、西部はヨーロッパとの関係を発展させている。またウクライナは、南部にあるクリミア半島を中心に、西方・東方のユダヤ=キリスト教文明とイスラム文明が接触し、重なり合う地域でもある。
 2004年(平成16年)のオレンジ革命では、大統領選挙の不正が糾弾され、再選挙の結果、親欧米派の元首相ユシシェンコが親露派のヤヌコビッチ首相を破った。ユシシェンコは選挙期間中、ダイオキシンによって毒殺されかかった。オレンジ革命は、ヨーロッパとロシアに挟まれたウクライナが、EUやNATOに加わるのか、天然ガス等のエネルギーを依存しているロシアとの関係を堅持するのかという選択を迫らる中での出来事だった。
 ウクライナでは親欧米派政権のもとで、失政が続き、民衆の支持は低下した。ヤヌコビッチは2010年の大統領選挙に立候補し、女性首相ティモシェンコを破って政権を握った。ウクライナは2013年にEUとの政治・貿易協定の仮調印を済ませたが、ヤヌコビッチは調印を見送った。これに対し親欧米的な野党勢力から強い反発が起こった。2014年(平成26年)年2月下旬、首都キエフや西部における大規模な反政権デモによって、政変が起こった。親露派のヤヌコビッチは国外に逃亡し、ロシアの保護下に入ったと見られる。ウクライナ議会はヤヌコビッチの大統領解任を決議した。だが、ヤヌコビッチはクーデタだとして辞任に同意せず、ロシアのプーチンはクリミアの軍事制圧をヤヌコビッチの要請によるものだと正当化した。
 親欧米的な暫定政権が誕生すると、プーチン政権のロシアは、ウクライナのクリミア半島南部を実効支配した。3月7日クリミア自治共和国の議会がロシアへの編入を決議した。これを受けて、同月18日、ロシアはクリミア半島南部を併合した。
 ロシアはクリミアでの権益を確保しつつ、キエフの暫定政権に圧力をかけている。米欧諸国は、ロシアをG8からはずし、外交的経済的な制裁を行っているが、西欧諸国はロシアに天然ガスを大きく依存しており、必ずしも積極的ではない。ウクライナ東部では、武装した新露派がドネツク州、ルガンスク州で独立を宣言し、ウクライナ軍と衝突を繰り返している。   
 そうしたなかで、7月17日ウクライナ東部上空を飛行中のマレーシア機が撃墜された。乗客・乗員298人が犠牲になり、犠牲者の多くは、オランダ・ドイツ等のヨーロッパ人だったと報道された。親露派による攻撃であり、ロシア製地対空ミサイルBUKが使用されているとして、ロシア側の関与が疑われている。この事件によって、欧米諸国はロシアへの態度を硬化させた。ロシアは、これに対する報復措置を講じている。ロシアのクリミア併合をきっかけに、世界は冷戦時代への逆戻りの様相を呈している。

 世界は、米国の衰退により、一極支配体制が崩れ、多極分散の傾向が強まっている。その中で急速に強大化している中国が、米国と世界的な規模で覇権を争う形勢となっている。今後、対立・抗争が激化すれば、世界は冷戦ではなく再び熱戦すなわち世界戦争へと向かう可能性を孕んでいる。人類は第2次世界大戦後、多くの国が核兵器を開発・保有し、さらに核技術が高度化し、また拡散しつつある。核による第3次世界大戦という最悪の事態に至れば、人類のほとんどは死滅し、地球上の生物の7割も死滅する恐れがある。
 こうした愚かな悲劇を避けるには、人類が地球で共存共栄できる指導原理が共有されねばならない。その指導原理を体得・普及し得る国は、文明学的に見て、日本以外には存在しない。それゆえ、日本人の使命は重大である。万が一、日本が中国等の属国になれば、共存共栄の指導原理を広げうる国がなくなり、地球は抗争・強奪・破壊の修羅場と化し、荒廃を極めることになるだろう。

