ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

キリスト教28~終末論と直線的・一回的な時間論

2018-03-31 08:53:21 | 心と宗教
●終末論と直線的・一回的な時間論

 キリスト教の終末論は、直線的・一回的な時間論に基づくものである。その点について書いておきたい。
 宗教は、それぞれ人間観・実在観と結びついた世界観を持つ。世界観を構成する要素の一つに、時間論がある。時間は、空間と結びつけられて、時空または時空間と呼ばれる。また時間は、生命と切り離すことができず、生きられる時間ととらえられる。前者は宗教の世界観、後者は宗教の人間観に関係する。人間が生活する時空間において、人類にとって生きられる時間を、宗教はどうとらえているか。また、その中でキリスト教の特徴は何か。
 古代に現れた宗教には、神話がもとにある。宗教の時間論もまた神話の世界観に根差している。神話の物語は、世界と人間の始まりの記憶を呼び覚ます。神話に基づく祭儀は、始源への回帰を象徴的に体験するものとなっている。宗教学者ミルチャ・エリアーデは、それを「永劫回帰の神話」と呼んだ。人間は宇宙の本源から離れ、非本来的な状態にある。すべてのものは差別化されている。人間は時間的・空間的に限定されている。こうした日常の世界を否定し、始源のカオス、無差別、未分化の状態に戻ろうとする。このために行われる行為が、祭儀である。祭儀を通じて、人間は始源への回帰を象徴的に体験する。その体験を経て、日常の世界を意味づけ直し、人生を意味づけ直す。
 始源への回帰は、死と復活の体験でもある。祭儀を通じて、集団が死に、始源に回帰し、新たな生命を受けて、再生する。世界もまたいったん終焉し、新たな意味を持って再現する。
こうした死と再生が起こる特別の場所が、中心である。中心は、円の中心、4またはその倍数の要素が交差する点である。始源への回帰とは、中心への回帰であり、中心において死に復活するものである。この点については、十字架の項目で詳しく述べる。
 古代の世界で、神話に基づいて様々な宗教が発達した。それらの宗教の時間論には、大きく分けると、円環的かつ反復的な時間論と直線的かつ一回的な時間論がある。円環的かつ反復的な時間論は、神話に始まり、ヒンドゥー教、仏教、神道、儒教、道教等に見られる。直線的かつ一回的な時間論は、ユダヤ教に始まり、キリスト教、イスラーム教等に見られる。
 円環的かつ反復的な時間論を持つ宗教のうち、ヒンドゥー教、仏教は、魂の輪廻転生の思想を持つ。生は一回のみのものではなく、何度も繰り返される。また人間的な生だけでなく、動植物等の生を生きることもある。ヒンドゥー教では、宇宙は創造と維持と破壊を繰り返す。宇宙は一回だけのものではない。生命あるものは、死と再生を限りなく繰り返す。その輪廻転生からの脱却を主題とする。時間からの脱却であり、永遠または静止への移行である。仏教は基本的にこの思想を受け継いでおり、それを理論的に発展させた。解脱、涅槃がその目標である。こうした宗教では、現世は脱却すべき場所であり、脱却のための修行の場所となる。
 ギリシャの哲学には、神話的世界観とインド的な宗教思想と共通する点がある。その代表的な存在であるプラトンは、人間を死すべきものととらえ、その生命的な時間から超出して、永遠に至ることを目標とした。プラトンは、インド思想に通じる輪廻転生を教義とするピタゴラス教団の影響を受けていた。時間的な現実世界のもとに、非時間的なイデアの世界があると仮定し、真理を究めることで、イデア界に至ろうとした。プラトンの哲学は、キリスト教やイスラーム教に影響を与え、それらの教義の整備に活用された。キリスト教やイスラーム教は、プラトンの哲学から輪廻転生説を除き、古代ギリシャの多神教的な背景を捨てて、一神教の論理に取り込んだ。
 古代の世界で、特異な時間論を説いたのが、ユダヤ教である。その時間論が直線的かつ一回的な時間論である。ユダヤ教は、直線的に時間が進行する歴史の中で、世の終わりを想定し、終末における救済を求める。ここに、歴史に意味を見出し、将来に目標を置く宗教が出現した。キリスト教は、そうしたユダヤ教の直線的・一回的かつ終末論的な時間論を継承している。イスラーム教も同様である。
 人類の歴史において、直線的かつ一回的な時間論の登場は、画期的なことだった。この世界には終わりがあるという考え方は、インドにもギリシャ等にもある。ユダヤ教の終末論が独特なのは、世の終わりに救世主が出現し、最後の審判が行われ、救われて永遠の生命を与えられる者と、永遠の死に置かれる者とに分けられるとしたことである。この思想によって、前進的・進行的な歴史に意味がもたらされた。キリスト教は、この救世主がイエスだとし、最後の審判が近づいていると説く。その教えによって、キリスト教は、時間の進行を肯定し、それにともなう文化の進歩を肯定し、向かっていく先に救済の時が来るというビジョンを与えた。最後の審判の後に、地上に「神の国」は実現するとする。地上天国の実現である。こうした思想によって、人類の歴史に意味を見出し、救世主の到来を現実的な将来に起ることとして予言したところに、キリスト教の世界史的な重要性がある。
 近代西洋文明が世界に広がるとともに、キリスト教が初大陸に伝道された。キリスト教は、神話的世界観や円環的かつ反復的な時間論に基づく世界観を持って生きる人々に、直線的かつ一回的な時間論に基づく世界観を浸透させてきた。歴史の肯定は、科学による進歩を無批判に信奉する考えを生み出し、地球の自然を破壊・汚染する結果を生んでいる。
 キリスト教では、終末においてキリスト教が世界に広まり、教会が完成することを終末的完成という。キリスト教の人類に対する責任は、キリスト教が終末的完成に至り、自らこの世界史を終結させるか、それともキリスト教を超えたものに融合して発展的解消し、それによって新しい世界が始まることに協力するか。そのどちらかにある。――終末的完成か、発展的解消か。それが、21世紀のキリスト教の最大のテーマであると私は考えている。それが本稿の題名の意味するところである。

