中学を卒業したばかりの3月、
ワタシは同い歳の従兄弟と高校合格記念旅行に出掛けた。
2人とも合格したら2人で旅させてくれるとの
親達との約束があったのだ。
まだ東北新幹線が無かった頃で東京までは特急で6時間。
東京に住む親戚の家に1泊し、翌日は東海道新幹線を経由して
数日前に全線開業したばかりの山陽新幹線で北九州へ。
北九州に住む叔母の家に数日やっかいになったのだった。
叔父叔母は大歓迎してくれ、
萩などへドライブに連れて行ってくれたりしたが、
どうせならもっと2人だけの旅をしてみたいと
宛てもなく叔母の家を朝早く出て列車に乗った。
最初の目的地は大分を経由して、阿蘇。
九州に関する事前知識も何も無く出掛けて行ったので
「九州と言えば阿蘇山だべ」ってなノリだけだった(笑)
阿蘇山のてっぺんで「これからどうする?」と相談。
時刻表を見ながら長崎へと向かうことにした。
阿蘇から南へ向かってしまうと、
いつ北九州に帰れるかわからなかったからね(^^;
今地図を見ると熊本を経由したんだろうけど
たぶん暗くなってからだと思うので全く記憶にない。
覚えているのは鳥栖の駅で列車を降り、仮眠を取ったこと。
いまじゃそんなことどこの駅でもできないが、
当時の鳥栖の待合室はベンチシートだったので
もう完全にベッド感覚で寝られた。
あの頃はカニ族などもいて、
若い旅人の駅での夜明かしは珍しくなかったよね。
朝暗いうちに一番の列車で長崎へ。
なぜこんなことまで覚えているかというと
ちょうど夜明け時刻ころに着いた坂の多い長崎の街が
朝日にキラキラ光っているのが印象的だったから。
どこをどう歩いたのか、
次の記憶は浦上天主堂と平和記念公園。
お約束の平和祈念像と同じポーズ写真を撮った2人の15歳も
なぜか浦上天主堂では無口になった。
ただ黙って建物を見上げ、周囲を俯瞰し、
入口の石段に腰掛けてしばらくお互いもの思いに耽った。
それだけ、教会としてだけではない存在感が
浦上天主堂に感じられたのだと思う。
被曝マリア像を含め、ある意味爆心地の象徴。
その瞬間には集まっていたたくさんの人々が亡くなっている。
当時そんな知識は無かったはずだが、
その場の空気に厳粛なものを感じていたのかも知れない。
それ以来、長崎を訪れたことは無いが
その時に感じたような空気や人々の願いが
いつまでも続いて欲しいし、残さなければいけないと思う。
子ども達も敏感に感じ取れるほどに。
それは、68年経った今では
(直接は戦争を知らないけれど、戦後2世として)
ワタシ達の世代の責務だと思うのだ。