このところ 「始末」しない人が増えた。”始末できない / しない” 社会になったようだ。”片づけ も出来ない/ しない(?)”放置少女や萌姫たちや ”・・し放題 や・・しっぱなし”の若者を云っているのではない。”始末”の意味を辞書的に言っているのでもない。
長いこと”行き先”が決まらない原発(事故)の汚染水や原発廃炉や使用済み燃料のことでもない。コロナ感染の規制緩和と防禦ワクチン問題とか、このところの政府のマイナンバー問題の不始末後および財源や構想不明瞭な子育てや防衛計画を云っているのかも知れない。
都会地域の無人家廃屋や地方の”いまにも潰れそうな”人居ぬ荒廃家屋の処置問題にも限らない。バブル期を過ぎ利用者も持ち主もいなくなった(倒産)廃墟や幽霊屋敷化した建物の「始末」処方も見えない問題も大きい。
ひと昔前の高度成長やバブル期に(自分たちや社会の姿の)展望もせず、”レジャーだグランピングだ”などと 50万円前後で買って、1・2度の利用で飽きた中山間地
の一坪地主の放置。高齢や主死去などで持ち主不在で”荒れ藪”化した地方の里山問題など。
とにかく「始末」放置や「始末」忘れというか、片付け放棄が多い。昔の商家の家訓「始末、算用、才覚」なども含め、”始末とは( はじめとおわり)" などと難しく考えなくていい。ただ、老いも若きも、政府や行政も、”ものごと”の「始末」を忘れないでほしい。「始末」をお願いしたい。