 次回に続く。

キリスト教27~イエスは再臨するか

2018-03-29 08:52:47 | 心と宗教
●最後の審判

 キリスト教では、神の意思に反することが罪である。これはユダヤ教から継承した考え方である。ユダヤ教における罪とは、具体的には、十戒を代表とする律法に定められた命令への違反である。特に重罪とされるのが、偶像礼拝、姦淫、殺人、中傷の四つである。
 ユダヤ教は、人間は罪を犯しやすい弱い存在であるとする。憐れみ深い神は、悔い改めたならば、罪人を必ず許してくれる。しかし、正義の実現を目ざす神は、各人の責任を死後にも追及する。そこで、この世の終りに、神はメシアを派遣して神の王国の建設を準備させる。その後に新しい世界が始まると、すべての死者はよみがえり、生前の行為に応じて最後の審判を受ける。その結果、罪人は永遠の滅びに落とされ、義人は永遠の生命を受ける。義人とは、罪なき人である。新しい世界は死後の来世としての天国ではなく、地上に建設される神の王国である。義人は霊界ではなく、現世において永遠の生命を与えられる。単なる心霊的存在ではなく同時に身体的存在として、地上に永遠に生きると考えられている。
 キリスト教は、基本的にユダヤ教の罪と最後の審判の考え方を継承している。キリスト教でも、ユダヤ教と同じく、魂が来世に行く一方、肉体は墓の中で腐敗する。来世での死後の状態は一時的なものとされる。人間はいつか、神の恵みによって、再び肉体を与えられて復活する。復活は、深い眠りからの目覚めのようなものと考えられている。そして天国に行った者も、地獄に行った者も、世の終わりによみがえらせられ、最後の審判を受ける。その結果、はじめて永遠の生命を与えられるかどうかが決まる。個人の死の時の裁きが個人個人の私審判であるのに対し、最後の審判は世の終わりにおける人類全体の公審判である。それによって、永遠の生命を与えられる者と永遠の死に置かれる者に分けられるとする。死後は、二つの段階を持っているわけである。
 ユダヤ教との最大の違いは、世の終わりに来る救世主はイエスであり、再臨するイエスが最後の審判を行うとする点である。イエス・キリストによって救いに選ばれた者は、あらためて永遠の生命を与えられる。選ばれなかった者は、永遠の死に置かれる。死後私審判で天国に行った者が必ずしも、最後の審判で永遠の生命を与えられるとは限らない。永遠の死に置かれる可能性はある。
 紀元30年ごろにイエスが起こした奇跡は、すでに時が来て「神の国」が到来したことのしるしとされる。しかし、神の国はまだ完全ではない。イエスが開いた教会の完成によって、神の国が完成する。その時は、世の終わりにおいてである。この神の国の完成が天国の実現とされる。それゆえ、完成された神の国は、地上に実現する天国すなわち地上天国である。
 個々の魂が死後ただちに行く霊界の天国は一時的なものであり、世の終わりに肉体を持って復活し、永遠の生命を与えられた者が暮らす地上天国こそ永遠だということになる。最終目標は霊界の天国ではなく、地上の天国である。死後行く霊界の天国よりも、将来の地上天国の方が理想的な場所とされている。
 こうした考え方は、救済の時を現在ではなく、将来に置くものである。死ねば天国に行けると説く一方、世の終わりに最後の審判があり、永遠の生命を得るか、永遠の死に置かれるかが決まるとし、真の救済を未来に置いている。これは、現世においては救われないが、来世において、または将来においては救われるという教えである。

●イエスは再臨するか

 イエスは、人々に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ書1章15節)と説き、世の終わり、最後の審判の時が迫っているので、悔い改めるよう勧めた。だが、イエスはわずか2年ほどの伝道活動の後に、磔刑に処された。彼の復活を信じる使徒たちは、世の終わりにイエス・キリストが再び地上に来て、神とともに全人類を裁く最後の審判を行うという教えを広げた。
 世の終わりには、前兆が現れる。戦争や飢饉、地震、迫害などであり、偽キリスト、偽預言者が横行して人々を惑わせるという。そのあとで本物のキリストが雲に乗って来臨し、彼を信じてその教えを実践した者を救い、そうしなかった者を滅ぼすという。福音書は、イエスが世の終わるに再び自分が来ると言ったと伝えている。肉体を持ったイエスが救世主として帰ってくるというのである。
 例えば、『マタイによる福音書』には、次のように記されている。「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」(マタイ書24章30節)。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(マタイ書24章36節~39節)
 イエスの教えに目覚めたパウロは、紀元後1世紀半ば、イエス・キリストが間もなく再臨し、最後の審判が行われ、神の国が実現すると信じた。極めて切迫した将来の認識である。一刻も早く悔い改めなければならない。悔い改める前に最後の審判が行われたら、取り返しがつかない。即刻悔い改め、他人も悔い改めさせなければならない。そういう切迫感、使命感がパウロを突き動かしていたと思われる。パウロは火事場のたとえを用いる。今は火事場にあるようなものである。火事場では必死になって、逃げ道を探さねばならない。他のことをしたり、考えたりしている場合ではない。このような非常事態の認識に立てば、現世的な欲望は妨げでしかない。こうした切迫感、使命感がキリスト教的な禁欲のもとにある。
 パウロは、熱心にキリスト教の伝道をしたが、迫害に遭って紀元62~64年の間に殉教した。彼の時代には、「世の終わり」は到来しなかった。以後、何度も「世の終わり」の到来が説かれつつ、2000年近くの時間が過ぎている。世代にすれば、60世代以上の人間が生き、死んで来た。第1次世界大戦においては、人類史上初めての世界規模の戦争がヨーロッパを中心に4年も続いた。キリスト教徒同士が数百万人も殺し合った。イエス・キリストの再臨を熱望するキリスト教徒もいたが、イエスは現れなかった。「神の沈黙」は、キリスト教徒に失望や疑念をもたらした。さらに、再びヨーロッパから第2次世界大戦が起こった。大戦の最後には、核爆弾が使用された。だが、イエスは再臨していない。
 キリスト教は、今日もキリストの再臨と最後の審判の教えを説いている。そして、最後の審判で救われるための条件は、イエス・キリストを信じることであり、イエス・キリストを信じさえすれば救われると説いている。
 イエスが実際に何を語ったかは、確かめることができない。福音書は弟子たちが書いた記録であって、イエスが自ら書いたものではない。当然、録音も録画もない。福音書がイエスの言行を正確に記録しているかどうかを確かめることはできない。
 キリスト教は、それを信じない者にとっては、荒唐無稽なことを説く宗教である。キリスト教の荒唐無稽な教義の中でも、イエス自身の再臨はひときわ信じがたい教えである。いったいイエスは、キリスト教徒の多くが信じているように、最後の審判を行うために再臨するのか。それともイエスの再臨は、使徒や信徒が作り上げた荒唐無稽な話の一環なのか。21世紀の人類は、その答えを待っている。
 私見によれば、イエスの出現の時点では、まだ時が来ていなかったので、彼の犠牲によって神と人間が結びついたとはいえない。ただ将来、救われる時が来ると予言したのみである。それが、長い歴史の果てに、時来たって、ユダヤ=キリスト教では原罪ととらえられた悪因縁を消滅することが、初めて可能になっている。その証は産みの苦しみを伴う出産ではなく、自然分娩による無痛安産が実現していること。また、死後硬直なく、体温冷めず、死臭・死斑のない大安楽往生が実現していることなどによって、確認することができる。
 それゆえ、イエスが語ったことの真意は、イエス自身ではない真の救世主が将来現れることを予言したものだったと考えることができる。そのように考える方が、合理的である。またキリスト教徒以外にも広く受け入れられ、人類に希望を与えるだろう。