 次回に続く。

現代世界史27~アラブの春

2014-08-25 10:24:32 | 現代世界史
●「アラブの春」は長期的な変動の現れ

 米中が世界的な規模で覇権を争う形勢において、世界の各地での民主化を求める民衆運動と、国家による武力を用いた現状変更の動きが、状況に複雑さを加えている。そうした動きのうち、北アフリカ・中東における「アラブの春」と、ロシアによるクリミア併合が長期的に見て、特に重要なものだろう。
 2011(平成23年)1月14日、北アフリカのチュニジアで、23年間独裁体制を続けたベンアリ大統領が辞任に追い込まれ、国外に逃亡した。「ジャスミン革命」と呼ばれる。民衆の運動にはツイッターやユーチューブ、フェイスブックといったネットメディアが大きな役割を果たした。チュニジアでの民衆運動の成功はエジプトに飛び火し、2月11日、わずか18日間で30年間近く続いたムバラク大統領が辞任した。リビアではカダフィ大統領が民衆の運動を弾圧しようとしたが、軍の一部が反乱を起こし、内戦が勃発した。同年10月カダフィが射殺され、42年間続いたカダフィ政権は崩壊した。他にもバーレーン、イエメン、イラク、サウジアラビア等でデモが起こり、アラブ諸国が大きく揺れた。これを「アラブの春」という。
 イスラム圏において、これほど多くの国で政治体制に対する民衆の反対運動が起こったのは、初めてのことだった。各国で事情は異なるが、共通しているのは長年続く独裁体制に反発した民衆が、独裁者の退陣を要求した点である。アラブ社会に巨大な地殻変動が起こりつつある。
 イスラムの信者数は11億人といわれ、世界人口の約6分の1を占める。世界の主要な既成宗教のうち、現在最も信者が増えているのは、イスラムである。イスラム教徒(ムスリム)は、人口増加の著しいアジア、アフリカに多く存在する。各国の年齢構成は若年層が多く、失業・社会格差・物価高・行動規制等への若年層・知識層の不満が政治運動という形で噴出していると見られる。
 トッドは、近代化の主な指標として識字化と出生調節の普及を挙げる。そして識字化と出生調節の普及という二つの要素から、イスラム諸国では近代化が進みつつあるととらえる。
 識字化について、トッドは、次のように言う。「多くのイスラム国が大規模な移行を敢行しつつある。読み書きを知らない世界の平穏な心性的慣習生活から抜け出して、全世界的な識字化によって定義されるもう一つの安定した世界の方へと歩んでいるのである」と。
 出生調節については、次のように言う。「識字化によって個人としての自覚に至った女性は出生調節を行なうようになる。その結果、イスラム圏でも出生率の低下が進行し、それはアラブ的大家族を実質的に掘り崩す」と。
 トッドによると、イスラム諸国において現在起こっていることは、かつてヨーロッパ諸国で起こった近代化の過程における危機と同じ現象である。すなわち、17世紀のイギリス、18世紀のフランス、20世紀のロシアなどと同じようなパターンが、今日イスラム諸国で繰り返されている。トッドは、この危機を「移行期の危機」と呼ぶ。そしてイスラム諸国は、この人口学的な危機を乗り越えれば、近代化の進行によって、個人の意識やデモクラシーが発達し、やがて安定した社会になると予想する。
 社会の近代化において、識字率が50%を超える時点がキーポイントである。識字率が50%を超えると、その社会は近代的社会への移行期に入り、「移行期の危機」を経験する。50%超えは、ほとんどの社会で、まず男性で起こり、次に女性で起こる。男性の識字率が50%を超えると、政治的変動が起こる。女性の識字率が50%を超えると、出生調節が普及し、出生率の低下が起こる。現在の北アフリカ・中東での民衆運動は、1970年代のイランにおける民衆運動を想起させるが、当時のイランは、トッドの言うような段階にあった。
 イスラム諸国では、近年出生率の低下が顕著である。イスラムの中心地域であるアラブ諸国では、出生率の低下は、伝統的な家族制度である内婚制共同体家族を実質的に掘り崩しつつある。また、男性の識字化は父親の権威を低下させる。女性の識字化は、男女間の伝統的関係、夫の妻に対する権威を揺るがす。識字化によって、父親の権威と夫の権威という二つの権威が失墜する。
 トッドは、次のように言う。「この二つの権威失墜は、二つ組み合わさるか否かにかかわらず、社会の全般的な当惑を引き起こし、大抵の場合、政治的権威の過渡的崩壊を引き起こす。そしてそれは多くの人間の死をもたらすことにもなり得るのである。別の言い方をすると、識字化と出生調節の時代は、大抵の場合、革命の時代でもある、ということになる」。トッドによれば、識字化はデモクラシーの条件である。識字化によって、イスラム諸国もデモクラシーの発達の道をたどっている、とトッドは指摘する。さらにトッドはイスラム諸国は脱宗教化するという大胆な予測を述べてもいる。この変化は世界的に人々が既成宗教から脱し、新たな精神文化へと移行していく過程の一環だろう。
 チュニジア、エジプト、リビア等の国々が今回の政変で民主化に向かうかどうか、まだ定かではない。チュニジアでは、2014年1月制憲議会が新憲法案を賛成多数で承認し、マルズーキ大統領のもと、立憲政治が行われている。エジプトでは、政変後選挙で選ばれたムハンマド・ムルシーを大統領とする政権が、2013年7月7月、軍部によるクーデターに覆された。リビアでは多数の武装勢力が対立し、暫定政権が統治できない状態が続いている。これまで北アフリカ・中東のイスラム圏で、独自にデモクラシーを実現した国は、存在しない。アメリカが侵攻し強権的に民主化したイラクでも、デモクラシーが発展するかどうか、確かな結果は出ていない。しかし、揺れる北アフリカと中東諸国の政情に、イスラム諸国は識字化と出生率調節によって、長期的に民主化の方向に動きつつあることを読み取ることができるだろう。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「トッドの移民論と日本の移民問題」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion09i.htm

