●終末論と直線的・一回的な時間論
キリスト教の終末論は、直線的・一回的な時間論に基づくものである。その点について書いておきたい。
宗教は、それぞれ人間観・実在観と結びついた世界観を持つ。世界観を構成する要素の一つに、時間論がある。時間は、空間と結びつけられて、時空または時空間と呼ばれる。また時間は、生命と切り離すことができず、生きられる時間ととらえられる。前者は宗教の世界観、後者は宗教の人間観に関係する。人間が生活する時空間において、人類にとって生きられる時間を、宗教はどうとらえているか。また、その中でキリスト教の特徴は何か。
古代に現れた宗教には、神話がもとにある。宗教の時間論もまた神話の世界観に根差している。神話の物語は、世界と人間の始まりの記憶を呼び覚ます。神話に基づく祭儀は、始源への回帰を象徴的に体験するものとなっている。宗教学者ミルチャ・エリアーデは、それを「永劫回帰の神話」と呼んだ。人間は宇宙の本源から離れ、非本来的な状態にある。すべてのものは差別化されている。人間は時間的・空間的に限定されている。こうした日常の世界を否定し、始源のカオス、無差別、未分化の状態に戻ろうとする。このために行われる行為が、祭儀である。祭儀を通じて、人間は始源への回帰を象徴的に体験する。その体験を経て、日常の世界を意味づけ直し、人生を意味づけ直す。
始源への回帰は、死と復活の体験でもある。祭儀を通じて、集団が死に、始源に回帰し、新たな生命を受けて、再生する。世界もまたいったん終焉し、新たな意味を持って再現する。
こうした死と再生が起こる特別の場所が、中心である。中心は、円の中心、4またはその倍数の要素が交差する点である。始源への回帰とは、中心への回帰であり、中心において死に復活するものである。この点については、十字架の項目で詳しく述べる。
古代の世界で、神話に基づいて様々な宗教が発達した。それらの宗教の時間論には、大きく分けると、円環的かつ反復的な時間論と直線的かつ一回的な時間論がある。円環的かつ反復的な時間論は、神話に始まり、ヒンドゥー教、仏教、神道、儒教、道教等に見られる。直線的かつ一回的な時間論は、ユダヤ教に始まり、キリスト教、イスラーム教等に見られる。
円環的かつ反復的な時間論を持つ宗教のうち、ヒンドゥー教、仏教は、魂の輪廻転生の思想を持つ。生は一回のみのものではなく、何度も繰り返される。また人間的な生だけでなく、動植物等の生を生きることもある。ヒンドゥー教では、宇宙は創造と維持と破壊を繰り返す。宇宙は一回だけのものではない。生命あるものは、死と再生を限りなく繰り返す。その輪廻転生からの脱却を主題とする。時間からの脱却であり、永遠または静止への移行である。仏教は基本的にこの思想を受け継いでおり、それを理論的に発展させた。解脱、涅槃がその目標である。こうした宗教では、現世は脱却すべき場所であり、脱却のための修行の場所となる。
ギリシャの哲学には、神話的世界観とインド的な宗教思想と共通する点がある。その代表的な存在であるプラトンは、人間を死すべきものととらえ、その生命的な時間から超出して、永遠に至ることを目標とした。プラトンは、インド思想に通じる輪廻転生を教義とするピタゴラス教団の影響を受けていた。時間的な現実世界のもとに、非時間的なイデアの世界があると仮定し、真理を究めることで、イデア界に至ろうとした。プラトンの哲学は、キリスト教やイスラーム教に影響を与え、それらの教義の整備に活用された。キリスト教やイスラーム教は、プラトンの哲学から輪廻転生説を除き、古代ギリシャの多神教的な背景を捨てて、一神教の論理に取り込んだ。
古代の世界で、特異な時間論を説いたのが、ユダヤ教である。その時間論が直線的かつ一回的な時間論である。ユダヤ教は、直線的に時間が進行する歴史の中で、世の終わりを想定し、終末における救済を求める。ここに、歴史に意味を見出し、将来に目標を置く宗教が出現した。キリスト教は、そうしたユダヤ教の直線的・一回的かつ終末論的な時間論を継承している。イスラーム教も同様である。