 次回に続く。

宗教12~宗教的な救済

2018-03-28 08:41:22 | 心と宗教
●宗教的な救済
 
 宗教的な体験において、体験者にとって重要な意味を持つのは、それが救済と感じられる場合である。宗教的救済にもまた様々なものがある。その主なものを記す。

・精神的な救済
 心を救われるもの。現実は変わらないが、心のあり方や感じ方が変わる。心の支えや慰め、安心、勇気、喜び、解放感等が得られる。単なる気休めという程度のものもあるが、ストレスが減少することは、精神的な余裕をもたらす。さらにストレスに対する耐性が強まれば、人生の諸問題に冷静に、タフに対応できるようになる。また、無益なもの、無意味なもの、あるいは有害なものへのとらわれが取れると、考え方が柔軟になる。思考や感情が転換されるならば、行動が変化したり、逆境を乗り越えたり、ピンチをチャンスに転じることができるといった場合がある。
 宗教的な信仰を通じて、性格的な欠点が直ったり、学業・職業等の能力が伸長したり、天分を発揮できるようになる体験もある。
 さらに、生きていることの意味を肯定し、生きがいを感じたり、世界の有意味性を実感したりする。それによって、人格の成長や向上を体験する者もいる。

・身体的な救済
 病気や健康上の問題を救われるもの。多くの場合は、医療や訓練を受けながら、心の持ち方を明るく、前向きにすることで、免疫力が高まったり、病気や障害に負けない意志力を発揮できるようになる。
 顕著な場合には、現代医学では原因不明の病気や、有効な治療法のない病気が治癒した体験例が多く報告されている。治癒の原因は、本人の意志の力によるものと、信仰を通じた他者の助力によるものがある。後者は、宗教独自の救済の典型の一つである。

・家族的な救済
 家族関係の悩みが好転または解決されるもの。夫婦、親子、兄弟、親族等の間の対立・抗争が収まる。家族間に調和が生まれ、家庭が円満になる。
 子供が授かりにくい家系に子供が授かったり、生まれる子供に心身の問題がありがちな家系に健康な子供が生まれたりする。身体的な救済とも関係するが、難産の傾向のある女性が安産できる場合もある。

・社会的な救済
 人間関係の問題を救われるもの。学校・職場・地域等で周囲の人々との間で起こる摩擦・軋轢が収まる。周辺に調和が生まれ、集団の意志疎通が改善される。

・運命的な救済
 精神的、身体的、家族的、社会的な諸問題がいくつも重なり合っている場合、人はそれを自分の運命として受け止めたり、宿命と悲観したりする。そして、それを超越的なものの意思やそれによる定めと考えたり、自分の輪廻転生における過去世の行為の結果と推測したり、先祖から受け継いだ悪い原因の結果等と考える。
 宗教的な信仰がこうした諸問題に解決をもたらすとき、これを運命的な救済と呼ぶことができる。不運を幸運に、不幸を幸福に転じる。個人や家系における悪いパターンを断ち切る。宿命を転換して、運命を好転させる。こうしたことを実現する運命的な救済は、宗教的な救済の典型の一つである。

・死後的な救済
 人生最後に迎える死からの救いは、宗教の最大の課題である。死に意味を見出し、死の恐怖や苦痛を除き、死後について安心を与えることは、宗教の大きな役割である。この点については、拙稿「宗教、そして神とは何か」の「7.生と死の問題」、「8.大安楽往生と魂の救い」に書いたので、そちらを参照のこと。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11d.htm

・民族的・国家的な救済
 戦争、他の民族や国家による迫害や支配、大規模な災害等から、人民を救うことは、宗教に期待される救済の一つである。

・世界的・人類的な救済
 世界平和の実現、人類全体の幸福の実現は、宗教的な救済の究極のものである。

次回に続く。

自民党が9条を含む改憲4項目の草案を提示

2018-03-26 12:42:41 | 憲法
 自民党は3月25日党大会を開催。安倍晋三首相兼総裁は、演説で憲法改正について、大意次のように述べたと報じられます。

 「私は防衛大学校の卒業式に出席した。陸海空の真新しい制服に身を包んで、任官したばかりの若い自衛官たちから『ことに臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託に応える』と重い宣誓を最高指揮官、首相として受けた。
 彼らは国民を守るために命を懸ける。しかし、残念ながらいまだに多くの憲法学者は彼らを憲法違反だと言う。ほとんどの教科書にはその記述があり、自衛官の子供たちもこの教科書で学ばなければならない。
 このままでいいのか。憲法にしっかりとわが国の独立を守り、平和を守り、国と国民を守る。そして自衛隊を明記し、違憲論争に終止符を打とうではないか。これこそが今を生きる政治家、自民党の責務だ」と。