人権110~1789年人権宣言後の迷走

2014-08-24 08:54:52 | 人権
●1789年人権宣言の後の迷走

 1789年の人権宣言は、人権思想の発達において、確かに画期的な内容ではあった。1791年憲法がその一部として宣言をそのままこれを取り入れ、実定法の規定ともなった。だが、宣言は、フランスにおいて多くの国民が納得するようなものではなかった。対立・抗争の可能性をはらんでいた。というのは、宣言発布の後、1795年までの6年間に3つの権利宣言が出されているのである。すなわち、ジロンド憲法草案における権利宣言(1793年)、モンターニュ派憲法における権利宣言(1793年)、共和暦第3年の権利義務の宣言(1795年)である。89年版を含むと6年間に計4回の宣言が出されたわけである。
 1793年のジロンド憲法草案における権利宣言は、憲法委員のダントン、シェイエスらが起草し、数学者のコンドルセが主導的役割を持った。前文はなく、「至高の存在」への呼びかけはない。89年宣言の17条に対して、33条と約2倍になっている。89年宣言は、権利の記述に詳しいところや簡単なところとのムラがあり、反復重複が多く、権利の相互関係、権利と基本原理の関係が明確でなかった。ジロンド宣言では、これらの点が修正され、構成・内容に一貫性が見られる。だが、国民公会では、ジャコバン派が勢力を得て、穏健的なジロンド派の憲法案は猛烈な攻撃を受けた。憲法本文の前に置く権利宣言のみが、93年4月に採択された。
 特に急進的なモンターニュ派が実権を握ると、ジロンド派は他の党派とともに追放・粛清された。そのため、権利宣言を含むジロンド憲法草案は流産した。国民公会は、新たな憲法草案を作成することとし、ロベスピエールを中心とする公安委員会がその任に当たった。新たな権利宣言は、ジロンド宣言を取り込んだうえで、平等主義的な傾向を強くした。国民主権ではなく人民主権、男子の普通選挙、人民の生活・労働の権利等に特徴がある。憲法草案は93年6月に可決され、翌月から翌々月にかけて人民投票に付された。700万人の投票権者のうち、190万人しか投票しなかったが、その9割の賛成で可決された。これによって、89年宣言を含む憲法に替わって、新たな宣言を含む憲法が制定されたわけである。
 ところが、この権利宣言は、遂に適用されなかった。人民投票で可決されたにもかかわらずである。国民公会は、施行を延期した。そして、独裁者となったロベスピエールは、権利宣言を無視した恐怖政治を行った。人民から権力を委託された政府によって、人権宣言とは正反対のことが強行されたのである。
 ただし、人権宣言の条項が守られなかったのは、1793年に始まったことではない。89年の段階で既に宣言の条項は何も守られず、それとは正反対の不当逮捕や不当拘禁が行われた。恐怖政治は89年の革命の当初から行われていた。宣言の発せられた直後から、国民議会は、反革命の陰謀を探るための委員会を設置して、郵便物を開封、逮捕状なしに逮捕、正規の手続きを踏むことなしに拘禁、移動の自由を妨害するなどした。国民の人権を守ることより、権力者の権力を守ることが、実際の政治の目的なのである。