人類の歴史において、直線的かつ一回的な時間論の登場は、画期的なことだった。この世界には終わりがあるという考え方は、インドにもギリシャ等にもある。ユダヤ教の終末論が独特なのは、世の終わりに救世主が出現し、最後の審判が行われ、救われて永遠の生命を与えられる者と、永遠の死に置かれる者とに分けられるとしたことである。この思想によって、前進的・進行的な歴史に意味がもたらされた。キリスト教は、この救世主がイエスだとし、最後の審判が近づいていると説く。その教えによって、キリスト教は、時間の進行を肯定し、それにともなう文化の進歩を肯定し、向かっていく先に救済の時が来るというビジョンを与えた。最後の審判の後に、地上に「神の国」は実現するとする。地上天国の実現である。こうした思想によって、人類の歴史に意味を見出し、救世主の到来を現実的な将来に起ることとして予言したところに、キリスト教の世界史的な重要性がある。
近代西洋文明が世界に広がるとともに、キリスト教が初大陸に伝道された。キリスト教は、神話的世界観や円環的かつ反復的な時間論に基づく世界観を持って生きる人々に、直線的かつ一回的な時間論に基づく世界観を浸透させてきた。歴史の肯定は、科学による進歩を無批判に信奉する考えを生み出し、地球の自然を破壊・汚染する結果を生んでいる。
キリスト教では、終末においてキリスト教が世界に広まり、教会が完成することを終末的完成という。キリスト教の人類に対する責任は、キリスト教が終末的完成に至り、自らこの世界史を終結させるか、それともキリスト教を超えたものに融合して発展的解消し、それによって新しい世界が始まることに協力するか。そのどちらかにある。――終末的完成か、発展的解消か。それが、21世紀のキリスト教の最大のテーマであると私は考えている。それが本稿の題名の意味するところである。
次回に続く。
キリスト教の終末論は、直線的・一回的な時間論に基づくものである。その点について書いておきたい。
宗教は、それぞれ人間観・実在観と結びついた世界観を持つ。世界観を構成する要素の一つに、時間論がある。時間は、空間と結びつけられて、時空または時空間と呼ばれる。また時間は、生命と切り離すことができず、生きられる時間ととらえられる。前者は宗教の世界観、後者は宗教の人間観に関係する。人間が生活する時空間において、人類にとって生きられる時間を、宗教はどうとらえているか。また、その中でキリスト教の特徴は何か。
古代に現れた宗教には、神話がもとにある。宗教の時間論もまた神話の世界観に根差している。神話の物語は、世界と人間の始まりの記憶を呼び覚ます。神話に基づく祭儀は、始源への回帰を象徴的に体験するものとなっている。宗教学者ミルチャ・エリアーデは、それを「永劫回帰の神話」と呼んだ。人間は宇宙の本源から離れ、非本来的な状態にある。すべてのものは差別化されている。人間は時間的・空間的に限定されている。こうした日常の世界を否定し、始源のカオス、無差別、未分化の状態に戻ろうとする。このために行われる行為が、祭儀である。祭儀を通じて、人間は始源への回帰を象徴的に体験する。その体験を経て、日常の世界を意味づけ直し、人生を意味づけ直す。
始源への回帰は、死と復活の体験でもある。祭儀を通じて、集団が死に、始源に回帰し、新たな生命を受けて、再生する。世界もまたいったん終焉し、新たな意味を持って再現する。
こうした死と再生が起こる特別の場所が、中心である。中心は、円の中心、4またはその倍数の要素が交差する点である。始源への回帰とは、中心への回帰であり、中心において死に復活するものである。この点については、十字架の項目で詳しく述べる。