 続いて、二階俊博幹事長は、党憲法改正推進本部が9条を含む「改憲4項目」の「条文イメージ・たたき台素案」をまとめたことを説明。「衆参の憲法審査会で議論を深め、各党の意見も踏まえ、憲法改正原案を策定し、憲法改正の発議を目指す」と明言しました。
 同党は、本大会で平成30年度運動方針案を採択。運動方針は、最初の項目に改憲を掲げて「改憲の実現を目指す」とうたい、「憲法審査会での幅広い合意形成を図るとともに、改正賛同者の拡大運動を推進する」と記したとのことです。

●「改憲4項目」条文素案

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【9条改正】
第9条
 ※現行のまま

第9条の2
 前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
2 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。

【緊急事態条項】
第73条の2
 大地震その他の異常かつ大規模な災害により、国会による法律の制定を待ついとまがないと認める特別の事情があるときは、内閣は、法律で定めるところにより、国民の生命、身体及び財産を保護するため、政令を制定することができる。
2 内閣は、前項の政令を制定したときは、法律で定めるところにより、速やかに国会の承認を求めなければならない。
(※内閣の事務を定める第73条の次に追加)

第64条の2
 大地震その他の異常かつ大規模な災害により、衆議院議員の総選挙又は参議院議員の通常選挙の適正な実施が困難であると認めるときは、国会は、法律で定めるところにより、各議院の出席議員の3分の2以上の多数で、その任期の特例を定めることができる。
(※国会の章の末尾に特例規定として追加)

【参院選「合区」解消】
第47条
 両議院の議員の選挙について、選挙区を設けるときは、人口を基本とし、行政区画、地域的な一体性、地勢等を総合的に勘案して、選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定めるものとする。参議院議員の全部又は一部の選挙について、広域の地方公共団体のそれぞれの区域を選挙区とする場合には、改選ごとに各選挙区において少なくとも1人を選挙すべきものとすることができる。
2 前項に定めるもののほか、選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。

第92条
 地方公共団体は、基礎的な地方公共団体及びこれを包括する広域の地方公共団体とすることを基本とし、その種類並びに組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める。

【教育の充実】
第26条
(1、2は現行のまま)
3 国は、教育が国民一人一人の人格の完成を目指し、その幸福の追求に欠くことのできないものであり、かつ、国の未来を切り拓く上で極めて重要な役割を担うものであることに鑑み、各個人の経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保することを含め、教育環境の整備に努めなければならない。

第89条
 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の監督が及ばない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
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 与党の公明党をはじめ、保守系の野党である日本維新の会、希望の党の一部等の国会議員は、自民党の提案を真摯に受け止め、国家国民のために積極的かつ建設的な議論をしてほしいものです。

キリスト教26~地獄・煉獄

2018-03-26 12:03:01 | 心と宗教
●地獄

 ユダヤ教では、天国とともに地獄もまた明確な場所の概念ではない。地獄とは、神から離反している状態と考えられる。この点は、キリスト教でも基本的に同様である。しかし、天国と同様に地獄もまた人が死後行くかもしれない実在する世界または領域と考えられている。ただし、聖書のどこにも、地獄の空間的・場所的な位置について記していない。天国と同様である。
 新約聖書は、次のように地獄を描いている。「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ書3章41~42節)。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。」(同書25章41節)。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。」(マルコ書9章48~49節)と。
 地獄における火のイメージは、ユダヤ教はもちろん、仏教にもイスラーム教にも共通している。身体が火で焼かれるというのに、蛆が出るのはおかしい感じがするが、蛆がわくということは、遺体の腐敗を示している。その腐敗する身体が火で焼かれるということだろう。
上記のように描かれるキリスト教の地獄は、神から分離した状態であり、神の恩寵から見放された状態である。キリスト教では、地獄は永遠の責め苦を受ける場所である。いったん地獄に堕ちたら、二度と帰ることはできない。地獄に堕ちるということは、絶対に許されない刑に服すことである。
 イスラーム教でも、地獄は永遠の責め苦を受ける場所である。ただし、永遠の地獄に送られるのは、イスラーム教徒以外である。アッラー以外の神を信じることは最大の罪とされ、永遠の地獄に送られる。イスラーム教徒については、現世で大きな罪を犯した者は、最後の審判を受けて地獄に落とされる。ただし、いったんは地獄に落とされるけれども、アッラー以外の神を拝まない限り、最終的にはアッラーが許して天国へ入れてくれることになっている。イスラーム教徒である限り、最後はみな天国に行く。そこで家族みなで暮らせるというわけである。これに比べ、キリスト教の刑罰は、このうえなく厳しい。イエス・キリストはすべての人を救う救済者ではなく、最後の審判で一部の者には永遠の生命を与えるが、残りの者には永遠の地獄に送る厳格な審判者である。
 仏教の場合は、地獄を一定期間の贖罪の場と考えている。もっとも一番短い刑期は、1兆6200億年である。気の遠くなるような時間だが、有限であって無限ではないのが特徴である。

●煉獄

 キリスト教の地獄は、永遠の責め苦を受ける場所である。だが、ローマ・カトリック教会は、中世に煉獄という場所を考え出した。煉獄の原語は、ラテン語で「プルガトリウム(purgatorium)」という。「浄化の手段」「浄化の場所」という意味である。浄罪界とも訳す。
 大多数の人間は、死後ただちに天国に入れるほど完全ではない。だが、地獄に堕ちるほど極悪非道でもない。そこで、設けられたのが、煉獄である。この世において、それほど重大ではないが、小さな罪をいくつか犯し、その罪の償いを果たさないままに死んだ者の魂は、そのまま天国に入ることはできない。その罪の償いを果たさねばならない。それまでの間、霊魂が苦しみを受ける場所が、煉獄である。煉獄において、魂は業火によって罪の浄化を受ける。罪が浄化され、天国に入れるだけの完全さを備えたならば、天国に入ることができるようになるというわけである。
 ローマ・カトリック教会は、煉獄を正式の教義にした。東方正教会は、煉獄における浄化いよる救いの思想を認めているが、正式の教義にまではしていない。一方、プロテスタントは、煉獄を認めていない。聖書のどこにも記述がないからである。
 キリスト教の地獄は、永遠の死であるから、いわば絶対に償いに終わりのない無期懲役である。これに対し、煉獄は有期刑の償いの場所である。それゆえ、煉獄は、同じく有期刑である仏教の地獄に対比されるべきものである。