 ロベスピエールの独裁への反発は、強まった。94年7月クーデタが決行され、ロベスピエールは絶命した。モンターニュ派は失脚し、穏健派が勢力を回復した。国民公会は、93年憲法を無政府主義の所産とし、人民投票は詐欺及び暴力により無効であるとして、新たな憲法を作成した。草案は95年人民投票に付されたが、一般の関心は極めて低く、投票者は100万人に満たなかった。9割が賛成したものの、有権者の8分の1の賛成で、憲法が制定されたのである。
 95年には穏健な共和派による総裁政府が成立した。だが、憲法の権利宣言で声明された権利は、あまり尊重されなかった。特に出版の自由及び個人の安全は、守られなかった。憲法という文書に理想的な言葉を並べても、政治権力がこれを順守するとは限らない。法を裏付けるものは実力であり、実力は法の規定を無視して行使されうる。フランス市民革命では、文書と現実は極めて大きく乖離し続けた。99年のナポレオンによるクーデタ、統領政府、帝政という展開においても、この傾向は一層強まった。
 その後もフランスは政体の変化に伴い、1814年憲章における権利宣言、1848年憲法の権利宣言が出され、そのたびに権利・義務に関する規定は変化した。革命や失脚によって統治者が変わると、権利義務に関する思想も変化した。1789年の人権宣言は、決して不朽の金字塔ではなく、次々に書き換えられた原版に過ぎなかった。しかし、20世紀に至り、1946年第4共和国憲法は、前文に「フランス人民は、1789年の権利宣言によって承認された人及び市民の権利及び自由並びに共和国の諸法律によって承認された基本原理を厳粛に再確認する」と書いた。それによって、89年宣言は、新たな意義を与えられた。だが、市民革命以後のフランスの歴史を振り返る時、人権の思想は根本的に再検討すべきものであることが、明らかになる。

 次回に続く。

現代世界史26~中国でバブルがはじける

2014-08-23 08:55:06 | 現代世界史
●中国で巨大なバブルがはじける

 中国は驚異的な経済成長を続けた。2010年(平成22年)には、GDPで日本を追い越し、世界第2位となった。だが、その経済基盤は決して安泰ではない。中国は、石油資源が枯渇し、1993年(平成5年)に石油輸入国に転落した。経済成長を続けるためには、大量の石油を輸入しなければならない。中国が1980年代以降、兵器を供与している国は、イスラム系中東諸国、産油国と世界の戦略的要衝となる国であり、わが国のシーレーンに沿った国やアメリカの世界政策と抵触する国々である。石油以外にも、経済成長に必要な様々な資源を確保するため、中国はアフリカ、中南米等に貪欲に触手を伸ばし、世界各地で資源確保に躍起になっている。中国は、水資源の枯渇にも直面しており、インドやインドシナ半島の諸国の水源から水を奪い取ろうとして、大規模なダムや河川の工事を行っている。
 その一方、実質的一党独裁と市場経済の矛盾を抱えたままの経済成長のため、中国の内部では、様々な矛盾が高まっている。共産党官僚による腐敗の蔓延、貧富の差の拡大、農村の疲弊、失業者の増加、銀行の不良債権率の増大、エイズ感染者の広がり、河川・海洋・大気の汚染、砂漠化の進行等、統制のもとでの急速な経済成長は、ほころびを示しつつある。社会不安が高まり、各地で暴動が頻発している。2005年(平成17年)には年間9万件の暴動が起こったと発表された。ただし、これは共産党による公式発表だから、実態はそれを大きく上回るだろう。

