公式サイトはこちら 渋谷ルデコ5F 13日まで
JACROWの中村暢明(1,2,3,4,5,6)とelePHANTMoonのマキタカズオミ(1,2,3,4,5,6,7)が2作ずつ合計4作を連続上演、ふたつの劇団のコラボ公演の試みだ。
北関東に位置するX県虫生町(むしうまち)の北側に流れる三十川(みそがわ)には、亡くなった人に会えるという言い伝えがあり(当日リーフレットには「都市伝説」と表現)、それをモチーフにした4本の短編が上演される。休憩なしのおよそ100分。
第一話『ひき逃げ』(中村暢明)三十川周辺にダムを建設しようとしている建設会社。反対住民との折衝にあたっているらしき係長と部下の乗った車が事故を起こす。社長の娘との結婚を控えた部下と係長との力関係がいびつに歪む。
第二話『ただ、そのひと時』(マキタカズオミ)第一話にでてくる建設会社の部長の妻がダム建設に反対している。幼いころ自分を捨てた母に会いに来たちんぴらが、三十川でみたものは。
第三話『おみやげ』(中村暢明)仲人をしてくれた職場の上司を突然訪問した若夫婦。妻は病院にいって留守。若夫婦は1年まえ、子どもを流産で失くした。その子の命日に三十川からの帰り道である。
第四話『降霊』(マキタカズオミ)ずぶぬれのカップル。死んだ愛犬恋しさのあまり三十川で暴れる彼女に手を焼く彼氏は、同道の男性にあることを依頼する。
地方の町にある言い伝えを共通のモチーフとし、登場人物も微妙に重なり合うが、最終話になってすべてのピースがぴたりとはまる作りではなく、物語の時系列的な整合性も明確ではない。
第三話で際どいラブシーン?がある。また部下が上司に持参した「おみやげ」として、とんでもないものが出てくる。これらを目にしたとき、「舞台でこんなことまでしてみせてすごいな」というプラスの印象よりも、「ここまであからさまな表現をしなくてもほかのやり方があるのでは」と冷ややかな気持ちになる。
いっぽう第四話では彼女と愛犬の亡霊?との仰天場面があり、ほとんどポルノまがいのキワモノなのだが、こちらは演劇的シーンとして成立している。
どう違うのか?
たとえば一匹の魚があるとしよう。そのまま目の前に置いてあったら、それを料理とは言わないだろう。形を整えて味つけをし、ふさわしい器に盛りつけてはじめて人に出す料理になる。単純な見た目の問題ではなく、何かを人に示す場合の姿勢が、生身の材料がただの魚のままであるか、作り手の配慮と工夫が感じとれる料理になるかの違いを生むのである。
現実に信じがたいほど意地悪な人、性格の悪い人は存在し、想像しがたい体験もある。しかし舞台の場面として描くとき、嫌なものを嫌なまま、醜悪なものを醜悪なまま乗せることを、果たして「リアル」というのであろうか?偽悪的、露悪的な表現を「リアル」とすることには抵抗がある。
今回の公演チラシに「混ざり合って、溶け合って、ぐっちょんぐっちょんに絡み合って、汗と涙と涎と愛液にまみれたひとつの作品にしよう」とある。どなたの手によるものかは記されていないが、チラシの口上でここまでどぎつい表現を使っては、もったいないのではないか。表現があまりに直載で、かえって期待が削がれる。そのままみせずに感じさせてほしいのだ。
時間、空間ともに制約の多い試みだが、1本あたり25分の持ち時間はやりようによってもの足りなくもなり、冗長にもなる。相手の作品に自分の作品を巧妙にすべりこませ、全編を支配することも不可能ではないだろう。
演劇的悪意を秘めた老練で冷酷な手つきでみるものを翻弄し、放りだすような劇世界を敢えて体験してみたい。そこから感じとる「リアル」がどのようなものだろうか。
基本的に互いに信頼し、よりよいものを作ろうとする姿勢があってのことだが、マキタカズオミの場合、もしかしたら信頼関係が破綻しているところからさえも、独自の劇世界が構築されるのではないかと思うのである。いやこれは言い過ぎか。
当ブログへのお越し、ならびにコメントをありがとうございました。
返信が遅くなりましてすみません。
舞台から目を逸らしてしまう場面と、反対に前のめりで見入る場面が入り混じる作品でした。
「演劇的リアル」とは何かを考え続けてみたいと思います。
また因幡屋ぶろぐにお運びくださいませ。