●死者への祈り

 キリスト教は、祖先崇拝・自然崇拝を否定し、自らが仰ぐ超越神以外の人間神・自然神・宇宙神をすべて偶像として排斥する。
 ローマ帝国で392年にキリスト教が国境になる前、古代ギリシャ・ローマの民は、祖先の霊魂を崇拝し、家制度をその信仰の上に築いていた。しかし、キリスト教は祖先崇拝を偶像崇拝として排斥した。
 祖先崇拝には、祖先を神または力のある霊と仰ぎ、祖先に感謝するとともに、祖先に対して子孫を加護してくれるように願うという面と、子孫が他の神や霊に祈って祖先の霊の苦しみを救うとか霊を慰める儀礼を行うという面がある。
 キリスト教の教えによれば、祖先に対する加護の祈念は、偶像崇拝になるはずである。だが、ローマ・カトリック教会では、死者のために祈り、死者のためにミサを捧げる習慣がある。信者は煉獄にいる家族・親族、友人のために祈り、助けることを勧められている。ミサにも煉獄にいる霊を援ける働きがあると説いている。また亡くなった家族・親族の遺影を飾って、しばしばその人のために祈る。逆に、亡くなった家族・親族や友人の霊に支援を願う祈りも行っている。また、信者が人生の途上でさまざまな試練に遭遇するとき、神のもとに召された近親者や友人の霊が、とりなしの祈りをしてくれることを信じている。こうした実践は、わが国の神道や仏教における祖先崇拝に通じるものがある。カトリック教会と違ってプロテスタントでは、亡くなった霊に加護を祈ることはしない。煉獄の存在を認めず、亡くなった霊は神に任せ、信者が祈ることはしないという態度を取る。
 人類社会の多くには、死者が霊界で救われていない場合、遺族や子孫等に頼って憑くという現象が見られる。仏教では、これを成仏できていない霊とみなし、読経をして供養を行う。新約聖書に、イエスが人々から悪霊を追い出し、悪霊が豚に移って海に飛び込むという記述がある。キリスト教では、降霊や憑霊等の霊的現象は悪霊の仕業と見られ、エクソシズム(悪魔祓い)の対象とされる。仮に祖先の霊が救いを求めて子孫に訴えてきても、これを追い払おうとするならば、霊を憤らせ、災いを招く恐れがあるだろう。

 次回に続く。

宗教11~祈りの効果は確認されている

2018-03-25 08:48:04 | 心と宗教
●祈りの効果は確認されている

 宗教的な体験において、科学的にその効果が確認されているものが、祈りである。
人の思いは、他の人や物に影響を与えることが可能である。祈ることによって、実際に影響を与えることが起こりうるということである。
 祈りについては、既に多数の実験が行われており、アメリカでは、厳密な実験環境の下で行われ、正統な科学の基準を十分満たした百を超える実験のうち、実に半数以上で、祈りが様々な生物に多大な影響をもたらすという結果が出ている。
 祈りにはある程度の治癒効果があることを示すことに成功したのは、元カリフォルニア大学の心臓学の権威ランドルフ・ビルド教授である。ビルド教授は、心臓治療ユニットに入院した393人の患者に対し、次のような実験を行った。患者を、祈りを受けるグループ(192人)と、祈りを受けないグループ(201人)とに、振り分けて行われた。患者の振り分けはコンピューターで無作為に行われ、患者、看護婦、医師はどのグループにどの患者が入るかは知らされない。いわゆる二重盲検法という厳密な実験方法が採られた。
 ビルド教授は、患者のために祈る人たちとして、アメリカ全土のローマ・カトリックとプロテスタント教会から募集して、患者の名前と病状を教え、毎日その人たちのために祈るように依頼した。しかし、祈り方についてはなんの指示も与えなかった。祈る人は患者一人につき、5人から7人という割合だった。
 その結果は、大きな反響を呼んだ。祈りを受けた患者のグループ(A群)は、祈りを受けなかったグループ(B群)とは驚くほど異なる結果を示したからである。

1.抗生物質を必要とした人は、A群はB群に比べて5分の1。
2.心臓疾患の結果、肺気腫になった人は、A群はB群に比べて3分の1。
 (6人に対して18人)
3.喉に人口気道を確保する気管内挿管を必要とする人は、A群ではゼロ。
  B群では12人が人口気道を必要とした。
4.死亡した人は、A群では少なかった