 中国共産党は、政権を維持するには、どうしても成長率8%を維持しなければならない。成長率が8%を切ると、1億人以上の労働者に仕事を与えられなくなり、政権基盤が危うくなると考えられるからである。2008年(平成20年)夏の北京オリンピック大会の終了後、そうした中国に、リーマン・ショックの激震が走った。暴動が頻発し、社会不安の広がる中で、世界経済危機の大津波が、シナ大陸の深部にまで襲ったのである。2011年(平成23年)には、暴動・騒動事件の発生件数が18万件を超えたと伝えられた。これは毎日全国どこかで約500件発生している計算になる。
 そうした中で、習近平が2012年(平成24年)に共産党中央委員会総書記となり、13年(25年)には国家主席となった。比較的穏健だった胡錦濤前主席と異なり、習は、中国共産党の反日的な姿勢を強め、また覇権主義的な傾向を強くしている。中国経済は、2013年(平成25年)後半から、バブルの崩壊の兆しを表している。今後、経済が崩壊したら、社会不安はさらに増大する。その時、懸念されるのは、習政権が国民の不満を外に向けるため、周辺諸国に軍事的な侵攻を行うことである。わが国の尖閣諸島と沖縄は、そうした中国の奪取の対象として、十分な警戒を要する。

●米中が東南アジアで競い合う

 米国と中国は、世界規模の覇権をめぐって争っている。中でもその争いの重要な焦点となっている地域が、東南アジアである。
 東南アジアは、インド洋から太平洋への通路に位置し、昔から交通の要衝にある。この地域の主要国で構成する東南アジア諸国連合(ASEAN)は、計6億2000万人の人口を抱え、安い労働力と豊富な消費者が存在する。わが国にとっても、米国や中国にとっても、ASEANの重要性は増す一方である。
 中国は、東南アジアへの経済・外交・安全保障面での影響力を拡大している。そして、南シナ海のほぼ全域の領有権を主張し、覇権の確立を目指している。これに対し、米国は、アジア太平洋における中国の行動を牽制するため、ASEANとの関係の強化を図っている。冷戦時代に、米国と中国はインドシナ半島で激しく勢力争いをした。ベトナム戦争やカンボジア内戦は、米中の勢力争いの舞台だった。今日その争いの再現を思わせるほど、東南アジアは再び米中が激しく競い合う地域となっている。