古代の世界で、神話に基づいて様々な宗教が発達した。それらの宗教の時間論には、大きく分けると、円環的かつ反復的な時間論と直線的かつ一回的な時間論がある。円環的かつ反復的な時間論は、神話に始まり、ヒンドゥー教、仏教、神道、儒教、道教等に見られる。直線的かつ一回的な時間論は、ユダヤ教に始まり、キリスト教、イスラーム教等に見られる。
円環的かつ反復的な時間論を持つ宗教のうち、ヒンドゥー教、仏教は、魂の輪廻転生の思想を持つ。生は一回のみのものではなく、何度も繰り返される。また人間的な生だけでなく、動植物等の生を生きることもある。ヒンドゥー教では、宇宙は創造と維持と破壊を繰り返す。宇宙は一回だけのものではない。生命あるものは、死と再生を限りなく繰り返す。その輪廻転生からの脱却を主題とする。時間からの脱却であり、永遠または静止への移行である。仏教は基本的にこの思想を受け継いでおり、それを理論的に発展させた。解脱、涅槃がその目標である。こうした宗教では、現世は脱却すべき場所であり、脱却のための修行の場所となる。
ギリシャの哲学には、神話的世界観とインド的な宗教思想と共通する点がある。その代表的な存在であるプラトンは、人間を死すべきものととらえ、その生命的な時間から超出して、永遠に至ることを目標とした。プラトンは、インド思想に通じる輪廻転生を教義とするピタゴラス教団の影響を受けていた。時間的な現実世界のもとに、非時間的なイデアの世界があると仮定し、真理を究めることで、イデア界に至ろうとした。プラトンの哲学は、キリスト教やイスラーム教に影響を与え、それらの教義の整備に活用された。キリスト教やイスラーム教は、プラトンの哲学から輪廻転生説を除き、古代ギリシャの多神教的な背景を捨てて、一神教の論理に取り込んだ。
古代の世界で、特異な時間論を説いたのが、ユダヤ教である。その時間論が直線的かつ一回的な時間論である。ユダヤ教は、直線的に時間が進行する歴史の中で、世の終わりを想定し、終末における救済を求める。ここに、歴史に意味を見出し、将来に目標を置く宗教が出現した。キリスト教は、そうしたユダヤ教の直線的・一回的かつ終末論的な時間論を継承している。イスラーム教も同様である。
人類の歴史において、直線的かつ一回的な時間論の登場は、画期的なことだった。この世界には終わりがあるという考え方は、インドにもギリシャ等にもある。ユダヤ教の終末論が独特なのは、世の終わりに救世主が出現し、最後の審判が行われ、救われて永遠の生命を与えられる者と、永遠の死に置かれる者とに分けられるとしたことである。この思想によって、前進的・進行的な歴史に意味がもたらされた。キリスト教は、この救世主がイエスだとし、最後の審判が近づいていると説く。その教えによって、キリスト教は、時間の進行を肯定し、それにともなう文化の進歩を肯定し、向かっていく先に救済の時が来るというビジョンを与えた。最後の審判の後に、地上に「神の国」は実現するとする。地上天国の実現である。こうした思想によって、人類の歴史に意味を見出し、救世主の到来を現実的な将来に起ることとして予言したところに、キリスト教の世界史的な重要性がある。
近代西洋文明が世界に広がるとともに、キリスト教が初大陸に伝道された。キリスト教は、神話的世界観や円環的かつ反復的な時間論に基づく世界観を持って生きる人々に、直線的かつ一回的な時間論に基づく世界観を浸透させてきた。歴史の肯定は、科学による進歩を無批判に信奉する考えを生み出し、地球の自然を破壊・汚染する結果を生んでいる。
キリスト教では、終末においてキリスト教が世界に広まり、教会が完成することを終末的完成という。キリスト教の人類に対する責任は、キリスト教が終末的完成に至り、自らこの世界史を終結させるか、それともキリスト教を超えたものに融合して発展的解消し、それによって新しい世界が始まることに協力するか。そのどちらかにある。――終末的完成か、発展的解消か。それが、21世紀のキリスト教の最大のテーマであると私は考えている。それが本稿の題名の意味するところである。
次回に続く。