 この実験は、祈りには効果があることを示した。ある人の祈りが、遠くいる人の健康状態に影響を及ぼすことができること、しかも何百マイルあるいは何千マイルも離れていても、距離的なへだたりは障害にはならないことも明らかになった。
 こうした祈りの実験は、人間を対象としたものだけでなく、マウス、ひよこ、酵素類、菌類、酵母菌、バクテリア、その他様々な種類の細胞などにまでわたっている。
 中でも、オレゴン州セーラムにある研究機関スピンドリフトが行った実験が広く知られている。スピンドリフトでは、さまざまな祈りの効果を客観的に評価するという試みが、十年以上にもわたって行われた。例えば、ライ麦の種子をそれぞれ同数の二つのグループに分ける。それらを、植木屋が使う軽土、バーミキュライトを満たした浅い容器に入れる。その容器の真ん中には紐を張り、種子を二つに分けます。そして一方の側の種子についてのみ、発芽をするように祈る。もう一方の側の種子については、祈らないようにする。
 こうして、ライ麦の種子が育ってくると、発芽した数を数える。すると、何度実験しても、祈りをした側の種子の方が、祈らなかった側よりも、はるかに多く発芽したのである。この実験は、多くの人によって何度も繰り返し確認されている。
 この実験は、祈りという人間の思考が、人間や人間以外の生命体に対して影響をもたらすことを、明らかにしている実験の一つである。しかも、この影響は、測定可能であり、また再現可能である。
 筑波大学名誉教授・村上和雄氏は、最近の祈りに関する実験の結果を報告している。村上氏は国際的な分子生物学者であり、1983年、世界に先駆けてヒト・レニン遺伝子の解読に成功したことで知られる。村上氏は平成30年1月11日付の産経新聞に寄せた記事には、次のようなことを書いている。
 すべての生き物は、生命活動に必要な遺伝情報を、DNAの塩基配列として暗号化している。また、時間や環境の変化に応じて必要な遺伝情報を取り出す仕組みとして、遺伝子の発現をスイッチのようにオン・オフしながら調節している。「オン」とは遺伝子の発現が活性化している状態、「オフ」とは遺伝子の発現が弱まる、あるいは停止した状態である。個々の状態もオン・オフに影響する要因の一つである。
 村上氏らは、宗教的な祈りや瞑想を研究対象にしている。祈りや瞑想は単なるリラクセーションや集中力アップの手段ではなく、大自然と調和した一体感や神仏との合一体験などの意識状態の変性を伴うものであり、そこに「祈りや瞑想」の本質があると考えたからだという。
 村上氏らは、まず、祈りや瞑想が身心にどのような影響を及ぼしているかを調べるため、高野山真言宗僧侶における遺伝子発現の活性化の検討を行った。その結果、僧侶のグループには、「僧侶型オン遺伝子」が見出された。その遺伝子はいずれもI型インターフェロン関連遺伝子だった。I型インターフェロンは、ウイルスの増殖を抑えたり、感染した細胞を除去したりすることによって、ウイルスから身体を守っているタンパク質である。僧侶のグループにI型インターフェロン関連遺伝子が見出されたことは、僧侶になるための修行か、あるいは日常の行において獲得・維持された資質であり、また僧侶では自然免疫系が全体に活性化していると考えられる。
 また、村上氏によると、僧侶のグループは他人の感情や行動に対する共感の度合いが高かった。これは、僧侶の心理的な感受性の強さの表れといえる。また、共感性と僧侶型遺伝子に一定の関連が見いだされた。ここから、共感という心理的な感受性と、自然免疫機能という身体的な感受性に共通の基盤があることが推測される。村上氏は、瞑想や祈りによって共感性や慈悲の心を育むことが、免疫機能の強化につながったのではないかと考えている。日々の生活の中で行じられた祈りや瞑想が、ある心理状態を作り、その状態が積み重なることで、遺伝子を介して体に影響を及ぼしたのではないかと推察されるというのである。
 私見を述べるならば、この実験結果とそれに基づく推察は、仏教の一宗派に限らず、広く宗教の修行者にも見出される可能性がある。また、出家者や専従者に限らず、祈りや瞑想を日常的に実践している一般人においても、同様の傾向が見出される可能性も想定できる。優れた祈りや瞑想の方法があれば、より効果的なものとなるだろう。特に祈りの対象に、強い治癒力や感化力があれば、実践の効果が明確に実証されるだろう。祈りの際に唱える言葉の効果の違いも明らかになるだろう。今後、さらなる研究が進むことを期待したい。

 次回に続く。

■追記
 本項を含む私の宗教論は、紙製の拙著『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)をお読み下さい。
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

哲学とその周辺に関する論考集

2018-03-24 10:22:53 | 心と宗教
 マイサイトの自己紹介文に書いていますが、私は10代の末期から20代のはじめにかけて哲学を独学したことが、自分の知的活動の基礎になったと思っています。私が日本精神や精神科学の実践究明の道を歩むうえで、役に立っていると感じます。種々の拙稿では、しばしば哲学やその周辺に関することを書いており、このたびそうした論考を抜粋してマイサイトに揚げました。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11f.htm

キリスト教25~天国

2018-03-24 09:28:03 | 心と宗教
●天国

 ユダヤ教は、現世志向が強く、来世についてあまり具体的に説いていない。死後の世界は、明示されていない。死の観念はあるが、現世とは別に存在する死後の世界という考え方がない。死後、別の世界に移り、その来世で報われるという考えがないのである。
 ユダヤ教の聖書には、天国という明確な概念がない。天国が空間的・場所的にどこにあるかは、具体的に記されていない。ユダヤ教では、天国は「国」「領域」というよりは、「神の支配」を意味する。神が統治者としてこの地上に君臨すること、あるいは神の意思を地上に実現することが、天国にほかならない。来世の天国ではなく、地上天国である。霊的な次元ではなく、また地球外の場所でもない。
 その一方、将来、メシアが出現し、最後の審判が行われ、その結果、永遠の生命を得られる者と永遠の死に置かれる者とに分けられることが強調される。それゆえ、ユダヤ教では、人は死んだ後、メシアの到来と最後の審判までの間、一種の休眠状態または停止状態に入ると理解される。メシアの到来で開かれる新しい世界も、地上に建設される神の王国であって、多くの宗教で死後の世界とされる霊界とは異なる。それゆえ、ユダヤ教の死生観にみられるのは、強い現世志向である。この世での人生を何よりも大切に考えて生き、その一回限りの人生の結果として将来、最後の審判で地上において永遠の生命を得ることを目標にするのが、ユダヤ教徒の生き方と理解される。
 これに対し、これに対しキリスト教では、死後の天国の存在が強調され、人は死んだ後、天国に入ることができるとされる。天国が空間的・場所的にどこにあるかは、具体的に記されていないが、人が死後行くことのできる実在する世界または領域と考えられている。
 キリスト教では、人間は死後、神の裁きを受けて、魂はただちに天国へ行くか、地獄へ行くとする。天国については、福音書では『マタイによる福音書』のみ、「天の国」という呼称を使っている。マタイ書は「神の国」も併用している。他の三書は「天の国」ではなく「神の国」を使っている。
マタイ福音書が「天の国」を併用しているのは、ユダヤ人の慣習を重んじてそうと呼んだものである。ユダヤ教で「天国」とは、「国」や「領域」というより、神の支配を意味する。神が地上を統治し君臨する状態、または神の意志が地上に実現された状態が、天国にほかならない。それゆえ、キリスト教でいう天国は、むしろ「神の国」と呼んだ方が良い。
 イエスは、次のように説いたと、『ヨハネによる福音書』に記されている。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ書11章25~26節)と。
 ここでイエスのいう死とはどういう状態か、また死んでも生きるとはどういう状態か、いくつかの解釈が可能である。妥当なのは、死後、地獄に行くのが死、天国に行くのが死後の生だろう。
イエスは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マルコ書10章25節)と説いた。これは、この世の富は天国に行く妨げになると教えである。この教えに忠実であろうとすると、清貧の生活を送らねばならない。また、徹底した来世志向の生き方をよしとすることになる。キリスト教は来世志向の宗教である。『ヨハネの手紙一』は、次のように書いている。「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(ヨハネ手紙一2章15~17節)。こうした生き方を真に実行しようとすれば、世界の終わりを信じて伝道に身を捧げるか、世を捨てて隠遁生活をするか、修道院に入って一生を修業に捧げるしかないだろう。
 ところで、キリスト教の主流の教派は、三位一体説を信奉する。そうした教派では、天国に行った魂は、そこで父と子と聖霊の三位一体の神の真の姿を見るという。天国には、神に仕える天使がいるとも考えられている。それゆえ、神聖・崇高な世界が想定されている。
 これに対し、イスラーム教では、天国は緑園といわれ、緑や水の豊かな場所がイメージされている。魂だけが緑園としての天国に昇るのではない。現世の時と同じ肉体のままで、天国に行くとされる。緑園では、現世で禁じられている酒は飲みたい放題である。食物も美味で食べたい放題である。多数の美女と性交することができ、いくら交わってもその美女は処女のままだとする。キリスト教では、天国についてこうした官能的な快楽は思い描かれていない。これら二つの宗教は、ともに唯一神教でありながら、全く対照的な天国像を抱いている。

