因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団昴ザ・サード・ステージLABO Vol.2『誰』

2010-05-03 | 舞台

*田川啓介作 河田園子演出 公式サイトは、こちら テアトロ・ド・ソーニョ 2日で終了
 劇団掘出者(1,2,3,4,5)主宰の田川啓介が書き、第15回劇作家協会優秀新人戯曲賞最終候補にノミネートされた『誰』を、劇団昴の在籍10年以下の若い劇団員が中心になって上演した。劇団昴のLAB0公演は、企画、制作、広報まで俳優みずからが手掛けるものであり、自分が足を運ぶのはおそらくこれが初めてだ。劇場は蒲田駅から徒歩13分。心配なので行きはバスに乗った。蒲田の町に降りるのもたぶんこの日が初めてになる。

 開演前のスタッフのアナウンスで上演時間は1時間45分と聞く。掘出者公演ではたしか1時間20分から30分だったのではないか。場面転換や台詞のスピードなどを少しゆっくりめにするのかと予想した。

 『誰』は大学構内にある部室棟の一室で、「まなざしの会」というサークルに所属する大学生とその周辺の人々が繰り広げる珍妙なコミュニケーションと、その痛々しい結末を描いた作品である。自分自身を充分に受け止められず、他人をそう簡単に受け入れられない。けれど他人には自分を認めて愛してほしい。周囲に対して自分の本心をなかなかみせない用心深さがある一方で、あっさりと残酷に他人を傷つける。テンポはよいが、互いの意図が少しずつずれていく会話は、みるものを寒々とした気持ちにさせる。

 演出とは何だろうか、と今さらながら考えるのだった。戯曲を読み込み、劇作家の言わんとしていることをすくいとり、作品によっては水面下の意味まで掘り下げて、舞台装置や音響、照明、俳優の演技まであらゆる要素を統括し、観客に提示する総責任を負う。戯曲に多少のほころびや拙さがあっても、演出の手腕で見ごたえのある舞台になる可能性がある。また演出家の大胆な発想によって、思いもよらない世界が成立することもある。たとえば先月のオクムラ宅公演の『かみふうせん』にはほんとうに驚かされ、新鮮な体験をした。こういう舞台をみると、戯曲の読み解き方、視点の据え方は演出家によってこんなにもさまざまであることを実感でき、ぞくぞくするような楽しさを味わえる。しかしそれが逆に作用するとどうなるか。

 今回の上演にはさまざまな工夫や味つけが凝らされている。舞台上手に大きなテレビが(たしか2台)置かれており、その画面には舞台で行われていることが映し出される。パーカーのフードを頭からかぶった若者と思われる男性の自室らしく、「まなざしの会」の様子を監視しているようでもあり、登場人物ひとりひとりの心の様相を象徴するものかとも思われる。まっさきに目を引く新演出はここなのだが、演出の意図ははっきりわからないままだった。さらに劇中の場面にあわせていろいろな音楽がかかる。たとえば彼氏に別れを切り出すと、オフコースの「さよなら」が、「腹を割って話そう」と熱く語りかけると、「太陽にほえろ!」のしんみりしたあの曲が、口論を始めると「けんかをやめて」が。そのほかにも照明や効果音、アンサンブルと名づけられた3名の俳優が部室の窓の向こうでいろいろなことをしている。どれも戯曲には書かれておらず、『誰』を読み解くために、劇世界を客席に提示するために、これらさまざまなことが必要で効果をあげていたとはどうしても思われないのである。

 戯曲に指定されていなければ、どこの場面にどんな音楽を使おうと、どんな効果音や照明にしようと演出の自由である。演出によって劇作家すら考えていなかったものが描かれる可能性もある。しかし田川啓介自身の演出による『誰』初演に心を揺さぶられ、多くのことを得た者として、そして昴という老舗劇団に上演されることによって、より幅広い層の観客に田川啓介の劇世界が示されることを願った者として、今回の上演に強い疑念と違和感が湧き上がるのを抑えることができない。

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