 2014年(平成26年)3月18日ロシアがウクライナのクリミア自治共和国を併合した。それにより、冷戦終結後、かつてないほど世界の緊張は高まりつつある。中国は、ロシアに対する米国・EU・日本等の制裁の度合いを見て、尖閣諸島を含むアジア太平洋地域で海洋覇権の拡大を狙っている。
 そうしたなかで、オバマ大統領は4月23~28日、日本などアジア4カ国を歴訪した。オバマ大統領のアジア歴訪はアジア太平洋地域での同盟を強化し、覇権拡大政策をとる中国を牽制するために有益なものとなった。これまでの宥和策中心の姿勢から、中国の侵攻を阻止しようとする姿勢に転換したことを示すものとも考えられる。
 オバマ大統領のアジア歴訪が終了するや、5月初め中国は、南シナ海のパラセル(中国名・西沙)諸島海域で石油掘削を進めた。これを阻止しようとするベトナム船と中国公船が衝突を繰り返し、南シナ海に緊張が高まった。中国は、アメリカがアジア太平洋地域にどこまで本気で関与しようとしているのかを試したものと見られる。だが、米国およびベトナムが断固たる姿勢を示すと、中国は掘削施設を撤収した。次のチャンスをうかがうものと見られる。
 東南アジアは、中東から日本に至る石油の海上輸送路、シーレーンの要の位置にある。インド洋からマラッカ海峡を通って、フィリピン沖、台湾沖を北上するシーレーンは、世界貿易の3分の1が経由する物流の大動脈である。わが国にとっては、石油輸送の生命線である。中国にシーレーンを抑えられれば、わが国はのどもとに手をかけられたも同然となる。それゆえ、わが国の安全と繁栄を維持するためには、尖閣の防衛だけでなく、シーレーンの防衛を外交・安全保障の重大課題としなければならない。生命線の防衛のためには、我が国は従来の憲法解釈を改め、集団的自衛権の行使を容認し、さらに現行憲法を改正し、自主国防力を整備する必要がある。唯一の同盟国である米国との緊密な連携を取るとともに、東南アジア諸国との連携の具体化が重要である。その連携をオーストラリア、インドへ広げ、さらにイギリスとの間で21世紀型の日英同盟を構築することによって、わが国の安全保障は格段と強化されるだろう。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「米中が競い合う東南アジアと日本の外交」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion12p.htm
・拙稿「荒れる南シナ海と米中のせめぎ合い」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion12u.htm

現代世界史25~危険な挑戦者・中国の強大化

2014-08-22 08:41:24 | 現代世界史
●市場経済の導入、天安門事件、そして反日教育

 中国では、毛沢東の死後、文化大革命を進めた江青らの四人組が粛清された。その後、かつて走資派として批判された小平が、1978年(昭和53年)に国家主席になった。は、社会主義市場経済という原理的に矛盾した用語を用いて、市場経済を積極的に導入した。政治的には共産党が事実上の一党独裁を堅持しつつ、経済的には社会主義路線から国家資本主義路線に転換したものである。
 市場経済の導入で自由主義諸国の資本が投資されると、同時に自由主義・デモクラシーの思想が中国に流入した。当時、ソ連を中心とする社会主義陣営は、崩壊の時に近づいていた。アメリカは、ソ連に軍拡競争を仕掛け、ソ連は経済的に逼迫した。ソ連から植民地のように収奪を受ける東欧諸国で、民主化運動が起こった。それが本格化したのが、1989年(平成元年)だった。この年、11月にベルリンの壁が取り払われ、翌年、東西ドイツが統一、さらにその翌年のソ連崩壊へと進んでいく。
 1989年当時、ソ連におけるゴルバチョフの登場や東欧における民主化運動は、中国の知識人・学生に自由と民主主義を求める機運を高めた。この年、共産中国はソ連との和解に達した。その直後となる6月4日、自由とデモクラシーを求める学生・民衆が行動を起こし、天安門広場に集まった。中国共産党指導部は、この動きを武力で鎮圧した。目撃者の証言を総合すると、人民解放軍は天安門広場に集まった学生・青年が逃げられないように出口を防いだうえで、学生・青年を無差別に射殺し、また戦車で轢き殺したようである。中国政府当局は死者319人としているが、事件発生の3日後に中国赤十字の広報担当者が外国メディアに対して2600人と発表している。その後、重傷者が多く死亡したことから、実際は3千人に上ると見られる。
 それまで中国共産党は、「人民のための人民の政権」という論拠で中国を支配してきた。しかし、天安門事件で多数の学生・市民を虐殺したことによって、人民の信頼を失い、「正統性の危機」に直面した。中国共産党政府はこの事件の真実を隠すことで、政権の維持を図った。東欧・ソ連における共産党政権の崩壊を目の当たりにした小平は、民主化運動を弾圧し続けなければ、中国も二の舞になることを痛感したに違いない。