 次回に続く。

キリスト教24~大安楽往生

2018-03-22 12:46:25 | 心と宗教
●大安楽往生

 人間が亡くなった後、遺体が腐敗しない、硬直しない、体温が下がらない等の現象は、キリスト教に限らず、他の宗教にも類例がある。そうした現象を「大安楽往生」という。大安楽往生は、人間が体験できる死の際における最高の現象であり、キリスト教、仏教、道教等の従来の宗教で救済や解脱を示す現象として位置付けられてきた。しかし、その達成は極めて困難であり、大安楽往生現象に相当するか、またはそれに近い事例は、過去の宗教ではごくまれにしか記録されていない。
 仏教においては、弘法大師空海や法然の臨終相は、死後、生きているような姿だったと伝えられている。高野山中興の祖、覚鑁は、死後32時間経過しても身体はなお温かで、生きているようで善人至極の相だったと記録されている。原罪という観念のない仏教では、罪障の消滅によって心の妄執がたち切られ、硬くこわばっていた身体が柔らかくなると説いている。
 道教においては、葛洪が「顔色は生きているようで、体は柔軟で尸(しかばね)を挙げて棺に入れると甚だ軽く空衣のようだったので、世の人々は彼を尸解仙と言った」と伝えられている。また『高僧伝』神異編にいう保誌は、屍体が柔軟で香りがよく、顔には悦びの色が現れていたとされている。道教では、善行によって罪、悪行の過ちを帳消しにすることで登仙することができると説いている。
 キリスト教、仏教、道教は、同じ現象を異なる概念の体系で説明しようとしたものと考えられる。共通しているのは、死後、遺体が腐敗するのは、原罪・罪障・過去の悪行の結果であるとされていることである。逆に遺体が腐敗しなければ、それらを免れていることになる。だが、従来宗教では、ほとんどの人々は死後、遺体が腐敗するので、原罪かの自由、罪障の消滅、過去の悪行の帳消しができていないことを表している。死後硬直なく、体温冷めず、死臭・死斑のない「大安楽往生」の達成は極めて困難であり、過去の宗教ではごくまれにしか記録されていない。聖人・名僧といわれる者でも極くまれな現象である。また自分一人が達成できるのがよほどよいところであって、他の多数の弟子や信者までを大安楽往生させ得たという事例は、人類の歴史に全く見られない。ところが、現代の日本では、こうした極めてまれな貴重な現象を普通の人々が多数体験しているという驚異的な事実が存在する。大安楽往生は「崇高なる転生」ともいう。関心のある方は、次のサイトをご参照願いたい。
http://srk.info/experience/

●解放と自由の観念

 原罪の消滅と死の克服に関連することとして、解放と自由について、ここで述べておきたい。
近代西欧では、自由を求める思想が発達した。近代西洋文明が世界に広がったことにより、自由は現代世界における主要な理念の一つとなっている。自由は、キリスト教の「解放」の思想に根差したものである。
 新約聖書では、パウロが書簡の中で自由を意味する語を用いた。パウロが自由の語を使うのは、イエスの使命は人間を罪と死と律法から「解放」することにある、という教義を説く場面である。「解放」という観念は、ユダヤ教の聖典でもある旧約聖書の「出エジプト記」による。モーゼの率いるユダヤ民族は、エジプトにおける強制労働の苦役から神ヤーウェによって救出された。この隷属からの解放の物語は、キリスト教の教義に大きな影響を与えた。 
 キリスト教では、人間は、神に背き原罪を犯して、神から断絶した。だが、神は人間を愛するゆえにひとり子イエスを使わし、その犠牲によって人間の罪があがなわれ、再び神と結び付いた。神にいたる道はただ一つ、イエスによるのみである、と説く。この原罪からの「解放」が、キリスト教の教義の柱の一つとなっている。
 だが、先に書いたように原罪の消滅は実現しておらず、人類は死すべきものとしての運命を背負っている。キリスト教において、死を克服した大安楽往生を達成し得た者は、ごくまれにしか存在しない。
 なお、近代西欧では、自由を求める思想・運動が起こり、自由は権利として確立されていった。詳しくは、拙稿「人権――その起源と目標」第1部をご参照願いたい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i-1.htm

 次回に続く。

宗教10~宗教的な体験の諸種

2018-03-21 08:39:36 | 心と宗教
●宗教的な体験の諸種

 宗教は何らかの体験に基づいている。祈り、瞑想、祭儀、修行等の実践を通じて得た体験は、宗教における不可欠の要素である。
 宗教的な体験には、様々なものがある。主なものを記す。

