大正12年生まれだった今は亡き親父は
改装前の土盛りしたスタンドに囲まれていた旧花巻市営球場で
戦前、東京巨人軍とオール岩手の試合を見たことがあったそうだ。
(当時県内には花巻にしかまっとうな球場がなかったとのこと)
まだプロ野球のリーグ戦方式が確立していなかった頃のことらしい。
チームを2つか3つに分け、青森、秋田、岩手で
それぞれの地元チームとの試合を組んでいたのだそうだ。
今では伝説の沢村投手は来なかったものの、
川上哲治選手のプレーを見たというのが親父の自慢だった。
同じ市営球場で行われた夏の高校野球花巻地区予選にて
花巻北vs花巻商業(現在の花巻東)の試合を見に連れて行ってもらったり、
盛岡市営球場での北奥羽大会(当時は岩手・青森で1代表だった)に
三沢高校の太田投手を見に連れて行ってもらったり、
県営球場に来た大洋ホエールズvsヤクルトアトムズも見に行ったなぁ。
大洋にいた小太りの小谷投手のカーブがやたら印象に残ってる。
「太田ってピッチャー速いなぁ」「小谷のカーブ見てご覧、すごいよ」
親父の声がまだ耳に残っている。
そんな時はたぶんお袋と妹は盛岡のデパートで買い物だったろう。
私と親父だけが麦わら帽子とランニングシャツ姿でスタンドにいた。
もちろん私のキャッチボール初体験は親父と。
私のグラブと、なぜか親父はグラブではなくキャッチャーミットを買い、
家の前の道路で時々キャッチボールをしたものだ。
それも小学校2~3年生ぐらいまでの間だけだったけれど。
10代の頃から体が弱かった親父はスポーツ経験がほとんどなく
幼い私とのキャッチボールでもすぐに息が上がっていたから。
バリバリ昭和の戦後少年だった私は、毎日暗くなるまで草野球だった。
夏の夕暮れ、まだ薄明るい中で野球に興じていると
60mほど離れた自宅から親父が「メシだぞぉー」と叫ぶ。
「はーい」と言いながらも、野球ってのは3アウトにならないと終わらない。
5分もしないうちに下駄をつっかけた親父がゆっくり歩いてきて
「コラッ!! もう何時だと思ってるっ!! いいかげんにしろ」と怒鳴る。
仕方なくわれわれの試合はサスペンデッドとなり
グラブをバットに引っ掛けて肩に担ぎ、親父と並んで家路につく。
すると親父が前を向いたまま「さっきの、いい当たりだったな」と
夕暮れで表情が見えない中ポツリと言ったりするのだった。
実は中学校入学時、私は野球部入部を親父に猛反対された。
私が順調に高校~大学へと現役で進み、
4年で卒業した年に定年退職となる年齢だった親父が
先々のことを案じていたのは後から知るところとなるのだが、
何せ当時の私は反抗期真っ盛りの血気盛んな中学生。
同級生達からは少し遅れたものの、勝手に入部を決めた。
グランドでの練習を1度偶然目にしたことがあったらしいが
帰ると親父は「ぜんぜんダメだ。辞めた方がいいんじゃないのか」と
吐き捨てるようにひとこと言うだけだった。
中3の時の最後の中総体でわれわれは地区予選で優勝し県大会へ。
県大会も勝ち進み、とうとうBEST4に残り準決勝。
いままでまったく試合に興味を示していなかった親父の姿を
なんとスタンドに見つけた。
試合は残念ながら負けてしまい、私たちの中学校最後の夏は終わったが、
親父が同僚からカメラを借りてきてこっそり撮ったという
8mmフィルムが今も家に残っている。
改装前の土盛りしたスタンドに囲まれていた旧花巻市営球場で
戦前、東京巨人軍とオール岩手の試合を見たことがあったそうだ。
(当時県内には花巻にしかまっとうな球場がなかったとのこと)
まだプロ野球のリーグ戦方式が確立していなかった頃のことらしい。
チームを2つか3つに分け、青森、秋田、岩手で
それぞれの地元チームとの試合を組んでいたのだそうだ。
今では伝説の沢村投手は来なかったものの、
川上哲治選手のプレーを見たというのが親父の自慢だった。
同じ市営球場で行われた夏の高校野球花巻地区予選にて
花巻北vs花巻商業(現在の花巻東)の試合を見に連れて行ってもらったり、
盛岡市営球場での北奥羽大会(当時は岩手・青森で1代表だった)に
三沢高校の太田投手を見に連れて行ってもらったり、
県営球場に来た大洋ホエールズvsヤクルトアトムズも見に行ったなぁ。
大洋にいた小太りの小谷投手のカーブがやたら印象に残ってる。
「太田ってピッチャー速いなぁ」「小谷のカーブ見てご覧、すごいよ」
親父の声がまだ耳に残っている。
そんな時はたぶんお袋と妹は盛岡のデパートで買い物だったろう。
私と親父だけが麦わら帽子とランニングシャツ姿でスタンドにいた。
もちろん私のキャッチボール初体験は親父と。
私のグラブと、なぜか親父はグラブではなくキャッチャーミットを買い、
家の前の道路で時々キャッチボールをしたものだ。
それも小学校2~3年生ぐらいまでの間だけだったけれど。
10代の頃から体が弱かった親父はスポーツ経験がほとんどなく
幼い私とのキャッチボールでもすぐに息が上がっていたから。
バリバリ昭和の戦後少年だった私は、毎日暗くなるまで草野球だった。
