*演劇集団円+シアターχ提携公演 ニコラス・S・グレイ原作 菊池章一翻訳 谷川俊太郎上演台本 小森美巳演出 公式サイトはこちら 両国・シアターχ 5日終了
円・こどもステージは今年で40作の節目を迎えた。当日パンフレット掲載の小森美巳の挨拶文には、その10作目の記念として『美女と野獣』のタイトルで上演された本作を企画者である岸田今日子がことさらに愛したこと、「工夫を重ねて再演を」の約束が30年を経て実現の運びとなった喜びが綴られている。コロナ感染拡大の収まる気配はなく、公演の中止が相次ぐ現状にあって、薄氷を踏む思いでこの日を迎えられたことであろう。来場御礼に続いて爽やかに開演を告げる「お兄さん」(石原由宇)への観客の拍手はいつもの「わくわく」に「しみじみ」が加わって、劇場の雰囲気も柔らかくなった。
ある国の森に、老魔法使いホッジ(吉見一豊)とドラゴンのマイキイ(冠野智美)が暮らしている。そこに道に迷った王子(清田智彦)がやってきて暴言暴力三昧。怒ったホッジは魔法をかけ、森の中の城に閉じ込めてしまう。20年経ったら魔法を解くはずが、ホッジはすっかり忘れて500年が過ぎ、王子は「けだもの」になってしまう。
商人のクレメント(瑞木健太郎)が森に迷い込む。妻を亡くした彼には娘が3人おり、双子のジョンキライン(井上百合子)とジェサマイン(中野風音)、そして最も美しく賢く気立ての良い末娘のジェーン(髙橋理恵子)と幸せに暮らしているとのこと。父はジェーンを「キレイちゃん」と呼んで殊更に慈しんでいる。その「キレイちゃん」(美女)が「けだもの」(野獣)の傷ついた心を慰め、紆余曲折あったのちに大団円を迎える物語である。『美女と野獣』で検索しただけでも情報があまりに多く複雑で(Wikipedia)、とても整理・把握できそうにない。映画や舞台も劇団四季はじめ複数あって登場人物の名前や物語もそれぞれ違い、本作はあくまで円・こどもステージ版と捉えて書き進めることにする。
本作最大の特徴は、「お兄さん」の存在である。森、クレメントの家、けだものの住む城など、物語の場面は次々に変わる。場面転換では舞台は暗転し、スタッフが大道具小道具を移動させて舞台作りを進める。その様子を子どもたちに解説し、「暗転」の意味やスタッフさんの見事な働きぶりを紹介し、次の場へつなぐ。観客を劇世界に導く幕開けは、前述のように簡潔でさわやか、気持ちのよい導入である。舞台作りの実際を説明し、子どもたちに興味を持たせ、物語への期待を持続する点でも効果的であろう。
お兄さんは暗転すると登場し、前の場面の印象を子どもたちに話しては「〇〇だよね、そうだよね」と都度確認して感想を促す。子どもたちはとても素直なリアクションを見せるのだが、中には「キレイちゃん」の可愛らしさに「僕あんな人を結婚したいな。できるかな」と言うお兄さんに、「それは自分次第」とシビアに返す子どももいて、そういった突っ込みもすべて受け止めて客席を盛り上げ、劇を進行するお兄さんの手さばきはみごとであった。しかし物語半ばあたりでいささか食傷しはじめ、このパターンが最後まで続いたことには違和感を否めない。
暗転とは誰かが説明をしてくれたり、自由に意見を言う時間だと捉えられはしないか。また舞台をどう感じるかは自由であり、「〇〇だと思わない?」と誘導されるものではない。子どもたちにわかりやすく、楽しんでもらいたいという配慮と工夫であろうが、もっと客席に委ねても大丈夫ではないか。たとえば、まことに素人考えだが、「お兄さん」の立ち位置を、物語と客席を行き来する存在にすることも可能と思われるのだが。
王子やマイキイを諫めるとき、ホッジがしばしば使う「行儀」という言葉や、「わたし、女の子なのに」というジェーンの台詞、真心が相手の心を解かす素晴らしさを称える物語ではあるが、ルッキズムやジェンダー等という概念を持ち込むのは野暮かと思いつつ、劇中小さな躓きがあったことは確かである。
吉見一豊と高橋理恵子の舞台で特に印象深いのは、『赤い階段の家』(岩松了作 國峰眞演出 六行会ホール 1995年)である。岸田今日子と伊藤幸子の老姉妹に絡む重要な役どころであった。あれから四半世紀以上経っているが、吉見は貫禄のなかに諧謔味を漂わせ、高橋の可憐さ、可愛らしさには驚嘆するばかり。しかし「あのころと変わらない」ということとは少し違い、「この俳優はこれからどうなっていくのか」と、こちらに不気味なまでに底知れぬ期待を抱かせる存在であることが嬉しい。「円」という伸びやかで自由な「演劇集団」(劇団ではない)で育まれてきた俳優方お舞台に出会える喜びを改めて実感する一夜であった。
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