・一体感
 祭儀を執り行ったり、それに参加することによって、自分を超えたものと一体感を体験する。その一体感は、集団としての一体感であったり、精神的指導者との一体感であったり、祖先の霊との一体感であったりする。
 また、祈りや瞑想を行うことによって、宇宙との一体感を感じたという体験が報告されている。しばしばその体験は悟りとか神人合一などと呼ばれる。一種の変性意識状態であり、日常的な意識では見えないものが見えたり、五感では感じられないものが感じられたと主張される。それが真実であるかどうかの確認・証明の方法は確立されていない。

・再生感
 自己が一度死に、再生することを象徴的・疑似的に体験する。人生の通過儀礼は、この意味が含まれているものがある。胎内に回帰し、この世に再び誕生する体験としてイメージされる場合もある。
 死と再生は、単に個人的な体験ではなく、世界の終焉と再生としても体験される。神話に基づく祭儀は、この宇宙論的な体験が主たる内容となっている。

・罪の自覚と回心
 自己の由来や過去の行為への反省を通じて、罪を自覚し、神仏等の超越的な存在への信仰に心を向けることを体験する。しばしば宗教的な信仰に入るきっかけとなる。

・自己を超えた力や意思
 自己を超えた何者かによって導かれているという感覚や、守られているという感覚を体験する。導きや守りをする他者は、神、仏、霊等とイメージされる。
 自分の意思に関わらず、身体が動く不随意運動や、言葉を話す不随意発話を、宗教的に意味づける体験もある。

・生命の自覚
 自己が自己を超えるものによって生かされているという事実を自覚する。呼吸、心拍、自然治癒等の自らの意識を超えた生命活動の不思議を深く実感する。そこに宗教的な意味を見出す。

・超越的なもの
 自己や人間を超えたものへの感動、驚き、畏れを体験する。その力や存在の源については、可視的・可触的な自然として感じる場合と、自然を超えたものとして感じる場合がある。この体験は、歓喜や慰め、安心をもたらしたり、超越的な人格から愛や慈悲を受けていると理解されたりする。父や母のイメージと結び付けられることが多い。

・超能力
 普通の人間にはできないことを実現できる特殊な能力で、今日の科学では合理的に説明できないものを、超能力と言う。J・B・ラインが創始した実験科学的な超心理学では、超能力をESP(超感覚的知覚)とPK(念動)に分ける。ESPは、五感や論理的な類推等の通常の手段を用いずに、外界に関する情報を得る能力をいう。ヒーリング(医療によらない癒し)、テレパシー、予知、透視、遠隔視等を含む。PKは、物体が既知のなんらの物理的原因なしに、心に念じるだけで動く現象をいう。PKには、目の前の物体の移動、自己の身体の遠方への移動、遠隔地にある物体の移動、写真への念写等が挙げられる。
 こうした超能力は、しばしば宗教的な観念を以て意味づけられる。霊力、神通力、法力等と呼ばれる。
 ESPやPKを持つ者を、超能力者と言う。超能力者ならぬ普通の者でも、虫の知らせ、胸騒ぎ、嫌な予感、幸先の良い予兆、正夢、火事場の馬鹿力などを体験することがある。こうした現象の中には、しばしば因果律では説明のできない意味深い偶然の一致が認められる。深層心理学者のK・G・ユングは、そのような非因果的でしかも同時的な二つの事象の間を関連づける原理として、「共時性(シンクロニシテイ)」という仮説を立てた。
 こうした非日常的な体験や出来事が、宗教的に意味付けられることがある。

・人間以外のものとの意思疎通
 動物・植物等の実在するものと、心が通うとか意思が通じると感じる体験をする。動物や植物を愛する人にはよくある体験だが、普通の人より強く、深く感じる人は、その体験に宗教的な意味づけをする場合がある。
 対象が、実在の確認されていない宇宙人や高次元の知的生命体、天使、妖精等とイメージされることもある。

・霊的感覚
 亡くなった家族や先祖、友人等の霊を見たり、その存在を感じたり、それらの霊と意思を交通したりすることを体験する。対象は、直接自分と関わりのない霊的存在と考えられる場合もある。他者にまつわりついたり、取り憑いたりする霊について述べたり、霊界が見えるなどとしてその様子を語る体験もある。
 こうした体験が、何らかの客観的存在とのかかわりを意味するものか、幻想・錯覚であるかどうかを判別する科学的な方法は、確立されていない。
 死に瀕して生と死の境をさまよったり、いったん死んだとみなされたのちに再び生き返った者が語る体験を、臨死体験と言う。自分の魂が体外に離脱して、自分や周囲を見たり、死後の世界への過程またはその場所に行ったと述べるものが多い。こうした体験を宗教的に意味づける場合がある。

・奇跡
 常識では考えられない神秘的な出来事や既知の自然法則では説明のできない現象を、奇跡と言う。原因不明や有効な治療法のない病気の治癒、致死的な事故災難における無事、絶対不可能と思われることの実現等が挙げられる。
 こうした体験は、しばしば宗教的な観念を以て意味づけられる。また、宗教的な信仰が要因と考えられることが多い。
 奇跡と呼ばれる現象の中には、単なる幸運な偶然ではなく、客観性、再現性が認められる現象がある。そうした現象は、現代の科学がまだ解明できていない自然界の力や法則の存在を暗示しているものだろう。
 とりわけ特定の集団において、奇跡が多く起り、その奇跡の起こる確率が大きく、範囲が広く、質が高い場合は、科学的にいう実在の原理、宗教的にいう真理の働きと考えられる。

・感謝と調和
 上記のような様々な体験は、しばしば深い感謝の気持ちを引き起こす。感謝の対象は、超越的な力や存在、自然、親や家族、周囲の人々等と多様である。その感謝の思いから、自分の存在や世界の成り立ちの意味を深く理解する。また、多くのものに調和を見出し、また自らをそれらと調和して生きようと考えたり、宗教的な観念でこれを意味づける場合がある。

 以上、主な宗教的体験を記した。これらの体験は、何か客観的な力や存在の作用であるかどうかに関わらず、体験した主体にとっては、重要な意味を持つ。その人の人生の転機となったり、人格の変容をもたらしたりする例が多くある。

 次回に続く。