 1992年(平成4年)、小平は南巡講話を発表し、本格的な市場経済への移行を断行した。高度経済成長のもたらす繁栄は、共産党の独裁体制に新たな正統性の根拠を与え、政権安定の基盤をつくることになった。
 小平は、江沢民を総書記にし、さらに1993年(平成5年)には国家主席に抜擢した。開放経済によって、国家資本主義的な発展を続ける中国社会は、マルクス=レーニン主義、毛沢東思想の理論とは、大きく乖離した。社会主義市場経済によって共産主義の原則を曲げているから、共産主義思想では、もはや国民を統合できなくなった。そこで江沢民が推進したのが、愛国主義である。 愛国主義の政策のもと、反日的な教育が徹底された。中国指導部は、民衆の不満を外に向けるために、日本の過去の「侵略」や日本軍による「虐殺」を誇大宣伝し、中国共産党が日本帝国主義に勝利したという虚偽の歴史を作り上げ、中国共産党の正統性を強調し、共産党の独裁が必要という思想を民衆に吹き込んだ。 
 「南京大虐殺」は、1937年(昭和12年)12月、日本軍が南京に入城した際、「大虐殺」が行われたとして、戦後、東京裁判において告発された事件である。東京裁判では、虐殺は風聞・伝聞だけで、目撃したという唯一の証言も、誰何による合法的な射殺だった。だが、中国共産党政府は反日戦略の一環として、南京で「30万人」が虐殺されたという記念館を創って、反日感情を高揚させた。だが、南京で民間人が多数虐殺されたという確かな証拠は、存在しない。日本軍入城当時、南京には人口が20万人しかおらず、そこで30万人の殺戮は行われ得ない。

●世界の大勢に逆行する軍拡

 米ソ冷戦の終結によって、世界は本格的に対立と闘争から対話と協調の方向に進んだかと思われた。しかし、その動きに異を唱えるように、共産中国は小平のもと、猛烈な軍備拡張を開始した。
 中国は、1989年(平成元年)から20年以上、毎年2ケタ台の伸び率で軍事予算を増加した。5年間で軍事費が倍増という猛烈さである。しかも、この数字は実態を表わすものではない。中国は、世界の武器貿易の約4割を占めるペースで、ロシアなどから新しい武器を購入してきた。輸入量は世界一である。こうした武器の購入費は、軍事予算に入っていない。宇宙兵器の開発費なども入っていない。実際の軍事費は、公表されている数字の約3倍だろうと見られている。実態はそれ以上かもしれない。
 危険なことは、猛烈な軍拡と、排外的・好戦的な思想教育が結びついていることである。共産中国は、単なる共産主義ではなく、ファシズム的な共産主義に変貌しつつあるのである。

 中国の軍事力は、独自の核開発に基づいている。核の開発は、毛沢東の悲願だった。中国は、経済力の低さに関わらず、開発を続けた。1964年(昭和39年)に核実験に成功し、70年(45年)4月に、人工衛星の打ち上げに成功した。これにより、中国は、日本とわが国にある米軍基地を攻撃することができるようになった。さらに81年(56年)には、核ミサイルの多弾頭化をめざす実験に成功し、88年(63年)には、原子力潜水艦からの弾道ミサイルの水中実験に成功した。こうして中国は、第1世代の核兵器を完成させ、最小限核抑止力、すなわちアメリカの本土を攻撃できる対米第二撃能力を保有した。
 中国のアメリカや日本への態度が、高圧的になったのは、1995年(平成7年)からと見られる。移動式・多弾頭の核ミサイルを完成させたからである。移動式のものは、先制攻撃で破壊することができない。中国の対米第二撃能力は、ここに完成した。これによって、中国はアメリカに対し、強気の姿勢を示すようになった。日本に対しても、傲慢な態度を取るようになった。
 わが国は、ODAによって中国の経済成長を支え、対日貿易における巨額の黒字を積み上げさせた。中国は日本が貢いだ富で、実質世界第1位の外貨準備高を誇るにいたった。日本は、軍事大国へと急成長する中国の国家戦略を後押ししてきてしまったのである。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「南京での『大虐殺』はあり得ない」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion06b.htm