夏の夕暮れ、まだ薄明るい中で野球に興じていると
60mほど離れた自宅から親父が「メシだぞぉー」と叫ぶ。
「はーい」と言いながらも、野球ってのは3アウトにならないと終わらない。
5分もしないうちに下駄をつっかけた親父がゆっくり歩いてきて
「コラッ!! もう何時だと思ってるっ!! いいかげんにしろ」と怒鳴る。
仕方なくわれわれの試合はサスペンデッドとなり
グラブをバットに引っ掛けて肩に担ぎ、親父と並んで家路につく。
すると親父が前を向いたまま「さっきの、いい当たりだったな」と
夕暮れで表情が見えない中ポツリと言ったりするのだった。
実は中学校入学時、私は野球部入部を親父に猛反対された。
私が順調に高校~大学へと現役で進み、
4年で卒業した年に定年退職となる年齢だった親父が
先々のことを案じていたのは後から知るところとなるのだが、
何せ当時の私は反抗期真っ盛りの血気盛んな中学生。
同級生達からは少し遅れたものの、勝手に入部を決めた。
グランドでの練習を1度偶然目にしたことがあったらしいが
帰ると親父は「ぜんぜんダメだ。辞めた方がいいんじゃないのか」と
吐き捨てるようにひとこと言うだけだった。
中3の時の最後の中総体でわれわれは地区予選で優勝し県大会へ。
県大会も勝ち進み、とうとうBEST4に残り準決勝。
いままでまったく試合に興味を示していなかった親父の姿を
なんとスタンドに見つけた。
試合は残念ながら負けてしまい、私たちの中学校最後の夏は終わったが、
親父が同僚からカメラを借りてきてこっそり撮ったという
8mmフィルムが今も家に残っている。
私が小1のX'masに親父がプレゼントにグラブとバットを買ってくれました。それは、私にとっては宝物でした。
初めて、岡山県営球場でのプロ野球観戦は、"中日vs大洋"の試合でした。中日は同時水原監督時代、星一徹コーチとアームストロング・オズマが在籍していた頃です(笑)。勿論、大洋には主砲左門豊作がいました(爆)。
中学で野球部に入るかと思いきや、バレー部を選んだ私でした。同時、ミュンヘンへの道が一世を風靡した男子バレーブーム真っ直中、今では考えられないほど男子バレー部員が多かった時代です。
そして、"西大寺の猫田"呼ばれた(かどうかは不詳?)私は、天才セッターとは誰も呼んでくれませんでしたが、勝手に猫田になりきっておりました。
親父は、元小学校の校長です。現在も存命ですが、失明し寝たきりに近い状態になりました。それでも、息子には頭が上がらない存在です。
昔を懐かしく思い出しました。ありがとうございました。
弟が中学で野球部のエースだった時、両親は応援に行きたくてうずうずしていました。
が、弟が『応援は来るな!』と言ったのです。でもどうしても行きたかった両親は球場の生け垣からこっそり覗いておりました。
ガサッと顔を出した瞬間、弟の真横に居て怒られましたとさ(^^;
毎月のルーチンだった
テンプレートの変更忘れてました(笑)
>issanさん
さすがに岡山までは
佐門の弟妹たちは行かなかったでしょう(笑)
私はバレーはあまり詳しくありませんが
それでも猫田は知ってますよ(^-^)
>imuimuさん
私は来るなとは言ったことないんですよ。
というより、そういう状況だったので
部活の話はほとんどしませんでした。
うちの息子たちは「来い」と言い、
試合後アドバイスを求めてきましたが、
小中高と息子たちと同じチームだった甥は
私の妹夫婦(自分の両親)に
「来るな」と言ってたらしいです。
imuimuさんの弟さん同様シャイなのでしょう。
当時の私といえば、ちょっとしたケガは日常茶飯事で、そんな娘の姿を見て父はしばらく休めないのか?と心配し、できればやめてほしいような口ぶりでした。マイナースポーツとはいえ、インターハイにも出場する学校でした。今どきの親だったらとことんサポーターになるところでしょうが、私の親に限らず決して表に出てくることはありませんでした。時代の変化を感じています。
それにしても、この春は久しぶりに体育会系の血が騒ぎました(笑)。
かなり前のことですが、
知人のグラフィックデザイナーに
「体育会系文学青年」と言われました。
もうすでに「青年」ではなくなりましたが
「体育会系文学前期高齢者」を自負(笑)
ちょっと語呂がわるいですね(^^;
私の体育会系の血は
大学野球リーグとともに騒ぎ始め
アメフトのシーズン終了とともに収まります。
でも花巻東のおかげで、今年の騒ぎ始めは
いつもより1ヶ月早まりました(^_^)
このへなへなした息子に対し、亡き父はスポーツ万能。
若い頃は柔道、機械体操、水泳…。
特に水泳と高飛び込みは、「コーチ」の肩書きも持つ人でした。
でも、私はまるで強要されず。進路についても、
意見は言うけれども、子供にまかせる父でした。
キャッチボールも、ほとんどしたことがないなー。
いろんな親子のカタチがあるものですね。
とても良い話をありがとうございました。
強要しない父親って憧れでした。
だから私も
息子たちには強要しませんでした。
方向性は示しましたが(笑)