私の亡父は大正12年生まれで、男ばかり5人兄弟の末っ子。
4番目の兄とすら8歳違い、長兄とは20歳の差があった。
その長兄が結核により亡くなったのは親父が2歳の時。
2歳の親父は兄の病床の周りをうろちょろしていたらしい。
昔、結核は死の病だった。
正岡子規はその病のために晩年は起き上がることができなかった。
石川啄木は一家全員が数年のうちに結核で亡くなった。
堀辰雄は結核療養中の婚約者との思い出を小説「風立ちぬ」として書き
そのご自身も結核によって生涯を閉じた。
他にも中原中也や国木田独歩、梶井基次郎、長塚節など
文学者たちがこの病で命を落としているので
(「風立ちぬ」のイメージも相まって)文化人の病気のような印象があるが
実は名もなきたくさんの人々がこの病に倒れている。
22歳で亡くなった長兄に続き、
親父の三兄も30代前半にやはり結核でなくなっている。
同じ頃、応召された親父も結核罹病により即日帰郷となったらしい。
まぁ入隊予定だった弘前連隊の部隊は
その後南方で玉砕したらしいから、病のおかげで助かったとも言える。
その病がなければ私は今この世にいない。
結核の特効薬抗生剤ストレプトマイシンは
1944年にアメリカで開発された。
戦後その薬で助かった人たちも多かったろう。
親父の場合は重篤さで薬だけでは治癒することができなかったらしく、
戦後応用が始まった肺切除手術によって生死の境を乗り越えた。
まだ始まったばかりのその手術の体への負担は大きく、
私が小さかった頃も少し体を動かすと息切れを起こしていた。
結核は治癒してはいたが、
2歳の頃に長兄から感染したと信じていた親父は
子ども達をはじめとした家族への感染を恐れたのだろう。
我が家の洗面所にはいつもクレゾール希釈液が用意されていて
親父はいつもそれで手を洗っていた。
実はこの頃、両親から
「洗面所にクレゾールがあることを外の人たちに話してはダメ」
と言われていた。
この病に対する戦前の偏見や差別が身に沁みていたせいだろう。
学校で受ける私のツベルクリン(結核抗体検査)の結果も
かなり気にしていた思い出がある。
最終的に親父は1992年、69歳の時に肺炎でこの世を去った。
(肺切除していた親父に肺炎はとどめのようなものだった)
親父はさまざま詩やエッセイや油絵を遺していたので
一周忌に間に合わせて書籍にすべく、編集作業を進めたのだが
年譜を作る際に母から
「結核という病名や、喀血といった言葉はできるだけ使わないように」
との釘が刺された。
その頃もまだまだ病気への偏見や差別を気にしていたのだな。
かほど昔は差別が酷かったのだなと思う。
新型コロナウイルス感染者に対する偏見や差別がひどいらしい。
周囲の目を気にしていた当時の両親に、私は哀しさを感じていたのだが
かつての結核やハンセン病差別の頃から変わっていないんだなぁと
そういうニュースを見るたびにやはり哀しくなる。
病気は誰でも罹患する可能性があるし、その人のせいではない。
それでも差別し非難する人間の浅ましさを哀しく思うのだ。
なお、結核は決して過去の病気ではない。
ストマイが効かなくなった耐性菌による新たな結核が
最近は密かに増えていると聞いた。
コロナも怖いが、深刻な病はそれだけじゃない。