
東日本大震災から14年目の3月11日、ちょうど開演時刻に神宮外苑で防災花火が打ち上げられるため、劇作家と演出家のプレトークが行われた。花火の音が響くなか、二人とも立ったままのトークは、執筆のきっかけや稽古の経緯なども交えながら語りすぎず、感じの良いものであった。この15分によって心を落ち着かせ、静かな期待を抱いて開演に臨むことができた。
どこかの家。リビングの椅子に高齢の女性(赤司まり子)が腰掛けており、やってきた若者(比嘉崇貴)が「おばあちゃん」と呼びかけるが、彼女は怪訝な様子である。そこへ娘らしき中年の女性(奥山美代子)がやってきて、若者に「そういうことは止めていただきたい」と訴える。彼はほんとうの孫(つまり中年女性の息子)ではなく、ヘルパーらしい。
登場人物は劇作家からさまざまな役割を与えられて台詞を発し、動くのだが、本作ではその役割が不安定に揺らぎ、混乱する。観客はその様相を見つめながら、どこに視点を定めればよいのか迷い、誰の言うことが正解なのか、物語がどこに着地するのかを探ることになる。
不意の闖入者は安部公房を、噛み合わない会話は別役実を想起させる。部屋には生活感がなく、どこか実験室的な空気も漂う。舞台奥の息子の部屋を母は20年間そのままにして待ち続けているというが、いったいそこには何があるのか。少し歪な家族劇のようでもあり、サスペンスの要素もあり、観客の安易な予想は次々に裏切られる。役柄と名前が明確な人物がいる一方で、「聖人(息子の名)と名乗る男」、「家の修繕作業員を名乗る男」など、何らかの目的のためにこの家にやってきたことを匂わせる配置である。
軸になるのは聖人と名乗る男(越塚学)と母(奥山)である。母は混乱し、しばしば激高する。俳優陣は役に没入とはちがうアプローチが必要な本作を誠実に演じていたと思う。ただ、そのやりとりがいささか執拗で、観劇の集中が難しいところがあったのは残念だった。
ほんとうのことは最後までわからない。けれどそこに生まれる救いや幸せも確かにある。今夜の花火には避難場所の確認など防災意識を高める目的とともに、震災の犠牲者への追悼でもある。姿を消した息子、待ち続ける母の物語は、猟奇的になりかねない結末を冷徹なまま示さず、傷ついた心を慰める優しさと温もりを以て幕を閉じた。もどかしさもあるが、山崎元晴の今後の作品も楽しみに待ちたい。

表の立て看板 開演前はまだ明るい

終演後 電光板の裏側は次回公演
ここを眺めるのがなぜか好き
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